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2026年3月16日月曜日

ジョルダーノ:歌劇「アンドレア・シェニエ」(The MET Live in HD Series 2025-26)

ジョルダーノの歌劇「アンドレア・シェニエ」は、ヴェリズモ・オペラの中でも屈指の名作でありながら、これまで Met Live で取り上げられることがなかった。理由はおそらく明快で、主役を担える理想のテノールがなかなか見つからなかったのだろう。私自身、この作品を実際に観るのは今回が初めてである。とはいえ、オペラ好きとしては、いつまでも避けて通れない作品でもあった。

ディスコグラフィを眺めれば、往年の名テノールたちがこの作品に挑んできた歴史が見える。ディ・ステーファノ、ゴッビ、デル・モナコといった大御所たち。さらにドミンゴ、パヴァロッティ、カレーラスと続く黄金時代。しかし、その後は途切れてしまう。そんな中、今回の MET が選んだのは、近年ほとんど専属歌手のように活躍しているポーランドのピョートル・ベチャワ(アンドレア・シェニエ)。相手役にはブルガリアのソニア・ヨンチェヴァ(マッダレーナ)、そしてもう一人の主役とも言えるジェラール役にはロシアのイゴール・ゴロヴァテンコが名を連ねた。

東欧の三人がニューヨークに集い、フランス革命時の実話をもとにしたイタリア・オペラを歌い上げる。指揮者は MET Live には初登場ながら、すでにここの首席客演指揮者を務める若き俊英ダニエーレ・ルスティオーニ。しかも今年から都響の首席客演指揮者にも就任するというから、日本の音楽ファンとしては期待が膨らむばかりだ。

舞台はニコラ・ジョエルの演出で、第1幕冒頭には巨大なソファが運び込まれるという大胆な幕開け。音楽はイタリアらしい情熱を湛えつつも、プッチーニほど甘美に傾かず、どこか古い伝統の香りを残している。その古風さが批評家には物足りなく映ることもあるようだが、聴き手にとってはむしろ魅力の一つだ。何しろ、このオペラには聴きどころが実に多い。

第1幕のハイライトは、詩人シェニエのアリア「ある日青空を眺めて」。最高音 B♭ が2度も現れる難所で、幕間のインタビューでベチャワ自身がそのプレッシャーを語っていた。さらに第4幕冒頭には「5月のある美しい日のように」というアリアが控え、気品と信念を兼ね備えた歌唱が求められる。まさにテノールが主役のオペラであり、ソプラノでさえ脇に回るほどだ。

そのソプラノの見せ場は第3幕、マッダレーナがジェラールに懇願する名アリア「母は死んで」。一方、ジェラールにはその前に「祖国の敵」という力強いアリアが用意されている。どちらもガラ・コンサートで頻繁に取り上げられる名曲で、単独でも十分に舞台を支える力を持つ。

そして終幕には、断頭台へ向かう二人が歌う壮絶な二重唱「君のそばにいると、僕の乱れた心も」が待っている。かつて MET の資料室長だった P・クラーク氏は、この場面について「ここで身震いしない人は脈拍を確かめた方がいい」と語っている。けだし誇張ではない。

表題役のシェニエは、若い詩人である。しかし幕が開いてまず登場するのは、革命前の貴族生活を楽しむコアニー家の下僕ジェラールで、彼は冒頭からアリアを歌う。一方、同じサロンに令嬢のマッダレーナが登場。詩人シェニエの歌う即興詩にジェラールともども魅せられる(第1幕)。

5年後。ここからがややこしい。恐怖政治が吹き荒れる中で今や革命政府の要人となったジェラールと落ちぶれたマッダレーナが再会。ジェラールはマッダレーナに告白し、シェニエも登場して決闘を交えるが、ジェラールは2人を逃がす(第2幕)。

今回のMET Liveでは、第1幕と第2幕、第2幕と第3幕の間にそれぞれ休憩があり、そのあと第3幕と第4幕は続けて上演された。この後半は集中力が欠かせない見どころの連続である。反革命分子として捕らえられたシェニエを、マッダレーナは体と引き換えに助けてほしいとジェラールに懇願。その姿勢に心を打たれたジェラールは、2人を許す決意をするのだが、時すでに遅し(第3幕)。2人は高潔な死を歌い断頭台へと向かう(第4幕)。

アリアを含め、記憶に残るキャッチーなメロディーがないあたりが、プッチーニには及ばないところ。名舞台の映像を見慣れた人には物足りなさもあるかもしれないが、私のように初めて全編を観る者にとっては、新鮮な驚きの連続だった。指揮者ルスティオーニの自然でダイナミックな音楽づくりも心地よく、アリアが終わるたびに客席からブラボーが飛び交う。イタリア・オペラならではの熱気を、休日の朝にたっぷり味わうことができた。

2026年2月20日金曜日

R・シュトラウス:歌劇「アラベラ」(The MET Live in HD Series 2025~26)

 かつて NHK-BS 放送がまだ生き生きとしていた頃、クラシック音楽の番組は今よりもはるかに多かった。日本の演奏会の映像だけでなく、海外のオペラ公演を記録したものや映像作品なども放映されていたから、私はそれらを VHS テープに録画してラベルを貼り、大切に保管していた。

その中に、ゲオルク・ショルティがウィーン・フィルを指揮した R. シュトラウスの歌劇「アラベラ」(グンドゥラ・ヤノヴィッツほか)があった。これは Unitel が制作した映像作品で、今でも同曲の代表的なものである。ショルティは 1959 年に「アラベラ」をウィーン・フィルと録音しており(ルチア・ポップほか)、その評価はいまもって色褪せることがない。ショルティ/ウィーン・フィルの《アラベラ》は、録音盤も映像盤も決定盤のひとつといってよい。

NHK が「アラベラ」を放送したのは深夜だったので、私はその冒頭だけを見ただけで眠ってしまった。続きは録画したものを見るつもりだった。大学生の頃である。ところが、手元にあると、いつでも良いなどと考えて、なかなか見ることがない。とうとう私は、その録画してあったショルティの「アラベラ」を一度も見ることがなかった。その後 DVD 化されるなどしたようだが、未だに見ていないのは恥ずかしい限りだが事実である。

あれから 40 年が経過し、ついに Met LIVE で「アラベラ」の上演が取り上げられた。そして何ということか、2025 年秋にニューヨークで上演されたこの公演が、かつてショルティのビデオにもなったものと同じ、伝説的なオットー・シェンクによる演出なのである。METではなんと半世紀もの間、同じ演出が延々と続いていることになる。それはあのフランコ・ゼッフィレッリの「ラ・ボエーム」と並んで、いや、もしかするとそれ以上に長い間上演され続けているプロダクションではないかと思う。

今回、東劇で見た 2025 年上演の「アラベラ」は、今となってはちょっと考えられないくらい古めかしいが、3つの幕に合わせて少しずつ異なる、古風で典雅な時代のウィーンの香りをきちんと再現している。指揮はニコラス・カーターで、まだ 40 代と若いが、その切れ味は鋭く、ショルティを思い起こさせるメリハリのある音楽づくりで全体を引っ張ってゆく。音楽は、他愛のない会話にゴージャスなメロディーをふんだんに盛り込んだ、全編これシュトラウス節である。「ばらの騎士」ほどの華やかさはなく、「影のない女」ほどの衝撃もないが、ホフマンスタールの台本による計6つの共同制作のうち「アラベラ」が最後で、ヒトラー政権が誕生した1933年に初演された。二人の仲たがいなど数々の逸話が残されているが、ホフマンスタールは、息子の自殺に打ちひしがれ、とうとうこの作品の完成を見ることなく没した。

落ちぶれた貴族で貧窮生活を余儀なくされながらもホテル住まいをしているヴァルトナー伯爵(バスのブリンドリー・シュラット)とその夫人(メゾ・ソプラノのカレン・カーギル)は、美貌の長女アラベラ(ソプラノのレイチェル・ウィリス=ソレンセン)を富豪に嫁がせようとし、逆に次女ズテンカ(ソプラノのルイーズ・アルダー)は生活費節約のため男として育てられる。ここで、表題役アラベラを歌うには相当なドイツ語能力が要求されるが、ウィリス=ソレンセンは米国人ながらドイツ語が堪能である。もちろんソプラノ歌手として一級の歌声を有しており、その気品に満ち、かつ十分に芯のある声量は、言い寄る多くの男性の中でも、わざわざ遠くから訪ねてきた真摯な大金持ちマンドリカ(バス・バリトンのトマス・コニエチュニ)を選ぶ。ひそかにアラベラを好いていたマッテオ(テノールのルイーズ・アルダー)は、男友達だと思っていたズテンカが、実は何と女性であり、しかも自分を好いていたことを知って、こちらもめでたく結ばれる。

このようにストーリーは紆余曲折が多く、しかも荒唐無稽。間違えばオペレッタになりかねない台本に、シュトラウスは大真面目な音楽をこれでもかとばかりに注ぎ込む。作曲を楽しんでいるような光景が目に浮かぶのは私だけだろうか。聴きどころはいくつもあり、第1幕の姉妹による二重唱と迫力のある幕切れ、第2幕のマンドリカとアラベラの二重唱、そして何と言っても第3幕の最後のシーンである。そしてもう一人、重要な役がある。舞台でたびたび登場し、見事なコロラトゥーラを披露するフィアッカーミリ(ソプラノのジュリー・ロゼ)である。各幕には時折ワルツが自然に挿入され、音楽に華を添える。特に第2幕は舞踏会のシーンである。

正直に告白すると、私はこの上映のうち第1幕を、睡魔に襲われてほとんど覚えていない。しかしこれは映画館だからこそできる贅沢である。ワイン片手に豊穣で美しい音楽を身を沈めながら、しばしうたた寝気分を味わうのは極上である。そのためだけに映画館に足を運んでもよい。ちゃんと見たくなったらもう一度見ればいいのだし、いや、そうでなくても第2幕、第3幕と、ずっと絢爛な音楽が続くので、十分に作品を味わい尽くすことができる。

2025年12月10日水曜日

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」(The MET Live in HD Series 2025–2026)

荒唐無稽なストーリーを持つ歌劇《夢遊病の女》を理解するには、想像力が必要だ。主役のアミーナ(ソプラノのネイディーン・シエラ)は美しい女性だが、孤児として水車小屋で育てられた。舞台はスイスの田舎の集落で、そこは閉鎖的な社会である。彼女は自身の出自へのコンプレックスと、閉ざされた環境でしか生きられない不遇さに、強いストレスを抱えて成長したはずだ。それが「夢遊病」という形で表れている。本当の自分は、強く抑圧され、表出を許されない。だが夜になると、別の――いや、本来の彼女が姿を変えて彷徨い、無自覚のまま幽霊のように村に現れる。

ところがベルカント時代の、あまりに陽気で美しいベッリーニの音楽は、こうした暗い側面を覆い隠してしまう。ヴェルディの時代になると、「薄幸な女性」の心理がより細やかに描写される。《椿姫》を挙げるまでもなく、それは儚く美しく、そして残酷である。しかしアミーナという役柄には、そこまでの心理の闇を感じるのが難しい。想像力を大きく補ってもなお、深く描きにくい役である。

そんな作品を、新演出として担ったのが、かつてテノール歌手として一世を風靡したメキシコ出身のロランド・ヴィリャソンである。閉鎖社会に生きるアミーナの心理を、過度に現代風に寄せるでもなく、かといって古めかしくもない絶妙な距離感で描いている。歌を中心に据えながらも、物語の要点を的確に押さえた秀逸な演出である。いくつか気づいた点を記しておこう。

まず舞台には、スイスらしいアルプスの高峰が大きくそびえている。その前には複数のドア(各住居を示すのだろう)に囲まれた村の広場が広がる。合唱団が演じる村人たちの、閉鎖的で因習に縛られた生活はこの広場で展開される。そこへ旅人として現れる謎のロドルフォ伯爵(バスのアレクサンダー・ヴィノグラドフ)は、なんと山のほうから塀を越えて梯子で下りてくる。外の世界が「越えるのも困難な高い壁」で隔てられていることの象徴だろう。

塀の上、すなわち山々を背景に、アミーナの“分身”とも言うべき無言の女性が登場し、アミーナがアリアを歌うたびに同じ仕草でシンクロする。古い慣習に押しつぶされそうになる彼女の無意識の本心が、夢遊病の際にこのもう一人の女性として舞台上に具現化しているのだ。

外の世界を知る徳の高い伯爵は、夢遊病を理解しており、夜中に彷徨う彼女の無実を証明しようとしている。しかし、アミーナの婚約者エルヴィーノ(テノールのシャピエール・アンドゥアーガ)は、一度は熱烈に愛した彼女を誤解から責め、自暴自棄になる。そして伯爵が宿泊することになった宿屋の女主人であり、アミーナの“元々の”恋敵でもあるリーザ(ソプラノのシドニー・マンカソーラ)に言い寄って結婚しようとする。この浅はかな行動について、アンドゥアーガ本人が「尊敬できない役柄だが、困難な歌にエネルギーを集中している」と語ったインタビューが面白かった。

このプロダクションは今シーズンのMET Liveの開幕演目である。幕開けにベッリーニを置くのは斬新だが、ベルカント作品の難しさを考えると冒険でもある。だが満を持して歌手を揃え、この分野の気鋭であるリッカルド・フリッツァを指揮に起用したことで、本公演の成功が裏付けられたことは容易に想像できる。

歌手に目を向けよう。私は近ごろの体調もあり、長時間の映画や公演にやや疲れていて乗り気ではなかった。映画仕立てのライブ上映であり、急いで観る必要もない。東劇では3週間のロングランだし、夏にはリバイバルもある。しかも私は、ナタリー・デセイとファン・ディエゴ・フローレスが出演した2008年のジマーアマン演出の名プロダクションを観ており、昨年の新国立劇場の舞台も記憶に新しい。「無理して行かなくても……」という気持ちは確かにあった。

しかし映像が始まり、冒頭でリーザを歌うマンカソーラのアリアが聞こえてきた瞬間、私は一気に画面へ引き寄せられた。めくるめくベルカントの歌声に、思わず身震いしたのである。彼女は主役ではない。主役はアミーナ役のシエラで、彼女は今もっとも注目すべきアメリカのベルカント・ソプラノだ。相手役エルヴィーノを歌うスペイン出身のアンドゥアーガについては、冒頭でゲルブ総裁が「若き日のパヴァロッティを思わせる」と述べていたが、私は声質や風貌から、むしろ若き日のカレーラスを思い起こした。

ロドルフォ伯爵を歌ったヴィノグラドフはロシア出身。若いながらも艶と威厳を備え、高貴な雰囲気が抜群である。二人のソプラノが恋敵として対照をなす点も舞台の見どころだが、声に個性を持つマンカソーラがとりわけ印象的だった。ただ、やはり舞台はシエラの独壇場である。アミーナの聴きどころは多く、どれも素晴らしいが、最大のハイライトはやはり第2回目の夢遊病のシーンだ。夢遊状態で歌うアリアと、そこから目覚めて歌うアリアとで、歌の性質がどれほど変化するかが見どころである。舞台がガラリと明るくなるなどの工夫があってもよいのでは、といつも思うのだが、今回もそうした演出はなかった。

ただし、舞台左手から階段が現れ、傾いた村の扉の上からアミーナの“分身”と触れ合う。彼女は外の世界――伝統に縛られない新しい世界へと向かっていく。恋敵リーザとの抱擁は、女性としての感覚を共有する象徴的な場面であり、その後、例の階段を上って村の外の世界へ羽ばたこうとするところで幕となる。

息もつかせぬ歌声に寄り添い、繊細なルバートを交えながらも歌手をしっかり導く指揮者の音づくりは見事というほかない。そのおかげで出演者たちは難度の高いアリアを次々と熱唱する。2幕のオペラが終わるころには、心の底から充足感が押し寄せてきた。音楽を聴く楽しみ、歌と舞台を味わう喜び――その時間を持つ幸福を深く実感した3時間であった。

2025年9月1日月曜日

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(The MET Line in HD Series 2024-2025)

こう言うとオペラ好きの人から笑われそうだが、私はベートーヴェンの「フィデリオ」が大好きである。これまでに実演で2回、CDで4種類、DVDで2種類は見聞きしているだろう。その「フィデリオ」がMET Liveに登場するのは初めてである。待ちに待った感がある。もっとも日本での公開は5月頃だった。私が見るのは、夏休みに上演されるリバイバルになってしまった。忙しくて行けなかったからである。なお、ニューヨークでの公演(収録日)は、本年3月15日となっている。

「フィデリオ」の魅力は何と言ってもベートーヴェンの音楽そのものに尽きる。舞台はスペインの監獄で暗い。男装したレオノーレはフィデリオ(ソプラノのワーグナー歌手、リーゼ・ダーヴィットセン)と名乗って刑務所に侵入、そこの看守ロッコ(バスの重鎮、ルネ・パーぺ)の部下となり、夫であるフロレスタン(テノールのデイヴィット・バット・フィリップ)を救い出す、という救出劇。

第1幕には一応、男女の恋物語として看守の娘マルツェリーネ(中国人のソプラノ、イン・ファン)に言い寄るジャキーノ(テノールのマグヌス・ディートリヒ)との二重唱なども用意されてはいるが、音楽がベートーヴェンとしては未熟なものが多い。「あまり得意でないことをやっているな」という感じである。しかも今回のマルツェリーネはアジア人ということもあって、どうしても私などは「昭和のお姉さん」(つまり「サザエさん」)のようなムードを感じてしまい、やや興ざめ。とはいえ、私はこの無骨な音楽も大好きで、やはりベートーヴェンにしか書けないものを感じるのである。看守ロッコの上司である刑務所長のドン・ピツァロ(バス・バリトンのトマシュ・コニエチュニ)を含めた4人が第1幕を長々と演じるが、そのクライマックスは何と言っても、夫の身を案じて歌う長いレチタティーヴォとアリア「悪者よ、どこへ急ぐのか」である。ベートーヴェンは音楽を中心に据えて歌を書いたので、息継ぎも難しく、このアリアの難易度は相当なものである。

幕間の紹介によればダーヴィットセンは、双子を妊娠中の身だそうで、この公演を最後に育児休暇に入るそうだが、さっそく来年の「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデでカムバックするというから驚く。公演が終わった舞台裏の画像で、感極まって涙ぐむ彼女の姿は印象的だった。歌唱の方もさすがに見事だったが、私は第1幕の後半を、折からの猛暑の疲れも手伝って心地よい睡魔に襲われ、あまりよく覚えていない。指揮者は女性のスザンナ・マルッキ。人気はあるようだがどことなく平凡で、あのベートーヴェンの推進力が感じられないのは残念だった。

映像の前口上でゲルブ総裁が、この難しい時代に「フィデリオ」を上演することの意味を訴えていたが、実際にはこのプロダクション(演出:ユルゲン・フリム)は、随分前(一説では2000年頃)から上演されているらしく、古典的な舞台装置である。ロシアの捕虜収容所などでなくて良かったと思った次第。序曲は「フィデリオ」の序曲で、第2幕に「レオノーレ」第3番は挿入されなかった。

短いインターミッションの後、第2幕が始まった。私はこの第2幕の冒頭が気に入っている。ベートーヴェンが書いた最高の音楽のひとつではないかとさえ思う。それがひとしきり演奏されると、いよいよフロレスタン(テノールのデイヴィット・バット・フィリップ)が登場、「神よ!」と叫ぶシーンがこのオペラの真骨頂である。ここから続く長大なアリアは、最大の聞き所の一つである。透明なテノールの響きも含め、このオペラの不思議なところは、舞台が常に暗黒であるにもかかわらず、音楽がむしろ陽気であることだ。それこそベートーヴェンのベートーヴェンらしいところではないだろうか。

従って遂にレオノーレとフロレスタンが再会し、そこに居合わせるロッコとドン・ピッアロを含めた4人によるやりとりは、有名なレオノーレのメロディーや「勝利のファンファーレ」を含め、大いに盛り上がってゆく。緊張感が増すというよりは、ドラマの域を超えてオラトリオと化してゆくのが面白い。ただ、私はマーラーが始めた序曲「レオノーレ」第3番の挿入が、どうしても欲しいと思うので、司法長官ドン・フェルナンド(バスのスティーヴン・ミリング)が水戸黄門のように登場し、勧善懲悪の大団円を迎えるまでのひと時を、間奏曲のように待ちたい気持ちが強い。舞台も急に明るくなって、ここから長大かつ壮大なフィナーレに入るのだが、その前の「溜め」が欲しくなるのである。だが、最近はそういう演出は減ってしまった。

マルッキの指揮も第2幕は調子が良く、高らかに歌い上げられる自由と愛への賛歌に、会場からは惜しみない拍手が送られていた。この音楽は誰がどう演奏しても、ベートーヴェンにしか表現できない音楽とストーリーである。世の中の正義が揺らいでいる今の時代にあって、このような渾身の音楽を聞くと、胸が熱くなる。私はビデオ上映のオペラで涙を流すことは滅多にないが、約1年ぶりのMET Liveでベートーヴェンの感動的な音楽に、改めて心を動かされたのだった。

2023年10月1日日曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(The MET Line in HD Series 2008-2009)

こういうことは軽々に書くべきではないと思いつつも、このたび札幌で起きた親子3人による殺人事件は「サロメ」に酷似していると言わざるを得ない。「サロメ」はオスカー・ワイルドによる戯曲だが、その原作は新約聖書「マタイ伝」である。リヒャルト・シュトラウスはまだ野心に燃えていたころにこの作品に出合い、出世作となる「サロメ」を書きあげた。わずか1幕の作品だが、凝縮された音楽が息をつかせぬほど緊張感に満ち、ただでさえ異様なストーリーをさらに際立たせ、見るものを圧倒する。

「サロメ」の主な登場人物は4人である。表題役サロメは、預言者ヨカナーンに一方的な性愛の情を抱いている。執拗とも言えるその欲情は、異様と言っていい。囚われて井戸に閉じ込められているヨカナーンに口づけを迫るが、拒絶されて実現しない。わずか16歳ほどの少女は、自分にこれもまた執拗な好意を抱くヘロデ王から、「踊りを踊ってくれたらなんでもやる」を言って少女に迫る。有名な「7つのヴェールの踊り」は、オペラの舞台で繰り広げられる、極上の音楽付きストリップ・ショーだが、このシーンが物議を醸したことは想像に難くない。だがそれも今では昔の話である。

サロメは約束した通り、ヘロデ王に褒美を迫る。斬首したヨカナーンの生首を銀の皿に載せて欲しい、と。ヘロデ王は役人を井戸に遣わせ、首をはねる。その生首が舞台に登場するシーンはショッキングである。実はサロメに殺人を持ちかけたのは、母親のヘロディアスだった。生首に接吻することを夢見ていたサロメは、最後のシーンで圧倒的な歌とともにヨカナーンの首を愛撫。猟奇的な最後のシーンは、演出と歌唱の見せ所である。不吉なことが起こると恐れたヘロデ王は、ついにサロメを殺すよう命じるところで幕となる。

始まって15年以上が経過したMET Line in HDシリーズ(日本では「METライブ・ビューイング」と言われる)では、たった一度だけ「サロメ」が取り上げられている。それは3年目だった2008年のことで、この年はメトロポリタン歌劇場創立125周年。その記念の年のトリに「サロメ」が取り上げられたのだ。私はすでに80作品以上鑑賞してきたが、この「サロメ」はまだ見ていない。もう見る機会はないと諦めていたが、今年のアンコール上映の演目に登場し、ついに私は接することができた次第である。9月末の平日というのに、結構な人数が映画館に来ていた。私も仕事を終えてから駆け付けた。1幕しなかいので特典映像は少なく、たった2時間で終わる。

サロメを歌ったのはカティア・マッティラ(ソプラノ)である。この作品は1にも2にもサロメなので、その緊張感は例えようもない。終始声を張り上げるサロメを野球の投手に例えると、1回から飛ばすと9回まで持たない。一方、そのほかの役、例えばヘロディアスを歌ったイルディコ・コムロージ(メゾソプラノ)は、一見、サロメより安定した素晴らしい歌唱に思えるのだが、これは登場する時間がそもそも違うのである。言ってみれば、数回投げればいい中継ぎ投手のようなものだ。ヨカナーン役はユーハ・ウーシタロ(バス・バリトン)で、この役は囚人として井戸に閉じ込められているという悲惨な状況から、醜悪でみすぼらしい容姿と決まっている。そのことが強調されればされるほど、サロメの異常な性欲が強調される。

サロメに次いで歌の多いのが、ヘロデ王である。この役はテノールでありながら、美男でもなければ軽薄でもない、という珍しい役。キム・べグリー(テノール)は、透き通るような声であるが、なかなか良く似合っていると思った。サロメは、やはり後半、特に「7つのヴェールの踊り」の後に重心を置いて歌ったのだろう。この踊りだけでも、相当な見せ場であることに違いはない。歌手はまず声だが、踊りのシーンで失敗を許されるわけではないのだから、このシーンの後では歌に全力投球ができる。出来栄え云々というよりも、全力投球の演技に見ている方も鳥肌が立ってくる。

生首は吊り下げられて井戸から登場する。それを銀の皿に乗せて弄ぶ常軌を逸した少女の異常性愛に、狂気と戦慄を覚える。サロメの陶酔を強調する音楽は、長大なモノローグの間中、鳴り止むことはない。

物語は2000年前のパレスチナでる。通常は暗い居間で繰り広げられるが、このたびのユルゲン・フリムによる演出では、何か現代風のサロンである。中央に螺旋階段があって、全体的に明るく、おどろおどろしい感じがしない。またパトリック・サマーズによる指揮も、なぜか控えめで音楽が前面に出てくる感じではない。そういうことから、残念ながらこの舞台は、私の中ではあまり感心した方ではないのが正直なところである。なかなかサロメを歌うことのできる歌手はいないのかも知れないが、そろそろ新しい演出、歌手での舞台が待ち望まれるところではないだろうか?

2023年9月18日月曜日

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」(The MET Live in HD Series 2022-2023)

METで今年3月に上演された「ローエングリン」があまりに素晴らしいというので、私はLive in HDシリーズのアンコール上映の機会に見ることにした。大型連休前に上映された際には時間がなく、しぶしぶ断念したから、今回ようやく接することができた次第である。その感想を一言で言うと「圧巻」に尽きる。音楽が終始大音量で鳴り響き、その熱量は物凄い。見ている方は体力を消耗し、5時間後にはへとへとになった。そして「ローエングリン」という作品は、こうも聞き所の多い作品だったかのかということを改めて思い知った。

私は2016年に実演を見ている。この時新国立劇場で表題役を歌ったのは、クラウス・フロリアン・フォークトだった。指揮は先日逝去した飯守泰次郎。現在望みうる最高の舞台のひとつではなかったか、などと興奮に満ちた文章を書いている(https://diaryofjerry.blogspot.com/2016/05/2016523.html)。しかし音楽を精密に聞き込んだかと言えば、実演だとなかなかそうはいかない。初めて実演で接するオペラだったということもある。それに比較して、映画館での上映となると見る側にもゆとりができて、より客観的に見ることができる。字幕も追いやすいし、5.1ch音響効果も抜群である。

特定映像でのインタビューで、ヤニック・ネゼ=セガンが語っているように、この作品はワーグナーの作品の中で、丁度過渡期に位置付けられるだろう。ドレスデン時代の最後を飾る作品として、それ以降の作品は「楽劇」と言われているのに対し「歌劇」と分類されている。古い様式、たとえばアリアのような部分が目立つ一方で、ライトモチーフにも似た要素が垣間見れる。第1幕への前奏曲で奏でられる冒頭のメロディーは、聖杯グラールに触れられる場面で幾度となく登場する。

その第1幕への前奏曲は、静謐なメロディーで始まるのだが、映画館では早くも大音量である。実演だとこうは聞こえないのではないか、などと少々違和感があるのは確かだが、CDやDVDで聞く音楽もそのような傾向が定着しているので、それはそれで良いかとも思う。以降、歌手の音量はしっかりと大きい。この作品には終始合唱団が活躍するが、これと歌手との対比すると、そのイコライザー効果はやや不自然だとも言える。ワーグナーの作品ではとりわけそうだが、舞台下に隠れているはずのオーケストラも、くっきりと収録されている。

合唱団はマントをまとっており、その裏打ちの色が赤だったり、緑だったりと変化する。ローエングリンとエルザは白、テルラムントとオルトルートとは赤で印象付けられる。面白いのは指揮者のジャケットもこれに合わせて、第1幕では黒、第2幕では赤、第3幕では白と変化した。この衣装デザインは、ティム・イップというデザイナーが担当、演出のフランソワ・ジラールとともにカーテンコールにも登場した。

演出がジラールであることもこの舞台に注目した大きな理由だった。というのは彼の演出した「パルジファル」の舞台が、あまりにも素晴らしかったからだ(https://diaryofjerry.blogspot.com/2013/04/the-met-live-in-hd-2012-2013.html)。もう10年以上前の話ではあるが、ここで舞台全体に写しだされた巨大な月が極めて印象的で、今でも鮮烈に記憶に残っている。それはニューヨークでも大いに評判だったようだが、ローエングリンはパルジファルの息子であり、その関係性において衣装も白を基調としたとのことである。

開演前からその月が舞台上部に映し出されていた。この月の満ち欠けが巨大な穴を通して表現される。舞台は終始、その穴の下で展開され、時折月が出てくるのだが、パルジファルに比べると控えめで特筆すべきものはなく、むしろ歌手たちの活躍こそが本公演の主役だったことに尽きるだろう。

まずローエングリンを歌ったのは、ポーランド人のピョートル・ベチャワ(テノール)で、彼はもう十年以上メトの常連だが、そのレパートリーはフランス物、イタリア物と幅が広い。ヴェルディのリリカルなテノールも歌う彼の綺麗な声は、ローエングリンにも相応しいものだったが、衣装が白いシャツということもあってビジネスマンのような感じ。一方、エルザを歌ったのはタマラ・ウィルソン(ソプラノ)で、彼女もアイーダなども歌うメトの常連だが、この役はデビューだそうである。

今回の出演歌手の中で、誰か一人を挙げるとすればオルトルートのクリスティーン・カーギー(ソプラノ)に尽きる。彼女の悪女ぶりは舞台で見ていても吐き気を催すほどの嫌悪感むき出しだが、インタビューに答える彼女ほど既知に富み、自信に満ちたものはないだろう。その相手、すなわちテルラムント伯爵はエフゲニー・ニキティン(バス・バリトン)だった。そのほか、国王ハインリヒを歌ったギュンター・グロイスベック(バス)は貫禄ある重厚な歌声を会場に轟かせた。

作品を何度か見て冷静になると、難しい話が随所にちりばめられてはいるがこのオペラは結局、女性同士の男性を巻き込んだ争いに思えてくる。丁度「ワルキューレ」が父と娘の和解の話に集約されるのと似ている。このあたりがワーグナーの下世話なところで、まあブラームスが嫌っていたのは何となくわかる。エルザに弟殺しの濡れ衣を着せ、騎士に素性を明かすよう気迫迫る部分などは、女性版イヤーゴ(「オテロ」)であるとさえ思った。

オルトルートの夫、テルラムントは殺害される。絶対に問うてはならない問いを発してしまうことでエルザの夫となったローエングリンは去って行く(「夕鶴」を思い出す)。いやそのエルザとオルトルートも最後にはあっけなく命を落とす。つまり主役級の登場人物が全員死亡する(「トスカ」と同じだ)。そういった不気味さを暗示させるように、あの「結婚行進曲」もどこか暗い。騎士が白鳥に乗って王女を助けに来るというのは第1幕の話でしかない。つまり物語に救いがないのである。ただ思いっきりロマンチックな音楽が、この物語を彩っている。時にヴェルディの作品を思わせるようなア・カペラになる部分も多い。

総じて音楽的要素の醍醐味を味わった舞台だった。だが先にも述べたように、いささか音響を大きく押し出した結果、息つく間もないほどの緊張感の連続に少々疲れた。この作品はももっと静かな作品であり、その方が作品の味わいが表現され得るのではないか。朝10時半に始まった上映は、2度の休憩をはさみつつ15時半に終了した。特典映像が多い割に休憩時間が短く、昼食を取る時間がない。5時間もの間、ずっとスクリーンを見続けるのはなかなか大変で、厳しい残暑が続く中、昼間は涼しい映画館で過ごすのも悪くはないと思ったが、最近体調の悪い私は、もうワーグナー作品を観るのはよそうとさえ思った。

それもこのシリーズで毎回述べられるように、「大画面での体験も素晴らしいが、実演に勝るものはありません」ということかも知れない。私よりも年老いた人々が、これだけ長くの時間、大画面を見続けているのも驚異的だが、このあと16時からは10年前の同じジラール演出の「パルジファル」が上演される。この超大作をはしごして観る強者もいるようで、これはもはや超人的と言わざるを得ない。

2023年7月25日火曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD Series 2022-2023)

モーツァルトは、いわゆる「ダ・ポンテ三部作」において、それまでの常識を覆し人間性あふれるドラマとしてのオペラ作品を世に問うた。しばしばいわれているように、これらの作品(「フィガロの結婚」、「コジ・ファン・トゥッテ」、「ドン・ジョヴァンニ」)は、極めて下世話な内容ですらある。ちょうどフランス革命が起きて、その影響がウィーンへの波及しようとしている頃、音楽は一部上流階級のものから一般市民のものへと移りつつあった。しかし、そのモーツァルトが作曲したひとつの頂点とも言うべき作品「魔笛」については、再び古い世界に回帰しているように見える。

例えば、この物語は時代設定も場所も不確かである(紀元前のエチオピアと言われたりする)。確かに、キリスト教的価値観はさほど感じられず、それまでヨーロッパが規範としてきたモラルからかなり逸脱しているように見える。しかし、それに代わって登場するのは、秘密結社フリーメーソンの何とも形容しがたい教条主義である。特に第2幕で繰り広げられる数々の試練をカップルに課す集団は、ザラストロを頂点として密会を催し、しばしば意味不明の儀式を繰り返す。

このような効果を薄めるかのように、パパゲーノという非常に庶民的かつ魅力的なキャラクターがアンチテーゼとして登場し、モーツァルトは彼にこそ魅力的なアリアを数多く作曲している。「魔笛」のテーマは、いわば二つの世界の対比であり、時に価値の逆転が試みられる。オペラ先進国イタリアの言葉で書かれた、ありのままの人間性を表現する新しい趣向は、ドイツ語圏では時期尚早だった。だがこの作品は、ウィーンの庶民のための劇場で、数多くの効果音をふんだんに盛り込み上演された。メルヘンの仮面まとった「魔笛」も、そのときどきの時代に通じるヒューマンなドラマ性を表現することは可能であり、その余地は充分にある、と現代の演出家も考えたのであろう。このたびMETで、長らく続いたテイモアのファンタジックな演出の後を受け、新しいサイモン・マクバーニーの舞台が、このようにして出来上がった。

ここではいくつかの斬新な演出が試みられた。まず、驚くべきことに広大なオーケストラピットは、通常の深い場所から舞台のすぐ近くの高さにまで吊り上げられ、客席からもよく見える。役者に変わって演奏されるフルートやグロッケンシュピールを担当する奏者と歌手が、しばしば交流する。幕間のインタビューでマクバーニーが語っているように、初演当時、オーケストラは舞台にもっと近かったのだ。それだけではない。舞台正面に映し出されるプロジェクションへの投影と様々な効果音が、舞台で生で演じられるのである。

その様子は、旧来の演出と最新鋭の演出が混在するという面白いもの。例えば序曲が始まり、スタッフが黒板に「AKT1」などと書いていくと、それがそのままカメラを通して、紙芝居のように、筆跡と共に舞台のスクリーンに映し出される。一方、パパゲーノが鳥を追いかけるとき、その鳥の姿と音を表現するのはノートの切れ端を持った黒子たちで、これをパタパタと揺らすことで鳥を表現している。また、パパゲーノがボトルに入った水をごくごくと飲むときの音は、舞台右横の効果音担当者によって、演技と同時にマイクを通して拡声される。このような斬新な取り組みによって、舞台は台詞のシーンにおいてさえ集中力を切らすことができない。

集中力を維持するだけの推進力を与えるのは、この演出だけではない。コントラルト歌手だったナタリー・シュトゥッツマンによる指揮がまた見事の一言に尽きる。彼女の音楽は古楽奏法も踏まえたもので、私はあの素晴らしいクラウディオ・アバドの演奏を思い出した(このアバドの「魔笛」は、私が入院中に病室で聴いた当時の新譜で、一気に流れるように音楽が進む様子がとりわけ印象に残っている)。

モーツァルトとシカネーダーが試みた価値の転換は、「ダポンテ三部作」だけでなく「魔笛」の隠れたテーマでもあったのだろう。そのことを強調するように、この舞台は現代における価値の大転換を推し進めてみせる。まず登場するタミーノ演じるのは小柄な黒人ローレンス・ブラウンリー(テノール)である。美しく透き通った声の持ち主である彼を、この舞台の主人公に抜擢した、ということだが、そもそもタミーノを黒人歌手が演じることなど、少し前までは考えられなかった。蛇に襲われた彼は3人の侍女によって服をはぎ取られ、下着姿となる。その3人の侍女は、大変失礼ながら美人ぞろいという風貌ではない。

一方、悪の象徴であるモノスタトスを、スーツを着た白人ブレントン・ライアン(テノール)が演じる。さらに過激なことに、3人の童子に至っては、まるでストリート・チルドレンのようにみすぼらしくやせ細り、ぼろ布をまとっている。極めつけは夜の女王で、彼女は腹黒い側面をことに強調して醜悪な容姿の上、車椅子に座って「夜の女王のアリア」を歌い切る。ここまでくると、もはや少し悪趣味ではないかとさえ思えてくる。高貴なはずの役が醜く、悪の権化はさらに低俗な様相を放つ。だから、まるで地獄絵のように暗く惨めなのだが、そこに流れるのはまぎれもなく、モーツァルトの清らかなメロディーに他ならない。ダークサイドが思う存分強調されているにもかかわらず舞台を観て辛くないのは、新しい効果満載の演出と絶え間ない美しい音楽の故である。

私がもっとも感心したのは、パミーナを初めて通しで歌ったというエリン・モーリー(ソプラノ)。登場人物の中で彼女が一番「普通」である。パミーナに登場人物の標準ラインが引かれている。夜の女王役のキャスリン・ルイック(ソプラノ)は、定評ある驚異的な歌声だが、その頂点すなわち第2幕「復讐の炎は地獄のように燃え」で超絶技巧が炸裂し、演技を含め圧巻である。彼女はカーテンコールでもひときわ大きな声援を得ていたが、自身も感極まって涙をこらえていたところを見ると、会心の出来だったのだろう。ザラストロを歌うスティーヴン・ミリング(バス)は貫禄のある歌声を会場に響かせる。

一方、大活躍のパパゲーノはピアノも得意とするトーマス・オーリマンス(バリトン)。有名なアリア「娘か可愛い女房が一人」でグロッケンシュピールを自ら引いて歌いこなす。パパゲーノは要所要所で愛すべきキャラクターを演じるが、オーケストラの前にも設けられた細い通路(いわば「花道」)で演じ、さらに彼はそこから観客席にまで降りて歌うのだ。見慣れた「魔笛」の演出にはこれまで数々のものに接してきたが、まだこのような演出が可能だったのかと感心しきりであった。

最近、私はコンサートに出かけてもあまり感動することはなく、同じプログラムを聞いた人がtwitterなどで「涙を流した」などという表現に接するたびに、自分は今や心のゆとりを失い、ついには感動する心を持たなくなってしまったのだろうかと思っていた。しかし、この「魔笛」の映像を見ながら、私は久しぶりに聞くモーツァルトに耳を洗われ、次々と現れる斬新な演出に釘付けとなり、体は硬直、目頭が何度も熱くなった。これほど心を動かされたMETライブは久しぶりである。

モノスタトスと怪獣たちが魔法の音色によって次第に融和されていくシーンは輪になって踊るダンスとなるなど、ことごとく新しい試みが施され発見の連続である。そして最大の特徴は、最後のシーンで夜の女王が地獄に堕ちることはなく、パミーナと和解することだ。パミーナは、自分の母親である夜の女王と熱く抱擁を交わす。これこそが新しい創造で価値の逆転である。感動的でマジカルな舞台、モーツァルト、そして暑い休日の午後の銀座だというのに、客席はそれまでの公演に比べてもまばらだったのはなぜだろうか?おそらく原因は二つある。一つはチケットが高額だからだ。いつの間にか値上げされている。もう一つは、新調された客席の椅子が中途半端に心地悪く、腰を痛めかねない角度になっているからだ。

とは言え、それらを覚悟してでもこの公演を見る価値はある。「魔笛」の直前に演じられた新演出の「ドン・ジョヴァンニ」(ここでも指揮はナタリー・シュトゥッツマンである)を見逃したことを後悔した。だが、東劇ではまもなく夏休み恒例のアンコール上映が始まる。このシーズンに見逃した作品を、このチャンスに見ることができる。今から楽しみである。

2022年1月23日日曜日

ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(The MET Live in HD Series 2021-2022)

紛れもなくムソルグスキー最大の作品「ボリス・ゴドゥノフ」には様々な版が存在する。もっとも有名なのがリムスキー=コルサコフ版で、これをさらにイッポリトフ・イヴァーノフが改訂した版が存在する。さらにはこれから派生した細かい違いも多い。あのカラヤンやアバドまでもがこの作品の録音を行っており、ロシアのオペラでありながら国際的な名声を確立している作品としては、チャイコフスキー以外ではこの作品をおいて他にない。そしてどの版を用いるかによって、作品の長さも趣きも違ってくることだろう。近年ではゲルギエフによるキーロフ劇場の録音が記憶に新しいところだが、原典指向の流れを反映して、ムソルグスキーが初演の頃に行った改訂をもとにした版なども、演奏、録音がなされている。長いものでは4時間近くに及ぶこの作品も、原典版のもっとも短いものでは2時間程度の作品となる。このたび上演されたのも、「1869年の原典版」となっており、休憩なしの2時間だった。

METの歴史における「ボリス・ゴドゥノフ」の存在も、ちょっとしたもののようだ。手元にある同作品の簡単なディスコグラフィによれば、ボリス役としての往年の名歌手だったシャリアピンやピンツァなどが未だに高い評価を得ている。METとしても1年半にも及ぶ閉鎖を余儀なくされた後の幕開きに、この作品を登場させることにためらいはなかったのだろう。そして今回、ボリスを歌ったのはドイツのバスの第1人者、ルネ・パーペだった。彼は満を持してこの作品に挑んだ。指揮者は我が国でも有名な、セバスティアン・ヴァイグレである。新演出を手掛けるのは、スティーヴン・ワズワース。原作はプーシキン。

ごく短い序奏付きの冒頭で、この作品の主人公とでも言うべきロシアの民が、力強い民衆の歌を歌う。この作品を味わう一つの視点は、この合唱ではないかと思う。皇子が病弱なために摂政となったボリスは、王位に就く気はないなどと謳うが、これは嘘である。やがてクレムリンで戴冠式が開かれ、彼は皇帝に即位する。ディミトリ―皇子が死んだからだ(以上、第1部。改訂版ではプロローグに相当)。

舞台が変わり、中央に巨大なノートが置かれていた。ロシアの年代記を執筆しているのは、老僧ピーメン(バスのアイン・アンガー)である。彼は若い僧であるグレゴリー(テノールのデイヴィッド・ハット・フィリップ)との対話の中で、皇子ディミトリ―はボリスによって暗殺されたのだと語るのだ。

もし生きていれば同い年だと悟ったグレゴリーは、僧侶になることをやめて脱走する。行き先はリトアニア。死んだディミトリ―に成りすまして、実は生きているとの噂を民衆に広め、ボリスの失脚を狙おうとするのだが、実はこのくだりは後からそうだと知っているから書けるわけで、物語だけを追っていると少しわかりにくい。それどころか、この辺りまでの小一時間、暗い舞台に実に男声しか登場しない。やはり音楽の力を借りないと、とても緊張感が続かないわけである。

舞台が少し明るくなり、リトアニア国境に近い旅籠屋。官吏が脱走者(つまりは破戒僧であるグレゴリー)を見張っている。ここで脇役の女将や他の浮浪人の会話が展開されるが、この歌い手たちの実力がなかなかで、今回のMETライブの成功は、彼ら主人公以外の役者の歌と演技によるとこころも実に大きいように感じた。正体が知られたグレゴリーは、宿屋を抜け出して逃走する(以上、第2部、改訂版の第1幕)。

本来ならこの辺で休憩が欲しくなるのだが、今回の公演では原典通りだそうで休憩はなく、そのまま第3部(改訂版の第2幕)へと進む。感染の機会をなるべく減らそうとする劇場側の配慮の結果だろうか。映画館で見るものとしては、辛抱してついて行くしかない。

クレムリン内でのボリスとその息子、娘との対話が始まる。やっとこの辺りから、少し舞台が明るくなってくる。やがて王位に就くことになる息子には帝王学や地理を教える。娘は父親ボリスによって暗殺されたディミトリ―の許嫁だったこともここで判明する。しかし、安定した生活は続かない。殺されたはずのディミトリ―が生きていて、潜伏先のリトアニアで謀反を企てようと画策しているとの知らせが、側近のシェイスキー公によってもたらされるのだ。

ボリスの最側近であるヴァシリー・シェイスキー公は、テノールのマクシム・パステルによって歌われた。彼は巨大な体を揺らせながら、ルネ・パーペの演じるボリスと丁々発止の会話。ここからがこのオペラ最大の見せ場である「時計の場」(バス版「狂乱の場」)に移る。8時を打つ時計の音は、オーケストラが発する鐘の音で、モスクワにいるような雰囲気が醸し出されて舞台は最高潮に達する。

だが、本公演では拍手もなく次の場に入る。次のシーンは第4部で、改訂版の第4幕(終幕)となっている。すなわち第3幕に相当する部分がカットされていることになる(というより原典版では存在せず、後から書き加えられた部分。ここの扱いが版によって大きく異なる)。私はこの作品を初めて見たから、それに気づくこともできず、聖ワシリー聖堂前でボリスの前に愚者が現れるシーンを目撃する羽目になる。

ここで少し説明が必要になるだろう。白痴を装う愚者はロシアでもっとも聖なる存在とみなされていたそうである。彼はボリスに自分のために祈るよう懇願するが、「ヘロデ王(子を殺した暴君)に祈ることはできない」と突っぱねるのだ。ここまで聞き進んでいたこのオペラの最高の見せ場は、何とここから幕切れまでである。実に人間的なドラマが展開されるのだ。

オペラとしての興業を考えた時、このようなドラマの展開が、他の部分との若干の違和感を感じないわけではない。だが想像にまかせて、ここからのボリスの死に至る場面を堪能しよう。クレムリンで諸侯を集めた政策会議が始まる。側近のシェイスキーを極刑にするボリスの乱心。そして気が狂った彼は、息子に「立派な皇帝になるように」と王位を譲り、そのまま息絶えるのだった。ピーメンの歌があまりに朗々していて、起伏を伴うボリスと対照的だが、ここが同時に進行する様は、ムソルグスキーの歌の真骨頂とも言うべき部分だと思った。

今回の舞台はここで終了した。改訂版ではこのあと、偽ディミトリ―がポーランドから侵攻するシーンがあるようだが、今回の上演では存在しなかった(と思う)。ムソルグスキーの音楽に触れた2時間は、このようにして終わった。不思議な感覚だった。イタリア・オペラの楽しさとはまた違った醍醐味が、ここには存在している。それを知るきっかけとしたい、と思った。なぜならこれまで、どちらかというと避けてきた作品だったからだ。だが、意外と親しみやすいのかも知れない。

「ボリス・ゴドゥノフ」がどんな音楽だったかは、膨大な数にのぼる録音で知ることができる。そしてそれらの録音のみを聞くだけの感覚と、映像や字幕を伴って見るときの感覚とでは、大きな違いがあることに気付く。多くの作品で、映像付きの作品として見ることの自然さと楽しさを書いてきたし、そのことに偽りや迷いはない。けれども、録音された音源だけの演奏を、言語もわからないまま聞き続けることもまた、別の味わいがある。モーツァルトやワーグナーなどその典型だが、ここにロシア・オペラの大作を加えてもいいのではないかと思った。カラヤンの念入りに録音されたウィーン・フィルとの演奏など、まさにその典型のような気がする。

マスクをした会場からは、盛大なブラボーが飛び交った(我が国と違う)。そしてルネ・パーペはエネルギーを使い果たし息を切らさんばかりの格好で何度も舞台に呼ばれた。ヴァイグレの指揮も手堅く、この作品にマッチしていたと言える。読響のシェフとなったヴァイグレの演奏を、さっそく聞いてみたいと思った。METライブの今シーズンの演目は、ニューヨークならではの新機軸となる新作品や、イタリア物の新演出が目立つ。私はフランス語版「ドン・カルロス」と「ルチア」の新演出に早くも期待をしている。

2020年6月30日火曜日

ガーシュイン:歌劇「ポーギーとベス」(The MET Live in HD Series 2019-2020)

ユダヤ系ロシア人を親に持つブルックリン生まれの作曲家ジョージ・ガーシュインは、その短すぎる39年の人生を終えるわずか2年前に、ジャズを土台とする斬新なオペラ「ポーギーとベス」を作曲したのは1935年のことだった。この頃はまだまだ黒人差別が当たり前のように存在し、特に南部では大規模な農園で働く黒人の多くが貧しい生活を強いられていた。

公式には南北戦争によって廃止された人種差別は、第2次世界大戦を過ぎて公民権運動が沸き起こる1960年代に至るまで続く。その様子は生々しく、ごく最近まで南部では、バスに乗るにも黒人用と白人用の座席が違っていた。例えば小田実の名著「何でも見てやろう」にはこのように書かれている。
ガラス窓があり、それごしに、向こうの別世界、「黒人用」待合室が見えた。うす暗く狭く汚い。そして、こちらの世界にはわずか五六人の客しかいないのに、それよりはるかに小さい別世界は、人間―黒い色を持った人間でみちていた。
私はニューヨークに滞在した1年間を中心に、アメリカ東部を南北に貫くインターステート(州間高速道路)95号線を、北はメーン州のアケーディア国立公園から南はフロリダ半島南端(さらにはキーウェストまで)ドライブした。感謝祭の週末、早朝にワシントンDCを発ってすぐにバージニア州に入る。ここから「南部」が始まる。さらに南下を続け、サウスカロライナ州に入ると、どこまでも続く平原地帯を走る。途中で東へ折れ、プランテーション農園などを目にしながら海を目指し、やがてハリケーンが時折襲う大西洋岸の港町チャールストンに着いた。ここは歴史的観光地でもあり、今では多くの教会や南北戦争の遺跡などを見て回るツアーがあって、なかなか興味深いところだった。

さて、キャットフィッシュ・ロウ、すなわち「なまず横丁」と名付けられた黒人の居住区を舞台に「ポーギーとベス」は進行する。この作品の原作を書いた小説家は、自身が生まれ育ったチャールストンを舞台にこの物語を書いた。ガーシュインもオペラ化に際して、この街を訪れ黒人音楽などを取材している。私もチャールストンの通りを歩いていたら、教会から大きな声の合唱が漏れ聞こえてきたのを覚えている。それは通常の讃美歌のような、まるで天上から降りてくるような音楽ではなく、地の底から響く激しいリズムを持った霊歌ー魂の響きであった。

ガーシュインは、二十世紀の音楽が定めるべき方向を模索していた時代に、黒人を主人公としたオペラを作曲した。歌手はほぼみな黒人(今風に言えばアフリカ系)でなければならないとされる。しかしここで展開される音楽は、そのストーリーからもわかるようにどちらかというと重く、私は最初楽しく聞く事ができなかった。ガーシュインと言えば、底抜けに楽しいミュージカル「ガール・クレイジー」(その主要な音楽を取って構成した「クレイジー・フォー・ユー」は当時、ブロードウェイでロングランを達成していた)などを聞いていた私には、いつまでたっても続く暗い音楽がつらかった。ストーリーに救いがないのは、この時代の作品の特徴でもあるのかも知れないが、明らかに娯楽作品と異なるのは、この作品が自らが確立したクラシック・ジャズの様式をオペラに昇華させることを目的とした、おわば彼にとっての野心作だったからではないだろうか、と思う。

考えておかなくてはならないことは、この作品はあくまで白人の部類に属する側で作曲された作品であるということだ。ただ今回、何と30年ぶりとなるMETに登場した多くの歌手たちは、並々ならぬ意欲を見せていたように思う。主役のポーギーを歌ったエリック・オーウェンズ(バス・バリトン)は、長年この劇場で歌ってきたバスの第1人者である。大柄で優しい風貌もまたピッタリだと感じられる。幕前に舞台に登場したゲルブ総裁は、彼が風邪をおして舞台に立つことを告げるので、その出来栄えを心配したが杞憂に終わった。大成功だった。

ポーギーによって口説かれ、一時は一緒に暮らす仲となるベスを歌うのはエンジェル・ブルー(ソプラノ)で、この組み合わせでビデオ収録も行われ、昨年リリースされたそうである。それくらいピッタリの役どころといったところ。黒人特有の野太い声が、広い会場に響く。一方、ベスの愛人で悪党のクラウンは、アルフレッド・ウォーカー(バス・バリトン)によって歌われ、筋肉質の巨漢がピッタリ。その他大勢いる女声陣は、クララにゴルダ・シュルツ(ソプラノ)、セリナにラトニア・ムーア(ソプラノ)、マライアにデニース・グレイヴス(メゾ・ソプラノ)。またクラウンを絞め殺した容疑でポーギーが収監されている間にベスを誘惑し、麻薬で誘ってニューヨークへ連れてゆくまた一人の悪党、スポーティング・ライフにはフレデリック・バレンタイン(テノール)が、一人若々しい青年の声で聴衆を魅了した。ジェイムス・ロビンソンの演出は、舞台中央に設えた2階建ての木造家屋が頻繁に回転し、視覚的にも楽しい。一方、中央にピアノを置いたオーケストラを率いたのは、デイヴィッド・ロバートソン。ジャズのスイングはメトのオーケストラでも健在で、熱狂的な聴衆はこのようなリベラルな街で、わめくように喝采を送る。

第1幕の第1場、すなわち幕が開いてすぐに歌われる「サマー・タイム」が特に有名なこのオペラは、勿論ジャズを中心とした様々な音楽的要素が盛り込まれ、詳細に聞いてみるとなかなか聞きごたえがある。だが舞台を伴って見ると、登場人物が多く複雑なうえに、いつも同じような音楽が聞こえているように感じる。それでも今回、私はポーギーとベスによる二重唱、あるいはベスを口説くクラウンやスポーティング・ライフとの、それぞれの二重唱などで見られる、歌の進行と共に起こる心情の変化を、子細に見ることができた。

意志の弱いベスは、純粋なポーギーが自分の身を任せられる存在だとは、やはり信じられなかったのだろう。だが足の不自由な物乞いのポーギーには、他に夢などなかった。ハリケーンで足止めされた島へのピクニックでベスを誘惑した憎むべきクラウンを、決闘のうえ絞殺し、白人の警官に取り調べを受ける1週間の間に、ベスはスポーティング・ライフによってまたも誘惑され、拘留期間が長くなるとそそのかされたこともあり、とうとう一緒にニューヨークへと旅立ってしまう。そんなベスをポーギーは忘れる事ができない。コミュニティの人々の静止を振り切って、ポーギーはベスを追って旅立ってゆくところで幕となる。

この映像を見ながら、私は25年前に訪れたチャールストンの町を思い出した。そして今なおアメリカ社会に影を落とす人種差別に、複雑なものを感じた。最近でも黒人が白人警官に殺され、そのことによって全米でかつてない規模のデモが沸き起こったばかりである。この上演は今年の2月1日だった。直後にコロナ禍が襲ったアメリカでは、1か月後にメトロポリタン歌劇場も封鎖された。この上映はその直前。奇しくもそのような年に、30年ぶりの「ポーギーとベス」は上演された。

2019年8月6日火曜日

サン=サーンス:歌劇「サムソンとダリラ」(The MET Live in HD 2018-2019)

今でも戦禍の絶えないパレスチナのガザ。紀元前12世紀ころ、ここには多数のヘブライ人が故国を追われてペリシテ人の奴隷となっていた。舞台はガザの広場に群がるヘブライ人の合唱(混声8部)から始まる。やがてその中から英雄サムソンが出て民衆を鼓舞し、エホバ神を讃えようとする(第1幕)。ペリシテ人の美貌の娘ダリラは、そんなサムソンを誘惑し、篭絡するが(第2幕)、その罠にはまったサムソンは捕らえられるも祈りを捧げ、その犠牲とともにダゴンの神殿を崩壊させてしまう(第3幕)。

ストーリーはよく知られ、登場人物も少なくわかりやすいが、第1幕は宗教的な話が多く、後半に比べると地味なため、眠くなってしまう。東京での連日の猛暑に疲れたら、休日の午後はゆっくり映画館で涼むというのは、懸命な選択だろう。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のライブ映像シリーズもすっかり定着した感があるが、その過去の作品を一堂に集めて上映してくれるアンコール上映の期間が今年も8月2日から始まった。

私は、昨年10月に上映されたサン=サーンスの歌劇「サムソンとダリラ」を見逃しているから、さっそく妻と共に出かけた。この歌劇は非常に有名だが、私自身は全体を見たことがない。このブログで触れるのも初めてである。久しぶりのフランス・オペラは、私を心地よく睡魔に誘ってくれたが、それも見どころが第2幕以降に集中しているからである。休憩時間が2回あって、インタビューなどの特典映像も満載の上映は、大歓迎である。

第1幕についてもう少しだけ書いておくと、ここの音楽は、他にも登場人物がいて「なかなかいい感じ」である。そもそもオラトリオとして作曲が開始された物語が、次第に肥大化して「なんでもあり」の様相を呈するようになるヘンテコな作品だが、それも後半が充実しすぎているからで、第1幕だけ聞いた時点で「フランス・オペラ」もたまにはいいな、と思った。

第2幕を貫くダリラ(エリーナ・ガランチャ、メゾ・ソプラノ)によるサムソン(ロベルト・アラーニャ、テノール)との二重唱は、圧巻であった。私は丸でワーグナーのh楽劇を見ているように舞台に引き寄せられ、心の中でブラボーを叫んだ。目頭が熱くなるというよりは、胸が締め付けられるような気がした。というのもこれは、通常の「愛の二重唱」とは異なり、あくまでダリラによるサムソンへの企みの歌なのだ。

サン=サーンスはそんな誘惑の二重唱に絶品の音楽を書いた。メゾ・ソプラノのために書かれた最も美しい歌ではないだろうか。「あなたの声に心は開く」は古今東西のアリアの中でも屈指のものだ。緑のドレスに身を包んだガランチャは、その持ち前の魅惑的な声で、優雅にして力強い歌唱と演技を披露した。フランス語をネイティブとするアラーニャの出来栄えも良い。私はこの二人の演じる、同じ時期に作られた「カルメン」(ビゼー)を思い出した。この上演は、この何年か前の舞台とセットになったものだ。

「カルメン」は「サムソンとダリラ」とほぼ同じころに作曲された。いずれもメゾ・ソプラノを主人公とし、踊りや歌に溢れ、異国情緒も満点だ。女性が男性を誘惑し、籠絡するという点でも共通している。ただ「カルメン」では、最初はドン・ホセを心から気に入っていたのに対し、ダリラの恋は復讐そのものである点だ。にもかかわらず今回の「サムソンとダリラ」の第2幕は、これほど美しい音楽はないほどに素晴らしかった。それは、インタビューでガランチャ自身が語っているように、ここでのダリラの役作りにあるのだろう。ダリラはいっとき、サムソンを本当に愛していたのでは、という解釈だ。

そのダリラに悪の征服をけしかけるのは、悪役の定番、大司祭(ロラン・ナウリ、バス・バリトン)である。長身で若い彼は、存在感もあってこの第2幕を一層引き締まったものにした。

第3幕はその数分後から、有名な「バッカナール」となりスペクタクルなダンス・ショーが始まる。指揮はイギリスの名匠マーク・エルダーで、私は今上演の成功の要因のひとつが指揮だったことを疑わないのだが、大変残念なことにここの「バッカナール」を含む第3幕はつまらなかった。その理由はバレエの単調さと、空間を生かし切れていない演出の平凡さにあると思う。全体に非常に豪華な新演出だったが、その理由が表面的な効果のみを狙ったもので、エキゾチックな雰囲気も感じられず、真っ二つに割れた人体を神殿に見立てる理由も判然としない。

結局、第2幕につきると思った今回の「サムソンとダリラ」を演出したのは、ダルコ・トレズニヤックという人だそうだが、最近のMETはブロードウェイのスタッフなどを登用して、安直な大衆路線に傾こうとしているように思える。これはゲルブ氏が総裁に就任してから顕著になった。「アイーダ」にせよ「トゥーランドット」にせよ派手で高価な演出を得意とするMETだが、確かに舞台の大きさを考えるとやむをえないのかも知れない。けれども今回の「サムソンとダリラ」は、そんな絢爛豪華さを追求することにも成功しなかったと言わざるを得ない。にもかかわらず今回の上演の素晴らしさは、3人の歌唱と演技にある。やはりオペラは、いくら飾ったところで歌なのである。

2019年3月3日日曜日

チレーア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」(The MET Live in HD 2018-2019)

あれは大学生の頃だっただろうか。FM放送から流れてくるチレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」という作品に、はじめて触れたのは。

当時私はヴェルディやモーツァルトのオペラに目覚めた時で、有名な作品であれば何でも聞いてみたいと思っていた。大学生であっても試験前の勉強くらいはするもので、その日は私も受験生時代を思い出しながら、自宅で机に向かっていた。勉強をするときは自然にラジオに手が伸びる。ところが日曜日の午後というのは、どこの放送局も競馬中継ばかり。唯一NHKのFM放送だけが、私をクラシック音楽に誘ってくれる時間だった。そういう誰も聞かないような時間帯に、NHKはオペラの全曲録音を放送することになっていた。

今でもニューヨークの公共ラジオは、メトロポリタン歌劇場の土曜日の公演を中継している。この放送を楽しみにしている人は多いようで、MET Live in HDシリーズの中でよくアメリカ人の歌手たちが、小さい頃この放送を聞いてオペラに目覚めた、などという話をしている。だが我が国ではオペラはまだ身近なものではなく、実演はおろかレコードを通しても、オペラを全曲通して聞くことなど滅多にできない時代だった。そのような時代に、NHK-FMの「オペラ・アワー」は、貴重な番組だったと言える。

透き通りような、それでいてしっとり落ち着いた声の持ち主、後藤美代子アナウンサーが喜歌劇「こうもり」の序曲に乗せて番組が始まる。その日の曲目は、私も聞いたことのない作曲家チレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」だった。どこの歌劇場の誰の演奏によるものかは、覚えていない。もしかするとその日は、CDの全曲録音ではなく、どこかの放送局のライブ録音だったように思う。タイトル・ロールを歌ったソプラノは、ミレッラ・フレーニだったかも知れないし、レナータ・スコットだったかも知れない。そのどちらかだけは、ほぼ確かだと思う。歴代の大歌手が主役を歌う作品であるにも関わらず、チレーアなどという「アドリアーナ・ルクヴルール」以外では知られていないイタリアの作曲家(唯一の例外は「アルルの女」における「フェデリコの嘆き」だろう)。ヴェルディの「椿姫」と「オテロ」、あとはプッチーニの歌劇のアリア集程度しか聞いたことのない私が、なぜかこの作品を初めて聞いて、それなりに楽しんだことを覚えている。

後で知ったことには、「アドリアーナ・ルクヴルール」は結構有名なオペラで数々の名歌手が録音を残しており、その中には上記のフレーニやスコット以外にもレナータ・テバルディ、モンセラット・カヴァリエといった錚々たる顔ぶれが並ぶ。多くの役をこなした世界的ソプラノ・スターが、やがてどうしても歌いたくなる作品、それが「アドリアーナ・ルクヴルール」とのことである。そして今回、METでその番が回ってきたのは、アンナ・ネトレプコだった。18世紀パリに実在した大女優の役と聞けば、世界中のヒロイン役を欲しいままにした人物が惚れる作品だということだろうか。

10年以上が経ったMET Liveシリーズに初登場した「アドリアーナ・ルクヴルール」は、その顔ぶれが豪華である。主題役のネトレプコに加え、アドリアーナと女性同士の熾烈な争いを繰り広げる恋敵のブイヨン公爵夫人にメゾ・ソプラノのアニータ・ラチヴェリシュヴィリ、二人が争う美男のザクセン伯爵マウリッツィオにテノールのピョートル・ベチャワという布陣。今やイタリア・オペラを歌える歌手は、みなロシア・東欧系になってしまった。一方、重要な役割を担う劇団の舞台監督ミショネはバリトンのイタリア人、アンブロージョ・マエストリである。マエストリと言えば、「ファルスタッフ」の当たり役というイメージが強い実力派である。

読む年齢によって小説の見方が変わるように、オペラ作品もまた年齢によって見方が変わる。若い頃は「椿姫」の「ある日、幸運にも」(アルフレードが第1幕で歌うアリア)などを聞いては胸を締め付けられていたが、今ではミショネの密かな恋心と、温厚で優しさを湛えた心情に心を奪われる。彼は第1幕で自分がアドリアーナの相手にはならないことを悟ると、独白「さあ、モノローグだ」で複雑な感情を吐露するものの、以降この劇には何かと出続け、いつもアドリアーナに寄り添うことで思いを保とうとする。その初老ゆえの知恵とで言うべき行動は、作曲者チレーアの投影ではないかと書かれている(音楽之友社「スタンダード・オペラ鑑賞ブックⅠ~イタリア・オペラ(上)」)のを読んで一層親近感が増した。

ストーリーは一人の男性を巡る二人の女性の鞘当てと書けば単純だが、見た感じでは随分複雑である。だが私はここで、この作品を金曜日の夜に映画館で見たときの状況を正直に告白しなければならない。2月に入って体調を壊し気味だった私は、仕事が終わってから3時間余りにもわたって映画館に座るだけの体力がないことは明らかだった。それでもこの作品は見ておきたい。この機会を逃すわけにはいかないので、私は迷った挙句、結局東銀座の駅から東劇へと歩いて行った。パンを二つ買い込み、インタビューの時間などに食べていると、予想通り睡魔が襲ってきた。

最近のMETライブには珍しく、どういうわけか客の入りが良くない。これほどきれいな歌に満ちた作品なのに意外であった。けれども音楽を子守歌にうとうととするには好都合だった。第1幕でネトレプコがいきなり有名なアリア「私は芸術の卑しい僕」を歌ったのを最後に、ほとんど記憶がない。途中、第2幕との間も切れ目なく上演されたため、私が目を覚ますのは、アドリアーナとブイヨン公爵夫人が対決する壮絶な二重唱(第2幕の幕切れ)だったのだ!おかげでこの作品のもっとも複雑な部分、すなわち政治的な理由でマウリッツィオが公爵夫人に取り入る部分をすっ飛ばして理解することとなった。

第3幕はフランスを舞台にしたオペラらしくバレエも挿入されるものだが、ここの音楽「パリスの審判」はほのぼのとしたもので、劇中の舞台で演じっれると古風でこじんまりとした感じ。チレーアの音楽は他の作曲家の作品と比べても、どことなく決定打に書ける感じがする。そんな微妙な不足感が実はこの作品の魅力で、私が学生時代に「ながら勉強」しながら聞き続けた理由もあるような気がする。つまり、何となく聞いているオペラとしては実にうってつけなのである。ヴェルディのように高カロリーではないし、プッチーニのように胃にもたれることもない。おかげで特に心に残るメロディーがあるわけでもないし、クライマックスと呼べるようなドラマチックな場面も少ないにもかかわらず、十分に抒情的で時に歌手が、感情的に変化して急に高らかに歌い始めるあたりは、イタリアにおけるオペラの大衆演劇という側面をにわかに表す。

アドリアーナがマウリッツィオに贈ったすみれの花が、よりによってなぜかアドリアーナに届けられ、恋人から絶縁されたと嘆くアドリアーナ(そういうシーンにも常にミショネは登場する)のもとへ、やっとのことでマウリッツィオが戻って来るが、彼がアドリアーナと愛の二重唱を歌う時には、ブイヨン公爵夫人が偽って届けたすみれの花に染み込まされた毒がアドリアーナに回り、彼女は痙攣を起こしながら死に絶えてゆく。

劇団コメディ・フランセーズの人間模様がこのオペラのまたひとつの側面だが、女性の嫉妬による恋敵の毒殺という劇的な要素が絡んでいる。それも歌が適度に心地よく、いわばオペラの典型のような作品だと思う。そんな作品を劇中劇として再現し、舞台の中の舞台に人間関係を表現したデイヴィッド・マクヴィカーの演出は見事だと思った。彼はまたインタビューで、本作品の本質的な要素として、真実と嘘の境界がわからなくなる点だと述べていたような気がする。第3幕の後半で、バレエを見る客席に座っていたアドリアーナと公爵夫人が、いつのまにか感情をむき出しにして歌い始める時、視点は舞台の中から外に飛び出る。「道化師」の先駆けとも言えるような設定が、ことのほか生きてくるのだと思った。

ヴェルディの後、プッチーニに向かうオペラ史の中で、ヴェリズモ的要素をほのかにたたえつつも、フランスらしい抒情性を持ち合わせた作品。指揮のジャナンドレア・ノセダは、昨年N響の定期を振った引っ張りだミラノ生まれのイタリア人で、長らくトリノの歌劇場で活躍してきた経歴を持つ。彼は煽るタイプの指揮者で、ちょっとムラがあるというか、その時によって印象が随分と異なる印象がある。けれども今回の上演では、オーケストラから力強い表現を引き出していて見事だった。


(注)「オペラ・アワー」を始めとするNHKのクラシック番組を長年担当した後藤美代子アナウンサーは、 2017年逝去されていたようだ。「オペラ・アワー」に代わる番組は今でもあるようだが、まだ音楽メディアが少なかった頃の、心をときめかせてくれたFM番組で聞くクラシック音楽の時間が、名実ともに過去のものになってしまったような寂寥感に見舞われた。

2019年2月17日日曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(The MET Live in HD 2018-2019)

暗い舞台の真ん中にベッドが置かれている。前奏曲の冒頭から、そこにはヴィオレッタが横たわっていて、肺病に苦しんでいる。これから起こる出来事は、すべてが回想である。前奏曲が終わると一転、華やかな舞台に登場するパーティの参加者たち。色とりどりの衣装を着た人たちが、グラスを片手に歌いだす。

ミュージカルで有名な演出家がオペラを手掛けることが、ここ数年のMETの潮流になりつつある。その賛否はともかく、トニー賞を受賞した気鋭の演出家、マイケル・メイヤーのカラフルで豪華な舞台は、多くの聴衆がこの作品に抱くパリの豪邸とそこに集う人々のイメージをそのまま再現している。若干、アメリカ的趣味ではあるとしても。

私はこの舞台を見て、あの名作、フランコ・ゼッフィレッリの映画を思い出した。その冒頭のシーン、どんよりと曇ったノートルダム寺院の無音部分が終わると、一人の少年が美しい女性の肖像画に見とれるシーンから始まるのだ。テレサ・ストラータスの演じるヴィオレッタは、咳込みながら迷宮に迷い込む。聞こえてくる歓声に戸惑いながらも吸い寄せられ、一気に社交界の花形の舞台に躍り出る。困惑する間もなく、あれよあれよといううちに現れるアルフレード、そして二重唱。すべてが夢の中で繰り広げられる魅惑の日々。私がオペラと言うものを初めて経験し、そしてノックアウトされたその映画については、かつて何度か触れた。

METのライブ・シリーズとしては何度目かだが、新演出にしてヤニック・ネゼ=セガンを芸術監督に迎えてのデビュー作品となる「椿姫」にヴィオレッタ役として起用されたディアナ・ダムラウは、幕間のインタービューで何とこの映画について触れている。彼女もまた若干12歳だったかの頃、オペラを初めて体験したのがこの映画だったというのだ。彼女がその後、世界的ソプラノ歌手に登りつめるきっかけと成った作品が、私も大阪・梅田の小さな映画館で、ある雨の降る日に見たのと同じ作品だった、というわけだ。虚無と焦燥に満ちた日々。そこに出現した「トラヴィアータ」という作品。この映画が私に与えたインパクトは強く、以降、私が「椿姫」を見るたびにどうしても頭から離れられない作品なのである。

このインタービューによって、俄然私の今日の作品を見る目が変わった。それまで何となく締まりのないものに感じていた今回の公演が、目に見えて良く思えて来たのだった。ダムラウのヴィオレッタは、演技と歌ががっぷりに組んだ見事なものだったが、特に第3幕での演技は圧巻である。もうほとんどの歌が空で歌えるくらいに聞いてきたと言うのに、どうして何度見ても見入ってしまうのだろうか。誰がどう演じたとしても、ここの第3幕、すなわち前奏曲とアリア「過ぎ去りし日々」そして「パリを離れて」は、あらゆるヴェルディ、いやオペラ作品の中でも右に出るものはない、とさえ思う。自らの肖像画の入ったペンダントを渡し、「清らかな乙女が 貴方に心を捧げたとしたら、 その人にこの絵姿を渡してください」と伝えるシーンを、涙なくして見ることはできようか。

全体にカラフルな新鮮味はあったものの、聞きなれた「椿姫」の総合的な印象というものを覆すことには重点は置かれず、むしろイメージ通りの進行に合わせる今風の保守性を感じる結果となった。そのことで私を少々がっかりさせたが、ダムラウを始めとする出演陣は、フレーズの中から、それまで意識されていない部分を探し出し、スポットライトをてようと努力していたように思う。そのことが成功したかどうかは、わかりにくい。ただ、ダムラウの歌のフレーズの一つ一つが、そういったこだわりのある新鮮味を持とうとしていたことは感じられた。

いやむしろ驚いたのは、クイン・ケルシー演じるジェルモンである。彼ほどヴェルディを感じさせる歌唱をジェルモンに与えたことはない。特に「プロヴァンスの海と陸」を歌った頃からだったと思う。この有名なアリアが、これほど見事なヴェルディ・バリトンによって歌われたことはない。その容姿を、もっと威厳のある父親風に仕立てれば、完璧だった。これは衣装の担当であるが。もしかすると、今宵もっとも成功していた歌手は、ケルシーだったかも知れない。

ヴィオレッタとアルフレードが別々にパリに舞い戻り、フローラの館で催される舞踏会が始まるシーンは、私がもっとも好きな部分だ。次々と現れるバレエ・ダンサー、そして賭けのシーン。心臓が高鳴り、緊迫感を出すこのシーンは、手に汗を握るほどである。そして私はまた、ゼッフィレッリの映画を思い出し、涙さえも禁じ得ないのだ。

今回の演出では、久しぶりにちゃんとバレエが楽しめた。しかしネゼ=セガンの指揮は、なんとなくぎこちなく、丁寧でしっかりとはしていたが、あのヴェルディの迫力を感じることはなかった。この指揮者は、もっと流麗で小気味いいテンポの演奏をするものと思っていたが、そのあたり少し意外である。

アルフレードを歌ったペルーのテノール、フアン・ディエゴ・フローレスは、ベルカント・オペラの第1人者ではああるが、そのやや能天気なまでの白痴性が、アルフレードの直情径行でプライドの高い人物像とあまり相性がいいとは言えない、と思った。歌としては完全だが、存在感がないのだ。彼はやはりドニゼッティやロッシーニにおいて真価を発揮すると思う。だが、このオペラの主役は、一にも二にもヴィオレッタである。そのことを考えれば、フローレスのアルフレードもまあ許容範囲ではある。

総じて及第点の舞台も、終わってみればそれなりに見どころは多く、楽しめたことは違いない。だけど、あのヴェルディのゾクゾクするようなリズムとメロディーがやや後退し、変わって万人受けする舞台と予定調和的な演出が、どことなくネット文化主流の今風の時代迎合的に見えてしまうのは残念である。世界的に、こんな風な舞台が主流になってゆくのだろうか。

2018年9月3日月曜日

プッチーニ:歌劇「トスカ」(The MET Live in HD 2017-2018)

「トスカ」は過激な歌劇である。嫉妬深い歌姫と純情な画家の青年、「歌に生き、恋に生き」や「星も光りぬ」のような有名アリアというところだけ見ると、とても美しい物語のように思えてくる。しかし音楽は冒頭からドラマチックであり、凝縮された人間ドラマがわずか2時間足らずのうちに劇的に進行し、音楽は結構賑やかである。私が初めて見た歌劇こそ、ローマ・カラカラ浴場跡での「トスカ」だった。ローマで見た「トスカ」は私の一生の思い出でもある。

最終シーンでトスカが飛び降りるのは、サンタンジェロ城である。ここはテレべ川のそばに立っていて、屋上からはバチカンにそびえるサン・ピエトロ寺院が目の前にある。ローマ市内を一望すれば、ここが中心であることもわかる。城はかつて監獄としても使われたが、今では観光名所となっている。もちろん屋上に出て写真を撮ることもできる。ここの屋上で、カヴァラドッシは銃殺される。芝居だと思っていたにもかかわらず実弾が込められていたのだ。舞台は急展開を見せる。悪党スカルピアを暗殺し、通行証まで手に入れていたトスカは、悲哀に暮れる間もなく駆けつける兵隊たちに取り囲まれ、とっさに城の屋上から投身自殺を図るのだ。

この他にも見せ場は多い。第2幕では拷問のシーンとスカルピア暗殺のシーンが、迫真の演技を持って展開される。音楽は起伏に満ち、一挙手一投足にも興奮する。第1幕では何といっても大聖堂のテ・デウムのシーン。幕切れで歌われる聖歌と、それに混じる脱獄者を追う警視総監の悪態、トスカの嫉妬とカヴァラドッシの友情、そういった様々なものが混然一体となって舞台を盛り上げる。

「トスカ」の魅力を語りだすときりがないが、これほどにまで完成度が高く、見事なオペラは「サロメ」くらいしか思いつかない。プッチーニの歌謡的なメロディーと、セクハラ・パワハラが満開の下劣なストーリーも、どういうわけかその中に入り込んで見入ってしまう自分がいる。第1幕にだけ登場するアンジェロッティを含め、主要な登場人物は全員壮絶な死を遂げる。

METライブの「トスカ」は、約10年ぶりの新演出だった。演出はデイヴィッド・マクヴィカー。指揮はフランス人、エマニュエル・ヴィヨーム。「トスカ」の演出なんて、どうせ陳腐な安物かと思うと期待を外す。丸で映画のシーンを見ているように美しい各幕の情景は、この歌劇のそもそものイメージ通りである。思えば音楽自体はあれほど原典回帰が盛んなのに、どうして演出だけが凝った、時には考えすぎのもので溢れているのだろう。今回のMETの「トスカ」は、そんな最近の演出重視の風潮に、程よい冷や水を浴びせた。

歌手が素晴らしい。警視総監のスカルピアを歌ったバリトンのジェリコ・ルチッチは、本役のいわば定番で、安定した悪徳ぶりは見事なものだが、主役の二人は、何とこの舞台がデビューだそうだ。カヴァラドッシを歌うイタリア人ヴィットーリオ・グリゴーロと、トスカ役のソプラノ、ソニア・ヨンチェヴァである。二人ともこの役になりきり、心から役を演じることを楽しんでいることがわかる。
 
特にグリゴーロは、何十年もカヴァラドッシを歌いたいと思っていたらしく、今回の出演への意気込みは相当なものだったようだ。幕間のインタビューからもそれは手に取るようにわかるが、第3幕の冒頭で歌う「星も光りぬ」が、これほどまで見事だったことは私の経験でもない。どんなに眠く、集中力を欠いていても、ここのアリアが聞こえてくるとき、グリゴーロの歌声は満点の星空にこだまし、それはまるでローマ市内に轟くかのようだ。

聞きなれた音楽、見飽きる程何度も触れたストーリー、「またもトスカか」などと半分冷ややかに見始めた舞台は、細部にまでこだわった舞台と迫真の演技、それに胸に迫りくる歌に触れて行くうちに見入ってしまい、あっというまの2時間だった。


※写真は1994年に訪れたサンタンジェロ城と、その内部から見たローマ市内。同じ風景が今回の舞台でも再現されていた。

2018年9月2日日曜日

ロッシーニ:歌劇「セミラーミデ」(The MET Live in HD 2017-2018)

「セミラーミデ」のストーリーは複雑だ。舞台進行にとらわれずに書いた方がわかりやすい。15年前に、王族のアッスールを国王にするという約束で、夫である国王を殺害したバビロニアの王女セミラーミデ(超技巧が要求されるソプラノ)は、王の後継者(つまり新しい夫になる人物)に、かねてから好意を抱いていた若き軍人アルサーチェを選ぶ。ところが彼こそが、国王の死の直前に復習を託された息子(はすなわち、王女の息子でもある)だった!アルサーチェは、父親(前の国王)の信託に従って復讐を遂げるが、殺したのは何と母親セミラーミデだった!過去のしがらみを断ち切り、無事アルサーチェは新国王に就任する、というところでハッピーエンド。

上記はあらすじの骨子ではあるが、実際にはここにアゼーマ姫(あまり歌わない美女)に対する三角関係が絡むのでややこしい。アルサーチェ(ズボン役でメゾ・ソプラノ)と暗殺の首謀者アッスール(バス・バリトン)、それにインドの王イドレーノ(超高音を轟かせるテノール) がみなアゼーマ姫と結ばれることを望んでいる。当のアゼーマ姫は、アルサーチェを希望しているのだが・・。

「セミラーミデ」の序曲は長い。かつて良く聞いた序曲集では、必ずと言って取り上げられていた本曲の充実ぶりはちょっとしたものである。だがその曲が、こういうシーンで使われていたのだ、と初めて知った。序曲を聞くだけでは区別がつかないロッシーニのオペラ・ブッファとオペラ・セリアは、いずれも美麗で耳をあらわれる洗われるようなメロディーと、めくるめくクレッシェンドの連続である。違いは実際に笑いがあるかどうか。歌われる歌詞がどんなに悲劇的な内容でも、音楽だけを聞けばその違いはあまりない。

「セミラーミデ」の歌は物凄い。この作品は、そもそも歌う歌手がそろわず、なかなか上演されることがない。本格的に上演されたのは1990年になってのことで、その偉業を果たしたのがMETということらしい。ところがそのMETでも本作品を上演するのは1993年以来らしい。演出は同じジョン・コプリー。第1幕だけで3場面あり二時間。さらに第2幕は第6場まであって1時間半。その舞台は、なかなか見ごたえのある豪華なもの。音楽同様、重厚で、見せる!

さて、主役のセミラーミデは、アンジェラ・ミードというアメリカ人の大柄な女性だった。彼女はまさにこの役のためにいるのではないか、というようにピタリとはまっている。 いくつかあるアルサーチェとの二重唱(第1幕第2場「その愛を永遠に」、第2幕第4場「よろしい、さぁ、手を下しなさい」)は息もピタリと合って、聞くものをゾクゾクさせる充実ぶり。アルサーチェの役に果敢に挑むのは、エリザベス・ドゥショングという小柄な歌手。彼女は美しい声の持ち主だが、ここでは男性の役なので威勢よく振る舞う。小柄なこともあって、恋敵のアッスール(ロシア人のイルダール・アブドラザコフ)、高僧のオローエ(アメリカ人のライアン・スピード・グリーン)、それにセミラーミデに囲まれるとまるで子供のようだが、実際、セミラーミデの息子なのだからわかりやすい。

もっとも拍手が多く、圧巻の出来栄えはインドの王子イドレーノを歌ったメキシコ人ハヴィエル・カマレナだった。彼はフローレス等と並び称される超高音テノールの一人だが、ここでの役の決まり方はその容貌も含め満点で、私はフローレスよりも一枚上手のような感じがしたくらいである。このイドレーノは、物語の主たる内容とは関係なく存在しているように感じるが、歌だけは滅法素晴らしいものが使われており、見る者を飽きさせない。

ロッシーニの音楽の充実ぶりは、この作曲家をして野心的とも思わせるくらいに見事で、その序曲の気合の入れようからも端的にわかるが、次々と繰り出される重唱にこそ、その真骨頂があると思う。これだけ長く、かつ見どころの多い作品を統括するのはさぞ大変だろうと思う。だが指揮者のマウリツィオ・ベニーニは、少し早めにテンポを取り、緊張感を持続させながら、次から次へと的確に音を繰り出してゆく。ベルカント作品を指揮するMETの常連の手腕は、ここでも見事のひとことに尽きる。

映像はしばしば指揮者と、それに呼応する木管楽器奏者の技巧的なソロ・パートを映し出す。場面の転換で最初に弾かれるフレーズは、歯切れよく緊張感を持ちながら、流麗さを失わない手さばきである。オーケストラピットと舞台を行き来するカメラワークもまた、この作品の見どころだった。

私にとってはロッシーニのオペラ・セリア体験の2回目だった。そして完全に打ちのめされたと言ってよいだろう。METライブ・シリーズで私が得た最も貴重なもののひとつは、このようなベルカント作品への開眼だった。我が国はおろか、世界でも滅多に上演されない作品を、このような歴史的高次元で体験でき、かつそれが邪魔にならない日本語字幕と、細部まで捕らえたカメラによって実感できる。それは、この時代に生きていてよかった、とさえ思わせるに十分なものだった。

2018年8月18日土曜日

ベッリーニ:歌劇「ノルマ」(The MET Live in HD 2017-2018)

ノルマはポッリオーネを巡るアルダジーザとの「女の闘い」に敗れたのかも知れない。だが彼女は最後、自らの命を絶つことによって、この身勝手なローマの将軍の愛を手に入れた。二人の子供を父親に託して。

古代ローマが支配するガリア地方の森に宿るドイルド教徒の巫女長ノルマを主人公とするベッリーニの歌劇「ノルマ」は、ベルカント・オペラ最高の作品であると言われている。私もMETライヴでロッシーニ、ドニゼッティ、それにベッリーニの主要な作品に接してきたが、とうとう最後に「ノルマ」を見る時がやってきた。そしてその舞台は、この上演史の一角を争うであろう高水準のもので、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。自らケルト人の血を引くという彼は、舞台いっぱいに森の中を再現し、その舞台が上下にスライドするとノルマの家が現れる。ノルマは木の根の下に住んでいるのである。

暗い舞台は最終シーンになるまで暗いままである。だがカルロ・リッツィによって指揮されたオーケストラの、時には溜を打って歌手に合わせ、時には推進力が明るいメロディーに溶け合う見事な伴奏によって、めくるめくようなアリアや重唱のシーンが、飽きさせることなく次々と展開していく。特に第2幕に至っては、この間奏曲から最後の瞬間まで、丸でヴェルディの音楽ではないかと間違うほどドラマチックな力強さに溢れる様は鳥肌が立つほどで、この音楽が後の作曲家に与えた影響は大きなものだっただろうと想像させるに難くない。

実は私は昨年の11月に、この公演の模様が上映されたときに一度見ている。この時の内容があまりに素晴らしかったので、今回、もう一度会場へ足を運んだのである。METライヴの作品はもう80作品以上見てきているが、2回見たのは初めてのことである。それくらい私は打ち震えるような感動を味わったし、このブログも最初ではなくアンコールの際にもう一度見てから書くと決めていた。半年以上が経って改めて見ていると、半分は忘れていたものが蘇り、また半分は新たな発見をすることとなった。この間、私はマリア・カラスが歌うこの作品の歴史的名演奏をWalkmanに入れて持ち歩き、幾度となく耳にしてきたというのに・・・。

「ノルマ」は、少し聞くだけでとても完成度の高い作品だと思う。序曲を聞くだけで劇全体を覆う様々なメロディーが登場し、それらが要所要所の歌の旋律を思い出させてくれるので、ここを聞くだけで期待が高まるのだ。まず登場するのは長く圧制に苦しむドルイド教徒たちだが、その合唱に続き、まずはポッリオーネ(マルタ人のテノールのジョセフ・カレーヤ)がアリア「彼女と共に」でリリカルな歌声を披露することから始まるが、ここからしてぞくぞくする。ローマの将軍の彼はこれまで敵方の巫女ノルマと通じ合っていたが、今ではその愛も醒め、あろうことか別の巫女の見習いである若いアルダジーザ(メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート)に好意を寄せているのだ。

やがて民衆の期待に応えてノルマ(アメリカ人ソプラノのソンドラ・ラドヴァノフスキー)が登場し、イタリアオペラの中でも最高のアリア「清らかな乙女」を歌う。登場していきなり、実力が試されるのだ。以降、ノルマはほぼ舞台にずっと出ずっぱりで、その歌も重唱が多く、難易度が高い。今回の演出は、そこに演技の様子まで加わるのだから、彼女曰く「ブリュンヒルデを3回歌うよりも難しい」とのことである。最高難度の役というわけだ。

ノルマというとマリア・カラスである。カラスの歌うノルマの録音は、正規録音が2種類、実況録音もあるが、モノラルの実況盤が歌に関しては最高らしい。もっとも私は共演者も含めた総合点で、セラフィン指揮のスタジオ録音盤(後年の)を持っているが、ラドヴァノフスキーの歌声はカラスにはあまり似ていない。むしろジョーン・サザランドのような系統ではないかしら。こちらもパヴァロッティなどと共演した録音があるので、一度聞いてみたいと思っている。

アダルジーザはノルマよりは低い声で歌われるが、存在としてはむしろ若くて純粋な性格付けがされている。ノルマも去ったあとで、彼女は短いアリアを歌い、これで主役3人のお披露目が終わる。 そしてここからは第2場を通しても、重唱の連続である。第1幕後半のノルマとアダルジーザの丁々発止のやりとりに、ポッリオーネまでが加わって舞台は緊張と興奮の中で進行するのだ。第2場の舞台は、(この演出版では森の地下にある)ノルマの家で、二人の子供が登場し、見る者の心にノルマの悲劇的な気落ちが伝わってくる。

第2幕になると、舞台はいよいよ緊張を高めて行く。ノルマはポッリオーネとの恋に破れ、このままでは二人の子供がローマで悲劇的な生活を強いられると予想し、子供を死なせようとまで思い詰めるのだ。だが彼女にそれはできない。そればかりか、アダルジーザに対する憎悪をむき出しにして、揺れ動く彼女の心情が千変万化する。面白いのはベッリーニの音楽が、登場する立場の違う二人によっても同じ旋律で歌われることだ。歌詞は違うが、このような歌をただCDなどで聞いていると、綺麗な歌に聞き惚れているだけで、その中に潜む対立がよくわからない。映像で見る「ノルマ」は、そういう意味で耳で聞くよりも何倍もよくわかる。

ノルマとアダルジーザの心理変化は、長い二重唱のテーマである。ラドヴァノフスキーは何度もノルマを歌っているそうだが、ディドナートは今回がこの役のデビューとのことだった。インタビューではディドナートは、ラドヴァノフスキーの「胸を借りて」演じていると答えていたが、力が入りすぎていて、もしかしたらノルマよりも力強い表現だったと思う。もっとも若いアダルジーザの方が、いまやポッリオーネの心を掴んでいるのだから、その方が現実味がある。ただ、ノルマが感じるほどにアダルジーザは悪意はなく、むしろ清らかで純粋な存在だと私は思う。この二人の表現の違いをどう解釈し、舞台に求めるかがこのオペラに対する好みや評価の中心だろう。

最後には二人の子供をアダルジーザに託し、自分は諦めると決心するノルマに対し、アダルジーザも自分こそ身を引くと言い張る。あるいはアダルジーザがポッリオーネを改心させると言い残し、ポッリオーネの元に走るも説得が効かないことを告げられ、再びアダルジーザに憎悪を抱く、といった有様で、女性同士の心情の対立はもつれにもつれる。どちらの役も一方より弱いと、この丁々発止の場面はうまくいかないだろう。だが今回の上演は、見事につきる。歌声が絡み合い、その歌詞とは別にめくるめく陶酔のシーンに事欠かない。

最後になって、いよいよ裏切られたノルマはローマ軍への蜂起を決意する。高僧の悪露ヴェーゾ(バスのマシュー・ローズ)が歌うただ一つのアリア「テレべの不当な圧制に」は重量感が溢れ、合唱との対比や掛け合いなど、ヴェルディの作品に受け継がれた要素が多く見受けられる。二人の子供を彼に託すよう説得すると、彼女は自ら犯した罪を認め、生贄になることを宣言する。捕らえられたポッリオーネは、もはやノルマに対して改心し、自分も死をもってノルマへの愛情を示すとき、ノルマの心はアダルジーザに対する憎悪も消え、純粋で気高い心が高らかに歌われる。

ヴェルディはこのオペラからどれほど多くの影響を受けたのだろうと思いながら、ずっと舞台に見入っていた。日本では「ノルマ」を始めとしてベルカント・オペラを見る機会が少ない。これほど難易度の高い歌を歌える歌手は、そう多くはないのだろうと思う。だからMETライブは貴重な機会と言える。直前の「魔笛」に比べると客席は閑散としており、そのことが一層、何かとても贅沢な時間を過ごしていと感じながら過ごした3時間半だった。

2018年8月15日水曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD 2017-2018)

後に結婚することになる今の妻と初めてデートをしたのは、今から23年前の12月、ニューヨーク、リンカーンセンターにあるメトロポリタン歌劇場でのことだった。見たのはモーツァルトの歌劇「魔笛」。土曜日の夜の公演で、前から行こうと思っていた公演に彼女も来たいと言う。しかしチケットがない。当時普及し始めていた携帯電話を持って早めに会場へ出かけると、年間予約席のキャンセル分を売るおばさんが話しかけてきた。さっそく彼女に電話をすると、すぐに来ると言う。私は即座に2階席の正面を2枚、合わせて270ドルだったが躊躇なく買った。

この時の公演の演出はグース・モスタートで、DVDでも発売されている1991年の映像と同じである(ただ歌手はすべて異なる)。当時のプログラムを見て驚いたのは、何とルネ・パーペが脇役(弁者)で登場している!今ではドイツを代表する世界最高のバスのパーぺは、今回の映像でザラストロを歌っている。インタビューではこの公演だけのために、ニューヨークへ駆けつけたとのことである。そのザラストロは貫禄十分で、彼の右に出る者はいないだろうと思わせる。

モスタートからバトンタッチされた次の演出が、今回も見たジュリー・テイモアによるものだが、彼女の演出は、その出世作であるミュージカル「ライオン・キング」と同様にファンタジックで無国籍。決して下品ではなく、巧みに表現されているとは思うが、私はあまり好きにはなれないところがある。どうしてだろう。操り人形や仮面が随所に現れ、回転舞台には無機的な建造物が時折現れる。ザラストロの出てくるシーンは黄色く対象的で、夜の女王は赤のイメージ。一方、パパゲーノは鳥刺しらしく緑。

主役のタミーノなど厚化粧をした顔つきは、何か中国の劇に出てくる道化師のようでもあり、それが私の違和感を誘うのかも知れない。あまり高貴な感じがしない。一方、鳥や熊など多くの動物が登場するが、それらを含めて無国籍で毒がないのである。モノスタトスにしてもコニー・アイランドのポップコーン屋みたいな感じ。まあ、最初からそういう感じがしていたから、あまり期待をせずに、いつもは座らない後方の出来で、遅い昼食を取りながら鑑賞していた。

すると、三人の侍女が歌っているところからいきなり睡魔に襲われた。私は何も抵抗せず1時間弱に亘って眠りについた。この間に夜の女王のアリアも聞き逃してしまった。気が付くと舞台に登場した奴隷たちが音楽に合わせて踊りだす、グロッケンシュピールのシーンだった。もう第1幕の終わりも近い。だが、この睡眠のおかげで、その後のシーンには冴えた頭で映像を見ることとなり、第2幕でのモーツァルトの歌と音楽は、私を心の底から感動させた。

思えば第2幕をここまで注意深く見たのは、初めてではないかとさえ思うほどに、それぞれのシーンが印象的であった。実際には何度も見ているのだが、「魔笛」自体を通して見るのは何十年ぶりかであるから、まあそういうものだろうとも思う。しかし知れば知るほどに深みの増すのが、オペラという芸術である。

歌手は、ザラストロを歌ったルネ・パーぺ以外はあまり有名でない。けれども総じて高水準で、実力派揃いだったと言える。主役のタミーノは、アメリカ人のチャールズ・カストロノヴォ(テノール)。相手のパミーナは、ゴルダ・シュルツ(ソプラノ)という人。彼女は黒人だろうか、その歌声には力強さがあり、どこかキャサリーン・バトルを思い出す。またパパゲーノはオーストリア人のマルクス・ヴェルパ(バリトン)という人で、演技も上手い。パパゲーナは、最後まで仮面を被っていてあまり歌わないが、アシュレイ・エマーソン(ソプラノ)、モノスタトスにはグレッグ・フェダレイ(テノール)という大柄な歌手。

さて本作品最高の見せ場は、キャスリン・ルイック(ソプラノ)の歌った夜の女王ではなかろうか。全部で12分しか出演しないという彼女が歌いだすと、舞台に一気に引き込まれ、その完璧な歌声は広い空間にこだまする。指揮は今年解雇された音楽監督ジェームズ・レヴァインで、キビキビとした指揮は車椅子に座っているとはいえ見事である。

荒唐無稽で安物の勧善懲悪ものという変な歌芝居であるにもかかわらず、「魔笛」が輝きを放つのは一にも二にもモーツァルトの音楽が人間業とは思えないほど圧倒的に素晴らしいからに他ならない。そのことについて、限りなく多くの人が語り、書き残している。第1幕の冒頭でタミーノが大蛇に襲われる時、わずか一瞬、ひとことのセリフで大蛇を退治する時の音楽の見事さ。最終幕でモノスタトスと夜の女王が消えてゆくその数秒後に、ザラストロの前で結ばれるタミーノとパミーナ。どの瞬間をとっても物語の展開の見事さとそこに付けられた音楽の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。どんな演出をしたとしても、この圧倒的な音楽の前では、霞んでしまうのではないか。それこそマジック、魔法の音楽である。

聞きどころについて語ろうとしても、全編が素晴らしいので語る術をなくしてしまう。昔から親しんできたオペラだけに、持っているCDや映像も数多いが、今ではアバドが指揮したモーツァルト管弦楽団のものが気に入っている。今年の秋には、新国立劇場で新監督に就任する大野和士がベルギーから持ち込んだ新しい演出で上演される。私はすでにそのS席のチケットを2枚買って、妻と出かける予定である。演出はMETライヴでも有名な南アフリカの美術家ウィリアム・ケントリッジで、今から大いに楽しみである。

2018年8月13日月曜日

チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」(The MET Live in HD 2006-2007)

広く高い舞台空間に、紅葉して赤や黄に染まった落ち葉が全面に敷き詰められている。この情景で季節は収穫期を迎えた秋の夕暮れだとわかる。けれどもそれ以外に、この場面を説明するものはない。地域も時代も。やがてそこでリンゴの皮を向く中年の女性たちが、「娘たちが歌っているわ、過ぎ去った昔にも、私がそうしていたように」とロシア語で歌う。時代背景については、その内容から次第に明らかとなっていく。夏のMETライブのアンコール上演で接したロバート・カーセンの演出によるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」は、10年以上も前の2007年の上演で、舞台上にほとんど何もない、というものだった。

やはりこの時期に制作されたウィリー・デッカーの「椿姫」を思い出すまでもなく、いわば流行の演出というものがあったのだろうと思う。登場人物の心理描写に焦点を当て、必要最小限の物体のみを象徴的に残したうえで、その他のものを大胆に排除するこのような演出は、最初の印象こそ刺激的ではあるものの、飽きが来やすい。そのためだろうか、METライヴで取り上げられた次回の「エフゲニー・オネーギン」は、新しい演出となり、舞台はわかりやすいロシアの田園風景に戻された。第2幕での決闘のシーンでこそ、登場する人物中心に焦点が当てられたが、第3幕では華麗な舞踏も披露され、一転華やかな舞台に高貴な女性へと変貌したタチヤーナの衣装が映えるものだった。

それに比べると、このような上演に接するには想像力を養う必要がある。常に頭を働かせ、歌詞の内容や音楽から、ありったけの知識を総動員しながら、登場人物の動機や心理を考えなくてはならない。それはつまり、大変集中力が要ると同時に、見ている者の知識の水準が試される。各人が同じ印象を抱く確率は、どうしても少なくなる。初めてこの劇を見た時に知り得た情景でさえ、私は思い出す必要があった。思い出すことができない場合(いや、初めてこの作品に接する人がそうだろう)には、一体どういうことになるだろうか。要するにあまりに情報量が少ないのだ。CDを聞きながら歌詞を追う時に働かせる想像力とも少し違う。なぜなら私たちは、舞台上の歌手たちを目で見ている。その表情はカメラが確かに捉えているのだから。

けだし不思議な感覚である。デッカーの「椿姫」は、もう来シーズンには登場せず、新演出となることが決まっている。音楽はそのままに舞台のみ解釈を変えるという上演は、そもそも総合的な芸術であるオペラにおいて、演出家のウェイトのみが大きくなるという弊害を伴っている。そのことをまず踏まえたうえで、聴衆が作品に一般的に期待するイメージを、私は大切にしてほしいと思う。なぜなら普通の、多忙で金銭的にさほどゆとりのない私のような聞き手は、一生にそう何回も同じ作品の上演に接することなどできないからだ。

前置きが長くなったが、カーセンの「エフゲニー・オネーギン」は、そのように私を少しがっかりさせた。第2幕がそのまま第3幕につながれ、有名なポロネーズの音楽に乗って見せられるのは、なんとオネーギンの着替えのシーンである。この最大の娯楽的数分間に、数年間の時代の遷移を想像するという努力をしなくてはならない。これは私にとって大いなるフラストレーション以外の何物でもなかった。

ただ事実としては、チャイコフスキーはこの作品を、小さな芝居小屋で上演するような演劇として作曲し、初演している。この演出は、そういう意図に沿うことを意識したのかも知れない。室内楽的な緻密さと繊細さによって、抒情的なメロディーは一層深みを増し、心理的な要素を強調する結果となる。もちろんそのことを可能とするだけの、歌手の技量を伴っての話である。嬉しいことにこの点に関しては、この公演はほぼ満点の出来栄えであった。もしタチヤーナをルネ・フレミングが、レンスキーをラーモン・ヴァルガスが、オネーギンをディミトリ・ホヴォロストフスキーが歌わなかったら、こういう結果にはなっていないだろう。

なぜ今夏、このような古い方の舞台をアンコール上演したのかは、想像の域を出ないのだが、おそらくは去年55歳の若さで死亡したホヴォロストフスキーを偲んでのことと思われる。彼はこの上演の後に脳腫瘍を患い、闘病を続けていた。まるでオネーギンを歌うために生まれてきたとさえ言えるような貫禄は、この舞台からも彷彿とする。一方、ルネ・フレミングのタチヤーナは、先に見た次のプロダクションで歌ったアンナ・ネトレプコがほとんど完璧といえるような歌と演技だったため、見劣りがするのではと少し心配だった。けれどもそれは、まったくもって杞憂だった。長い「手紙の歌」は、舞台に机とベッドだけ。それでも長時間、聴衆を釘付けにし、圧倒的な歌唱を披露した。私はこれほど上手いフレミングを初めて見たような気がした。

レンスキーを歌ったヴァルガスはメキシコ人で「ロシア人に見えない」などとインタビューで笑っているが、イタリア・オペラ風でもあるその歌い方にも違和感はなく、むしろ艶のあるテノールの美声は、決闘を前にして歌う「レンスキーのアリア」を始めとして聞くものを圧倒した。

さらに脇を固める3人の歌手は、これもまた見事であった。オリガのエレーナ・ザレンパは、熟練の味わいで、素朴ながら力強い芯のあるロシアの女性そのもの。ロシア語ともフランス語ともつかない奇妙な歌を歌って当時の上流階級を皮肉ったひょうきんな家庭教師トリケは、当時の歌謡曲を模して作曲されたというシャンソンを歌ってコミカルな雰囲気を醸し出し、舞踏会のシーンに彩を添えた。さらには終幕で、タチヤーナの夫となったグレーミン侯爵を、バスの重鎮とも言えるセルゲイ・アレクサーシュキンが歌い、ロシアの歌はかくあるべし、といった感のある安定したバスの歌唱で満場の拍手をさらった。

オネーギンは厭世的で、鼻持ちならない自尊心を持つ若い貴族だが、放浪の旅から帰って来てタチヤーナに出会うや否や、本当の恋に目覚める。立場が逆転する男女は、実際には今でも思い合っているのだが、タチヤーナの決然とした理性から結ばれることはない。フランス・オペラのように殺人事件になったり、イタリア・オペラのように心中したりもしない。タチヤーナは、(かつて自身がそうされたように)オネーギンに率直に絶縁を告げる。そこに復讐の意図はない。だからこの作品は、素朴な味わいが損なわれることなく終わる。オネーギンは、失恋してもなお、これは恥辱であるとプライドを隠さない。そのことが本作品の、もっとも印象に残るところだ。

この作品に溢れる抒情的なメロディーは、聞くものの心をとらえる。歌劇「エフゲニー・オネーギン」の序奏の出だしから、私はまだ見たことのないロシアの広大な情景へと誘われる。オペラの伝統のなかった国で、イタリアにもフランスにも負けないくらい美しい作品が誕生した。メロディーはそのまま単純に演奏したら何の変哲もない音階である。だがそこにメランコリックな表情をつけると、見違えるほど豊かな抒情性を身に着ける。幕間に流されたメイキング・ビデオで指揮者のワレリー・ゲルギエフは、そのことを一瞬のうちに示して見せる。その瞬間にチャイコフスキーの音楽の神髄に触れたような気がした。

2018年6月2日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」(The MET live in HD 2017-2018)

METライブ・ビューイングのサイトに音楽評論家加藤浩子が「しびれる」と書いていたのを見つけ、私は迷わず東銀座へ。松竹本社の3階にある東劇は、ここ数年演目次第では一日中、それも2週間に亘って上映し続けてくれることが多くなり、とても嬉しく思っている。そして実際、客はよく入っている。今回の「ルイザ・ミラー」もヴェルディの中では知られていない作品だが、観客の中に熱気のようなものが感じられる。

そしてその上映は「打たれた!」という感じ。あらゆる点において完璧な上演だったので、何から話せばよいのかわからない。まずいつものように指揮者のベルトラン・ド・ビリーが登場。オーストリア放送協会のオーケストラを振っていた時代、超特急の「ドン・ジョヴァンニ」だったかのCDを買った覚えがある。若い指揮者だったと思っていたが、今ではもう中年の指揮者である。

引き締まったリズムと集中力を欠かさないテンポの序曲を聞くだけで、私は一気にヴェルディの世界へ引き込まれてあいまった。クラリネットが悲劇の予感の旋律を吹く。序曲だけで拍手が鳴り響くのが嬉しい。そして間を置かず第1幕となる。最初から登場する娘と父親。娘のルイザはソプラノのブルガリア人ソニア・ヨンチェヴァ。プッチーニを良く聞いたと言う印象があるが、今回はヴェルディのベルカントとドラマチックの両方を必要とする難役に挑戦。しかし彼女の父親役であるプラシド・ドミンゴと来たら!

ドミンゴはもう何十年も歌っているMETのレジェンドだが、今ではバリトンの役をこなす。前にも書いたがドミンゴのやや霞のかかった低い声は、テノールよりもバリトンの方が似合っている。しかも声は衰えるどころか、ますます円熟味をを帯び、今回のミラー役で冒頭に発する声で、聴衆を完全にノックアウトした感じだ。

シラーの原作、舞台は17世紀のチロル地方。演出はエライジャ・モシンスキーで、忠実でああり、かつよく考えられた演出は言うことなしだと思う。自然にオペラの世界に入ってゆく。たとえ台本が滑稽で、話が急展開するものであるにもかかわらず、この音楽は紛れもなくヴェルディの魅力を余すところなく伝えている。

いや私は、後年の大作へとつながる多くの要素を、この若い頃の作品の中に見出すことによって、逆に中期以降の作品がいかに圧倒的な芸術性を持っているかを理解すすることができるし、それに比べるとやや粗削りではあるおのの、すでにヴェルディの音楽が爆発的に展開されている様を聞くことが、とても好きである。若きエネルギーが炸裂し、これでもかこれでもかと推進する音楽は、綺麗な歌声とドラマチックな展開によって、見る者をくぎ付けにする。初期の作品で、すでにヴェルディは大作曲家であった。

ドミンゴの貫禄のある父親は、今風のリベラルな父親にぴったりである。悲劇を予感し、実際にその渦に巻き込まれる悲哀を、ドミンゴで聞くことができるというのは2018年に生きているオペラファンに許された神様からの贈り物だろう。だがそれだけではない。主演者のすべてが決まっている。

まずミラーの相手役で、領主の息子ロドルフォは、ピョートル・ペチャワ。若い青年の初恋のみずみずしさと、破滅をも恐れぬ純粋な精神。やや向こう見ずで、悲劇的な心情を彼ほどぴったりと表現することができる人はいないのではないだろうか。テノールの声の持つ悲しさは、明るいイタリアの空が限りなく悲しいのに似ている。ロドルフォは若きドミンゴも歌った役だが、第3幕で彼はすでに運命を予感している。確信犯としてルイザに服毒させ、自らも死を選ぶ。

この作品は、二人の父親の物語である。そのことを象徴するように、ミラーとヴァルター伯爵は、自殺した二人のそばで顔を見合わせる。若い二人の結ばれぬ恋は、若さゆえに悲劇をもたらすが、それはまた冷静に考えれば、若気の至りとでもいうべきものに過ぎないとも思う。若者は諦めることを知らず、直進的に行動する。それがもたらす悲劇は、後の「トラヴィアータ」の下地となった。音楽的にもストーリー的にも、この作品は中期の先駆けとなる要素を持っている。

悪事を働くヴルムはバスのディミトリ・ベルセルスキーによって、彼がまた素晴らしい。この役は「オテロ」におけるイヤーゴの先駆けである。ヴルムは捉えられたミラーを助ける代わりに、自分を愛しているとルイザに偽りの手紙を書かせる。以降、手紙を書くシーンは「トラヴィアータ」でも象徴的に扱われ、チャイコフスキーは「エフゲニー・オネーギン」で長大なアリアを作曲するに至る。

第2幕で歌われるヴルムと、ヴァルター伯爵によるバスの二重唱は、このオペラの聴きどころのひとつである。ヴァルター伯爵は、バスのアレクサンダー・ヴィノグラドフで、役回りが容姿とピタリと決まっているし、低音を支えることがオペラの出来不出来を決しているような気がする。ヴェルディの実験は、ほかにもある。アカペラによる4重唱である。ここで、ロドルフォの許嫁で公爵夫人(未亡人)のフェデリーカはメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァで、彼女がまた違った持ち味の歌声が安定していて素晴らしい。彼女に伯爵、ヴルム、ロドルフォが加わる。

各幕の合間に舞台装置を入れ替えるため、上演はしばしば中断する。その度にカメラは大道具の入れ替え作業を映し出す。圧倒的な歌唱が続くときの興奮を、この時間が鎮めてくれるのはいいことだけれど、これほど完成度の高い上演を一気に見たい、とも思った。今回、映画館でアリアの度に拍手をする人が、何人かいた。私も心の中が、感極まって詰まりそうだった。もしかするとこれまでみたMET上映の中で、ベスト3に入るほどの出来栄えだったと思われる。

ヴェルディの重量感あるドラマチックな音楽に酔いしれ、美しいアリアに耳を傾ける。物語が心を打ち、喜びや悲しみが津波のように押し寄せる。娘を思う父と父を思う娘は、ヴェルディが生涯にわたって求め続けたストーリーだった。だがここにはもう一組の父子が存在する。伯爵とロドルフォは、父と息子の噛み合わない宿命的な関係を表している。このオペラは父親とは何か、と問いかける物語である。

2018年5月20日日曜日

モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(The MET Live in HD 2017-2018)

手元にカール・ベームがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」のCD(3枚組)がある。言わずと知れた本曲の決定版と称されるものだが、その輝きは半世紀以上たった今でもまったく色あせない。そればかりか、未だにこれまで聞いてきたどの演奏よりもよく聞こえる。これは不思議なことだ。

歌手の良さだけでこうなるとは思えない。歌手に限って言えば、以降に発売されたいくつかの演奏には優れたものが多い。スタジオ録音のアドバンテージも、この録音に特有のものではない。むしろ録音の古さという点で、このベーム盤は不利とさえいえる。にもかかわらず、ベームの演奏がいまなお輝きを失わないのは、それはんもうベームによる演奏であるから、ということに尽きるのではないか。

カール・ベームにしかできなかった自然体で、優雅な演奏は、古く良き時代の演奏とされる。だから近年はもっと新しい演奏をけけばいい、というわけで今となっては、別の演奏を薦める評論家も多くなってきた。私も他の演目ではそのように考えることが多いが、この「コジ・ファン・トゥッテ」に限っては、どうもこのベーム盤以外に相性の合うものに出会うことがない。

前置きが長くなったが、今回久しぶりに聞いたMET Line in HDシリーズの今シーズン8回目の演目は、モーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の新演出であった。この公演をどう感じ、どう評価するかについて考えるのは、なかなか大変なことだ。その理由は、これはこれで一つの「コジ」の今風な世界を表現することに成功しているにもかかわらず、かつての古風な味わいが、もしかしたら感じにくくなっているという点に戸惑いを覚えるからに他ならない。

演出はフェリム・マクダーモットという人。指揮がデイヴィッド・ロバートソン。以下、フィオリディリージ(姉)にアマンダ・マジェスキー(ソプラノ)、ドラベッラ(妹)にセレーナ・マルフィ(メゾ・ソプラノ)、グリエルモにアダム・プラヘトカ(バスバリトン) 、フェランドにベン・ブリス(テノール)、デスピーナにケリー・オハラ(ソプラノ)、ドン・アルフォンソにクリストファー・モルトマン(バリトン)。ケリー・オハラはミュージカルの歌手で、イタリア語でこの小姓役をこなしてはいるが、あの小憎らしい機知に富んだ利発さを感じることは少ない。真面目なモーテルのハウスキーパーである。

最も心に残ったのは、ドン・アルフォンソを歌ったモルトマンで、安定していて艶のある声は、フィガロなどにも向いていると思う。女声の姉妹は、共通的な声と、やや異にする性格をどう表現するか、とても注意深く選ばれているとは思うが、そのように考えれば考えるほど特徴がつかみにくい。二人の夫役もまたしかりである。歌声においては、欠点はなく、みな素晴らしいと言えるが、誰かが突出しているわけでもない。それがこの重唱だらけの歌劇の難しい点かも知れない。

結局のところ今回のステージの評判は、これが新演出であることに尽きるだろう。その内容は専らミュージカルを意識したもので、舞台は1960年代のコニー・アイランド。序曲が始まると舞台に設けられた玉手箱の中から道化師たちが次々と登場。彼らはみな英単語の書かれたカードを持っており、その組み合わせの文章でこの作品のテーマが予告される。序曲はオーケストラ音楽に耳を傾け、気持ちを舞台に合わせていくための時間と考えていると、意表を突かれる。早くも舞台では音楽に合わせたパフォーマンスが演じられているからである。このような演出は最近非常に多いが、今回は特に序曲を味わっている余裕がない。

舞台には遊園地とそこで人々を楽しませるサーカスの一団・・・蛇使いや炎の魔術師、剣を飲み込む道化などが登場。コーヒーカップや回転木馬も登場すれば、背景には観覧車のシルエットも映し出されている大変カラフルで動きが多い。言ってみれば読み替え演出のひとつだが、どちらかと言えば表面的で、心理の内面に踏みこむことのない保守的な演出であるとも思える。

港町ナポリののんびりとした光景と、そこで交わされるコミカルでたわいない会話・・・この「コジ・ファン・トゥッテ」のそもそもの持ち味は素朴なものだと思う。それを評論家は、自由を得た市民社会の到来と結びつけ、女性の人権に照らして蔑視されていると嘆くのは、そのこと自体が教条主義的な評論に影響され過ぎているのではないだろうか。けれども昔風の演出には新鮮味がなくなってきており、そのままでは3時間余りのこのストーリーを楽しませるだけの集中力を保持しえない、と今の演出家が考えるのも無理はない。

だからこそ私は、ベームのCDで聞く純音楽的な「コジ・ファン・トゥッテ」から離れることが出来ないのかも知れない。すなわち、そもそも荒唐無稽な舞台を今風のアレンジに置き換えたところで、所詮テーマは変わらず、音楽はひたすらモーツァルトそのものである以上、余計なことはやめて音楽に集中すればいい、という考え方である。私の「コジ・ファン・トゥッテ」に対するアプローチは、そういう意味で新しい境地に達することに失敗していることを白状している。その点は認めざるを得ないのだが。

なお今回の指揮のロバートソンは、大変な充実ぶりであった。それだからこそ、あまり凝った舞台にとらわれることなく、音楽を楽しめるものであれば、それでよかった、などと考えてみたりする。モーツァルトが描こうとした普遍的な人間心理は、どう表現されても同じである。むしろ音楽の豊かさに身を委ねていたい。そういうしっとりとした演奏は、古いCDでしか聞くことのできないものなのかもしれない。

2017年9月11日月曜日

モーツァルト:歌劇「イドメネオ」(The MET Livein HD 2016-2017)

モーツァルトの音楽人生を2つの時期に大別するとしたら、ザルツブルクでの生活(すなわち幼少期からのイタリアを始めとする欧州各地への旅行と、大司教に仕えることになる青年時代まで)と、単身ウィーンに乗り込んで、音楽史上初のフリーランス作曲家として活躍する後年の時代とになるだろう。

モーツァルトの有名なオペラ作品の大半は、後半のウィーン時代に作られたものだ。ダ・ポンテの台本による3部作は特に有名で、古い風習に囚われたオペラを人間味あふれるドラマとして構成するという前代未聞の試みをやってのけた。これはオペラ史における大転換となるのだが、そのモーツァルトもザルツブルクではまだ、貴族の依頼に基づく古い形式に則ったオペラを作曲し、いろいろ台本に注文をつけながらも、溢れる才能を注ぎ込んだ。

そのような作品の中の最高峰であり、かつ新しい時代へと向かう直前の作品である歌劇「イドメネオ」は、ギリシャ神話に題材を取った伝統的なオペラ・セリアで、まだバロックの名残りも感じられる作品である。モーツァルトの中では影が薄い方だが、今でも上演回数は比較的多いことから、この作品以降がモーツァルトの「聞くべきオペラ」ということになっている。

「イドメネオ」は実際、後年のモーツァルト・オペラの大躍進を窺う才気に満ちた作品だが、その音楽的充実とは逆に、生前わずか1回しか上演されなかったという(実際には後年ウィーンにて、ごく小さな部屋で私的に上演されたらしい。このあたりは「モーツァルト オペラのすべて」(堀内修・著、平凡社新書)に詳しい)。

西洋史がここから始まるとされているトロイア戦争でギリシャが勝ち、トロイアの王女イリアは囚われの身となっている。クレタ王イドメネオの息子であるイダマンテは、そんなイリアを愛してしまう。イリアもイダマンテを敵の王子と知りながら、その愛に応えようとして葛藤に悩む。だが、やがてクレタ王となるであろうイダマンテの妻の座を、アガメムノン王の娘エレットラが狙っている。こちらは味方だから、その地位に相応しいはずだ、というのである。

二人のソプラノ(イリアとエレットラ)、それにイダマンテ(メゾ・ソプラノ)を加えた3人が第1幕から聞きどころの多い歌を披露する。特にエレットラは起伏の激しいアリアを披露して「魔笛」における「夜の女王」を彷彿とさせる。いやその前に、何と充実した序曲が奏でられることだろう。グルックがもたらしたオペラの大規模化は、このようなところにもしっかりと現れている。

ある日、イドメネオは戦場からの帰途、嵐に合い遭難して死亡したとの知らせがもたらされる。だがこれは誤報で、実際には命からがら生きて漂着するのだ。そこに息子のイダマンテが現れる。最初はイドメネオであるともわからない。だが、よくよく話してみると父ではないか。生きていたことがわかるイダマンテは喜びに溢れるが、父のイドメネオを何故か息子を避けようとする。

その理由は第2幕で明確に明かされる。海の守り神ネプチューンが、イドメネオの命と引き換えに、最初に出会った人を生贄に差し出すことを約束させたからだ。父は自分の息子を殺すことになる運命を認めたくはない。イドメネオは考えた挙句、イダマンテをエレットラとともに出国させ、その場を凌ごうとするのだ。だがこれにネプチューンは怒り、嵐が起こる。

冷静に考えると単なる三角関係のオペラも、ネプチューンやら何やらで第2幕は聞きどころの多い音楽だ。アリアはバロックの風習に倣って繰り返しが多く、そのことが少し疲れさせもする。加えて今回Met Lineで上演されたジャン=ピエール・ポネルの古色蒼然とした演出は、動きが少ない上に舞台装置がほとんど変わらない。これは演奏がよほど上手でないと退屈だし、それにMetの舞台はこの時代のものを上演するには広すぎる。

それでも定評あるジェイムズ・レヴァインの指揮は、引き締まったところとメロディーを十分に歌わせる部分とをごく自然に使い分け、この作品の一時代を築いた演出を今なお新鮮に表現する。初めてレヴァインがこの曲を上演した時、イドメネオを歌ったのはパヴァロッティで、その時に今回イリアを歌ったネイディーン・シエラはまだ生まれていなかったというから驚きだ。

一方、エレットラを歌ったのはエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーで、このヒステリックで表現の幅の広さが要求される役を十分にこなしていたと思う。いやそれどころか最終幕で怒り狂うシーンは圧巻で、満場の喝采をさらっていたのが印象的である。また初演の際、カストラートによって歌われたイダマンテは、テノールではなくメゾ・ソプラノが歌う。つまりはズボン役だが、これがどうも見ていてしっくりこない。かといってテノールが歌うと、音域がイドメネオとバッティングしてしまう。このオペラの欠点のような気がしてならない(作曲は初演時の歌手を想定して進められたのが、その理由である)。

標題役のイドメネオはマシュー・ポレンザーニで、リリカルな歌声はこの高貴な役に今もっともふさわしいと感じさせるに十分である。聞きどころは重唱を含め数多いが、私たちはCDなどでパヴァロッティとどうしても比較してしまう。そのくらいこの役はパヴァロッティの当たり役だったのではないか。 そのパヴァロッティの歌うイドメネオは、今ではCDならプリッチャード指揮のウィーン・フィルで、DVDならレヴァインの指揮で味わうことが出来る。私もプリッチャード盤を持っているが、しかしながら、「イドメネオ」の他の演奏を知らないのも事実であり、この演奏が最高であるのかどうかはわからない。

第3幕でイドメネオはとうとうイダマンテを生贄として差し出す決心をしたとき、ネプチューンの声がこだまする。これは本日のMet Liveの進行役エリック・オーウェンズが歌ったようだが、舞台には登場しない。ネプチューンはイドメネオの退位とイダマンテの即位、それにイリアとの結婚を宣言し、舞台は一転ハッピー・エンドとなる。愛の勝利にひとり怒り狂うエレットラ。

このオペラのテーマは一見上記のように単純なように見える。だがそれですまされない要素がある。それはこのオペラが「父と息子」の関係を描いた数少ないオペラであるからだ。思えば、「父と娘」のオペラなら星の数ほどある。ヴェルディのオペラやワーグナーのタンホイザーなどがそうで、自ら二人の娘を失ったヴェルディは、すべての作品にこのテーマを追い続けたと言ってよい。その最高峰は「シモン・ボッカネグラ」ではないか。あの「椿姫」だって、ヴィオレッタをジェルモンの娘にするかどうかの駆け引きに重点が置かれ、アルフレードの存在感は薄い。

「母と娘」もある。ポンキエルリの「ジョコンダ」がそうである。また「母と息子」も探せばあって、「イル・トロヴァトーレ」がそうではないかと思いつく。もっとも実の親子ではないが。それに比べると「父と息子」はドラマになりにくい。いや「イドメネオ」におけるイドメネオとイダマンテの葛藤は、心理劇と言うには少し形式が古いのは事実だ。だがここに描かれる二人の関係は、そのままモーツァルト自身の親子関係が反映されているように思えてならない。

実際にモーツァルトは「イドメネオ」の上演が成功に終わると、そのままザルツブルクへは戻らずウィーンに出かけてしまう。とうとう親の反対を押し切って独立したのである。「イドメネオ」はもともとその1世紀前にパリで初演された劇の台本を元にしている。だがこの台本に音楽を付け、自らも何かと口を出して成功させたオペラの制作過程で、いよいよモーツァルトの独立心は決定的な親子の決裂(そしてザルツブルクとのそれ)を招くのである。その父と和解するのは、ウィーンに出てしばらくしてからのことである。神が古い立場の人を退け、新しい生活を始める息子を祝福するこのオペラは、そのままモーツァルト自身の成長物語となっている。

チャイコフスキー:3大バレエ組曲(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チャイコフスキーの3大バレエ音楽について、個人的なベスト盤とともに感想を書き終えた。3作品のうち最初に作曲された「白鳥の湖」は、1877年の初演時には必ずしも成功を収めることができず、チャイコフスキーにとっても不本意な結果となった。しかし、1890年に初演された「眠れる森の美女」...