2015年2月19日木曜日

SONY Walkman NW-A16

いつも持ち歩いていたiPod Classicは、いつのまにか電池の寿命が短くなってきた。しかも重いうえに、HDDを回すせいか何となく音楽が遅いような気がする。イヤホンとの相性も良くないようにも思えている。要は飽きが来たのかもしれない。

そのiPod Classicは最近ひそかに販売が停止され、大容量のDAPは少数の海外メーカーを除けば、SONY製品しかなくなってしまった。SONYのWalkmanは、老舗としてのこだわりからか、まだこの分野から撤退をしているわけではなく、いやむしろここ最近は結構魅力的な製品が出ているとは思っていた。数年前からのことだ。だが、ネット対応や大画面化など、私の思う方向とは逆方向に向かい、その分高価であった。これならiPod nanoのような小型で安いプレイヤーの方が使いやすい。そしてiPodを買いか言えるくらいなら・・・いっそこのまま我慢して使い続けよう、ということで気がつけば10年近くの期間が過ぎた。

オークションで高騰しているiPod Classicを売って、別のものに買い替えようとしていたが、さほど高く売れるわけでもないとあきらめていたところ、SONYが昨秋発売したWalkmanの新製品は、何とネット対応を取りやめたというではないか。デジタルアンプが搭載され、Appleでは不可能な「ハイレゾ音源」すなわち24bitのflacファイルなどもそのまま再生してくれる。マイクロSDカードで容量は増設でき、私の好きなFMチューナーまで内蔵されている・・・。

今や風前の灯となったSONYに再び私は取りつかれ、気が付いてみるとどの色の製品にしようかと迷いだす始末。電気屋の店頭をのぞいてみると、あるはあるは、沢山の種類の音楽ごとに何台ものA-16(赤色)を並べ、高級ヘッドフォンをつないで視聴できるスタンドがいくつも並んでいる。SONYはこれが売れると見ているのだろう。実際どうもそのようで、久しぶりにSONY製品を買ったと言う人が多い。

そういうわけで私も銀色のA-16(32GB)を購入、手持ちのpioneer製の安いイヤホンをつないだところ、これが何ともいいなりっぷりで、聞く音楽全てが新鮮によみがえり、通勤途中の楽しいことと言ったらないくらいだ。クラシックだろうとポップスだろうと、頭の中に音楽が広がり、それが隅々にまでくっきりと、パワーを持って立ち上がる様はさすがデジタルアンプというべきか。

ただしSONYの音作りはナチュラルというわけではなくやや作為的である。特に低音にその傾向が強い。付属のイヤホンも、他のSONY製のイヤホンも、つなげて聞くと最初のうちはいいが、徐々に疲れが出てくる。歩きながら聞くのが携帯音楽プレーヤーなので、これは良くない。そこで私はいろいろ試行錯誤を重ねた結果、イコライザーでイヤホンにあった音にカスタマイズすることに2週間かけて成功した。iPodと違い、イコライザーの自由度が高いのはこの機種の良い点である。

音楽の転送の簡単さやファイルの操作方法はiPodに劣るが、それも慣れ次第という側面がある。むしろ音楽専用としたことで音質がいいうえに、電池の長持ちが素晴らしい。というわけで私の外出時の音楽生活は一変した。最近はスマートフォンで音楽を聞く人が多いようだし、音楽の購入も減少傾向にあるというが、私はしばらくはCDからリッピングしたWAV音源をコピーして、音楽を持ち歩くことにしている。それからMP3で圧縮された音源も、イヤホンで聞く限りはそん色がない(私の場合、通常256bpsとしている)。

SONYの製品なので日本のメーカーらしく、カラオケ機能だの、遅く聞く機能だの、歌詞を表示する機能だのと盛り沢山である。それからbluetooth搭載でリモートスピーカーに接続でき足り、デジタル出力があるので別のDACにつないでみたりという楽しみもあるにはある。けれども純粋にそのまま音楽を聞くだけでいいと思う。ハイレゾ音源は持っている以上、聞けないというのも悔しいので有難いが、容量を食う上にとりたてて音質がいいというわけでもない(イヤホンで聞く場合)。

とにかく音楽を聞くという趣味自体が低品質化しているような気がしていた昨今、SONYが新製品でヒットを飛ばしているということが嬉しいし、私にとってもタイムリーな製品であった。何度も言うように、3000円クラスの安めのイヤホンでもうまくイコライザーを使って好みの音にアレンジして聞くというのが、この製品の楽しさではないかと思う。

2015年2月11日水曜日

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(The MET Live in HD 2014-2015)

ナチス時代の演奏会を写した古いモノクロ映画には、これでもかというくらいに楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲が流れる。フルトヴェングラーもカラヤンも、工場労働者を前に「ドイツの崇高な精神」を鼓舞する。この曲以上に、戦争という異常な政治状況に翻弄されたワーグナーの作品はない。それほどにまでこの曲は高揚感を高めるものなのだろうか。

大学の入学式で、大学の管弦楽団は冒頭どういうわけかこの曲を演奏したのも記憶に残っている。もっとも下手なアマチュアオーケストラだし、そこにいた多くの人がワーグナーなど知らないはずだから、拍手が起こるわけでもなく学長の挨拶が唐突に始まった。ドイツの職人気質が生む高い芸術性と精神性・・・そういったものを大学は尊重したかったのだろうか。でも私には少し違和感が残った。

初めてこの曲を聞いたのは、中学生の冬であった。今でも夏のバイロイト音楽祭の録音は年末にFMで放送されている(そのせいで当時私はバイロイト音楽祭を夏の音楽祭だとは知らなかった)。その年は確か、夕方から始って夜の8時台に終わるような編成だった。そしてその日は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。指揮は確かホルスト・シュタインだったと思う。私がラジオをつけたのは、もう終盤に差し掛かった歌合戦のところだった。何度もうねりながら高まっていく壮大な音楽に私は釘づけになり、ラジオのボリュームを最大にして部屋中に鳴らした。この曲には人の心を昂らせる麻薬のようなところがある。

その「マイスタージンガー」を私はニューヨークで見ている。1995年、METの舞台に立ったのは亡くなる2年ほど前のヘルマン・プライだった。彼はもともと低い体つきで、パパゲーノのような三枚目の役を得意としていたから、当然のことながらこの時の役はベクメッサーを歌ったと記録にある。ザックスはベルント・ヴァイクル。指揮はジェームス・レヴァインで、演出はオットー・シェンクであった。

このとき私は17時に会社を後にし、いつもより2時間も早く始まるMETの公演に急いだ。それでも開始は18時で、終わるのはもう夜半を過ぎていた。このとき猛烈な睡魔が襲い、第1幕はおろか第2幕もほとんど覚えていない。結構高い席で見ていたので、いびきが聞こえなかったか今でも冷や汗が出てくる。ところが、この同じ組合せの公演が今でもニューヨークでは続いているのだ。

今シーズンのMET Line in HDシリーズには、同じレヴァインの指揮、シェンク演出の舞台が再演されるのだ。レヴァインはMETでの34回目の「マイスタージンガー」だということだから、私が見たのもそのうちの一つということになる。そして第2幕の階段状になったニュルンベルクの中世の石畳を再現した舞台を良く覚えている。それと同じものが六本木TOHOシネマズのスクリーンに映った時には感無量であった。

全部で6時間にも及ぶワーグナー最長の楽劇を、一度は「ちゃんと」見なければと思っていた。「ちゃんと」というのはストーリーを把握して、という意味で、そのためには字幕は欠かせない。中断されることなく字幕と音楽に浸ることは、本場で公演を見てもできないというのがオペラの難しいところである(METではこの時から字幕サービスが始まったが、日本語はなかった)。そういうわけで今回の公演は私にとって、 うってつけの場となったのだが、ここでもまたあの睡魔がやってきた。第1幕の後半と第2幕の後半は、そういうわけで音楽だけを夢の中で聞いていた。

ハンス・ザックスはバリトンのミヒャエル・フォレ、ヴァルターはテノールのヨハン・ボータ。この二人の歌声は確かに素晴らしかった。特に第3幕の始めでは、「前奏曲」でも登場するあのメロディーが歌詞つきで歌われる。その詩がどのように出来上がっていくかを、ゆっくり時間をかけて楽しむことができる。エファを歌ったのはアネッテ・ダッシュで及第点の出来栄え、ベクメッサーは長身のバリトン、ヨハネス・マルティン・クレンツレ、以下、ダフィトにテノールのポール・アップルビー、マグダレーネにメゾソプラノのカレン・カーギル、ポークナーがバスのハンス=ペーター・ケーニヒ、コートナーがバリトンのマルティン・ガントナー。

レヴァインは車いす生活にになってから、特別の回転台に座ったままの指揮だが、音楽的な衰えを感じない。それどころか普通に座っていても疲れる長時間の舞台をこなすエネルギーは、一体どこから来るのだろうかと思う。久しぶりにオーケストラ・ピットが長時間映る。バイオリンのセクションに東洋系の顔が多いのに驚く。

120分にも及ぶ第3幕は睡魔に襲われることはなかったが、歌合戦とそれに向かうまでのやりとりは、ワーグナーが書いた人間喜劇の充実ぶりを示している。春が力をくれるから、若い時にはロマンチックな詩が書ける。だが夏が過ぎ秋になり、冬が到来してもマイスターなら高貴な詩が書ける。もうこの時点で飛び入り参加のヴァルターが勝利を収めることはわかっていた。ザックスは彼に詩の法則を教え、自らが年老いた職人としての気高い誇りとともに、彼に座を譲る。こういうあたりがこの劇の渋いところだろうと思う。そして若いということはつくずくいいなとも思う。出来レースとなった、ニュルンベルクの町のたもとで繰り広げられる歌合戦に、ザックスは高らかに職人気質が護るドイツ芸術を讃えて壮大な幕を閉じる。

2015年2月8日日曜日

NHK交響楽団第1802回定期公演(2015年2月8日、NHKホール)

今年の9月から首席指揮者に就任するパーヴォ・ヤルヴィによるマーラーは、おそらくNHK交響楽団の演奏史上でもまれにみる名演であり、私の同楽団のコンサート経験でも群を抜く感動をもたらしたことを、大いなる興奮を持って記述しなければならない。このコンビは今回の演奏会ですでに深い信頼関係にあり、音楽的共感に満ちた演奏を繰り広げられることが十分可能であることを示すものだった。

NHK交響楽団への10年ぶり3度目の登場となるエストニアの星パーヴォ・ヤルヴィの躍進ぶりについてはもはや語る必要もないくらいだし、私もこれまでドイツ・カンマーフィルハーモニーを指揮したベートーヴェンやシューマンの名演奏を何度も経験してきた。だが今回の演奏は、それらよりも群を抜いて素晴らしかったと思う。しかもN響がいつになく見事な演奏で、丸でヨーロッパのオーケストラを聞いているような錯覚にさえとらわれたのだった。

私は今回の定期を、いつもの3階席(自由席)ではなく1回の前方の席で聞いた。それは最初のプログラムで独奏を務めるチェリストのアリサ・ワイラースタインをできれば間近に見たかったからだ。彼女の弾くエルガーのチェロ協奏曲は、丸でジャクリーヌ・デュ・プレを再来を予感させるとの触れ込みで、CDでもバレンボイムとの共演の記憶が新しい。

だが私の期待は早くも裏切られた。今回の席は前から2列目という位置にありながら、横に広いNHKホールの右端で、指揮者が指揮台に立つとその陰に隠れてしまったからである。ときおりヤルヴィが向きを変えると彼女の赤いドレスが見えた。そういうことを知っていたのか、私の周りには空席もあったようだ。

エルガーは初めて聞くと単調な曲で、特に盛り上がる部分も終楽章に少しある程度である。デュ・プレの演奏にあまりに慣れ親しんできたためか、どうかはよくわからないが、この時の印象もさほどではない。けれども多くの拍手に応え彼女はバッハの無伴奏チェロ組曲からの一節をアンコールした。

休憩をはさんだ後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」で、このコンビの船出に相応しい演目である。 私はこれまで3回のこの曲の実演に接しているが、いつも大変感動させられる曲だ。絶望の淵にあったマーラー(はずっとそうだったのだ)が、満を持してシンフォニストとしてデビューする曲である。鳥のさえずりや太鼓のリズム、つんざくような爆発的メロディーに行進曲・・・若者が狂気に満ちて驀進するエネルギーを感じる。

私が最初に自分のお金で買ったCDが「巨人」であった。静かな序奏が始まる中に徐々に朝日が昇っていくようなメロディーが出るととても新鮮な思いになったものだ。が今日のヤルヴィとN響はどこか緊張感が抜け切れず、なんとなく雑な演奏で始まった。第1楽章はこのように、どちらかと言えば失望となった。だが、それは第1楽章だけであった。第2楽章の冒頭から、極めて緊張感の高い濃密なアンサンブルが聞こえてくると期待は一気に膨らみ、それはあっという間に第3楽章のコントラバスの民謡風メロディーへと移って行った。ここから最後までは、聞く者をこわばらせるほどに見事で、今思い出してもぞくぞくする経験だ。N響定期でこのような演奏に出くわすことは極めて少ない。

特に「その瞬間」が訪れたのは、第3楽章の第2部で「さすらう若人の歌」からのフレーズが流れた時だった。全身に電流が走り、体が硬直した。会場は丸で水を打ったかのように静まり返り、ヤルヴィの指揮によって全体が、丸で魔法がかかったかのようなアンサンブルと化したのである。私はほとんど放心状態となり、見えるものが静止しているかのようであった。あまりに美しく、目には涙さえ出てくる有様だった。ここの部分でこのような経験をしたのは、初めてであった。この曲を何十回、何百回聞いたか知れないが、この日の第3楽章は驚くべき魔法の演奏であった。

こうなると第4楽章が悪かろうはずがない。一気に雪崩を打って進んでいく若者の行進は、パワー全開の見事なハーモニーとなってNHKホールにこだました。寄せては返す波のように、音は大きくなったかと思えば静まり返り、第1楽章のメロディーを回想するシーンなどは絶品である。ヤルヴィはこのこのような、むしろ中間部の重厚で繊細なアンサンブルがうまいと思う。そして最後のコーダに至っては、立ち上がったホルン奏者を筆頭に一糸乱れぬオーケストラの響きが会場を満たした。会場が一斉にどよめき、割れんばかりの拍手が続いた。各パートを数人ずつ立たせる指揮者に、惜しみないブラボーが送られた。

好意的だが醒めた拍手の多いN響定期で、これは極めてまれなことだった。会場には身なりのいいお年寄りも(いつものように)多いが、それに交じって楽器を抱えた若者が大勢いた。彼らは今回の熱狂的な演奏に、大いに沸いたのだろうか。今後テレビで放送されたら是非見てみたいと思う。

このコンビで始まる来シーズン以降が早くも楽しみである。もしこれからマーラーの全曲を演奏するとしたら、私はそのすべてを聞いてみたいとさえ思った。

2015年2月5日木曜日

J-POP:「Tree」(SEKAI NO OWARI)

子供が聞く音楽を聞いているうち、いつのまにか自分も好きになるというのはよくあることで、私の場合、小学生の長男が毎日のように聞くSEKAI NO OWARIが今は大変気に入っている。けれどもこのようなことは私にとって極めてまれな、もしかしたら人生で初めてのJ-POP(この言い方がなされ始めた90年代より以前を含めて)経験ではないかと思う。もっぱらクラシック音楽にしか触れないこのブログで、何を突然言い出すのかと奇異に思うのは本人でもそうなのであって、ゆえに音楽と言うのは面白いというか楽しい。

SEKAI NO OWARIは4人組のロックグループで、ボーカルのFukaseやギターのNakajinを中心に幼馴染みの若者たちで構成されたバンドである(ということは最近知った)。実は数年前から大変人気があったのだが、確かに私はANAの機内かどこかでいくつかの曲を聞いたことがあるように思った。そしてこの1月、待望の新アルバム「Tree」が発売され、その限定盤にはDVDも付いているということをたまたま知った私は、息子の誕生日のお祝いにこれを買い求めた。この最新アルバムは、嬉しいことにそれまでの主要な曲をも収録しており、DVDも合わせると「セカオワ・ワールド」がすべて体験できるという内容である。

このバンドの魅力について、とうとうここに書くことに決めたのだが、その理由はこのグループを聞くことが、他の人気グループや歌手たちを聞くときによく感じるような、ある種の軽薄な情緒、それゆえの気恥ずかしさを感じるようなことがあまりない、と思ったからである。日本の流行音楽がこれほど力を持って心の中に響いてくることは、私の場合、ほとんどなかったことだ。いや過去にあったことはあったのかも知れないが、それをはるかに凌駕している、というべきか。それは一体どういうことか。

それについて書く前に断っておく必要があるのは、私はこのような我が国のポップ・ミュージックについて語るにはあまりに何も知らなさすぎる、という事実である。つまり私はベートーヴェンの全交響曲についてはほとんどそのメロディーを口ずさむことができるが、流行歌となると相当な有名曲でも歌えない・・・いや知らないということである。だから以下の文章があまりに的外れであったとしても、批判されることにすら値しないと言っておこうと思う。そして、だからこそ感じたままに書けるということも。

SEKAI NO OWARIが子供にも人気がある理由はおそらく、そのメロディーの親しみやすさではないかと思う。コンピュータを駆使した音楽は、丸でおもちゃ箱をひっくり返したように多彩で、クラシックを聞いてきた私にも新鮮に響く。例えばアップテンポのリズムに合わせ、とても印象的な和声の進行(例えば「スターライト・パレード」を聞くといい)、ハープシコードやオルガンの通奏低音を思わせる印象的な挿入部分(「スノーマジックファンタジー」)、阿波踊りのお囃子(「ムーンライトステーション」)などがあるかと思えば、東洋的や旋律やバンジョーまでもが顔を出し(「Dragon Night」)、鼓笛隊かバンダを思わせる行進曲(「炎と森のカーニバル」など多数)、ユーロビートかミニマル音楽のような鮮烈なメロディー(「Death Disco」)といった具合である。歌声はしばしばボイス・チェンジャーで幻聴の如く装飾され、DJ Love(奇妙なマスクをかぶっている)の効果音が入るかと思いきや、Saoriが弾く鍵盤が天空を行くが如く駆け巡る。だが、それだけではこれほどにまで人気を持ちうるまでに至った現象を十分に説明できない。

おそらくもう一つの大きな理由は、一見不可解な歌詞が醸し出す不思議な雰囲気にあるように思う。ほとんどの曲はFukaseによって作詞されているが、彼の歌う世界には「眠れない」「夢」「魔法(あるいは悪魔や魔女)」「夜空」「星」などといった言葉が散りばめられている。それらの合間に「戦争と平和(愛)」「自由と束縛(不自由)」「正義と悪」あるいは「太陽と月」といった二項対立をめぐる葛藤が鋭く描かれる。主人公はそのはざまで悩み、迷い、考える・・・、自由を得ることによって失われるもの、信じていることの危うさ・・・その先でこれらの対立は、もしかしたら共通の側面を持っていることを発見するのだろうか。世界の終わりのような世界を見た後で彼は、ある時は疲れ果て、ある時は愛情に芽生え、またある時は自信を持って歩きだす・・・終わりはまた始まりでもあるからだ。それ以外の意味はいっそ不可解なままの方がいい・・・そういうやり方があったのか、と思うに違いない。

夜の町を彷徨する「僕たち」が「眠れない夢」の中で出会う「ファンタジー」は、彼自身の過去の経験を体現している。最初は空想的でおとぎ話のような歌だ、などと思いながら聞き続けてきた聞き手は、「銀河街の悪夢」に至ってとうとう、行き場のないような現実に直面する。薬を飲むたびに体が壊れていくような闘病のつらさが切々と歌われる時、それぞれの聞き手が最もつらかった過去の日々を思い出すとしたら、おそらくそれこそがこのバンドの真髄とでもいうべき部分だろう。絶望も消えるが希望も消える、と彼は歌うのだ。寝ようとしても朝が来て眠れず、起きようとしても日が暮れるまで起きられない・・・それと同じようなつらい日々を私も味わった。だからここのファンタジックな空間は、病的でもあり同時にリアルでもある。現実逃避と片づけてしまうにはとてもシリアスであり、「夢」から覚めると結局そこにしか行けないという終末の世界・・・つまり(自意識としての)「世界の終わり」から出発しなければ仕方がないという開き直った意識である。

「RPG」はどこか狂気じみてもいるが、前向きでとても明るい歌だ。何か吹っ切れたような気分にさせてくれる屈託のなさもまた、彼らの音楽の特徴である。奇抜な衣装をまとい、丸で中高生が作るのような歌詞が高い声で歌われていたとしても、パワフルでストレートな音楽が、聞き手の心には虚飾的なバリアを飛び越えて響く。押しつぶされそうな弱さを見逃さない感受性と、隅々に至るまで自己の世界を主張する底力を合わせ持っているという点で、この人たちの歌はちょっと突き抜けたようなところがある、と感じた。


【収録曲】
1. the bell
2. 炎と森のカーニバル
3. スノーマジックファンタジー
4. ムーンライトステーション
5. アースチャイルド
6. マーメイドラプソディー
7. ピエロ
8. 銀河街の悪夢
9. Death Disco
10. broken bone
11. PLAY
12. RPG
13. Dragon Night

(限定盤DVD)
1. スターライトパレード
2. 眠り姫
3. Love the warz
4. 虹色の戦争
5. ファンタジー
6. Never Ending World
7. スノーマジックファンタジー
8. 生物学的幻想曲
9. Death Disco
10. 青い太陽
11. ピエロ
12. 銀河街の悪夢
13. 幻の命
14. yume
15. RPG
16. 深い森
17. 炎と森のカーニバル
18. Fight Music
19. インスタントラジオ

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...