2017年3月15日水曜日

モーツァルト:クラリネット協奏曲イ長調K622(Cl:アルフレート・プリンツ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

大阪・千里で育った私は、毎年秋になると銀杏が黄色に変化し、ひらひらと舞い落ちる葉が時に陽光に反射して光るというような情景を思い出す。中学生の頃、クラシック音楽を聞くために連日友人を我が家に呼び、夕暮れのひと時をLPレコードに針を落としては、この曲はいいねえ、この演奏は凄いね、などと言いあっていたあの頃が懐かしい。

その中にモーツァルトのクラリネット協奏曲があった。ケッヘル番号622。全部で626まである通番の、最後から数えて4番目である。ということはまさしく死の年であり、そのわずか2か月ほど前の作品である、とジャケットには書いてあったと思う。最晩年(と言っても30代の半ばである)は人気も衰え、寒さに打ち震えながら極貧のうちに亡くなった、死因は不明、葬儀は雨で中断された、などといった伝記を読んではイメージを膨らませ、この曲ほど諦観に満ちた曲はないではないか、とひとり思い込んでいた。

木枯らしの吹く晩秋の青空に淋しく響くモーツァルト。これが私のクラリネット協奏曲に対するイメージで、このイメージにぴったりなのがプリンツを独奏とする往年のベームの名盤。有名曲だけに他にも数々の名演奏が存在するが、私にとってはこの演奏で満足であり、この傾向は最初にこの曲に触れた40年近く前から全く変わらない。

プリンツはウィーン・フィルの団員で、ベームはこの頃のウィーン・フィルの名誉指揮者だったから、この二人の醸し出す音楽は完全に一体化したものであり、それはすなわちベームのモーツァルトということに尽きる。特に晩年のベームのモーツァルトは、厳格な中にも角が取れて、そのことが一層音楽に慈しみを与えていたように思う。幾分遅めのテンポで、静かさの中にある悲しみを浮き彫りにする。クラリネットの持つ透明で優しい音色は、音域の広さを十分生かしたモーツァルトの巧みなメロディーによって映える。丁度色とりどりの秋の紅葉が残照に照らされているかのように。

この作品の第2楽章は「天上の音楽」と言われるように、モーツァルトの書いた作品の最高峰だと言う人がいる。私もそう思う時がある。素人として感じる観念的な俗説としては、わずかに死の数か月前に人生の彼岸、迫りくる死を予感していたのではないか、というのがある。ちょっと美化しすぎた話ではないかと思う。でも、例えば美人のクラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの演奏(ハンス・フォンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン)の名演を聞いても、それはそれで大変うまいとは思うが、何かが違うのである。この曲は、やはり夕空に暮れてゆく光を惜しむようでなければならない。

何十年ぶりかに聞きなおした感想は、かつて私が聞いた時と変わらない。自分も変わらないというべきなのか。ただいくつかの発見があった。まず第1楽章。これはいきなり第1主題で始まる。そして非常に長い。これはかつてのコンチェルトにはない長さである。それから両端楽章にカデンツァがない。さらには第2楽章の終盤にも独奏部分がない。すなわちクラリネットは完全にオーケストラと溶け合っており、独奏部分とオーケストラ部分が交互に同じメロディーを奏でたりする。

モーツァルトはフルートやチェロを嫌い、そしてクラリネットを好んでいたという。最晩年の夏、プラハへ赴いた際にウィーンの宮廷楽団奏者だったシュタードラーという友人から頼まれたのが作曲の動機だった。もしかしたら彼は、自分にクラリネットのための協奏曲がまだなかったことに気づき、かつて書きかけた作品を掘り起こしてまでも慌てて作曲に着手したのではないだろうか。「魔笛」「皇帝ティートの慈悲」それに「レクイエム」といった大作がわずか数か月のうちに書かれた。その中で、一番星のように静かに輝くモーツァルトの至高の名曲は誕生した。秋も深まる1791年10月のことであった。

2017年3月14日火曜日

モーツァルト:ホルン協奏曲集(Hrn:ラドヴァン・ヴラトコヴィッチ、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団)

モーツァルトの管楽器のための協奏曲を集中して聞き続けてきてつくづく思うのは、モーツァルトは本当に楽器の特性を良く理解して手を抜くことなく作曲したのだな、ということである。私は楽器を弾けないどころか、楽譜すら読めないのでこれは感覚的なことでしかないのだが、ここで聞くホルン協奏曲集は、ホルンに良く溶け合っている。それぞれの協奏曲でそのように感じる。「フルートハープのための協奏曲」「クラリネット協奏曲」などとともに。

ホルン協奏曲集は1枚のディスクとして発売されることが多い。4つある協奏曲をすべて収録すると丁度1枚の長さになるからだろう。CDの時代になってもこのことは変わらず、さらに「ロンド」や「断章」を加えることが多くなった。ここで取り上げるラドヴァン・ヴラトコヴィッチ盤も同様である。

私のホルン協奏曲体験は、LPの時代、バリー・タックウェルによるものが最初である(マリナー指揮)。この演奏は今聞いても独特の響きがする。それは通奏低音としてチェンバロが活躍するからだ。第1番など初めて聞いた時は、何かバロック時代の名残を残した賑やかな曲だと思ったものだ。他の演奏にもチェンバロが使われいないか注意して聞いてみたが、目だないのか最初から入っていないのか、ほとんど聞くことがない。最初の体験というのは恐ろしいもので、私はこのタックウェル盤をもう一度聞いてみたいと思っている。

ところでホルン協奏曲といえばこの演奏を無視するわけには行かないというのが、デニス・ブレインによる演奏(カラヤン指揮)である。モノラルながら何度も再発売され、その都度高評価であることは驚異的でさえある。若くして事故死したこともこの演奏を伝説化している。若いカラヤンが颯爽とフィルハーモニア管弦楽団を指揮している。春風のように通り過ぎるような演奏だが、そこに完璧なテクニックが存在していることは明らかである。

さて私の妻は1月27日の生まれで、この日はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの誕生日である。それが理由で彼女はとりわけモーツァルトを愛しており、長男が生まれる時もモーツァルトを聞きたいと言っていた。10年以上前の2月、北風の吹く快晴の東京で息子は生まれた。10時間以上に及ぶ陣痛に耐えての出産だった。丁度予定日の早朝に産気づき、慌てて電話を入れた産婦人科の看護師は、こちらの狼狽をよそに「気に入ったCDでも持ってきてください」などとのたまった。

私は、我がCDラックの中からモーツァルトのCDを何枚か選んだ。長くなることも想定して、ピアノ協奏曲全集(独奏:ペライア)と、ホルン協奏曲を選んだ。こういう時、宗教曲やオペラ(特にダ・ポンテ三部作)はどは不適格であり、晩年の作品も良くない。押しては返す痛みの中で、ホルン協奏曲を皮切りにピアノ協奏曲を順に聞き始め、ピアノ協奏曲第22番だったかの時に産声を上げた。その後の音楽的才能は別として、長男はモーツァルトの音楽の中で誕生したことになっている。

ホルン協奏曲は妻が特に希望した曲であった。なぜかはわからないが、長い管の中を通って響くホルンの響きがお産に合っているのかしら。そしてその時の演奏が、ルーマニア生まれのホルン奏者ヴラトコヴィッチによるものだったのである。このCDは作曲順ではなく、いきなり第4番から始まるのだが、有名な第3番が聞こえてくるころにはこちらの耳もすっかりモーツァルト耳になっており、こんなに心地よい演奏はない。

このようなこともあって個人的にはヴラトコヴィッチの盤を好むのだが、この演奏は少し物足りないものを感じることがある。大人しすぎるのである。けれどもその不足感がまた何度もこの曲を聞く機会を与えてくれるような気がしている。それから特筆すべきはテイトの指揮である。

モーツァルトのホルン協奏曲は全部で4曲あるが、多くの人と同様第1番と第3番が通俗的でもあり、好きである。それ以外のすべてがとても魅力的で、どの曲がどの曲なのかよくわからなくなるのだが。モーツァルトのホルン協奏曲はすべてケッヘルの400番台が付けられている。モーツァルトが後にウィーンでチーズ工場経営者になるザルツブルク宮廷オーケストラのホルン奏者のために、この素晴らしい曲を作曲したことで、音楽史に残るホルン協奏曲は誕生した。丁度ザルツブルクからウィーンに移る頃に位置している。モーツァルトの管楽器のための協奏曲は、このあと最晩年のクラリネット協奏曲まで、作曲されることはなかった。


【収録曲】
1.ホルン協奏曲第4番変ホ長調K495
2.ホルン協奏曲第2番変ホ長調K417
3.ホルン協奏曲第3番変ホ長調K447
4.ホルン協奏曲第1番ニ長調K412
5.ホルンと管弦楽のためのロンド変ホ長調K371

2017年3月13日月曜日

モーツァルト:オーボエ協奏曲ハ長調K314(Ob:ハンス=ペーター・ヴェスターマン、ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)

1920年に発見されたモーツァルトのオーボエ協奏曲は、長らくフルート協奏曲第2番として知られていた曲であることは有名である。その後出版されると、古今東西のオーボエ協奏曲の中でも、とりわけ有名な作品として認知されるようになり、今ではオーボエ奏者の必須曲となっているようだ。わが国の漫画を映画化した「のだめカンタービレ」においても、この曲はオーボエ奏者のオーディションで採用されている。

モーツァルトは多くの管弦楽のための協奏曲を作曲しているが、その理由は協奏曲の作曲依頼があったからだ。オーボエの場合、ザルツブルクの宮廷楽団の奏者のためとされているが、初演の際のことなど詳しいことはよくわからない。今この曲を検索すれば、YouTubeなどで数多くの映像を見ることができる。多くのシーンではオーボエ奏者が指揮台に立ち、自ら楽団を指揮しながら独奏を務めている。

オーボエという楽器は、オーケストラがチューニングをする際に吹き出す最初の音を奏でる楽器であり、その位置は指揮者の正面と決まっている。他の楽器は様々な位置に配置されることが多いので、オーケストラの中で不動の位置を占めるのは、第1コンサートマスターと第1オーボエ奏者くらいではないかと思う。

オーボエのメランコリックな音色は、大きな楽曲の中でしばしば効果的なソロとして使われる。長大な賑やかな曲も、時に内省的に、あるいは懐古的にオーボエのソロが登場する。この音色でなければそういう雰囲気を醸し出すことは難しいのだろうか。そしてやや神経質で真面目な楽器という印象がある。オーボエの音を常に良い状態に保つには、楽器の手入れを含む多大な努力が欠かせないらしい。

モーツァルトのオーボエ協奏曲は、協奏曲であるから常に独奏のパートを吹き続ける。この音色は常に聞かされるとちょっと嫌な気分がしてくる、と私が正直に書くと、それはいい演奏で聞いていないからだと言われるかも知れない。その傾向もないわけではない。多くのオーボエ協奏曲の演奏があるとは思うが、私の手元にあるのはアーノンクールが録音した一連の管楽器のための協奏曲集(他はフルートとハープ、クラリネット)に収められたものだけである。けれどもここに聞くオーボエ協奏曲は、他のいくつもの演奏を凌いでユニークであり、そして楽しい。

第1楽章の冒頭、聞きなれたフレーズがアーノンクール節で始まると、何と新鮮に聞こえることか。颯爽とした演奏もいいが、このように一歩一歩足を踏み込むような、それでいて軽やかさを失わない演奏もまた病みつきになる。特に音が揺れて、まるでそよ風が吹いたかと思うと一時たゆたい、そしてまた大きく吹き流れて行くような感覚になる部分が何度かある。絶妙な呼吸感、そしてオーボエが上下に 行ったり来たり、スイスあたりのヨーロッパの田舎を雨上がりに楽隊が通り過ぎるようなイメージが、私の場合いつもするのである。

第2楽章の透明な響きと長い呼吸を伴うフレーズは、静寂と明るさが同居している不思議な空間。クラリネット協奏曲が深夜の音楽だとすると、早朝の音楽である。そして第3楽章はおどけたようなユーモアが溢れている。アーノンクールの演奏はリズムの強弱を強調するかと思うと、流れるような部分があったりして、その諧謔的な妙味は聞いたことがないとわかりにくい。結局私はこの演奏で聞くオーボエ協奏曲が好きであり、それ以外の演奏は今のところ、平凡なものに聞こえてしまっている。

2017年3月12日日曜日

モーツァルト:フルート協奏曲集(Fl:シャロン・べザリー、ユハ・カンガス指揮オストロボスニア室内管弦楽団)

気に入った仕事だけをやっていければこんないいことはない、などと大抵の人は思っているが、好きな仕事だけをしているように見える人でも、そう簡単な話ではないだろう。モーツァルトのような天才作曲家も、その幼少の頃からの音楽活動は、就職活動と密接に関連していた。今でも息子を、安定した収入のある職に付けたいと思っている親が多いのと同様、モーツァルト父子もまた同じだった。

だがいくらローマ法王の前で演奏をしても、あるいはヨーロッパ中で人気を博しても、結局は故郷ザルツブルクの宮廷音楽家としての道を歩まなければならなかった。モーツァルトは次第に不満を募らせてゆき、とうとう大司教と決別して単身ウィーンに出るのは良く知られているモーツァルトの伝記の、もっとも興味を掻き立てる部分である。

丁度人間の自由が尊重されはじめたフランス革命の時代にあって、現代人と同じ悩みをモーツァルトを抱いていたと考えるだけで、 クラシック音楽も実は、現代社会と価値を同じとする時代の、すなわち現代の芸術だと思わざるを得ない。こんなことを考えるのも、モーツァルトは自分の不本意な仕事もしなければ生きていけなかった、そして自らの芸術的志向と社会的現実に折り合いをつけながら、あの見事な作品を生み出したということに、いまさらながら驚嘆するからだ。

モーツァルトはフルートが嫌いだった。当時のフルートはまだ未完成の木管楽器で演奏が難しく、音楽的には単純な作品とならざるを得ないことを嫌ったからだと言われている。けれどもモーツァルトはフルートに関する曲を残した。ただし2つあるフルート協奏曲のうち第2番はオーボエ協奏曲ハ長調からの転用で、これはモーツァルトがサボタージュをして労力を節約したためだ。このため調性はことなるものの、同じケッヘル番号が与えられている。

一方フルート協奏曲第1番はれっきとしたフルート用作品だが、少なくともこの曲を聞く限り、モーツァルトがフルート嫌いだったとは思えないような素晴らしい作品である。作曲する以上は、ちゃんとした作品に仕上げたい、ということもあるのだろうと思う。モーツァルトのフルートを独奏とする作品は、この他に4つとの四重奏曲が残されているが、しばしば演奏されテレビのCMに使われるほど有名なこの四重奏曲もまたしかりである。

私がなぜか買って、長年しまっていたCDに、シャロン・べザリーというイスラエル生まれの女性フルーティストが演奏したBISレーベルのハイブリッド盤がある。そしてこのCD(SACD)にはモーツァルトの残したオーケストラとフルートのための全作品が収録されている(下記の【収録曲】参照)。ここで「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」ハ長調は第1協奏曲の第2楽章「アダージョ」の代用として書かれた。一方、「フルートと管弦楽のためのロンド」ニ長調は、「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」ハ長調K373からの転用である。

伴奏を務めているのはフィンランドのオーケストラ、オストロボスニア室内管弦楽団である。指揮は創設者であるユハ・カンガス。

私は北欧を含む西側ヨーロッパ諸国を、たいてい旅行したことがあるのだが、アイルランドとフィンランドだけは足を踏み入れていない。かつてシベリア鉄道でヨーロッパ旅行を計画していた時には、いかに早くソビエトを脱出してヘルシンキに向かうか、時刻表を頼りに一生懸命考えたことがある。それでもヘルシンキは通過地点に過ぎず、西ドイツあるいはフランスに早く向かうため、フィンランドはそのまま西へ向かって海を渡り、一路ストックホルムを目指す予定にしていた。理由は物価が高いからである。そしてフィンランドに他に見るべきものがあるのだろうか?と思っていたのだ。

結局シベリア鉄道旅行は今だにできていないのだが、この時スウェーデンに向けて渡る海がボスニア湾で、ここの東側にあるのがオストロボスニア室内管弦楽団だろうと思って検索してみたら、やはりその通りであった。けれども海に面してはいないコッコラという町にあるようで、その位置は首都から北極圏へ向かって、何と数百キロも行ったところであり、人口はわずかに5万人弱というから甲子園球場の観客定員よりも少ない。そりに乗ったサンタクロースがいるのが、まさにこの地域だろうと思う。

そんな寒い北欧の田舎の室内管弦楽団がインターナショナルなレーベル(といっても北欧系のBISだが)に登場し、モーツァルトのフルート作品集を録音している。それだけで興味がわくが、その演奏は早めのテンポで極めて美しい。テクニックが見事というしかなく、早めのテンポの中にそっと入ってきたと思うと、さらっと吹いて出てゆく。音楽がクリアーなのは北欧の澄み切った青空と乾いた空気感を思わせるのは他の録音でも同じである。でもシベリウスの作品などは時に荒々しく、どちらかというと薄曇りのような天候も思わせるので、これは偏見に満ちた想像でしかない。

この演奏の特徴はカデンツァにフィンランドを代表する現代作曲家のひとり、カレヴィ・アホのものが使われていることである。調べてみるとアホはべサリーのために協奏曲も作曲しているようで、彼女はそういった関係もあったのだろいうと想像がつく。モーツァルトの音楽を気持ちよく聞いていて、突如カデンツァに入ると現代風のものになるのは、最近ではよくあることだが、この演奏でもまた同じである。ところが独奏楽器がフルートということになると、何か横笛・・・我が国の笛、もしくは尺八を想像してしまう。これは同じCDに収録された「フルートとハープのための協奏曲」でも同じで、こちらはハープの音が琴に聞こえてくる瞬間がある。

ベザリーのフルートはCDのジャケットの裏表紙に記載されいるように日本製である。ムラマツ24Kゴールドという点について私は詳しくは知らないが、金色をしており特別製だそうである(ホームページでみると1000万円程度する)。一方オーケストラにフルートはいない。フルートが吹くパートは、オーボエによって吹かれている。いろいろな点で興味をそそる演奏である。


【収録曲】
1.フルート協奏曲第1番ト長調K313
2.「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」ハ長調K315
3.フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299(Hp:ジュリー:パロック)
4.「フルートと管弦楽のためのロンド」ニ長調KAnh.184
5.フルート協奏曲第2番ニ長調K314

2017年3月11日土曜日

モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299(Fl:エマニュエル・パユ、Harp:マリー=ピエール・ラングラメ、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

クラシック音楽には、誰の演奏で聞いてもいい曲というのがあって、ベートーヴェンの「田園交響曲」などはその最たる例だと思うのだが、モーツァルトの「フルートハープのための協奏曲」もまたそういう作品である。どんな演奏で聞いてもいい曲だなあと感心する。それはとどのつまりは、作品がいいと言うことに尽きる。演奏の違いをものともしないのである。

私の「フルートハープ」の体験も、協奏交響曲の時に述べたカラヤン盤(フルート:ジェームズ・ゴールウェイ、ハープ:フリッツ・ヘルミス)により始まった。この演奏はゆっくりとしたテンポで、最初はしまりのない演奏だなと思っていたが、聞き始めると曲の美しさに聞き惚れてしまう、魔法のような演奏である。

この曲を聞くと私は、春の真っただ中、桜の木の下で野点でもしているような気分になる。もしかしたらハープが琴の音のように聞こえ、フルートのメロディーが桜の花びらがひらひらと舞い落ちる光景を思い起こすのだろう。けれどもこの花見は、上野公園のような雑踏のシーンではない。かの有名なパイヤール盤(フルート:ジャン=ピエール・ランパル、ハープ:リリー・ラスキーヌ)で聞くときは、奈良の春日大社あたりの、幾分か優雅な風情を思い浮かべる。特に第2楽章後半の、独奏が主体の部分などは絶品で、音楽というのはとにかくこういう風に演奏すべきなのだ、という説得力と安心感が体を覆う。

速い演奏で聞くのもいい。そもそもこの曲はハープなど相当体力がいる曲だと思うのだが、それを弾きこなすのは大変なことだ。あくまでエレガントに弾きこなさなくてはならないので、どうしても音楽が小さくなる。音量も少ないのでオーケストラに埋もれてしまう。録音ではこれを補うべく、マイクを楽器に近づけて収録したりするが、そうするとオーケストラの音色との交わりが不自然になる。パイヤールの演奏もそういう傾向がなきにしもあらずだが、アナログ時代のレンジの広い録音で、品が悪くはない。

「典雅」という形容詞がピッタリのこの曲は、珍しいフルートとハープという組み合わせの協奏曲で、後世の有名作曲家にはないものである。しかもこれだけ有名な作品でありながら、実演に接する機会は多くない。自然、録音された数種類の演奏でこの曲の真価を知ることになる。私の場合、意外な出会いだったのは、アーノンクール盤が発売されたときだった。フルートはローベルト・ヴォルフ、ハープは吉野直子である。

この演奏はアーノンクール節ともいうべきエッジの聞いた音作りで聞くものの集中を取り付け、古楽器奏法を生かしながら時に旋律は通常とはちょっと違うフレーズが見え隠れする。引き締まっているかと思えば、意外なところで軽く流れたり、アクセントを強調したりする。スピードは全体を通して遅い。そしてこの曲の第2楽章を聞くと、まるで里山にひっそり咲く見事な桜の早朝の光景・・・と思うか、朝もやの中に浮かび上がるシチリア島の農村風景を思い浮かべるか、それは人それぞれだと思うが、いずれにしても静かなたたずまいの中に、そこだけ時間が静止したような美しさが感じられる。

今の私のお気に入りは1996年に録音されたエマニュエル・パユによる演奏。今となっては20年が経過し、とても新しい演奏とは言えないが、それ以前の演奏に比べると新鮮で新しい。アバドの振るオーケストラが見事で、主張しすぎず、かといって安易なものでもない。このCDには、フルート協奏曲の第1番と第2番も収録されており、清々しい気分にさせられるトップクラスの名演である。聞いていてほれぼれするような演奏が、また増えてしまった。だがその魅力の半分以上は、曲自体にあると思う。3回に及ぶパリ旅行はモーツァルトの作品に、幼少のザルツブルク時代にはない優美さを与える結果となった。

2017年3月8日水曜日

モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調K191(Fg:ミラン・トゥルコヴィッチ、ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)

バスーン、あるいはドイツ語でファゴットなどという低音の楽器のための協奏曲は、これ以外に知らない。オーケストラの曲におけるファゴットは、いつも何かのメロディーを後で支える役割で、特に有名な旋律というとストラヴィンスキーの「春の祭典」冒頭部分の、恐ろしく難解とされる旋律くらいしか思い浮かばない。もしかしたら最も目立たない楽器なのではないかとさえ思える。

N響の首席オーボエ奏者である茂木大輔氏が書いた「オーケストラ楽器別人間学」という、漫談のような本によるとファゴット奏者は「森にかこまれて育った純朴青年」で、「どことなく抜けたところのある、ユーモラスな、愛すべき」人間性を持っていると言い、「物悲しく、か弱い高音はペーソスを、柔らかく深い中音は温かみを、しわがれた低音は内省的な性格」を与えていると言う。確かにそういうイメージはある。

私は楽器やオーケストラの人間関係には疎いが、ファゴットは極めて広い音域をもつ楽器であることは知っておくべきだろう。その広い音域を駆使するのが「春の祭典」だそうだが、モーツァルトの「ファゴット協奏曲」もまたファゴットのためだけに書かれた。まだザルツブルクにいた頃のモーツァルトが18歳の時の作品である。

K191という若い番号が私の興味を掻き立てたのは、当時の我が家にK300番台以降の作品のレコードは数多くあったが、それ以下となるとこの曲を除けば「フルートとハープのための協奏曲」K299がわずかに300番を下回る以外はほとんど存在しなかったからだ 。その演奏はカール・ベームが指揮しウィーン・フィルの木管奏者と競演した一連の作品集のLPの「余白」に収められていた。いろいろな楽器の協奏曲がある中で、ファゴットもまた協奏曲になるのか、と思った。だがこの他の作曲家でファゴット協奏曲を書いた作曲家を私は知らない(Webで調べればすぐに見つかるが)。

モーツァルトが作曲した管楽器のための協奏曲は、クラリネットが最晩年に作曲された以外は、ほとんどパリ旅行やマンハイム時代に集中している。けれどもファゴット協奏曲だけはそれ以前のザルツブルク時代の作品というわけである。しかし子供じみた若作りの作品かと言えば、そうではない。若い頃のモーツァルト作品をアーノンクールの指揮で聞くとき、もはや晩年の曲を聞くかのような深みを感じるから不思議である。 ここで独奏はオーストリアの世界的ファゴット奏者ミラン・トゥルコヴィッチという人である。

第1楽章から新鮮な音色が魅了し、第2楽章の静かでほのぼのとした味わいも良いが、第3楽章はめずらしく3拍子のメヌエットで、しかもロンド風の変奏が味わえる。短いがファゴットの音色をいっぱい楽しめる。この演奏は古楽器奏法でのものだが、モダン楽器であれば先に述べたベーム盤も素晴らしい。

ファゴットの音色は空腹時のお腹の鳴る音、あるいは放屁を思わせる。もし父親の「おもちゃの交響曲」のように、「おならの協奏曲(ヘ長調)」などという曲があれば、間違いなくファゴットが活躍するであろうと言うような下品なことは、茂木大輔氏と言えども書いていない。だが、これは一面あり得る話である。というのもモーツァルトの残した家族への手紙には、糞尿に関するものが頻出するからだ。他に3曲ものファゴット協奏曲を作曲していると言われてもいる。もしかしたら誰も知らないところで、彼はそんな冗談の作品を残していたり・・・などと言うのもまた空想である。

2017年3月4日土曜日

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77(Vn:アンネ=ゾフィー・ムター、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

春一番は吹いたものの、まだまだ肌寒いこの季節。次第に強くなる日差しも厚い雲に覆われている。そんな週末の朝にこのブログを書いている。久しぶりにブラームスでも聞いてみようか、と思った。取り出したのは今年デビュー40周年を迎えるムターが、若干16歳の頃にカラヤンと共演したヴァイオリン協奏曲である。このCDは私がまだ若かった頃に買ったもので西ドイツ製。カラヤンはこのほかにクレーメルとの共演盤などもあるし、ムターにも後年マズアとの再録音があるので、なぜ今さら、という感がしないでもない。でも私にはこの曲のCDを3枚しか持っておらず、この演奏の他に聞きたくなる演奏がそうあるわけでもないのである。それはこの演奏がやはり素晴らしいと思うからだ。

別に避けてきたわけではないが、ブログでブラームスの作品を取り上げるのはまだ2度目であり、このほかに4つの交響曲や2つのピアノ協奏曲など、ブラームスについて語るべきことは多い。このヴァイオリン協奏曲の場合も、初めて聞いたクレーメルとバーンスタインの競演盤、世に歴史的演奏と名高いヌヴー盤(モノラル)などがあり、これらの演奏を含めどの演奏がどうの、などと書かれたブログは枚挙に暇がない。そういう作品であればあるほど、記述は慎重にしなければならない。ムター盤が最高、などと書けば、単に初心者のコメントと受け取られかねない。実際、こういうブログを書く面々とは違い、私のこの曲へのこだわりはさほどあるわけではなく、実演で聞いたこともない!

ただこの曲は、まるでブルックナーを思わせる序奏の最初から、一気にはちきれんばかりに終わる最後の一音まで、一切の無駄がないほどに音符が磨かれた名曲だと思う。何度聞いたか知れないが、ほとんど旋律を歌うこともできるのは、ヴァイオリン協奏曲多しといえどもベートーヴェンとブラームスくらいであろう。 ヴァイオリン協奏曲の最高峰と言っていいかも知れない。

そんな曲を音楽の専門家でもない人間が語るのは畏れ多いのだが、45歳という人生におけるもっとも充実した時期(これは交響曲で言えば第2番の時期に当たる)に相当する年齢に、この作品は作曲された。作曲に関するいきさつは数多くあるが、ロマン派も後期になると、かの名曲を誰それが演奏して感銘を受けた、などというのが作曲の動機であるとの記述が残されていたりして、音楽自体がどうも先入観によって語られる傾向が強い。例えばこの曲の場合、ブルッフやベートーヴェンが登場し、ヴァイオリニストとしてはサラサーテとヨアフムが登場する。

ヨアヒムはクライスラーと並んで良く演奏されるカデンツァを作曲しており、初演も行った名手だが、このムターの演奏でもヨアヒムのカデンツァがオーソドックスに使用されている。長大な第1楽章が終わる直前の、カデンツァからコーダへの移行部分が私はもっとも好きである。この部分の名曲としてはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲があるが、この作品はまさにそのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と同じ1878年に作曲されている。チャイコフスキーはこの曲を「詩情に欠ける」と批判しているが、そういうあたりは対抗心がむき出しである。ブラームスほどそういった諍いのエピソードが多い作曲家である。二人ともイタリア旅行から帰国してヴァイオリン協奏曲を書いたという共通点も面白い。

春の野を行くような陽気な音楽だと思ったのは、クレーメルの演奏(バーンスタイン盤)で第2楽章を聞いた時だった。だがこの演奏がむしろ風変わりなのだろう。オーボエのソロが長々と続く、まるでオーボエ協奏曲ではないかと思うようなところがこの第2楽章にはある。カラヤンの演奏で聞くブラームスには、安定したドイツの響きが宿り、かといって古色蒼然とはならない。オーケストラの音に磨きがかかり、その濁りのない音色と切れのいいリズムは今聞いてもモダンでさえある。

第3楽章のリズムが重いと思う人がいるかもしれない。だがカラヤンの演奏は決してもたれないと思う。ムターはそのカラヤンに寄り添っていながらも、大胆不敵に組み合っている。重厚なブラームスが、特に洗練されたメロディーとして演奏されるのはカラヤンの特徴であり、私はそれが好きである。交響曲第1番もしかりである。

ドイツ魂とは若干異なるが、若々しさを一心不乱にぶつけ、荒ぶる情念を表出した演奏がフランス人ジャネット・ヌヴーによる演奏だった。ここでは競演するシュミット=イッセルシュテットを煽り、 時にオーケストラ(北ドイツ放送交響楽団)がついて行けないほどの白熱したライブとなっている。一方最近のヴァイオリニストの演奏は、すっきり綺麗に仕上げられ、オーケストラの編成もどちらかというと小規模なものであることが多い。対照的な二つの時代の中間に、ムター=カラヤンの時代がある。

どの頃の演奏がいいと言うことはしない。ただヌヴーのような一世一代の演奏は、何回も聞くと疲れるし、最近のスッキリ系の演奏は、この長い曲には退屈である。結局、すべとぉ聞いたわけではないが、私の場合、この曲はカラヤンとのムター盤に落ち着く。そうだった!パールマンがジュリーニと共演した演奏もあったのを思い出した!この演奏はあまり取り上げられているのを見たことがないが、私のお気に入りの演奏である。オーケストラはシカゴ響だったか。

2017年3月3日金曜日

グノー:歌劇「ロメオとジュリエット」(The MET Livein HD 2016-2017)

「現代もので、他の作曲家は決して手を出さないような」作品を作曲していると語ったのは、「椿姫」を作曲中のヴェルディである。「道を踏み外した女」と名付けられた作品は、高級娼婦という画期的な題材をもとにした作品であったにもかかわらず、作曲家の予言通り大成功を収めた。その理由のひとつは、おそらくここに女性としての精神的な葛藤と成長を表現し、心理描写と音楽表現が高次元で融合するという、いわば客観的な芸術表現としても非の打ちどころがないまでに洗練された要素を持ち合わせているからだろうと思う。

これに対しグノーの作曲した「ロメオとジュリエット」は、シェークスピアの戯曲を題材とした若者の恋愛と悲劇を描いたものであり、オペラの題材としてはこれ以上もないほどの要素をすでに持ち合わせているにもかかわらず、見るときの気持ちは常にどことなく居心地が悪いような気分にさせられるのはなぜだろう?

こう書くと、音楽を語る資格のない者が大作曲家に対して失礼であると思われるかも知れない。グノーは19世紀中頃のフランスの大作曲家であり、同作品を題材にしたオペラは30作品以上あると言われている中にあって、実にこの作品だけが音楽史に名を残し、「殿堂入りを果たした」(ライブ・ビューイングにおける紹介)のは事実であり、その音楽には様々な手法が駆使され、美しいメロディーに溢れた大作であることには変わりはない。だがものとの作品の持つ悲劇としての美しさを知っていればなお、全編愛の二重唱に覆われた本オペラが、そのテーマとすべき深い部分に肉薄しているのか、あるいは違う箇所にスッポトライトを当てることで、原作にはない別の文学的テーマを示し得ているのか、といえばそう思われない。その点、グノーの代表作「ファウスト」ほどではない、と認めざるを得ないのではないか。

いちオペラファンの下世話な思い付きだが、この作品をヴェルディが作曲していたらどんな作品になっていただろうと思う。もちろん台本作家というのも重要な要素だ。だがヴェルディなら、おそらく愛の二重唱は第2幕のバルコニーのシーンに焦点化されて光彩を放ち、このまま両家の対立を忍んでも結婚をすべきかという心の葛藤を描き切っただろうと想像するに難くない。加えてヴェルディ生涯の隠れたモチーフである父親と娘の対立と和解も、第3幕あたりに巧妙に差しはさまれるだろうし、終幕の死別のシーンでは、原作を曲げてまでジュリエット(麻酔によって眠っている)とロメオ(ジュリエットが死んだと思い服毒自殺する)の二重唱はもはや不要であり、むしろ死んだロミオの前にして自らも命を絶つというヒロインをこれでもか、これでもか、と表現したに違いない。

歌劇「ロメオとジュリエット」は大衆小説が芸術にまで昇華した「椿姫」とは対照的に、文豪の作品を題材とした大衆的オペラである。そうと割り切ってみる分には、音楽的な技巧も満載であるうえに、二人の独唱と二重唱がふんだんに登場する親しみやすい作品であると言える。特にこのたびの上演で見たディアナ・ダムラウ(ジュリエット)とヴィットリオ・グリゴーロ(ロメオ)という二人のカップルは、現在望みうる最高のカップルではないだろうか。おそらく二人とも絶好調であったと思う。特にグリゴーロは自らも満足できる出来栄えであったように感じられた。二人は登場する時から最後まで圧倒的な存在感で広い空間を満たした。脇役である小姓ステファーノ(メゾ・ソプラノのヴェルジー・ヴェレーズ)やローラン神父(バズのミハイル・ペトレンコ)の歌唱も光った。

ヴェローナの街(1990)
今回METの「ロメオ」はバートレット・シャーによる新演出で、前回のライブ・ビューイングのときとはずいぶん印象が違う。この時 ロメオを歌ったのはロベルト・アラーニャで、ジュリエットはアンナ・ネトレプコ。指揮はプラシド・ドミンゴだった。舞台の中央に丸い台があったほかはあまり印象がない。ところが今回は、ヨーロッパの街並みが見事に再現された。第2幕のバルコニーでは、本物?のヴェローナの部屋よりもはるかに立派な回廊があり、まるで修道院の中庭のようでさえあった。もっとも本物のジュリエットの家というのは存在せず、実際にヴェローナにある「ジュリエッタの家」というのは、おそらく映画(ゼッフィレッリが監督している)のセットに似せて選ばれた普通の家だろうと思われる(私も1990年に行った)。

指揮のジャナンドレア・ノセダはこの作品を終始緊張感のあるものにし、作品を成功に導いた。その手腕は最高に評価されて良く、ノセダはMETの新監督となるヤニック・ネゼ=セガンやフィリップ・ジョルダンと並んで、今やオペラ界の代表的指揮者だろうと思う。結果的に今回の「ロメオ」は、息のぴったりと合った圧倒的な歌唱と指揮、それに舞台の見事さによって、原作の持つ魅力を十二分に表現したものとなり、ここまでくれば見ごたえは十分、そして見終わった後は「オペラを見た!」という満足感に満たされるものだった。「ロメオ」の望みうる最高の舞台、であるかどうかは経験がないので簡単には評価できないものの、おそらくそうではないか、と思わせるに十分であったことだけは確かである。

2017年3月2日木曜日

モーツァルト:管楽器のための協奏交響曲変ホ長調K297b(Cl:カール・ライスター他、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

先日のブログで、このモーツァルトの協奏交響曲(管楽器のための)を取り上げた際、この作品が時に偽作とさえ言われ、その理由として本来のフルートのパートが紛失していることなどを紹介し、後年米国の学者によって復元されたフルートを含む楽譜をもとに演奏されたマリナーのCDを取り上げた。こうなったら、長年繰り返し演奏されてきたクラリネット版についても聞いてみたくなるのは当然で、私もカラヤンの1971年の録音でこの曲を知った時には、実際、クラリネットを含む従来版であったことは先に述べた。

手元にカラヤンの演奏がないので、私のコレクションにないか検索してみたところ、何かの時に買っていたカール・ベームによる演奏が見つかったので、それを取り上げることにした次第。もっともカール・ベームによるK297bの演奏には、後年ウィーン・フィルと競演したものがあり、これはその前のベルリン・フィルとのものであり、録音された1966年は私の生まれた年である。ここで独奏を務めるのは、当時のベルリン・フィルの名手たちであるが、いずれもソリストとして名高い面々である。

  オーボエ:カール・シュタインス
  クラリネット:カール・ライスター
  ホルン:ゲルト・ザイフェルト
  ファゴット:ギュンター・ピースク

カラヤンがベルリン・フィルの帝王として君臨していた時代にあって、当時ウィーンとの関係が深かったベームは、時々ベルリン・フィルの指揮台にも立っている。特にドイツ・グラモフォンに録音したモーツァルトの交響曲全集は、長らく唯一の全集として売られていたし、特に後期の6大交響曲はそのすべてが名演であったと言われている。この協奏交響曲もその時に収録されている。ちなみにカップリングは、もう一つの協奏交響曲K364(ヴァイオリンとヴィオラのための)であり、この2曲を併録したCDは実際には珍しい。

ベームは後年ウィーン・フィルとの間で後期の交響曲や一連の管楽器のための協奏曲を再録しており、私もクラリネット協奏曲を始めとして、こちらの方がなじみが深いのだが、後年のベームはあのごつごつとした、若干冷徹ともいえるリアリスティックな表現が影を潜め、ウィーン・フィルの美しいアンサンブルに身を任せた演奏が多い。モーツァルトについても同様で、ベームを良く知る人はベルリンを指揮していた頃の演奏を好む傾向にある(ベームの輝かしき遺産はこのほかに、「指環」のバイロイト・ライヴとR・シュトラウスの一連の作品ではないだろうか)。

さてそのベーム指揮の協奏交響曲だが、これは先に聞いたマリナーの演奏とは随分表情が違う。一瞬全く別の音楽を聴いているのではないかと思うほどで、特に第1楽章の冒頭などは管楽器がオーケストラの間に溶け込んで得も言われぬハーモニーを醸し出している。これはいい塩梅というべきもので、あのフルートの高い音がなくなり、クラリネットの落ち着いた表情がむしろオーボエやホルンと溶け合うのは、共通の音域が多いからだろうか。つまり水彩画を見ているように輪郭はむしろ他の色と混ざり、ある意味でアナログ時代の品の良さを感じる。

ベームの指揮がここでも効いている。今では失われた響き(「コジ・ファン・トゥッテ」の歴史的名演に象徴されるような)が聞こえるのである。第2楽章の落ち着いた中にも緻密で溺れない響きは、常に自己を見つめている。中欧の、つまりドイツの、確固たる様式を感じることができる。休日でもスーツを着て過ごすようなイメージである。今では聞かれなくなったこのような演奏によって、モーツァルトの若い頃の音楽もまた、大人の音楽になっている。

今年のウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサート2017のテレビ番組(NHK)で、コンサート・マスターを退職したライナー・キュッヘル氏がインタビューに答えていたのを思い出す。まだ入団したての頃のエピソードにカール・ベームが登場したからだ。独奏部分で自己流を通そうとするキュッヘル青年に対し、この狡猾な老人は「私にモーツァルトの何たるかを説明させる気か!」と言ったそうである。指揮者がまだ圧倒的な権威を持っていた時代、音楽もまたゆるぎない価値観で統一されていた。ここで聞くK297bの第3楽章は、オーケストラはしっかりと独奏と絡みながらも一定のテンポを崩さない。すっきりと終わるオーソドックスな演奏は、今ではむしろ新鮮でさえある。こういう演奏で聞くことで、この曲の魅力が輝くという側面も大いにあるように思う。

2017年3月1日水曜日

モーツァルト:管楽器のための協奏交響曲変ホ長調K297b(Fl:オーレル・ニコレ他、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

シンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲)と言われる作品がモーツァルトには2つある。一つはヴァイオリンとヴィオラを独奏楽器とするもので、ヴァイオリン協奏曲全集などに収録されていることが多い(K364)。もう一つは4つの管楽器をソリストとするもので、私が最初に聞いたのはこちらの方だった(K297b)。カラヤン指揮のLPレコードに、同時期に作曲された「フルートとハープのための協奏曲K299」とともに収録されていた。

有名な「フルートハープ」に比べると少し見劣りがして、だからB面なのかと勝手に思っていた。というのもこのカラヤンの演奏では、当時のベルリン・フィルの錚々たるソリストをそろえているものの、隅から隅までカラヤン的というのか、あの若々しいモーツァルトに相応しいような溌剌としたリズムではなく、どちらかというとしっとりした大人の、そして夜のモーツァルトであった。中学生だった私は「フルートとハープ」ばかりを聞いていた。

久しぶりに協奏交響曲の方を聞いてみようと思った。すでにカラヤンの録音は手元にないので、マリナーの録音を聞くことになった。この演奏のソリストはまた凄い顔ぶれで、

  フルート:オーレル・ニコレ
  オーボエ:ハインツ・ホリガー
  ホルン:ヘルマン・バウマン
  ファゴット:クラウス・トゥーネマン

といった、当時の各楽器の第1人者ともいうべき面々である。ところがこのマリナーの演奏で聞くモーツァルトのK297bは、私がかつて聞いたカラヤンの演奏とは少し異なっている。なぜなら独奏楽器の1つがクラリネットだったからだ(1971年)。マリナーの演奏(1983年)ではフルートとなっている。

この違いを語るには、この曲が長らくモーツァルトの作品ではないとの疑いを持たれていたことに触れる必要がある。実際に今でも自筆譜が存在しないため、その疑いが完全に晴れているわけではないとも言える。

1778年、パリを訪れたモーツァルトはフルートを含む協奏交響曲の作曲を父親充ての手紙に書いている。にもかかわらず、その楽譜が発見されたときには、自筆ではなく、しかもフルートのパートがクラリネットになっていたというのだ(詳しい経緯は省略)。この曲は結局、クラリネットを含む4つの管楽器のための協奏交響曲として広く親しまれ、カラヤンの演奏もまた、いわゆる従来版の演奏である(今でもこちらが主流)。

これに対し、マリナーは米国人の学者がコンピュータを駆使してフルートのパートを修復し、オーケストラのパートも書き換えた。簡単に言えば本物に近い版を制作したのだ。マリナーの演奏はこの復元版(レヴィン版)の最初の録音と言われている。今では両方の版が演奏されているが、いずれにしても偽作の議論がつまらないものに思えてくるほど、私にはまさにモーツァルトの音楽そのものである。

どの楽章も素晴らしいが、この曲もまたローカル線などに乗って、まだ寒い初春の野原を行く時に聞くとさらに趣きがある、と感じるのは勝手な趣味に他ならない。第1楽章は、初めて聞いた時暗い曲だと思った。だがよく聞くと4つの管楽器を目立たせる必要上、オーケストラの響きは控えめにしているからだ(と勝手に解釈)。普通のソナタ形式で、まあ楽器が多くても協奏曲というのはこんな感じだろうと思ったものだ。

第2楽章のアダージョはとても美しい。私はこの音楽が好きになり、一時期朝の通勤時に会社へ着くまでの間、よく聞いていた。でも本当のこの曲の、協奏交響曲としての真価は第3楽章にあるのではないか。第3楽章は結構長く、12分程度かかるのだが、ここの聞きどころは10にも及ぶ変奏と、それぞれでの4つの楽器のハーモニーである。これこそまさに競演で、協奏交響曲と呼ぶにふさわしい性格を有している。

ここでのオーケストラは、鳴っているのか鳴っていないのかわからないくらいに控えめであり、室内楽の管楽アンサンブルを聞いているような気分になる。モーツァルトがこのような多楽器のための協奏曲を書くのは、これだけである。多楽器の協奏曲はヴィヴァルディやバッハの時代に多く見られるが、当時すでに時代遅れと思われたのだろうか。そして後年になっても協奏曲と言えば、単一かせいぜい二つの楽器をソロとする程度が主流となり、シンフォニア・コンチェルタンテという分野は廃れてしまった。でも室内楽とオーケストラが付いたり離れたりするような曲は、もう少し作曲されてもいいような気がする。いやもしかしたらモーツァルトがこんな綺麗な曲を書いてしまったために、後世の作曲家は諦めざるを得なくなった、などと想像して楽しんでいる。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...