1990年3月下旬、生まれて初めてニューヨークを旅行した私が目にしたのは、1975年に初演され、1976年にトニー賞に輝いた人気ミュージカル「コーラスライン」が、その15年に及ぶ史上最長のロングランに幕を下ろすというものだった。その時は数多くのオペラ、コンサートには出かけたが、ついにブロードウェイには足を運ぶ時間(というかお金が)なく、ミュージカルというものに触れるのは再度ニューヨークを訪れた1995年までお預けになってしまった。
その1995年には、「コーラスライン」に変わって最長記録を打ち立てた「キャッツ」が話題の中心だった。「キャッツ」は私も見たが、どこがいいのかよくわからない。ただこれもアンドリュー・ロイド=ウェッバーによる音楽がきれいな英国製の作品である。だがこれも過去の話題となり、その後「ライオン・キング」が「キャッツ」の上演回数を上回り、さらにその上を行くのが「オペラ座の怪人」である。私はこれらの作品がそんなにいい作品とは思えない。好き嫌いかも知れないが、だとすれば好みの作品ではない。
さて、私はその時から「コーラスライン」を見逃したことを少し悔やんでいた。この作品を映画作品として見たのは、1990年代のことだった。映画化は1985年のことで、監督は英国人のリチャード・アッテンボローである。この時思ったのは、この作品が有名な音楽「One」に合わせて踊るダンスが、とてもシリアスだということだ。底抜けに明るいアメリカ製のミュージカルが多い中で、この作品はオーディションに仕事を求める若者たちの赤裸々な生い立ちを告白するシーンの数々によって、むしろ心理描写にも焦点が当てられ、よりストーリー性に深みが増してゆく作品である。
数十人の応募中から、厳しい審査によってわずか8人が選ばれる。その非情であからさまな合格発表によって幕が下ろされる時、米国社会のシビアさとドライさが浮き彫りにされる。徹底した実力社会に立ち向かう無名の若きダンサーたちは、このオーディションに合格したからと言って、将来が約束されるわけではない。なぜならこのダンスは、主役を引き立てるために踊られる脇役に過ぎないのだから。
後味はむしろスッキリしない。けれども物語が終わったその後に再度「One」が踊られる。物語の内容とは違い、一級のダンサーが踊るのだから悪かろうはずがない。鏡を背後にカラフルな照明に照らされて、様々な人種や容姿のダンサーが、次から次へと踊る。ダンス中心のミュージカルを、堪能することとなる。
ミュージカルはオペラのように、同じ作品をあちこちで上演するのではなく、都度結成され、演出されるのが通常である。だから見逃してしまうと、もうそれに触れる機会はなかなか訪れない。日本では劇団四季が、人気作品を俳優を変えて何度も上演しているが、本場でもそのようなことはない。だから私が、JR大崎駅構内で「コーラスライン」のポスターを見た時には、これを見逃す手はない、と思った。30年前に見逃した作品を、やっとのことで見ることができると思ったのだ。
その上演は、東京国際フォーラムで行われた。ところが会場に入って驚いた。何とオーケストラ・ピットに誰もいないのである。イタリアのオペラ・ハウスではしばしばこのような光景が見られると言うが、その理由はストライキである。だが今回の公演がキャンセルになったという話は聞かない。だからこうやって多くの客が入っているのだ。
どうなるのか思った音楽がいつのまにか舞台の袖から聞こえてきたが、それはまるでテープ収録された音楽で踊るバレエの来日公演のようである。台詞の合間に歌が挟まれるため、音楽はどこかで演奏しているのだろうと思う。だがそのプレイヤーはついに最後まで姿を見せなかった。もちろん指揮者もである。
舞台は踊りと台詞のみで進んでいった。両脇に字幕があるので、英語のわからない観客は字幕を追うのが忙しい。ストーリーが半ばどうでもいいオペラと違って、セリフは結構重要である。しかもダンスに見とれていると、字幕に目を移すのが大変である。今回はしかも、1幕構成だった。これも常識外れで、通常ミュージカルは比較的長い第1幕と、短い第2幕の間に休憩時間がるのが通常である。出演者も大変だと思ったが、客席も戸惑うばかり。
最初はどうかるかと思ったが、中間部でオーディションに募集したひとりひとりへの面接が始まると、複雑な生い立ちや家族関係に話が及んでいく。その中にディレクターのかつての恋人、キャシーもいる。このミュージカルの面白さは、この部分でのやりとり。そこに米国社会の側面を感じることができる。そう考えると、最近のミュージカルにはそのような社会性や同時代性が失われていることに気付く。
「コーラスライン」はもう半世紀前の作品で、今となっては古い作品になってしまった。客席に若い人もいたが、結構中高年の姿が目立つ。ブロードウェイでも2006年にリバイバル上演されたが、2年ももたなかったようだ。かつて一世を風靡した作品も、いまや純粋に共感できる層が減ったのだろうか。そう考えると米国だけでなく世界の社会風潮も変わってしまったのだろう。そんなことまで考えながら、何か懐かしい感じのする2時間の公演を見ていた。もしそうでなければ・・・(実際私はそう希望するのでが)この公演自体が物足りないものだったからかも知れない。もし1990年、本場で見ていれば、私も20歳の若さだったし、もっと強烈な印象を残す経験になっていたのかも知れない。
2018年9月6日木曜日
2018年9月1日土曜日
デア・リング東京オーケストラ・デビューコンサート(2018年8月31日、三鷹市芸術文化センター)
音楽を聞くというよりは、音響を楽しむというコンサートだった。デア・リング東京オーケストラという聞きなれない団体によるメンデルスゾーンとベートーヴェンである。それもそのはずで、このオーケストラは録音のみを専門とする特別編成のもので、主宰人でもあり指揮者を務める西脇義訓という人物は、レコーディング・エンジニアとして日本のレコード会社に勤めていたという経歴が紹介されていた。本公演はそのデビュー・コンサートだということだ。
私はもう長い間、我が国のレコード雑誌である「レコード芸術」(音楽之友社)を読まなくなっているが、もしこの雑誌を購読していたら、あるいはこのオーケストラの存在を知っていたかも知れない。2013年に設立され、すでに6枚ものCDをリリースしているこの団体が、なぜ今頃になってステージ・デビューすることになったか、その理由を指揮者は自らマイクを手にして説明した。
それはこのオーケストラ独特の、音響に対するこだわりによる。この音の良さは、実演で接しないとわからない、と忠告されたからであるとのことである。ではその音とはどのようなものか。それを知るには、この団体のホームページを見るといい。驚くのは、その楽器配置である。特に決まっているわけではないようだが、曲に合わせて実に様々な形態に配置を変える。たとえば今回のプログラム最初の曲、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲では、オーケストラのメンバーが全員前を向いて、まるで小学校の教室にいる児童のように整列している。現れた指揮者は、何と観客席を向いてタクトを振り始めた・・。
各自に譜面台が配置され、必ずしも指揮者を凝視しないプレイヤーは、自らの音感でアンサンブルを構成してゆく。指揮は最低限の出だし、あるいはテンポを指示するのみである。おそらく練習の時には、ああでもない、こうでもないと細かい試行錯誤を重ねてはいるのだろう。だがその先にあるのは、各人が自ら把握した音楽をそのまま再現する。まさにそれは録音を専らとするから可能なものなのだろう。
メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の場合には、オーケストラのメンバーが散在している。たとえば3人いるコントラバスは、最右、最左、中央奥に散らばっている。二人のホルンも両端に分かれている。第1バイオリンも第2バイオリンも、勝手にバラバラではなく、意図された配置についているが、その配置は従来のオーケストラのように、各パートが固まっているわけではないのだ。
しかもこの曲では、全員が起立して演奏する。その結果成り響いた音色は、(私が勝手に例えるなら)あのクレンペラーの演奏を生で聞くような音がしているのだ。オーケストラが全体に持ち上がり、相当な空間的広がりを持っている。このような経験は初めてである。
休憩時間にはその演奏が早くもロビーに設置されたオーディオ装置で再生され、多くの人が聞き入っている。これはオーディオ・マニアが自ら自分の音を追い求める究極の娯楽である。ただ面白いのは、オーケストラの音をいかに忠実に再生するのか、ということではなく、かつてアナログ・レコードで聞いた音をいかに舞台で再現するか、という真逆のアプローチであることだ。これはいわばアマチュアにのみ許される暴挙ではないか。だが誰も思いつかなかったことでもあろう。
ベートーヴェンのロマンスは指揮者なしで、すなわち独奏を担当した森岡聡によってアンサンブルが奏でられ、そのあとは第7番の交響曲となった。この演奏で、私はカラヤンによる最後のベートーヴェン全集の演奏を思い出した。なぜカラヤンやクレンペラーを思い出すのか。それを解くと、かつてEMIやDeccaに存在した伝説的なプロデューサーにたどり着く。ウォルター・レッグやジョン・カルショーといった名レコーディング・エンジニアは、デジタル録音とともにその存在価値を消失していった。ここで西脇が目指したのは、こういった昔の、レコード上でのみ存在したオーケストラ音の再現ではないか。
カラヤンやベームといった指揮者の演奏を聞いてクラシック音楽に開眼した世代は、舞台上で繰り広げらっる実際のオーケストラの音とも異なるこういった録音の技術による音楽に、むしろその原点がある。そういう意味では、私もその一人なのかも知れない。ただ西脇が述べているのは、バイロイトでの響きのことである。ここで舞台の真下に隠れているオーケストラの音が、いくつかの壁に反射して鳴り響く音を理想としている。それはあたかも霧のように天井から降り注ぐかのような音がするというのである。
私はバイロイトに行ったことがないし、ワーグナーともなれば広い舞台に多くのプレイヤーを集めて演奏しなければならないから、今の編成では不可能だろう。だが、「ニーベルングの指環」から取られたオーケストラの名称を考えると、やがてはワーグナーを聞いてみたいとは思う。いやこの編成なら、「ジークフリート牧歌」くらいは可能だろう。あと聞いてみたいのは、ビゼーの交響曲だ。
この演奏会は、私にとって懐かしい三鷹市文化芸術センターで行われた。残響が多いこのホールでは、ちょっと音楽がやかましい気がしないでもない。同時に一人一人に手渡された第6弾のCD(モーツァルトのパリ交響曲とハイドンのロンドン交響曲などが収録されている)も聞いてみようと思う。若いメンバーが多いオーケストラの響きは、大変よく練習したこともうかがえ、だからこそこういう大胆な演奏が可能であることを思わせた。
本公演をわずか2日前に教えてくれた弟と、雷雨の去った三鷹駅への道を歩きながら、かつてこの近くに住んでいた時と変わらない街並みを楽しんだ。音楽が常に会場を満たし、どのような小さな音色のときでも音の美しさを表現されると、なぜか非常に疲れた気がした。だがこのような面白い演奏も、一愛好家の私にとっては歓迎である。なお、アンコールにはバッハの「マタイ受難曲」からコラールの一節が演奏されたことも付け加えておく。
2018年7月23日月曜日
ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」(2018年7月22日、東京文化会館・二期会公演)
長い間、ぜひ実演で見てみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいたウェーバーの歌劇「魔弾の射手」は、ドイツ国民的オペラとして重要な位置にある。民謡のように親しみやすい音楽は誰もが口ずさみたくなるほどであり、それゆえにか、おいそれとは上演されない演目でさえある。ドイツ人かよほどドイツに縁のある指揮者でなければ、この曲をレパートリーに加えることはないし、逆にドイツ人であれば、そう簡単に演奏してはならない代物だからである。モーツァルトが確立したドイツ語圏におけるオペラは、やがてワーグナーによって大成されるが、その間の隔たりは大きい。この中継ぎともいうべき時代に、ウェーバーが位置している。いわゆるジングシュピールとしての歌芝居的要素を持つ点は「魔笛」などから引き継がれ、少しオカルト的で深い森の中に彷徨いこむドラマ的性格は、そのままワーグナーに受け継がれた、と一応音楽史的には説明されている。その間に社会は、自由を得た市民が音楽を楽しむ時代が到来し、これがすなわち大衆化した娯楽としてのオペラの最初(特にドイツ語圏での)という点も添えておく必要があるだろう。
そのような「魔弾の射手」を我が国で見ることは、実はなかなか困難であった。モーツァルトやワーグナーの作品なら、毎年どこかで必ず上演されているのに、「魔弾の射手」となると難しい。録音や録画された媒体としても、ドイツ系の大指揮者でないと、この作品を録音することはない。カイルベルト、クーベリック、それにクライバーくらいしか長年聞くことはできなかったし、ベームやカラヤンさえ正規録音は残っていない。最近ならアーノンクール、ティーレマンといったあたり。そのような中で、私はコリン・デイヴィスのCDを愛聴してきた。骨格のしっかりした、ドイツ人以上にドイツ的な演奏である(2種類あるが、古いドレスデン盤が良い)。
ところが今年、東京と兵庫で同時期に、まるで申し合わせたようにこの作品が上演されると知った時は、ちょっと困惑した。兵庫県に実家のある私は、隣の市である西宮で上演される佐渡裕指揮による上演も見てみたい。一方、東京在住者としては、二期会による4つの公演のどこかに行ければ、まずは「魔弾の射手」の聞き初めとなる。結局私は、実に公演の数日前に、東京文化会館で行われる二期会のプロダクション(演出:ペーター・コンヴィチュニー)を見ることに決めた。何週間も続く猛烈な暑さの中を、上野へと向かう。一連の最終公演のマチネである。
さて、長年数多くのCDで演奏を楽しんできた「魔弾の射手」を、実演で見るのは初めてである。それで、どこまでこの公演について書き記すだけのものを持ち合わせているか、相当あやしいことを覚悟のうえで、いくつかの感想を記しておきたい。私も読み取れなかった演出上の詳細な解釈(読み替え)については、他の人のブログが参考になるだろう。
まず、私が購入した一階席(向かって最も左手)は、今回の上演を見るうえで大きなハンディであったことを指摘しなければならない。これでS席は納得がいかない。なぜなら演出上重要な道具であるエレベータが左袖に配置され、おそらく会場の左側に座った約3割程度の客席からは見えなかったことだ。エレベータは7階まであり、これが魔法の弾丸の数を表す重要な意味を持っていた。さらに、いくつかの出演者のやり取りが、この舞台袖で行われたようで、隠者が終幕で名刺を交換し、ザミエルともども再度姿を現す、などといったこともよくわからなかった。
開き直って言えば、私の席からはコンヴィチュニー流の読み替えの「毒」がわかりづらく、そのことによってかえって、音楽をストレートに味わうことができたとさえ思う。私の席からは、読売日本交響楽団が演奏する、本当に素晴らしい音楽が、安定して聞こえて来たし、アルゼンチン生まれの若い優秀な指揮者アレホ・ペレスの表情もよく見て取れた。いわゆる古典的な舞台ではなく、むしろ簡素にして照明効果の美しい舞台は、ありきたりのドイツの風景を感じさせるような古めかしさがなく、そういう点で私は気に入った。満月の月、空高く飛ぶ鷹、火が燃えたり、灯が会場をも照らしたり、それに客席にいた隠者が時折みせる仕草などは、1階席で見るアドバンテージであった。
ただもっと詳しくわかってしまうと、今回の読み替えは賛否両論が渦巻く側面に直面することになっただろうし、もしかすると実演初心者の私などは、ちょっと抵抗感を持ったかもしれない。そのあたりの解釈の「不完全さ」によって、私は救われた。皮肉なことに、音楽主体でこの演奏を聞くことができた。
私はすべてを日本人が演じるオペラを見たのは初めてである。いつも出掛ける新国立劇場では、たいてい主役はみな外国人だし、かつて見た藤原歌劇団の「椿姫」もヴィオレッタとアルフレードのみがイタリア人だった。だから、今回のように、セリフのみが日本語で、歌はドイツ語(英語、日本語の字幕付き)というスタイルに、多少戸惑った。演技されて発せられる日本語は、わかりやすさのためであるとはいえ、やや大時代がかった演劇スタイルで、どうにも私は好きになれない。歌唱の時は字幕を追うが、会話になると字幕が出ない。急に舞台から聞こえる日本語が、学芸会のように聞こえ、しかもときどき聞き取りにくいのである。このことが上演のスムーズな進行にちょっとブレーキをかけていたのではあるまいか。
今回の二期会の公演は2組のキャストによって演じられ、私が見たのはそのうちの後半の組であった。まず良かったのはアガーテの北村さおり(ソプラノ)とカスパルの加藤宏隆(バス・バリトン)。北村の声は清楚で美しく、結婚式を前に希望と不安の入り混じる女性の役にぴったり。対照的に明るくて屈託のないエンヒェンを歌った熊田アルベルト彩乃(ソプラノ)も、そういう役作りを意識していたようで、なかなか好演だったと思う。
一方、主役のマックスを歌った小貫岩男(テノール)は大変綺麗な声の持ち主だが、ちょっとパワーが足りないところが惜しい。これで声に張りがあれば、ヘルデン・テノールとして及第点だったと思う。舞台最前列に座って花嫁に花束を投げた隠者の小鉄和広(バス)は、カスパルが打たれて幕が閉じかかったところで舞台にあがり、この劇がハッピー・エンドに終わらないといけないという素振りを見せる。台本役が登場し、再び幕が開くという仕掛けに会場は大笑いかと思ったが、静まり返っている。小貫の大変充実した声は、存在感があり上手かったが、興行主としての成金ビジネスマン風のいで立ちで登場する今回の演出では、そういう歌唱の側面の評価をそぎ落としてしまう。やはり演出というのは、大きな要素である。
演出という観点で言えば、今回の目玉は何といっても、元宝塚女優大和悠河をザミエルに起用したことだろう。決して歌わないが、何度も舞台に登場し、男とも女ともつかない美人の悪魔を、タカラヅカ風にやらせようとしたのも、ブックレットによれば演出家の仕業だったようだ。だがこの点に関して言えば、私は今回の演出にフィットしていて面白かったと思う。会場にいつになく大勢の女性ファンが詰めかけ、花束が数多く並んでいる。十着以上も衣装を交換しながら、様々な局面で彼女は登場した(らしい)。私は中でも「狩人の合唱」の前に幕前で歌詞を朗読したとき、その演技に釘付けられた。
阪急沿線で育った私は、小学校1年生のときに見た人生最初で最後のタカラヅカ以来、どういう女優がどういうミュージカルを歌っているのかまったく興味もなかったが、彼女はマリア・カラスが好きでオペラ通になり、本も出版しているらしい。それで白羽の矢が立った彼女は今回の出演を大変嬉しく思い、そしてその期待通りに、存在感がありながら流れに見事にマッチした演技を披露したと思う。その振る舞いは節度と品があった。なお、もう一人の悪魔が舞台に登場し、ヴィオラを奏でながら踊る。その役はハンブルク歌劇場首席ヴィオラ奏者で日系のナオミ・ザイラーという人で、彼女の演技も面白い。
他の役についても記しておこう。オットカル公爵は薮内俊弥(バリトン)、クーノーは伊藤純(バス)、キリアンに杉浦隆大(バリトン)。合唱は二期会合唱団。
CDで聞く「魔弾の射手」は、次から次へと楽しい歌が登場し、それだけで随分この曲を知っていると思っていた。ところが何年か前、映画仕立ての作品を見たときには、狼谷のシーンなどホラー映画のように怖くて、この曲をCDでのみ聞いているだけではわからない面白さがあった。今回、斬新な読み替え演出で観る「魔弾の射手」は、そのどちらとも異なる側面を私に見せてくれたことは確かである。そういう新しさがないと、この作品の上演は評判になるようなものにはならないだろうと思う。だが、そういう冷静な判断ができたのは、一定水準の歌唱と演技、それに十分に貫禄のあるオーケストラの引き締まった演奏があったからだろう、と思う。
2018年7月22日日曜日
東京交響楽団演奏会(2018年7月21日、ミューザ川崎・シンフォニーホール)
新大陸におけるクラシック音楽の新たな展開、すなわちジャズや黒人音楽との融合が、ロシア系ユダヤ人の血を引くアメリカ人によって確立されていったことは興味深い。その中でも先陣を切るジョージ・ガーシュインと、20世紀を代表する指揮者でありミュージカル作曲家でもあったレナード・バーンスタインは、それぞれ生誕120周年、100周年の記念である今年、特にコンサートで取り上げられる機会の多いようだ。川崎に本拠を置く東京交響楽団もそのひとつで、毎年夏に開催されている「フェスタサマーミューザKAWASAKI」という一連の音楽会のオープニング・コンサートに、音楽監督のジョナサン・ノットとともにジャズとの融合をテーマとした曲を取り上げた。私はこのチラシをもらって、すぐに行くことを決めた。4階席は3000円という安さだが、学生はさらに半額となる。中学生の息子を誘ってみたが興味は示さず、妻も行かないと言う。そういうわけで今回も一人で、猛暑の中を川崎へ。
この夏のイベントに私ははじめて足を運んだのだが、そうでなくとも休日の川崎駅前は物凄い人通りで、バンドを組んで通りすがりの人に歌声を聞かせる若いストリート・ミュージシャンもいる中をコンサート会場へ向かう。あちらこちらに旗が掲げられ、楽器をもった若い奏者が、まるで中学生のように斜め上方を向き、朗らかに微笑んでいる。チケットは売り切れいるようだ。この川崎にやってくるファンは、とても熱心のような気がする。友の会などに置かれたチラシに熱心に目を通したりして、開演時間を待っている。
本日のプログラムは、日本を代表するジャズのプレイヤーとの競演で、なかなか見事である。まずガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を大西順子(ピアノ)、井上陽介(ベース)、高橋信之介(ドラム)とともに競演。次にリーバーマンの「ジャズ・バンドと管弦楽のための協奏曲」を、この3人に加え、さらに13名のジャズ・バンドとともに競演するというもの。後半はオーケストラのみだが、やはりジャズの要素を駆使した前衛音楽家、ナンカロウという作曲家のスタディ(習作)第1番と第7番、そしてバーンスタインの「ウェストサイドストーリー」から「シンフォニックダンス」という豪華なプログラムである。
いつも見慣れたオーケストラ配置の間に、ドラムやピアノ、ベースなどが所狭しと並び、さらに打楽器セクションにもピアノ、チェレスタ、ハープシコード、木琴、マリンバ、ビブラフォンを始め、タムタムや太鼓、ここにもパーカッションなど、あらゆる楽器が配置される。オーケストラもトランペットやトロンボーンがずらりと並び、さらにサクソフォンやマリンバまで登場する。
「ラプソディー・イン・ブルー」は通常15分程度の曲で、プログラムにもそう掲載されていたが、本日はジャズ・バンド・バージョンである。ここで3人のジャズトリオは、驚くようなリズムとテクニックで聞かせる、いわば独奏部分が20分以上はあったと思う。 ピアノの大西順子は、最初すこし硬かったが、そのあとはこなれて満開のテクニックに聴衆を酔わせ、その後ろでボンボンとなっている井上陽介のベースが4階席まで響く。丁度この角度からはピアノのタッチまでが見て取れ、大西は楽譜を取り換えながら、右に左に揺れ動くさまは興奮する。
ドラムの高橋信之介はめちゃめちゃかっこいい。このようなことをどうかけばいいのかいい表現は浮かばないし、浮かべる必要もないだろう。何せジャズなのだから。それぞれ独奏部分では即興的なテクニックがさえ渡り、聴衆からも拍手が漏れる。ニューヨークを舞台に活躍してきた3人による演奏を、円筒形の4階席から見下ろしながら、私は体を左右に揺さぶった。伴奏のオーケストラは逆に緊張した感じで、特にクラリネットは独奏部分が多く、注目の的となるのだが、若手の多いような気がするこのオーケストラには、こういうプログラムは合っていると思う。
全部で35分はあったと思う。超贅沢なガーシュインを堪能し、盛大な拍手に見舞われると、次はさらに13名からなるジャズ・バンドが登場。サクソフォンがずらりと5名(アルト・サックス2名、テナー・サックス2名、バリトン・サックス1名)、その後にトロンボーンとトランペットが4名ずつ(うち一人はバス・トロンボーン)。
リーバーマンの「ジャズ・バンドと管弦楽のための協奏曲」は、全部で8楽章まであるが15分余りの曲で、そのなかにあらゆるジャズの要素がちりばめられている。第4楽章ブルース、第6楽章ブギウギ、第8楽章マンボといた具合。私は初めてきいた曲だが、こんなモダンな曲も70年以上前の、第二次世界大戦中の作品である。
20分の休憩時間の間に、舞台の編成は随分と小さくなった。それでも打楽器には数多くの鍵盤楽器がずらりとならぶ。ノットは続くナンカロウのスタディという極めて難しい(と思われる)曲を、丁寧に指揮した。この小規模な曲を私はやはり初めて聞いたが、細かいところに沢山の聴きどころがある曲で、そのいずれもがプレイヤーの腕が試されているようなところがある。二人が同時に音を出す木琴やハープシコードの混じる不思議な感覚は、15分間続いた。
曲の合間に編成は元の大きさに戻された。それに10分は要したと思う。再び大編成となって最後を飾るのは、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」から「シンフォニック・ダンス」である。20世紀を代表するアメリカ人作曲家レナード・バーンスタインは、指揮者としても有名だが、あのミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」の作曲家でもあった。晩年、ミュージカルをオペラ歌手を起用して録音するなど、その活躍は多彩であった。私もイスラエル・フィルと来日した公演で、作曲者自身が指揮したこの曲を聞いている。80歳にもなろうという老人がおしりを振りながらダイナミックに指揮する姿を今でもよく覚えている。
この曲を聞いているとバーンスタインは天才的な作曲家だったということがわかるような気がする。ミュージカルの音楽をつなげた作品だが、これだけの曲を聞いてもその音符に無駄なところがなく、むしろ複雑なリズムが浮き立つような迫力と色彩感を持って展開され、静かな部分から賑やかな部分まで見事につながってゆく。ノットの指揮ぶりも見事で、一気果敢に聞かせる。スイング、という感じではなく、アメリカを意識したものというよりは、あくまでスマートで客観的である。スピードは総じて速く、ここでも大活躍する打楽器の数々に見とれているうちに音楽が終わってしまった。圧巻の音楽ではあったが、もう少しいい席で聞いていたら良かったと思った。音が変に分離してしまい、なんとなく散漫な感じがするのが、ちょっと残念である。
今回も大満足の演奏会に、帰路につく足取りも浮き立つ。猛暑の今年は、いつになく音楽三昧の日々を送っている。
2018年7月16日月曜日
ミュージカル:「エビータ」(2018年7月16日、東急シアターオーブ)
FIFAワールドカップ・ロシア大会はフランスの優勝をもって幕を閉じたが、準優勝したクロアチアは今回、アルゼンチンを破って世界を驚かせた。アルゼンチンは1978年の大会を主催し、初優勝している。NHKがたった一人のアナウンサーと解説者を派遣して衛星中継をしたこのときの模様を小学生だった私はテレビで見て、その並外れた熱狂的な模様に驚愕し、サッカーというスポーツが社会現象として一定期間、世界をくぎ付けにするすさまじい様子を目の当たりにしたのだ。
優勝の決まった瞬間、10人以上の死者が出たと報じられた。二階から飛び降りた者、子供を無意識に絞殺してしまった者、など多数の悲劇とともに、軍事政権下で行われた大会にはテレビ・クルーでさえ移動に難渋するといったエピソードなどが、私をアルゼンチンに興味を持たせた最初である。ブエノスアイレスという素敵な名前の都市に行ってみたい、そう思ったのはある紀行文を読んだことがきっかけでもあるのだが、それも中学生時代のことで、私はNHKのスペイン語講座を聞いて会話を覚えようとしたりした。
大学生活が終わろうとしていた1992年3月、私はとうとう貯金をすべてはたいて、南米大陸の旅に出た。といっても卒業後、就職までのわずか数週間。パンナムが倒産し、南米行きの格安航空券はロサンジェルスとフロリダを経由しながら3日は要したルートだったと思う。あまりに疲れ果て、研究発表の疲れも癒されぬうち、私はブエノスアイレスの安宿で丸2日間眠り続けた。3日目の朝になって、秋とは言えまだ30度は超えるような暑さの中を、私は7月9日大通りを歩くうち、ここは子供時代に読んだ写真集「世界文化シリーズ」の中で出て来たモノクロの写真集の光景であることを思い出した。この光景は今でも時々夢に見る印象的なものである。広い通りの向こうに、ヨーロッパを思わせる重厚な建築物が並ぶ。
「南米のパリ」といわれたブエノスアイレスは、1940年代の栄光の時代をそのまま冷凍パックにしたかのような町であった。裏通りには時代遅れのスーツを着た紳士が歩き、夜ともなれば巨大なステーキを出す店などが並び、どこからともなくタンゴのメロディーが聞こえてきそうな、くたびれて古色蒼然とした街並みだった。
サッカーの熱狂は、政治の熱狂でもあった。アルゼンチンの歴史を語るうえで、栄華を使い果たし、混乱した経済にくたびれてさらに広がる格差が生む不満、そのはけ口としての革命のエネルギーが軍政を生み、あるいはまた愛国心がサッカー熱を煽るもとになっているということを忘れることはできない。斜陽と熱狂。このあまりに悲しい時代を、エビータは駆け抜けた。ペロン大統領夫人として30年余りの短い人生を、アルゼンチンの国民は自らの国の辿る運命に重ね合わせる。「アルゼンチンよ、泣かないでおくれ」との響きは、サッカーの試合にも事あるごとに繰り返される。
ミュージカル「エビータ」が上映されていると知ったのは数日前で、人気のある演目だし、我が国のミュージカル熱は結構なものだと思っていたので、まさか当日券があるとは思わなかった。私は1995年にニューヨークに住んでいた頃、上演されていた数々のミュージカルを観たが、その中に「サンセット大通り」という素敵な作品があって、この何とも言えないセピア色に染まった西海岸の悲劇を、その胸を締め付けるほどにノスタルジックな音楽とともに忘れることはできない。
2回以上見た「サンセット大通り」は、その音楽がイギリスの作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーによるものである。彼は有名な「キャッツ」や「オペラ座の怪人」などでも知られ、一度聴いたら忘れられないようなメロディーを生み出す天才である。その彼の「ジーザス・クライスト・スーパースター」に次ぐ作品として制作され、初めてアメリカでトニー賞に輝いたのが、「エビータ」である。もう1970年代のことだから、40年以上が経過していることになる。

「エビータ」はその後、多くの歌手によって歌い継がれ、1996年にはマドンナを主演とする映画も制作された。私は帰国してからこの映画を見て感動し、オリジナル盤(1978年)を購入していたが、このCDはどことなく静かで、ロック調の迫力と臨場感を上手く伝えているとは言い難い。ミュージカルでもやはり実演に接するのがいい。何といってもあの動きの多いダンスを見ることはできないのだから。
今回渋谷ヒカリエ11階にある大きなホールで見た舞台は、嬉しいことに日本語字幕付きであった。舞台には大型のスクリーンが設置され、ここに1950年代の実際のモノクロ写真が次から次へと投影されてゆく。私が子供時代に見たブエノスアイレスの風景も、実際に訪れた大統領府などの建物も、この中に何度も出てくるのであった。この映像を見ていると、動きの多いダンスを見落とすことになり、またダンスに気を取られていると字幕が追えない。オペラと違って情報量は多く、オーケストラや歌声もマイクロフォンで強調されるから、二階席の端っこであっても十分に楽しいし、それに何といっても哀愁に満ちた音楽が次々と溢れ出す。
誰がどの役を歌っているのかは、ブックレットも何も配布されないという不親切な興行方針のせいで、何もわからない。これは糾弾すべきことだろうと思う。仕方がないから、出演者をWebページで検索して、以下にコピーしておく必要がある。
作詞:ティム・ライス
作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
演出:ハロルド・プリンス
エヴァ・ペロン:エマ・キングストン
チェ:ラミン・カリムルー
ホワン・ペロン:ロバート・フィンレイソン
マガルディ:アントン・レイティン
ミストレス:イザベラ・ジェーン
5人の主役の中で、際立って拍手の大きかったのはチェを歌ったラミン・カリムルーで、次が標題役のエマ・キングストン。歌声が大きな意味を持つオペラとは違い、ダンスや演技も大きなパートを持つミュージカルについて、私はあまり詳しく語ることはできない。ただ久しぶりに見るミュージカルに、オペラとは違った新鮮さを感じたのと同時に、よく組織された舞台は、オペラのような予測不可能な要素が少なく、むしろ演出の巧みさこそが最大の見どころである。黒を基調とし、舞台が二階建てになっている。時折男女がタンゴを踊る。音楽は様々な要素が不自然なく取り入れられており、一種独特のムードが漂うのがロイド=ウェバー音楽の真骨頂である。
1992年に撮影した写真があるので、その中から2枚を貼っておこうと思う。アルゼンチンの歴史は、エヴァの死後も苦難の連続であり続けている。このミュージカルが上映された頃は丁度フォークランド紛争の頃であった。イギリスは第二次世界大戦前から世界的な資本を投下して、アルゼンチンを従属させてきた。「エビータ」の物語は、それに対する反抗と挫折の歴史でもある。そして、英国人側の視点で描かれる時、どことなく冷笑的である。そのことが好きかどうかは別として、Don't Cry for Me Argentinaのメロディーは世界中で愛されている。
優勝の決まった瞬間、10人以上の死者が出たと報じられた。二階から飛び降りた者、子供を無意識に絞殺してしまった者、など多数の悲劇とともに、軍事政権下で行われた大会にはテレビ・クルーでさえ移動に難渋するといったエピソードなどが、私をアルゼンチンに興味を持たせた最初である。ブエノスアイレスという素敵な名前の都市に行ってみたい、そう思ったのはある紀行文を読んだことがきっかけでもあるのだが、それも中学生時代のことで、私はNHKのスペイン語講座を聞いて会話を覚えようとしたりした。
大学生活が終わろうとしていた1992年3月、私はとうとう貯金をすべてはたいて、南米大陸の旅に出た。といっても卒業後、就職までのわずか数週間。パンナムが倒産し、南米行きの格安航空券はロサンジェルスとフロリダを経由しながら3日は要したルートだったと思う。あまりに疲れ果て、研究発表の疲れも癒されぬうち、私はブエノスアイレスの安宿で丸2日間眠り続けた。3日目の朝になって、秋とは言えまだ30度は超えるような暑さの中を、私は7月9日大通りを歩くうち、ここは子供時代に読んだ写真集「世界文化シリーズ」の中で出て来たモノクロの写真集の光景であることを思い出した。この光景は今でも時々夢に見る印象的なものである。広い通りの向こうに、ヨーロッパを思わせる重厚な建築物が並ぶ。
サッカーの熱狂は、政治の熱狂でもあった。アルゼンチンの歴史を語るうえで、栄華を使い果たし、混乱した経済にくたびれてさらに広がる格差が生む不満、そのはけ口としての革命のエネルギーが軍政を生み、あるいはまた愛国心がサッカー熱を煽るもとになっているということを忘れることはできない。斜陽と熱狂。このあまりに悲しい時代を、エビータは駆け抜けた。ペロン大統領夫人として30年余りの短い人生を、アルゼンチンの国民は自らの国の辿る運命に重ね合わせる。「アルゼンチンよ、泣かないでおくれ」との響きは、サッカーの試合にも事あるごとに繰り返される。
ミュージカル「エビータ」が上映されていると知ったのは数日前で、人気のある演目だし、我が国のミュージカル熱は結構なものだと思っていたので、まさか当日券があるとは思わなかった。私は1995年にニューヨークに住んでいた頃、上演されていた数々のミュージカルを観たが、その中に「サンセット大通り」という素敵な作品があって、この何とも言えないセピア色に染まった西海岸の悲劇を、その胸を締め付けるほどにノスタルジックな音楽とともに忘れることはできない。
2回以上見た「サンセット大通り」は、その音楽がイギリスの作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーによるものである。彼は有名な「キャッツ」や「オペラ座の怪人」などでも知られ、一度聴いたら忘れられないようなメロディーを生み出す天才である。その彼の「ジーザス・クライスト・スーパースター」に次ぐ作品として制作され、初めてアメリカでトニー賞に輝いたのが、「エビータ」である。もう1970年代のことだから、40年以上が経過していることになる。

「エビータ」はその後、多くの歌手によって歌い継がれ、1996年にはマドンナを主演とする映画も制作された。私は帰国してからこの映画を見て感動し、オリジナル盤(1978年)を購入していたが、このCDはどことなく静かで、ロック調の迫力と臨場感を上手く伝えているとは言い難い。ミュージカルでもやはり実演に接するのがいい。何といってもあの動きの多いダンスを見ることはできないのだから。
今回渋谷ヒカリエ11階にある大きなホールで見た舞台は、嬉しいことに日本語字幕付きであった。舞台には大型のスクリーンが設置され、ここに1950年代の実際のモノクロ写真が次から次へと投影されてゆく。私が子供時代に見たブエノスアイレスの風景も、実際に訪れた大統領府などの建物も、この中に何度も出てくるのであった。この映像を見ていると、動きの多いダンスを見落とすことになり、またダンスに気を取られていると字幕が追えない。オペラと違って情報量は多く、オーケストラや歌声もマイクロフォンで強調されるから、二階席の端っこであっても十分に楽しいし、それに何といっても哀愁に満ちた音楽が次々と溢れ出す。
誰がどの役を歌っているのかは、ブックレットも何も配布されないという不親切な興行方針のせいで、何もわからない。これは糾弾すべきことだろうと思う。仕方がないから、出演者をWebページで検索して、以下にコピーしておく必要がある。
作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
演出:ハロルド・プリンス
エヴァ・ペロン:エマ・キングストン
チェ:ラミン・カリムルー
ホワン・ペロン:ロバート・フィンレイソン
マガルディ:アントン・レイティン
ミストレス:イザベラ・ジェーン
5人の主役の中で、際立って拍手の大きかったのはチェを歌ったラミン・カリムルーで、次が標題役のエマ・キングストン。歌声が大きな意味を持つオペラとは違い、ダンスや演技も大きなパートを持つミュージカルについて、私はあまり詳しく語ることはできない。ただ久しぶりに見るミュージカルに、オペラとは違った新鮮さを感じたのと同時に、よく組織された舞台は、オペラのような予測不可能な要素が少なく、むしろ演出の巧みさこそが最大の見どころである。黒を基調とし、舞台が二階建てになっている。時折男女がタンゴを踊る。音楽は様々な要素が不自然なく取り入れられており、一種独特のムードが漂うのがロイド=ウェバー音楽の真骨頂である。
1992年に撮影した写真があるので、その中から2枚を貼っておこうと思う。アルゼンチンの歴史は、エヴァの死後も苦難の連続であり続けている。このミュージカルが上映された頃は丁度フォークランド紛争の頃であった。イギリスは第二次世界大戦前から世界的な資本を投下して、アルゼンチンを従属させてきた。「エビータ」の物語は、それに対する反抗と挫折の歴史でもある。そして、英国人側の視点で描かれる時、どことなく冷笑的である。そのことが好きかどうかは別として、Don't Cry for Me Argentinaのメロディーは世界中で愛されている。
東京都交響楽団演奏会(2018年7月15日、サントリーホール)
マーラーの「巨人」は、一言で言えば都会風の演奏だった。それもそうで、指揮者のアラン・ギルバートはニューヨーク生まれの日系アメリカ人。ニューヨークフィルハーモニックの音楽監督を8年間勤め、今年から都響の首席客演指揮者に就任する他、来年からはNDRエルプフィル(北ドイツ放送響)の首席指揮者となることが決定しているそうだ。今日は都響との就任披露公演で、演目はシューベルトの交響曲第2番とマーラーの交響曲第1番「巨人」である。私がこのコンサートに出かけることにした理由は、3つある。一つは、過去に何度も来日しながら一度も耳に触れたことのないギルバートの演奏を聞いてみたかったこと、第2には、これも一度も実演で接したことのないシューベルの交響曲第2番を聞きたかったこと、そして3番目には、マーラーの「巨人」が「花の章」付きで演奏されることである。
マーラーが「巨人」を作曲した時、彼はブダペスト王立歌劇場の音楽監督の座にあって、当初「交響詩」として位置づけ、後に削除されてしまう第2楽章「花の章」を含む全2部、5楽章構成であったことは良く知られている。ブックレットによれば、第1楽章での狩の音型は、決定稿ではクラリネットだが、今回は舞台裏のホルンが務めるようだ。そして削除された「花の章」が復活する。初期の稿とも最終稿とも違う折衷型の楽譜を、どうして取り上げるのか、興味があった。
それはおそらく、ギルバートがハンブルクのNDR響の首席指揮者となることを意識してのことではないかと思う。「クービク新校訂全集版」という今回の稿は、この作品を交響曲として初演したハンブルクで、2014年に初演されている。ハンブルクは「巨人」に関する限り、本家本流の「我が作品」というわけである。
だが演奏は、どうも出だしからパッとしないものだった。特に金管が良く音を外す。もしかしたら連日の猛暑となった真昼の東京には、炙り出された亡霊がいたのかもしれない。極めつけは「花の章」でのトランペットだが、これは2度目には決まった。けれどもホルンの「外れ」は第3楽章あたりまで続いたと思う。第1楽章が雑然とした雰囲気となるのはよくあることだが(CDでも)、朝の静かな靄の中に立ちのぼる若者の目覚めを、私はもっと大切にしてほしいと思う。何か気持ちだけが焦るような演奏が多いのは、緊張した実演であることを考えると仕方がないのかもしれないが。
「花の章」はムード音楽のような緩徐楽章だが、これが聞けるのが実際楽しみであった。けれどもソロのトランペットが残念なことに音を外すと、動揺が広がったのだろうか。第3楽章(通常の第2楽章)は、第1主題の繰り返しを省略し、あっというまに終わってしまったのもつまらない。このスケルツォの、ダイナミックな弦合奏が良く決まっていただけに、もう少し聞きたかった。
コントラバスの独奏で始まる次の楽章も、どことなく落ち着かない。深遠な静かさの中で厳かに始まる「さすらう若人の歌」は、何かとりとめのない繋がりの音楽でしかないようだ。ニューヨークで聞く演奏にも似たようなものが多い。あのトリオ部分の、おそらくこの曲最大の見せ場に至って指揮者は、弦楽器を良く歌わせたと思う。ところが今度は客席がもたない。咳払いが多いのだ。本当のマーラー好きは、今日はいないのかしら。
結局第4楽章に至るまで、真価は発揮されないままであったと思う。この先どうなるのだろうかと、正直心配であった。だが、マーラーの曲の長さは、ある意味で演奏家に挽回のチャンスを与える。特に終楽章は、どの交響曲の場合も最大の力点が置かれ、しかも長い。第1番でも同様で、ここで広がるマーラーの宇宙の広がりは、やはり感動的である。弦楽器の起伏に富んだ中間部では、もっと弦楽器が重厚に響けばと思ったものの、これはもしかしたら真横から聞いているからかも知れないと思いあきらめ、音楽に集中した。
コーダにかけてのたたみかけるようなクライマックスは、この指揮者が常に音楽のエンターテイメント性を重視していることを表していたように思う。あるいはバーンスタインの演奏などがこのようだったのか、覚えていないが、とにかく圧巻の終結部であった。割れんばかりのブラボーが2階席奥から聞こえたとき、この会場にもコアなマーラー・ファンが詰めかけていたことを知った。
満足気に何度も舞台に登場し、オーケストラを四方八方に振り向かせるパフォーマンスを演じながら、この組み合わせで聞くこれからの演奏会も悪くはないと思った。首席奏者の少なさが目立ったが、明日の2日目はミスが減ることが期待できるだろうし、それに来シーズンから始まるプログラムも魅力的である。名曲を力強く指揮すると面白いだろうし、それに良く歌う部分が印象的なのは、オペラの演奏にも威力を発揮するだろう。真横から見る指揮姿はなかなか面白く、指揮のわずかな素振りで音のニュアンスが変化する様は、もうこの関係が良好のものになっていると思わせるに十分であった。
このことを感じたのは、最初のプログラム、シューベルトの交響曲第2番変ロ長調で、私はこちらの演奏の方が全体的な完成度の点でははるかに良かったと思う。どのような細かい表情の変化も表現され、木管楽器が活躍するすべての楽章において躍動的で、しかもミスがない。満足の出来栄えを近くで見ることができた。
若干17歳だったシューベルトのコンヴィクト時代に書かれた輝かしい作品には、もう後年の大規模で、豊かなメロディーが横溢する作風が確立している。「未完成」のような晩年(といっても30歳前後だが)の作品のような、底のない影がないのが、逆説的な意味で魅力でもある。シューベルトも若い頃は、希望に満ちた作品を書いていたのだということがわかるし、そのことが対照的に後年の、孤独にさいなまれる悲しい日々を強調するような気がする。そういう意味で、私なこの作品を聞いただけでも涙が浮かんでくる。
私はシューベルトが好きである。交響曲でいえば、あの宇宙的に長い「グレイト」も、できればずっと聞いていたいとさえ思う。ピアノ・ソナタを優秀な演奏家で聞くと、これらとは打って変わって、深遠でありながらどこか浮世離れしたような内面を覗くような思いがする。同行した妻は「シューベルトの良さがどうもよくわからない」などと言っていたが、私も初めて「ロザムンデ」を聞いた時に同じように思ったものだ。ところが今では、シューベルトの曲がプログラムに上ると、すべて行ってみたいという気持ちに駆られるようになっている。
2018年6月5日火曜日
ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(2018年6月2日、新国立劇場)
当たり前のことだが「芸術」と「商品」は異なる。期待通りの幸福感など、投資に見合う効果が得られるとべきいう資本主義世界の常識に照らして言えば、本物の「芸術」はその対極にあることもしばしばである。期待は裏切られ、受け手に疑問符が投げかけられる。それが素人でもわかるレベルでなされるとしたら、それこそが「芸術」の存在意義でさえある、という大雑把な理屈は、完全に間違っているとは言えない。いやむしろ、心に動揺を与え、時には不快感さえ催すものも、現代に生きる我々の脳裏に突きつけるような刺激となる必要がある。それこそが「芸術」としての存在意義である・・・。私はこの経験に、2万円以上の費用を支払い、3時間の時間を割いた。ベートーヴェンの訴える自由への賛歌、人間への愛、といったものを、フランス革命の直後に作られた時代に照らして鑑賞しようとした。やはり「フィデリオ」は素晴らしい、そういうことを追体験しようとして、このチケットを購入したのだ。だが、その安直な考えは完全に裏切られた。浅薄で姑息な期待を否定されたと言ってよい。このショッキングな経験を、どう解釈し書き残せばいいのだろうか。
新国立劇場における飯森泰次郎音楽監督の最後の演目は、ワーグナーの曾孫にあたるカタリーナ・ワーグナーの演出する「フィデリオ」であった。彼女はもともとベートーヴェンが表現した正義の勝利を完全に覆し、21世紀に住む我々に自由とは、愛とは、といった根源的な問いをアイロニカルに突きつけた。悲劇的なまでの読み替え演出は、相当な混乱を聴衆に与えた。歌手とオーケストラの素晴らしい出来ばえ云々よりも、その大胆過ぎる解釈は、議論の的になるであろう。
舞台に仕掛けられたのは階層状の刑務所内部で、時折上下にスライドし、区切られた各スペースは、最上階にオフィスとマルツェリーネの部屋(ここだけがピンク色で異様に明るい)、その下がフロレスタンの捕らわれている独房、そして最下層に囚人たちが閉じ込められている牢屋となっている。フロレスタンは冒頭からすでに独房で動き回り、ライトの当たらない空間からも歌が聞こえてくる(第1幕終盤)。徹底的に演劇性を重視したもので、3階の隅でアリアを歌うかと思えば、それぞれ独立した部屋にいる歌手の重唱となるなど、空間を隅々まで生かした演出は新鮮である。
序曲からすでに演劇は始まっていたが、それは第2幕の途中で挿入された「レオノーレ」序曲第3番の時でも同様だった。音楽の流れに上手く溶け込んだ、丸でインテルメッツォのようになった「レオノーレ」序曲の間に、もう独房から逃げられないようにとピツァロが入り口を封鎖する。石を積み上げて行く様子が音楽の中で実行され、それは痛々しいまでの悲劇である。これでは勝利のファンファーレも意味を成さない。
あろうことかフロレスタンとレオノーレは刺され、自由を得たかに思われた囚人たちは、最後の瞬間に牢屋に再び閉じ込められる。フロレスタンも囚人たちも、死後の世界でないと自由は得られない。そう考えると、重層的な舞台は何やら「アイーダ」の最終幕を連想させるのだ。
ドラマトゥルクのダニエル・ウェーバーは、その解釈を解説書に詳述している。「この華やかな新しい自由は(中略)、袋小路に過ぎないしユートピア(どこにもあり得ない世界)でしかない」。すなわち「自由の国に大臣はいない」「これは見せかけの国」の「見せかけの輝き」でしかないという。
この舞台に我々は拍手を送るべきなのだろうか。いや演出家が拍手など期待していないかも知れない。彼女は真面目に、この舞台を現代に再現する意味を問うている。そしてその逆説的な解釈によって、その後の作曲家がもはやベートーヴェン的単純さで音楽やオペラを作曲できなくなっていったことを思い起こさせようとしている。ワーグナーもマーラーも、ベートーヴェンの輝きに苦しみ、その中から新しい作品を生み出した。
私はこのような野心的演出に立ち会えたことを、心から喜びたいと思う。ベートーヴェンの「フィデリオ」もこのような上演になるのかと思った。挿入された「レオノーレ」序曲も含めて、見どころは沢山あった。そのひとつひとつを覚えておくのは困難だし、それを書き記すのも簡単ではない。だからこそ、生の演奏で触れた3時間は一生の思い出に残るであろう。だが、正直に書けば私も最後混乱し、4階席から一斉に響くブラボーに困惑した。一連の最終公演となったこともあって、一部の観客は確信的に好意的であった。
最後になったが、歌手について書いておこう。マルツエリーネに抜擢された石橋栄美は、なかなかの好演であった。彼女は大阪の生まれだそうで、私と同じだからなんとなく好感を抱く。一方のジャキーノ役鈴木准は声量が細い。ロッコの妻屋秀和は、当劇場におけるバスの常連だが、この看守役は特に似合っている。ドン・ピツァロを演じたミヒャエル・クプファー=ラデツキーは新国立劇場初登場らしいが、あまり印象はない。また最後に登場する大臣ドン・フェルナンドは黒田博が演じたが、このような解釈だから威厳が感じられないのは仕方がないだろう。
素晴らしかったのはやはりレオノーレのリカルダ・メルベートとフロレスタンのステファン・グールドである。メルベートは尻上がりに好調で、最後の大合唱の中にあっても、ひときは高い声を会場に轟かせた。一方、グールドの品のある歌声は、安定して高貴であったことがかえって、このパラドキシカルな世界にあって痛々しく感じられた。オーケストラの東京交響楽団は、一部ホルンの音が乱れる時もあったものの熱演で、フロレスタンの歌う第2幕冒頭のアリア「人生の春のただ中で」で滅法上手いオーボエとの競演が素晴らしかったことに加え、「レオノーレ」第3番の演奏も印象に残る出来栄え。
そして何といっても特筆すべきは新国立劇場合唱団!フィナーレの合唱が左右いっぱいに広がり、男声と女声の見事なコントラストに胸が詰まる思い。飯森泰次郎の指揮は今回が見納めとあって、最後の最後まで拍手が絶えない。彼が出てくると会場はスタンディング・オベイションで、その時間は20分を超えるほど長く、舞台に登場する回数も4回を超えたように思う。
新国立劇場の「フィデリオ」はこれが2回目のプロダクションである。私は前回のものも見ているが、こちらは古典的な解釈であった(「レオノーレ」序曲は挿入されなかった)。それに比べると今回の演出は、いろいろな意味で考えさせられる上演だったし、実際物議を醸すのだろうと思われる。音楽の演奏自体は、今回の方がはるかに良かった。テレビ収録もされているようで、もう一度じっくり見てみたいような気がする。放映が楽しみである。
2018年5月9日水曜日
東京フィルハーモニー交響楽団第907回サントリー定期(2018年5月8日、サントリーホール)
東フィル定期の「フィデリオ」(演奏会形式)について書き記すにあたり、どうしても触れないわけにはいかない点は、序曲に「レオノーレ」第3番を取り上げた理由だろう。指揮者のチョン・ミョンフンはプログラム・ノートの冒頭で、「フィデリオ」の深遠な音楽の魂はすべて、「レオノーレ」序曲第3番に集約されているからだと、述べている。そして言葉が思いつかないほどの感動を味わうことになったこのたびの演奏を聴き終えた今、そのことを心の底から実感している。冒頭の第一音から、いつも聞くオペラの序曲とは違った緊張感が感じられ、一気にベートーヴェンの世界に引き込まれていった。弦楽器によって主題がおもむろに奏でられるとき、そこには何かとんでもないエネルギーが、ドラマの中心に渦を巻いているように感じられた。まるで今回の演奏は、オーケストラが主役であることを主張するように、丁寧で情熱的な序曲が、私を、客席を釘付けにしていった。
ただそれでも、舞台にヤキーノ役の大槻孝志(テノール)とマルツェリーネ役のシルヴィア・シュヴァルツ(ソプラノ)が登場し、第1幕が始まった時は、まだ今回の演奏が特別なものになるとは思っていなかった。チョンも自ら拍手を促し、アリアの合間には休止を挟もうとした。台詞は多くが省略されているし、歌手は出たり入ったりするので、どこで拍手をしていいかわからない。そういった気まずさは、しかしながら最初のわずかの間だけで、以降の指揮は一切の拍手を挟む余地を残さず、一気に最後まで突っ走った。
音楽は集中力を欠かすことなく総じて速い。かといって音楽的なフレーズは十分で、その感覚はクラウディオ・アバドのような洗練さと、スポーツ感覚を併せ持つほどにしなやかで、それでいて音楽性に富んでいる。チョンはジュリーニのアシスタントを務めていた指揮者だから、そのあたりの歌わせ方が上手いのか、などと納得する間もない。
今日の公演前半の白眉は、レオノーレを歌ったマヌエラ・ウール(ソプラノ)である。彼女は男装して刑務所に忍び込む間は、黒っぽい衣装を着ていたが、長大なレチタティーボとアリア「人でなし!どこへ行く気?」では、その声を2階席後方にまで轟かせ、強靭な意志を持つ女性としての心の動きを、身震いしそうなほど見事に表現した。
彼女があまりに素晴らしいので、ロッコを歌った大柄なフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(バス) でさえも目立たなくなってしまうほどだが、その声は貫禄があるうえに上品でもあり、どう考えても刑務所長ドン・ピツァロを歌ったルカ・ピサローニ(バス)を大きく凌駕していた。年齢的にもピサローニの方が若く細身で、よく考えてみると若手エリート官僚とたたき上げの担当者のような関係を彷彿とさせる。ピサローニはやや力不足にも思われたし、神経質にも感じられたことが、かえってそういった印象を強めたのは面白い。
チョンはオーケストラを一気果敢にドライブし、すべての楽器のセクションが集中力を絶やさず、音楽に無駄がない。第1幕を終わった時点ですでに8時半を回っており、定期演奏会の中では破格の長さだが、そういう感覚を生じさせない。
第2幕の冒頭でいよいよフロレスタンが登場。往年の名歌手とも言えるペーター・ザイフェルト(テノール)である。彼は冒頭から舞台に立ち、牢獄の暗鬱とした不気味な光景を表現するオーケストラの音に注意深く耳を傾けていたが、その姿勢には何かを感じさせるものがあった。歌わないときから彼の存在感は際立っていた。そして一声「おお神よ(Gott!)、何という闇だ!」を叫んだ時の、鳥肌が立つほどに圧倒的で、美しくも力強い歌声に、私は全身がしびれた!
声というものがこんなにも説得力を持ち、演奏会のすべてを決するものかと思った。彼はオーボエの旋律に乗って朗々と、長いアリアを歌う時の愉悦に満ちた喜びを、一体どう表現したらいいのだろう?ベートーヴェンの音楽が、止めどもなく流れてゆく。「フィデリオ」のもっとも美しい音楽は、同時にベートーヴェンの神髄そのものと言える。物語として低レベルと言われながら、どうして「フィデリオ」が世界中のオペラハウスで今でも人気があるのか?その答えは、この作品がベートーヴェンの作品だからである。最も幸福に満ちた音楽が「レオノーレ」序曲に集約されていると語るチョンの言う通り、ここからの展開は明るさが、次第に勢いを増してゆく。
第2幕の終盤にかけての盛り上がりは、東京オペラシンガーズの迫力に満ち、一糸乱れぬアンサンブルが加わると、唖然とするほどの力を持ち、まるで戦車のように舞台から押し寄せてくる。絶え間なく溢れる自由のエネルギーと愛への賛歌は、この作品が流行りの救済劇などという二流の仮面を脱ぎ捨て、大いなる人間賛歌へと変貌を遂げる。その有様は、ベートーヴェンにしかできないものだと確信する。
ベートーヴェンがこの作品で表現したかったのは、ありふれたオペラのテーマとは次元を異にする。だから「フィデリオ」は特別な時に演奏される。第2幕の終結部、第九の終楽章以上の破格とも言える音楽である。私はマーラーが始めた、「レオノーレ」序曲第3番の挿入が、チョンの言うように理解できないものに初めて思えた。最後の大合唱は、最後に登場する長官ドン・フェルナンドを歌う小森輝彦(バリトン)を加えた主役6人の声でさえ聞こえにくい程の爆発的フィナーレとなり、最高潮のフォルッティッシモになっても破たんせず、一気にほとばしる様は、圧巻の一言に尽きる大名演だった。
会場がどよめき、ブラボーが乱れ飛ぶ。東フィルの定期はほとんど来たことがなく、チョンの指揮も年末の第九ただ一度だけという経験だったが、私は指揮によるところの大きい今回の演奏会に、惜しみない拍手を送りながら、ちょっと考えを改めなければと思った次第である。
今月は奇しくも新国立劇場で新演出の「フィデリオ」が上演される。こちらは東フィルではなく東京交響楽団だが、同じ劇場で競演する二つのオーケストラの聴き比べとなる。舞台の予習を兼ねて聞きに行ったコンサートだが、これ以上望めないほどの名演に接してしまった。もしかしたら舞台上演がつまらない結果に終わることにはならないか、今から少し心配なほどである。
2018年5月4日金曜日
日本フィルハーモニー交響楽団第699回定期演奏会(2018年4月27日、サントリーホール)
ピエタリ・インキネンという1980年生まれの、従って若干38歳のフィンランド人指揮者は、2008年以来時折日フィルの演奏会に登場していたようである。その中にはブルックナーやワーグナーのレパートリーも多かったようだ。だから一昨年の2016年に首席指揮者に就任した後にも、しばしば演奏会に登場していたのは知っていた。だが、今回の演奏を聞くまでは、ほとんどこの指揮者を知らなかった。オーケストラにとってワーグナーという作曲家もまた、本来はなかなか演奏する機会のない作曲家なのかも知れない。特にオペラを日常的に演奏する団体でない限り、そのレパートリーにワーグナーが含まれることはまずない。しかしプロの音楽家にとって、ワーグナー音楽の独特の世界を表現してみたいと思うのは当然のことだろうと思う。音楽家ならいくつかの有名な前奏曲や、聞きどころを集めたCDなどを聞いてきているだろうから、その音楽を自らの腕で表現してみたいと思うはずだ。
インキネンという指揮者は、ワーグナーの作品をよく取り上げて来たようだ。その中には演奏会形式で、楽劇の一つの幕をそのまま演奏するという形態もあったと知った。オーケストラとしては、評価の高まるワーグナーの演奏を、この若手フィンランド人指揮者とともに演奏することに、徐々に慣れてきていただろうし、信頼関係のようなものも成就されていたのだろう。
さて、このたびのオール・ワーグナー・プログラムは、私が東京・春・音楽祭で楽劇「神々の黄昏」の、大変な名演奏を聞いた直後に知った。よく見るとたった二週間後のことではないか。私は大急ぎでチケットを買おうと思ったのである。なぜならこの演奏会の後半は、マゼールが「ワーグナーの音を一音も付け足すことなくつなぎ合わせた」ニーベルングの指環の音楽で構成される「言葉のない指環」という作品が演奏されるからだった。
ところがその公演は、1年後の同じ月、すなわち今年2018年の4月のことだったのである。アナウンスされてから私はチケット発売日を待った。そしてとうとう今年、2018年の春が来て、私は無事コンサートのチケットを手に入れることができた。しかも前日の購入でB席であった。
会場に着くと空席が目立ち、係の男性も、どうか前の方にお座りになって、などと案内している姿もある。二日連続のコンサートなので、定期会員の中には来ないか振り替えた人も多かったのかも知れない。けれどもゴールデンウィーン前の週末に、少し寂しいとも思った。そしてその思いは演奏が始まると、確信に変わった。これほど見事な演奏を聞き逃しているのは、何ともったいないことだろうか、と。
プログラムの前半は、歌劇「タンホイザー」序曲と、「ローエングリン」から第1幕、そして第3幕への前奏曲を演奏した。いずれもミスのない安全運転の演奏だったと(今となっては)思うが、あのワーグナーのオーケストラを久しぶりに聞いているかと思うと、感動がこみ上げてくる。サントリーホールの音が素晴らしいのと、2階席の前方で聞く音の美しさもあって、私は誘った友人に「な、いいだろう?」と話しかけた。彼はクラシック音楽に興味はあるようだが、実際にはほとんど知らないのだ。
オーケストラを実演で聞く素敵な時間を、私はこよなく愛している。そのことを如実に感じさせる演奏会を選んで出かけている。もちろん外れる時もあるが、音楽だから仕方がない。どういう演奏になるかは、出演者とリスナーとの偶然なる出会い、相互関係で決まる。今日の日フィルの聴衆は、いつものように高齢者が多く、70%程度の入りであったが、醒めた中にもマナーは良く、私はどっぷりと作品につかることができたと言ってよい。
マゼールが編曲した「言葉のない指環」を私は作曲者自身の演奏で聞いている。何年か前のN響の定期だった。NHKホール3階席の中央で、私は何度目かの巨匠の奏でる芸術的な指揮に大いなる感銘を受けたものの、そこは若干音響効果も悪く、そして初めて聞く編曲に少々の戸惑いがあったのも事実である。たとえばこの曲の前半は、「ラインの黄金」に始まり「ワルキューレ」を経て「ジークフリート」に至るまでのダイジェストだが、マゼールらしいショーマンシップが発揮された、たいそう盛沢山な音楽であるために、ひとつひとつのシーンはあっという間に過ぎ去り、ちょっと短絡的に編集しすぎではないかと、残念な気持ちになってしてしまう。ここはもっと感動的な部分なのに、というわけである。いわば名場面集を見ているようで、プロ野球ニュースや映画の予告編のように、メロディーが次から次へと現れては消える。
マゼールは、曲の長さをCD一枚に収まる長さとして70分程度としたようだ。だが、音楽の再生メディアとしてのCDが過去のものになりつつある昨今、これは余計なことだったと思う。一晩のコンサートを前後半に分け、もう少し長い120分程度にすればよかったのではないか、そうすれば「ラインの黄金」から「ジークフリート」のハッピー・エンディングまでももう少しゆとりをもって楽しむことができたのではないか、などと余計なことを考えた。
オーケストラはなかなか良かった。いやそれどころか、あの豪華な金管セクションも冒頭、許容される程度のミスがあったほかは、音楽を邪魔しないばかりか、決まるところは決まった。木管の安定感は音楽に浸るには充分であり、対向に配置された弦楽器からは、艶のある堂々としたワーグナーが流れてくる。これは舞台では経験できないことで、オーケストラがそのままストレートに響くワーグナーは、私は大好きである。
インキネンは速めのテンポで一気に流れを進めるが、そういうところがいいと思った。往年のファンは、少し物足りないかも知れない。でも今風のワーグナーの、颯爽としているのが私の好みだ。そして次々と出てくる有名なメロディーは、後半の「神々の黄昏」において十分に聞きごたえのある作品となってゆく。マゼールはやはり「黄昏」に重きをおいて作曲を進めた結果、前半を少し飛ばさざるを得なかったのではないだろうか。
会場が静かに聞き惚れている。「ジークフリートのラインへの旅」に始まる「神々の黄昏」は、聞くべき部分がすべて出ていると思う。そして名人芸的な編曲は、「ジークフリートの死」で最高潮を迎え、「ワルキューレの自己犠牲」まで続く。「ラインの黄金」の最初のメロディーに回帰する時、私はもうオーケストラが完全なる一つの楽器に思えて来た。目を閉じて聞き入る音楽が、消え入るように鳴り止んだ時にも、誰一人として拍手をする者はなかった。それは十秒以上、いや体感上はもっともっと長く感じられた。心を打たれ、誰もが音を一切立てることのない時間は、見事に長く経過し、それは奇跡のような時間であった。静寂もまた音楽の一部である。そのことが実感できた。
インキネンは何度も舞台に登場し、各楽器の奏者を順に指示して拍手喝采を浴びるようにしている間、私は目頭が熱くなるのを抑えることが出来なかった。久しぶりに聞くワーグナーは、私を陶酔の時間へと導いた。日フィルの定期は数年に一度程度しか来ることがない。だが若い奏者が増え、水準も上がっているように感じる。だからもう少し頻繁に来てもいいなと思った。蛇足だが今夜ソロ・チェロを弾いていた男性は、私の高校の後輩であることを最近知った。急に身近なオーケストラに感じられた当夜のコンサートであった。
2018年4月28日土曜日
レ・ヴァン・フランセ演奏会「協奏交響曲の夕べ」(2018年4月24日、オペラシティ・コンサートホール))
思い立って、レ・ヴァン・フランセ(フランスの風)という名のグループのコンサートに出かけた。というのもグループのメンバーを見て驚いたからだ。フランスを中心とする世界的な管楽器奏者から成るその人たちには、クラリネットのポール・メイエ、フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのフランソワ・ルルー、ホルンのラドヴァン・ヴラトコヴィッチ、それにバソンのジルベール・オダンがいる。特にヴラトコヴィッチは、モーツァルトのホルン協奏曲のCDを持っていて私の愛聴盤である。レコードで耳にしたことのあるような奏者たちの生演奏を、一度に聞くことが出来る。そしてプログラムがまた大変魅力的である。18世紀に活躍した古典派の作曲家が残した協奏交響曲ばかり4曲も演奏される。いずれも演奏されるだけで珍しい作品ばかりだが、あのモーツァルトのK297bも含まれており、この作品が実際に聞けるなんてワクワクする。管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。最低の人数に絞った小編成で、指揮者はいない。雇われたオーケストラといった感じ。
会場に集まった今宵のリスナーは、とても若い人が多く、女性が目に付く。いつも老人ばかりが主体の私のコンサート活動にあって、これは異例である。よく見ると制服姿の高校生や、背中にフルートだのクラリネットだのを背負った姿を見かける。これはすなわち、本日登場する管楽器の、若きプレイヤーということになる。世界最高の演奏が聞けるとあって、集まって来るのは当然のことである。
協奏交響曲というのは複数の楽器が登場する協奏曲風の交響曲で、シンフォニア・コンチェルタンテと言うが、この分野の作品は古典派時代に数多く作曲されるものの、ベートーヴェン以降になるとさっぱり流行らなくなった形式である。おそらく音楽の規模が大きくなるにつれて、地味な存在に追いやられていったのだと思われるが、資本主義的な興行にとって、多数の独奏者に出演料を支払うことが困難になっていった側面もあるのではないかと思う。
さてコンサートの最初はプレイエルの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第5番ヘ長調B115」という作品である。プレイエルはハイドンの弟子だが、私はいくつかの交響曲を聞いたことがあるだけの作曲家である。プログラム解説書によれば、全部で6曲もの協奏交響曲がのこされているそうだが、今回演奏された第5番は、1800年前後の作品のようだ。
オーケストラの人数が少なく、ややなぞっているだけのような感覚で、そのことが本来は溌剌としているであろう古典派の形式美を伝えそこなってしまったのではないか、などと心配したが、舞台に向かって右からフルート、バスーン、ホルン、オーボエの順に並んだ独奏のやりとりに見とれているうちに曲が終わってしまった。ホールの残響が私の好みに合わないせいか、どうも中途半端の音がする。
2番目はダンツィの「フルートとクラリネットのための協奏交響曲変ロ長調作品41」。マンハイム学派の作曲家の作品である。クラリネットのメイエは、やはり素晴らしく、陰影に富んだ音色を使い分け、聞きごたえのある演奏に仕上げて行く。もちろんパユのフルートが悪いわけがない。彼はトゥールーズのオーケストラと競演した時にもそうだったように、一人だけiPadを譜面台に置いている。足でページを繰る操作を行うようだが、私などは途中でシステムがフリーズすたらどうなるのだろうか、あるいはページを一度にめくり過ぎたりして、演奏すべき箇所がわからなくなったらどうするのだろうか、などと余計な心配をしてしまう。だがそんなことはお構いなしに、自然体でありながら実に伸びやかで、完璧。
さて、オペラシティのコンサートホールは、ウィーン学友協会に似せているのか、長方形をしている。しかも1階席にほとんど傾斜がない。このことが今回も私に非常なストレスを与えることとなった。プレイエルでは前の席が空いており、舞台が良く見えたのだが、第2曲の前に遅れて来た大柄な学生が座ると、途端に視界が遮られたのだ。クラリネットを吹いているらしいこの学生は、しかも椅子に前かがみで腰掛けるから、私は終始、体を右か左に寄せなければ舞台がおとんど見えない。しかも右隣の女性は、大きな袋を両ひざの上に置いて不安定な格好をしつつ、曲の合間にチラシを繰るのである。
最悪のコンディションは後半も続いた。第3曲のドヴィエンヌの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第2番ヘ長調」は、ほとんど印象に残っていない。唯一フランス人の作品だが、ホルンのヴラトコヴィッチなど、どうしてこんなに柔らかいきれいな音がするのだろうと、聞き惚れていた、とでも書いておこう。
当日券を買う時に空席だった右隣に座っていた女性は、休憩時間になっても膝上の大袋を床に置こうともせず、そのまま不安定な姿勢である。一方前の学生は、その右隣が3つも空いているというのに、前かがみの姿勢のまま動こうとしない。ところが、最後のモーツァルトの演奏の前になって、突如右隣の女性が席を立ったのだ!
当日券を買った女性が、今日もっとも有名で目玉の作品を聞かないまま退出したことで、私は堂々とその席に移動した。このことによって視界が一気に開けた。再び登場した4人の独奏によって奏でられた モーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンのための協奏交響曲変ホ長調K297b」は、すこぶる楽しめた名演となった。ほれぼれするようなメロディーが続くこと20分。私はやはりモーツァルトが一頭群を抜く作品を残していることに納得するとともに、比較的早いテンポで演奏されるザルツブルクの天才による作品に体を揺らした。
この作品を聞きながら、協奏交響曲の面白さを初めて体験したと言ってもいい。その理由のひとつは、独奏楽器と同じ楽器が、オーケストラの中にもあって、彼らのメロディーの受け持つ部分の違いを見ることが面白いということである。協奏曲というのが、これらの楽器間でのやり取りをも含むものなのだ。最初は流すようだったオーケストラも、さすがにモーツァルトともなれば練習を繰り返したのだろうと思う。このモーツァルトの演奏は、おそらく一生もう耳にすることがないであろうこの作品の、最初にして最後の超名演だった。なおNHKが本公演を収録していたので、後日放送されるものと思われる。
アンコールに現れた5人は、最後にイベールの「木管五重奏のための3つの小品」の一部を演奏した。急に現代の音楽となった会場の拍手は、この作品で最高潮となった。もしかすると古典派の作品は、彼らの技巧を持て余すことになっていたのではないかとさえ思わせた。丁々発止のやりとりはあっという間に過ぎ去った。だがそれにしてもこのコンサート・ホールの設計には納得がいかない。2階席などは舞台が遠くて見えにくいし、2階サイドの席はパーシャル・ビューである上に、常に横を向く必要があり首が疲れるのだ。現代の東京において、なぜこのような形のホールを作る必要があったのか、私には全くわからない。
2018年4月24日火曜日
NHK交響楽団第1884回定期公演(2018年4月20日、NHKホール)
久しぶりにベートーヴェンを聴いた。それも最近ではむしろ珍しくなった感のあるモダン楽器風の演奏である。CDを含め、もう年に数回も聞かくなったベートーヴェンの作品を2つ並べる演奏会に、NHKホールの客席は3階の奥までビッシリと満員である。それほどこの日のコンサートは特別であった。
特別であることの理由は、まずピレシュが引退を表明し、このたびのツアーは日本の聴衆にとって最後になるということである。思えば1944年生まれのピレシュは今年74歳である。私の両親ほどの年齢であるにもかかわらず数多くのレパートリーをこなし、世界各地で演奏を繰り広げる現役の世界的ピアニストであり続けることが、どれほど大変かは想像を絶する。
今一つ本公演が特別な理由は、指揮者のブロムシュテッについてである。彼もまた91歳と「超」高齢なのである。私の知る限りでは、70年代頃から非常にきびきびとした演奏をする指揮者で、東ドイツのドレスデンのオーケストラを指揮していたころに録音されたグリーグの「ペールギュント」は、高校生のころの私の青春の音楽であった。それはそれは毎日、カセットテープが擦り切れるほど聞いた記憶がある。敬虔なクリスチャンとして厳格な演奏をすることで知られ、練習もめっぽう厳しいとの評判だが、私もN響で聞いたシベリウスなどは忘れられないし、ブルックナーの第4番も脳裏に焼き付いている。
「一期一会」というに相応しい今回の定期公演に、チケットは早々に売り切れた。同じ組み合わせで昨年末のベルリン・フィル定期が催されたということは、後で知ったが、馬鹿でかいNHKホールが連日満員、チケット完売となったのは、私の記憶でも朝比奈隆以来ではなかろうか?それほど期待の大きいコンサートに、私は弟と妻を誘い、辛うじて手に入れたのは3階のC席であった。高い方からチケットが売れていくN響定期において、これは残念ではある。だが実演に触れることができるだけで幸運である。
ピアノ協奏曲第4番は、静かに始まる。いきなりピアノのソロがあって、同じメロディーをオーケストラが繰り返す。おもむろにメロディーが始まるのは第2楽章、第3楽章でも同様で、これはベートーヴェンの実験的な側面が強調されている。ピレシュの冒頭は、美しい響きが少しの疲れの中にも確実に響き、その独自の世界は、まわりからちょっと浮くようでもあるが、優しく、そして精神的な幸福感に持ちている。それが彼女の音楽の魅力そのものであると思う。この個性は、独奏部分で真価を発揮する。すなわち、私は今回の演奏の最高の部分は、第2楽章であったと信じている。
ベートーヴェンがなぜこの曲にだけ短い緩徐楽章を書いたかわからない。だが凝縮された中に、もうこれ以上に無駄はないと思われるほどの集中と深遠さを持ってこの音楽は流れる。その例えようもない静謐さのなかにあって、ピレシュの音楽がどれほど精練され美しかったかをここに記すことはほぼ不可能である。私はただ涙があふれんばかりだったということ以外に。
編成をおそらく演奏当時の規模、すなわち少数の弦楽器と2管編成に限定したオーケストラは、広い舞台にはさらに小さく見えた。その編成は、続く交響曲第4番でも同様で、作品番号の近いこの2曲は同じ日に初演されているという。
傑作の森の頃のベートーヴェンが、もっとも意欲的に作曲を繰り広げていた作品群の中にあって、この2曲は若干地味な存在と言える。つまり「北欧の乙女」である。ブロムシュテットはもう高齢なので、弛緩した演奏になるのではないか、だとしてもそれはそれで充実した枯淡の境地に接することになるのではないか、という期待は見事に裏切られた。舞台にさっそうと現れた指揮者は、いつもの少し早めのテンポでオーケストラを引っ張っていく。序奏も比較的早く、それは最後までそうであったが、特筆すべきは管楽器と弦楽器がこれほどうまく溶け合った演奏もないではないかというほど精密に計算された掛け合いが全楽章を通して展開されたことだ。
フルートがオーボエに、クラリネットが弦楽器に、線上に現れては繋がり、音が重なることもなければ途切れることもなく、順番にスーッとひきつがれてゆく。まるで一つの楽器のように正確に。これほど管楽器が活躍する曲にあって、室内楽のように精密さが要求される様は、前半のピアノ協奏曲第4番と同様、聴衆を釘付けにした。
アグレッシブでエキセントリックな演奏が主流となった昨今のベートーヴェンだが、90年代の頃のモダンな演奏に久しぶりに接したというのが正直な感想だ。大拍手の中を何度も舞台に登り、特に木管楽器のメンバーと握手を交わす。オーケストラも満足の一夜だったのではないだろうか?もうこのコンビで演奏会を聴くことはできないのだろうか?いやそんなことはない。近秋の定期にブロムシュテッとは再登場し、遂にはブルックナーの第9番やマーラーの「巨人」などを指揮することになっている。もう今からわくわくする。
特別であることの理由は、まずピレシュが引退を表明し、このたびのツアーは日本の聴衆にとって最後になるということである。思えば1944年生まれのピレシュは今年74歳である。私の両親ほどの年齢であるにもかかわらず数多くのレパートリーをこなし、世界各地で演奏を繰り広げる現役の世界的ピアニストであり続けることが、どれほど大変かは想像を絶する。
今一つ本公演が特別な理由は、指揮者のブロムシュテッについてである。彼もまた91歳と「超」高齢なのである。私の知る限りでは、70年代頃から非常にきびきびとした演奏をする指揮者で、東ドイツのドレスデンのオーケストラを指揮していたころに録音されたグリーグの「ペールギュント」は、高校生のころの私の青春の音楽であった。それはそれは毎日、カセットテープが擦り切れるほど聞いた記憶がある。敬虔なクリスチャンとして厳格な演奏をすることで知られ、練習もめっぽう厳しいとの評判だが、私もN響で聞いたシベリウスなどは忘れられないし、ブルックナーの第4番も脳裏に焼き付いている。
「一期一会」というに相応しい今回の定期公演に、チケットは早々に売り切れた。同じ組み合わせで昨年末のベルリン・フィル定期が催されたということは、後で知ったが、馬鹿でかいNHKホールが連日満員、チケット完売となったのは、私の記憶でも朝比奈隆以来ではなかろうか?それほど期待の大きいコンサートに、私は弟と妻を誘い、辛うじて手に入れたのは3階のC席であった。高い方からチケットが売れていくN響定期において、これは残念ではある。だが実演に触れることができるだけで幸運である。
ピアノ協奏曲第4番は、静かに始まる。いきなりピアノのソロがあって、同じメロディーをオーケストラが繰り返す。おもむろにメロディーが始まるのは第2楽章、第3楽章でも同様で、これはベートーヴェンの実験的な側面が強調されている。ピレシュの冒頭は、美しい響きが少しの疲れの中にも確実に響き、その独自の世界は、まわりからちょっと浮くようでもあるが、優しく、そして精神的な幸福感に持ちている。それが彼女の音楽の魅力そのものであると思う。この個性は、独奏部分で真価を発揮する。すなわち、私は今回の演奏の最高の部分は、第2楽章であったと信じている。
ベートーヴェンがなぜこの曲にだけ短い緩徐楽章を書いたかわからない。だが凝縮された中に、もうこれ以上に無駄はないと思われるほどの集中と深遠さを持ってこの音楽は流れる。その例えようもない静謐さのなかにあって、ピレシュの音楽がどれほど精練され美しかったかをここに記すことはほぼ不可能である。私はただ涙があふれんばかりだったということ以外に。
編成をおそらく演奏当時の規模、すなわち少数の弦楽器と2管編成に限定したオーケストラは、広い舞台にはさらに小さく見えた。その編成は、続く交響曲第4番でも同様で、作品番号の近いこの2曲は同じ日に初演されているという。
傑作の森の頃のベートーヴェンが、もっとも意欲的に作曲を繰り広げていた作品群の中にあって、この2曲は若干地味な存在と言える。つまり「北欧の乙女」である。ブロムシュテットはもう高齢なので、弛緩した演奏になるのではないか、だとしてもそれはそれで充実した枯淡の境地に接することになるのではないか、という期待は見事に裏切られた。舞台にさっそうと現れた指揮者は、いつもの少し早めのテンポでオーケストラを引っ張っていく。序奏も比較的早く、それは最後までそうであったが、特筆すべきは管楽器と弦楽器がこれほどうまく溶け合った演奏もないではないかというほど精密に計算された掛け合いが全楽章を通して展開されたことだ。
フルートがオーボエに、クラリネットが弦楽器に、線上に現れては繋がり、音が重なることもなければ途切れることもなく、順番にスーッとひきつがれてゆく。まるで一つの楽器のように正確に。これほど管楽器が活躍する曲にあって、室内楽のように精密さが要求される様は、前半のピアノ協奏曲第4番と同様、聴衆を釘付けにした。
アグレッシブでエキセントリックな演奏が主流となった昨今のベートーヴェンだが、90年代の頃のモダンな演奏に久しぶりに接したというのが正直な感想だ。大拍手の中を何度も舞台に登り、特に木管楽器のメンバーと握手を交わす。オーケストラも満足の一夜だったのではないだろうか?もうこのコンビで演奏会を聴くことはできないのだろうか?いやそんなことはない。近秋の定期にブロムシュテッとは再登場し、遂にはブルックナーの第9番やマーラーの「巨人」などを指揮することになっている。もう今からわくわくする。
2018年4月22日日曜日
東京交響楽団第65回川崎定期演奏会(2018年4月15日、ミューザ川崎シンフォニーホール)
今回の演奏会のお目当ては、後半のブルックナーではなく前半のマーラーであった。マーラーの交響曲第10番嬰へ長調は、未完に終わった。1911年に亡くなる前年の1910年に着手されている。第1楽章の「アダージョ」はほぼ完成形だったようだが、第2楽章以降はスケッチのみが残されている。この部分を補って、全曲として完成させたデリック・クック追補版などは最近演奏されることも多いようだが、今日、ジョナサン・ノット指揮による東京交響楽団による演奏は「アダージョ」のみ、そのラッツ校訂版ということになっている。大作、交響曲第9番を完成させたマーラーは、ニューヨークに活動の本拠地を移していたが、まだ飛行機もない時代、新旧の両大陸を移動し、演奏会を年に何十回もこなす生活は、彼を過労死へと導いたのではないか、と私は思っている。マーラーはすこぶる精力的であり、その多忙ぶりはメンデルスゾーンを思わせる。本作品は、持病として不整脈を持つマーラーの、病んだ心臓のようにギクシャクしたものだという指摘があるが、私はむしろアルマの不貞にも苦しみながら超多忙な生活を続けるマーラーの、ストレスの多い精神状態を体現しているように思っている。それは現代人そのものの感覚であり、その方向が(至極簡単に言えば)十二音階や不協和音の多用される音楽へと発展?してゆくことになる。
さて私はこのプログラムの演奏会を、前日のサントリーホールで聞こうと考えていた。残り少なくなったチケットをオンラインで買おうとしたとき、表示されたのはS席がわずかに1枚。その1枚を大急ぎで押さえたものの、決済の方法を間違い、自動的にキャンセルされたとわかったのは前日のことだった。ところがサントリーホールのホームページには、何とS席とA席合わせて80枚もの当日券が売り出されると書いてある。私は少々混乱し、それなら翌日の川崎のコンサートも当日券が十分にあると考えた。実際、その通りであった。
当日券売り場に並んでいると、後ろに居た女性が知り合いの人と会話を始めた。彼女は前日の演奏会がいかに素晴らしかったかを話し、そしてもう一度聞きたくて今日もここに来たと言った。同様の意見は、他の客からも聞こえた。そういうことがあったので、私は迷わずS席を買うこととなった。2階最前列の席は、それでも空席が目立った。ところがこれは実に大名演だったのである。
マーラーの交響曲は、私にとって初めて実演に接する曲で、そしてこれでマーラーの作品は一通りすべて聞き終えることとなる記念すべき日である。ノットは丁寧に、そして時にはつんざくような響きを会場に響かせた。この作品、私が何か書くことはほとんどできないのだが、一つ言えることは、それまでの作品からさらに先へと進んだ感のあることだ。ノットの演奏は、そのことを考えさせた。だがそれが何であるかは、少なくとも私の経験からはうまく表現できない。
ブルックナーの交響曲第9番ニ短調もまた、この巨匠の未完の作品である。ただこちらは第3楽章まであり、それだけでも1時間を超える作品である。スケルツォが第2楽章に置かれれtることもあって、完成された一つの作品を聞くようなところがある。今日の演奏会は、ロマン派後期のシンフォニスト二人の未完の曲というわけである。
演奏は第2楽章以降が秀逸で、もしかするとこの作品を実演で聞くことのできる最高のレヴェルにあったのではないかと思う。それは解釈がどうのこうのということではなく、オーケストラの集中力と迫力が、恐ろしいほどに発揮された演奏だったからだ。我が国のオーケストラの演奏会となると、聴衆を含め少し醒めた演奏が多い中にあって、東京交響楽団は全体に若い奏者が多く、実力派揃いではないかと思う。たとえばオーボエの荒恵理子、 ファゴットの福井蔵などである。
この二人しか私は実名を知らないのだが、マーラーの「アダージョ」でも見せた精緻でふくよかな響きが、ブルックナーでは如何なく発揮されたと思う。最前列左右に分かれたヴァイオリンはもとより、ヴィオラや左手置くに陣取ったコントラバスまで、フォルテの時には揺れに揺れ、最後列のプレーヤーまでもが思いっきり弦を上下させる様は、ベルリン・フィルのビデオを見る時のように手に汗握る興奮である。
そのような迫力だけで押し切るような演奏に終始していては、ブルックナーにはならない。だが今日の演奏は第3楽章のアダージョにおいて、さらに演奏に磨きがかかったように思える。我が国のリスナーはマナーがいいといつも思うが、今日の川崎に集結した聴衆ほど私を驚かせたことはない。曲が終わっても、誰一人拍手しないのである。完全なる静寂の時間が長く続いた。手を下げないノットが、十分に長い沈黙のあとで腕を下すと、会場のあちこちから怒涛のようなブラボーが響き渡った。
拍手は十分以上は続いたと思う。そしてN響以外のオーケストラの定期で、オーケストラが引き上げても拍手が鳴りやまないシーンを、私は初めて見た。オーケストラを含め、会場全体が音楽に浸る時間を共有し、その美しさに感動した。サントリーホールでのその模様は、NHKによってビデオ収録されたらしい。だから放送される時が来たら、ぜひ見てみようと思う。このまたとない時間を思い出すために。
2018年3月19日月曜日
トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団演奏会(2018年3月15日、サントリーホール)
2年前に聞いたトゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団の「白鳥の湖」が忘れられない。この時の演奏の記憶は今でも時々蘇り、ワルツが頭の中でいつも鳴っている。この時放映されたテレビ番組は、そのまま録画してブルーレイ・ディスクに採ってある。そして先日そのディスクを再生してみたのだが・・・わずか2年前だというのに、圧縮をかけ過ぎたせいか映像は乱れ、音が飛び、開始して10分も経たないうちに停止してしまったから、残念でならない。もう一度、この時の演奏を聞いてみたい。そう思っていたらソヒエフは、10年もシェフを務めるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を率いて来日公演を行い、何とそのプログラムはこの時とほとんど同じで、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲で始まり、後半はチャイコフスキーの「白鳥の湖」となっているではないか!プログラム真ん中の協奏曲は今回、エマニュエル・パユとの競演でハチャトリアンのフルート協奏曲(ランパル編)となっているが、「白鳥の湖」はソヒエフ独自のオリジナル編集という点も前回と同じである。
ソヒエフは「白鳥の湖」に自信を持っており、この曲を多くの人に聞かせたいと思っている。私はそう感じているが、どういうわけかサントリーホールでのツアー最初の公演は、当日まで多くの席が売れ残っており、私はこの日、丁度いい具合に仕事がなく、3月末で期限の切れる年次有給休暇を取ることに何ら問題はない。もうこれは行くしかないわけである。しかもこのオーケストラを聞くのは、今回が初めてである。
一般にフランスのオーケストラは、来日公演においてロクに練習もせず、ほとんどぶっつけ本番の期待外れな演奏をすることで有名である。成田空港からサントリーホールに直行し、ラヴェルやらビゼーやらを演奏する。私も一度ひどい目に会っている。だから今回、どんな演奏になるか、唯一の不確定要素はそこである。けれども時代は変わり、演奏家はみな国際的なキャリアを持っているし、オーケストラの響きは世界共通のものになってきている。それは同時にローカル色を失うことでもあるのだが、いずれにせよフランス人が怠惰であるというのは一昔前のことで、今ではそんな時代じゃない、とそう思ってチケットを買った。
その考えはまさしく杞憂に終わり、トゥールーズのオーケストラも実に新鮮でのびのびと、しかもよくこなれた演奏をする。そしてそっけないくらいに力を抜いて指揮をするソヒエフの棒(ではなく両手)から出てくる音楽は、聴きどころを押さえ、オーケストラの自立性を発揮させつつも、時に見事に表情を変化させる職人的な音楽であった。これはN響との一連の演奏でも明らかで、一種の天才的なものさえ私は感じるのだが、そこで思い出されるのは(実演を聞いていないので偉そうなことは言えないが)あのカラヤンの指揮である。
ビデオで見るとカラヤンは、決して器用な指揮をしてるようには思えない。だが一挙手ごとにオーケストラが反応すると、どうしてこの指揮からこんな豊穣な音楽が流るのかと思うほどに雄弁に、そして一瞬のうちに変化するのが不思議である。カラヤンの音楽とは趣が異なるが、それと同じような経験である。初めてテレビで見たときから、一瞬にして私はソヒエフのファンとなり、かれこれ数年が経つ。
前回N響で聞いた時は1階席後方のA席で、それはそれで音響が良かったはずだが、みなとみらいホールというフランチャイズ性に乏しい会場であったことからか、どうも私の印象はいささか不自然なものでもあった。そしてオーケストラがもう少し見える場所で聞きたいと思った。それがたまたま、B席という安い席であることもあって、オーケストラを真横から見る機会を得た。ソヒエフの指揮と各楽器のやりとりが手を取るようにわかる、テレビで良く見るお馴染みの角度は、今回の私にとって理想的な位置である。
この位置では、右から弦楽器、左から管楽器と打楽器が聞こえてくる。手前は高く、奥は低い。ソヒエフは前半は指揮棒を持っていたが、「白鳥の湖」では両手を駆使し、時にオーケストラの奏でる音楽に体を揺らせながら、聞き手を唖然とさせるような表情を音につけて、バレエの各曲をこなしてゆく。その堂々とした、手慣れた至芸に酔いしれる聴衆は私だけではなかった。前にいたカップルなどはずっと体が揺れに揺れている。
演奏が終わって徐々に大きくなる拍手に、終始満足げだったソヒエフは、メンバーを何度も楽器ごとに立たせ、満面の笑みを浮かべた。この表情はN響にはない。ロビーへ出て会場を後にするとき、後を歩いていた若い女性が「やっぱりチャイコフスキーはいいわね」としみじみ語ったのが忘れられない。ソヒエフの「白鳥の湖」の演奏には、おそらくオーケストラというものを聞くときに体験できる最上のものがあったと思う。
チャイコフスキーの陰影に富んだ音色、華やかでメランコリックなメロディーが、大規模な管弦楽で鳴るときの極めて美しい瞬間の連続。冒頭から各地のリズムが響くそれぞれの踊りのシーンを経て終曲に至るまで、まるでアンコール曲を立て続きに聞くような満足を味わうことができた。もっとも本当のアンコールは「カルメン」の前奏曲で、これはフランス音楽で締めくくるための演出である。今回はプログラムがロシア物で占められたが、会場には主催したエアバスの関係者や外国人も多く、来日オーケストラならではのゴージャスな雰囲気が、春になったサントリーホールを一層華やいだものにしていた。
ベルリン・フィルの首席として今や世界一のフルーティスト、エマニュエル・パユは、フランス語圏のスイス人である。ハチャトリアンにフルート協奏曲などという曲があったか知らなかったが、実はこの曲はヴァイオリン協奏曲のフルート編曲版であった。30分以上もある長い曲で、終始フルートが猛烈に難しいソロを弾き続けており、目を見張ると言うか耳を疑うと言うか、その緊張もこれほど長いとおかしくなりそうである。第1楽章の主題再現部が聞こえてくると、まだ途中なのにこんなに長い曲を弾いていて大丈夫かと思うほどだった。
第2楽章はゆっくりとしたメロディーで、フルートというのはどこか日本的なムードがする。横笛と尺八を足して二で割ったような音色に、幽玄なムードを感じてしまう。このような長く、珍しい曲を、緊張を感じさせずに引き切る奏者と、礼儀正しく聞く聴衆。今日の客は実に品がいい。
そして第3楽章になると、ロシアというかアルメニアというか、ユーラシア大陸の各民族が入り混じったリズムが、聞くものを圧倒する。当然オーケストラの中にもフルート奏者がいて、クラリネットも含めて木管楽器とまさに競演するシーンが数多くある。もともとはヴァイオリン協奏曲なので、これは編曲による効果ということだろう。だがこれが実に面白く、パユは時折オーケストラの方を向いて、彼らとコンタクトを取るような仕草をするあたりは余裕を感じてしまう。
絶大なアンコールに応えドビュッシーの曲を演奏した時、演奏が終わっても10秒近く誰一人拍手も咳もしない静寂の時間が流れた。花粉症の時期、2000人もの人々が物音ひとつ立てない時間は、それだけで奇蹟である。このことも含めての音楽、演奏会というものを楽しむことが出来たのは、実演ならではのことである。やはり音楽は実演で聞くのがいい、と今回も思った。
それでも「白鳥の湖」の演奏を収めたCDかビデオが発売されたら、ぜひ買い求めてもう一度その演奏を楽しみたいと思った。しかし会場に設けられたCD発売ブースの店員に聞く限り、ソヒエフの「白鳥の湖」はまだリリースされていないようだ。ボリショイ劇場の音楽監督でもあるソヒエフだから、今後期待できるとは思う。でもこの曲はバレエ付きで見るのではなく、純音楽として楽しむこともできるほどに高水準な音楽である、とソヒエフ自身が語っている。
ソヒエフの指揮はN響でもおなじみで、もしかしたらトゥールーズのオーケストラよりも上手いかも知れない。けれども十年ものあいだ良好な関係を保っているオーケストラとの方が、慣れ親しんだ阿吽の呼吸は健在で、指揮者の意図が十二分に伝わっていると思われる。だから今回の演奏も力み過ぎず、余計な緊張感もないだけに、実にリラックスした状態で楽しめたいい演奏会だった。
2018年2月24日土曜日
NHK交響楽団第1879回定期公演(2018年2月10日、NHKホール)
マーラーの交響曲第7番は何度聞いても、作曲者のアイロニーが炸裂している、と思う。ゆるやかで沈痛な表情を持つ第1楽章を聞けば、これはやはりあのマーラーの、闇深く孤独で死の淵を彷徨うような表情、神経質で完璧主義、起伏のある精神状態と子をも失う悲劇に見舞われた極限の悲しさ・・・そのようなものが反映されているのだと思うだろう。だって副題に「夜の歌」などとなっており、「亡き子を偲ぶ歌」や「悲劇的」な第6番を経てマーラーは、とうとう気が狂ったのではないか、というわけだ。しかも主題はホ短調。チャイコフスキーが第5交響曲を書いた調性である。
聞き進むと、その思いは一層強くなる。第2楽章の夜の闇、第3楽章に至ってはグロテスクなスケルツォで、「優雅に踊る男女の姿は」やがて「魑魅魍魎が跋扈する光景に置き換えられる」(公演のブックレットより)。
だが本当にそうだろうか?ちょっと冷静に考えてみると、第4楽章あたりから雰囲気が変わって来る。「セレナーデ」と題された夜の音楽は、珍しいマンドリンの音色に合わせて室内楽的な精緻さと、優美な表情を併せ持つ音楽に変化している。
この思いは第5楽章の気違いじみた狂乱の音楽で確信に変わる。これはもしかしたら、マーラーが書いたおそらく唯一の楽天的な音楽ではないか?そう考えるとこの曲がわかってくるような気がする。絶頂期にあったマーラーが、短期間のうちに仕上げた第7番は、10曲ほどある交響曲のなかでも、異彩を放っている。聞き手を翻弄し、混乱させ、それがパロディだと気付くまで、少々時間がかかる。第6番から第8番に至る一連の作品は、マーラーの個人的な3つの悲劇とは真逆の、音楽的には極めて充実した作品群である。
この時期のマーラーは、少なくとも音楽家としては絶頂期にあった。一リスナーとして想像すると、やはり年齢を重ねることで、自信がついてきたのだろう、などと下世話なことを考えてしまう。だがそうでもしないかぎり、この第7番は理解しづらい。
NHK交響楽団が2月の定期公演でこの曲を取り上げるとわかったのは数日前であった。首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィのマーラーとなれば、これを聞かない手はない。私はここ半月ほど、心理的には腑抜けの状態になっていて、何か新しいことをする気になれない状態が続いていた。それは仕事上のいざこざが極限に達し、新しい担当を約束されながらも、公にはそのことが明確されないもどかしさに起因しているのは明白であった。お正月から年度末までのシーズンは、新しい生活に生まれ変わる不安定な移行の時期で、それはまた別れ、そして出会いのシーズンでもある。
私はこの曲に関する3つの個人的エピソードを交えながら、何をしたらいいのかわからない、やや混乱したの状況にあるときに聞くには丁度良いと以前に書いた。数年に一度あるかないかのような、このような状況が、再び私を襲っていた。 まだ寒い2月の陽気の中で、私は「夜の歌」がまさに相応しい曲に思えてきた。そうなったら聞くしかない。しかも今回は奮発してS席を確保。2階席の前の方で、久しぶりのコンサートを味わった。
定期公演の解説書にはヤルヴィ自信が次のように書いている。「私自身、当初『夜の歌』を分かりにくいと感じていました。しかし、風変わりで意外性に満ちたこの曲に整合性を求めることをやめ、音楽そのものに耳を傾けた途端、作品が自然と語りかけてくれるようになりました。」これはまさに私が経験してきたことと同じである。そして余裕を持ってこの曲を聞くと、もしかしたらそれこそがマーラーの皮肉を込めた現代社会への思いだったのではないかと思えてきたのである。
ヤルヴィとNHK交響楽団によるこの日の演奏は、唖然とするような見事さで一気にこの曲を弾き切った。テンポは総じて速く、第1楽章ではやや緊張感が見られたが、引き締まった筋肉質の音楽が姿を現すと、夜のセレナーデから饗宴の終楽章まで興奮の坩堝と化した。数年前、デイヴィッド・ジンマンによる指揮でN響の本作品を聞いたが、その時とは圧倒的に違う指揮者とオーケストラの信頼関係に根差した表現が、聞き手を心の底から圧倒した。捉えにくい曲が、ひとつの完成された曲として鳴っていた。
NHKホールにヤルヴィが登場して何年かがたったが、NHK交響楽団は最近特に素晴らしい演奏をする。ヤルヴィの第8番「一千人の交響曲」が演奏されたら聞きに行こうと思っていたが、これはもうすでに終わっていたようである。そして次週のフォーレ「レクエム」などは売り切れとなっている。むべなるかな、と感心した一夜。興奮冷めやらぬまま渋谷駅へと向かう聴衆の列に、再び冬の風が吹きつけて来た。
2017年11月19日日曜日
NHK交響楽団第1871回定期公演(2017年11月17日、NHKホール)
私のこれまでのN響演奏会の体験中、もっとも完成度の高いものだと思った。初めて聞く音楽であるにも関わらず、70分の間中私の心は、絶えず音楽に酔いしれ、立体的な合唱や打楽器を駆使したリズムに体をゆすった。舞台後方に7列にずらりと並んだ合唱団は、かすかに消え入るかのような透明な声を、まるでひとつの演奏体から発せられるような統一感を持って3階席の奥まで響かせた。合唱だけではない。今回の独唱に起用されたロシアの若手歌手の二人、すなわちスヴェトラーナ・シーロヴァ(メゾ・ソプラノ)とアンドレイ・キマチ(バリトン)は、いずれも指揮者トゥガン・ソヒエフが音楽監督を務めるボリショイ歌劇場で活躍する新鋭である。二人はいつのまにか、オーケストラ右手後方の、丁度チェロの後あたりに立ち、指揮者を斜めから見る。この二人の出番はそれほど多くはないが、歌が聞こえてくる時には、その声量も十分であり、低い声を駆使するロシア音楽の神髄ともいうべきものを表現するのに十分である。
NHK交響楽団もまた、これほど完璧にこなしたことはないのではないか、と思われるほどであった。決してあおるような指揮ではなく、そしてまた、異様な集中力が支配するものでもない。余裕があったかどうかはわからないが、そのように感じられるような安心感というか、何か非常に身についたものがあるように感じられる。それは簡単な話ではないだろう。なぜならこのような曲は滅多に演奏されるわけではなく、そして何とプロコフィエフなのである。
オラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)は未完に終わった作品で、そもそもは第二次世界大戦中に作成されたフィルムのための音楽だそうである。すなわちソビエト社会主義共和国連邦の音楽で、その作風は共産主義の賛美一辺倒であるかの如くだ。だが、この作品はスターリンによって批判を浴びることとなる。絶賛された第1部とは変わり、第2部は凋落した作品とみなされてしまうのだ。このような経過があったことが、むしろその後の復活に大きな意味を与えたのかも知れない。
フィルムを作成したのは映画監督のセルゲイ・エイゼンシュタインという人で、彼は日本趣味に傾倒した人であった、と解説書には書かれている。そして俳句、歌舞伎といったものを愛し、戦前のソビエトにおける歌舞伎公演にも触れている。だからこの作品は、ロシア史上最初にして圧倒的な専制君主であった人物(イワン4世)を題材としているにもかかわらず、随所に日本を感じ取ることができる部分があるという。
だから今回の公演では、ナレーターに起用されたのが歌舞伎役者片岡愛之助だったということにも通じる。すなわち、これは単に人気取りのための器用ではなく、このような作品の背景を元にしている。歌詞はロシア語だが、語りは日本語で、それは今回、歌舞伎の語りであった。歌舞伎役者の話す日本語は独特の大袈裟なイントネーションを伴っているが、それがロシアの寂寞とした音楽に奇妙に溶け込む。
ソヒエフの指揮する音楽は、いつも素晴らしい。そつがないという風ではあるが、職人的な見事さに集約されていて、隙がない。かといって醒めた演奏ではない。なかなかこういう演奏に出会えるものではないとも思う。昨年聞いた「白鳥の湖」でもそれは如何なく発揮されていたが、今回、珍しい作品だったにも関わらず、その板についた指揮ぶりは我が国のオーケストラと合唱団をしても、十分に感動的であった。
第2部あたりだろうか。合唱が無伴奏となって会場に轟くシーンが何回かある。合唱は最初の2列が東京少年少女合唱隊で、彼ら・彼女らは一部始終、微動だにせず行儀よく座っている。その後方3列に女声合唱、さらにその上、最上段2列が男声合唱であった。合唱は東京混声合唱団。この配列も興味深かったが、テノール・パートが男声の左側に配置され、このパートは時にソプラノのパートと共に歌う。ソプラノ・パートは中央列の右側に配置され、この時は対角線に位置する二つの合唱のみが起立して直方体を点対称にしたような図形となる。
だからだろうか音楽が立体的で、その十分な声量は類まれな統一感を持ちつつも舞台の奥から会場へと響き、さらにはオーケストラや独唱、語りとうまく融合して時間差がない。バランスの妙味と、作品を把握する点での曖昧のなさは、もしかするとソヒエフの天性ともいうべき才能ではないか、とさえ思った。コンピュータによって計算されたような機械的なものでは決してないのである。
兎に角なんと表現しようと、私の表現力では当日の素晴らしさをうまく伝えることはできない。最初、もう少し前の方で聞いた方が良かっただろうか、と思い始めていた。最近そういうコンサートが多かったからだ。だが音響がすぐれないと言われるNHKホールでも、才能ある指揮者にかかれば、実にその音楽はどこで聞いていても魅力的であった。唯一残念だったのは、3階席から見る字幕が小さすぎて読みにくいこと、それからマイクなしで語るナレーションの声が、ちょっと分散しすぎて聞き取りにくかったことである。だがそういったことも、これほど完全な演奏を前にしては、まあどうでもよかったことにしてもいいのではと思う。歌詞を追わなくても、音楽のみで十分に感動的であった。
後半になるにつれてオーケストラのアンサンブルにさらに磨きがかかってくると、合唱の響きは無伴奏の中にあっても、時空を超えて超越的な美しさを長く保った。その音楽に触れている恍惚した瞬間に、私はこみ上げてくるものがあった。歌詞がどうの、というものではない。純粋に美しい音楽に触れただけで起こる不思議な瞬間が、そこにはあった。滅多にできない感動を味わった人は多かったに違いない。終始物音ひとつしないマナーの素晴らしい客席からは、間をおいてからは熱狂的な拍手が鳴りやまず、それは音楽を愛するがゆえに大きく、そして献身的であった。
いい演奏を聞いたと思った。すべてを聞いているわけではないが、もしかしたらこの演奏は、今年のN響のベストではないか、と思った。
2017年10月14日土曜日
ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(2017年10月4日、新国立劇場)
新国立劇場の17-18シーズンのこけら落とし、ワーフナーの楽劇「神々の黄昏」は、今シーズンで最後となる飯森泰次郎が指揮する読売日本交響楽団という組み合わせ。読響はこの劇場のデビューだそうである。プレミアの10月1日には皇太子もお見えになったという舞台を、2回目の公演である4日に見に行った。この時の感想を、早く書いておかねばと思いながら、なかなか筆が進まない。どういうわけかわからないのでが、今回、そういうわけでブログの更新が遅れてしまった。このブログを5年以上も続けてきたにもかかわらず、何から書き始めていいのかわからない、というのが正直なところだ。その理由は、これもよくはわからないのだが、まず体調が悪かった。1か月ほど前から座るとお尻が痛く、しかも目がぼやける。この状態で公演に行けるだろうか、と随分前より心配だった。たとえ行けたとしても、6時間にも及ぶ公演時間は、数あるオペラの中でも最長の類に入る。
だがワーグナーの最高傑作を、かのバイロイトにも出演するような歌手で聞く贅沢を考えると、仕事を休んでも出かける価値は十分にある。人生に幾度もない機会だからである。職場から新国立的城は歩いて10分余り。午後から会社を休むつもりだったが、体調を整える必要から計画を変更し、朝から自宅で療養、昼には行きつけのマッサージに出かけた。コンビニでサンドイッチなどを買い込んだのは2時過ぎで、それから初台のバーで一休み。とはいえ飲み過ぎると2時間にも及ぶ第1幕に、トイレに行きたくなったら困る。事前にアマゾンで座布団も購入し、満を持して出かけたが、何とオペラ・グラスを忘れてしまった。
仕事や家庭の事情に振り回され、ストレスの多い毎日である。そんな時にも「指環」は聞かねばならない。4月に聞いたヤノフスキのN響の演奏(東京・春・音楽祭、演奏会形式)を思い出しながら、ベームやティーレマンの歴史的ライヴ録音でおさらいし、さらにはかつてビデオで見たシェロー(ブーレーズ盤)や ルパージュ(ルイージのメト盤)などを思い出してみた。どれも大変な名演である。4月の公演では、ジークフリートが急な交代で力不足だったこと以外は、息もつかせぬ演奏に心を打たれた。メトの大舞台に設えた、縦に回転する何枚もの板の列にライン川の水面やローゲの炎が表現される。そこが何ジークフリートの死で次第に赤く染まっていくシーンなどは、圧巻であった。
それに比べると、今回のゲッツ・フリードリヒの演出は、今となっては少し古く、そしてやや簡素であると思われた。新国立劇場のハイテク装置をうまく使えば、もっと効果的な演出も可能だったのではと思ったのは、どうも3階席ともなると舞台の奥が良く見えない。幕はもっと上まで上がるのではないかといつも思うが、それがまず不満である。やはりオペラは1階か2階の席で見るべきなのだろうか。今回も安い席にしたことを、少し残念に思った。
オーケストラの音量は確かに大きく太い。随分練習を重ねたであろうその音色はワーグナーの世界を表現するには充分であった、とここでは書いておこうと思う。第1幕の冒頭の和音から、それは感じられた。最初は少し緊張感も高かったように思われたが、第3幕の聞かせどころでは完璧に決まった。その「ジークフリートの死」では、舞台上にジークフリートが横たわったまま暗い中にかすかに浮かび上がる。音楽は滔々と高らかに鳴り響き、クライマックスを迎える。むしろ音楽を中心に据えた演出はおそらく古典的なものだが、今ではもっとヴィジュアルなものが好まれるような気もする。
歌手についても、一通りここに書かなければならない。けれどもそれは、実は少々苦痛である。というのは、それらを評価するほどに聞きこんでいないことに加え、どういうわけか今回の演奏は、全体的に興に乗らなかったからである。ごく個人的な感想として、かなり客観性は欠いているかも知れないことを承知の上で言うと、ブリュンヒルデを歌ったペトラ・ヤングは、第2幕まではまずまず好調だったと思う。だが最後のシーンでは少し息切れであった。それに比べると、ジークフリートを歌ったステファン・グールドは第3幕に照準を合わせることに成功し、そればかりか第1幕から安定していたように思う。ただ細身の、若くてたくましい容姿を希望する向きには、ちょっと期待が異なるなどということは、まあ書くべきではないことだろうと思うが・・・。
ハーゲンのアルベルト・ペーゼンドルファーはとても良く、私にはこの日一番の聴きごたえ。さらにグンターのアントン・ケレミチェフは、第2幕の後半で、とてもうまいなあ、と思った。グートルーネは安藤赴美子。及第点の出来栄え。そしてヴァルトラウテのヴァルトラウト・マイヤーは、ブリュンヒルデの妹なのだが、むしろ貫禄十分である。何か母親が来て娘を説得する感じ。彼女は出番こそ少ないにもかかわらず、第1幕のカーテンコールで圧倒的な歓声をかっさらていた。かつて学生時代に受験勉強をしながら聞いたバイロイト音楽祭の録音放送に出ていたような歌手を、生で聞いているかと思えば感無量である。
その他、3人のノルン(竹本節子、池田香織、橋爪ゆか)もほれぼれとするハーモニーを聞かせたと思う。3人は第3幕の冒頭で、舞台の下から出てきて、ライン川を象徴するLEDの幾本ものバーをくぐりながら歌う。この青いLEDは印象的なのだが、ちょっと簡素であり、そしてやや辛気臭い。それは赤い紐や岩山を取り囲む炎など、全体的に言えることで、もう少し贅沢な舞台を期待していた私は少しがっかりであった。お金をかけるべきというよりは、照明や舞台装置をもっと工夫できないか、といつも思う。私はここ新国立劇場で見た照明の美しさに何度も感動しているから(「夕鶴」とか「影のない女」、それに「ピーター・グライムズ」)、いつも期待してしまうのだ(「トスカ」や「アイーダ」もいい)。
やたら主役とばかりに鳴りまくるオーケストラに、今ではちょっと質素な演出。 にもかかわらず私はあっという間の6時間を楽しむことが出来た。第2幕はオペラチックな雰囲気も楽しめるが、そこで「指環」唯一の登場となる新国立劇場合唱団も、いつものように上手い。それから普段あまり気に留めないことなのだが、字幕が現代風でとてもわかりやすい。文語調だった4月の「東京・春」とは対照的である。それがあの、ワーグナーの古風で大時代がかった、まるで時代劇でも見るような雰囲気に相応しいかどうか、実際のところよくわからない。
幕間には40分程度の長い休憩時間もあり、私はいつものように屋外に出て、もうどっぷりと日の暮れてしまった夜空に映える高層ビル群を眺めながら、しばしワインのグラスを傾ける。吹いてくる風はもうすっかり秋めいており、かといって寒さは感じない。ただ少し湿気の多い天候は、ちょっとワーグナーには合わないかも知れない。
今回はどうしても文章に書くことが楽しめない。他の方々の意見も総合すると、やはりこれは個人的な問題、特にストレスと体調によるのではないか、と思っている。演奏の水準は相当高いが、なぜかあまり入り込めなかった演奏。それが個人的なものか、それとも客観的なものか、そのあたりがどうもよくわからない。でも、歌手やオーケストラのせいでレベルの低い公演は想像がつく。そうでなかった、とだけはハッキリ言えるのは確かである。
2017年9月12日火曜日
東京都交響楽団第840回定期演奏会(2017年9月11日、サントリー・ホール)
半年に及ぶサントリー・ホールの改修が終わり、その直後にあたる9月11日、都響の定期演奏会に出かけた。ハイドンのオラトリオ「天地創造」を聞くためである。月曜日だというのに、しかも前日には別の会場で同じプログラムを演奏していると言うのに、客席は満席に近く、この演奏会の前評判の良さがうかがえる。音楽監督大野和士が満を持して挑むハイドンの最高傑作に、何とスウェーデン放送合唱団が登場するではないか。しかも字幕付きである。こんなコンサートに出かけないわけには行かない。ただでさえ「天地創造」を生で聞く機会などそうあるわけではない。7月には早々と1階のS席を確保し、体調を万全に整えた。仕事の疲れも残ってはいたが、今年の9月は早くも涼しい風が吹き、新シーズンの幕開けに相応しい華やいだ雰囲気を感じるのは期待値のせいか。
大野和士を聞くのは初めてである。そしてもちろんスウェーデン放送合唱団も。アバドのCDなどによく登場するこの北欧の洗練されたプロ合唱団は、今ではペーター・ダイクストラによって率いられている。彼はバイエルン放送の合唱団で名を馳せた実力派である。ハイドン一美しい、いや世界の音楽の中でもっとも美しいこの曲を、最高峰の合唱で聞けるというのがこのコンサートに注目する最も大きな理由である。
ところが演奏が始まると、どの一音たりともおろそかにせず、集中力と気合の入った演奏に一気に釘付けとなった。まだ「混沌の描写」である。その何かを感じさせるような重々しい雰囲気は、やがてラファエルの「はじめに神は天と地をつくられた」と歌う荘重さに引き継がれ、会場が固唾を飲んで聞き入るような緊張感に包まれる。ようやく合唱が静かに歌い始めると、丸で会場全体がひとつのバランスの取れた気球に乗っているように感じられた。まったくもって必要十分と言える絶妙のバランスは、少人数の合唱団だけに限ったことではない。3人の独唱とオーケストラまでもが、こんなにも上手くブレンドされた演奏は初めてである。完璧にミキシングされたCDでしか、こういう音は聞けないと思っていた。だがいままさに、ここで、このような瞬間の連続に接している、そう考えると体が硬直し、涙が出るような感動に何度も見舞われるのだった。
「光あれ!」と叫ぶ冒頭の頂点に達する以前に、私はこの演奏が類まれな名演であることを確信した。十分に練習が重ねられ、何度もの調整を経て、この演奏が可能となったのだろう。それは慎重に節度を保っていることに加え、音色はビブラートが抑えられ気味であることによって、新鮮でピュアであった。木管楽器の奏者は、自分のパートを完璧にこなし、独唱や合唱と重なっても大きすぎず小さくもない。指揮者の正面でチェンバロがレチタティーボの伴奏に始めるたびに、私は深く息を吸い込んで我を取り戻すことを繰り返した。
これまで何十回となく聞いてきたどの演奏よりも素晴らしいと思ったのは、それが実演であるからだけではないことは明らかだった。これは現在経験し得るもっとも完成された演奏のひとつであると言ってよいだろう。次々と進められてゆくハイドンの音楽に深いため息をつきながら、あっという間に前半が終わった。ただ前半が終了したのは第2部の中間地点で、その時点でまだ神は人間を創ってはいない。第3部から後半とすると前半が長くなりすぎるのを避けたのだろうと思う。けれども私は前半に第2部を最後まで一気に演奏してほしかった。
後半はその人間創造のシーンから始まり、第3部のアダムとエヴァによる人間賛歌へと移っていった。ハイドンの音楽はますます磨きがかかり、私がいつもクライマックスだと思うアダムとエヴァによる二重唱を始めとする約10分間は、至福のひとときであった。「アーメン」と深くコーダの余韻を残しながら音楽が消え行く時、会場にはしばし静寂が訪れ、そして静かに、だが確信に満ちた拍手が始まった。以降、何度もソリストや指揮者が舞台に読み戻されるに連れ、それは次第に大きくなり、やがて最高潮に達した。見ると1階席の真ん中を足早に通り過ぎる長身の外国人がいた。カーテンコールに呼ばれた彼は、合唱団を率いるダイクストラ氏であった。
3人の独唱は、ソプラノが林正子(ガブリエルとエヴァ)、テノール(ウリエル)が吉田浩之、そしてバリトン(ウリエルとアダム)がディートリヒ・ヘンシェルであった。ヘンシェルは安定した見事な歌でまったくもって素晴らしかったが、吉田の声も特筆に値する。彼は透明で良く通るキレイな声を、大変上手く表情をつけながら、最後まで歌い切った。ドイツ語の歌としても及第点だと思う。それに比べると林の歌は、声量こそ確かなものの、表情にやや雑な部分があり、ドイツ語の発音にも違和感があった。フランス・オペラの歌手ならこういう歌い方だろうか。だが彼女も声の通り方に不満はなく、後半では気にならない程であった。
大野和士という指揮者を初めて聞いたが、指揮はわかりやすくて安定しており、演奏のコンセプトが合唱やソリストにもよくいきわたっていたと思う。完成度の高さにおいて、今回触れた「天地創造」の実演はなかなかのものだったと思う。合唱の美しさ、それが管弦楽やソリストと合わさって和音を形成する時、左右から広がりのある歌声と楽器が次から次へと重なっては絡み合い、時には静かさの中に余韻を残した。
もし可能なら次は「四季」を聞いてみたい。私はよりハイドンらしい茶目っ気の感じられる「四季」の方が好きである。だがこちらもほとんど実演で聞いたことがない。規模も大きく華やかなのに、実演に接する機会はずっと少ないだろう。ハイドンの合唱作品など、予算がかかるうえ宣伝効果に乏しいのだろうか。だが今回の「天地創造」で見せた実力をもってすれば、それも可能ではと思わせる。それから字幕が用意されていたこと、詳しい解説書が配布されたことなどは、当たり前のように思っている人もいるが、大いに評価しておくべきだ。でないとあの音楽による擬態表現がまるでわからないからだ。
指揮者とソリストは、とうとうオーケストラが引き上げても続く拍手に、再度呼び戻された。いつまでも続くブラボーと拍手は、会場に詰め掛けた聴衆の多くが今回の演奏の高さを評価していたことの証明に他ならない。Twitterで「明日ももう一度聞いてみたい」と書いていた人がいたが、この方は前日の東京芸術劇場の公演を聞いているようだ。今日、私も同じように思う。けれども同時に、こんな嬉しい演奏には、もう少し余韻に浸っていたいとも思う。もう十分に音楽を楽しんだという充実感が、私を覆っていた。気が付くともう9時半で、そうかこの拍手は30分近くも続いたのか、などと思いながら、溜池山王への足取りを速めた。
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