2013年10月27日日曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(2013年10月26日、新国立劇場)

モーツァルトの「フィガロの結婚」ほどよく語られるオペラはない。オペラに関するあらゆる書物で、初心者向けの「最初に聞くべきオペラ」の筆頭は、ほぼ間違いなく「フィガロ」である。あるいはもう少し本格的な音楽史、オペラの専門的な分野の書物でも、「フィガロ」は重要な作品と位置付けられている。モーツァルトの伝記でもそうだ。そして人気の点でも、また上演される機会の多さにおいても、これほどよく知られた作品はない。

そうであれば聞き手の作品への期待は一気に高まる。音楽は全編にわたって素晴らしく、歌が耳を魅了してやまない。歌手たちの演技やその在り方においても、限りない数の解説がなされている。発売されているCDも多い。古くはエーリヒ・クライバーやカール・ベームの、古き良きウィーンの演奏から、古楽器奏法により一世を風靡したアーノンクールやガーディナーの歴史的録音、アバドやカラヤンの個性的な名演奏まで、いずれも評価が高い。

そのような「フィガロ」を、私はこれまで一度も見ていない。それは不思議な事で、実際、モーツァルトの他のオペラ、すなわち「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の実演はすでに経験済みである。一度でいいから「フィガロ」をと思いつつ、これほどよく上演されるオペラもないので、いつでも見られるだろうと、思っていた。だが、そう言っていてはいつまでたっても機会がない。丁度、新国立劇場の新シーズンに、これまで何度も上演されてきたアンドレアス・ホモキのモノクロな舞台が登場する。ここ数年は、新国立劇場で数々の名演奏に接することができているので、これを見逃すこともない。妻はモーツァルトのオペラを見たいと言い出したので、私は迷わずチケットを買った。

今秋何度目かの台風の到来となった土曜日の午後だったが、第1幕の終わる頃には晴れ間ものぞかせた。だが少なくともそれまでの舞台を見た私には、これほど閉塞感のあるオペラは初めてである。いくつかの評価すべき事柄を差し押さえて、この上演は完全なる失敗であったと言わざるを得ない。私にとってのオペラ体験の中で、これほど失望を味わったことはない。その理由を以下に書こうと思うが、これを書くまでに私はなかなかショックから立ち直れなかった。だが、少なくともこれは個人的意見である。私の後に座っていた若い女性グループは、その会話内容からとても感心した様子であった。見る人によっては、名演であった可能性もないわけではない。

失望に終った主な原因は、歌手の力量不足(フィガロ、伯爵、それにケルビーノ)である。声が出ていないことに加えて、表情に乏しい。このことによって好演していたその他の歌手(伯爵夫人、スザンナ)が沈んでしまった。アンサンブルも大きくは乱れていないものの、共鳴し合うところがない。「フィガロ」の命とも言うべき部分が、これで引き立つことがなく、ただ長いだけの結婚式のたわごととなった。

指揮(ウルフ・シルマー)と東京フィルハーモニーは悪くないどころか、非常に良い。合唱もしかりである。演出はどうか?2003年以来続いている、白と黒の四角形で構成される(だけの)評判の演出について、私は好感を持っている。ダンボール箱とタンスだけの道具は、時折スポットライトの色が変わる以外は、ずっとそのままである。壁が徐々に傾いて、最後は舞台自体が傾く。衣装も徐々に簡素になっていく。このことが「フィガロ」の最も重要なメッセージの核を浮き立たせる。絶対的な価値観の喪失と人間性への賛美。どこでも十分に語られている「フィガロ」のメッセージは、それだけを残した形で舞台で表現される。

このような必要最低限にまで一般化され、贅肉を削ぎ落した演出では、集中力を維持しつつ早いテンポで一気に聞かせる伴奏がふさわしい。問題はそのようなオーケストラと演出に、ついていけていないのである。歌手の実力からすれば、高すぎるレベルの演出であったと思う。

フィガロは代役となったイタリア人のマルコ・ヴィンコ。彼はバスの声である。どちらかというとお調子者のフィガロには不向きである。それを逆転できるほど個性が際立たない。フィガロの人間味が出ないのでは、舞台は白けてくる。これが一番の原因である。一方のスザンナは日本人として抜擢された九嶋香奈枝であった。彼女は最高に素晴らしく、この舞台で一人気を吐いていたが、そのことがかえって気の毒であるように感じられた。

もう一人の成功はマンディ・フレドリヒの歌った伯爵夫人で、この素晴らしいソプラノはスザンナ以上に板についており、第2幕の冒頭のアリア「愛の哀しみ」では唯一のブラーヴァを誘い、第3幕の「楽しい思い出はどこへ」では、眠くなる聴衆を一気に覚醒させるほどだった。しかしアルマヴィーヴァ伯爵のレヴェンテ・モルナールは、この役を演技の上では楽しませたようにも感じられたが、歌唱の点では平均点以上の出来栄えとなったとは思えない。少なくともそのように感じでしまう。

ミス・キャストはケルビーノのレナ・ベルキナにも言える。このおませなズボン役は、もっと大胆に歌を表現して欲しかった。2つの重要なアリアである第1幕の「自分で自分がわからない」と第2幕の「恋とはどんなものかしら」は、まったく共感が感じられる歌い方ではなく、いずれも完全な失望に終わると、いったい何を評価すればいいのだろう。フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」と合わせて大きな不満となった前半では、フィナーレで畳み込むような快速の演技も、何か台本を追っているだけのように感じられた。

それに比べると竹本節子のマルツェリーナは悪くなかった。いや3番目に良かった。彼女の相手であるバルトロの松井浩、バジリオを歌った大野光彦、さらにはバルバリーナの吉原圭子はみな好演していた。総じて伯爵夫人を除けば、外国人の出来が悪く、日本人の出来栄えがいい。こういうことならいっそ、オール・ジャパンでやってはどうかと思ってしまう。

指揮者のウルフ・シルマーは私が90年代の前半にNHK交響楽団を指揮したコンサートが大変感動的で、今回非常に期待した。その通り、この演出が救われない大失敗になることを辛うじて防いだ。上演後、短いカーテンコールが終わると、足早に会場を出た。期待が高すぎたのがいけなかったのか、もうしばらくオペラを見る気がしなくなってしまった。こういうこともあるのだろうと、自分に言い聞かせた。

(追記)
しばらくたって、東フィルの演奏はそんなに良かったのか、と思うようになった。序曲の最初から音はやや抑え気味であった。これは歌手の声とのバランスを考慮してのものかと思った。今でもそう思っているが、そのことでモーツァルトの音楽がいつも鳴り響いている感じに浸ることはできなかった。そういう意味で結果的に、満足の行く出来ではなかったとも思う。

2013年10月25日金曜日

ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲ヘ長調「秋」RV293(Vn:ギドン・クレーメル、クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団)


村人たちは歌や踊りで、
大いなる収穫の喜びを祝う。
人々はバッカスの酒に紅潮し、
ついには眠りに落ちる。
 
おだやかな空気が心地良く吹くと、
歌と踊りはやがて消えてゆき、
すべての人々を、
心地よい眠りに誘う。
 
夜が明けると狩人たちは、
手に角笛と猟銃を持ち、
犬を連れて狩りに出る。
 
獣たちは逃げ、狩人たちは追いかける。
銃声と犬の鳴き声に驚き、
傷つき怯えて疲れ果て、
追いつめられて息絶える。

いつまでも暑いと思っていたら、いくつもの台風がやってくると、あっという間に寒くなった。秋という風情にはいささか乏しいが、この季節はまた音楽が聞きたくなリ始める季節でもある。

ヴィヴァルディの「四季」ほど何種類もの演奏が録音され、さらにはビデオ作品においても様々な試みがなされる曲はない。それはやはりこの曲の親しみやすさと表現上の多彩さを受け入れる余地、つまり曲が見事なまでに素晴らしいからだろうと思う。こんなバロック音楽はほかにない。

ソビエト生まれのヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルは何とここでアバドと競演をしている。その演奏は極めて個性的だ。こんな演奏は他にはないと思うが、それもまた「四季」だから可能な表現だろう。その中で一番完成度の高い部分は「秋」ではないかと思うに至った。クレーメルは演奏の主導権を握り、時にアバドの指揮さえも挑発している。だが「秋」にはそのいい部分が表れているようだ。

第2楽章の、心地良い眠りにうとうとするような静かな部分を、ロマン派の曲であるかのように演奏する。ロンドン交響楽団はこの時期のアバドのパートナーで、研ぎ澄まされた鋭角的な表現が印象的だったが、それは今の時代を先取りしてた。

秋は私の一番好きな季節で、毎日続く快晴の日々に、すこしづつ紅さを増していく木々のこずえに何とも言えない寂しさを感じたものだった。だがここ数年は、まったくそのような気持ちになれない。異常気象のせいなのか、それとも個人的な心境の変化なのか。あるいはまた、自然のない大都会での暮らしが季節感を奪っているのか。

そういえばアバドの指揮した「四季」にはもう一枚、ヴィクトリア・ムローヴァとの演奏もある。こちらのほうが落ち着いた演奏だが、逆に、真面目すぎて物足りない。やはり「四季」は衝撃的なまでに攻撃的で、センセーショナルなものがいい。

2013年10月22日火曜日

オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」(パリ・オペラ座・ビューイング2012-2013)

昨シーズンに始まったパリ・オペラ座ビューングのうち、オペラに関するもので見落としていた「ホフマン物語」を見ることで、すべて見たことになる。その他は「カルメン」「ジョコンダ」「ヘンゼルとグレーテル」「ファルスタッフ」である。これらは事前の期待とは裏腹に、どれもなかなかの出来で、結構楽しむことができた。この「ホフマン物語」はとりわけ感動的なものであったが、その理由はロバート・カーセンによる天才的な演出によることが大きい。指揮はトマーシュ・ネトピル。

プロローグでは歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の幕間にバーのカウンターができあがる。そこまでの展開にも目を見張るが、横一線に立て付けられたカウンターの上で、ホフマン(テノールのステファノ・セッコ)は「クラインザックの物語」を歌う。舞台には合唱団の他に数多くの登場人物がいるが、あらすじを読んでその人々を理解しようとしないほうがいいかも知れない。

歌劇「ドン・ジョヴァンニ」に登場する3人の女性、すなわちドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、それにマルツェリーナというキャラクターの違いが、この「ホフマン物語」にそっくりコピーされている、とカーセンはインタビューで答えている。彼女たちはすなわち、ジュリエッタ(ソフィ・コッシュ)、アントニア(アンナ・マリア・マルティネス)、それにオランピア(ジェーン・アーチボルト)ということである。もう一人、ホフマンが恋文を奪われてしまう憧れの女性がステラだが、一般的な解釈ではこのステラの3つの側面が、それぞれこの3人の女性の姿であるという。

「ドン・ジョヴァンニ」になぞらえる見方は、私にとって興味深いものであった。ホフマンにはミューズの化身で親友のニクラウス(メゾ・ソプラノのケイト・アルドリッチ、ズボン役)がいて、常にホフマンに付きまとうのだが、彼こそ「ドン・ジョヴァンニ」におけるレポレッロのような感じである。

第1幕ではオランピアの登場で、ここは本作品のもっとも大きな見どころだといつも思う。機械人形に扮したコロラトゥーラの長大なアリア「生け垣に小鳥たちが」は、そのへんてこりんな仕草と相まって見るものを沸き立たせる。ここでのアーチボルトの演技も見事という他はなく、彼女の独壇場であった。機械人形を組み立てたスパランザーニ(テノールのファブリス・ダリス)は、汚れた白衣をまとっていて、これも見応え満点。

今回の上演では、3人の女性の役はそれぞれ別のソプラノによって歌われたが、悪魔の役であるリンドルフ(上院議員)、コッペリウス(人形細工師)、ダペルトゥット(魔術師)、それにミラクル博士(アントニアの医師)はひとりのバリトン歌手、フランク・フェラーリによって演じられた。この4人は各幕でそれぞれ登場し、ホフマンの恋愛の邪魔をする。彼のたくらみはことごとく成功し、そこが数々の女性をものにするドン・ジョヴァンニと決定的に異なる点だ。

第2幕は一転、イタリア・オペラの様相を呈する。それもそのはずで、ここはオペラハウスの舞台である。通常の舞台の位置にオーケストラ・ピットがこしらえられ、その中でアントニアが登場、亡き母から受け継いだ美しい声を出して歌いたいが、これが禁じられている。彼女は歌うと死んでしまうほど病弱になっているのである。だがホフマンが静止するにもかかわらず、医師にそそのかされて歌ってしまった彼女は死に絶えるのである。ここの重唱を含む音楽は、まるでヴェルディのオペラのようだ。そういえばプロローグで、ホフマンが過去の恋を思い出すところのメロディーは、まるでワーグナーの音楽を思わせる和音がだと思った。もしかしたらオッフェンバックはこのオペラで、少しパロディを付け加えたのかも知れない。

1時間もある長大な第2幕は、オペラとしての見どころが多いが、ここで舞台の上に出来上がっていたもう一つ上の舞台の幕が開いて、アントニアの母親が登場するあたりは素晴らしいと思った。そして幕切れではオーケストラが登場し、指揮者がタクトを振り下ろす。その見事な演出は鳥肌が立つくらいだ。

第3幕は幕が開くと、今度はオペラの客席がこちらを向いている。何列もに並べられた座席が交互に揺れると、丸で波が立っている海のようだ。その揺れに合わせてあの舟歌が歌われると、やはりこの演出家は天才だと思った。そこへ入ってくる合唱団扮する観客は、それぞれ男女が抱き合ったりしている。ここが実は娼館なのではないかと思わせる。そしてジュリエッタはホフマンを手球に取る。カーセンの話では、ホフマンの恋の発展段階によって相手の女性が変わっていくという。これは彼の成長物語だというのである。

エピローグで再びバー・カウンターが登場。「ドン・ジョヴァンニ」が終わってホフマンは取り残されるが、ここからがまた美しい。舞台の右上だけが光輝いて、その光に向かってミューズ(ステラ?)とホフマンが歩んでいく。いろいろな改訂版がある「ホフマン物語」だが、この終わり方は見ているものを感動させる。なるほどこんなにおもしろいオペラだったのか、と感じた4時間の上演が終わり、雨の降る渋谷の街を後にした。

2013年10月21日月曜日

映画「椿姫ができるまで」(2012年、フランス)

南仏の夏の音楽祭の一つ、エクサン・プロヴァンス音楽祭で2011年に上演されたヴェルディの歌劇「椿姫」の制作過程を追ったドキュメンタリー映画。見て思ったことは、このような映画を作るにあたり、どのような観客層を中心にしているのだろうか、ということだった。

あらゆるオペラの中で「椿姫」ほどよく知られており、人気のある作品はない。私もその魅力の虜になったことが、オペラの世界に足を踏み入れるきかっけだったことは先にも書いた。どのフレーズも流れてくれば歌えるほどに知ってしまったが、それでも発見は尽きない。そのような患者は世界中に数多くいることだろう。だとすれば、もう何度も「椿姫」を見てよくわかっている人が、新たな発見をするような様々な見どころを散りばめる必要もあり、決して素人向けの安っぽい解説ものになってはならないということ。この映画はその通りの出来だった。

他方でオペラを見たこともなければあらすじもしらない人にとってはどうか?私はそれについてはよくわからない。基礎知識がまったくない、真っ白な気持ちでこの映画を見てみたいと思った。だがそれはできないことだ。想像するしかないが、オペラを知らない人が見ても、これはそれなりに楽しめるのではないか。そしてできれば一度、生でオペラを見てみたいと思わせたのではないか。だから、どちらの層にも見応えのあるものだったのではないだろうか。

主役を演じたのはフランスのナタリー・デセイで、私にとってはそのことがこの映画を「見てみたい」と思わせた理由である。他の歌手なら、残念ながらそうは思わなかったかも知れない。一線級の歌手が、ヴィオレッタをどう演じようとするか、そのことに興味が湧いた。

当日は台風の近づく大雨の天候で、映画館の場所を詳細に把握しないまま出かけた私は、渋谷の宮益坂をさまようことになった。ようやくのことで見つけたその映画館は、小さなビルの1階にこじんまりと存在した。こんな小さなところでやるのか、と思った。平日の午後の上演に客は十名程度。それでも3分の1といった感じ。

映画は、DVDの特典映像などによくあるような「メイキング映像」とは一線を画している。映画としての演出(監督:フィリップ・ベジア)にもすぐれているが、緊張と迫力で舞台に迫るという感じではなく、むしろしっとりとした感じに見せる。最初の振り付けから、やがてはピアノ付きの稽古、さらにはオーケストラとの音合せ、そして本番と、何通りものセッションを撮影し、それを通常のストーリー通りにたどりながら、つなぎ合わせる。ピアノ伴奏の稽古が、オーケストラ伴奏に変わるかと思えばその逆もあり、稽古の出来具合を進めたり遅らせたり。その様子が無理なくわかるので、見ていても違和感がない。

音楽を追いながら、私はやっぱりヴェルディのこの作品はいい曲だなと思った。音楽それ自体に語らせるだけで、物語が目に浮かぶ。だが、この映画では実は大きな見どころがカットされている。例えば第2幕の最後の重唱のシーン。ここは全体のクライマックスである。そして第3幕の「パリを離れて」。ここを見ずして「椿姫」を語るなというシーンである。これらを外したのは意図的であるとしか思えない。これらがなくても十分楽しいし、本番の楽しみをすべて奪う必要もないということだろうか。

デセイほどの大歌手となれば、演出家も遠慮がちに助言をする。後は歌手の自主性と演出家とのコラボレーションである。デセイはただ品がありすぎてジェルモンを歌った若い歌手よりも貫禄があるのは少し変だ。アルフレードは好感の持てる出来栄え。演奏はルイ・ラングレ指揮のロンドン交響楽団。ジャン=フランソワ・シヴァディエの演出は、過剰な読み替えでもなければ古典的な退屈さもない。場面を象徴する絵の垂れ幕が何枚も舞台に吊り下げられ、道具は必要最小限ながら、情景を強調する効果を持つ。

そういえばこの映画では、意図的に音声が消えるところがある。次はこのメロディー、と分かる人には期待をさせておいて、音が出ない。映像は歌手が歌っていたり、演じていたりする。その無音声部分によって、より映像と音楽への集中力が増す。このようなこだわりのある映像と編集は、やはりこれ自体が作品としての主張を持っていることを意味している。だが、それも素晴らしい音楽と歌手がいればのこと。あくまでそれを邪魔しない、というのが好感の持てるところである。後は実際に作品を見てみて欲しい、ということだろう。

2013年10月13日日曜日

ヴェルディ:歌劇「リゴレット」(2013年10月12日、新国立劇場)

「トロヴァトーレ」「椿姫」と並び中期の三大傑作とされる「リゴレット」は、他の二作と比べるといささかとっつきにくい作品ではないかと思う。「トロヴァトーレ」では歌に酔っていればいいし、「椿姫」ではドラマに涙していれば良い(もちろん歌も素晴らしい)。だが「リゴレット」はそう簡単ではない。強いて言えば「リゴレット」にはその両面があり、しかも他の二作品では、他の要素に埋もれてしまっている要素が、厳然と強調されて存在する。「リゴレット」はヴェルディがヴェルディらしさを発揮した最初のステップであると言える。そのことによって、聞き手はヴェルディのオペラが、単に歌やストーリーを追えばいいだけの作品ではないことを知る。

「トロヴァトーレ」ではジプシー女が、「椿姫」では娼婦が、それぞれ身分の低い存在として登場し、その身の哀れさゆに悩み、動き、堕ちていくといったことがあるが、このことを知らなくても(あるいは知ろうとしなくても)、作品は楽しい。だが「リゴレット」ではそうはいかないのである。この作品の主人公は、もやはテノールでもソプラノでもなく、負の運命を背負ったバリトンである。その運命とは、外見的には身体的な不自由さと身分だが、そのことによってさらに負うことになる宿命が加わる。それこそこの作品のテーマでもある「呪い」だが、私にはこれは偶然によってもたらされたものではなく、必然的に彼が背負うことになったものだと感じる。

だとすればこれほど救いようのない作品はない。「トロヴァトーレ」のジプシー女は、最後には復讐を果たし、「椿姫」では心が昇華して、美しさのあまり死んでいくが、「リゴレット」の幕切れに残るのは、最後の心の砦であった最愛の娘を失った道化師の姿であり、その運命の残酷さである。マントヴァ公の脳天気な歌声が響けば響くほど、それは強調される。だがマントヴァ公にはさほど悪意はなく、ジルダはただひたすら可愛らしい。そうであればあるほど、リゴレットの哀れさは強調される。

このような心の内面を深くえぐるような作品では、いかなる装飾的な舞台も主体足り得ない。むしろそれらは無駄でさえある。ウィリー・デッカーの「椿姫」のように、もしかしたら舞台にソファーがひとつだけ・・・というのもありかも知れない(もっとも主人公が老人なので動きは少ないが)。だが、今シーズンの新演出だった新しい新国立劇場の「リゴレット」は、6月に見た「ナブッコ」の時と同様の大胆な読み替え演出(担当はアンドレ アス・クリーゲンブルク)で、しかもその出来栄えは「ナブッコ」には、私にとって遠く及ばないものだった。

舞台は現代のホテルということになっている。前奏曲の間に幕が開き、左右に配置されたバー・カウンターと、中央の4階建てのホテル。その廊下に大勢の客がたむろしている。その中には下着姿の売春婦もいる。高級ホテルということになっているようだが、このような雰囲気はむしろアジアの中級クラスのようでもある。そういえば90年代の終わりの頃にマカオに行ったが、そこの有名な老舗ホテルのロビーやカジノには、それとわかるロシア人の女性が大勢たむろしていた。あの雰囲気にそっくりである。

歌が始まるとその舞台はやおら回転を始め、どこから誰が登場してくるのか目を追うのに忙しく、歌に集中できない。せめてアリアの部分では回転を停止すべきだろう。リゴレット(バリトンのマルコ・ヴラトーニャ)は、背中にコブをもっているが、ここの場面では身分がよくわからない。娘を探してホテルに迷い込んだ老人のようでもある。一方、マントヴァ公(テノールのウーキュン・キム)は成り上がりのアジアの若き小銭持ちで、やはり正体は不明。ホテルとはいわばそのような得体の知れない空間ということだ。

深夜になってバーに残ったリゴレットは、もう片方の端にあるバーでスパラフチーレ(バスの妻屋秀和)に出会う。ここのシーンは舞台が余計な表現を控えているので歌に集中することができた。だが再び舞台は回転し始め、いよいよジルダ(ソプラノのエレナ・ゴルシュノヴァ)の登場となる。低音の響きばかりを聞かされて重々しい気持ちが、ここで一気に明るく快活となる部分が、私はもっとも好きだ。ここはリゴレットの心の様子が観客と同一体験できるヴェルディ音楽の真骨頂である。

歌手について触れておくと、マントヴァ公のウーキュン・キムは、なかなか良い。本公演の中ではもっとも良かったと思う。特に第2幕以降は尻上がりに調子が良くなった。一方、ジルダのエレナ・ゴルシュノヴァは、声の質が美しく可憐である。これはこれでいい。主役のマルコ・ヴラトーニャは、美しかったが力強さにやや欠けるところがあり、音楽に押されてしまう。ピエトロ・リッツォ指揮する東フィルの伴奏は、ヴェルディらしさを強調する必要性から、その力強さを押さえない。それはいいのでが、ジルダが線の細い声であれば、リゴレットはもう少し強くても良かった・・・というのは私の勝手な感想で、ここで見せる父親の弱さは、こういう風に表現してもいいのかも知れないが・・・。

合唱はいつも良い。その合唱は第2幕で活躍する。そしてその第2幕は冒頭から、マントヴァ公の独壇場であった。この第2幕は本公演でもっとも見応えがあったが、その舞台は第1幕と同じ回転ホテルである。指揮とオケ、それに合唱は大変良く、私は大いに評価したい。 私は今回、「リゴレット」の第2幕を見ながら、もしかするとヴァルディは自分の心をリゴレットに重ねあわせていたのではないかと思った。自らも最愛の娘を失ったヴェルディは、この頃はジュゼピーナと内縁関係にあったが、彼女のとの生活は保守的な農村の世間体もあって、困難なものだったようだ。もし娘に先立たれなかったら、どのような関係となっていったかをいろいろ想像したに違いない。

ところが第3幕になると舞台は一変し、そこはホテルの屋上となった。「Spumante Duka!(公爵の発泡ワイン)」の栓抜き看板がデカデカと中央に置かれ、聴衆の大いなる笑いを買うかと思ったが、誰も笑わない。それどころか、あの素晴らしい四重唱も聞かせたが、何とものりが悪い。ここはスパラフチーレの仕事場で、舞台はまあ良かったと思うが、ここまで来て客席は少し戸惑いムードだったようだ。 マッダレーナ(メゾ・ソプラノの山下牧子)の歌も悪くはなく、その他の日本人の脇役はみな素晴らしかったと思う。

主役を含め、みは平均かそれ以上の出来栄えだったと思うのだが、どうしてこんなにしらけたムードだったのか。私はこのブログを書くにあたって、大いに考えた。演出の斬新さ(それは昨シーズンのMETライブで見たマイケル・メイヤーのラス・ヴェガスに舞台を移した演出によく似ている)のせいなのだろうか。確かに美しい歌を聞いている間に、舞台のあちこちで艶かしい姿の女性が絡むシーンは、見るものを混乱させる。だがこれは確信犯である。むしろそれを受け付けない客席のせいなのだろうか。私はどちらもあるように思う。

先日見た「ワルキューレ」でもそうだったのだが、そもそもオペラに、まるで近所の本屋にでも出かけるようないで立ちでやってくる老人とは一体何者なのだろうか。彼らはあのヴェルディの音楽を聞くときの、まるで遠足に出かける子供のような気持ちを持ち合わせているように感じられない。容姿のことを言うわけではないが、お金のない若者ならいざしらず、オペラに出かける時の興奮した気持ちは、服装でも少しは表現してもらいたい。そして、彼らが期待する舞台は、保守的なイタリアの田舎街のサロンなのだろうか?醒めた客に、過剰な演出。このふたつが、そこそこ好演している出演者を押しのけてしまった。それならいっそ、もっと緊縮予算で簡素な舞台にでもしたほうが良かった、ということだろうか。

そういえばロビーで、この舞台を組み立てた舞台製作会社によるビデオ上映もあった。丸3日かけて完成させる4階建てのホテルの組み立てを早送りにした映像は興味深かったが、そこまでして表現すべきものが、十分に饒舌な音楽以上にあるとも思えない。そこまでわかった上でブーイングをする観客に満ちていたわけでもない。全体にやや欲求不満な「リゴレット」だったが、そう簡単に片付けてしまうのも勿体無いとも思う。何せ「リゴレット」なのだから。 

2013年10月10日木曜日

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」(2013年10月6日、三鷹市芸術文化センター)

開演に先立ってマイクを持ち、簡単な挨拶を行った指揮者の沼尻竜典は、今年から引き受けたドイツの歌劇場で、ドイツ・ロマン派オペラの魁となったこの作品を、せっかくだから上演してはどうかと持ちかけたところ、この歌劇は観客の目が厳しく、よほどの名演にしなければいけないとたしなめられた、などと語った。にもかかわらずドイツ以外の国々での「魔弾の射手」は、さほど人気があるわけではなく、我が国でも序曲以外はあまり知られていないようだ。

だがこの作品が大好きな私は、一度その実演に接してみたいと思っていた。その願いはなかなかかなうことがなく、何組ものCD以外ではただ一度、映画になった作品を見ただけである。合唱だけでなく、全編にとても素敵な歌が続くこのオペラは、ベートーヴェンとワーグナーを繋ぐ重要な作品であり、 私のオペラ体験において欠かすことの出来ないものである。第2幕の「猪谷の場」などは、真面目に演奏されればとても充実した満足感が得られる。

そんなことを思っていたところ、同じ沼尻の指揮する「ワルキューレ」を横浜で見た際にもらったチラシに、この公演のものが混じっていた。日本人主体の演奏会形式だが、三鷹市芸術文化センターという中規模のホールが、この作品を間近で見るのには大変好ましいものに思えたし、何と言ってもここは、私が三鷹に住んでいた時によく通ったホールである。そして沼尻は、その三鷹市出身の指揮者として随分前から、ここで定期演奏会を開いている。

久しぶりに出かけた武蔵野の森は、10月だというのに汗ばむ陽気で、駅前は以前のままである。南に向ってまっすぐ伸びる長い商店街をふらふら歩くこと約30分程で会場へ到着した。この日はトウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズの定期演奏会ということになっており、合唱団と歌手たちを合わせると出演者は数多く、字幕も付いている。舞台の上部には様々な色の投影機も用意されていて、一応物語に応じて色が変わった。

主な出演者は以下の通り。

松村恒矢(Br、オットカール)、松中哲平(Bs、クーノー)、立川清子(S、アガーテ)、今野沙知恵(S、エンヒェン)、大塚博章(Br、カスパー ル)、伊藤達人(T、マックス)、清水那由太(Bs、隠者)、小林啓倫(Br、キリアン)他、栗友会合唱団、トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ。指揮は沼尻竜典。

ここの「風のホール」はとても残響が長く、いつも思うのだがオーケストラが違った風に聞こえる。残響は長ければいいというわけではなく、好みの問題もあって一概に言えないが、私には少々違和感がある。とてもいい演奏の時、たとえば今回でも、エンヒェンのアリアに沿うオーボエやフルートの独奏は大変美しいし、第3幕のチェロやヴィオラの独奏も綺麗に聞こえたが、大きなアンサンブルとなると音がかぶりすぎるように思う。そのためオーケストラは小規模で合唱団も40人程度と少ない。

歌手は総じて好ましい歌声であったが、特に良かったのはアガーテとカスパール、それに隠者であった。日本人の歌手が主役を歌う機会に恵まれないのは残念なことだが、それだけにとても練習をしていたと思う。今回は特に、新国立劇場の研修生など若手中心であったが、それは私の期待するところである。それに対しオーケストラはやや不足感があったことは否めない。第1幕の「ワルツ」のシーンでは、単純な3拍子を振る指揮者に対し、元ウィーン・フィルのコンサートマスターで、ゲスト出演のウェルナー・ヒンク氏は、自らの主張(それはウィーン風のそれかも知れない)を込めて、リズムを刻もうとしていた結果、合奏に若干の乱れがあった場面などに象徴的に現れていた。一方、活躍の多い合唱は少数精鋭で素晴らしい。

私にとってはこの歌劇を一度は生で聞いてみたいと思っていたので、その目的が達成されたことが嬉しい。上演では各幕の最初に短いダイアローグがドイツ語で流れ、その訳がスクリーンに投影された他は、台詞を省いた演奏である。そのことが全体を弛緩なく見ることに寄与したかも知れないが、さりとてそのストーリーは、たとえ字幕がついていても聞いてすぐにわかるというものでもない。このオペラの醍醐味は、やはり音楽そのものの純粋な美しさと、溢れるロマン性である。ドイツ的なロマン性は実に表現が難しい。

ここで私はもっとも好きなコリン・デイヴィスの演奏を思い出す。ドレスデンの響きを湛えたデイヴィスの演奏は、ドイツ的かどうかはわからないがとても気合の入ったもので、各シーンが目に浮かぶような迫力がある。総じて演奏は、力強いがゆっくりしている。このズッシリ感は私もやみつきなのだが、クーベリックの軽やかさ、クライバーの駆け抜ける若々しさなどとはまた違ったものである。

今日の演奏は、そのどの演奏に近いか、などと余計なことを考えた。沼尻は音楽そのものに語らせることに力点を置き、自ら強い主張をしない方だと思う。そこが私も好感を持っているところで、実演では歌手を引き立たせているようだ。アンサンブルをうまくまとめることが、やはり重要だと思う。だが、幾分、音楽をなぞっているという感じがしないでもなかった。つまり一言で言えば、音楽に対するこだわりや情熱にやや欠けるのだ。それは客席にも言えた。合唱と、そして何人かの歌手はとても素晴らしかったが、全体に盛り上がりに欠けてしまった。

これは仕方がないのだろうとも思う。休日の昼間に郊外の文化センターへ出かける老人たちは、一体何者だろうかなどとも思ったが、見る方にもわくわくどきどきの熱い視線がないと、このオペラはうまく成立しないように思う。そこがモーツァルトやワーグナーとの違いである。だが一度、その熱い感覚の中に入る状態となれば、音楽の素晴らしさが際立ってくる。そのようにして長く試練に耐えた演奏だけが、今日録音されリリースされていると考えるべきだろう。げに歌劇というものは、その文化的背景に依存する部分が大きければ大きいほど、難しいものだと思う。それがこの作品を、ドイツ以外の地域にまで普遍化して広まることを、やや難しくさせているのではないか。


日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...