2022年6月17日金曜日

東京都交響楽団第953回定期演奏会(2022年6月13日東京文化会館、小泉和裕指揮)

かつてオンラインで都響のチケットを購入したことがある私の元へ、一枚の葉書が届いた。6月13日の定期公演の内容を知らせるものだった。今月の指揮は終身名誉指揮者・小泉和裕で、メンデルスゾーンの「宗教改革」とベートーヴェンの「エロイカ」。なかなかいい組み合わせだと思ったが、この日は月曜日。翌日以降も仕事が控えるサラリーマンとしては、あまり気乗りのしない曜日である。

ところが都響からは、当日券の発売を知らせる電子メールも届く。見てみたらS席からC席まで多くの席が残っているようだった。このプログラムの公演は1回のみ。全力投球のコンサートとなるか、名曲ばかり故の惰性的なコンサートなのか。どうにも判別がつかない。それでもC席なら高くはないし、それに翌日は午後から会社に行けばいいということになって、私は4年ぶりとなる東京文化会館へ出かけた。当日券は電子チケットのみの扱いで、電源を入れたスマホをかざして入場する。とうとうクラシック音楽の世界にも、電子化の波が押し寄せた。思えば90年代に入った頃から、あの懐かしいチケットの半券を取っておくことはなくなった。プレイガイドがオンライン化され、共通の用紙に印字しただけの、無味乾燥なものになったからだ。そのため、確かベルリン・フィルを聞いた時には、わざわざ「記念チケット」なるものが入り口で配られた。席の表示はない単なる紙であった。

新型コロナの蔓延に最も深刻な影響を受けたのは、悲運の作曲家ベートーヴェンだったかも知れない。またとない生誕250年記念を、世界中の音楽家が祝おうとしていた矢先のことだったからだ。ほぼすべてのコンサートがキャンセルされた。そういうことを埋め合わせるべく、私は最近ベートーヴェンの交響曲をプログラムに見つけては、そのコンサートに出かけることになった。特に昨年の秋以降、奇数番の作品に触れてきた。順に第5番、第7番、第9番「合唱」という順だった。となれば次は第3番「英雄」。これまで何度触れてきたかわからないベートーヴェンの交響曲も、特に第3番などは20年近く遠ざかっている。あんなに何度も聞いた作品なのに、名演奏の記憶が薄れてしまった。専ら安い席で聞いていたからだろうか。特にNHKホールの3階席で聞いた演奏会には、ほとんど思い出がないのは、偶然なのか。

コロナ・パンデミックは、私に日本人演奏家を見直すきっかけを与えてくれた。これまで機会がありながら、聞く機会のなかった指揮者やソリストに巡り合うこととなった。広上淳一のパントマイムのような楽しい指揮や、秋山和慶の職人的な名演奏の数々に混じって、小泉和裕のスタイリッシュで集中力のある演奏が心に残っていた。考えてみれば、日本中のオーケストラを指揮してきた小泉の、もっとも関係の深いオーケストラが都響であり、そしてその定期演奏会にレギュラーで登場する彼のプログラムには、その真価が発揮されるような曲が並んでいる。今回もそうで、メンデルスゾーンの「宗教改革」というのも、滅多に演奏される曲ではないが大いに魅力的である。トスカニーニからカラヤンを経て続くメンデルスゾーンの演奏スタイルが、カラヤン・コンクールの覇者となった小泉に引き継がれているのは、どう考えても明らかである。そしてあのフィルハーモニア時代から名演奏を繰り広げたカラヤンの流線形「エロイカ」も、また小泉によって継承されているのだろうか。そんなことを考えながら、会場へと急いだ。

久しぶりの上野駅は、改札口が変わってあか抜けた感じになっていたが、上野動物園へと続く大通りの雰囲気は、昔パンダが初めてやってきた70年頃の記憶と変わらない。そして文化会館の少し狭い通路や、部分的に死角となる両サイドの上階席も、今やレトロな香りが立ち込める。都の所有する施設だから、ここと池袋の芸術劇場が都響の主な活動拠点である。その音響効果を熟知している組合せの公演に、何かとても嬉しい気分となり、期待が高まっていった。そして、「宗教改革」の最初の音がなりひびいたとき、そのことが現実のものとなったのだ。

この曲の冒頭はコラールを配した厳かな雰囲気で始まる。ゆったりと流れる中音域の弦楽器に乗って、管楽器がこれらのメロディーを奏でる時、東京のオーケストラにして中欧の響きが自信を持ってなっていることに心を打たれた。やがて始まる主題からは、メンデルスゾーン節になる。思い切りよく飛ばしてゆく小泉の指揮にオーケストラが付いてゆく。ほとばしるような熱い演奏になるのに時間はかからなかった。やはり今日のコンサートは「当たり」だと感じた。

第2楽章の明るいスケルツォは、民謡風のメロディーの中間部が特徴。歌うような素朴なメロディーと、重厚で壮麗な教会音楽が同居しているのが本作品の面白い(中途半端な)ところ。「宗教改革」は番号で言えば第5番だが、これは彼の若干21歳の頃の作品である。プロテスタントに改宗したメンデルスゾーンは、自らの意志で本作品の作曲にとりかかる。様々な紆余曲折に翻弄され、結局この作品が世に出たのは、メンデルスゾーン死後のことだった経緯は、ブックレットに詳しく記載されている。

弦楽器の旋律が美しい第3楽章は短いが、このような曲に私はもっともメンデルスゾーンらしさを感じたりする。そして第4楽章は続けて演奏された。ここで音楽は再び教会風に戻り、高らかな賛歌となっていく。教会風な崇高さがあるかと思えば、やや通俗的なメロディーが織り込まれるとてもユニークな作品に思えてくるのだが、演奏の魅力を感じるにはわかりやすく、演奏していても楽しいのではないかと推測したりする。メロディーが親しみやすく、いつも音楽が推進するロマン派前期の音楽は、とりわけ小泉の指揮に合っていると感じた。ロマン派前期の作品で言えば、私は彼の指揮で、シューベルトの「グレート・シンフォニー」を聞いてみたい。

さて、20分の休憩を挟んで次はベートーヴェンの「エロイカ」である。この曲の最初の和音は、音楽史を変えた和音だ。小泉はそこを一気に響かせた。その集中力と音のややデッドな響きは、何といったらいいのだろう、もう天才的な音のバランスと強さであって、この一音が続く50分近い演奏を決定づけるほどのインパクト。私はこの「英雄」の第1楽章を聞くたびに、ソナタ形式の主題はどれか、などと考えて行くのだが、かつて一度も成功したことはなく、第1主題の繰り返しがあったかどうかくらいで(今回はなし)、聞いているうちにそんなことはどうでもよくなっていく。音楽の流れは大河が勢いよく流れて行くようで、いつまでも聞いていたい。ゆっくりとした演奏も悪くはないが、小泉のように颯爽と駆け抜けてゆく演奏がモダンで一時期の流行スタイルであった。

第2楽章、葬送行進曲。思うに東京文化会館の響きはかなりデッドである。だからオーケストラの響きが直接的に会場にこだまして、その強さが弛緩すると音楽は崩れるようなところがあるが、小泉・都響の集中力はこれが絶えることはなく、大フーガを始めとするこの曲の聞かせどころをどんどんこなしてゆく様は見事である。それにしても「エロイカ」は、何という作品なんだろ。

後半が腑抜けになるような演奏が多い中で、第3楽章のホルンのトリオを含め、一気呵成に続ける。ここで気を抜くわけには行かない。だからできるだけ早く、前へ。そして第4楽章の冒頭へ流れ込む。もちろん休止はほとんど置かず。流れ出る第4楽章の変奏曲に身を委ねながら、私はベートーヴェンが交響曲に持ち込んだ壮大なドラマを見ることになる。私が愛してやまない第4楽章は、ベートーヴェンのもっとも明るい側面が出た素晴らしい曲で、第2番に次ぐ造形美が感じられる。

都響が燃えた演奏が終わり、大歓声に包まれる。小泉自身会心の出来だったのではないだろうか?何度登場したか知れない都響の定期でありながら、その挨拶の身振りなどから、それは如実に感じられた。いつまでも聞いていたい音楽が終わったことに、久しぶりに淋しさを感じた。1回限りの月曜日の定期演奏家は、決して気を抜くことなく、むしろ本当に聞きたい人が聞きに来る熱いコンサートのように感じた。私はまたこのコンビを気に入ってしまった。次回は9月23日(祝日)、「田園」ほかが演奏される。プロムナード・コンサートと題されるマチネシリーズは、サントリーホールである。

2022年6月11日土曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第970回定期演奏会(2022年6月8日サントリーホール、ミハイル・プレトニョフ指揮)

ニュースによればロシアはウクライナと交戦状態にあるらしい。ロシアにとってウクライナは長年の友好国であり、ロシア音楽の数々も両国の文化を讃えている。まるで兄弟喧嘩のような戦争に国際社会は過剰に反応し過ぎではないかとさえ思われるのだが、一方的に領土を侵略したロシアに対する制裁は厳しく、ロシア人の音楽家が来日することも危ぶまれている。にもかかわらず、3月に引続き、奇才ミハイル・プレトニョフが東フィルの定期演奏会に登場したことは大変喜ばしいことだった。

会場に入ると、その舞台に並べられた楽器群に驚いた。弦楽器は向かって左手から第1バイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン。左手奥にコントラバスが並ぶのは今ではさほどめずらしくない。ところが多くの打楽器群が、本来なら居座る管楽器のセクションにずらりと並んでいるのだ。その楽器の数々は、いろいろあり過ぎて目で確認することはできない。配布されたブックレットから転記すると、次のようなものである。

  • ティンパニ
  • 打楽器Ⅰ(カスタネット、カウベル、ボンゴ、ギロ、小太鼓、チューブラーベル、ヴィブラフォン、マリンバ)
  • 打楽器Ⅱ(トライアングル、クラヴェス、ギロ、ウッドブロック、タンバリン、小太鼓、ヴィブラフォン、マリンバ)
  • 打楽器Ⅲ(トライアングル、クロタル、マラカス、ギロ、カバサ、鞭、テンプルブロック、小太鼓、テナードラム、大太鼓、タムタム、グロッケンシュピール)
  • 打楽器Ⅳ(トライアングル、ハイハットシンバル、タンバリン、トムトム、大太鼓、シンバル、タムタム)

舞台に登場する打楽器奏者はたった5人で、これだけの楽器を操る。一方、何と管楽器が不在なのである。この楽器編成で演奏されるのは、ビゼーの「カルメン」をシチェドリンがバレエ音楽に仕立て上げたものである。まだ実在の作曲家は今年生誕90年を迎えるそうだ。バレリーナだった妻の依頼によるこの作品は、ソビエト時代の1967年にボリショイ劇場で初演されている。これは私が生まれた翌年である。「カルメン」は有名曲のオンパレードだが、それが上記のような楽器編成でどうアレンジされているか、興味が尽きない。

静かに始まった序奏では、ベルが「ハバネラ」のメロディーを厳かに奏でるシーンから始まった。以降、音楽はビゼーの様々な音楽から採用されているし、順序は必ずしも原曲の歌劇とは異なっているが、ストーリー性とモチーフは維持されていて、この曲が持つ本来のテーマはむしろわかりやすく強調されているのは、やはりバレエ音楽という性格からか。

例えば第2曲は第4幕への前奏曲から採用されているが、これは第1幕への前奏曲と同じメロディーだから、違和感はない。しかしそこに悲劇性が早くも暗示される、といった具合。そして「運命のテーマ」、衛兵の交代、ハバネラといった一連の音楽が続き、第7曲であの美しい第3幕への間奏曲が聞こえてくる。フルート独奏が際立つこの曲を、弦楽器でのみ演奏する。そして第8曲では「アルルの女」の「ファランドール」までもが演奏された。

全体で約45分の曲を、プレトニョフはいつものようにほとんど休止させることなく繰り出して行く。集中力を絶やさないようにと、楽章間の休止を設けず演奏を再開する指揮者は近年多いが、プレトニョフもその一人である。しかし時に私は、もう少しゆくりと物語を楽しみたいと感じることも多い。闘牛士とカルメンが舞台上でどのように踊られるのか、私はバレエというものをほとんど見ないし、その面白さもあまりわかっていないのだが、このシチェドリンによる意欲的な作品は、ビゼーの音楽の巧みさを別の視点で浮かび上がらせることに成功していると同時に、斬新で才気に溢れるその作曲技法によって、シチェドリン自身の面目躍如ともなっているようだ。

カルメンが公衆の前で遂に刺し殺され(それはコントラバスによって表現された)、終曲では序奏で奏でられたベルによる「ハバネラ」が、まるで夜のセヴィリャの街にこだまするように厳かに響いて物語が締めくくられた。打楽器を担当した5人の奏者に惜しみない拍手が送られ、プログラムの前半が終了した。

後半は、チャイコフスキーの名曲「白鳥の湖」である。バレエ音楽だけを取り上げるこのコンサートが、私にとて大変魅力的だったのは、何より「白鳥の湖」の大ファンだからである。

ロビーに出て、久しぶりにバーカウンターで「プレミアム・モルツ」などを飲みながら、ブックレットに目を通す。チャイコフスキーの名曲にもはや解説は不要だろう。有名な「情景」などに混じって繰り出される世界各国の興に乗った踊り。その音楽は楽しいの一言に尽きる…と思っていた。ところが、今回のプレトニョフによる特別編集版には、そういった数々の名曲が見当たらないのである!

解説書によれば今回の版は、チャイコフスキーの音楽を研究し尽くしたプレトニョフにこそ可能なもので、舞台の縮小版のような編集になっているとのことである。つまり有名旋律を並べ、ストーリー性が無視された組曲版に抗い、舞台音楽の縮小版が出来上がったのだ。何とそこでは、有名な「4羽の白鳥」や「チャルダーシュ」などの名旋律までもが姿を消し、変わって6つの楽章に見立てて音楽的な連関を重視している。私が実際に聞いた印象では、これはもはや「交響詩」のような音楽であった。

それもこれもチャイコフスキーの音楽が優れているからだろうと思う。「白鳥の湖」は、いくつかの場面を割愛してもなお、バレエなしの音楽だけで聴かせるだけのものを持っているのだ。プログラムの前半のシチェドリンの「カルメン」だって、それだけで聞いて実に楽しいバレエ音楽だったこととも共通する。ロシアにおけるバレエ音楽の底力こそ、今回のプログラムでプレトニョフが意識した構成ではないだろうか。

前半に舞台中央に陣取った打楽器は、後半ではいつもの規模に縮小され、代わって並んだ管楽器が活躍することとなった。オーボエが、クラリネットが、物憂いロシアのメロディーを奏でる時、私は名状しがたい気持ちにさせられる。そしてハープの特筆すべき上手さ!ロシアはまだ見たことのない土地だが、いつかゆっくり旅行してみたいと思っていた。それがこの度の戦争で、またもや遠のいてしまった。だが、私のロシア音楽に対する愛着は、今回の演奏会を通してむしろ高まったと言っていい。

本来ならブラボーが吹き荒れるはずの聴衆も、マスクをして行儀よく拍手をする。だがその大きさと長さから、今回の演奏がとても満足の行くものだったことがわかる。4月にまたもや腰を痛めて以来、少し遠ざかっていたコンサートへも、私は出かけて行きたい気持ちになった。音楽を聞く喜びを忘れかけていた、私の暗澹たる日常に、かすかな光明が差し込んできた。健康を取り戻すことができれば、一気にまたコンサートや旅行に出かけてみたい。ロシアの大地に鮮烈な「春の祭典」がやって来るように。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...