2014年11月23日日曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(P:クラウディオ・アラウ、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

日曜日に早起きして快晴の都会を散歩する。吹く風はやや冷たいが、中高年を中心に多くの人が歩いたり、走ったりしている。私は手持ちの携帯音楽プレーヤーで、気ままに音楽を聞くために散歩している、と言ってもいい。他になかなか時間がないからだ。

このような美しい一日の始まりに、今日はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を選んだ。コピーして持ち出した演奏は、クラウディオ・アラウがピアノを弾き、コリン・デイヴィスが伴奏を務める高評価の名演で、録音は1984年となっているから今となってはもう30年も前のことである!それでも上手にデジタル録音されたこの演奏は、聞きごたえがあって素晴らしい。

どのように素晴らしいかは、古今東西の音楽評論家やブログなどで取り上げられているから、あまり多くを語っても仕方がないだろう。とにかくこの演奏は、ベートーヴェンの第4ピアノ協奏曲の魅力を、完璧に表現している。そのピアノ協奏曲第4番とはどのような曲か。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲には5つあって、その4番目のこの曲は、おそらく第5番「皇帝」に次に有名である。しかし第4番を「皇帝」以上に評価する人が多いのを私は高校生のころに知った。第5番の素晴らしさは言うに及ばないが、それよりもいい曲だと言うのである。そこで私は、当時家にあった演奏(ピアノ:グルダ、シュタイン指揮ウィーン・フィル)で聞いてみた。するとどうだろう、華麗なカデンツァで始まる明るい第5番とは対照的に、おごそかなピアノのソロで始まるではないか。

オーケストラの渋い伴奏は盛り上がりに欠け、長い第1楽章の間中、ピアノについたり離れたり。ベートーヴェンにしては随分おとなしい曲だなと思ったのである。その印象は第2楽章に入って、よりいっそう強固なものとなった。旋律があるのかないのか。主題は何か見当がつかない。結局どこを聞いているかわからないにの、いつのまにかオーケストラが早いメロディーを演奏し始めるではないか。第1楽章に比べてあまりに短い第2楽章がいつのまにか終わり、途切れることなく第3楽章に入ったのである。

第3楽章はなかなかいい曲だなと思った。何か新しい時代がはじまるような、そんな雰囲気に溢れている。そう言えばこの曲には個人的に、強い思い出がある。絶望の淵にあった20歳の冬、私は友人たちと酒を飲み、酔っ払って気がつくと家のベッドに寝ていた。その朝はとても早く起きたので、思い立って近くを散歩しようと考えた。まだ寝静まったニュータウンの実家を抜け出して見晴らしのいい公園に入り、日が昇るにつれて次第に赤みを増していく住宅街の、連なる屋根を見ていると数日前にラジオで聞いたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番のメロディーが、耳に鳴り響いたのである。

それは不思議な経験だった。何か新しい時代が来たような気がした。それまでの悩みが吹っ切れて、また第1歩が踏み出せそうな気がしたのである。以来この曲は、私に深い愛着を与える曲となった。特に第2楽章の、深く沈んだ沈鬱な状態から、おもむろに第3楽章のメロディーが流れてくる瞬間が、大好きになった。この時私の耳に響いた演奏は、FMで聞いたザルツブルク音楽祭のライヴ録音で、ピアノがポリーニ、アバド指揮のウィーン・フィルによる演奏だったと記憶している(ポリーニはベームとこの曲を録音しているが、後年アバドとはベルリン・フィルとの演奏がリリースされ私も持っている)。

私のこの曲への愛着は、上記のようにやや個人的な経験に基づいて形成されていった。以来この曲を聞くたびにその時の状況を思い出すのである。今では大好きな第4番であるが、ではその他のピアノ協奏曲がつまらないとは決して思わない。第一ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、5曲が5曲とも最上級の魅力を持っているので、そのランクをつけることなど意味がないのである。この第4番は他の曲とはまた違った魅力を持っており、それはピアノの表現の幅を曲ごとに拡大していったベートーヴェンの天才的偉業の成果である(交響曲やピアノ・ソナタ、それに弦楽四重奏でも同じことが言える!)。

ところでこのアラウによる演奏では、ピアニストの年齢が80歳を超えている。にもかかわらずその表現は実に質実剛健であり、かつ繊細でもある。そしてこの演奏の成功の大きな原因の一つは、コリン・デイヴィスによる低音を鳴り響かせた立派な伴奏とドレスデンの響き、そのピアノとの相性である。これほど遅い演奏であるにもかかわらず緊張感を失わず、同時にゆったり音楽に身をゆだねることのできる演奏は驚異的である。このことは第5番「皇帝」にも言える。この2曲がカップリングされたCDとしては、今もって決定的名盤の一つであると言える。

2014年11月19日水曜日

ハイドン:協奏交響曲変ロ長調Hob.I-105(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団))

ハイドン晩年の「ロンドン交響曲」へと進む前に、協奏交響曲を取り上げねばならない。この作品はホーボーケン番号においては、第105番目の交響曲ということになっているが、作曲年代から丁度第1期ザロモン・セットの前に聞いておこうと考えた次第である。だが実際にはこの作品は、ハイドンの滞英中に書かれ、演奏もされている。当時流行したスタイルで人気を博したことが、知られている。

協奏交響曲変ロ長調の独奏楽器を受け持つのは、ヴァイオリン、チェロ、オーボエ、それにファゴットの4つの楽器である。3楽章構成で書かれ、協奏曲に分類する評論家もいるようだが、まあそんなことはどうでも良くて、派手ではないもののしっとりと独奏が管弦楽に絡み合う様が、手に取るようにわかる作品である。

第1楽章は聞けば聞くほどに味わい深いが、第2楽章でもしっとりと落ち着いた静かな曲である。この時期の交響曲の壮麗で大規模な曲とは異なり、やはりこれは独奏楽器の扱いに主眼を置いた作品であることは明らかであろう。

レナード・バーンスタインは70年代から始めるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との蜜月時代に、古典派からロマン派に至るドイツ・オーストリア系の作品を一通り録音している。モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、それにマーラーなどである。だがここにまたハイドンも含まれていることを忘れてはならない。

バーンスタインの録音はすべてそうだが、ウィーン・フィルの重厚で艶のある響きを最大限に引き出し、独特のロマンチックな演奏が聴くものを新鮮な感動へと導いた。ユニークでストレートだが、それがまたバーンスタインの持ち味だった。ハイドンの一連の交響曲もモダン楽器全盛時代の最後の輝きを放っている。そのような演奏は、カップリングされている「驚愕」交響曲でもわかるように今となっては少しけだるいのだが、この協奏交響曲だけは少し事情が違う。独奏楽器が活躍する室内楽的な軽やかさは、それぞれの楽器の個性を自由に発揮させるなかに、ひとつのまとまりを形成している。それはウィーン風のハーモニーであり、それこそがバーンスタインがこのオーケストラに期待するものだったと思う。そういう意味でこの曲のこの演奏は、まさにバーンスタインとウィーン・フィルが見事に競演した、喜びに満ちた演奏である。

2014年11月17日月曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(The MET Live in HD 2014-2015)

初心者向けオペラの筆頭に挙げられる「フィガロの結婚」は、実際のところ理解するのが難しいオペラだと思う。登場人物が多いうえに、話が込み入っている。とはいえこれは、たった一日のドラマである。誰も死なない。話が喜劇であるということと、あの天才モーツァルトの音楽が親しみやすい、というだけの理由でこの作品がわかりやすいか、と言われれば、私の経験上、違うと言わざるを得ない。

モーツァルトの音楽は、確かに凄いが、それをそう感じるようになるには、他の作品にも触れる必要がある。そしてヴェルディもワーグナーも素晴らしいのに、なぜモーツァルトがそれにも増して素晴らしいのか、と言われて簡単に答えられるだけの音楽的知識を有している人はそう多くはないだろう。モーツァルトの音楽は、古典派のそれであり、この時代のオペラには長いセリフが混じっている。ドラマと音楽が融合したのちの時代から振り返ると、やはり地味である。

加えて時代設定が少し古めかしい。ロココの様式を残す舞台や衣裳は、貴族的な趣味を有しているが、それが徐々に古めかしくもなっていく市民社会が勃興する時代に入っていく。その違いを理解できるかどうか。つまり予備知識がいると思う。それにソプラノが少年役を演じるという、いささかエロチックな設定もやや混乱を生じさせる。

というわけで「フィガロ」が前提条件なしに、すんなりと心に響くかというと、これがまたやっかいなことにイエスである。それほどにまで音楽が素晴らしいからだ。一度聞いたら忘れられないメロディーがいくつも出てくる。が、その音楽ゆえに、ストーリーやその背後に含まれる物語のテーマが隠れてしまう。人間関係があまりに複雑に展開するので、どこで心理が変わるか、といったところは、地味な舞台と長いセリフを丹念に追う必要があるが、実際のところなかなかその余裕がない。

前置きが長くなったが、メトロポリタン・オペラの今シーズンの幕開きを飾った新演出の「フィガロ」は、そういう意味で大成功だったと思う。歌手の素晴らしさということ以上に、演出上の新鮮さがまず心に残る。舞台は1930年代に設定され、さらにはこのオペラの持つ性的な側面が強調されたからである。そのことは演出を担当したリチャード・エア氏へのインタビュー(冒頭で紹介された)で本人の口から説明されている。

貴族的伝統と市民的自由の対立を描きつつも、男性対女性というもう一つの側面を強調することによって、現代人にとって身近な物語となった「フィガロ」の舞台は、回転装置を生かして隣の部屋や屋根裏までをも使った立体的なものとなっていた。つまり視覚的な工夫が多分になされ、動きが多い舞台に釘付けとなる。序曲の始まりから舞台は回り、各幕の場面が一通り登場すると、これがひとつの宮廷内で繰り広げられる、たった一日のドラマであることをわからせる。その巧妙さには驚きを禁じ得ない。

指揮はジェームズ・レヴァインで、何とMETにおける75回目の指揮だというから見事である。オーケストラの響きは会場いっぱいに広がり、メリハリがあってスピードも良く、この公演の成功の大きな要因の一つであったことは言うまでもない。実際私は、「フィガロ」の音楽をこれほどにまで深く味わったことはなかった。何種類もの全曲盤CDやDVDに触れ、実演でも接したことがあるにもかかわらず、である。それぞれの歌がどのように関連し、さらにその歌詞に即して音楽がどう変化するか、その細部にまで私は初めて手に取るように確かめることができた。

おそらくはライブ映像によって、細かい部分(例えば第3幕の結婚式では、テーブル上に並べられた皿やグラスにまで、大変凝ったものである) にまで目をいきわたらせることが出来た上に、字幕が付けられることによって、音楽にも自然と集中できたのであろう。

以上のように、視覚的な勝利とでも言っていい今回の上演には、レヴァインの音楽以外にも、さらに歌唱の面でいくつかの優れた部分があり、総じて言えば最高ランクに位置するものだったと言えるだろうと思う。その筆頭はスザンナを歌ったソプラノのマルリース・ペーターセンである。彼女は驚くような声ではないが、終始安定して美しく、さらには品がある。一方、第4幕でスザンナと入れ替わる伯爵夫人は、アマンダ・マジェスキーという人で、何でもMETデビューとのことである。第2幕の冒頭では緊張からか、少し硬さも感じられたが、後になるほど声の艶は増した。なお、この二人は年齢的な隔たりが小さいこともあって、第4幕のシーンは見ごたえがあった。

表題役フィガロは今回、バス・バリトンのイルダール・アブドラザコフであった。安定した歌声と演技だったが、ペーターセンと組んだコンビはやや熟年よりのカップルで、なんとなく新婚ほやほやの雰囲気に乏しい。一方、アルマヴィーヴァ伯爵を歌ったバリトンのペーター・マッテイは、いつか見た「セヴィリャの理髪師」で表情豊かなフィガロ役を好演した北欧の歌手だが、声に張りがあって見事だった。マッテイはフィガロを、アブドラザコフは伯爵を、それぞれ演じても良かったのではないか、などと考えた。

脇役にも十分配慮のある今回の公演では、特にケルビーノ役のイザベル・レナード(メゾ・ソプラノ)が白眉である。女性としても美しく長身の彼女は、ボーイッシュな仕草と歌いっぷりで会場を大いに沸かせた。

「フィガロ」を見るたびに思うのは、前半があまりに楽しすぎて、後半がよくわからなくなることである。だが今回の公演ほど、全体を通してたっぷりと音楽も演技も味わうことのできた公演はなかった。ひとつひとつのアリアの表情も、アンサンブルにおける滑稽なやりとりにも、何一つ飽きることがないばかりか、極度の集中力の持続が求められた結果、4時間足らずの上演が終わった時にはどっと疲れが吹き出し、家に帰るなり私は寝込んでしまった。美味しいものを食べた後では、もうしばらく何も食べたくなくなるような、そんな気分だった。

2014年11月15日土曜日

モーツァルト:オペラ序曲集(オトマール・スイトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

まだオペラをほとんど知らなかった頃、私のオペラとの接点は序曲集のLPだった。最初に自分の小遣いで買ったレコードが、ブルーノ・ワルター指揮のモーツァルト「序曲集」で、ここには厚ぼったいコロンビアの録音で、いくつかの序曲に加え、「アイネ・クライネ・ハナトムジーク」、それに「フリーメイソンのための葬送音楽」が収録されていた。

中学校が終わって地元の小さなレコード屋(それは小さなレコード屋だった)に出かけ、どういうわけかこのLP廉価版を買ってきた。友人と初めて針を落とした時の感動は忘れられない。このとき、私は「劇場支配人」や「コシ・ファン・トゥッテ」といった始めて聞く序曲の快活な魅力に取りつかれた。「フィガロ」くらいしか知らなかった私と友人は、このようにしてモーツァルトのオペラの世界を始めて体験した。

モーツァルトのオペラ序曲集は他にも数多く売られており、その後CDの時代になって買いなおしたものが、我が国でも有名な指揮者オトマール・スイトナーがシュターツカペレ・ベルリンを指揮したシャsルプラッテン盤と、デジタル時代になってイギリスの巨匠がドレスデンに移り、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したRCA盤である(もちろんワルターのも買いなおした)。

スイトナーの演奏は、思いのほか素晴らしく、曲が有名曲9曲に限られているが、収録すべき曲はすべれ収録されていることに加え、曲順が作曲順であることからごく自然に、モーツァルトの序曲の素晴らしさを堪能できる。スイトナーはいずれの曲も、オペラの序曲であるということを自然に表現しているように思う。だからあの有名なフレーズが静かに終わると、スッと幕が開いて第1幕冒頭の音楽につながっていく感じがする。そう、そのフレーズが流れてほしいと思うのだが、このCDは序曲集なので、次の序曲に移る。何とも残念な気持ちを抱きながら、次の序曲の素晴らしさに、一気に引き込まれていく。

東ドイツにおいてドレスデンとベルリンを股にかけたスイトナーは、存在こそ地味であったが大指揮者といってもいい存在で、NHK交響楽団にも何度も客演し、数多くのオペラの録音を残している。けれどもベルリンの壁崩壊後にはその活躍は一気に消失し、誰にも知られない指揮者になってしまった。丁度スイトナーがなくなった2010年頃に書いたくだらない文章が見つかったので、最後にコピーしておこうと思う。あと、スイトナーのモーツァルトで言えば、N響を指揮したレコードが売られていて、「ハフナー」だったかの演奏に親しんだ。これも懐かしい思い出である。

【収録曲】(スイトナー盤)
・歌劇『にせの女庭師』序曲
・歌劇『イドメネオ』序曲
・歌劇『後宮からの逃走』序曲
・歌劇『劇場支配人』序曲
・歌劇『フィガロの結婚』序曲
・歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
・歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』序曲
・歌劇『魔笛』序曲
・歌劇『皇帝ティートの慈悲』序曲


さて、このスイトナーの演奏は残念なことに、有名な作品の序曲しか収録されていない。まあそれでもいいと言えばいいのだが、もう少し、収録されていてほしかった曲がある。それで、第2番目の所有盤として、コリン・デイヴィスの演奏もまた私のコレクションの一つになっていることを書かねばならない。

この演奏はオペラの序曲としてよりも、ひとつひとつが独立した管弦楽曲のように演奏されている。だが決して手を抜いているわけではなく、まじめに、しかもドレスデンのオーケストラの魅力を引き出しているので、重厚感もあってなかなか良い。ただ惜しいのは、収録の順序が理解不能である点だ。これに対しては、CDプレーヤーで曲順を指定することができるし、iPodでもシャッフル再生が可能なので、どうにでもなるといえばその通りなのだが、わざわざモーツァルトの作曲順に並べなおして聞くほどのものでもないのでそのまま聞いている。「イドメネオ」が特に素晴らしいが、携帯プレイヤーにコピーしてイヤホンで聞くと、スイトナーの録音よりもやはり素晴らしいと感じる。

序曲集として売られているのは、他にもあるかもしれないがこれで十分だ。それよりもモーツァルトのオペラは、やはりこの序曲のあとにも、あの豊穣で才気あふれる音楽が、湧き出るように聞こえてこないとどうもしっくりこない。改めて思うのは、序曲集を楽しんでいた時代は、もうすっかり過去のものとなってしまったということだ。

【収録曲】(デイヴィス盤)
・歌劇『フィガロの結婚』序曲
・歌劇『バスティアンとバスティエンヌ』序曲
・歌劇『劇場支配人』序曲
・歌劇『ルーチョ・シルラ』序曲
・歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』序曲
・歌劇『にせの女庭師』序曲
・歌劇『後宮からの逃走』序曲
・歌劇『羊飼いの王様』序曲
・歌劇『イドメネオ』序曲
・歌劇『皇帝ティートの慈悲』序曲
・歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
・歌劇『魔笛』序曲

なおモーツァルトは全部で21曲ものオペラを作曲している。これでもまだ半分程度ということになる。

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NHK教育テレビで毎週日曜日に放送されている「N響アワー」は、私が子供のころからコンスタントに見ている数少ない番組のひとつで(いまひとつは「アタック25」である)、本日の放送は先日亡くなった名指揮者オトマール・スイトナーの追悼番組だった。

1989年が最後の来日だったとうことで、あいにく私は実演を聞く機会を持てなかった。しかしテレビやFMで放送される「いつもとは少し違うN響」に見 入ったことはよく覚えており、私もスイトナーのモーツァルトのCDは何枚か持っている。まだドイツが東西に分かれていたころ、東ドイツを代表する2つの歌劇場、すなわちベルリンとドレスデンの2つで代表的な指揮者だったこの人は、しかしその田舎風の風貌とドイツ物しか振らない姿勢で、いわゆるスター指揮者 とは一線を画した地味な存在だったと思う。テレビではブラームスの交響曲第3番やウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲が放送されたが、いずれもスイトナー の特徴がよく出た演奏だったと思う。それは指揮棒が動いてから少し経ってオーケストラが底の力を出す、という感じの演奏で、ドイツ風と言えば一言だが、ス イトナーの場合、音の線が水平にも垂直にもスッキリと前に出るので、聞いていて新鮮な気持ちになるのである。

この特徴が良く出るのがモーツァルトであったと思う。私のコレクションの演奏については、また別の機会に触れたいと思うが、テレビで見ていて印象に残ったのはブラームスの練習風景で、何でも「ブラームスは大阪的ではなく北海道的な曲なのです」と言ったシーンであった。

北海道出身の女性と結婚し、かの地を何度も訪れている大阪生まれの私にとって、この一言は何とも意味深長なもののように聞えた。それにしてもスイトナーとN響の組合せの、最後の演奏がもう20年も前だったとは驚きである。映像も録音も冴えないので、わざわざ録画する気は起こらなかったが、評判だったベートーヴェン全集 から「田園」のCDくらいはもう一度聞いてみたい気がする。

ハイドン:交響曲第92番ト長調「オックスフォード」(ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)

第92番の交響曲は「オックスフォード」なるニックネームが付けられているが、ザロモン・セット、すなわち「ロンドン交響曲」には分類されていない。この曲はこの時期の一連の交響曲同様、ドニ伯爵の依頼によって作曲されたからである。だがハイドンはこの交響曲を、英国滞在中、オックスフォード大学から授与された博士号へのお礼として演奏した。それに相応しい風格と壮麗さをたたえた感動的な作品であると思う。

私はこの作品を、レナード・バーンスタインが指揮するウィーン・フィルの演奏(1983年)で聞いていたが、それはまことに堂々としていて、第1楽章の主題などは耳にこびりついて離れなかった。この演奏はビデオでも発売されているが、この時期の一連の演奏と同様、円熟実を増す米国人指揮者とウィーン・フィルの蜜月時代を示すものとなっている。ベートーヴェンを筆頭に、シューマン、モーツァルト、ブラームス、それに何と言ってもマーラーの交響曲全集を、何度ビデオやCDで聞いたかわからない。どの曲でも、それまでに聞いたことのない新鮮な響きが感じられ、ロマンチックでありながらも熱い名演が、ほとんどライヴで収録されていた。

そういう思い出に懐かしく浸りながら、私はほかの演奏にも耳を傾けていった。第91番で取り上げたカール・ベームによる演奏もまた、ウィーン・フィルとの幸福な一時代を想起させる名演奏だが、美しい音色と優雅なメロディー、それに少し田舎風でやぼったい感じがする以外は、これといって特徴がない演奏であるとも思えてくる。そのことも含めて、これはベームらしい演奏であった。

一方、サイモン・ラトルがベルリン・フィルを指揮して録音した演奏は、丸でローカル線から新幹線に乗り換えたようにスピーディーで、疾走する演奏はまた重厚かつ迫力があり、次の時代の幕開けを感じさせる。この曲の「お気に入り」はラトルで決まり。そう思いながらこのブログを書くことにした。

ところがここで私は、YouTubeという、今では音楽生活に欠くことのできなくなった動画投稿サイトにより、稀有の名演とでもいうべきライブ映像に接することになった。チェチーリア・バルトリを迎えて開かれたハイドンのコンサートの冒頭に、交響曲第92番が演奏されており、その部分の映像がアップされていたのを発見したからだ。指揮はニクラウス・アーノンクールで、自ら組織したウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが白熱の名演奏を繰り広げている。その集中力と迫力はすさまじく、見ていると手に汗がにじみ、体中が熱くなっていく。記録によれば2001年、グラーツでのライブ収録のようである。

この映像を見ていると、21世紀になってクラシックの大作曲家がいなくなっても、新しい音楽に出会うことはできるものだと思われてくる。その様子は感動的であることを通り越し、驚異的である。あらゆるリズム、そしてフレーズが、丸で魔法をかけられたように迫ってくるからだ。アーノンクールの演奏するハイドンは、数多くのCDがリリースされているし、そのうちの何枚かは私も所有しているが、こうやって映像で見ていると、限りなく多量の情報量が、私の五感を刺激してくれるのである。

BBCがこの映像をDVDでリリースしており、それを買うことでこの映像はより上質に再生できる。第1楽章の序奏から、インティメントに溢れた情感は豊かである。第1主題が提示されると、バーンスタインやベームの演奏とはまるで違った曲がほとばしり出る。うれしいことにその主題は反復され、第1楽章が終わるころにはもう圧倒的な感銘の中にいる自分を発見する。

第2楽章のやや長ったらしい音楽も、早めのテンポに独特のアクセントをつけることで、丸でアンティークの家具が磨かれてよみがえったようである。第3楽章に至っては、これほど興奮に満ちたメヌエットがあるであろうか。3拍子のリズムが怠惰なものに感じられなくもない他の演奏を凌駕していることは言うまでもなく、そもそもこういう曲だったのだ、と言わんばかりに説得性がある。

終楽章プレストに至っては、オーケストラの見事な技術と次々に繰り出される楽器の重なりに狂気する。アーノンクルールは要所を押さえつつ、ものすごい集中力でありながら、ときおり楽譜をめくるなど余裕も感じられ、その興に乗った指揮ぶりは映像で見ると楽しさ百倍である。

「オックスフォード」交響曲は、いよいよ晩年の大作「ロンドン・セット」に含めてもいい完成度を誇っている。だがそれも演奏によって、こうも表現が違うものかと改めて感じた。アーノンクールのような演奏家によって、この曲は再び息吹を与えられ、おそらくはそのことが、ハイドンの音楽の評価を変えてしまったのだ。

2014年11月5日水曜日

シューマン:交響曲第2番ハ長調作品61(ジュゼッペ・シノーポリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューマンの交響曲第2番は、第4番のあとに書かれた交響曲である。この作品はシューマンの精神的な病いの中で格闘しながら作曲され、その精神状況が音楽に表れているという。だからそのような感情の起伏を表現した演奏が、よりロマンチックであり、そして時には痛切であるという。

だが私がそのような「基礎知識」を仕入れたのはずいぶん後になってからのことで、それまでに私は、交響曲第1番「春」や第3番「ライン」の、明るく快活な音楽がとても気に入っていたし、フルトヴェングラーのモノラル録音で聞く第4番の演奏は、まことに気宇壮大で迫力があり、ロマン派の音楽も後期に入るとこのような充実を見せるのか、と単純に感激していたものだ。

第2番はそのような経験を経たのち、比較的後になって聞いた記憶がある。全集で買ったCDの中で、随分地味な存在だったように感じたこの曲を、とりたてて深く聞いたことなかったのである。けれどもそのような交響曲第2番が、なぜかとても目立つ存在となった2つの演奏があった。

若くして倒れたユダヤ系イタリア人指揮者、ジュゼッペ・シノーポリはデビュー当時、ウィーン・フィルとこの曲を録音して、とても評判になったのがそのひとつである。若い指揮者(たしか記憶では29歳)がウィーン・デビューをすることはそれまでにもたまにあったが、よりによってシューマンの、それも交響曲第2番という曲を選ぶというのが、とても珍しく新鮮だった。その当時の録音のノートには、彼自身が精神医学の専門家で、シューマンの作曲当時の状況が音楽に反映したという分析が記されていたから、シノーポリの演奏は(やはり同じ時期に発売されたシューベルトの「未完成」と同様)、極めて個性的であるながら独特の説得力があったのである。

けれども私は当時、シューマンの交響曲をそれほど深く知らなかったし、まして第2番の演奏が「分析的」であるなどと言われても、もうひとつピンとこなかった。この演奏はむしろ、ウィーン・フィルのみずみずしい音色に感銘を受け、割に一生懸命演奏している(と思われる)真剣な姿が目に浮かぶようで、そのことがまず印象的だった。音にメリハリがあり、テンポも揺れるとはいえ、伝統的なロマンチックな演奏とも一線を画す演奏は、今ではさほど斬新さを感じないが、当時はちょっとした斬新な演奏だったと思う。

もう一つの第2交響曲の思い出は、バーンスタインが死の直前、札幌でこの曲を若者のオーケストラ相手に真剣な指揮をする姿をテレビの追悼番組で見たときである。涙を流しながらその第3楽章を指揮する姿は、シューマンの作曲当時の、まるで死の淵をさまようような感情を再現しているようで、恐ろしく痛々しく感じたものだ。この曲が好きだ、と語るバーンスタインのやつれた姿は今でも目に焼き付いているが、この作品はそんな気持ちにさせる作品なのか、などと思ったりしたのだ。

だがいま聞く第2番の交響曲は、私にとってそれほど深い痛切な痛みをもたらしてくれるわけではない。もし自分が生死の間をさまようような時に、この曲を聞いたら、もしかすると自殺しかねない状況に陥るかも知れない。が、シューマンは作品としての音楽を作曲し、メンデルスゾーンによってライプチヒで初演された。マーラーの後期作品を聞いても思うのは、いかに狂気じみ、時に死の淵にあろうと、作曲というような行為ができるうちは、まだ理性的であるというのが私の経験的な感想である。

だから私は、この曲を聞くことができる精神状態にあるときには、 この曲を普通の気持ちで聞いていたいと思う。シノーポリの演奏も若々しく、活気に満ちている。ウィーン・フィルの音色が見事にとらえられており、いま聞いても古い感じがしない。この演奏と、存在自体は目立たないが無視してしまうにはあまりにもったいないハイティンクの演奏が、私の現在のお気に入りである。

(シノーポリは2001年、ドレスデンで「アイーダ」を指揮中に心筋梗塞で倒れ、55歳の若さで亡くなった。マーラーやヴェルディの演奏で快進撃を続けていた矢先の突然の訃報であった。多忙を極めた末の過労死ではなかったかとささやかれた。マーラーも晩年、あまりに多忙でそのことが死期を早めたのではないかと思う。そう言えばメンデルスゾーンもまた、仕事のし過ぎであったと思う。これらユダヤ系の音楽家に共通するのは、寿命を縮めるほどに精力的であるという点だ。)

2014年11月2日日曜日

ヴェルディ:歌劇「マクベス」(The MET Live in HD 2014-2015)

松竹のホームページに「最近のMET史上最大の成功!」などと書かれているのを読むと、このエイドリアン・ノーブルの演出による「マクベス」は、METライヴとしても2008年の再演であるとわかっていても、これはもう見るしかないと思った。それはアンナ・ネトレプコがマクベス夫人を演じるから、という理由以外にない。そして前評判に違わず、私のMETライヴ経験の中でも屈指の名演であるばかりか、これは歴史的な「マクベス」の映像ではないかと確信した。

以下私は、今朝六本木のTOHOシネマズで見た「マクベス」について興奮冷めやらぬ感動を記載することになるのだが、 その感動は、指揮者のファビオ・ルイージが前奏曲を降り始めた冒頭から始まった。ルイージは、病気になった音楽監督レヴァインに代わってMETを指揮し始め、今ではその評価は板に付いた感があるのだが、そのルイージもここへきてMETのオーケストラを完全に掌握し、イタリア・オペラに相応しい統率力で、特には力強いトゥッティや、心に迫るカンタービレを十分に表現する力が付いていると思った。ところが、これはもしかすると、歌手たちの素晴らしさにこたえようと、指揮者、オーケストラ、それに合唱団が持ちうる限りの力を発揮しようとしたからではないか、と思うに至った。

それは第1幕でマクベス(バリトンのジェリコ・ルチッチ)とバンクォー(バスのルネ・パーペ)が歌う二重唱「二つの予言が的中した」で早くも明らかだった。いつもとは違う何か異様な雰囲気が、会場を覆っていた。第2場。ベッドでマクベスからの手紙を読むネトレプコが、登場のアリア「さあ、急いでいらっしゃい」を歌い始めると、私は脳天から竹割りをくらったかのように、全身が打ちのめされた。以後、第2幕が終わるまでの前半は、もうこの舞台がただの名演を超えた歴史的なものであるとさえ、思われたのである。

私はこの映像を、いつもの東劇ではなく、六本木のTOHOシネマズで見た。ところが予想に反して、ここの会場は満席に近い状態であった。おそらく前評判が高かったからろう。そしてそのプレミア・シートにはリクライニングが付いてるのだが、私はついにこれを使う気持にはなれなかったのだ。背筋を伸ばして聞き入れないと、何か十分に楽しめないような気がしていた。それほどこの公演の集中力はすさまじく、ヴェルディの書いた無駄のないドラマ性と迫力ある音楽に、ただただ圧倒されるばかりであった。

久しぶりにヴェルディを聞くと、食事制限をしたあとに豚かつを食べたような気分になる。溢れるメロディーと一糸乱れぬ合唱は、 まだベルカント時代の様相を残していて、高カロリーだが至福の気分にしてくれる。そのドラマ性重視の傾向が明確になる「マクベス」には、女性はただひとりしか登場しない。そして主人公はバリトンである。ヴェルディのオペラに一貫してテーマとなる心理的な葛藤と、男の弱さとでもいうべきものが、シェークスピアの原作によるものとは言え、ここでも明確に示されている。

ネトレプコの存在感は、第3幕以降になっても全く衰えることがない。だからこの作品はマクベス夫人こそ主人公である、という意見もあるくらいだが、それはおそらく違うだろう。ヴェルディが表現したかったのは、彼女の悪辣とも言える権力欲ではなく、それによって狂わされた男の悲劇であるからだ。彼女はそのきっかけであったにすぎない(「オテロ」ではこの役はイヤーゴである)。だがヴェルディはマクベス夫人にとても素晴らしい音楽をつけている。

だが重ねる蛮行に自ら戸惑い、錯乱状態になっていくのはマクベスだけではなかった。第4幕で彼女は、側近がつなぐ椅子の上を歩きながら、登場する。これは彼女の心の不安定さを象徴している。終始暗い舞台は、音楽そのものを決して邪魔することがない。そのことで集中力が生まれた。

ネトレプコの大名演の陰に、他の歌手が隠れていたわけではない。パーペ、ルチッチ、それにマクダフを歌ったテノールのジョセフ・カレーヤもまた、これ以上にないくらいの成功であるばかりか、見事に絵になる格好、そして表情である。ネトレプコが完璧にマクベス夫人になりきっていることに加えて、これら男声陣もまた標準をはるかに超える出来栄えであった。

狂気じみるくらいな拍手は、大歓声とともに全ての歌手に向けられた。だがそれだけではない。冒頭で述べたように、メトロポリタン歌劇場合唱団の、いつも以上に見事なアンサンブルと、それに何といってもルイージの、引き締まった上に表情に富んだ完全な指揮が、これに加わったのだ。その劇的な凝縮度は、若いころのレヴァインを思い出させるほどだ。だからこの上演は、METの数々の名演の中でも一等上を行く完成度であった。

興奮冷めやらぬのは、映画館に来た客だけではなかった。幕間のインタビューに答えるネトレプコの、狂気じみたハイパーさは、彼女がまったくもってマクベス夫人を自分の役にしてしまっていることを裏付けた。今シーズンは本作品を皮切りに、「フィガロの結婚」「カルメン」など、有名作品が目白押しである。やや食傷気味だったかのように思っていた私の音楽生活も、今日の「マクベス」で完全にリズムを取り戻した。暗く残虐なストーリーを味わった後だと言うのに、春のように暖かい六本木の街を吹き抜けていく風は、連休の合間ということもあって、とても軽やかであった。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...