2018年6月13日水曜日

マーラー:大地の歌(A:ミルドレット・ミラー、T:エルンスト・ヘフリガー、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

マーラーの異色の交響曲「大地の歌」は、稀有の名曲である、と、今は思っている。けれども初めからそう思ったわけではない。むしろこの曲は、長い間私を遠ざけていた。理由は簡単で、なかなか耳を傾ける機会がなかったからだ。LPレコードやCDが手元にあっても、そういう状況が続いたのだから、いわば「喰わず嫌い」の類であった。有名な曲であるにもかかわらず、静かな歌曲が長々と続くだけの作品のように思え、真剣に聞こうとは思わなかった。

いつだったかコンサートに出かけた時に、初めて「大地の歌」の魅力に感化されたと言っていい。それまでは、せいぜい冒頭のテノールの、一度聞いたら忘れない絶唱と、第3楽章のCMにも使われた「青春について」のメロディーだけが、私の記憶に残っていた。ところが実演で接した「大地の歌」では、アルトとテノールが代わる代わるに歌うメロディーが、中国風の響きと交わり、独特のムードを醸し出していること、さらに長大な最終楽章において、聞き手を深遠なる世界へと連れ出していくことが、私の「大地の歌」に対する考えを大きく変貌させた。マーラーの他の交響曲にありがちな、終末部を大規模なクレッシェンド締めくくる要素がまったくなくても、丸で時間が止まったかのように音楽に没頭させてしまう不思議な気持ちを経験したのである。

この奥深く自然でありながら、憂愁と諦観に満ち、かつ新鮮で無類の美しさを持つ音楽の全体を、下手に書き記すことはやめておこう。何百という解説書、伝記、音楽家の言葉によって、すでにその魅力はすでに余すところなく語られているからだ。李白や孟浩然らによる漢詩集が、どのように翻訳または意訳、時には誤訳されマーラーに伝わったかも、これらから詳しく知ることが出来る。

むしろ私は、マーラーが生涯通じて求め続けた新しい響きが、とうとうここにきて、虚無的で神秘的とも言える不思議な音階へと拡大し、そのスケールは物理的な規模を脱して、より心理的な空間へも導かれていったということを書いておこうと思う。マーラーが「シナの笛」と題された詩集を通じて、東洋的な生死観と出会った。(もともとの意味からは、ややそれてはいるものの)彼は、そこから救いとなる永遠なる精神の安らぎを得ようとした。

輪廻転生、諸行無常といった仏教がベースとなる価値観は、日本人に馴染みの深い心理として私たちの心に通底している。私は大病を患った際、自分の精神の中に般若心経で語られる空の感覚に、自らの精神的安定を得ることが出来た。クラシック音楽を聞くことを趣味としていた私も、最終的に救いとなったのは西洋的な生死観ではなかったのだ。その最後は一切の苦を取り除くための呪文のような文言「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦」の意味を考えようとしたとき、そこに「諦め」という文字が当てられていることに感動した。彼岸に到達せよ、と唱える響きは、「大地の歌」の最終部で、自らが追加したとも言える歌詞を何度も何度も繰りかえしながら「永遠に、永遠に」と求めて彷徨う安らかな死後の世界に通じるのではないだろうか?

第1楽章から第5楽章までの、それぞれ「大地の哀愁に寄せる酒の歌」、「秋に寂しき者」、「青春について」、「美について」、「春に酔える者」と名付けられた各曲は、いずれも大変印象深いが、最終楽章「告別」の、さらに深化した曲調に比べれば、前奏曲のようなものである。

第1楽章はまだ解脱の域に達していない主人公が、酒をあおり、すべてを忘れようとしてもがく姿が痛々しい。「生は暗く、死もまた暗い」のだ。一方、第2楽章では静かで澄み切った安らぎが、アルトの歌唱とともに展開されてゆく。東洋的なメロディーの効果が随所に聞かれるので、梅雨の時期に霧の立ち登る山川を描いた水墨画のような世界を想像しながら聞くのが私の癖である。

第3楽章の有名なメロディーは、変わって明るく前向きである。ここなどを聞くと、「大地の歌」は決して救いのない曲ではないことがわかる。メロディーは親しみやすい。そして全体の折り返し地点となる第4楽章では、乙女が馬に乗った少年をじっと見つめる印象的な部分が登場する。この曲のほとんど唯一とも言っていいような速いリズムで、ティンパニが打ち鳴らされる。第5楽章では再びテノールの歌唱に戻り、酩酊の気分で夢を見るような音楽が続く。人生は儚い夢だ、ということだろうか。

全体の半分の時間を占める第6楽章は、大きく分けると3つの部分から成っている。聞き進むうちに、それぞれに異なる雰囲気の進化が聞き手の心理に及ぼす変化を毎回感じざるを得ない。このような曲はいくつかあるが、「大地の歌」もまたそういう魔力を持っている。この第6楽章こそ「大地の歌」の魅力が詰まった核心部分である。途中、オーケストラだけが滔々と演奏する間奏曲のような部分がある。ここを境に死が訪れ、それまでは待ち焦がれていた友人がいつまでも来ないことを悟ると、静かに消え入るように、メロディーは回想される。この間に視点は彼から友人へと移る。ようやくたどり着いた友人は、死にゆく彼に問いかける。「どこへ行くのだ?」様々な楽器が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。大地には花や草木が溢れ、それはやがて去って行く。一切が何もない世界へ。一切の苦しみから解放される極楽の浄土へ・・・。

ブルーノ・ワルターが指揮した「大地の歌」は、特別なディスクである。ワルターは自らが初演もした「大地の歌」の演奏をいくつも残しているが、中でも有名なのはウィーン・フィルとの1952年のモノラル録音(Decca)である。ここでアルトはカスリーン・フェリアー、テノールはユリウス・パツァークが歌っている。だがこの演奏は、当時としては極めて優秀な音質と言われてはいるものの、どうしてもモノラル録音である。繰り返し聞くものとしての「大地の歌」ということになると、私の場合、音質を無視するわけにはいかない。音質を無視しても他に代えがたい演奏というのは、フルトヴェングラーやトスカニーニなどに多数存在するが、ワルターの場合、嬉しいことにステレオ時代になって録音した別の「大地の歌」が存在する。

1960年、84歳だったワルターは、ニューヨーク・フィルハーモニックとともにこの曲を録音した。CBSがリリースした当時の録音は、ウィーンとのモノラル録音と比べても、十分にいい演奏であると私は思う。この演奏は、同時期に収録されたコロンビア交響楽団との一連の演奏に比べると、はるかに鮮明に録音されている。

アルトのミルドレット・ミラーが特に終楽章で見事な歌を披露しているのも素晴らしい。テノールのエルンスト・ヘフリガーはやや楽天的だが、酒に酔って歌う歌だと思えばこれはこれで聞ける。何よりオーケストラがワルターの音楽観を最上レベルで理解し、尊敬の念を持って真摯に演奏しているその様子が、手に取るようにわかる。オーボエやフルートの独奏が多いこの曲で、まるで残響のいいホールの実演を聴いているようななまめかしい音色は、半世紀以上も前に録音されたことを忘れさせる。そういえば「大地の歌」を作曲した頃のマーラーは、新世界に活躍の場を求め、ニューヨーク・フィルとも何十回と演奏会を指揮している。

1960年頃と言えば、レナード・バーンスタインが活躍をし始める頃である。彼がデビューのきっかけとなったのはワルターの急病による交代であった。バーンスタインはマーラーの一連の交響曲ををニューヨーク・フィルと録音するが、「大地の歌」はウィーンで録音し、この演奏は当時ウィーン・フィルの専属であったDeccaからリリースされた。珍しいことにソプラノの代わりにバリトンが器用されているのは、それがディートリヒ・フィッシャー=ディースカウだったからであろう。元気のいい快速の演奏だが、深々とした第6楽章のバリトンによる名唱は、他のディスクには代えがたい魅力でもある。ただし録音は古めかしい。

バーンスタインは2回目のマーラー全集では、メゾ・ソプラノのクリスタ・ルートヴィヒを起用した演奏を残している。オーケストラはイスラエル・フィルである。一方、アナログ期に録音された歴史的名盤としては、オットー・クレンペラーによるものがある。時間をかけた演奏だが、弛緩することはなく、むしろリズムがあって格調高い指揮が新鮮である。ここでもクリスタ・ルートヴィヒが名唱を聞かせている。テノールはフリッツ・ヴンダーリッヒ。デジタル時代の最近の演奏では、やはりブーレーズ盤が思い浮かぶ。クレンペラー盤と並ぶ巨峰のひとつだと思う。

2018年6月7日木曜日

JVCのイヤホン HA-FX46

私はSONYの携帯音楽プレイヤーWalkman NW-A16に数多くの音源を入れて持ち歩き、このブログの記事にする音楽を聴いている。これまではPioneerのSE-CL721という3500円のイヤホンを使っていたが、とうとう壊れてしまった。そもそもイヤホンは壊れやすいこと、なくしやすいこと、それに音質に飽きが来ることを想定し、できるだけ安い製品を買うことにしている。1000円クラスでもかつては遜色ないものが手に入ったが、スマートフォンが出始めてからは製品のバリエーションが豊富になり、マーケットが広がって売れ行きが伸びた。高価格の機種には技術進歩が感じられるいいものが出現して選択肢が広まったものの、低価格なものは逆に質が落ちたと思う。

それで、今では3000円くらいのものを選ぶことにしている。この程度なら壊れても、間違って音質が悪くても、それほどショックはないからである。Pioneerはオーディオ・メーカーとして素晴らしい製品を出してきたが、最近はぱっとしない。これはイヤホンでも同じ。一方、SONYはいいものはいいが、価格と性能が比例しない。そして高めである。オーディオ・テクニカにもいいものはあるが、種類が多すぎる上に、いいものは高い。

私のイヤホンに対するこだわりは、①L字型のジャック、②左右がわかりやすい、③絡みにくい、というものだったが、最近はこれに加えて④密閉度が高い(もちろん音漏れしない)、という基準が加わった。Bluetooth型の欠点は、充電をする手間がかかることである。このためBluetooth型はスマホ専用にしており、これだと本体と独立して使用できるが、安い価格で高音質は望めない。WalkmanもBluetoothに対応しているが、 いちいちペアリングするわずらわしさを回避するため、私はBluetooth型(主にラジオを聞く)をスマホ専用とし、Walkmanには3000円クラスのイヤホンと使い分けているのである。

さて、振り返ってみれば私は10年以上前に、当時としてはハイエンドのSONY製イヤホンを購入したが、これは線の素材から絡みが激しく、一度使うたびに長時間の「ほどき」が必要になるうえに、音漏れが激しく持ち歩きには適していない(私は主にクラシックを聞いているので、フォルッティッシモからピアニッシモまで聞かなくてはならない)。一方、Walkmanにはイヤホンが付属されており、これは買うと高い純正のノイズキャンセリング型だが、あまり音質や良くない上に、L字型ジャックでもなく分岐部分が華奢に作られている。 このため壊れたイヤホンの臨時代替用としているのだが、それにしても音質が良くないので、新しいイヤホンを探しに電気量販店へ出かけた。

モデルチェンジが激しいので、どこのメーカーのどの製品がいいのかはその時にならないとわからない。客の少ない平日昼間にWalkmanを持っていき、いろいろ差し替えて試聴するほかはない。1万円を超える機種はやはりいいので、比較の対象とはしない。そうすると試聴可能な最低ランクは、今では2000円以上のものとある。この中から音質が良く、かつ上記の四基準を満たすものを探す。できれば安い機種で。

で、その結果、今回私が購入したのはわずか2000円のJVCケンウッド製HA-FX46という機種であった。ちょっと気分を変えて青色を選ぶ。密閉度が高く、これだと怒鳴りちらす山手線の駅のアナウンスも気にならない。L字型ジャックで、線も絡みにくい。そして何より音がいい!

その音は8000円以上のクラスと変わらないと思われた。少しエコーがかかったように音に奥行きがあるにもかかわらず、低音が出て、しかも濁らない。オーケストラの音が独特のシンフォニックな響きとなる。シャカシャカなることもなく、これだとイコライザーを合わせて様々なジャンルに対応できると思った。

いくつか聞き比べたものの、1万円以下の製品でこれほどいいと思うものもなく、ほとんど一目惚れの状態で買い求め、 家に帰る電車の中で待ち切れず聞いてみた。ベッリーニの歌劇「ノルマ」の前奏曲、マーラーの「大地の歌」、それに大瀧詠一の「スピーチ・バルーン」に至るまで様々に聞いてみた。分離の良さと安定感が素晴らしい。品が良い音は、決して弱くもなく、十分鳴りっぷりいいのだ。確かにもっといいイヤホンもあるが、この価格でこの音質は十分すぎるくらいである。イヤホンが変わると、それまで聞いてきた音楽をもう一度聞いてみたくなる。そういうわけで、私の音楽ライフもまたリフレッシュされた、ということである。

2018年6月5日火曜日

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(2018年6月2日、新国立劇場)

当たり前のことだが「芸術」と「商品」は異なる。期待通りの幸福感など、投資に見合う効果が得られるとべきいう資本主義世界の常識に照らして言えば、本物の「芸術」はその対極にあることもしばしばである。期待は裏切られ、受け手に疑問符が投げかけられる。それが素人でもわかるレベルでなされるとしたら、それこそが「芸術」の存在意義でさえある、という大雑把な理屈は、完全に間違っているとは言えない。いやむしろ、心に動揺を与え、時には不快感さえ催すものも、現代に生きる我々の脳裏に突きつけるような刺激となる必要がある。それこそが「芸術」としての存在意義である・・・。

私はこの経験に、2万円以上の費用を支払い、3時間の時間を割いた。ベートーヴェンの訴える自由への賛歌、人間への愛、といったものを、フランス革命の直後に作られた時代に照らして鑑賞しようとした。やはり「フィデリオ」は素晴らしい、そういうことを追体験しようとして、このチケットを購入したのだ。だが、その安直な考えは完全に裏切られた。浅薄で姑息な期待を否定されたと言ってよい。このショッキングな経験を、どう解釈し書き残せばいいのだろうか。

新国立劇場における飯森泰次郎音楽監督の最後の演目は、ワーグナーの曾孫にあたるカタリーナ・ワーグナーの演出する「フィデリオ」であった。彼女はもともとベートーヴェンが表現した正義の勝利を完全に覆し、21世紀に住む我々に自由とは、愛とは、といった根源的な問いをアイロニカルに突きつけた。悲劇的なまでの読み替え演出は、相当な混乱を聴衆に与えた。歌手とオーケストラの素晴らしい出来ばえ云々よりも、その大胆過ぎる解釈は、議論の的になるであろう。

舞台に仕掛けられたのは階層状の刑務所内部で、時折上下にスライドし、区切られた各スペースは、最上階にオフィスとマルツェリーネの部屋(ここだけがピンク色で異様に明るい)、その下がフロレスタンの捕らわれている独房、そして最下層に囚人たちが閉じ込められている牢屋となっている。フロレスタンは冒頭からすでに独房で動き回り、ライトの当たらない空間からも歌が聞こえてくる(第1幕終盤)。徹底的に演劇性を重視したもので、3階の隅でアリアを歌うかと思えば、それぞれ独立した部屋にいる歌手の重唱となるなど、空間を隅々まで生かした演出は新鮮である。

序曲からすでに演劇は始まっていたが、それは第2幕の途中で挿入された「レオノーレ」序曲第3番の時でも同様だった。音楽の流れに上手く溶け込んだ、丸でインテルメッツォのようになった「レオノーレ」序曲の間に、もう独房から逃げられないようにとピツァロが入り口を封鎖する。石を積み上げて行く様子が音楽の中で実行され、それは痛々しいまでの悲劇である。これでは勝利のファンファーレも意味を成さない。

あろうことかフロレスタンとレオノーレは刺され、自由を得たかに思われた囚人たちは、最後の瞬間に牢屋に再び閉じ込められる。フロレスタンも囚人たちも、死後の世界でないと自由は得られない。そう考えると、重層的な舞台は何やら「アイーダ」の最終幕を連想させるのだ。

ドラマトゥルクのダニエル・ウェーバーは、その解釈を解説書に詳述している。「この華やかな新しい自由は(中略)、袋小路に過ぎないしユートピア(どこにもあり得ない世界)でしかない」。すなわち「自由の国に大臣はいない」「これは見せかけの国」の「見せかけの輝き」でしかないという。

この舞台に我々は拍手を送るべきなのだろうか。いや演出家が拍手など期待していないかも知れない。彼女は真面目に、この舞台を現代に再現する意味を問うている。そしてその逆説的な解釈によって、その後の作曲家がもはやベートーヴェン的単純さで音楽やオペラを作曲できなくなっていったことを思い起こさせようとしている。ワーグナーもマーラーも、ベートーヴェンの輝きに苦しみ、その中から新しい作品を生み出した。

私はこのような野心的演出に立ち会えたことを、心から喜びたいと思う。ベートーヴェンの「フィデリオ」もこのような上演になるのかと思った。挿入された「レオノーレ」序曲も含めて、見どころは沢山あった。そのひとつひとつを覚えておくのは困難だし、それを書き記すのも簡単ではない。だからこそ、生の演奏で触れた3時間は一生の思い出に残るであろう。だが、正直に書けば私も最後混乱し、4階席から一斉に響くブラボーに困惑した。一連の最終公演となったこともあって、一部の観客は確信的に好意的であった。

最後になったが、歌手について書いておこう。マルツエリーネに抜擢された石橋栄美は、なかなかの好演であった。彼女は大阪の生まれだそうで、私と同じだからなんとなく好感を抱く。一方のジャキーノ役鈴木准は声量が細い。ロッコの妻屋秀和は、当劇場におけるバスの常連だが、この看守役は特に似合っている。ドン・ピツァロを演じたミヒャエル・クプファー=ラデツキーは新国立劇場初登場らしいが、あまり印象はない。また最後に登場する大臣ドン・フェルナンドは黒田博が演じたが、このような解釈だから威厳が感じられないのは仕方がないだろう。

素晴らしかったのはやはりレオノーレのリカルダ・メルベートとフロレスタンのステファン・グールドである。メルベートは尻上がりに好調で、最後の大合唱の中にあっても、ひときは高い声を会場に轟かせた。一方、グールドの品のある歌声は、安定して高貴であったことがかえって、このパラドキシカルな世界にあって痛々しく感じられた。オーケストラの東京交響楽団は、一部ホルンの音が乱れる時もあったものの熱演で、フロレスタンの歌う第2幕冒頭のアリア「人生の春のただ中で」で滅法上手いオーボエとの競演が素晴らしかったことに加え、「レオノーレ」第3番の演奏も印象に残る出来栄え。

そして何といっても特筆すべきは新国立劇場合唱団!フィナーレの合唱が左右いっぱいに広がり、男声と女声の見事なコントラストに胸が詰まる思い。飯森泰次郎の指揮は今回が見納めとあって、最後の最後まで拍手が絶えない。彼が出てくると会場はスタンディング・オベイションで、その時間は20分を超えるほど長く、舞台に登場する回数も4回を超えたように思う。

新国立劇場の「フィデリオ」はこれが2回目のプロダクションである。私は前回のものも見ているが、こちらは古典的な解釈であった(「レオノーレ」序曲は挿入されなかった)。それに比べると今回の演出は、いろいろな意味で考えさせられる上演だったし、実際物議を醸すのだろうと思われる。音楽の演奏自体は、今回の方がはるかに良かった。テレビ収録もされているようで、もう一度じっくり見てみたいような気がする。放映が楽しみである。

2018年6月2日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」(The MET live in HD 2017-2018)

METライブ・ビューイングのサイトに音楽評論家加藤浩子が「しびれる」と書いていたのを見つけ、私は迷わず東銀座へ。松竹本社の3階にある東劇は、ここ数年演目次第では一日中、それも2週間に亘って上映し続けてくれることが多くなり、とても嬉しく思っている。そして実際、客はよく入っている。今回の「ルイザ・ミラー」もヴェルディの中では知られていない作品だが、観客の中に熱気のようなものが感じられる。

そしてその上映は「打たれた!」という感じ。あらゆる点において完璧な上演だったので、何から話せばよいのかわからない。まずいつものように指揮者のベルトラン・ド・ビリーが登場。オーストリア放送協会のオーケストラを振っていた時代、超特急の「ドン・ジョヴァンニ」だったかのCDを買った覚えがある。若い指揮者だったと思っていたが、今ではもう中年の指揮者である。

引き締まったリズムと集中力を欠かさないテンポの序曲を聞くだけで、私は一気にヴェルディの世界へ引き込まれてあいまった。クラリネットが悲劇の予感の旋律を吹く。序曲だけで拍手が鳴り響くのが嬉しい。そして間を置かず第1幕となる。最初から登場する娘と父親。娘のルイザはソプラノのブルガリア人ソニア・ヨンチェヴァ。プッチーニを良く聞いたと言う印象があるが、今回はヴェルディのベルカントとドラマチックの両方を必要とする難役に挑戦。しかし彼女の父親役であるプラシド・ドミンゴと来たら!

ドミンゴはもう何十年も歌っているMETのレジェンドだが、今ではバリトンの役をこなす。前にも書いたがドミンゴのやや霞のかかった低い声は、テノールよりもバリトンの方が似合っている。しかも声は衰えるどころか、ますます円熟味をを帯び、今回のミラー役で冒頭に発する声で、聴衆を完全にノックアウトした感じだ。

シラーの原作、舞台は17世紀のチロル地方。演出はエライジャ・モシンスキーで、忠実でああり、かつよく考えられた演出は言うことなしだと思う。自然にオペラの世界に入ってゆく。たとえ台本が滑稽で、話が急展開するものであるにもかかわらず、この音楽は紛れもなくヴェルディの魅力を余すところなく伝えている。

いや私は、後年の大作へとつながる多くの要素を、この若い頃の作品の中に見出すことによって、逆に中期以降の作品がいかに圧倒的な芸術性を持っているかを理解すすることができるし、それに比べるとやや粗削りではあるおのの、すでにヴェルディの音楽が爆発的に展開されている様を聞くことが、とても好きである。若きエネルギーが炸裂し、これでもかこれでもかと推進する音楽は、綺麗な歌声とドラマチックな展開によって、見る者をくぎ付けにする。初期の作品で、すでにヴェルディは大作曲家であった。

ドミンゴの貫禄のある父親は、今風のリベラルな父親にぴったりである。悲劇を予感し、実際にその渦に巻き込まれる悲哀を、ドミンゴで聞くことができるというのは2018年に生きているオペラファンに許された神様からの贈り物だろう。だがそれだけではない。主演者のすべてが決まっている。

まずミラーの相手役で、領主の息子ロドルフォは、ピョートル・ペチャワ。若い青年の初恋のみずみずしさと、破滅をも恐れぬ純粋な精神。やや向こう見ずで、悲劇的な心情を彼ほどぴったりと表現することができる人はいないのではないだろうか。テノールの声の持つ悲しさは、明るいイタリアの空が限りなく悲しいのに似ている。ロドルフォは若きドミンゴも歌った役だが、第3幕で彼はすでに運命を予感している。確信犯としてルイザに服毒させ、自らも死を選ぶ。

この作品は、二人の父親の物語である。そのことを象徴するように、ミラーとヴァルター伯爵は、自殺した二人のそばで顔を見合わせる。若い二人の結ばれぬ恋は、若さゆえに悲劇をもたらすが、それはまた冷静に考えれば、若気の至りとでもいうべきものに過ぎないとも思う。若者は諦めることを知らず、直進的に行動する。それがもたらす悲劇は、後の「トラヴィアータ」の下地となった。音楽的にもストーリー的にも、この作品は中期の先駆けとなる要素を持っている。

悪事を働くヴルムはバスのディミトリ・ベルセルスキーによって、彼がまた素晴らしい。この役は「オテロ」におけるイヤーゴの先駆けである。ヴルムは捉えられたミラーを助ける代わりに、自分を愛しているとルイザに偽りの手紙を書かせる。以降、手紙を書くシーンは「トラヴィアータ」でも象徴的に扱われ、チャイコフスキーは「エフゲニー・オネーギン」で長大なアリアを作曲するに至る。

第2幕で歌われるヴルムと、ヴァルター伯爵によるバスの二重唱は、このオペラの聴きどころのひとつである。ヴァルター伯爵は、バスのアレクサンダー・ヴィノグラドフで、役回りが容姿とピタリと決まっているし、低音を支えることがオペラの出来不出来を決しているような気がする。ヴェルディの実験は、ほかにもある。アカペラによる4重唱である。ここで、ロドルフォの許嫁で公爵夫人(未亡人)のフェデリーカはメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァで、彼女がまた違った持ち味の歌声が安定していて素晴らしい。彼女に伯爵、ヴルム、ロドルフォが加わる。

各幕の合間に舞台装置を入れ替えるため、上演はしばしば中断する。その度にカメラは大道具の入れ替え作業を映し出す。圧倒的な歌唱が続くときの興奮を、この時間が鎮めてくれるのはいいことだけれど、これほど完成度の高い上演を一気に見たい、とも思った。今回、映画館でアリアの度に拍手をする人が、何人かいた。私も心の中が、感極まって詰まりそうだった。もしかするとこれまでみたMET上映の中で、ベスト3に入るほどの出来栄えだったと思われる。

ヴェルディの重量感あるドラマチックな音楽に酔いしれ、美しいアリアに耳を傾ける。物語が心を打ち、喜びや悲しみが津波のように押し寄せる。娘を思う父と父を思う娘は、ヴェルディが生涯にわたって求め続けたストーリーだった。だがここにはもう一組の父子が存在する。伯爵とロドルフォは、父と息子の噛み合わない宿命的な関係を表している。このオペラは父親とは何か、と問いかける物語である。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...