2017年10月31日火曜日

ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

今年の秋は少しおかしい。いつまでも暑かったかと思えば、急に気温が下降し、もはや冬のようである。しかも雨がやたらに多い。そこへ少し遅れて台風が週末の度に襲来し、秋の風情を楽しむような日はほとんどない。今日、木枯らしが吹いたというが、もうとっくに寒い日々である。だから週末ごとに出かけていたウォーキングを、なかなか楽しめないでいる。

久しぶりに晴れた台風一過の夜、平日ではあったがいつもの散歩コースに出かけた。しかも久しぶりだったので、歩き終えるのが惜しく、いつものコースを2周した。これはやや力が要ったが、毎日続けているうちに、2周コースが日課となった。そして大風の吹く透き通った都会の風景を眺めながら、私は手元にあったWalkmanでブルックナーを聞いていた。交響曲第5番である。

この曲は第8番と並んで私の苦手な曲である。長いのはブルックナーの常として、どうも楽しめない両端の楽章が退屈ですらあった。だがこの日は違っていた。第1楽章は第4番を思わせるように、ソナタ形式を追うように楽しめたし、時折、ふと気が付くと何か壮大な空間が夜空に出来ていた。私が歩くコースは一周が1.5キロほどだが、その間、いつまでたっても第1楽章が終わらない。それでもう少し聞きたいと思って、2周目に突入したのが実際のところである。

2周目は途中から第2楽章となった。アダージョである。この楽章がとても気に入った。このゆったいりとした音楽を聴きながら、私はかつて一夏を過ごしたスイスの風景を思い浮かべた。時折冷たい風が、夜空にそびえるビルの間を吹き抜けていく時、私は得も言われぬ感動に見舞われた。この不思議な瞬間こそ、ブルックナーである。そしてそのような恍惚とした時間の流れは、時に立ち止まり、また時には歩を進める。私はそれに合わせて歩き続ける。

こうなったら第3楽章である。3拍子のスケルツォは、それまでの印象とは打って変わって、ほれぼれとする瞬間の連続である。金管楽器がフォルティッシモのユニゾンを奏でる時、そこには夕日に照らされたアルプスの高峰を仰ぎ見るような神々しさを感じる。これは不思議なことである。なぜそうなるのかわからないが、何かごくまれに、魔法にかかったようになる。

この演奏を聞きながら、私はブルックナーをどう聞けばいいのか、少し考えた。それはベートーヴェンやブラームスの音楽を聴くときとは全く異なる気持ちが必要であるような気がする。演奏家は間違えずに、この長い曲を弾き切る相当な技術と労力が求められるが、聞き手はそういう演奏家を固唾を飲んで聞き入る、という風ではない。まずは身をゆだねて、リラックスするのが重要だ。物思いにふけってもいい。そして少しならウトウトしてもいいような気がする。音楽家には悪いのだが、演奏を聞くというようりは、音楽を聞く。それも身を委ねて聞くのである。

そうこうしているうちに、何かとても大きなものに支配されているような気持がしてくる。もちろん演奏は完璧であると良いだろう。だが指揮者はあくまでも音楽に奉仕しなければならない。聞き手は音楽の中に神を感じ、そしてその光に心を打たれる。そうなったら、いよいよ音楽と身体が一体化する。もちろん演奏家と聞き手が、同じ音楽空間に支配される。まったく不思議な瞬間は、他の音楽でも感じる時があるが、ブルックナーのそれは特に印象的である。

第4楽章になった。この長い音楽は、徐々にクライマックスを築いてゆく。それまでただ長く退屈だった曲が、このまま長く続いてほしいなどと思う。このような演奏に出会うことは、極端に言えば、偶然でしかない。同じ演奏家でも日によって違うだろうし、聞き手のコンディションも同じではない。いくつかの要素が重なる必要がある。実演でとなると、これはもう奇跡を待つしかない。そしてそれはたいてい外れる。

録音された媒体では、演奏上のミスは補正されているから、むしろ安心して聞くことができると言える。だが定評のある演奏で聞いたとしても、なかなかいい演奏だと思うことはない。これが第4番「ロマンチック」や第7番だと、もう少し確率は高いと思う。あるいは第6番も第9番も同様である。だがこの第5番と、そして私の場合、あの長い第8番は、名演に接したことがない。そんな中で、このシノーポリが指揮したドレスデンの演奏は、この曲の良さが初めてわかったような気がした。もっとも手元にあったこの曲のCDはたかだか3種類ほどだから、もっと古い演奏や掘り出し物を聞き漁っているブルックナー好きから見れば、一笑に付されるのが落ちであろう。

2日目の2周目にしてやっとこの曲を聞き終えた。もちろん初めてではないが、これだけきっちりと聞いたのは初めてである。どこか遠くへ行っていたような気がする音楽的感覚は、秀逸な演奏で聞くブルックナーでしか味わえないものかも知れない。けれども数あるブルックナーの作品にあって、第5番でしか味わえないようなものがあるのだろうか。そのあたりは良くわからない。今後、この曲を一体何度聞くことがあるだろうかと考えた。私はもう五十代になっており、そしてこのコースを歩く習慣も十年近く続いている。いつも同じことをしているのだが、この曲のこの演奏を、こんな風に聞きながら歩くことはもうないであろう。平成29年の秋の一日は、そういう風に過ぎて行った。

2017年10月21日土曜日

ハイドン:オラトリオ「四季」(カール・ベーム指揮ウィーン交響楽団ほか)

ハイドンがその晩年にオラトリオ「四季」を作曲するのは、前作「天地創造」から数年後の1800年頃のことである。1800年と言えば、モーツァルトはすでに他界しており、ベートーヴェンが交響曲第1番を初演する年である。この頃音楽は急速に大規模化し、次第に自由な形式へと進化してゆく。「四季」は「天地創造」よりも30分も長く、「天地創造」が旧約聖書をモチーフにしたのとは対照的に、中欧の自然の移り変わりを明るくのびのびと表現した、牧歌的で親しみやすい作品である。

ところが残念なことに「四季」の実演に接する機会は少ない。録音も「天地創造」に比べれば少ない。私もこれまで、わずかに1回、それもアマチュアの団体が演奏した実演に接したのみである。とはいえ「四季」は、ハイドンの作品の中でも群を抜いて精彩を放つ作品と言える。私もこの作品を愛してやまない。初めて聞いたカラヤンの演奏以来、何十回となく聞きこんできたが、そろそろここにまとめて書いておこうと思う。

「四季」に登場する独唱は3人で、小作人シモンにバスが、娘ハンネにソプラノが、そして若い農夫ルーカスにテノールが、それぞれ割り当てられている。けれども特に物語があるわけではなく、ハイドンが長年住んだオーストリアの農村部の四季の情景が、混成四部合唱ともに歌われる。歌詞はドイツ語で、「天地創造」と同様、ヴァン・スヴィーデン伯爵による台本を元にしたものだ。伯爵はハイドンの良き理解者であり友人でもあったようだが、この「四季」の作曲にはいろいろ確執も伝えられている。

スヴィーデン伯爵が「天地創造」の成功に気を良くして、何かとハイドンの音楽づくりに口を出し、それは人気取りの側面があったようだ。それを快く思わないハイドンはそれに逆らい、純音楽的な美しさを重視したようだ。だがそんなことは気にならなくらいに、全編を通して高い完成度を保っている。どの部分から聞き始めようと、ハイドンにしか書けないような美しいメロディーに触れることが出来る。

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【第1部「春」】

第1番:序奏。「天地創造」の静かで混沌とした情景の始まりとは異なり、ティンパニを伴った激しい音楽である。と思ったらやはりト短調。これはおそらく冬の名残り。春の最初に吹く嵐の情景。我が国の言葉で言えば春一番といったところだろうか。 骨格の強固な自信に満ちた音楽が、ハイドンを聞く喜びを感じさせてくれる。春の訪れを3人の独唱が告げるところから、この曲は始まる。

第2番は農民の合唱。美しいメロディーがほのぼのとした情景を描写する。寒い冬の日々から解き放たれ、春になった時のしみじみとした喜びは、日本人にはよく理解できる。そして少し憂いに満ちた感覚も。春のト長調。

第3番のレチタティーヴォに続き第4番は、 シモンが田園風景を歌う。ここを初めて聞いた時、これは「驚愕」交響曲の第2楽章であることに「驚いた」。こういう転用は何とも憎い。素朴なハ長調。

第5番もレチタティーヴォである。以降、レチタティーヴォにアリアや合唱、またはその両方が活躍する曲という構成が続く。第6番は、そのままルーカスによる歌と合唱となる。「田園交響曲」のヘ長調で、色に例えると緑だろうか。

第7番はソプラノのレチタティーヴォ。続く第8番は2つの部分からなる長い曲である。まずソプラノとテノールの独唱は若者たちの歌であり、これに合唱が加わる。希望と喜びに満ちたイ長調。ここで戯画的な模倣のシーンが登場して、「四季」を聞く楽しさが倍増する。春たけなわといったところ。

第8番の後半は「春」の終曲である。力強くもしもじみとした神への賛歌はミサ曲を思わせ、後半のフーガも含め全体的に宗教的な荘重さを持っている。祈りの変ロ長調。


【第2部「夏」】

「夏」のイメージはけだるさだが、そのような音楽で始まる。だがこれは個人的な主観に基づくもので、実際は第9番はハ短調の夜明け前。

さて第10番である。ホルンのきれいなメロディーで夜が明ける。独唱を挟みながらオーケストラがイメージするのは、鶏の鳴き声。「目覚めた羊飼いは 、喜ぶ羊たちを呼び集め」、「朝焼けに空が赤く染まっていく」。ああ何と夏の夜明けの神々しいことか。 「薄い雲は煙のように消え 、空は群青色に澄み渡り・・・」はやり「四季」を聞くときは歌詞を追いたい。

太陽への賛歌はこれからが本番。第11番はラルゴの二重唱に合唱が加わる。 命の源である太陽は、洋の東西を問わず、崇められる存在である。太陽、そして創造主への感謝は力強く、そしてしみじみとした情感に満ちている。高尚で華美、雄大で宗教的なニ長調。

「夏」の後半は第12番から第18番まで続く。第13番はカヴァティーナ。いよいよ夏のだるさが歌われる。「花は萎れ、草は枯れ、 泉は干上がり、全てのものが灼熱に苦しんでいる」。 生物は生気を失い、農民も一休み。首を垂れる麦畑が黄色に染まったホ長調。

第14番の長いレチタティーヴォに続き第15番はハンネのアリア。オーボエの音色が美しい。涼しい木陰に、さらさら流れる小川。虫は這い、羊飼いは草笛を鳴らす。静かでゆったりした変ロ長調。

第16番は再びレチタティーヴォ。遠くから雷が轟き、やがて雨がポツポツと降り始める。そして第17番はとうとう夕立がやって来る。稲妻が光り、驟雨となる。合唱が歌う。激しい雨は地面をたたきつけ、「大地は揺さぶられ 、海の底まで震え上がる」。ここはやはり激烈なハ短調。

音楽はこのまま終曲である第18番に入る。嵐が去った後の夕暮れ。西日を浴びた畑は黄色に輝き、雫が光る。こおろぎやカエルが鳴く。やがて夕べの鐘が鳴り響き、空には星が輝き始める頃、農民たちは一日の仕事を終え家路につく。平和で牧歌的なヘ長調。安らぎのうちに「夏」が終わる。


【第3部「秋」】

秋になった。乾燥した涼しい風がさわやかに吹き、空は青く高い。温帯性気候の中で育った私は、この「日本晴れ」という、いつのまにか最近耳にしなくなった天候が大好きである。「秋」の冒頭は、そのような日本人にも実感を持って聞くことのできる音楽だと思う。

第19番は序奏(豊作への喜び)。短いレチタティーヴォに続く第20番は、木管楽器が美しいアリアに合唱が絡む。幸福な音楽にほれぼれする。素朴で飾り気のないハ長調。

第21番の短いレチタティーヴォに続く第22番は、 テノールの「Kommt Hier(こちらにおいで)」という歌詞が印象的。ソプラノとの二重唱になり、クラリネットが柔らかく陰影に富んだ魅力的な曲(変ホ長調)である。

第23番のレチタティーヴォに続き第24番は、冒頭バロック風のメロディーになって驚くが、そこでバリトンのアリアが歌われる。ファゴットの活躍するイ短調。だがびっくりするのは、田畑を荒らす鳥たちを打ち落とすシーンでの射撃の描写である。急速な音楽が耳を奪う。

第25番も劇的なレチタティーヴォで、言わばこのあたりからがこの曲のクライマックスであると思われる。第26番ではホルンが大活躍する(ニ長調)。これにフーガを伴った合唱が絡んでいく様は圧巻である。狩りのシーンを描写したものである。ここだけはカラヤンの演奏で聞くベルリン・フィルの演奏に軍配が上がる。壮大な「英雄」の変ホ長調。

これで第3部が終わるのかと思いきや、さらに第27番でのレチタティーヴォに続く第28番でのアレグロの賛歌が威勢よく始まり、その後の3拍子の合唱へとなだれ込んでいく。豊作を祝う農民の祭りである。ハ長調。ここでトライアングルとシンバルが加わり、収穫の舞曲は頂点に達する。


【第4部「冬」】

寒い冬がやってきた。音楽はいきなり寒々とするから不思議なものだ。第29番の序奏は霧が立ち込める情景から。続く第30番でもハンネも冬を告げる。「光は陰り、生命は衰え」、「暗くて長い夜が訪れる」。

第31番レチタティーヴォ。ルーカスまでもが不毛な冬の自然を語る時、オーケストラは凍った湖、降り積もり雪を描写する。 疲れと寒さで人の心からも活力は失われ、迷い、うろたえるのだが、後半は明るい。第32番は悲しいホ短調。ハイドンの音楽はいつも自然で、そして明るさを失わない。ベートーヴェンもシューベルトも、この音楽にどれほど影響を受けたことか、と思う。

第33番のレチタティーヴォに続き第34番は合唱付きの速い曲。暖炉のそばで集う農民。糸を紡ぎ、織って仕立てる。仕事に精を出す歌声は「唸れ、回れ、糸車!」と、オーボエの音色が印象的なニ短調。

やがて仕事も終わり、談笑にしばし和む農民たち(第35番)。ハンネは話し出す(第36番、ト長調)。貴族が村の娘に惚れるが、娘はそんな申し出を一笑に伏す。「ハ、ハ、ハ、ハ」と合唱。

第37番はレチタティーヴォ。続く第38番はラルゴのアリアである。 「重苦しい不安は どこへ行ったのだ、至福の日々は!」と。「希望や幸福は失われ、徳のみが嘆きの時も喜びの時も至高の目的に人々を導く」と。陰気で陰鬱なバスによる変ホ長調。

だがトランペットが鳴り響くと第39番の三重唱と合唱が始まる。調性はハ長調に転じ、神の導きを乞うフーガとなり、次第に壮大さを帯びてくる。曲も終わりに近いことを実感する。「天の門が開き聖なる山が現れる」。感動的なフィナーレは5分余りに亘って続く。苦しみの冬は過ぎゆき、永遠の春が訪れるのだ。アーメン、と締めくくられるコーダは「天地創造」と共通する。

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何度も録音で聞いていたのに、初めて実演に接した時の感動は忘れられない。歌詞を追いながら聞いてゆくと、こんなにも細やかで表情が豊かであり、それと同時に崇高で美しい。演奏は、完成度が高くこの上ない美しさを誇るカラヤン盤と、モダン楽器による細部にまで表情を凝らしたアーノンクール盤に未練を感じつつも、カール・ベームによる古い録音が最も気に入っている。ここでベームは持ち前の強直な指揮をしつつも、音楽に対する愛情を最大限に表現している。その古風で質実剛健な表情が、この録音にしかない魅力となっている。ただ評価の高いヤーコプス盤と、今では廃盤となって入手不可能なコリン・デイヴィス盤(英語)は残念ながら未聴である。

ベーム盤の管弦楽はウィーン交響楽団である(1967年)。そのことがウィーン・フィルとはちがった緊張感をもたらしている。おそらくスタジオ録音だと思われるが、 まるでライヴ録音のように白熱を帯びている。独唱人はグンドゥラ・ヤノヴィッツ、ペーター・シュライアー、マルッティ・タルヴェラという豪華な顔ぶれ。スタジオに数多配置されたマイクの前で、熱い演奏を繰り広げる往年のベームの指揮姿が目に浮かぶようである。

2017年10月14日土曜日

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(2017年10月4日、新国立劇場)

新国立劇場の17-18シーズンのこけら落とし、ワーフナーの楽劇「神々の黄昏」は、今シーズンで最後となる飯森泰次郎が指揮する読売日本交響楽団という組み合わせ。読響はこの劇場のデビューだそうである。プレミアの10月1日には皇太子もお見えになったという舞台を、2回目の公演である4日に見に行った。この時の感想を、早く書いておかねばと思いながら、なかなか筆が進まない。どういうわけかわからないのでが、今回、そういうわけでブログの更新が遅れてしまった。

このブログを5年以上も続けてきたにもかかわらず、何から書き始めていいのかわからない、というのが正直なところだ。その理由は、これもよくはわからないのだが、まず体調が悪かった。1か月ほど前から座るとお尻が痛く、しかも目がぼやける。この状態で公演に行けるだろうか、と随分前より心配だった。たとえ行けたとしても、6時間にも及ぶ公演時間は、数あるオペラの中でも最長の類に入る。

だがワーグナーの最高傑作を、かのバイロイトにも出演するような歌手で聞く贅沢を考えると、仕事を休んでも出かける価値は十分にある。人生に幾度もない機会だからである。職場から新国立的城は歩いて10分余り。午後から会社を休むつもりだったが、体調を整える必要から計画を変更し、朝から自宅で療養、昼には行きつけのマッサージに出かけた。コンビニでサンドイッチなどを買い込んだのは2時過ぎで、それから初台のバーで一休み。とはいえ飲み過ぎると2時間にも及ぶ第1幕に、トイレに行きたくなったら困る。事前にアマゾンで座布団も購入し、満を持して出かけたが、何とオペラ・グラスを忘れてしまった。

仕事や家庭の事情に振り回され、ストレスの多い毎日である。そんな時にも「指環」は聞かねばならない。4月に聞いたヤノフスキのN響の演奏(東京・春・音楽祭、演奏会形式)を思い出しながら、ベームやティーレマンの歴史的ライヴ録音でおさらいし、さらにはかつてビデオで見たシェロー(ブーレーズ盤)や ルパージュ(ルイージのメト盤)などを思い出してみた。どれも大変な名演である。4月の公演では、ジークフリートが急な交代で力不足だったこと以外は、息もつかせぬ演奏に心を打たれた。メトの大舞台に設えた、縦に回転する何枚もの板の列にライン川の水面やローゲの炎が表現される。そこが何ジークフリートの死で次第に赤く染まっていくシーンなどは、圧巻であった。

それに比べると、今回のゲッツ・フリードリヒの演出は、今となっては少し古く、そしてやや簡素であると思われた。新国立劇場のハイテク装置をうまく使えば、もっと効果的な演出も可能だったのではと思ったのは、どうも3階席ともなると舞台の奥が良く見えない。幕はもっと上まで上がるのではないかといつも思うが、それがまず不満である。やはりオペラは1階か2階の席で見るべきなのだろうか。今回も安い席にしたことを、少し残念に思った。

オーケストラの音量は確かに大きく太い。随分練習を重ねたであろうその音色はワーグナーの世界を表現するには充分であった、とここでは書いておこうと思う。第1幕の冒頭の和音から、それは感じられた。最初は少し緊張感も高かったように思われたが、第3幕の聞かせどころでは完璧に決まった。その「ジークフリートの死」では、舞台上にジークフリートが横たわったまま暗い中にかすかに浮かび上がる。音楽は滔々と高らかに鳴り響き、クライマックスを迎える。むしろ音楽を中心に据えた演出はおそらく古典的なものだが、今ではもっとヴィジュアルなものが好まれるような気もする。

歌手についても、一通りここに書かなければならない。けれどもそれは、実は少々苦痛である。というのは、それらを評価するほどに聞きこんでいないことに加え、どういうわけか今回の演奏は、全体的に興に乗らなかったからである。ごく個人的な感想として、かなり客観性は欠いているかも知れないことを承知の上で言うと、ブリュンヒルデを歌ったペトラ・ヤングは、第2幕まではまずまず好調だったと思う。だが最後のシーンでは少し息切れであった。それに比べると、ジークフリートを歌ったステファン・グールドは第3幕に照準を合わせることに成功し、そればかりか第1幕から安定していたように思う。ただ細身の、若くてたくましい容姿を希望する向きには、ちょっと期待が異なるなどということは、まあ書くべきではないことだろうと思うが・・・。

ハーゲンのアルベルト・ペーゼンドルファーはとても良く、私にはこの日一番の聴きごたえ。さらにグンターのアントン・ケレミチェフは、第2幕の後半で、とてもうまいなあ、と思った。グートルーネは安藤赴美子。及第点の出来栄え。そしてヴァルトラウテのヴァルトラウト・マイヤーは、ブリュンヒルデの妹なのだが、むしろ貫禄十分である。何か母親が来て娘を説得する感じ。彼女は出番こそ少ないにもかかわらず、第1幕のカーテンコールで圧倒的な歓声をかっさらていた。かつて学生時代に受験勉強をしながら聞いたバイロイト音楽祭の録音放送に出ていたような歌手を、生で聞いているかと思えば感無量である。

その他、3人のノルン(竹本節子、池田香織、橋爪ゆか)もほれぼれとするハーモニーを聞かせたと思う。3人は第3幕の冒頭で、舞台の下から出てきて、ライン川を象徴するLEDの幾本ものバーをくぐりながら歌う。この青いLEDは印象的なのだが、ちょっと簡素であり、そしてやや辛気臭い。それは赤い紐や岩山を取り囲む炎など、全体的に言えることで、もう少し贅沢な舞台を期待していた私は少しがっかりであった。お金をかけるべきというよりは、照明や舞台装置をもっと工夫できないか、といつも思う。私はここ新国立劇場で見た照明の美しさに何度も感動しているから(「夕鶴」とか「影のない女」、それに「ピーター・グライムズ」)、いつも期待してしまうのだ(「トスカ」や「アイーダ」もいい)。

やたら主役とばかりに鳴りまくるオーケストラに、今ではちょっと質素な演出。 にもかかわらず私はあっという間の6時間を楽しむことが出来た。第2幕はオペラチックな雰囲気も楽しめるが、そこで「指環」唯一の登場となる新国立劇場合唱団も、いつものように上手い。それから普段あまり気に留めないことなのだが、字幕が現代風でとてもわかりやすい。文語調だった4月の「東京・春」とは対照的である。それがあの、ワーグナーの古風で大時代がかった、まるで時代劇でも見るような雰囲気に相応しいかどうか、実際のところよくわからない。

幕間には40分程度の長い休憩時間もあり、私はいつものように屋外に出て、もうどっぷりと日の暮れてしまった夜空に映える高層ビル群を眺めながら、しばしワインのグラスを傾ける。吹いてくる風はもうすっかり秋めいており、かといって寒さは感じない。ただ少し湿気の多い天候は、ちょっとワーグナーには合わないかも知れない。

今回はどうしても文章に書くことが楽しめない。他の方々の意見も総合すると、やはりこれは個人的な問題、特にストレスと体調によるのではないか、と思っている。演奏の水準は相当高いが、なぜかあまり入り込めなかった演奏。それが個人的なものか、それとも客観的なものか、そのあたりがどうもよくわからない。でも、歌手やオーケストラのせいでレベルの低い公演は想像がつく。そうでなかった、とだけはハッキリ言えるのは確かである。


日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...