2012年5月18日金曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(The MET Live in HD 2011-2012)

世界一人気のあるヴェルディのオペラ「椿姫」は、この芸術を一般大衆に広めるのに決定的な役割を果たした作品と言っていいだろう。その有名な作品を上演するにあたり、「いろいろ難しいことはさおき、さあどうぞ」という感じで、今シーズン最後のHDシリーズを飾った。表題役はナタリー・デセイで、少し弱った主人公の表情にはぴったりだが、歌の調子は万全とは言い難い。また期待のバリトン、ディミトリ・ホヴォロストフスキーはロシア人で、何とも奇妙なイタリア語に違和感がつきまとう。それに比べて安定した出来栄えが、アルフレード役のマシュー・ポレンザーニで、相対的にはもっとも無難なところだろうか。

このオペラはストーリーがなかなかよくできており、しばしばオペラにありがちな荒唐無稽というわけではなく、歌もなかなか高度でしかも有名曲ばかりである。これで歌手が美貌なら、オペラ作品としての醍醐味が味わえる。つまりなかなか「いい作品」だと思う。誰もが経験するような恋愛話は感情移入がしやすく、しかも歌と心が合わさって涙を誘うシーンの連続だ。私もこの作品でオペラが好きになった。それから何十年かが過ぎたが、今でも「椿姫」の上演となれば、そのときの感動を思い出し、いてもたってもいられなくなる。

だが他の多くの作品に触れ、何十年も経つうちに、ヴェルディの超有名なこの作品が、どちらかと言えば素人受けのする、単純な作品に思えてくることがなかったといえば嘘になる。けれども今回改めて観直して、いやこれはなかなか重い作品だなと感じた次第である。誰もが運命に逆らえないと感じた時、この作品は俄然真実味を帯びる。恋愛物語といった視点ではなく、病を宿命として受け入れながら最後の人生に翻弄されるヴィオレッタの精神的成長物語としての、もう一つの視点が、単に若者だけを惹きつける作品の枠を超えていく。

今回そのような視点に加えて感じたのは、もしかするとこの作品の主人公はアルフレードではないか、ということだ。この主張には反論があるだろう。アルフレードは純情な田舎の青年で、世間を知らず、世の中に甘えている。ヴィオレッタが死んでいったあとも、おそらくはプロヴァンスの田舎で豊かに暮らしただろうし、父親のジェルモンもそうである。だから語るに足らない存在だ、主人公は一にも二にもヴィオレッタである、というわけである。

けれども私はまた、そのような若い青年の姿が、成長しきれず醜態をさらし、世間の笑いものにすらなるに及んで父親に諭され、女性を軽蔑したことで叱責される姿がまた何とも人間臭く、言わば等身大の姿として自分に降りかかる。それはまたどうしようもない若気の至り、あるいは直情径行で未熟な姿をさらけ出す。青春小説にありがちなほろ苦い感覚と、それゆえに女性の心を揺さぶるだけの純情さ、無垢を持っているという何とも言えないスレ違いの組み合わせが、この作品の真骨頂でもあると思うのだ。

舞台に置かれた大きな時計とソファだけで展開する演出は、かつてネトレプコがザルツブルクで演じたのと同じヴィリー・デッカーによるもので、動きの多さと一切の無駄を排した大変高度なテクニックの要求されるものだ。あの華やかなパリの社交界、美しい郊外の屋敷、それと対照的な屋根裏部屋を期待する聴衆は、「それはないよ」と思うかも知れない。そして歌手には、そういう聞き手がゴマンといる中で心理描写と歌と身振りだけですべてを表現することが強要される。聞き手にとっても歌い手にとってもこれほど過酷で挑戦的な舞台はないだろう。おそらく喜んでいるのは、セットが安くつく興行主だけである。

そういう多くの敷居の高さを考えれば、今回の舞台は特に第3幕に至っては、なかなかのものだったと言うべきだろう。恐ろしいことに第2幕と第3幕が続いて演じられ、前奏曲の間中も、何かと演じなければならない舞台は、見ている方も気が抜けない。だが緊張感の持続が、最終的にはこの見慣れたストーリーを新鮮なものにした。「ご苦労さん」と言ってあげたくなるような役者泣かせの舞台に、多くのブラボーも寄せられていた。

また「椿姫」を見ていろいろ考えてしまった。このオペラの総合的な完成度の高さは、歌、ストーリー、それに音楽のいずれの側面でも欠点の少ない作品であることから明白である。いわば確信犯的にヴェルディはこの作品を発表し、そして面目躍如といってもいい成功を収めた。19世紀のヨーロッパでありながら、まるで古典落語か歌舞伎か文楽のような人情的味わいのある作品、あるいは流行作家を題材にした芸術映画作品、みたいな感じだろうか。「古典」とはいえ今聞いても楽しめるオペラの魅力を、私はまたひとつ味わって、初夏の夜更けを気持ちよく家路についた。

2012年5月6日日曜日

日本の地域区分について④

我が国の諸街道が五街道を中心として整備されたのは、江戸時代に入ってからだ。明治以降の鉄道、高速道路などもこれに即して整備されているが、その共通基盤には東京中心主義がある。東京が首都であり、天皇が住んでおられることが、あらゆる行政機関も文化も、すべて東京へ向かうものを「上り」と言う事になっている。だから時刻表も東京人が調べやすいように、東京発の「下り」列車から記載されている。

だが、天皇が上京するまでは「上り」と言えば京都へ向かう方向だった。これは江戸時代でもそうである。関西を「上方」というのもその名残で、東京とは東にある「京」という意味に過ぎない。昨今の大震災の反省から東京への一極集中は見なおさねばならないが、それにはこの歴史的発想の転換ができるかにかかっていると言える。

江戸時代以降の街道区分では、東海道、中仙道、日光街道、水戸街道、奥州街道などと呼ばれており、今の国道もそれに沿っているが、その前は、関西を起点に行政区分は今のような「東北」「関東」「中部」などといったものではなかった。

畿内・・・概ね大阪、奈良北部、京都南部、阪神(河内、難波、摂津、山城、和泉、大和)の各地域

が中心であり、そこから東西南北に伸びる街道をイメージして分けられた政治区分は、

東海道・・・概ね滋賀(伊賀)、三重、愛知、神奈川、東京、千葉、茨城
東山道・・・概ね滋賀(近江)、岐阜、長野、群馬、栃木、東北全域(北海道は入らない)
北陸道・・・概ね福井、石川、富山、新潟(佐渡まで)
山陰道・・・京都北部、兵庫北部、鳥取、島根(隠岐まで)
山陽道・・・兵庫南部、岡山、広島、山口
南海道・・・概ね和歌山、淡路島、四国全域
西海道・・・九州全域、(琉球)

それに近代以降に加えた

北海道

を合わせて五機八道に区分するのがいいと思う。ここで面白いことは、東山道が日本列島の山間の地域を進み、東北へと抜けることだ。関東は北部と南部でわかれる。また同様に和歌山が四国と同じ分類になるのが目を引く。

つまり関西を起点に東海道、北陸道、山陰道、山陽道が放射状に伸びる。かつて四国へは大阪から南海本線に乗って和歌山まで行き、そこから徳島に行く船に乗ったものだ。また、中仙道のルートは高崎あたりで江戸へと南下しないでそのまま山添に北上し、白河の関を通ってみちのく(陸奥の国)へ至る。これが東北への正式ルートだった。

最後に、このような区分を書いてみて思うのは、現在の地方区分がその地域の特徴をまとめたものではない以上、まったく合理性がないように思えてくることだ。さらに言えば、都道府県というのも何とも無味乾燥した区分だと思う。県民性がブームのようだが、おおよそ郷土愛のような感情を議論するとき、昔の区分で考えたほうが合点が行く。大阪にも摂津と河内、それに和泉がある(大阪市の難波と堺もある)。阪神地域は摂津なので、兵庫県でも大阪に近い。京都も舞鶴と京都市ではかなり違う。それに比べれば、埼玉と茨城の違いなど、関西から見ればどうでもいいようなものだった。

2012年5月4日金曜日

日本の地域区分について③


では、我が国の政治権力が最初に自ら書き記した文書は何か、という問題になる。それは明らかで、「古事記」と「日本書紀」ということになるのだが、ここでまたややこしい問題がある。それはこれらの文書が時の権力機構に都合がいいように「創作」された神話的なストーリーで構成されていることである。少なくとも多くが史実ではない。だからこの記述通り国家の範囲を規定しても、私にとってあまり意味を持たない。だが自分で少し「古事記」を読んで思うのは、当時の日本人の支配機構が持っていた地理的な感覚、とりわけ距離感というものがよくわかるということである。

当時は大阪南部(河内地方)、あるいは奈良あたりが我が国の「中心」だったので、そのあたりに視点を定めて見る。

古事記の「国産み」の物語は、イザナギとイザナミがぐるぐるかき回して産んでいった「大八島」について書かれている。大八島が日本列島の原形ということになるが、それらは以下の島々であるとされる。

1.淡路島
2.四国
3.隠岐
4.九州
5.壱岐
6.対馬
7.佐渡
8.本州

ここで淡路島が最初にくるところが面白い(ぐるぐるかき回すのは、鳴門海峡の渦潮のことか?)。そしてその範囲は瀬戸内海を渡って四国、九州に及んでいる。興味深いのは、本州の外側にある島々のうち、日本海側の島がその中に入る一方で、太平洋岸の東側はまったく触れられていない。中部山岳地帯を挟んだ東側は、当時やはり未開の地だったのではないだろうか(ただ海沿いに新潟までは、中央の及ぶ範囲として成立したいてこともまた興味深い)。

以上は私の勝手な想像に基づく偏見である。

いずれにせよ、大阪湾を中心に、近畿地方に広がる地域が日本社会の最初の舞台である。そして万葉集に詠まれた数々の地域が、このあたりに集中している。近畿地方に住んでいると、普段見慣れた風景が、実はこの頃にはすでに同じものとして存在していたことがわかる。その同じ風景を見ながら、普通に暮らしている。歴史がそこにあり、その積み重ねの上に自分の生活、存在があるのである。これは関東にいてもあまり感じることのできない感覚だと思う(もちろん江戸時代や鎌倉時代に遡る感覚はあるにはあるが、東京の人は近代以降に移り住んだ人が多いので、特にそういうことを自覚している人も少ないようだ)。

古事記まで引き合いに出して言いたかったことは、東京中心ではなく、近畿地方中心に話を進めていきたいというただそれだけのことであるのだが・・・。

(ちなみに私は関西という言い方より、近畿という方を好む。関西とは関所の西、つまり箱根の西ということだと中学生の特に教えられた。東京中心の考え方だ。これに対し近畿の畿とは、中央という意味だ。ついでながらナラとは韓国語で「国」の意味であり、これは共通の語源ではないかと勝手に信じている)

2012年5月3日木曜日

日本の地域区分について②

日本の各地への旅行を書くにあたって、では日本の範囲をどう定め、どう区分して配列するか、ということが問題になるのであった。そして私は、関西人の子供としての皮膚感覚から、畿内を中心として同心状に遠くへと伸びていく我が国の国土の距離感に重ねあわせ、律令制度の発展に伴って確立された地域区分、すなわち五畿七道にこだわってみたいと述べた。

ここで予想される反論がある。そもそも日本には女王卑弥呼が支配していた邪馬台国があるのではなかったか、というものだ。少し話が脱線するが、丁度いい機会なので、このことについて。

私は邪馬台国論争を、所詮は縄文時代や弥生時代の延長としてとらえている。これは「古代」に属する時代区分であり、決して的外れではない。その理由は、この国がまだ文字を持たず、従って自らの国について何も残していないからだ。

その結果、そもそも邪馬台国がどこにあったかも不明である。邪馬台国の記述は、よく知られているように中国の史書「魏志倭人伝」に登場する3世紀頃の日本の様子で、その場所が北九州なのか関西地方なのか、あるいはその両方なのかをめぐって議論が絶えない。だが私にとってはどちらでもいいとしか言いようが無いのだ。言えることは、当時の我が国の権力基盤がその程度にしか確立されていなかったということである。その象徴的事実は、まさに文字を持たなかったということにつきる。文字によって文書を残さない権力機構は脆弱であり、そうである場合とは決定的に違う、という考え方に私は同意する。

ところで、さらに脱線して邪馬台国について面白い書籍をひとつ。邪馬台国がどこにあったかは、まあ歴史好きのロマンをそそることだろうと思うが、それも松本清張の手にかかるとこんな小説が出来上がるのか、という感じだ。

「陸・水行」という本がそれである。ここに収められた文章には、歴史好きの清張なりに、「邪馬台国論争」に加わる素人学者の目を通して、その場所を特定してみせる。それは北九州でもなければ関西でもない。そしてそれを追いかける人に降りかかる運命と死・・・、何ともミステリアスなものを題材としてミステリアスなことを書くのだ。文書のやりとりは、電話でもなければインターネットでもないという時代。戦後昭和の古めかしい時間感覚も、この小説の面白さのひとつであると感じた。


2012年5月2日水曜日

日本の地域区分について①

たかが旅行のまとめであっても、私にとっていつも心を悩ませる問題がある。日本国内の各地について触れる際に、どうしても避けて通れない問題が、そのそも日本の国土をどう分類(区分)するかということである。日本の国土の範囲をどう定めてどう分類するか。

まず、中学や高校の社会の教科書を開くと、我が国の「客観的な」位置や形状について触れてある。日本は第二次世界大戦後の一時期を除けば、いまだかつて他の国の支配下になったことがない国家なので、日本の国土のうち、旅行可能な範囲については、問題になることはまずない。

現在の日本の主権が及ぶ範囲が日本国であることは言うまでもないが、その範囲が大昔からそうであったか、という問題も、ごく簡単に言えばイエスである。ただ北海道は後から加わった地域であることと、太平洋戦争前の植民地はこれを含めることは妥当ではないだろう(最近出版された鉄道地図には、旧満州地域や朝鮮半島のことまで載っているが、中央集権的な考えの好きな鉄道好きらしい)。

日本人が自ら記した最初の歴史文書において、すでに日本という国の範囲がほぼ規定され、いくつかの争点となる部分はあるにせよ、まあだいたいそれでいいということになるのが私の安易な見解である。すなわち畿内に都があって、支配者である天皇が変わるたびに首都が移る、という古墳時代末期から飛鳥・奈良時代にかけての頃である。平城京に都が定まるまでの間にも、いくつかの都が存在したが、その点在の様子はしばしば曖昧模糊としている。最も古いのが藤原京、あるいは飛鳥京などと言われているが、私はよくわからない。ただ、私の生まれた大阪にあった難波宮というのは、今では綺麗に整備され博物館などもあるが、私が子供時代に接した最初の遺跡ということになるかも知れない(当時は広場があるだけだった)。

私がこの考えにこだわるのは、大阪生まれの私が成長するに連れて感覚的に広がっていった日本の範囲というものが、関西地方を中心に徐々に拡大していった大昔の日本の中枢機能の人が考えていた国土感覚と、何となく似ているようにも思われるという単純なものだ。かなり誤解を恐れずに言えば、子供の時の私が東北や九州に抱くイメージは、まったくもって非常に遠いこの世の果てというイメージ(もちろん外国は想像しなかった)だったし、北海道ともなるとそれこそ外国のようなところだと思っていた。

まだ情報網が今のように発達していなかった小学生の私は、例えば金沢にいくのも物凄い遠くに行くイメージだったし、大阪から京都を超えて大津に入ることも、非日常的な遠征の気分だった。気分を高揚させながら、山科のトンネルを「下る」時の感覚は、今となってはむしろお笑いかもしれないが、そういう感じだったのである。

2012年5月1日火曜日

行ったところの記録について

ブログである以上、いつも誰かが読む可能性があることになるが、それでもこれは個人の記録であって、それも日常だけでなく過去の記録を少しずつ書きためていくためのツールであると、私は考えている。そこで、これまでに旅行を目的として訪れた場所を書き留めておきたいと、長年考えてきた。しかし何が旅行であると言うのかということからして曖昧なため、何をどのような順序で記録しておくのが良いのか、なかなか結論が出ない。

かと言って、このままでは何の記録も残らないし、記録をつけはじめても順次それが追加されるわけだから、まとめるという作業も、楽しそうに見えて実は大変である。これが海外旅行なら、私にとっても比較的まとまりがあるので、とりあえず行った順番にでも書いていく(つまり「旅行記」というやつだ)ことができる。だが、国内の旅行となるとなかなかそうはいかない。

子供の頃にまで振り返って過去の記憶をたどりながら、地域別でまとめていこうと一応の方針は立ててみたが、同じ場所にも様々な動機で訪れているし、東京と大阪は10年以上にもわたって居住しているので、散歩の類を含めると、どこに出かけたのかの記憶も定かでない。結局、まだ結論が出ているわけではないが、気の向くままに少しずつ書き留めていこうと思う。読んだ人がどう思うかは知らないが、まあクラシック音楽の日記と同じで、たまたまそこについて調べている人がいて、ネット検索してやってくることがあるかも知れない。その人が、私なりに書いた文章と写真を見てくれるなら、まあそれも面白いだろうと思う。ひとつひとつは断片的な記事となるからだ。

これまでの40年以上の人生において、海外への旅行を除く旅行(つまり国内への旅行)において、仕事や所要で出掛けた場合を除いたものについては、2種類に分けて考えることができる。

(1)名所や旧跡などへの訪問を目的としたもの
(2)(1)以外のもの

ここで(2)に属するものには、私の場合、以下のものが含まれるのである。

①主として関西圏で、小学生期から中学生期に出掛けた近郊の山地へのハイキング
②高校生から大学生の頃にでかけた鉄道を主体とした旅行
③病気療養中に始めた散歩とそのきっかけとしての風景印収集のための小規模な散歩

以上のカテゴリーでは、いくつかの観光地への訪問とセットになっている場合も多いが、他方で独立してこれらを連続的に取り上げる必要があるだろう。そういう場合には、両方の側面から触れることになる。

全国を北海道から沖縄までのブロックにわけた場合(これをどう分けるかはまた難しい課題である)、すべての地域に対して同じ密度で訪問してるわかではない。早い話が、関西圏(特に大阪)と関東圏(特に東京)は、そこに長年住んでいたので、相当細かいところにも出かけている。というわけで、このふたつの場所は、特別に細かく記載する必要が生じる。

ここで問題が2つ。地域の分類方法と順序について。

地域の分類は、全国をよく知られた9つのブロックにわける(北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州、沖縄)という方法と、もう少し細かい47都道府県に分類する方法があるだろう。ちなみにほとんどの旅行ガイドは、「るるぶ」などを始めとしてすべてこのような分類である。が、実際の名所や旧跡は、必ずしもこの分類に従うのが合理的とは言えない。江戸時代、あるいはもう少し古い区分に従って旧藩名で行くか、などという議論になる。例えば青森県は、津軽と南部で文化が違う。

関西人としてのこだわりとしては、ここは近畿地方と中心にして方々へ伸びるのが美しい(五畿七道※)。まずは生まれ故郷大阪と京都、及びその周辺地域(畿内)について触れた後、東海道を下って東京まで行くというパターン。その次は東山道、次に北陸道・・・。この分類は、文化的な伝播と類似性を考察する上で、江戸時代の藩区分よりも私には好ましく思える(ついでながら、都は京都とは限らない)。

だが、旅行は必ずしも歴史的な名所ばかりを行くわけでもないので、この順序で「東京ディズニーランド」などが出てきたら少し変だし、自然遺産のような場所、たとえば国立公園などは触れにくい(国立公園は都道府県や地域ブロックにまたがるので、いずれにせよ分類が難しい)。

さらに言うと、観光地は全国にあまねく存在しているわけではない。都道府県をまたぐ場合も珍しくない。そこで、そういう「観光地のまとまり」を表す単位としては古くから知られた「周遊指定地」というのがある。かつて「交通公社の時刻表」には、国鉄(現JR)が周遊券を組み立てる場合に「周遊指定地を最低2ヶ所以上回ること」などという規定があって、時刻表の地図には緑に塗られた観光地が全国に数多く存在していた。

現在でもJTBの時刻表にはこの表記が残っている。そして古くからの観光地は、ほぼこれで網羅されている一方で、では観光地でない地域は観光に値しないのか、という問題が生じる。例えば北海道十勝地方の太平洋岸などは、何も見るところがなく人口もめっぽう希薄だが、そういう処にはむしろ出かけてみたくなる、という習性が私にはあって実際2度も行った。そういうわけだから、これは参考程度にすべきだろうと思う。

さて、こういうことばかりを考えていては何も始まらないので、まずは、書けそうなところから書いていく、ということにしようと思う。ただ、日本の地域区分についてはもう少し書いておきたいので、しばらくその話にお付き合いを。


※五畿七道・・・我が国の律令制度下において確立された行政区画のカテゴリー。畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道に北海道を加えて五畿八道とすることもある。


東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...