2019年8月6日火曜日

サン=サーンス:歌劇「サムソンとダリラ」(The MET Live in HD 2018-2019)

今でも戦禍の絶えないパレスチナのガザ。紀元前12世紀ころ、ここには多数のヘブライ人が故国を追われてペリシテ人の奴隷となっていた。舞台はガザの広場に群がるヘブライ人の合唱(混声8部)から始まる。やがてその中から英雄サムソンが出て民衆を鼓舞し、エホバ神を讃えようとする(第1幕)。ペリシテ人の美貌の娘ダリラは、そんなサムソンを誘惑し、篭絡するが(第2幕)、その罠にはまったサムソンは捕らえられるも祈りを捧げ、その犠牲とともにダゴンの神殿を崩壊させてしまう(第3幕)。

ストーリーはよく知られ、登場人物も少なくわかりやすいが、第1幕は宗教的な話が多く、後半に比べると地味なため、眠くなってしまう。東京での連日の猛暑に疲れたら、休日の午後はゆっくり映画館で涼むというのは、懸命な選択だろう。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のライブ映像シリーズもすっかり定着した感があるが、その過去の作品を一堂に集めて上映してくれるアンコール上映の期間が今年も8月2日から始まった。

私は、昨年10月に上映されたサン=サーンスの歌劇「サムソンとダリラ」を見逃しているから、さっそく妻と共に出かけた。この歌劇は非常に有名だが、私自身は全体を見たことがない。このブログで触れるのも初めてである。久しぶりのフランス・オペラは、私を心地よく睡魔に誘ってくれたが、それも見どころが第2幕以降に集中しているからである。休憩時間が2回あって、インタビューなどの特典映像も満載の上映は、大歓迎である。

第1幕についてもう少しだけ書いておくと、ここの音楽は、他にも登場人物がいて「なかなかいい感じ」である。そもそもオラトリオとして作曲が開始された物語が、次第に肥大化して「なんでもあり」の様相を呈するようになるヘンテコな作品だが、それも後半が充実しすぎているからで、第1幕だけ聞いた時点で「フランス・オペラ」もたまにはいいな、と思った。

第2幕を貫くダリラ(エリーナ・ガランチャ、メゾ・ソプラノ)によるサムソン(ロベルト・アラーニャ、テノール)との二重唱は、圧巻であった。私は丸でワーグナーのh楽劇を見ているように舞台に引き寄せられ、心の中でブラボーを叫んだ。目頭が熱くなるというよりは、胸が締め付けられるような気がした。というのもこれは、通常の「愛の二重唱」とは異なり、あくまでダリラによるサムソンへの企みの歌なのだ。

サン=サーンスはそんな誘惑の二重唱に絶品の音楽を書いた。メゾ・ソプラノのために書かれた最も美しい歌ではないだろうか。「あなたの声に心は開く」は古今東西のアリアの中でも屈指のものだ。緑のドレスに身を包んだガランチャは、その持ち前の魅惑的な声で、優雅にして力強い歌唱と演技を披露した。フランス語をネイティブとするアラーニャの出来栄えも良い。私はこの二人の演じる、同じ時期に作られた「カルメン」(ビゼー)を思い出した。この上演は、この何年か前の舞台とセットになったものだ。

「カルメン」は「サムソンとダリラ」とほぼ同じころに作曲された。いずれもメゾ・ソプラノを主人公とし、踊りや歌に溢れ、異国情緒も満点だ。女性が男性を誘惑し、籠絡するという点でも共通している。ただ「カルメン」では、最初はドン・ホセを心から気に入っていたのに対し、ダリラの恋は復讐そのものである点だ。にもかかわらず今回の「サムソンとダリラ」の第2幕は、これほど美しい音楽はないほどに素晴らしかった。それは、インタビューでガランチャ自身が語っているように、ここでのダリラの役作りにあるのだろう。ダリラはいっとき、サムソンを本当に愛していたのでは、という解釈だ。

そのダリラに悪の征服をけしかけるのは、悪役の定番、大司祭(ロラン・ナウリ、バス・バリトン)である。長身で若い彼は、存在感もあってこの第2幕を一層引き締まったものにした。

第3幕はその数分後から、有名な「バッカナール」となりスペクタクルなダンス・ショーが始まる。指揮はイギリスの名匠マーク・エルダーで、私は今上演の成功の要因のひとつが指揮だったことを疑わないのだが、大変残念なことにここの「バッカナール」を含む第3幕はつまらなかった。その理由はバレエの単調さと、空間を生かし切れていない演出の平凡さにあると思う。全体に非常に豪華な新演出だったが、その理由が表面的な効果のみを狙ったもので、エキゾチックな雰囲気も感じられず、真っ二つに割れた人体を神殿に見立てる理由も判然としない。

結局、第2幕につきると思った今回の「サムソンとダリラ」を演出したのは、ダルコ・トレズニヤックという人だそうだが、最近のMETはブロードウェイのスタッフなどを登用して、安直な大衆路線に傾こうとしているように思える。これはゲルブ氏が総裁に就任してから顕著になった。「アイーダ」にせよ「トゥーランドット」にせよ派手で高価な演出を得意とするMETだが、確かに舞台の大きさを考えるとやむをえないのかも知れない。けれども今回の「サムソンとダリラ」は、そんな絢爛豪華さを追求することにも成功しなかったと言わざるを得ない。にもかかわらず今回の上演の素晴らしさは、3人の歌唱と演技にある。やはりオペラは、いくら飾ったところで歌なのである。

2019年8月3日土曜日

PMFオーケストラ東京公演(2019年8月2日サントリーホール、ワレリー・ゲルギエフ指揮)

ゲルギエフもPMFオーケストラも初めてだった。周知の通り、ゲルギエフは今や世界で最も多忙な指揮者のひとりだが、マリインスキー劇場との来日公演などは法外にチケットが高く手が出ない。一方、PMFオーケストラは札幌で毎年開催される「パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌」に参加する世界各国の若者で構成されるオーケストラで、一流オーケストラの首席級奏者によるレッスンが終了すると、毎年東京でコンサートを開いている。

レナード・バーンスタインによって始められ、今年で丁度30周年にもなるというPMFの音楽監督は、現在、ワレリー・ゲルギエフである。ゲルギエフ指揮PMFオーケストラのコンサートは、聞こうと思えばこれまでにも聞くことはできた。けれども何故か私には縁がなかった。暑い夏の日に、クラシックのコンサートに出かける気持ちが起こらないのもその理由だった。だが今年は違った。

その理由は、おそらくプログラムだったのだろう。ショスタコーヴィチの交響曲第4番がメインだったからだ。全15曲の交響曲の中でも最大の規模を誇り、その演奏の難しさでは他の作品を抜いているのではないかと思われる曲を、私はかつて一度だけ聞いている(シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団)。この時は広いNHKホールの舞台いっぱいに並んだオーケストラから轟く圧倒的な音のパワーに、ただただ驚くばかりの1時間だった。よくもこんな曲を、演奏ができるものだと素人ながら感心した。演奏が終わるや否や、舞台から安堵のため息が3階席にまで聞こえた。

そんな交響曲第4番は、1936年頃に作曲されながら当局の締め付けを恐れて初演を中止し、結局、1961年になって初演されるという数奇な運命をたどる。日本初演はもっとあとになって1989年である。今ではショスタコーヴィチ作品の演奏も一般的だが、かつては一部の曲しか知られることはなかった。現在のように人気を博するようになったのは、1990年代以降ではなかっただろうか。この曲は私もヤンソンスが指揮するバイエルン放送響のCDを1枚だけ持っている。

もう一度、ショスタコーヴィチの交響曲第4番が演奏されたら聞いてみたいと思っていた。もちろん今では毎年のように演奏されているようだが、できれば一流のオーケストラで間近で見ながら聞いてみたいと思っていた。そうしたらなんと、ゲルギエフが指揮するではないか!これを逃す手はない。PMFオーケストラの実力は未知数だが、若手とは言え実力派揃いのプレイヤーは、一生懸命な演奏をするはずで悪かろうはずがない。嬉しいのはチケットの価格で、S席でも9000円と1万円を切っている。しかもチケットは沢山売れ残っている。

だが私は、このところの体調を心配して前日までチケットの購入を躊躇していた。翌日にも会社の友人と出かける予定もあるし、それに梅雨が明けてからというもの、東京では連日35度を超える猛暑が続いている。熱波の中で聞くショスタコーヴィチも悪くはないが、こちらの体力が心配だった。一か八かで息子に興味はないかと誘ってみても、つれない返事。彼はそれよりも野球観戦に興味があり、この日も千葉でロッテ対オリックスの試合を見に行くのだと言っている。もそもとクラシック音楽などに興味がないのだ。妻も弟も用事で行けないという。だから、今年も諦めようか、そう思い始めていた。

ところが前日夜に帰宅してみると、驚いたことに息子の方から、コンサートに行くよ、との返事が返ってきた。これには私も驚き、そして嬉しくなった。こうなったら行くしかない。さっそく「ぴあ」をはじめとするチケット予約サイトにアクセス。ところがどうだろう。どのサイトを見ても「予定枚数終了」との表示が出ているではないか!結局、ゲルギエフのショスタコーヴィチともなると、直前に人気が上昇し、一気に売り切れてしまったのだと思った。翌日の川崎の演奏会はまだ売られていたが、こちらには行く事ができない。最近はTwitterなどが流行し、SNSなどで前日の札幌の演奏会の様子などが直ちに「拡散」したため、おそらく評判が知れ渡ってしまい、迷っていた人が一気に購入に踏み切ってしまったのだと思った。

仕方がないから、無謀でも翌日にサントリーホールに電話して、万が一チケットが手に入ったら行こう、と話し合って会社へ出かけた。ところが10時に電話をしてみると、余裕の枚数が当日券として発売されるとのこと。しかも25歳以下なら3000円になる割引チケットもまだあるらしい。私は大急ぎで息子に電話し、学生証を持って18時に会場へ来るように告げた。

当日券が売る出されると、なんとB席の並びの席が確保できた。舞台に向かって右側の2階席で、真横からオーケストラを見下ろす位置は悪くない。指揮者もよく見えるし、ずらりと並ぶ打楽器も真下に見える。そして驚くことに会場は8割にも満たない入り。ちょっと信じられないが、それにしても嬉しい。開演までの時間をサンドイッチなどを食べながら過ごす。まるで香港にいるようなまとわりつく暑さと湿気。にもかかわらず背広姿の人が目立つ。

プログラムの前半はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と、今年のチャイコフスキー・コンクールの覇者、マドウェイ・デョーミン(フルート)を迎えてのイベールのフルート協奏曲であった。ドビュッシーの静謐な音楽は、ほれぼれするような美しさで私を音楽に釘付けにした。聞いている場所が正面なら、もっと良かったと思う。音と音の重なり、溶け合い。ドビュッシーの音楽の聴き方が、初めてわかったような気がした。このオーケストラはなかなか聞ける。

続くイベールは、もう何というか、目まぐるしく変化するフルートを聞いていたらあっという間に終わってしまった目の覚めるような演奏。かつてパユで聞いたハチャトリアンを思い出した。世界最高の部類に入るフルートだと思う。

私の席の左手にあるS席部分には空席が目立ち、こんないい席なのに誰もいないのはもったいないなどと思っていたら、何とそこにSPが立ち始めた。休憩時間にトイレの前の通路が封鎖され、私の席に前にカメラマンが大挙して入って来た。PMFの広報かと思いきや、それにしても人数が多い。やがてアナウンスがあって、何とそこには上皇、上皇后ご夫妻がお見えになるという。会場から拍手が起き、ゆっくりと歩みながら手を振られる。すでにオーケストラは舞台上でスタンバイ。ショスタコーヴィチの交響曲第4番などという作品を、皇室の方もお聞きになるのかと思った。今年天皇を退位されて初めてご覧になるコンサートではないだろうか。

いつになく空気が引き締まって緊張感に包まれた舞台にゲルギエフが登場。やがて舞台からほとばしり出る轟音にも似た行進曲風のリズム。舞台の人数は前半の倍以上に膨れ上がり、その音は耳をつんざくような大きさ。心臓に悪いような地鳴りが響く。スターリンの恐怖政治の下で作曲された若い作曲家の音楽は、メロディーというものをほとんど持たない。そして弦楽器を中心とした恐ろしいまでの技巧的なアンサンブル。それをゲルギエフは指揮台にも乗らず、手慣れた様子で指揮をする。

ただ驚いたのは、ゲルギエフも楽譜を見ていたこと。そして爪楊枝のような短い指揮棒を持っていたことである。ゲルギエフは終始手だけで指揮するのだと思っていたし、この曲は十八番中の十八番なので、普通はスコアを見ないと言われていた。とても慎重に、満を持して演奏する必要があったのだろう。そしてそれに応えるオーケストラの見事さ!そのメンバーには、客演としてシカゴ交響楽団他から数名が混じっていた(ティンパニ、ハープ、パーカッション)。

1時間にも及ぶ怒涛のような曲を、一瞬たりとも集中力を絶やさず演奏する迫力は、何と例えたらいいのかわからない。思いつくままに、そのソリスト部分の圧倒的なテクニックを思い出す。まず、イングリッシュ・ホルンを担当した女性の幾度にも及ぶ長いソロ。それからトロンボーン。この楽器がかくも美しく弾かれたのを知らない。第3楽章でのまるで協奏曲のようなシーン。それからホルンの第1奏者。彼は安定したテクニックで、いつも日本のオーケストラで聞くときのような不安定さが皆無である。そしてピッコロ!ピッコロのような楽器が、フルートの延長のように優美に、割れずに、美しく、そして器用に響き、ショスタコーヴィチに不可欠な、あのメロディーを弾き切る。さらにファゴット。難しい音階の連続を、ほぼ満点の出来栄えで聞くものをノックアウト。さらにはオーボエ、クラリネット、ティンパニ…。

弦楽器セクションの難しさは圧倒的である。CDなどで聞くとよくわからないが、これは見ながら聞くと手に取るようにわかる。兎に角、60分間私は文字通り舞台に釘付けられ、体は硬直し、しばしば音楽に身をゆすった。第1楽章はソナタ形式であることもわかったし、第2楽章の諧謔効果は、マーラーの影響だと言われている。そして長い第3楽章の変奏曲は、しばしば楽器を変えた「オーケストラのための協奏曲」といった感じで聞くものを興奮に包む。

静かなコーダが終わるときの、奇跡のような時間について最後に書いておこうと思う。ゲルギエフは演奏が終わっても手を降ろそうとしないばかりか、それから随分しばらくたって、まず右手を極めてゆっくりと下ろし、続いて左手を慎重に下ろした。この間、1分ほどあったのではないか。これほど長い時間、誰も物音を立てず、会場が静まり返ったのを体験したのは、私は生まれて初めてだった。静寂もまた生の音楽の重要な構成要素なのだと思い知らされた。

やがて割れんばかりの拍手が起き、奏者を一人一人立たせてゆくと、地響きのような拍手が津波のように押し寄せた。オーケストラが抱き合って成功を喜び、その大半が立ち去っても拍手は鳴り止むことはなかった。そして拍手は、両陛下の退場にまで続く。何度も振り返っては手を振る陛下。私はもうショスタコーヴィチの作品をこれ以上の感動を持って聞くことはないかも知れない、と思った。と同時に、それで満足だ、とも思った。令和元年の真夏の一日に、私は一生忘れることのできない音楽体験を、またひとつ増やすことができた。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...