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2016年12月30日金曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第4番ニ短調(Vn:ギドン・クレーメル、リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

このヴァイオリン協奏曲第4番もまた、数奇な運命をたどって演奏された作品である。その経緯は以下の通り。


「パガニーニの死後、楽譜は息子アキリーノのもとに保管されたが、やがて処分されてしまった。1936年にも同じことが繰り返されたが、その時、パルマのくず屋が買い取った紙束の中から、アキリーノの署名がある本作のオーケストラ譜が発見され、そのオーケストラ譜を買い取ったイタリアの蒐集家ナターレ・ガルリーニがその後、北イタリアのコントラバス奏者ジョヴァンニ・ボッテジーニ(1821年-1889年)の遺品の中にヴァイオリンの独奏パート譜を発見した。

その後、1954年11月7日に、アルテュール・グリュミオーの独奏ヴァイオリン、ラムルー管弦楽団、フランコ・ガルリーニ指揮(ナターレの息子)によって、パガニーニの死後、初めて演奏された。」(Wikipediaより)


この作品を何とギドン・クレーメルが演奏している。しかも伴奏はウィーン・フィルである。巨匠ムーティが指揮をしている!このCDを見つけた時、即刻買うことを決意した。録音は1995年。

第4番の協奏曲もまた、いつものパガニーニ節が全編にわたって繰り広げられる。冒頭の序奏はそれまでの曲に比べてむしろロマンチックだと言えようか。聞き進むうちにこの曲が、ウィーン・フィルによる演奏であることに何かとても新鮮なものを感じる。ヴァイオリンだけが突出している演奏が多く、伴奏はまあ付け足し。極端に下手なのも困るが、そこそこの安定した伴奏なら聞けるし、それにそんなに難しくはない。だから無難に・・・という演奏が多い中で、ここでのムーティは真面目である。ウィーン・フィルは独特の音色が魅力だが、その艶というか微妙な厚さ(完璧に揃わないからか)が独奏の、やや神経質で線の細いクレーメルと奇妙なマッチングを示している。

その状況が象徴的に表れるのが、第1楽章のカデンツァではないだろうか。ここでクレーメルはまるで現代音楽を思わせる技巧的な独奏で、もしパガニーニが現代に生きていたらこういう曲を書いたのではないか、とクレーメルが考えたかどうかはわからないが、とにかくここはクレーメルならではの、ややスラブっぽい音楽が魅力的である。

第3楽章の第2部での、いつものパガニーニ節もまた素晴らしい。クレーメルは少し余裕のあるような力でここを含む全体を弾きこなす。演奏が決して安易なものにはならず緊張感を保っているものの、客観的にパガニーニという作曲家を弾きこなしている。ムーティはそのような真摯なソリストに対し、誠意をもって伴奏を務めているように感じられる。

クレーメルとパガニーニという取り合わせは、しかしながら意外なものではない。なぜならクレーメルはアッカルドなどと同じパガニーニ国際ヴァイオリン。コンクールの覇者であるからだ。意外なことにクレーメルのパガニーニ演奏は、それほど珍しいわけではない。だがクレーメルはパガニーニの圧倒的な技巧に敬意を払いつつも、ヴァイオリンの持つ表現の可能性をさらに押し進めている。だからここで聞くクレーメルのパガニーニは、独特の魅力を持っているように思われる。

なお本CDには珍しい「ソナタ・ヴァルサヴィア(ワルシャワ・ソナタ)」が並録されている。旋律の綺麗な曲だが、次第に独奏の技巧が目立つようになり、第3楽章の「ポーランドのテーマ」に至っては、管楽器との掛け合いや小鳥が飛び立つように消え入る部分など、唖然とするものがある。もちろんクレーメルは、そんな部分を超絶技巧と緊張を両立させながら、余裕を持って弾ききっている。


2016年12月29日木曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第3番ホ長調(Vn:サルヴァトーレ・アッカルド、シャルル・デュトワ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)

オーケストラ・パートのピツィカートが印象的なヴァイオリン協奏曲第3番は、1828年に作曲されたらしい。パガニーニは自らの演奏技巧を披露するためにこのような曲を書いたので、作品の芸術的価値は乏しく、内容に深みがないとされてきた。しかし音楽が芸術のためにだけあるわけはなく、その境界が曖昧だった時代に、このような作品が作曲されていることを無価値だと決めつけるのは味気ない話だとも思う。ポピュラー音楽だと思えばそれでいいし、それにそういう音楽を楽しむことは、聞き手の自由である。ヨハン・シュトラウスの円舞曲と同様に、私はパガニーニの作品が好きだ。

もっともパガニーニのヴァイオリン協奏曲については、知られている情報があまりに乏しい。最も有名な第1番ニ長調作品6だけが突出していて、次によく演奏されるのが最近では第4番ニ短調だろうか。標題が付き、後にリストが編曲した第2番は、メロディーこそ有名なものの演奏される機会が少ない。それでもこの3曲は、比較的録音されている。それにくらべるとこの第3番ホ長調は、めったに演奏されることもなければ、録音を探すのも難しい。

私が所有する第3番の協奏曲は、そういうわけで全集として録音され、この曲の草分け的な存在でもるサルヴァトーレ・アッカルドによるものだけである。もっともこの曲を蘇演したのはシェリングで、何と1953年のことである。作曲から百年以上が経過している。私もシェリングのCDを探した。かつて出ていたことはあるようだが、中古屋を含めこれまでに発見できてはいない(単独で収録されているものがあるが、コストパフォーマンスが悪い)。

さてその曲は、他の協奏曲と同様、ヴァイオリンの輝かしい音色が横溢する素敵な協奏曲だった。長い序奏のあと、まるでソプラノ歌手がアリアを歌うようにオペラ風の曲が聞こえてくる。時にヴァイオリンをなびかせて、うなるように低音を振り上げるさまは、演歌のようでもある。そうかと思うと小鳥がじゃれあって舞うように上昇・下降を繰り返した後、パチンと弦が弾ける。第1楽章終盤に挟まれているカデンツァは、この様子をさらに極限化して伴奏なしで聞かせる。もう食傷気味だと言うのに。

それでも続く第2楽章の、まるでヴィヴァルディの明るさを思わせる、うららかな小春日和の風情はまた格別である。冬に咲く南国の花と青い地中海を思わせる、イタリアそのものの風景を私はここで想像する。第3楽章もピツィカートで始まり、親しみに満ちた歌が聞こえる。このメロディーは一度聞いたら忘れられないくらいに魅力的だ。もちろん後半に挿入される長い第2部も、他の作品同様圧倒的である。

私が入手したこの作品のCDは、ドイツ・グラモフォンが西ドイツ時代にリリースし、台湾で発売されたものだった。CDの帯には中国語で曲名が書かれている。パガニーニは「●格尼尼」と書くようだが、この●に相当する文字が、巾というへんに、白という字のようである。だがこの字を私のPCで入力することはできなかった。ちなみにアッカルドは「阿卡多」、デュトワは「杜特華」のようである。本CDで聞くことのできる杜特華はまだ、モントリオールの指揮者となる前、1970年代前半の若い頃。教科書的なきびきびした指揮は、隅々まで明確で安定的。テンポも絶妙なら、独奏を際立たせるところでは音量をぐっと抑え、脇役に徹する。協奏曲の伴奏をしたらこれほどうまい指揮者はいないのではないか。倫敦愛楽交響楽団も健康的で透明な音色で、明るいイタリアの光が程よく差し込んでいる。

2016年11月1日火曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネルラ」(Vn:ジャン=ジャック・カントロフ、オーヴェルニュ室内管弦楽団)

パガニーニの一連のヴァイオリン協奏曲を聞いて思うことは、これらが歌声をヴァイオリンに変えたオペラではないか、ということだ。特にこの第2番は、出だしからまるでアリアの挿入部分のようである。ただすぐには独奏が入らない。少しの間は、いわば導入のための伴奏が続く。良く聞いていると、それはまるで「セヴィリャの理髪師」の序曲を思わせる節である。パガニーニが活躍した頃のイタリアは、すなわちロッシーニやベッリーニが活躍したベルカントの時代である。

ベルカント唱法が人声の技巧を凝らした歌唱を特徴とするのと同様に、パガニーニのヴァイオリンも超技巧的である。第1楽章の最初から第3楽章の最後まで、そのテクニックは物凄い水準を要求される。音楽とは技術であり、技術こそが芸術である、と言わんばかりである。

第2楽章のしみじみとした風情は、ここがまるでソプラノ歌う伸びやかなアリアと重なる。健康的で歌謡的なメロディーは、聞いているものをひととき幸せな気分にさせるが、少々飽きる。驚くほどの練習を積んで、満を持して演奏するヴァイオリニストには恐縮だが、聞き手は勝手に音楽以外のことを想像したりする。集中力を途切れないようにすることもまた、巧みな演奏家に要求される。ベルカント・オペラが、そういった名人的歌手がそろわないと、なかなか聞きごたえのあるものにならないのと同様に、パガニーニの音楽もまた大変難物だと思う。

ジャン=ジャック・カントロフはパガニーニ国際コンクール出身のフランス人ヴァイオリニストである。だからパガニーニの協奏曲第1番と第2番をカップリングしたCDが発売された。このCDに収められている第1番の演奏も大変見事である。その素晴らしさは、この曲の演奏の第1位を争うレベルであると思う。けれども第1番の演奏はすこぶる多いので、ここでは第2番を一生懸命聞いてみた。日本コロンビアのデジタルな録音が、演奏の隅々にまで光を当てる。オーヴェルニュ室内管弦楽団という、フランスの片田舎にあるオーケストラの響きも、透明ですがすがしい。

第3楽章の有名なメロディーは、「ラ・カンパネルラ」すなわち鐘の意味である。このメロディーはリストがピアノ曲に編曲しているので、その点でも有名である。リストはピアノのパガニーニのような存在で技巧を凝らした作品が多い。彼はパガニーニの存在を意識していただろうし、このメロディーを聞いて、ピアノならもっと魅力的な作品が書けると思ったのかも知れない。実際、鐘の印象はピアノのほうがしっくりくる(と私は思う)。

その第3楽章の後半部分は、この曲最大の聞かせどころだろうと思う。ヴァイオリンの技術上の極限を行くその様は、録音された媒体で何度聞いても鳥肌が立つようだ。パガニーニの底抜けに明るいイタリアの陽射しが、どんなに細く小さな音の隅にまでもしっかりと到達している。

2016年9月8日木曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品6(Vn:ヘンリク・シェリング、アレグザンダー・ギブソン指揮ロンドン交響楽団)

ある日、インターネット・ラジオを聞いていたら私の好きなパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番の第3楽章が聞こえてきた。その悠然でしかも気品に溢れたヴァイオリンの響きと、きびきびした伴奏のテンポ感にしびれ、いったい誰の演奏だろうと思った。急いでWebでチェックしてみたら何とシェリングの演奏だったのだ。

この時の感激が忘れられず、長い間この曲のシェリングのCDを買おうと思っていた。できれば自ら蘇演した第3番とのカップリングがいい。そのCDもどこかで見たので、確か出ていたはずである。ところが廃盤になって久しく、手に入るのは第4番とのカップリングばかり。そうこうしているうちにすべての録音がCD屋から姿を消してしまった。近所の図書館にもない。

月日が経ってある時中古屋を覗いていたら、第4番とのカップリングが売られていた。 もうこれを買うしかない。そういうわけでやっとのことで、この演奏を聞くことができたのだ。もっとも今ではYouTubeやiTunesなどを見れば、もっと容易く聞くことはできるはずだが・・・。

さてパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番で、私のもっともお気に入りは、サラ・チャンの演奏である。この演奏はとても素晴らしいので、未だに文章化をためらっている。その前にひとまずパールマンの演奏に触れた。そして今回がシェリングである。演奏は1975年と少し古いが、伴奏の方は安定した響きでうまく独奏に溶け合っており、まずその魅力に憑かれる(だって冒頭の伴奏部分など、オーケストラだけで完結してしまうのだから)。そのあともテンポが動き、時にヴァイオリンはつらそうにも聞こえるが、決してヴァイオリン主導になり過ぎず、かといってオーケストラが出しゃばってもいない。

ヴァイオリン独奏は、今では聞かれなくなった古風な演奏であると言うべきか。まだヴァイオリンの技巧がいまほど当たり前でなかった頃(思えばパールマンが登場してくるあたりから変わった)、巨匠風のヴァイオリニストが多く健在で、ヴァイオリンの演奏というのはテクニックよりも音色と表情こそが重要だった。古い録音で聞く陰りを帯びた響きにも、古色蒼然とした得も言われぬ味わいがあって、言わばレトロな雰囲気をも醸し出していた。だがパガニーニは、そもそもテクニックがすべての曲である。

悪魔の化身とさえ言われたパガニーニの曲などというものは、すべてのヴァイオリニストが取り上げる作品ではなかったのだ。相当なテクニックが要求されるにも関わらず、曲の評価はいまひとつ・・・二流の曲を一流の演奏家がわざわざ演奏することもない、というわけである。パガニーニ国際音楽コンクールというのがあるが、そこで入賞したソリストが披露するのは例外で、つまりパガニーニの曲は若手の演奏家の一部が取り上げるだけの作品・・・でもこれが演奏できるのは凄いこと・・・。

ところがテクニックが重要な時代が来て、何と若い演奏家が軽々とパガニーニを演奏し、デビュー作として演奏してしまう事態が生じた。そんな中で、比較的昔から好んでパガニーニを演奏してきたのがシェリングである。彼は美しい音色の持ち主であった。輝かしいヴァイオリンの響きは、この作曲家にとても似合う。アッカルドというパガニーニの大御所がいて、デュトワと録音した決定的な全集があるが、アッカルドと違いシェリングはベートーヴェンやチャイコフスキーも得意である。

シェリングは技巧的な部分・・・私はあまり詳しくないので、二重のファルジョレットなどと言われてもピンと来ないのだが・・・になると速度を落とし、ゆっくりと聞かせるようにする(もしかしたらそのままのテンポで演奏するのがきついのかも知れない)。ここをそのまま切り抜けるのは今風の演奏で、それを可能とするだけのテクニックが備わっているということだから、まあ今から思えばちょっと変てこな演奏ということになるのだが。

つまり今の時代にわざわざシェリングの演奏を聞く必要などない・・・と言い切ってしまうのは簡単だけれど、何でもサラサラと進んでしまう方が、最初は違和感があった。曰く表情付けに乏しい、などと言う風に。何が原因でどちらが好ましいか、という問題ではなく、そういう風に演奏のスタイルが変化した。その変化を感じる演奏である。ただし伴奏の方は、今と同じようなスタイルで溌剌としている・・・そこがこの演奏の面白いところかも知れない。

シェリングの奏でるヴァイオリンには、どこか気品を感じる部分があって、それはそれで大変好ましいし、あまりにテクニックの全開な演奏で聞くと聞き逃してしまうフレーズにも、時折立ち止まるようになりながら注意して進んでいく。だからこちらも耳をそばだててしまうのだが、第3楽章のソロの部分などは大丈夫だろうか、などという丸でライヴ演奏を聞くときのようなスリルを感じる。私はこの演奏に感じるぎこちない部分を好意的にとらえているのだが、あばたもえくぼ、それはつまりこの演奏がそこそこ気に入っているからだと思う。

2014年7月13日日曜日

映画「パガニーニ」(2013年、ドイツ)

好きなクラシック音楽についてこのブログに書いている以上、昨日見た映画「パガニーニ、愛と狂気のヴァイオリニスト」についても少し感想を書いておかねばらない。私は映画評論家でもなければ音楽評論家でもないから、ここに書く内容は一愛好家、つまりは素人のそれである。もしまだこれから見ようと思っている方におかれては、以下の文章を読むかどうかの判断はお任せする。一部ネタがバレてしまうことは確かだが、私の文章力では、だからといって実際にこれから見る人にとって妨げになることもないとも思う。

この映画のテーマは、神によって楽器の才能のみを与えられた男の悲劇である。そのことは終わりの方のシーンで、パガニーニ自らが病床に伏しながら言うセリフに象徴されている。彼はかつてロンドン公演の際に知り合った指揮者ワトソンの娘シャーロットに対し、その恋が遂げられないことをいまだに嘆いている。ヨーロッパ中を席巻した超技巧派も、本物の恋に苦しむ。年老いた彼は自筆譜を送り、自分の音楽を残そうとする。ここにあるのは等身大の、ひとりの哀れな音楽家の姿である。

パガニーニが自分の作品をコピーされることを恐れ、自筆譜を燃やしてしまったというのは有名な逸話である。だが彼は自分の音楽家としての人生を、その終盤になって振り返り、水銀中毒によって蝕まれた体を横たわらせながら手紙を書くのだ。

この映画のタイトルは「The Devil's Violinist」という。悪魔はパガニーニにヴァイオリニストとしての類まれな才能だけを与え、それ以外は与えなかった。悪魔は彼の体を蝕み、破壊する。ギャンブルや酒、それに愛欲に溺れ、あるときは自分の楽器をさえ賭けの担保とした(これも実話である)。そこに現れる一人の男、ウルバーニとの出会いと関係がこの話の中心である。ウルバーニはあるとき突然パガニーニの前に姿を表し、無条件でマネージャになることを契約する。彼こそがパガニーニの才能を見抜くことができるという、悪魔の使いだったというわけである。

ロンドン公演においてウルバーニは、その公演を成功すべくこの狂気のヴァイオリニストを公私にわたってマネージする。新聞記者を利用して記事を書かせ、一方で女性運動家をも誘惑する。音楽産業の隆盛を誇るロンドンは、当時のヨーロッパの「成功すべき都会」であった。彼はコヴェントガーデンでリサイタルを開き、その価格を釣り上げる。席は最初売れ残るが、そこに姿を現したのは英国王であった!彼はその場で即興を披露する。それが「英国国歌による変奏曲」で、この曲もパガニーニの作品であることを初めて知った。

少しできすぎた話であろうし、ここで滞在中に親しくなった指揮者の娘シャーロットが歌う英国的な歌詞のついた歌は、確かにパガニーニのメロディーを使用しているとは言え、この映画のために作られたのではないかと想像する。ついでに言えば、エンディングで流れるシューベルトの「魔王」のパガニーニ風の変奏曲も、彼の作品ではない(ただシューベルトが大金を支払ってまでパガニーニの演奏会に出かけ、その音楽を絶賛したのは有名である)。

全体にパガニーニの作品が流れているのは当たり前と言えばそうだが、やはりあの底抜けに明るく、しかも時にメランコリックな音楽にはいつもうっとりさせられる。リストもラフマニノフも、あのヴァイオリン協奏曲第2番「カンパネッラ」を編曲しているが、ここのメロディーが随所に登場するのは当然であり、極めて印象的である。だが、もっとも心に残ったのは、パガニーニが滞在するアパートを抜けだして酒場へ向かい、そこでギターを交えた即興演奏を披露するシーンである。

パガニーニは素敵なギター曲やギターとヴァイオリンとの二重奏を残しているが、ギターといえばその源はリートであり、リートの本場イギリスの民謡は、南国のパガニーニにうまく融け合って哀愁を帯びる。だから監督バーナード・ローズ(彼は脚本も書いている)は、こういうシーンを入れたかったのだと思った(ついでに彼はベートーヴェンを描いた映画「不滅の恋人」の監督だそうだが、私はプラハへ向かう郵便馬車に合わせて交響曲第8番の第3楽章が使われていたのを大変良く覚えている)。

この映画の最大の見どころは、俳優がヴァイオリニストを演じているのではなく、ヴァイオリニストが俳優を「演じている」という点だろう。ドイツ人のヴァイオリニスト、デヴィット・ギャレットである。彼は超技巧的な作品をもちろん自ら演奏している。パガニーニらしい風貌に化けているのも興味深いが、彼はあるとき理解ある一人の父親として息子の前に現れる。だが弟子を含めこの放蕩音楽家を継ぐものはいなかった。

なぜ彼がこのような天才的ヴァイオリニストになることができたのだろうか。それは映画の最初のシーンで語られるわずか数分の映像に見て取れる。彼は幼少時代に父親から厳しく指導されながら育ったのである。だからウィーンで再会した息子が家庭教師に叩かれたと知って、この家庭教師を即刻追い出す。このようなシーンは、おそらく現代の観客を意識したものだろうと思う。

200年以上も前のヴァイオリニストの、謎につつまれた生活を描いた作品だというのに、会場はほぼ満席という、最近の記憶にはほとんどないような状況であった。

2013年8月18日日曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品6(Vn:イツァーク・パールマン、ローレンス・フォスター指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

真夏の太陽が容赦なく照りつける。久しぶりに過ごす関西での、夏の短い休暇を終え、移動するバスの中で聞こうと思い立った最初の曲は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番だった。この曲は私のお気に入りの曲のひとつで、持っているCDも比較的多い。今回はこの曲のイチオシで、隠れた名演とも言うべきものを携帯音楽プレイヤーに入れて持ってきた。当時はまだ十代だった韓国系の若手、サラ・チャンによる演奏である。

おおよそヴァイオリンの技巧のみを聞くためにあるような曲を、パガニーニはわかっているだけで5曲作曲している。自らの技術を披露するために作曲した彼は、演奏が終わると楽譜を捨ててしまった。このため残された曲は少ないようだが、この第1番はそのようななかで最も人気のある曲である。かつては難曲とされ、よほど腕のいいヴァイオリニストでないと演奏は難しかったが、最近では若手の技巧派ヴァイオリニストのデビュー曲だったりするから凄いものだ。

丸でロッシーニの序曲を思わせるような序奏と、底抜けに明るい旋律は、この曲を初めて聞いた人をも惹きつける。たっぷりと歌う弦の響きと、弾けるようなリズムに乗って、時折超技巧的な部分が現れては消え、また現れては消える。たっぷりと急-緩-急の3楽章形式で40分程度、飽きることはない。浮き立つようなメロディー、イタリアの中世の城塞都市にできる塔楼の影のように陰影を明確にしたような音色。そこまで強調されると何故か悲しい夏の午後のひとときを、私は阪神高速を行くリムジン・バスの中で聞いている。涼しい車内の外は、猛暑である。

長く華やかな第1楽章もいいが、少し短いゆるやかな間をおいて始める第3楽章の、リズミカルな響きがまたいい。ロンド形式のこの楽章は、いろいろなヴァイオリニストで聞いてみたい。快活なピチカートに乗って、独奏の花が満開となる。

きっちりとよどみなく演奏され、瑞々しいチャンの演奏を聞いていると、初めてこの曲を聞いた時の新鮮な感動が蘇ってくる。パガニーニなどという作曲家をそれまで私は知らなかった。そしてこんな明るい曲なのだと感動した。ベートーヴェンやブラームスなど、音楽といえばドイツの絶対音楽だと信じていた中学生の私は、まるで心地よく殴られたような気がした。ヴィヴァルディしか知らなかったイタリアにも、初期ロマン派の作曲家がこのような曲を作曲していたのだ。

フィラデルフィアで生まれたチャンのデビューは、わずか8歳にしてこの難曲を弾き切るという瞠目すべきものだったと言われている。このCDが録音されたのもわずかに13歳の時で、その驚異的なテクニックは、この曲の歴史にまたひとつのページ追加したと思う。伝説的な演奏はもはや録音されることによって伝説ではなく、事実として我々の元に存在するのだが、だからといってこの演奏の意外性が減じることはなく、むしろその光景を目の当たりにして言葉を失うほどだ。

その由緒あるフィラデルフィアのオーケストラは、ドイツの巨匠サヴァリッシュに受け継がれていた。このCDを録音したのも、サヴァリッシュ指揮によるフィラデルフィア管弦楽団とのものなのだが、このことが、私のお気に入りの理由のひとつでもある。

当時のフィラデルフィア管弦楽団は、リッカルド・ムーティによる黄金時代?を経てやや低迷の時代に入ろうとしていた。そこで目を付けられたのが、若くしてヨーロッパの音楽界に華々しくデビューしながら、メジャー・オーケストラの指揮からは少し遠ざかっていたサヴァリッシュだった。N響への共演で我が国にはなじみ深い指揮者だったが、そのレパートリーは完全にドイツ系で占められ、ベートーヴェン、モーツァルトからワーグナー、シュトラウスに至るまで、ほぼすべてがドイツ物。それ以外の曲を聞くことはほとんどなかった。

しかしフィラデルフィア管弦楽団を指揮し始めたサヴァリッシュは、ドイツ物に限らずレパートリーを広げて行った。私が名演と信じるチャイコフスキーの「白鳥の湖」などはその好例だったが、ここにパガニーニの伴奏を務めるサヴァリッシュの、あの生真面目にも溌剌とした表情が見て取れる。

オペラではこの時代、ベルカント花盛りである。ロッシーニやベッリーニといった作曲家が活躍していた。ヴァイオリンはまるで歌を歌うように、あらゆる技巧を駆使して音楽を彩る。渋滞の高速道を抜ける間中、大阪の街を眺めていた。関西の夏は東京より暑いと思っていたが、今年は東京の夏も暑い。むしろ自然に風が吹くと、大阪の夏も悪くないなと思った。東京より人が少ないからだろうと思う。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...