2023年7月31日月曜日

シベリウス:管弦楽曲集(ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団)

シベリウスは疑いなく北欧最大の作曲家で、そのレパートリーは歌劇から室内楽曲にまで及ぶ。とりわけ7つの交響曲とヴァイオリン協奏曲が有名だが、それ以外にも数多くの管弦楽曲がある。最も有名にして、祖国フィンランドの第2の国歌ともいうべき交響詩「フィンランディア」を筆頭に、たくさんあるこれらを一つのディスクに集めたものがよく売られていた。私も楽しい「カレリア」組曲が聞きたくて、シベリウスの管弦楽作品集をコレクションに加えた。といっても新譜は高くて買えないから、いわゆる「ベスト100」の類の廉価版の中から、最も注目していたやつを物色した。それは私の生まれた年に録音された英国の指揮者ジョン・バルビローリのもので、マンチェスターにあるハレ管弦楽団を指揮した一枚だった。

EMIから発売されていたそのCDは録音がややぎこちなく、田舎のオーケストラをのせいか、とてもローカルな雰囲気が漂っていた。「カレリア組曲」の行進曲などは、丸でチンチン電車に揺られるかの如き趣である。だが、そこが私のお気に入りとなった。このディスクには、「フィンランディア」「カレリア」組曲のほかに、劇付随音楽「死」から改編された有名な「悲しきワルツ」、「ポホヨラの娘」、それに組曲「レミンカイネン」から「レミンカイネンの帰還」が収録されていた。特に「レミンカイネンの帰還」は有名な「トゥオネラの白鳥」を含む一時間近くある全曲の最後の曲で、その後私はこの作品を通しで聴いて感動し、全曲盤を購入するきっかけとなった。

このCDにはシベリウス作品の、いわば王道とも言うべき作品群が収められているのだが、もちろん、これ以外にもたくさんの作品がある。それらに実演で触れる機会は、残念ながら皆無に等しい。しかし私と同様、いつも同じ曲ばかり聴いていたのではつまらないと感じるリスナーが、全世界に一定数いるのだろう。新たに目にした一枚は、私が持っている唯一のシベリウス管弦楽曲集の選曲を巧妙に避けていた。特に私は、バルビローリのCDにはなかった「エン・サガ(伝説)」という。20分あまりの曲が聞きたかった。シベリウスの管弦楽作品は、この曲のように北欧の伝説を題材に取ったものが多いが、その中でも最初期のものである。この曲を初めて聞いた時は、何かドラマの主題歌のように感じられた。

この曲を最初に収録したCDが目に留まって聞いてみたら、なんと「悲しきワルツ」以外はバルビローリ盤との重複がないのである。このようにして私はまた新しいシベリウス作品集を手に入れた。これはシベリウスのスペシャリストとして2度も交響曲全集を録音しているリトアニア生まれの重鎮ネーメ・ヤルヴィが、スウェーデンの地方都市にあるエーテボリ交響楽団を指揮したドイツ・グラモフォン盤である。定評のあるヤルヴィだからこそ、こういった企画が可能だったのかもしれない。初めて触れる曲、例えば「ロマンチックなワルツ」や「春の歌」のような親しみやすい曲の魅力もさることながら、このディスクの最大の聞かせどころは「タピオラ」である。

「レミンカイネン」も「ポホヨラ」も「クレルヴォ」も、いずれもフィンランド最大の民族叙事詩「カレワラ」から採られている。この叙事詩からの作曲は、シベリウスのいわばライフワークと言っても良かったのではないか。それらの中でも、晩年に作曲された「タピオラ」は1925年の作品で、これ以降には主要な作品は作られていない。「最高傑作」とも言われるこの20分足らずの作品を、今回私は初めて聞いた。凝縮された、濃厚な音楽は時に荘厳で格調高いが、決して楽しい感じのする作品ではなく、交響曲の一部を聞いているようである。それでも北欧の自然を見るようなシーンの連続で、飽きることはない。交響曲第6番や第7番と並行して作曲されたようで、いわばシベリウス音楽の最高地点のような作品である。

今年も長かった梅雨がようやく明けた。梅雨末期から早くも続く猛暑、酷暑の中で、私はシベリウスに耳を傾けている。夏でも爽やかな北欧の作品を聞けば、少しは涼しく感じられるからというわけではない。むしろヤルヴィの厚ぼったい演奏は、まるでセーターを着ているようである。一方、バルビローリの素朴な演奏は、北部イングランドの湖水地方のイメージしながら聞いている。


【収録曲(バルビローリ盤)】
1. 交響詩「フィンランディア」作品26
2. 「カレリア」組曲作品11
3. 交響詩「ポヒヨラの娘」作品49
4. 「悲しきワルツ」作品44-1
5. レンミンカイネンの帰郷

【収録曲(ヤルヴィ盤)】
1. 交響詩「エン・サガ(伝説)」作品9
2. 交響詩「春の歌」作品16
3. 「悲しきワルツ」作品44-1
4. 「鶴のいる情景」 作品44-2
5. 「カンツォネッタ」作品62a
6. 「ロマンティックなワルツ」作品62b
7. 交響詩「吟遊詩人」作品64
8. 交響詩「タピオラ」作品112

2023年7月25日火曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD Series 2022-2023)

モーツァルトは、いわゆる「ダ・ポンテ三部作」において、それまでの常識を覆し人間性あふれるドラマとしてのオペラ作品を世に問うた。しばしばいわれているように、これらの作品(「フィガロの結婚」、「コジ・ファン・トゥッテ」、「ドン・ジョヴァンニ」)は、極めて下世話な内容ですらある。ちょうどフランス革命が起きて、その影響がウィーンへの波及しようとしている頃、音楽は一部上流階級のものから一般市民のものへと移りつつあった。しかし、そのモーツァルトが作曲したひとつの頂点とも言うべき作品「魔笛」については、再び古い世界に回帰しているように見える。

例えば、この物語は時代設定も場所も不確かである(紀元前のエチオピアと言われたりする)。確かに、キリスト教的価値観はさほど感じられず、それまでヨーロッパが規範としてきたモラルからかなり逸脱しているように見える。しかし、それに代わって登場するのは、秘密結社フリーメーソンの何とも形容しがたい教条主義である。特に第2幕で繰り広げられる数々の試練をカップルに課す集団は、ザラストロを頂点として密会を催し、しばしば意味不明の儀式を繰り返す。

このような効果を薄めるかのように、パパゲーノという非常に庶民的かつ魅力的なキャラクターがアンチテーゼとして登場し、モーツァルトは彼にこそ魅力的なアリアを数多く作曲している。「魔笛」のテーマは、いわば二つの世界の対比であり、時に価値の逆転が試みられる。オペラ先進国イタリアの言葉で書かれた、ありのままの人間性を表現する新しい趣向は、ドイツ語圏では時期尚早だった。だがこの作品は、ウィーンの庶民のための劇場で、数多くの効果音をふんだんに盛り込み上演された。メルヘンの仮面まとった「魔笛」も、そのときどきの時代に通じるヒューマンなドラマ性を表現することは可能であり、その余地は充分にある、と現代の演出家も考えたのであろう。このたびMETで、長らく続いたテイモアのファンタジックな演出の後を受け、新しいサイモン・マクバーニーの舞台が、このようにして出来上がった。

ここではいくつかの斬新な演出が試みられた。まず、驚くべきことに広大なオーケストラピットは、通常の深い場所から舞台のすぐ近くの高さにまで吊り上げられ、客席からもよく見える。役者に変わって演奏されるフルートやグロッケンシュピールを担当する奏者と歌手が、しばしば交流する。幕間のインタビューでマクバーニーが語っているように、初演当時、オーケストラは舞台にもっと近かったのだ。それだけではない。舞台正面に映し出されるプロジェクションへの投影と様々な効果音が、舞台で生で演じられるのである。

その様子は、旧来の演出と最新鋭の演出が混在するという面白いもの。例えば序曲が始まり、スタッフが黒板に「AKT1」などと書いていくと、それがそのままカメラを通して、紙芝居のように、筆跡と共に舞台のスクリーンに映し出される。一方、パパゲーノが鳥を追いかけるとき、その鳥の姿と音を表現するのはノートの切れ端を持った黒子たちで、これをパタパタと揺らすことで鳥を表現している。また、パパゲーノがボトルに入った水をごくごくと飲むときの音は、舞台右横の効果音担当者によって、演技と同時にマイクを通して拡声される。このような斬新な取り組みによって、舞台は台詞のシーンにおいてさえ集中力を切らすことができない。

集中力を維持するだけの推進力を与えるのは、この演出だけではない。コントラルト歌手だったナタリー・シュトゥッツマンによる指揮がまた見事の一言に尽きる。彼女の音楽は古楽奏法も踏まえたもので、私はあの素晴らしいクラウディオ・アバドの演奏を思い出した(このアバドの「魔笛」は、私が入院中に病室で聴いた当時の新譜で、一気に流れるように音楽が進む様子がとりわけ印象に残っている)。

モーツァルトとシカネーダーが試みた価値の転換は、「ダポンテ三部作」だけでなく「魔笛」の隠れたテーマでもあったのだろう。そのことを強調するように、この舞台は現代における価値の大転換を推し進めてみせる。まず登場するタミーノ演じるのは小柄な黒人ローレンス・ブラウンリー(テノール)である。美しく透き通った声の持ち主である彼を、この舞台の主人公に抜擢した、ということだが、そもそもタミーノを黒人歌手が演じることなど、少し前までは考えられなかった。蛇に襲われた彼は3人の侍女によって服をはぎ取られ、下着姿となる。その3人の侍女は、大変失礼ながら美人ぞろいという風貌ではない。

一方、悪の象徴であるモノスタトスを、スーツを着た白人ブレントン・ライアン(テノール)が演じる。さらに過激なことに、3人の童子に至っては、まるでストリート・チルドレンのようにみすぼらしくやせ細り、ぼろ布をまとっている。極めつけは夜の女王で、彼女は腹黒い側面をことに強調して醜悪な容姿の上、車椅子に座って「夜の女王のアリア」を歌い切る。ここまでくると、もはや少し悪趣味ではないかとさえ思えてくる。高貴なはずの役が醜く、悪の権化はさらに低俗な様相を放つ。だから、まるで地獄絵のように暗く惨めなのだが、そこに流れるのはまぎれもなく、モーツァルトの清らかなメロディーに他ならない。ダークサイドが思う存分強調されているにもかかわらず舞台を観て辛くないのは、新しい効果満載の演出と絶え間ない美しい音楽の故である。

私がもっとも感心したのは、パミーナを初めて通しで歌ったというエリン・モーリー(ソプラノ)。登場人物の中で彼女が一番「普通」である。パミーナに登場人物の標準ラインが引かれている。夜の女王役のキャスリン・ルイック(ソプラノ)は、定評ある驚異的な歌声だが、その頂点すなわち第2幕「復讐の炎は地獄のように燃え」で超絶技巧が炸裂し、演技を含め圧巻である。彼女はカーテンコールでもひときわ大きな声援を得ていたが、自身も感極まって涙をこらえていたところを見ると、会心の出来だったのだろう。ザラストロを歌うスティーヴン・ミリング(バス)は貫禄のある歌声を会場に響かせる。

一方、大活躍のパパゲーノはピアノも得意とするトーマス・オーリマンス(バリトン)。有名なアリア「娘か可愛い女房が一人」でグロッケンシュピールを自ら引いて歌いこなす。パパゲーノは要所要所で愛すべきキャラクターを演じるが、オーケストラの前にも設けられた細い通路(いわば「花道」)で演じ、さらに彼はそこから観客席にまで降りて歌うのだ。見慣れた「魔笛」の演出にはこれまで数々のものに接してきたが、まだこのような演出が可能だったのかと感心しきりであった。

最近、私はコンサートに出かけてもあまり感動することはなく、同じプログラムを聞いた人がtwitterなどで「涙を流した」などという表現に接するたびに、自分は今や心のゆとりを失い、ついには感動する心を持たなくなってしまったのだろうかと思っていた。しかし、この「魔笛」の映像を見ながら、私は久しぶりに聞くモーツァルトに耳を洗われ、次々と現れる斬新な演出に釘付けとなり、体は硬直、目頭が何度も熱くなった。これほど心を動かされたMETライブは久しぶりである。

モノスタトスと怪獣たちが魔法の音色によって次第に融和されていくシーンは輪になって踊るダンスとなるなど、ことごとく新しい試みが施され発見の連続である。そして最大の特徴は、最後のシーンで夜の女王が地獄に堕ちることはなく、パミーナと和解することだ。パミーナは、自分の母親である夜の女王と熱く抱擁を交わす。これこそが新しい創造で価値の逆転である。感動的でマジカルな舞台、モーツァルト、そして暑い休日の午後の銀座だというのに、客席はそれまでの公演に比べてもまばらだったのはなぜだろうか?おそらく原因は二つある。一つはチケットが高額だからだ。いつの間にか値上げされている。もう一つは、新調された客席の椅子が中途半端に心地悪く、腰を痛めかねない角度になっているからだ。

とは言え、それらを覚悟してでもこの公演を見る価値はある。「魔笛」の直前に演じられた新演出の「ドン・ジョヴァンニ」(ここでも指揮はナタリー・シュトゥッツマンである)を見逃したことを後悔した。だが、東劇ではまもなく夏休み恒例のアンコール上映が始まる。このシーズンに見逃した作品を、このチャンスに見ることができる。今から楽しみである。

2023年7月9日日曜日

東京交響楽団第189回名曲全集(2023年7月8日ミューザ川崎シンフォニーホール、下野竜也指揮)

様々なブログを検索していると、東京中で開催される数多のクラシック音楽コンサートを、実に頻繁に出かけては感想を記しているものに出会う。夏休みに読書感想文を書くような思いで、聞いた音楽を逐一文章化するという努力を、自分も時々やっていて思うのだが、相当な労力がいる。そういうことを趣味にして居る人が他にもいるというのも驚きだが、それ以上に驚くのは、それだけ多くのコンサートに出かけるだけの経済的、時間的なゆとりと、そして関心の継続である。

普通にサラリーマンをやっていると、これらを維持するのは非常に難しい。だから行けるコンサートは週末のものに絞るとか、来日オーケストラやオペラのような高価なものは、行きたいと思っていても断念する決断が必要だ。そのようにしてやりくりした演奏会を、月に1度か2度のペースで行こうと思ってきたし、実際行っている。だがここへきて、音楽への興味・関心が、かつてほど高次元で維持できなくなってきているのは、歳のせいかも知れない。特に数年前に腰を痛め、しばらくは座席に座っていることさえも困難だった。また同じ時期に白内障にかかり、目がかすんで見えなくなった。プログラム・ノートも読めず、字幕を追うのも困難になった。

だが、クラシック音楽の会場には今日も多くの人が詰めかけ、中には杖がないと歩行が困難な老人が大勢いる。彼らは音楽を生で聞くことの喜びのためには、不自由な体に鞭打ってでも出かけたい意欲をお持ちなのだろうと思う。自分には音楽に対する情熱が不足しているのではないか、とさえ思う。特に休憩のない長い曲(マーラーやブルックナー)、あるいはオペラの公演において、そう感じることが多い。こんなにも沢山の人が、お金や時間を惜しまないだけでなく、体調までも必死に維持しながら来場している!

クラシック音楽のコンサートにも、珍しい曲や難解な曲にチャレンジする定期演奏会のようなコンサート(は、質の高い真剣勝負となることが多い)とは別に、いわゆる名曲プログラムもあって、親しみやすいポピュラーな曲をプログラムに乗せるものもある。各オーケストラもそのような構成になっていて、東京交響楽団も「名曲全集」というシリーズがある。私は滅多に行かないのだが、今回のプログラムはちょっと変わっていた。夏休みということもあるのだろう。我が国を代表するアニメ・特撮の類である「ウルトラマン」と「宇宙戦艦ヤマト」の音楽を、それぞれ交響曲に仕立てた作品を並べたのだ。これらの曲は、滅多に演奏されているわけではないのだから、「名曲」と言って良いのかどうかわからないが、それでもたまにはこんなコンサートも面白いかな、と思って席を予約した。会場はミューザ川崎シンフォニーホール。

プログラムの前半は、特撮テレビ番組「ウルトラマン」の作品で音楽を担当した冬木透が、シリーズの音楽を用いて4楽章構成の交響曲にした2009年の作品である。この作品を初演したのも東京交響楽団なので、今回が2回目ということになる。初演は作曲者自身の指揮だったとのことだが、今日の指揮は下野竜也である。

さて、私はその年齢から「ウルトラマン世代」ということができる。特に小学校に上がるか上がらないかの頃、毎日家に帰ってきてはテレビにくぎ付けになっていたのは「帰って来たウルトラマン」だった。この時のことは以前にも書いたが、この「帰って来たウルトラマン」の主題歌は、すぎやまこういちの作曲である。一方、「ウルトラセブン」のような他の多くの作品は、その劇中で用いられる音楽を含め、冬木のものがほとんどである。それらの音楽が次から次へと登場し、フル・オーケストラによって演奏されるのか、と思っていたらそれは第1楽章のみで、緩徐楽章になるとトランペットのソロが美しいメロディーを吹くムード音楽のようなものになったのは驚いた。この音楽はハープやオルガンの伴奏にも乗ってうっとりするほど綺麗なメロディーで、第2楽章が終わった時点で拍手が沸き起こりそうになったほどである。

第3楽章のスケルツォ風の音楽と、第4楽章でのコーダ(フルートで「帰ってきた」のメロディーが聞こえた)の音楽は、できればもう一度聞いてみたいと思っているが、そのような機会はないし手段もない。全体に、ちゃんとしたシンフォニー・オーケストラによって演奏される耳に心地よい音楽の美しさもさることななら、この作品は単に有名なメロディーをつなぎ合わせただけの陳腐なものではないということである。確かに冬木透という作曲家は、蒔田尚晃という名で数々の純音楽作品を作曲しているそうだ。

休憩をはさんで演奏されたのは、交響曲「宇宙戦艦ヤマト」である。松本零士のよるこのアニメ作品のテーマ音楽は、大阪生まれの作曲家、宮川奏が作曲したことで知られている。テレビで放映され、日本中のファンをくぎ付けにした世代は、私よりは少し後になるのだが、丁度3つ歳下の弟がテレビで見ていた影響で、音楽も含め私も良く覚えている。この音楽を交響組曲にしたものをラジオで聞いたことがあって、それは有名なメロディーが次々と出てくるものだったが、30分もなかったように思った。今回演奏されたのは、それとは異なるものだった。

作曲したのは羽田健太郎で、1984年にN響によって初演されているというから、もう40年近く前の作品ということになる。第1楽章「誕生」、第2楽章「闘い(スケルツォ)」、第3楽章「祈り(アダージョ)」、第4楽章「明日への希望(二重協奏曲)」という構成。交響曲という体裁を取りながら、何やらてんこ盛りのような作品で、最終楽章にはソロ・ヴァイオリン、ピアノ、それにヴォーカルまでもが登場する。

今回の演奏に参加するこのソリスト人は、なかなか豪華である。まずヴァイオリニストには三浦文彰、ピアノは高木竜馬という若い2人。オルガン横の客席最上段にはソプラノの隠岐彩夏があの有名なヴォカリースを突如歌いだす。このシーンを初演時にテレビで見ていたという指揮者の下野は、震えるほど感動したと述べているが、やはり幼少の頃の経験は例えようもなく新鮮なのだろう。

下野の指揮は大変充実したもので迫力があり、オーケストラもそれに応えてなかなかの力演だった。特に終楽章のコンチェルトになってからは、ショパンまでも弾きこなした羽田健太郎ならではの難しい旋律も数多く、まるでラフマニノフでも聞いているかのような部分もあったが、そこにヴァイオリンも絡んで聞きごたえ十分であった。だが音楽は区切られており、やはり交響組曲とでもした方がしっくりいくような気がした。また第2楽章と第3楽章は、まるでミュージカルのような音楽だった。

ミューザ川崎シンフォニーホールでは暑い夏になると、サマー・フェスティヴァルが開催される。今年も東京中のオーケストラが登場し、魅力的なプログラムが組まれている。そのいくつかには来てみたいと思いつつ、何となく気が滅入るのも事実である。それはあの川崎駅の雑踏を避けることができないことと、螺旋状になった会場が好きになれないことだ。縦に長い分、サントリーホールなどよりは音が拡散する。従って近くで聞くのと、少し離れるのとでは随分印象が異なると感じた。

2023年7月2日日曜日

シベリウス:交響曲第5番変ホ長調作品82(コリン・デイヴィス指揮ボストン交響楽団)

新幹線に乗って日本各地へと向かいながら、このブログの下書きをすることが多い。今日も、朝6時12分発山形新幹線つばさ121号の車内で、この文章を書いている。小雨の降る梅雨空の向こうに、安達太良山が見える。丁度福島県内を通過中である。今日は月山の麓を通って鶴岡まで行く。

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シベリウスの7曲の交響曲のうち、もっとも完成度が高い(と私が思う)第5番といえども、さほど詳しく知っているわけではない。初めて外国のオーケストラを聞いたのは、オッコ・カムの指揮するヘルシンキ・フィルの来日公演で、大阪でも演奏された交響曲全曲演奏会の中から、交響曲第2番と第5番、それに「フィンランディア」という名曲プログラムの初日を、当時中学生だった私は友人と聞きに出かけた。このとき、第5番の曲を初めて聞いたのだが、当時、我が家にこの曲のレコードはなく、他に聞くことのできるメディアと言えばNHKのFM放送くらいだが、運よくこの曲が流れることもないわけで、それはつまり、まったく初めて演奏会で聞いたということになる。だから、というわけではなのだが、曲のことをほとんど覚えていない。ただ最終楽章のコーダで、長い休止を伴う6回もの連打が印象に残った。

緊張感を持って一気に演奏される、まるで一筆書きのような曲である。演奏時間は長くもなく短くもない。3楽章構成。第1楽章はもともとの初稿での第1楽章と第2楽章を合わせた構成となっているらしく、前半と後半で趣がやや異なる。だが続けて聞いても違和感はなく、これはこういう曲なのだと思っていた。もともとシベリウスの交響曲は、形式が自由である。長い序奏が続き、何かとりとめのない音楽がもやもやと続く中で、やがて輪郭が見え、はっきりとしたモチーフが形成されてゆく。季節が次第に移り変わり、長かった冬がようやく終わると、そこからは陽気な音楽だ。陽気と言ってもそこは北欧である。陽光まぶしい南欧のそれとは違い、清涼感ただよう乾いた青空の冷たい空気。

コリン・デイヴィスのような骨格のはっきりとした、重厚感のある演奏が好みである。しかしこのほかの演奏をあまり聞いたことはない。第2楽章は緩徐楽章となっているが、ここでは独特のリズムが全体を支配している。この主題は何度も変奏されてゆくが、最終部ではとても幸せな気分になる。この曲は前作の交響曲第4番とは対照的に、シベリウスの生誕50周年を記念して演奏されるために作曲されたことを思い出す。第1次世界大戦中に作曲された交響曲としては、異例の陽気な曲である。

交響曲では、終楽章への間を置かずに演奏される例が最近は目立つ。シベリウスの交響曲第5番などはそのように演奏すると効果的である。まるで一筆書きのような、と私は書いたが、そのスタイルはこの第3楽章にこそ当てはまる。直線的で、シベリウス独特のメロディーが緊張感を保ってコーダへと走る。トレモロ、低弦の響き、そして金管楽器のぞくぞくするようなアンサンブル。良く考えてみると、第2楽章と第3楽章はいずれも3拍子の曲である。このことが曲に躍動感と緊張感の持続を与えているのかも知れない。終楽章の次第に高揚しながらコーダに向かう様子は、短いながらも鮮やかである。

コリン・デイヴィスのシベリウスは何種類かあるが、ここでは珍しくボストン交響楽団を指揮している。記憶が正しければ、デイヴィスのシベリウス録音の最初のものがこれで、このあとRCAに録音したロンドン響との演奏、さらにはLSO Liveのレーベルから出ている晩年の全集もある。円熟の演奏にも捨てがたいい魅力があるが、若い頃の演奏が好きである。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...