2014年4月30日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:番外編(分割民営化後のこと)

1986年の大学入学以降、私の関心は主に海外旅行へと移った。折しも1ドル240円もしていたのが160円くらいとなり、空前の海外旅行ブームが巻き起ころうとしていた。「青春18きっぷ」が高校1年生の私を全国の鉄道旅行に駆り立てたように、円高は私を全世界へのバックパック旅行へと誘った。その後の10回以上、40ヵ国にも及ぶ旅行の記録は、またゆっくりこのブログにも書き記したいと思う。と同時に、私はまた、国鉄がJRと名を変えた後でも国内旅行をしなかったわけではない。ただもはや鉄道に乗ることは目的ではなくなった。以下は、国鉄分割後に出かけた新規乗車区間についての補足的記録である。

■北海道

私は1996年以降ほぼ毎年のように北の大地を踏みしめている。けれどもそれは妻の実家のある日高地方に行くためで、手段は概ね飛行機と自動車である。鉄道で帰省としたことは1度だけ、寝台特急「北斗星」に乗り青函トンネルを通って苫小牧で下車、その後静内まで乗車した。この区間は海のそばを走るなどなかなか風光明媚だが、私が乗った時は満員である上に天気も悪かった。普段はここを自動車で駆け抜けていく。浦河、様似といった方面へも何度も出掛けているが、列車に乗ったことはない。様似からさらに襟裳岬を回って広尾のある十勝地方へと続くが、ここの区間を含め、北海道の魅力的な地域にはほとんど鉄道が走っていない。

多くのローカル線が姿を消した。今時刻表の地図を見ると、北海道はほとんど骨と筋だけの体のようにやせ細っている。稚内へも知床へも何度か出かけたが、宗谷本線、釧網本線、留萌本線、札沼線、それに一度は行きたい江差線などは未乗のままである。あの津軽海峡をトンネルで渡るというのは複雑な心境である。そしてここをまもなく新幹線が走る。

■東北

津軽海峡線につながる津軽線と青森から盛岡までの東北本線には、昼と夜のそれぞれ1回ずつ乗車している。けれども後者は今や「いわて銀河鉄道」などという名称で呼ばれ、他の支線と分断された格好だ(こういう区間は全国に幾つかある)。このような切り捨て路線を考えても、今の鉄道旅行に魅力を感じない。

三陸海岸のほぼすべての路線と三陸鉄道、ローカル線の中のローカル線とも言うべき五能線、SL時代の写真が郷愁を誘った阿仁合線など、東北地方には魅力的な路線が数多くあった。だが、それらは今やレールバスのような1両の列車がへんてこな色を塗られて走る路線となっている。

私が東北を旅行するのも今や自動車が中心だ。そのような中にあって、山形で過ごした学生時代の春休み、友人たちと仙台に出かけるため仙山線に乗ったことと、米国から帰国した直後に角館を旅行した際に乗った北上線、松島観光で乗車した仙石線は思い出に残る。特に仙石線の野蒜駅は、東日本大震災の時に壊滅的な被害を受けたところで、私が泊まった民宿ももはやない。

■関東

東京に移り住んで20年が経過した。関東地方でJRになってから乗車した区間は、銚子までの総武本線、奥多摩に出かけた時の青梅線、仕事で仕方なく乗った南武線、武蔵野線、横浜線、川越線、埼京線、それに内房線の一部と成田線くらいである。未乗車区間はそれ以外の房総半島、水戸線、水郡線、両毛線など北関東に集中している。そう言えば鶴見線というのも、行こうと思えばいつでも行けるのだがまだである。

■甲信越

長野オリンピックの年に開通した長野新幹線は幾度と無く乗ったし、あの長野が通勤区間並みに近くなり、軽井沢がもはや関東の奥座敷ではなくなったというのには隔世の感がある。それに代わって信越本線の横川と軽井沢の間は、あっけなく廃止されてしまった。ここでも鉄道ファンの心がすさむ。今では私の未乗路線は身延線だけである。

■東海・北陸

関東と関西の間にある割には、私にとって旅行回数が少ないエリアである。能登半島は車で一周したので、もはや七尾線に乗ることはないだろう。城端線や氷見線といった「盲腸」線も鉄道ファンにはよく知られた魅力的な路線だが、私には一向に遠い存在だ。そういえば静岡には、一日一往復という清水港線というのが昔はあった。だがいつのまにか廃止されてしまった。

■近畿

JRになってすぐの年、私は友人と和歌山線に乗ったりした。だがそれを最後に近畿地方の未乗車区間はほぼなくなった。大阪近郊に新しい路線が開通したが、それらに私は帰省する時に乗っている。関西空港線、東西線などである。一方、早い時期に廃止された尼崎港線は、今から思えば乗っておきたかったと思っている。

■中国・四国

東京から遠いこのエリアで、JR時代になってから乗車した区間は瀬戸大橋を渡る瀬戸大橋線のみである。この地域は私にとって未乗車路線の宝庫となっている。おだやかで美しい瀬戸内海と、平凡な中にも独特の歴史的風情を感じる中国山地、哀愁を帯びた山陰の風景は私をいつかこの地の旅行へと駆り立てるだろう。47都道府県のうち唯一行ったことのない高知県も近い将来の目的地の一つである。廃止されたローカル線が少ないもの嬉しい。伯備線、姫新線、芸備線、山陰本線の松江以西、山口県内の路線、予讃線を除く四国の路線の全てなど、挙げるときりがない。

■九州

北海道と同様、九州地方の路線は見る影もないほどに減少し、もはや鉄道旅行など考えられない。にもかかわらず九州は鉄道旅行の人気が高い。これは信じられないことである。私の場合、2度にわたるクレイジーな旅行とその後の廃線の結果、現在運行されている未乗車路線は、おそらく三角線だけではないかと思う。すなわちあの高千穂橋梁も炭鉱地方の短い路線も、桜島の灰をかぶりながら走る大隅半島の路線も廃止されてしまった。九州新幹線は鹿児島中央と熊本の間をあっという間に駆け抜け、かつてもう一つの地の果てのような気がした南九州も日帰り圏内になってしまった。


-------------------
日本列島にはJRの他に多くの民営鉄道、地下鉄、それにモノレールなどがある。これらは鉄道というよりも、実はその沿線の風土に興味がある。特に地下鉄や近郊私鉄は、JRとは異なる文化を形成している。ニュータウンで育った私は、日本に限らず見知らぬ町の郊外がどのような風景をしているかに、昔から隠れた興味を持っている。特に観光地でもないこれらの地域については、また別にまとめて記そうと思っている。

2014年4月29日火曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第16回(最終回)(1987年3月)

いつから鉄道に興味を持ち始めたのだろうかと思う。小学生の時、学校に時刻表を持ってきて何やら解説をしていたのがいた。彼は私を誘い、新大阪駅へ列車の撮影に行った。私を釘付けにしたのは、遠く青森や九州から到着した夜行列車だった。私も彼に倣い、家にあった時刻表を眺めてみた。東海道本線下りのページには、夜行列車が深夜の大阪に停車、あるいは通過していく様子が記載されていた。その中に私は「金星」と言う名の列車を発見した。

「金星」は名古屋を夕刻に出発し、西鹿児島まで行く夜行列車だった。もう新幹線は博多まで通じていた時代だったから、このような列車があるのかと私は思った。「金星」なら夜に大阪で見ることができる。同様に「彗星」「明星」「なは」「あかつき」などが夕方に新大阪を発車する。東京から来る最初の夜行は「さくら」を皮切りに「はやぶさ」「みずほ」と続き、「富士」「あさかぜ」「瀬戸」は大阪を通過するのだ。思えばこの頃は、夜行列車の最後の隆盛期だったと思う。だが残念なことに大阪生まれの私は、実家に帰るという理由でこれらの列車に乗る九州や四国生まれの同級生が羨ましかった。

これらの列車に乗るということは、今で言えば、遠く南米にでも行くよりももっとノスタルジーを掻き立てた。遠くから来て遠くへ行く寝台特急は、その豪華なA寝台の写真を見ては、いつか自分も乗ってみたいなどとあこがれた。だがその願いを一度も叶えることなく、夜行列車は衰退していった。

国鉄がJRとして生まれ変わることになった前日の1987年3月31日は、「国鉄最後の日」というイベントが開催された。6000円の切符(「謝恩フリーきっぷ」と言った)で24時間全線が乗り放題となるのである。この日にわざわざ全国の鉄道を乗るために出かけた鉄道ファンは多かった。だが私はそのようなことをしらなかった。同級生のU君が教えてくれた。だからこの旅行は前半を彼と過ごすことになったと思う。日付が変わる直前の3月30日深夜に、私と友人は夜行列車「きたぐに」の乗客となった。


夜行列車は日付が変わるまでの切符を足すことで、そのあとは「国鉄全線乗り放題」の切符が使えた。車内には同じことをする鉄道ファンであふれていたが、座れないほどではなかった。いつもどおりに列車は京都を過ぎ、夜中の北陸路を新潟へ向かった。

新潟で列車を下りた私は、そのまま上越新幹線に乗り換えた。新幹線も自由席であれば乗ることができた。私は普段、貧乏な旅行者だったので新幹線には乗っていない。ここぞとばかりに乗車したことのない上越新幹線を大宮まで行くことにした。だが車内はめっぽう混んでいた。私は立ったまま自由席にいたが、かつては難所とされた三国峠をあっという間に通り過ぎるトンネル続きの車窓は全く楽しくない。

大宮に着くとサンドイッチで昼食をすませ、今度は東北新幹線に乗り継いだ。私が向かったのは当時の終点、盛岡であった。東北新幹線は高校時代の修学旅行で福島から大宮まで乗車して以来であった。この列車には座れたと思う。だから私はどっと眠りに入り、車窓風景などは皆目覚えていない。

夕方の盛岡を出発するL特急「たざわ」は、ほとんど盛岡到着の直後に出発した。車内には鉄道ファンの他に、多くの乗客がいて終点の秋田まで満員だった。まだ雪の残る北東北の山間部を静かに走りながら、国鉄最後の日は暮れていった。この時の同行の友人U君には、ほとんど狂気なほどに乗りまくる人であった。私なら小一時間を途中下車などして過ごす時間を、彼は数分の待ち時間でも次の列車に乗る。そして彼は何が楽しくてこういうことをしているのかわからなかった。付き合っていても楽しくない彼は、何も話さないか、話すとすればそれは列車のダイヤのことだけだった。

私はいよいよバカバカしくなってきたが、これが最後の日と決めていたから次の列車、青森からの夜行急行「津軽」に乗り込んで、ひたすら寝ることに決めた。途中日付が変わる直前の山形で、テレビの取材があった。おそらく夜のニュースでは中継されていたのかも知れない。

夜が明けると急行「津軽」は宇都宮を出て、埼玉県を大宮に向って進んでいた。昭和62年4月1日水曜日は曇りがちで、今にも雨が降り出しそうな日であった。私は大宮で通勤電車に乗り換えた。そして東京の電車のすべての車両に「JR」と書かれたシールが貼られているのを発見した。いやそれは東京だけでなく、全国の全ての列車に貼付されていたようだった。

大阪までの帰りは、もちろん東海道本線の普通列車だった。この区間はこれまでに何度乗ったか知れない。だが、私は国府津駅に着くと、その隣のホームに停まっていた御殿場線の列車に乗り込んだ。雨の中を御殿場線は静かに走り、山間の中に漂う霧に包まれて、ソメイヨシノがあえかな花びらをつけていた。列車が沼津に着いた後、どのように帰ったかは覚えていない。高校時代の鉄道好きの友人S君は、北海道からの帰省の途中、わざわざ二俣線に乗ったと自慢していた。だが私はもうそんな元気はなかった。2泊続けての夜行列車に疲れていたのだろう、早く大阪に帰りたかった。だから新幹線に乗ったのかも知れない。だがそのようなこともやはり覚えていない。

全部で数えると16回に及ぶ鉄道旅行のうち私が比較的よく覚えていたのは、結局旅行ができること、それ自体が楽しみだった最初の数年間の、つまりは私が高校生だった頃のいくつかである。擦り切れるくらいにページをめくった当時の時刻表を眺めると、いろいろなことが鮮明に蘇ってくる。だが、それは期間にしてたかだか2年ほどのことである。




2014年4月28日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第15回目(1987年3月)

北海道旅行から帰ると私の鉄道旅行熱は冷めてしまった。だからその後、どこに何度出かけたか、徐々に記憶が曖昧となっている。唯一、律儀にも集めていた「私の旅スタンプ」の順序が、その行程をたどる手がかりとなっている。そしてそれによれば、最終回の国鉄最後の日を迎える直前に、最後の鉄道旅行をしたことになる。だがどうもそのつながりが記憶にないのだ。

それは何と紀勢本線の各駅のスタンプであった。紀勢本線の旅は1983年7月にすでに実施済みのはずである。にもかかわらず、私はここの区間のスタンプを押している。つまり2度目の旅行に出かけた可能性が高い。もしかすると当時釣り客を乗せて走っていた天王寺発の深夜普通列車に乗ったのかも知れない。この列車は天王寺を23時頃出発し、当時は紀伊半島を新宮まで結んでいた。かつては「はやたま」という名の列車で、その運行区間は何と亀山まで(その前は名古屋!)である。しかも寝台車を連結し、臨時の列車も運行されていたから結構な需要があったのだろう。私も一度は乗ってみたいと思っていたが、その思いを果たしたかどうかあやふやなのだからいい加減なものである。

この列車に乗ったとすれば、朝のうちに三重県に入り、参宮線との分岐駅多岐駅には午前中に着いたはずである。伊勢神宮に参拝するための列車として、参宮線は存在しているが、その運行本数は並行して走る近鉄電車には及ばない。しかも終点の鳥羽駅は近鉄との共有である。鳥羽駅は伊勢湾の島々へ渡るフェリーの乗り場でもあり、また海女さんによるショーでも有名な真珠島などもある観光地だが、ここの駅は完全に近鉄の独壇場である。よく国鉄(JR)の駅の片隅に民営鉄道の駅が併設されているケース(例えば京成千葉とか)は多いが、鳥羽や松坂はその逆である。

伊勢神宮は最近でも観光客が後をたたないようだが、門前町が綺麗に整備されたのは最近のことである。それでも二見ヶ浦と合わせてここを訪れるのは、昭和の雰囲気が漂う。その参宮線を往復した私は、次に律儀も伊勢線という、津と四日市をショートカットする路線に乗車している。この列車は特急列車を通すためにできたような路線だと思ったが、その区間もやはり近鉄の地盤である。

おそらく四日市で引き返し、関西本線を経由して亀山へ戻った。このあたりは何度も来ているのでこの時の旅行は、参宮線と伊勢線のみが新しく、それ以外は、まるで国鉄の路線を惜しむかのように、別れを告げるような旅行となった。

「私の旅」のスタンプ帳も残り僅かとなっていた。スタンプを集めるために列車に乗っていたわけではなく、途中下車や停車時間の間にちまちまと押していたら、いつのまにか全国の駅のスタンプが揃っていた。そのノートは今でも所持しており、このブログの文章を書くきっかけとなった。順番に駅を追いかけて行くと、何度かの旅行に分かれること、そしてその時の様子が記憶に戻ってきた。同行した友人や旅行先で出会った人のことも思い出された。

関西本線を奈良まで乗る間中、私は全国を回って集めたスタンプを見いていた。列車はかなり空いていた。そうなったらいっそ出来る限り途中下車をして、最後までスタンプを押してやろう、などと思ったのだろう。奈良から湊町までの区間に、おそらく時刻表で知りうるほとんどの駅のスタンプを押したと思う。

終点の湊町は関西本線の始発駅である。大阪にも国鉄のおおきなターミナルがいくつかあって、大阪駅と天王寺駅、それにこの港町駅であった。特に湊町はれっきとした国鉄の櫛型のターミナルである。それはいまから思えば、錆びれた風情満点の駅舎で、どこかヨーロッパの場末の駅を彷彿とさせていた。かつては名古屋方面へ向かう蒸気機関車も発着し、ホームも何本もあったのだが、ここを発着する列車は当時でもすでに、近郊区間の各駅停車に限られていた。

地下鉄のなんばはここから近いが、離れていてわざわざ歩くような距離ではない。ところが関西空港ができるとここはJR難波駅として蘇っている。だが当時はそんなことを想像することもできなかった。私が今回乗車したのは、住んでいた大阪に近く、まだ乗車していない区間が中心で、その中に新今宮と湊町の区間も含まれていた。ここの湊町駅が、私の国鉄列車旅行の最後の終着駅となった。


2014年4月23日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第14回目(1986年9月)⑦

朝日を浴びて輝く青森港に青函連絡船が到着すると、私は久しぶりに内地の人となった。ここから大阪までの距離を帰らねばならない。奥羽本線のホーム止まっている列車に乗りこみ、秋田まではゆっくりと途中下車をしながら何本かの列車を乗り継いだ。すなわち弘前、大館、東能代といった駅で私は小休止したはずである。

北海道から青森に入ると、そこは紛れも無く本州の景観である。道路は狭く曲がりくねっている。民家は古く、寄り添うように立っている。北海道ではどの家にもあった石油タンクが見えない。津軽地方なら他の地域よりも希薄なはずの歴史的な因習の重みを、どういうわけか景色からも感じることができる。それは北海道の出身者に言わせれば「暗い」というものだ。私もそれがわかるような気がする。

秋田で私は高校時代の同級生に会うことができた。彼は私よりも1年早く大学生になり、秋田の大学に通っていた。今でも彼は東北に住んでいるが、たまに会うことがある友人である。そしてその当時から彼の勉学に対する取り組みはちょっとしたものだった。

彼のアパートで私は1泊させてもらった。彼は秋田の後進性と自分の通う学校のレベルの低さを嘆いた。彼は彼の友人の車で私を男鹿半島に連れて行ってくれた。展望台から見る夕陽はとても綺麗だった。八郎潟の巨大な水田が眼下に見下ろせた。猛スピードで走るその車は、彼の友人の運転で、その恐ろしいまでのスピードは地方都市に住むことの鬱屈した感情を示すものだった。夕食に立ち寄った学生向けの食堂で、超大盛りのライスとともに分厚いトンカツを食べた後は、彼のアパートで夜中まで語り合った。若者の時にしか味わえない、空虚で攻撃的な時間が過ぎていった。

一夜が開けると彼のアパートは郊外の畑の中に立つ小さな住宅の1階で、そこから駅まではのんびりと歩いていったように記憶している。大阪行きの特急「白鳥」に乗ったかどうか、私は記憶が定かではない。いや、私は羽越本線の区間を昼間に走った記憶が無い。かと言ってこの区間を走る夜行列車はすべて寝台車である。もしかしたら新潟まで出て、急行「きたぐに」に乗ったのかも知れない。いずれにせよ私は、羽越本線、北陸本線を経由して大阪へ戻った。9月の学校が始まる直前に、私はもとの実家に帰り着いた。

とうとう北海道旅行を最後に私の鉄道旅行も行き先を失ってしまった。鉄道がなくなったわけではない。鉄道旅行の魅力を失ってしまったのである。全国をくまなく走る国鉄の列車を、丸で時刻が正確であるかどうか確認するような、ただ乗るだけの旅行に私は物足りないものを感じていた。もともとはお金がなかったから、少ない予算でできるだけ多くの場所へ行くことのできるものとして始めたものだった。だが大学生になり、アルバイトをしてお金を貯めれば、もう少し大きな旅行ができる。それは鉄道という狭い世界に閉じ込められなくてもいいものだ。いや、日本という枠を取り除くことだって可能である。

大学生になって私は、世界中を旅してみたいと思うようになっていた。私が大学に入学した1986年はまさにその始まりに相応しい年だった。前年の「プラザ合意」によって通貨が切り上げられ、空前の円高となったのである。つまり海外旅行のコストが格段に下がった。「地球の歩き方」が次々と刊行され、バックパッカー・ブームが巻き起ころうとしていた。世の中はバブル経済へと突き進んでいたのである。

これとは対照的に、鉄道がたどる運命は悲惨なものだった。国鉄がJRに分割民営化されることが決まっていたからだ。それは半年後の1987年4月1日の予定だった。当時の中曽根政権は、大きな反対の中を国鉄民営化に突き進んだ。それ自体は正しい方向だったと言える。だが、ある時期私を魅了したローカル線の旅が、その魅力を急速に失いつつあった。世界の鉄道に興味もあった。けれどももともと鉄道である必要はなかった。私は、1987年の国鉄最後の日を迎えるにあたり、その「特別きっぷ」によって全国の列車を乗り回したのを最後に、鉄道に乗ることだけを目的とした旅行に終止符を打つことに決めた。

北海道から帰る途中、乗り残した多くのローカル線に未練はなかった。これらが近い将来廃線の憂き目に会うことは明白だったからだ。生きていない鉄道に、さほど魅力を感じない。いやそもそも誰も乗らない、地域の支持を失った鉄道に乗ることが、どれほど素敵な景観の中を走っていたとしても、何か空虚なものに思えてきたのだ。それは湧網線や深名線での経験で明らかだった。まるでそれらの路線も、雨の中を私が旅行したように、霧の中に静かに消えていくように思えた。列車が大阪駅に着くと、まだ9月初旬の太陽は容赦なく私に降り注いだ。私は大粒の汗をふき、セーターを脱いでプラットフォームに降り立った。



2014年4月22日火曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第14回目(1986年9月)⑥

北海道に来て6日目となった。ようやく薄い日が差してきたが、もう帰りにつかなければならない。札幌を出て夜中の青函連絡船に乗るために、一日かけて函館まで移動する。往きは函館本線経由だったので帰りは室蘭本線経由とすることにした。とは言っても札幌からはまず、千歳線で千歳空港まで行く。札幌と苫小牧の間は、より正確には白石と沼ノ端の間は、室蘭本線ではなく千歳線である。室蘭本線は苫小牧から追分を経て岩見沢へ北上するルートをとっている(他にも根室本線は起点が滝川であり、また函館本線は終点が旭川である。ややこしい)。

千歳空港駅は、今の空港地下の駅ではなく、ターミナルからかなり離れたところにあって、この間を長い歩道で結ばれていた。現在の南千歳駅である。私はこの歩道を歩いて空港のターミナルまで往復してみた。空港も今の大きな空港ではなく、これが北の玄関口かと思うほど小さかった。

札幌から苫小牧までは札幌の近郊区間という感じで、北海道の大動脈である。特に苫小牧は大きな港や石油基地などがあり、工業地帯を形成している。北海道は人の少ない田舎ばかりではないが、かと言ってその苫小牧でもウトナイ湖のように、実に自然の豊かなところがあって、向こうには樽前山や恵庭山などがそびえる。考えてみれば、このような北海道の重要観光スポットに出かけるには、その付近に滞在しバスを乗り継ぐなどして行かなければならない。鉄道だけの旅行で北海道を堪能したとは到底言えないのだが、かといって時間やお金のない身ではどうしようもない。この時の旅行はまたいずれ訪れるだろうという期待を持つための、いわばプロローグであった。



苫小牧を出て室蘭に向かう海岸沿いには、アイヌの集落などがある白老や、温泉で有名な登別などがある。登別温泉は我が国有数の大規模な温泉で、その規模は草津や別府などと並ぶ。後年登別温泉の旅館に泊まって、何種類もの源泉を楽しんだが、そういう楽しみは今回の旅行では一切なかったというのが本当のところである。

室蘭は製鉄所のある町で、出っ張った半島になったところに室蘭駅がある。だが多くの列車は東室蘭から別れて噴火湾回リ始める。私はわざわざ東室蘭から乗り換えて室蘭駅まで往復したのだが、かといって室蘭という町を観光したわけではないというのが淋しいところだ。地球岬というような景色に触れるのは、3年後の大学4年の時で、この時は今回行けなかったような観光地を全て回るべく、自動車で北海道を一周したのである。

同じことは伊達紋別、洞爺湖、支笏湖、昭和新山、あるいは羊蹄山といったこの地域一帯に言える。当時は胆振線という路線も走っていたが、わずか1か月後に廃止されてしまう。2011年、私はその胆振線の走ってた虻田郡一帯をドライブしたのだが、誰も住んでいないようなところによく列車が走っていたものだと関心した。ここから長万部までの区間は、意外にも山がちの険しいところであった。だが電化されたトンネルの多い区間を特急列車が走り抜け、あっという間に特急「ライラック」は大沼公園に到着した。列車はビジネス客で結構混んでいた。

大沼公園で途中下車したのは、深夜の連絡船まで十分に時間があったからである。駅前の貸自転車屋で自転車を借り、湖の周りを一周した。北海道は道東もいいが、道南もなかなかいいと思う。特に大沼周辺は、明らかに内地(と北海道の人は本州を指して言う)とは異なる景観を有している。ただその時も天気は曇っていて、あの雄大な駒ケ岳を望むことはできなかった。

あまりに天気が悪い今回の北海道旅行は、私を次の北海道旅行へと誘う結果となった。それは3年後の北海道一周ドライブ旅行において、ひとまずは果たせることになったが、後に私は北海道出身の人と結婚をしたから、北海道は第2の故郷というほどに何度も出かけている。だがその結果、北海道は今やあまりに身近にあって、かつて抱いていた美しいイメージの国ではなくなってしまっている。それでも千歳空港に降り立ち、あの乾いた涼しい空気に触れると、ストレスが吹き飛ぶような気がしてくる。妻は「空気の濃度が濃い」などと言う。

北海道で最も歴史を感じさせる町が函館である。その少し手前、五稜郭で列車を下り、しばらく駅舎でたたずんでいた。幕末、ヨーロッパ風の建築を模して造られたお城も、皮肉なことに佐幕派の最後の拠点となった。ここから江差までの区間は、一度ゆっくりと旅行がしてみたいと思っている。2016年には遂に青函トンネルを通って新幹線が東京と結ばれることが決まっている。そうなると函館の街も、これまでのような「届かずの街」(ある自主制作映画のタイトルで函館が舞台。ポルトガルのリスボンと似たイメージもある)とは様相を一変することだろう。


夜になって北海道旅行の最後に、函館山へ上ることにした。バスで頂上まで行き、ロープウェイで下りた。函館の夜景は、言われているように多くの夜景の中でも群を抜いて素晴らしいと思った。ゆっくりと暮れていく函館の町にあかりが灯ると、両サイドから狭められた海岸線に沿ってくっきりと浮かび上がった。ようやく天気が晴れてきた。乾いた秋の風が夜景を一層引き立てた。津軽海峡を超えて吹いて来る風は、一層夜景を、さりげなくも固有の美しいものにしているように思えた。





2014年4月21日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第14回目(1986年9月)⑤

急行「大雪5号」網走行きは、今では懐かしい寝台車を連結した急行列車だった。周遊券を持つ私はもちろん自由席の座席車で、この日は立つ人もいるくらいの混雑だった。ある女性はウィーンからの帰りだと行って私の前の席に座った。農業関連の交流でオーストリアに行った帰りであるという。成田空港から千歳に帰り、札幌に出て夜行に乗り込んだ。当時はまだこのような旅行者がいた。本格的な車社会が到来するのは、丁度この後、バブルの頃であると思う。

連日の早朝の遠軽駅は、やはり雨で寒かった。この日はふたたび中湧別に向かい、そこから湧網線を経て網走に向かう直通列車に乗った。この列車も混んでいた。そして外は雨か霧である。オホーツクの海は見えないか、見えたとしても白く、寒々としていた。網走に着いても天気は変わらない。仕方がないから今度は特急列車「おおとり」に乗って北見を通り、再び旭川を目指したのである。

特急「おおとり」は函館行きで、今ではもうなくなった食堂車を連結していた。流れるように走る特急列車はすこぶる快適で、私はずっと眠っており、辛うじて北見の郊外の風景を覚えているだけである。

再び旭川。私の目的地は富良野線であった。富良野線はその後「北の国から」などの舞台で有名になった富良野町を通る風光明媚な路線で、遠くに大雪山を見ながらラベンダー畑などを通る北海道らしい風景に出会える。鉄道を写した写真の多くに登場する。私は途中の美瑛で途中下車した。アジア風の観光客が切符売り場で切符を買おうとしていた。このようなところにも外国人が旅行するのかと思った。

富良野に着いた時には、けれども雨が本降りとなってきた。この雨はもう3日も続いている。そしてこの先どうしようかと思っていた私は、帯広方面へ向かう列車に乗り、新得駅で折り返すというマニアックなことを思いついた。大雨の中を列車は走り、掘っ立て小屋のような新得駅に着いた。夜になって雨はいよいよひどくなり、駅では列車を待つ人が遅れてくる特急を待っていた。ひとりの所在なさそうな男が話しかけてきた。この人はもう何年も北海道をうろついている、というような風貌で北海道の魅力とは何かと語ろうとした。意見を求めるので私も「北海道の人は北海道を愛している人が多いと思う」などと答えると、彼は妙に頷いた。

しばらくして特急「おおぞら」札幌行きが到着し、私は辛うじて空いていた自由席に座った。私の隣にはスーツを来た老人が座っていた。札幌に着くまでの2時間余を、この人は何箱ものタバコを吸って過ごした。チェーンスモーカーだったのである。私は気分が悪くなったが、席を移動するわけにもいかず頭痛に耐えた。私は今回も、特急列車より普通列車の方が乗りやすいなどと思った。

北海道旅行の思い出は、時々出会う風変わりな人々と、そして降り続いた雨だけである。札幌の眩しいネオンの中をビジネスホテルに投宿したのは深夜近くになってからである。明日はいよいよ大阪へ向けて出発する。けれども大阪へ帰り着くのは、秋田での友人宅に寄る日を含め、4日後のことである。

2014年4月20日日曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第14回目(1986年9月)④

丸一日をかけて根室を往復した私は、深夜急行で札幌に帰り着いた。次の目的地は網走方面だった。函館本線下りの特急列車「オホーツク1号」だったかに乗り込んだ。空いた車内で眠り込んでいる間に列車は石狩平野を快走し、旭川を過ぎて石北本線に入った。天気は曇りで今にも雨が降り出しそうだった。午後は雨になると予報が出ていた。私はとっさに上川で下車した。

鉄道旅行とは言ってもずっと列車に乗っているのもつまらないので、下車して観光しようと思ったのだった。行き先は層雲峡だった。駅前からバスに乗り、川沿いの渓谷を走ること30分程度でロープウェイ乗り場に到着した。ここから黒岳の山頂まで上る。やさしい山登りは夜行明けの体にも心地よい気分をもたらしたが、視界が悪くしかも寒い。結局そのまま引き返し、今度は自転車を借りて層雲峡をサイクリングした。途中に何人かの旅行者と知り合い、一緒に写真をとったりしたが、とうとう雨が降りだした。私は仕方なく上川駅に引き返し、特急列車に乗って旭川へ引き返した。

旭川で1拍しようとホテルを探したが、宿泊費は私にとって大きすぎる出費だった。それよりも夜行列車に乗れば、移動しながら宿泊費を浮かすことができるのは2年前の九州旅行でも体験済みだった。当時の北海道にはまだまだ多くの夜行列車が走っていた。私は深夜に出発する急行「大雪」に乗りこみ、遠軽を目指した。さっき通った石北本線を再び下り、列車は4時過ぎに遠軽駅に到着した。外は大雨で、狭い待合室は大勢の乗り換え客で満員だった。オホーツク海に近いためかかなり寒い。

私は名寄本線の一番列車に乗ることにした。ここから2日間は、今はなきローカル線の旅となった。名寄本線は「本線」と名前が付いているにもかかわらず、1989年に廃止されている。JRになって真っ先に廃止されたことになる。もとより雨がひどく、しかも朝の列車は通学客などで結構混雑していた。途中「沼の上」という駅にとまった。この駅はその名の通り沼の上にでも作ったかのような駅で、ホームは草で覆われ、降りる人もなく、おおよそ駅という体をなしていない。私はあきれるほどに荒廃した駅の写真を撮り、北海道のローカル線が廃線の憂き目にあることを実感した。ひたすら森林地帯を走るだけの退屈な路線だった。古びた名寄駅に着いたのは、まだ朝の8時頃だった。

朝8時29分に深名線の1番列車が走る。これを逃すと次の列車は14時21分となり、これにうまく接続する名寄本線の列車はない。そこで私はこの列車に乗り、途中の朱鞠内で深川行きに乗り換えた。ここの路線はものすごい人口過疎地であり、しかも豪雪地帯である。滅多にしか走らない列車も通過してしまう駅があったりする。大雨の中を深川に着いたのは(古い時刻表を見る限り)お昼頃だったようだ。

その後どうしたかは覚えていない。私の想像では函館本線を岩見沢まで戻り、もしかしたらさらに札幌にまで戻った。その理由は再び急行「大雪」に乗るためである。次の目的地は湧網線である。つまり私は2日連続で早朝の遠軽に降り立ったことになる。今から思えば北を目指し、稚内に行っておけば良かったと思う。だがおそらくいい列車のプランを組めなかったのだろう。それよりも真冬には流氷を見ながら走る湧網線に乗ってみたいと思ったようだ。だが外は相変わらず雨が降り続いていた。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...