2013年1月31日木曜日

ベルリオーズ:歌劇「トロイアの人々」(The MET Live in HD 2012-2013)

フランスの革命的な作曲家ベルリオーズが、その後半の人生において全勢力を傾けたオペラ「トロイアの人々」は、上演時間が4時間を超える超大作で、生前に通して演奏されることもなかったほどだ。フランスにおいて原語で通しで上演されたのは、わずか二十数年前と言われるし、全曲を我が国で上演されたこともない。そういう作品だから、たとえビデオとは言え、集中して見る機会など滅多にあるものではない。

今シーズンのMET Live in HDシリーズにおける話題作の一つが、10年ぶりに上演されるこの作品であった。しかし上演時間が長いので始まるのは午後5時である。週末は家族と過ごす必要が有るため、この作品を見るためには会社を休まなければならない。勿論、その価値は十分にある。しかし見たこともない作品を、本当に楽しめるのだろうか。そして果たして出来栄えはいいのだろうか。不安が拭えない。風邪は何とか治ったものの、集中力を維持するにはどうしたらよいか。始まるまでは少し気が重かったことは告白しておかねばならない。

昼からは会社を休み、映画館近くのカフェであらすじくらいは頭に入れておこうと「予習」をした。歌もストーリーも何も知らない作品である上に、登場人物も多い。最初にわからなくなると、後半がつらいだろうと思った。

劇は第1部(第1幕と第2幕)と第2部(第3幕から第5幕)に分かれる。第1部はギリシャが撤退したトロイアが舞台である。預言者のカサンドラ(デボラ・ボイト)がトロイアの悲劇を予言するが、誰も信じようとしない。ところがこの予言が的中し、ギリシャ人がトロイアを滅ぼしてしまう。世界史で習ったトロイア戦争である。ここにトロイの木馬が登場する。舞台でもそれは出場し、そしてその中から隠れていたギリシャ兵が出てきて、トロイアを滅ぼしてしまうのだ。結局、最後にアエネアス(ブライアン・イーメル)と兵士たちは財宝を持って逃れ、カサンドラを始めとする女達は集団自殺してしまう(第2幕)。

アエネアスがたどり着いたのは、北アフリカのカルタゴ(現在のチュニジア)であった。ここには未亡人となった王女ディドー(スーザン・グラハム)がいて、やがてこの二人は愛しあい結婚をしてしまう。第3幕と第4幕は、第1部とは一転してオペラの醍醐味が味わえるロマンチックなストーリーである。しかしアエネアスは神々の預言を聞き、やむなく王女を振り切ってイタリアへと向かう。裏切られたディドーは山中で自決する(第5幕)。アエネアスはその後ローマ帝国を建国したとされている。

これは伝説であるが、この話を書いたのは紀元前後の古代ローマ最大の詩人ウェルギリウスで、その一大叙事詩に基づくオペラがこの「トロイアの人々」というわけである。ベルリオーズは自ら台本を書き、それに音楽を付けた。劇音楽に対するこだわりと壮大なスケールは、ワーグナーに引き継がれた要素を多分に持っている。

管楽器の印象的なメロディーで幕が開くと合唱となる。しばらくしてカサンドラが登場するのだが、ここで早くも私は睡魔に襲われてしまった。ストーリーが頭に入っているので安心してうとうとしていると、30分が経過してしまった。その間、賑やかな歌と合唱がずっと続いていたように思う。このオペラはベルリオーズらしく、独特の雰囲気を持っており、しかも合唱が非常に多い。

大きな木馬が広いメトの舞台に出てくるあたりで頭は冴えてきたが、第1部については何となく雑然とした感じでそれほど楽しめなかった。だが興奮に満ちたインタービューを挟んで上演された第3幕以降の第2部は、全編息を付く暇もないほどの出来栄えで、こういうオペラもあるのかと、私は深い感動に見舞われた。

特に第3幕と第4幕はバレエが次から次へと登場する。大工、水夫、それに農民。バレエ好きの人には好まれよう。 吟遊詩人もいる。登場人物が多すぎて書ききれない。主要な歌手だけで9人もいるので、プログラムのコピーを掲載しておく。100人を超える合唱団、少年合唱団、それにバレエ。オーケストラも多彩な楽器があるときは舞台裏からも聞こえてくる。

第4幕は全体の中でも聞きどころが多い。五重唱や七重唱もあって、イタリア・オペラのそれとは少し異なるが、ビデオで見るとカメラワークの良さもあり聞き応えがある。もっとも素晴らしかったのは「恍惚の夜よ!」と歌う情熱的な二重唱だろう。この部分はほとんどうっとりと聞き惚れてしまう。ベルリオーズの書いた最も美しい音楽ではないだろうか。テノールのイーメルは若干33歳のアメリカ人だが、彼は10日前にピンチヒッターで急遽招聘され、センセーショナルなデビューを果たしたばかりという。ベテランで美貌のスーザン・グラハムと相性抜群の見事な二重唱を聞かせた。

休憩をはさんで第5幕は、一転ストーリーが悲劇へと向かう。そのドラマチックな展開は、迫り来る音楽の躍動と、重唱を終えて調子の乗った歌手たちが、迫真の演技を披露した。アエネアスの別れのアリアに始まり、ディドの自決のシーンまでは、一気に聴かせるので私はほとんど硬直状態だった。合唱も尻上がりに見事である。

それには指揮のファビオ・ルイージによる貢献が大きいと思われる。全体に亘って弛緩することなく、集中力を絶やさなかったばかりか、音楽の自然な流れを形作って大変素晴らしかった。ストーリーが考えられているせいか、話に唐突な感じがない。そして音楽も。これだけ長い曲を一気に演奏するのは並大抵のことではないと思う。女性演出家のザンペッロは、舞台の見事さに加えて歌手の動作にも配慮がうかがわれ、上演機会の少ない作品ながら見応え十分であった。

幕間のインタビューは次作のヒロインを務める予定のディドナートだったが、興に乗った会話は久しぶりにオペラの醍醐味を余すところなく伝え、5時間17分にも及んだ上演を長く感じさせることはなかった。チケット代5000円の初体験オペラはそれだけで、大冒険であった。だがそれだけの見応えのある舞台に興奮した、平均年令60歳程度と思われる観客も、興奮した足取りで夜の銀座に消えていった。

2013年1月29日火曜日

ワーグナー:管弦楽曲集(ヤコフ・クライツベルク指揮オランダ・フィルハーモニー管弦楽団)

マゼールによるワーグナーの演奏のCDから10年近くが経って、私が次に手にしたのがヤコフ・クライツベルクによる演奏である。これは2011年の東日本大震災の後、最初に買ったCDであった。正確にはこれはSACDで、録音がいいのなら重複する曲でも買って楽しもうかと思った。その時の文章を転記する。

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3月11日の大震災でしばらく音楽から遠ざかっていたのだが、先般新宿のタワーレコードを覘いたところ、何とヤコフ・クライツベルクが死亡したことを知った。この指揮者はまだ若手だったが、私はどういうわけか好きになり、実演こそ聞いたことがなかったが、何枚かのCDを持っている。

ウィーン交響楽団を指揮したウィンナ・ワルツ集は隠れた名盤だし、まだ売り出し中だったユリア・フィッシャーとのモーツァルトは、しっかりとした伴奏がとても合っていて、私は大変気に入っている。これらの録音は、オランダのPentaToneレーベルから発売されていたので、当然ながらすべてがSACDハイブリッドである。やや高価だが、間違いなくいい録音であることから、私は最近このレーベルの新譜はいつも気にしている。

それにしてもまだ51歳だった指揮者が急逝するというのは何ともショッキングな出来事だった。日本で東日本大震災のニュースばかりに気をとられていたが、昨年より急に体調を壊し、3月15日モンテカルロで帰らぬ人となったようだ。

私は何か追悼のためのディスクが欲しくなり、そしていろいろ考えた挙句、2006年に録音されたオランダ・フィルハーモニー管弦楽団とのワーグナーの序曲 集を買い求めた。今、最後の曲である楽劇「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」が静かに終わるところである。抑制がきいた中にも十分な感情の流れが感じ取れる名演奏で、オランダ・フィルの音作りも丁寧、しかも良く鳴っている。

ロシア生まれのこの指揮者の兄はビシュコフであることも最近知ったが、クライツベルクは堅実で真面目な指揮者だったと思われる。彼の音楽を聞けば、音楽そのものの良さを引き出すことが得意で、ゆったりと音楽を楽しむことができる。楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲は、冒頭であっと 言わせる演奏も多いが、この曲はまだ前奏曲なので、その後に5時間も続く音楽のほんの最初に過ぎない。そこにはこれから始まる音楽への期待が高らかに宣言されていく様子こそ、本来のこの曲の魅力であるように思う。だから音楽が十全に鳴り響く中で、徐々にその嬉しさがこみあげてゆくのが楽しい。けれどだからと言って、最初が物足りないわけでは毛頭ない。
楽劇「ローエングリン」の第3幕への前奏曲も、決して煽らない音楽が好感されよう。純音楽的、ということか。そのために、滔々と流れる管弦楽が高らかにワーグナーを表現している姿は、健康的で節度をわきまえている。

SACDの録音は音楽量が違う。私はもう最近はほとんどハイブリッド盤しか買わなくなってしまったが、メジャーレーベルがSACDを出さないために、購入量が減ってしまったのが残念である。おそらく同じ思いのファンも多いのではないかと思う。オランダ・フィルも、SACDの録音が伝える重厚感を十分に持ち合わせているように思える。指揮者がいいからだろうか。つまりこのSACDは、指揮、オーケストラ、録音、それに曲目の4拍子が揃った名盤であると言え る。

ワーグナーの管弦楽曲集は世の中に数多あるが、まあどれを聞いても曲の魅力が伝わってくるという点で、やはり素敵な曲なのだろうと思う。その魅力を、最高の演奏と音質で聴くことのできるディスクが、何年かぶりにまた登場した、ということだろう。だが、クライツベルクの本番での演奏は、とうとう聴くことができなくなってしまった。残念である。


【収録曲】

1.歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
2.歌劇「リエンツィ」序曲
3.歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
4.歌劇「タンホイザー」序曲
5.歌劇「ローエングリン」より第3幕への前奏曲
6.楽劇「トリスタンとイゾルテ」より「前奏曲」と「愛の死」

(2011年6月17日)

2013年1月28日月曜日

ワーグナー:管弦楽曲集(ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

私にとって「ジークフリート牧歌」は最も心が安らぐ音楽である。眠りにつく前のひとときを、一人静かに聞くのがいい。スイスの静かな湖畔の家に、ワーグナーは住んでいた。楽劇「ジークフリート」の中に出てくる音楽が、それとなく使われている。ワーグナーはこの曲を妻のコジマに捧げた。だがそういうことはともかく、この曲ほど「癒やし」の音楽はないと思う。

マゼールはこの曲を天下のベルリン・フィルを使って、十分に大きな曲のように演奏している。けれども大袈裟すぎず、かといって冷めた演奏でもない。ツボを押さえたアーティスティックな演奏で、もしかすると自然な感じではないかも知れない。だが私はこの演奏が大好きである。それにしてもベルリン・フィルは物凄く上手い。ホルンやクラリネットの独奏部分など、ほれぼれとして聴きほれてしまう。

このCDは見つけた時に衝動買いをした記憶がある。1000円もしなかったのに結構新しい録音で、このようなCDがあったのか、と思った。私はマゼールの実演を何度か聞いているが、どれも素晴らしい演奏で感動的であった。一度も裏切られたことがない。それなので、このCDがいい演奏でないはずはないと思った。その通りだった。

冒頭の歌劇「リエンツィ」序曲は、誇大妄想の作曲家が最初に作った大袈裟な序曲で、序曲だけが有名である。この曲を綺麗に聴かせるマゼールはさすがだと思う。都会的な味わいがある。一方、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲は、どの演奏で聞いてもそこそこ聞き応えがあるが、このコンビで聞くと何とも素晴らしい音のドラマが展開されている。作為的でないような感じながら、結構計算されているのはマゼール風。明るく伸びやかなので、不自然な感じがしないのがいい。

楽劇「ジークフリート」より「ジークフリートのラインへの旅」は壮大な音の旅で、魔法にかかったように引き込まれて行く。オーセンティックな演奏ではないかもしれないが、これはこれで納得できる。録音もすこぶる良い。それにしてもベルリン・フィルは上手い。

10年程度の間隔で、同じ曲の異なった演奏を揃えておきたくなる。カラヤンやレヴァインの後、10年ほど経って私のコレクションに追加されたのは、1999年に録音されたこのCDであった。 この演奏なら、大音量のワーグナーが長く続いても、もたれることはない。いろいろな意味で、大変充実したプロフェッショナルな演奏だと感心する。


【収録曲】

1. 歌劇「リエンツィ」序曲
2. 歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲
3. 「ファウスト」序曲
4. 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
5. ジークフリート牧歌
6. 楽劇「神々の黄昏」より「ジークフリートのラインへの旅」

2013年1月25日金曜日

マーラー:さすらう若人の歌(Ms:クリスタ・ルートヴィヒ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

マーラーの交響曲第1番に関して触れておかなければならないことのひとつは、その音楽に並行して作曲された歌曲「さすらう若人の歌」のメロディーが取り入れられていることである。第1楽章と第3楽章に、それらはあらわれる。交響曲に歌曲のメロディーが転用されている、といわれることがあるがこれは必ずしも正確ではないようだ。両者は並行して作曲されている。

よく知られているようにこの歌には、ピアノ伴奏で歌われる版と、管弦楽を伴奏として歌われる版がある。そして後者においては、男声歌手の場合と女声歌手によるものに分類される。私が持っているCDのひとつは、ウィーンゆかりの歌手クリスタ・ルートヴィヒによるもので、伴奏はカール・ベーム指揮のウィーン・フィルである。カール・ベームによるマーラーというのは大変珍しく、このCDもザルツブルク音楽祭の放送録音である(1969年)。演奏について先に記すと、この録音は不完全なステレオながら安定した歌声が、レトロな雰囲気の伴奏に乗って前に出てくる感じが何ともうるわしい。

「さすらう若人の歌」(Lieder eines fahrenden Gesellen )は4つの部分から成る15分程度の曲である。マーラー自身の失恋が影響しているといわれるその歌詞は、穏やかに始まるかと思えば、エキセントリックに叫び、最後は悟るかのような雰囲気で終わる。昇華というようりはモヤモヤもがく苦しみの中に、何か光を見出そうとするかのような、とはいえそれが結局は解決しない、というような全体に暗い雰囲気である。つまりマーラーらしさというのは、このような最初の段階から確立し、一貫しているようにも思える。
  1. 恋人の婚礼の時 (Wenn mein Schatz Hochzeit macht)
  2. 朝の野を歩けば (Ging heut' morgens übers Feld)
  3. 僕の胸の中には燃える剣が (Ich hab' ein glühend Messer)
  4. 恋人の青い目 (Die zwei blauen Augen)
第1曲の始めから、自分の苦しみはどうあがいても消し去れないことを語る。「ああ、、この世って、なんて美しいのだ」と、歌ったところで、周りの世界が輝けば輝くほど、自分の苦しみは増幅される。

これに対して自然の素晴らしさは喩えようもない。光が降り注ぎ、小鳥がさえずる。マーラーの心を落ち着かせるのは、このような自然との対話であった。「巨人」の第1楽章はここのメロディーである。私は歌が付くここのメロディーがやはり好きである。

マーラーを苦しめたのは、直接的には失恋だっただろう。だがこの歌はそれを超えて訴えかける。この世のあらゆる苦しみについて、決して消し去ることのできない苦しみについて・・・聞く人それぞれの人生で持つことが避けられない苦悩・・・いわば普遍的な苦しみとして、この歌を理解しようとするだろう。だからこそ、これは若い人の歌であると同時に、この世に生きる人すべてに共通する歌だと思う。

永遠の苦しみは決して消し去ることなどできない。できるのはただ心を落ち着かせることだけだ。

  街道のそばに、一本の菩提樹がそびえている。
  その蔭で、はじめて安らかに眠ることができた。
  菩提樹の下、
  花びらが私の上に雪のように降り注いだ。
  人生がどうなるかなんて知りもしないが、
  全て・・・ああ・・・全てが、また、素晴らしくなった。
  全て!全てが、恋も、苦しみも、
  現(うつつ)も、夢も!

2013年1月24日木曜日

ワーグナー:管弦楽曲集(ジェームズ・レヴァイン指揮METオーケストラ)

ワーグナーが27歳のころに作曲した初期の大作、歌劇「リエンツィ」の序曲は、ワーグナーとヴェルディを足して二で割ったような曲だと、初めて聞いた時に思った。あのワーグナーらしいドイツ・ロマン風音楽と、イタリア・オペラのような明快なリズムの部分が交互にやってくる。不思議な魅力だ。当時のワーグナーは、マイヤベーアをはじめとするフランスのグランド・オペラに傾倒していたことからもわかるように、 その傾向が強いというのが正しい評価かもしれないけれど。

その「リエンツィ」序曲には、ドイツ風の演奏とイタリア風の演奏があるように思う。初めてこの曲が素晴らしく聞こえたのは、後者の方だった。レヴァインがMETオーケストラを指揮して録音したCDである。録音の面においても、このCDはかなりいい。何と言っても聞いていてわくわくするようなところが、この演奏(CD)にはある。丁度絶好調だった頃のレヴァインの面目躍如といったところだろうか。

アメリカのオーケストラのCDを集めようとした時期があった。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場管弦楽団は、私のコレクションの目的のひとつとなった。このオーケストラはもっぱらオペラの演奏団体だったが、丁度その頃に単独で管弦楽曲を録音するようになった。そしてメトロポリタン・オペラが来日した1993年6月、レヴァイン指揮によるオーケストラ・コンサートが催された。サントリー・ホールに出かけて聞いたのは、「展覧会の絵」と「春の祭典」という豪華プログラムで、しかもアンコールが3曲もあった。D席からは客席も良く見え、そこにパヴァロッティもいた。

それに相前後してCDがリリースされた。記憶では「エロイカ」とこのワーグナーの管弦楽曲集が第1弾だった。CDはその後出なくなったが、私は1995年にニューヨークでマーラーの交響曲第6番などの演奏会を聞いている。どれも素晴らしい演奏で、充実した迫力と技量は、まさにカロリーの高いニューヨークのステーキのようにパワフルだった。

このワーグナーを聞くと、その頃の思い出が蘇ってくる。レヴァインの指揮するメトロポリタン歌劇場の演奏には何度も足を運んだ。そのひとつがワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だった。長大なこの作品は18時に始まった(通常は20時である)。私は会社を早々に抜けだして、このオペラに出掛けた。しかし私は連日夜遅くまで働いていたので、睡魔に襲われるのは明白だった。

このCDにはその「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲も入っている。東京でのコンサートのアンコール最終曲も、この曲だった。他にも名演の多い曲だが、ここで聞く演奏はやや粗っぽいものの、旋律を明快に歌わせてしかも迫力があり、何か大変新鮮である。この曲と、めるで別の曲ように聞こえる「リエンツィ」序曲が、特に名演だと思う。


【収録曲】
1.ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲
2.ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲~バッカナール(パリ版)
3.ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
4.ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲
5.ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲


2013年1月21日月曜日

ヴェルディ:序曲・前奏曲ほか(アルトゥーロトスカニーニ指揮NBC交響楽団)

モノラル録音しか残されていない演奏のうち、もしステレオの良い録音で聞けるとすれば何が聞きたいかひとつ挙げよ、と言われたとしたら、私はトスカニーニの演奏をと答えるだろう。トスカニーニの演奏を聞くと、これが本番ではどのような音で鳴っていたかを想像しないことはない。勿論私は実演でトスカニーニを聞いたことがないので、トスカニーニの演奏はいつもノイズとセットになっている。ノイズのないトスカニーニというのが考えられない。デジタル技術を駆使して、かつての古い録音が優秀なステレオ・デジタル録音に変換することができるようにならないものだろうか。

そのトスカニーニの名演奏のいくつかは、いまだに他の録音を圧倒して断トツの素晴らしさだと言われているものがいくつも存在する。思いつくままに挙げると、レスピーギの「ローマ三部作」、ムソルグスキー(ラヴェル編)の「展覧会の絵」、あるいはメンデルスゾーンの「イタリア」交響曲などであろうか。だが勿論、いくつかのイタリアのオペラ演奏を省くわけにはいかない。

イタリアのオペラ録音のうち全曲演奏のものも数多いが、序曲集もいい。ロッシーニやヴェルディの序曲や前奏曲は、トスカニーニでないと表現されていない雰囲気というのがあると思う。それで私もトスカニーニの「イタリア・オペラの音楽集」を買って持っているのだが、それはまた何とも素敵なCDである(付け足せばワーグナーの音楽集もいい)。

ヴェルディの音楽をトスカニーニで聞きたくてこのCDを買ったが、ほぼ作曲年代順にモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲から始まる。そしてこれが見事にいい。モーツァルト最高のオペラの醍醐味が、序曲をわずか数分聞くだけでわかるような気がする。

ドニゼッティやロッシーニの音楽も入っているが、何と言ってもヴェルディのオペラからの数曲は圧巻である。「シチリア島の夕べの祈り」序曲と「運命の力」序曲は、そのような中でも欠くことのできないものだ。前者は少し録音が古いが、後者は迫力満点である。グイグイと聞き手を引きずって行くパワーに圧倒されるが、ではただパワフルなだけの演奏か、と言えばそうではない(ちょっと偏見だがムーティには若干そのようなところがある)。

例えば「椿姫」の前奏曲は静かに始まるが、そのような時でもカンタービレの緊張感は物凄い。特に第3幕の前奏曲は、弦楽器の震えるような微音とピチカートがノイズとともに重なると、哀れなヴィオレッタの涙までもが流れてきそうだ。とにかく「運命の力」序曲を聞くだけでも価値がある(今ならYouYubeを検索すると映像が見つかる)。

できればオーディオ装置の音量を上げて、ノイズをかき消すように聞いてみたい。だが、それができなくても・・・寒い町を散歩しながらイヤホンでこのCDを聞いていると、身が引き締まる。iPodが丸でカイロのように熱を発しているようで、心の中まで熱くなってくる。

【収録曲】
1.モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲
2.ドニゼッティ:歌劇「ドン・パスクァーレ」序曲
3.ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」~6人の踊り
4.カタラーニ:歌劇「ワリー」~第4幕への前奏曲
5.カタラーニ:歌劇「ローレライ」~水の精の踊り
6.プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」~間奏曲
7.ヴェルディ:歌劇「ルイザー・ミラー」序曲
8.ヴェルディ:歌劇「椿姫」~第1幕への前奏曲
9.ヴェルディ:歌劇「椿姫」~第3幕への前奏曲
10.ヴェルディ:歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲
11.ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
12.ヴェルディ:歌劇「オテロ」~バレエ音楽

2013年1月20日日曜日

マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」(ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

いくぶん寒さの和らいだ日曜の午後、ふとしたことから何十年ぶりかに昔の日記を読み返してみた。日記とはいうものの二十歳そこそこの頃は、ごくたまにしか書いていなかった。その中で1988年1月6日の朝には、前日の友人たちとの飲み会でほとんど記憶を失ったことが書かれている。早朝に目が覚め、心の中にずっと居座り続けていた苦悩・・・それは青春の苦悩と呼ぶべきもので、いつ晴れるともわからない焦燥と不安・・・が少しは晴れてきたかのようなことが書かれている。

失恋や挫折といったありふれた若者の気持ちが、そこには書かれていた。当人は深刻だったが、今から思えば何のことはない、ひとつの「さすらう若人の歌」である。大学2年生だった私は、酔いの抜け切れないまま早朝に家を飛び出し、寒い冬の街をさまよっていた。

「朝だ。朝が来た。待っていた朝が来た。布団を抜け出し、ジャンパーを着て外に飛び出した。明るい日差しが透明に光り、眩いばかりだ。小高い丘に登る。遠くに大阪平野を取り巻く山々が見え、その下に朝日に照らされた静かな郊外の家並みが続く。平和で美しい光景だと思った。」

今から思えば恥ずかしい文章も、当時にしか書けない感性があるのは事実である。

「歩き出す。街の中へ。オートバイが通る。車が走っていく。街は動き出している。こうはしていられない。身を引き締めて木立の中を一歩一歩踏みしめながら歩いてゆこう。・・・この世の中で自分の生きる道を探さねばならない。だがあの暗い闇の中でさまよい、苦しむことは、もうない。そう信じたい。これからは大変だ。忘れてきたものが沢山ある。やらねばならないことも沢山ある。」

「再び静かな住宅街の中を歩いている。少し坂を登った所で後を振り返ってみると、そこにも大きな風景が広がった。美しい。その時心の中には、あのマーラーの『巨人』のメロディーが鳴り響いていた。」

マーラーの交響曲第1番「巨人」。これは私の青春の音楽のひとつである。何故この時マーラーが思い浮かんだのかよくわからない。私はそれほどこの音楽家の作品を聞いてはいなかったし、レコードも持っていなかった。作品のいきさつも、伝記も、何もほとんど知らなかった。確かにバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した演奏をカセットに入れてはいたし、この曲が若きマーラーが壮大な交響曲への挑戦を開始する最初の曲であることくらいは知っていた。私は何か、とても象徴的な意味を感じ、少し自分にいい格好をして書いたのかも知れない。だがその感覚はあまり的外れではなかった。

とにかくこの文章を書いてからというもの、私の心の中にマーラーの音楽に対する思いが芽生えた(そういうことがあるから、日記というのは書くに値するものだ)。上記のバーンスタイン盤は、しかし私をあまり満足させなかった。エアチェックの録音が悪かったからかも知れない。できれば新しい演奏に出会いたいと思った。そこに登場したのが、ベルナルト・ハイティンクによる新盤である。演奏は長年手兵だったコンセルへボウではなく何とベルリン・フィルだった。これはきっといい演奏だろうと思った。私が月一枚のペースでCDを買い始めるに当たり、その最初に選んだのがこのCDである。まだLPも売られていた時期だから一枚3500円はした。輸入盤を探せば2500円程度だった。アルバイトの帰り道、私はこの新譜を買い求め、そして聴いてみた。録音は1987年である。

冒頭の弦楽器のピアニッシモの瞬間から、ゾクゾクするような感覚に見舞われた。無駄のない緊張感に満ち、何と透明な音だろうと思った。やがてカッコウの鳴く音がすると、それが次第にふくらんで、そろっと、だが確実にあの主題のメロディーが流れだす。この演奏だと思った。私は嬉しくなり、何度も聞いた。第2楽章の生き生きしたリズム感がまたいい。ベルリン・フィルの木管は物凄く上手いと思った。コントラバスのメロディーが静かに歌い出す第3楽章になっても、ハイティンクの確かな構想力が、この音楽に大人の感覚を与えている。

第4楽章が決然として始まるところからの迫力が、この演奏が一定の距離を置いた、少し冷めた演奏ではないことを明確に示している。ほとんど完璧なバランスながら、実に熱のこもった演奏である。ベルリン・フィルが燃えている。この演奏のあとに、第2番「復活」、第5番、第6番「悲劇的」などが続いたが、全集になることはなかったのが悔やまれて仕方がない。

「巨人」は素晴らしい音楽で、実演で聞くと外すことがまずない。だがCDとなると必ずしも名演奏とは限らない。私も世間で評判の演奏・・・シノーポリ、アバド、ショルティなども聴いてみたが、この演奏を超えることはなかった。録音を含めた完成度の高さは、ちょっと信じられないと確信している。だが、この演奏をそれほど高く評価しない人も多い。私の場合、上記のような特別な思い出があることは事実である。それでも未だにこの演奏が好きである。そして他の演奏を持ってはいない。

マーラーの交響曲に、結局は行き着くのではないかと思う。そこでこれから時間をかけて、このベートーヴェン以来の大作曲家が記した足跡を、自分なりにたどってみたいと思う。その最初のページに、どうしても記しておきたかったことを、今日やっと記し終えることができた。バックで流れていた演奏も、丁度さきほど終ったところである。

2013年1月16日水曜日

ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲、ジークフリート牧歌、楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死(S:ジェシー・ノーマン、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

こういう言い方が適切か知らないが、ヴェルディをオペラ作曲家における東の横綱だとすれば、ワーグナーは西の横綱である。アルプス山脈を挟んでイタリアとドイツの巨人が、共に同じ年に生まれたのは偶然とはいえ、何か象徴的な感じがする。それどころかこのふたりは、その作風において共に影響しあうこととなった。丁度200年前ということは1813年のことで、まだベートーヴェンが43歳だったということになるから19世紀の音楽の発展には驚く。

ヴェルディの合唱曲集を聞いた翌日にワーグナーの音楽も聞いてみたくなり、ラックより取り出したのは1987年にライヴ録音されたCDであった。当時、まだ大学生だった私はアルバイトで貯めたお金から毎月1枚のペースでCD購入費に充てることを決め、その選定作業を楽しんでいた。廉価版やCDとしての再発も良かったが、私を悩ませたのは評判の新録音である。雑誌を読みながら、1枚に絞り込む作業は楽しかったが、それが当たっていい演奏に出会えるとさらに嬉しさは増し、たとえつまらない演奏に思えても、何度も聞いて気に入った部分を探そうと努めた。

80年台の後半は、今から思うと新録音のバブル時代だった。カラヤンやバーンスタインがまだ現役で活躍し、アバドやメータといった中堅指揮者も毎月のように新譜をリリース。思えばこの乱発がその後の低迷を招いた感は否めない。だが今でもこの当時に録音されたCDが中古などで売られていると、私は欲しくなる。そのような多くの新録音の中でも、晩年のカラヤンの演奏は、広告こそ派手だったものの、私には何となく気乗りがしないものだった。再録音が多く、もっと若い頃の演奏が良かったことを知っていると、ただ録音がいいというだけで高価な買い物をする気にはなかなかなれなかったのだ。

そのような中にあって一枚のCDが目に止まった。関係の悪化したベルリンを離れてウィーン・フィルを指揮したワーグナーのアルバムがそれだった。カラヤンのワーグナーをウィーン・フィルで聞く、という贅沢に加え、あの素敵な「ジークフリート牧歌」が入っているではないか。さらに「愛の死」を歌うのがジェシー・ノーマンというのは意外である。新録音でライブということもあり、私はとうとうそのCDを買い求めた。実はカラヤンの没する前年だったことになる(録音は2年前)。

歌劇「タンホイザー」序曲は、カラヤンの見事な演奏で聞くことのできる大変ゴージャスなものだが、ウィーン・フィルのふくよかな音が鳴り響き、過去の演奏とは比較できない味わいがある。楽劇「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲になると、これが同じ作曲家でも随分違う和音の響き。当時初めてに近かったこの曲を、とても新鮮な気持ちで聞いた。このきっかけが、その後20世紀につながる近代の和音の響きだったということは、後年になって知るのだが。

この演奏はビデオ「ザルツブルクのカラヤン」のために行なわれ、その作品はテレビなどでも紹介されたと思う。私もそのさわりを見た覚えがある。「タンホイザー」の序曲の演奏シーンがクライマックスを迎えると、画面がパッと切り替わりスポーツカーに乗ったカラヤンがアルプスの前を疾走したかと思う。あるいはノーマンが、リハーサルの際に「ただ黙って聞いていて下さい」とだけ言われてそのようにするシーン。カラヤンほど絵になる指揮者はいなかっただろう。機会があればもう一度見てみたいと思う。

「ジークフリー牧歌」は私の愛する作品のひとつで、ワーグナー体験の源流だと思っている。年末にFMで放送されるバイロイト音楽祭の録音放送を聞きながら、深夜に及ぶ受験勉強を終えて床についたのは高校生の頃だった。放送終了時にNHKはこの曲を、いつ終わるともなく長い時間、放送してくれた。実はそれが「ジークフリー牧歌」だとも知らなかった。私にとってこの曲は、寒い冬の就寝時にきく安らぎの音楽である。やはりウィーンの弦楽器の音に艶があって美しい。晩年のカラヤンの名演奏のひとつだと思う。

カラヤンは翌年の夏に突然死亡した。就職活動で上京する新幹線が新横浜に着く直前に、そのニュースを知った。カラヤンでも死ぬ時が来るのか、と思った。

2013年1月15日火曜日

ヴェルディ:オペラ合唱曲集(ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団)

ヴェルディの生誕200周年にちなんで、オペラの合唱曲集を聞くことにした。89年の録音なので購入からもう20年以上が経過したが、このCDを発売の頃に買い求め、毎晩のように聞いていた時期がなつかしい。ショルティは当時すでに80歳に近く、それでいてここで聞く指揮の姿は一直線の剛球勝負。いつものチャンバラ劇のような指揮姿が目に浮かぶ。

ヴェルディのオペラの中から有名な合唱曲を選び、ほぼ作曲順に並べたような当CDの本当の主役は、シカゴ交響合唱団である。合唱指揮はマーガレット・ヒリスとなっている。この合唱団は歌劇場の合唱団ではないと思われるので、イタリア語の歌詞に不安があった。だがそれは杞憂というか、そもそも問題ではなかった。「ナブッコ」に始まる曲目を聴き進ん行くと、次から次へと歌が溢れてきて次第に高揚感まで感じてしまう。これこそショルティのマジックにかかったからだろう。

いくつかの曲は良く聴いてきたものなので、旋律を覚えて何度も聴き古しているのだが、音楽というのは不思議なもので、造形的にも見事な演奏が素晴らしい録音の元に再現されると、それまで聞いたことのないような印象を与えてしまうのだ。そのようにして「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」や「アンヴィル・コーラス」(イル・トロヴァトーレ)などの有名曲さけでなく、その間の曲もついつい惚れ込んで聞いてしまう。

「椿姫」の第2幕の2つの歌「ジプシーの合唱」と「闘牛士の合唱」は、この曲が歌われるフローラの館のシーンが浮かんできて、感激に涙がこぼれそうになった。私をオペラ好きにさせたオペラこそ「椿姫」だったからだ。この2つの合唱は、これでもかといわんばかりに続けて演奏される。ギリシャ彫刻のような美しさと明瞭さ、そして見事なテンポ・・・ショルティはそれまでに数々のヴェルディの名演奏を残したにもかかわらず、このCDはすべてオリジナルの録音である。

「ドン・カルロ」を経て「アイーダ」に達すると、もちろん「凱旋行進曲」となるが、当然そこに「勝利の合唱」が続く。この一連のシーンは舞台で見ると見応えがあるが、演出や演奏によっては大掛かりな舞台が間延びしてだれてくる。踊りが舞台に比べて小さすぎて、かえってつまらないのだ。だが録音のみで聞く当CDにそのような不安は存在しない。合唱がない部分もシカゴ交響楽団の素晴らしい演奏がグイグイと私を引き寄せる。集中力が欠ける暇もなく「オテロ」の「火の合唱」に到達。最後にはレクイエムの「サンクトゥス」が付いていて、これは豪華な選曲である。

昨日大雪の降った東京は今日、雲ひとつない快晴となった。風も止んで明るい日差しがさんさんと降り注ぐ昼下がり、私はこの演奏をiPodに入れて大音量で鳴らしながら、日差しを受けて輝く凍った氷の上を歩いていた。

【収録曲】
・「ナブッコ」~祭りの晴れ着がもみくちゃに
・「ナブッコ」~行け、わが思いよ、金色の翼に乗って
・「十字軍のロンバルディア人」~エルサレム!
・「十字軍のロンバルディア人」~おお、主よ、ふるさとの家々を
・「マクベス」~さかりのついた雌猫が
・「マクベス」~虐げられた祖国よ!
・「群盗」~略奪、暴行、放火、殺人
・「リゴレット」~静かに、静かに
・「トロヴァトーレ」~朝の光がさしてきた
・「トロヴァトーレ」~ラッパの響きに
・「椿姫」~私たちはジプシー娘
・「椿姫」~マドリードの闘牛士の我々は
・「仮面舞踏会」~美しく安らかな
・「ドン・カルロ」~ここに明けた、輝かしき喜びの日が
・「アイーダ」~エジプトとイシスの神に栄光あれ
・「アイーダ」~凱旋行進曲
・「アイーダ」~戦いに勝った将軍よ、前に出よ
・「オテロ」~喜びの炎よ
・「レクィエム」~サンクトゥス

2013年1月14日月曜日

ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」(The MET Live in HD 2012-2013)

ヴェルディ生誕200周年の今年は、ヴェルディ作品の上演が多い。私が最近よく行くThe MET Live in HDシリーズでも今シーズンはヴェルディの作品が数多く取り上げられている。その一つが新演出の「仮面舞踏会」で、昨年12月8日の上演をビデオ収録したものをお正月明けに東劇で見ることができた。演出はデイヴィッド・アルデンで、舞台は20世紀初頭に移したリアルなもの。オリジナルのスウェーデン版による上演であった。

ヴェルディの輝かしい中期から円熟の後期に至る端境期に作曲された「仮面舞踏会」は、もはやカヴァティーナ・カヴァレッタ形式が姿を消し、音楽はより物語性を重視する方向へと向かう。かといって「ドン・カルロ」や「オテロ」のような成熟はなく、「アイーダ」のような祝祭感にも乏しい。ややもすれば目立たない本作品も、ヴェルディの多彩な作品群の中では埋もれてしまうどころか、最も完成度が高いという評価をする人もいる作品なのだから驚く。そうだ、まだまだヴェルディには聞くべき作品があるのだ。何とも奥深く、そして嬉しい話である。

私はかつて「仮面舞踏会」をメトで見ている。しかし天井桟敷の席からは舞台の半分が見えず、ところどころに綺麗な音楽や歌があったかな、といった程度の印象しかない。当時のプログラムも見当たらず、メモにフランシスコ・アライサとレオ・ヌッチという2人の大歌手の記録があるだけだ!あと豪華な舞台だったことも記憶にある。もし今からでもこの舞台が見られるのなら、再度見てみたいと思うのだが・・・。手持ちのCDはただ一組だけ、古いスカラ座の録音で指揮はカヴァッツェーニ。録音は60年である。

さてこの作品はスウェーデンの国王暗殺事件という実話に基づいていることで有名である。もはや国民的作曲家となったヴェルディは、シェークスピアを題材とする作品を探していたがうまくいかず、結局ナポリの劇場の求めに応じて「仮面舞踏会」に着手した。しかしそれも検閲のためにストーリーを変更し、さらには舞台をスウェーデンからボストンに移していることは周知の通りである。

主役のスウェーデン王グスターヴォ3世を歌うのは、アルゼンチン出身のテノール、マルセロ・アルヴァレスであった。今回の上演では何よりもまず彼の素晴らしさを語らねばならないだろう。だが私はまたしても体調不良であった。風邪による咳に加え、折からのドライ・アイにより目が痛い。これは映画を見る上で致命的と言ってよく、特に第1幕は何度目薬をさしても改善されないという今までにないハンディを負うこととなった。

グスターヴォの友人で秘書でもあるレナート(アンカルストレーム伯爵)はバリトンの歌手が歌う。ロシアの歌手ディミトリ・ホヴォロストフスキーは近年、メトにおけるヴェルディ作品の常連だが、彼の歌う声に不満はないものの、ロシア語訛りのイタリア語が私にはどうにもしっくり来ない。加えて彼の威厳ある風貌は、国王のそれを上回ってしまうという、見栄えの問題が実在する。満場のブラボーは彼と、そしてアメーリアを歌ったソンドラ・ラドヴァノフスキーに寄せられたが、彼女のイタリア語もまた私には変なのである。CDで聞く古いスカラ座の録音は、もっと普通に美しい声の連続で、このオペラの魅力を伝えてやまないことを思うと、残念で複雑な気持ちになった。会場が広すぎて歌声を響かせるように大声で歌うことによるものも不満な点だ。

その点、第1幕にしか登場しない占い師のウルリカを歌ったメゾ・ソプラノのステファニー・ブライスは、声の大きさも含めて貫禄の出来栄えだったと言える。けれども彼女が歌いだすと、いやそれ以外の場面でも、音楽の流れがぎこちない。ヴェルディの音楽が流れてこないのは、ファビオ・ルイージの指揮のせいなのだろうか?

韓国人の小柄なソプラノ、キャスリーン・キムの歌声は、この役にはまっていたとは思う。徐々にしりあがりの出来栄えの彼女の、時にコミカルな登場は、舞台に華やかさと楽しさを大いにもたらしたが、ズボン役とは言え中途半端な付け髭と、意味不明な衣装(天使の羽根、あるいはイカロス)が目障りであった。

第2幕の「愛の二重唱」は全体の白眉だ。ヴェルディが生涯作品のテーマとした心の葛藤は、ここでも3人の主人公にそれぞれの形で現れる。アメーリアはもちろんグスターヴォとレナートとの間に揺れ、レナートも友人(グスターヴォ国王)と妻の不倫の中で悩む。そしてまたグスターヴォも国王でありながら、その重みと許されない恋の間に悶絶する。

第3幕になると舞台はより小さい部屋の中・・・そこはレナートの書斎ということになっている・・・で展開されるが、それは続く第2場の豪華なグランド・オペラのシーン・・・仮面舞踏会・・・を印象づけるためかも知れない。オスカルまでが再登場し、踊りや合唱が入るこのシーンは、明るい調子であるにもかかわらず暗殺計画が実行される。この生々しい劇に政治的な意味は消されている。それゆえに気高い愛の姿が描かれることとなった。だがヴェルディの存在はイタリアの統一運動の象徴となり、その後の祖国統一に大きな役割を果たした。「仮面舞踏会」が紆余曲折を経て、結局ローマで初演されたのは1859年、そのような中での出来事だった。

2013年1月13日日曜日

NHK交響楽団第1745回定期演奏会(2013年1月12日 NHKホール)

お正月の新聞を読んでいたら、デイヴィッド・ジンマンがN響の定期に登場してマーラーを振るという記事に目が止まった。そこで3連休の初日はNHKホールに出かけた。曲は交響曲第7番ホ短調で、私はこの曲を実演で聞いたことがない。マーラーの交響曲はたいていどこかで聞いているが、これと第3番だけがまだだったのである。そういうわけで丁度いいと思った。だがこの曲は私にとってもっとも馴染みにくい曲であり続けていた。何ともとらえどころがないからである。できればその思いをこの機会に払拭したい、とも思った。

デイヴィッド・ジンマンはニューヨーク生まれのアメリカの指揮者で、近年はチューリヒのオーケストラを指揮してSACDによるマーラー全集を録音して評判である。しかしジンマンの演奏を、これもまた私はいままで聞いたことがないのである。プログラムはこの1曲だけ、当然ながら休憩はない。よく晴れた冬の原宿は、年明けのショッピングやデートを楽しむ若者でごった返している。14時に降り立ち、その人混みをかき分けて行く。まだ初詣を済ませていない人たちの、明治神宮へ向かう人とも別れ、代々木公園の脇道を進む。

NHKホールは多くの人出であった。そして私の求めた自由席を含め、3回席の隅まで満員ということはそれほど多くない。そんな中、ジンマンが登場した。NHK交響楽団は100人を超えるような大人数で、特に打楽器セクションの多彩な楽器が上から見下ろすと目に付く。弦楽器も相当に多く、合唱こそ伴わないものの、この編成は管弦楽のみの交響曲としては史上最大規模ではないかと思われた(思いつく所ではあとショスタコーヴィッチの第4番、それにメシアンのトゥーランガリラ交響曲くらいだが、これはマーラーの後の作品である)。

第7番は「夜の歌」という副題がつくことがある。これは第2楽章と第4楽章のタイトルに由来する。しかし音楽は長い第1楽章から始まる。このまるで気違いじみた第1楽章が全体を惑わす。もう一つのややこしい音楽は第5楽章である。両端の楽章が、もはやつかみどころのない曲である。私はこの曲のCDをただ一組だけ持っているが、なかなか聞く機会はない。そういうわけでほとんどぶっつけ本番で挑んだ演奏会、しかも今週は風邪をこじらせて咳がひどい。体調不良にマーラーの第7番という組合せは、ほとんど体力勝負であった。

ジンマンの演奏はあの刺激的なベートーヴェンを持っている。そして評判が良くてシューベルト、シューマンなどと続き、ついにマーラーに至ったのは周知の通りである。透明な響きと凝縮された音型が特徴のジンマン、NHK交響楽団との間でどのようになるかが聞きどころと思われた。その第1楽章はややオーケストラが散漫に思えた。もともと難しい音楽なのだからこなれていないのだろうと思った。

第2楽章からはそれでも少しづつ音楽らしく聞こえてきた。ジンマンとN響はもはやこのような曲でも、まるで古典派の音楽のように、あっさりと大袈裟ではなく弾こうとする。それが新鮮といえば新鮮だが、こってりずっしりのマーラーとは異なる。で私の持つシャイーのCDのように完成度が高いかというと、残念ながらそうでもない。第2楽章のアンダンテはもっとも印象的、第3楽章のスケルツォは時おりメロディーが印象的だが、それがまとまって聞こえてこないのは演奏の故か、それとも曲のせいか。わからないまま第4楽章へ。ここでマンドリンが入って交響曲のイメージにはないムードとなる。このようなむしろ静かな真ん中の3つの楽章が、ハチャメチャな両端楽章に挟まれていることで、聞き手の忍耐力を必要とする。

第5楽章はパロディーの音楽と言われている。ティンパニーで始まる音楽は打楽器のセクションを見ているだけで楽しい。次から次へととりとめのない音楽が流れる。それを一体の音楽として聞くことも難しいが、さらにそれが「音楽的」に聞こえるように演奏するのはもっと難しいだろう。今回の演奏が成功したといえるかどうかは、私の当日の体調と乏しい実演経験から早計に判断はできないが、終演時の様子を書いておこうと思う。

まず大きな拍手とブラボーに包まれたが、平均的には必ずしも熱狂的というほどではない。なかには明確にブーイングをしている人もいて不思議な感じ。多くの聴衆は演奏自体には冷めた好意を寄せつつも、音楽自体の難解さにはやはり疲れた様子で、繰り返し指揮者が登場する間は熱心だった拍手も、オーケストラが解散すると一気に鳴り止んだ。

2013年1月6日日曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート2013(フランツ・ウェルザー=メスト指揮)

元日に録画予約しておいたウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを見た。オーストリア人のシェフ、フランツ・ウェルザー=メストは2年ぶり2回めの登場だが、やや緊張気味だった前回に比べ今年の指揮ぶりには、余裕か感じられた。そのことによってウィーン・フィルはよりリラックスした雰囲気で演奏をしている姿が伝わり、近年にはないうちとけたムードと、よく考えられたプログラムによって、ウィンナ・ワルツの地域的な伝統性を取り戻したコンサートとなったと思う。

私は1979年のウィリー・ボスコフスキーの最終回以来、ほぼ毎年この演奏会をテレビで見てきたが、その記憶によれば1979年(ボスコフスキー)、1987年(カラヤン)、1989年(クライバー)、1994年(マゼール)、2000年(ムーティ)、2002年(小澤)、2003年(アーノンクール)、2008年(プレートル)などと並んで記憶すべき水準の楽しさであった。

テレビで紹介されたところによれば、今年の演奏会は3つの特徴があるという。まず初登場の曲が多いこと、次に弟ヨーゼフの作品が多いこと、それに今年生誕200周年を迎えるオペラの大作曲家ヴェルディとワーグナーの作品が取り入れられたことである。初登場の曲が多いことは近年よく見られる傾向で、これは1988年のアバド以来ではないかと思う。世界的なイベントとなったこの演奏会で有名曲ばかりで勝負したのは、カラヤンを除けばカルロス・クライバー、アーノンクールくらいに過ぎない(みなオーストリア人である)。

ヨーゼフの作品は地味ながらも繊細かつ内省的で、私も好きな作品が多い。その中で「天体の音楽」が何と言っても白眉である。今回もそれが演奏された。私はこの曲の今回の演奏はなかなかのものであったと思う。それ以外の曲で注目したのは、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲と、幻想曲「エルンストの思い出」などであった。「軽騎兵」はそれ自体楽しい曲だが、これを奇を衒った演奏としないあたりが洒落ていて、ウィーンの音楽というのはそういうものかとも思ったりした。

カラフルに彩られた楽友協会に「ローエグリン」が鳴り響いた時にはほろ酔い気分も吹き飛び、ニューイヤーコンサートも随分変わったものだと思わせた。ウィーン・フィルのワーグナーは音に温かみと軽やかさがあって、新年にふさわしいワーグナーであった。これに対し、ヴェルディの「ドン・カルロ」からのバレエ音楽は記憶に乏しい。ヴェルディのバレエ音楽なら他にも有名な曲がいくらでもあるのに、などと思った。

「美しく青きドナウ」の冒頭で流れたウィーンの朝の映像は、まだこの街にこのような美しいシーンがあったのかと思わせるほどに見事であった。そしてその演奏は・・・逆説的に言えばオーストリア人でないと演奏できないような演奏・・・つまりは何も意図せずオーケストラに任せるやり方を「見事に」成功させた。過去の有名な指揮者たちは、メインのプログラムでは大変立派でも、この曲になると何か拍子が抜けたようなものになっている。それはこの曲だけはオーケストラが自分たちの表現を曲げないからではないかと・・・音楽のプロではない私でもそう思ってきた。だから小澤征爾も、クライバーに至っても、この曲には個性が出ない。

けれどもウェルザー=メストは力みをできるだけなくし、他の曲でもいくらかそうしたように主導権をオーケストラに委ねることにより、プログラムのムラのない成功を導いた。 総じて今年は、この年中行事のコンサートが持つ本来の等身大の姿を取り戻すことになった。

2013年1月1日火曜日

謹賀新年

年頭にあたり新年のご挨拶を申し上げます。

平成25年(2013年) 元旦


本ブログは主に私の個人的に関心のある事柄について記述しています。しかしながら私の興味の対象は、過去からの趣味・・・クラシック音楽、短波放送、切手収集、それに貧乏な旅行などであり、これらはいまとなっては若者の興味の対象ではなく、好むもののほとんどいない過去のものとなっています。

今年より本ブログのタイトルを「失われた楽しみ」としたのは、そのことによります。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...