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2014年9月19日金曜日

マスネ:歌劇「マノン」(The MET Live in HD Series 2011-2012)

オペラを見なければ触れることのできない作曲家というのがいる。ヴェルディやワーグナーはまだ良いほうで、ヴェルディなら「レクイエム」だけでも十分感動的だし、ワーグナーなら前奏曲集や「ジークフリート牧歌」といった名曲を楽しむことは容易である。だが、プッチーニやベッリーニといったあたりになると、これはもうオペラしか作曲しなかったような作曲家だから、音楽に触れるにはオペラを聞くしかない。マスネも、どちらかと言えばそんな作曲家の一人である。

ジュール・マスネは19世紀後半に活躍したフランス人である。そして「マノン」は円熟期の最初を飾るオペラと言われるが、他の有名作、例えば「タイース」も「ウェルテル」も、それぞれエジプト、ドイツを舞台にしているのと異なり、フランスを舞台にしたオペラである。つまりフランス人によるフランスのオペラである。

そう思いながら聞くと、ビゼーの「カルメン」も、オッフェンバックの「ホフマン物語」もフランスを舞台にしているわけではないし、逆にパリを舞台にした叙情的なオペラ「ボエーム」も「椿姫」も、イタリア人の作品である。作曲家の活躍した場所と作品の舞台が一致する作品は、意外にも少ないことに気付く(プッチーニの「トスカ」、ヴェルディの「リゴレット」、あるいはワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などが思い浮かぶ)。

だからフランスでしばしば上演され、その音楽も極めてフランス的。オペラ・コミックとしての性格も兼ね備えて時折セリフが語られるかと思えば、全5幕の中盤でバレエも登場する。けれども私にとっての「マノン」初体験は、それまでに見た「タイース」や「ウェルテル」の感銘を上回る程ではなかった、というのが正直な感想である。たとえマノン(ソプラノ)に絶頂のアンナ・ネトレプコ、その相手である騎士デ・グリュー(テノール)にピョートル・ベチャワという当たり役を配した、おそらくは極めつけの舞台であっても、である。それはやはり、音楽に原因があるのではないか、というのが偽らざる心境である。指揮はファビオ・ルイージ、演出はロラン・ペリーで、時代設定を少しかえているとはいえ、ほぼオーソドックスな演出。

それでも見せ場はあった。特に印象的だったのは第3幕後半の教会内部のシーンである。マノンに一目惚れして駆け落ちまでした青年デ・グリューは、同棲生活の途中に横槍が入り、マノンもお金に目が眩んでデ・グリューを裏切る。デ・グリューは教会に入る決心をして修道士として祈りを捧げる毎日である。そこへマノンが登場し復縁を迫る。忘れようとしていた元恋人を思い出し、その感情に抗しきれない二人は、教会の中で二重唱を歌い、最後には熱い抱擁を交わすのだ。ストーリーはこのあたりから急速に下降していく。つまりこれは墜落の物語、というわけである。

けれども第4幕になって賭博のシーンになると、私は「椿姫」の第2幕後半を思い出さずにはいられないかった。マノンにそそのかされ、半ば自暴自棄になったデ・グリューは、金持ちのギヨー(テノールのクリストフ・モルターニュ)に賭けを挑む。そこに現れるのは一度勘当した息子を訪ねてくる父、デ・グリュー伯爵(バス・バリトンのデイヴィッド・ピッツィンガー)である。その登場の仕方など、あの社交界に復帰して伯爵に賭けを挑み、借金を返済するという自暴自棄なアルフレードそっくりなのである。けれども音楽は・・・あえて素人根性をむき出しにして言うと・・・遠くヴェルディには及ばない。「椿姫」の作曲は1853年で「マノン」よりも30年程前である。

いずれも原作があるのだから、これは流行りのストーリーだったのかも知れないが、マスネは明らかに「椿姫」を意識して作曲したのではないだろうか。だが「椿姫」を越えることはなかった。それどころかこのオペラには、ほかに印象的なアリアや合唱があるわけではなく、重唱も少ない。全体に散漫でさえある。最終幕でアメリカへ売られていこうとするマノンを、従兄弟のレスコー(バリトンのパウロ・ジョット)の協力で助けだしたデ・グリューではあったが、とうとう力尽きて彼の手の中で死んでいく。「これがマノン・レスコーの物語」とモノローグ風に語るマノンのセリフには、あのヴィオレッタの「パリを離れて」を思い出させるのだが・・・。

プッチーニもオペラ化した「マノン・レスコー」とは少し結末が異なっているが、これはこれで十分にドラマチックな物語である。だがそれにしては物語のメリハリに欠け、感動に乏しいと感じた。もっと違った演出で見ていたら、また違った印象だったかも知れない。あるいはもしかしたら、台本が良くなかったか。マスネの他の作品の完成度を思うと、そういう気もしないではない。

実にマノンは若干まだ十代の少女である。大変な美女であるとはいえ、世間知らずでもあるだろう。ネトレプコはそのような美しく、そして最終的には憎めない女性としてマノンを演じた。6回も衣装を変えての演技は素晴らしかった。だが、妖艶にして魔性を感じさせるような(ある人に言わせると、カルメンも遠く及ばないそうだ)女性の姿ではなかった。もしかしたらその「毒性」の少なさが私を白けさせたのかも知れない。全体に中途半端な印象を消し去ることはできなかった。

2014年4月15日火曜日

マスネ:歌劇「ウェルテル」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

フランスにはワーグナーもヴェルディもいないが、マスネがいる、そう思わせるようなオペラだった。19世紀の後半はオペラ史にとっても、とりわけドラマチックで人間心理に肉薄した作品が多く作曲されている。女性の視点でオペラを語る書物はいくつかあるが、私はいつか、若い男性の視点で語ったものがあるといいと思っている(もっともほとんどのオペラは男性によるもので、男性の視点で書かれているが)。その中にはヴェルディの「椿姫」や「オテロ」、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」、ビゼーの「カルメン」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」、それからプッチーニの「ボエーム」も入れようか。そしてマスネの「ウェルテル」である。これらに共通するのはみな、情熱的で狂おしいまでの報われない恋愛ということと、19世紀後半の作品だということだ。

「ウェルテル」はその名の通り、文豪ゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」を原作としている。この作品が書かれたのは18世紀後半だから、その間に100年の隔たりがあることになる。ワーグナーの影響も受けたフランス人マスネが、この作品を題材に選んだのは、この作品がヨーロッパを席捲するほどのベストセラーとなり、社会現象となったからだ。音楽史は19世紀後半になって、ようやくこの人間の心理ドラマを描くほどにまで成熟し、その表現が受け入れられるようになったのではないか。

「ウェルテル」の主人公はウェルテル(テノール)で、その歌は丁度「椿姫」のヴィオレッタを男女入れ替えたように感じられる。つまり作品の中にあって、彼だけが際立って主観的、叙情的、そしてドラマチックである。彼の周りはみな、社会の調和を乱す彼にかき回される。象徴的に、マスネは法務官と子供たちが歌うクリスマスの歌によって、あるいはそこに集う人々(にはシャルロットやソフィー、さらにはシャルロットに許嫁であるアルベールも含まれる)が平和的な日々を幸せに送ることを冒頭から表現する。

ウェルテルの存在は前半(つまり第1幕と第2幕)ではまだまだ控えめだ。その存在はややもすれば滑稽でさえもある。だが後半に入ると舞台は俄然、心理ドラマに深化する。ここで登場人物はウェルテルとシャルロットにのみフォーカスされる。演出のリチャード・エアは、今回この後半のシーン、とりわけ第4幕を、舞台の中に作ったさらに小さな空間でのみ演じさせることによって、作品と登場人物への集中力を増強した。その効果は、ゼッフィレッリの「ボエーム」の終楽章(屋根裏部屋)を思い出させた。

さらに素晴らしかったのは、第3幕と第4幕の間奏曲の部分で、その音楽に合わせて舞台上で演技がなされたことだ。この場面についてはインタビューでエア自身が語っている。その効果は恐ろしいほどにリアルであった。ウェルテルのピストルによる自殺シーンは、見ている私も目をそむけたほどだ。私はオペラでこのような経験をしたのは初めてである。

エアの独自の解釈は、幕切れで聞こえる子供たちの歌声(クリスマスの歌だが、冒頭の時と違ってここでは空虚に響く)を聞きながら、さらにピストルを自分にも向けようとすることだ。ヴィオレッタと死に別れたアルフレードは、プロヴァンスの実家へ戻って平和に暮らしたのだろうか。同様にウェルテルに死なれたシャルロットの今後については、誰も語っていない。ここでのエアの演出は、その「続き」を想像させようとする。

このような素晴らしい演出を可能にしたのは、何と言ってもマスネの音楽が素晴らしいからだろう。特に後半の充実ぶりは目を見張るが、物語が一貫して悲劇に向かう流れが、この集中力を維持している。ヨナス・カウフマンの歌うウェルテルほど、その役割に見事に応えられる歌手はいないのではないかと思わせるような歌いぶりは、前半の舞踏会のシーンでもすでに明白だったが、「オシアンの歌」(第3幕)でそれは頂点に達した。フランス語を見事に使いこなすその歌唱力に容貌と演技を加えて、彼は現在望みうる最高のウェルテルであることは、この作品を初めて見るものをも納得させるものだ。

一方、シャルロットを演じたフランス人ソフィー・コッシュ(何とMETデビュー)も、三位一体の素晴らしさであった。彼女は「手紙の歌」(第3幕)に代表されるシーンから幕切れまでの一挙手一投足までもが、次第にウェルテルに心を奪われていく心理的葛藤を十全に表現し、見ている方も心をえぐられるようだった。このように心理的にバラエティに富む音楽的要素がすべて含まれることについてカウフマンは、これこそがフランス・オペラの醍醐味であると語り、とりわけマスネがその表現に長けていると語っているところが興味深い。

主役二人以外の歌手も好演った。シャルロットの亭主のアルベールはデイヴィッド・ヴィズィッチ、妹のソフィーがリゼット・オロペーサ。指揮はフランス人のアラン・アルタノグルで、この指揮者は初めて知ったが十分に上手いと思った。そして演出の斬新さは、上記で述べた通りである。冒頭からビデオを駆使して、数々の美しいシーンが現れては消える。ヨーロッパの美しい田舎の風景を、こんなに見事に再現されると、古典的な演出は退屈に思えてくるだろう。

「若きウェルテルの悩み」は、男性ならもしかすると誰もが経験する要素を持っているのではないだろうか。最後にそのことについて触れない訳にはいかない。カウフマンが語っているように、壮絶な結末を迎えるほどではなくても、類似の経験を思いながら演じることによって、真実味を表現できる。だが、見ている方も醒めて見たのではつまらない。つまり、このオペラは誰しもが胸に秘めた出来事を思い出しながら、主人公に同化することのできるオペラである。女性ならどうか。私にはわからないが、シャルロットの気持ちの変化は、少し男性の願望が働き過ぎているようにも思う。一度誰かに聞いてみたいと思う。

2012年1月27日金曜日

マスネー:歌劇「タイース」(The MET Live in HD 2008-2009)

2011年も夏になってMet Live Viewingのアンコール上映が続いている。その中から2008-2009シーズンに上演された演目の一つ、マスネー作曲の歌劇「タイース」を見た。「カルメン」を除けば、実のところ私の初のフランス・オペラ体験であったし、あらすじはおろか一曲のアリアも知らない。いや「タイースの瞑想曲」だけはどこかで演奏されるのだろうとは思っていたが、それがこういう風に使われていたとは・・・。

舞台は4世紀のエジプト、身分の違う恋愛とくれば「アイーダ」を思い出す。また遊女が真実の愛に目覚めながら死んでいくフランス物、となれば「椿姫」を思い出す。だが「タイース」はこのどちらとも違うストーリーである。それどころか本作のテーマである「キリストへの愛」は、そのどちらの作品よりも深い。であるにもかかわらずオペラとしての人気はこれらの作品には及んでいない。その原因はもしかすると、音楽的な完成度の差にあるのだろうか・・・。

「タイースの瞑想曲」は第2幕の間奏曲である。コンサートマスターが立ち上がり、見事なソロを奏でると熱狂的なブラボーに包まれる。盛大な拍手。このようなシーンは非常に珍しい。その間に舞台裏は次の場面の準備中だ。カメラは両者を巧みに切り替え、音楽の緊張感を失わせずに舞台裏をのぞく。甘美なそのメロディーは、それだけでこの作品が後世に残る理由となっているが、実はここのシーンが全体の折り返し地点である。この「瞑想曲」を境にした二人の主人公の心理的変化(トランジション)こそ、本作品の見どころだと主役を演じたルネ・フレミングは案内役のプラシド・ドミンゴに話す(第2幕後の映像)。

標題役を歌うフレミングが、全編にわたって次から次へと歌うのが本オペラの醍醐味である。もちろん相手の修道士アタナエルを演じるトマス・ハンプソンを忘れてはいけない。だが、このバリトンとソプラノの組み合わせこそが、この作品に暗示された行方を物語る。つまりこの二人は別々のところ(修道院と娼館)から来てめぐり合い、心理的昇華のプロセスを経てそのまま別の方向へ進んでしまうのである。

あの甘美なメロディーはキリストへの愛と現世の欲望の間を揺れ動く心理がそのモチーフだと言われる。だが全体的な印象としては、人間性の複雑な矛盾がもたらす悲劇というものを描き切ってるというほどではない。またベルカントオペラのように歌唱の妙味に酔うわけでもない。

これはこのプロダクションの問題か、作品そのものの問題か、よくわからない。けれども、ときおり音楽の美しさにうっとりとするのはやはりオペラ醍醐味であろうし、指揮者のヘスス・ロペス・コボスがしっかりとした指揮を司っているからだろうと思う。

Met Live Viewingならではの舞台裏へのアプローチは、本作品ではとりわけ効果的である。これは場面展開が多いからだ。ドミンゴによる主役二人へのインタビュー(は舞台裏で行われる)に加え、瞑想曲のソロを演奏した中国系アメリカ人のコンサートマスター、それに衣装を担当した女性にも焦点があてられる。フレミングはこの役のために特にデザインされた6着もの衣装を次々着変えながら登場するのだ。

第2幕でのニシアス邸での踊りや歌のシーンも面白いが、第3幕の砂漠を放浪する二人と、修道女となって入って行く別れのシーンは胸を熱くする。修道士アタナエルの強い信仰心によって修道女になることを決意したタイースは、改心して苦行に励み体を壊す。死の淵にある彼女のもとへアタナエルは何とか現れ、もはや彼女に恋をしてしまったことを打ち明ける。だが彼女はすぐに死に絶え、二人が結ばれることはついにない。ややもすれば荒唐無稽なストーリー一歩手前だが、テーマになっていることは深い、と出演者が声をそろえている。

巧みなカメラワークとオペラ全体を表現した見事なビデオ演出によって、この作品は一定の見ごたえを持つに至った。最初フランス風の音楽が平板で中音域中心の歌にも飽きそうなところだったが、意外にもはじめて触れた作品に新たな発見をし続けた3時間半だった。

※本作品が収録されたのは2008年12月20日だそうである。私はこの時、入院中で大変な闘病のさなかにあった。そういう意味でも感慨深く観た。

※※ここのところ、本作品は数多く上演される傾向にある。かつての名演奏としてせいぜいマゼール盤が有名だったが、最近はノセダ盤(トリノ歌劇場)、それにヴィオッティ盤(フェニーチェ座)などがあるようだ。このメト盤も出ている。

(2011/08 東劇)

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