2014年6月27日金曜日

ハイドン:交響曲第88番ト長調(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団)

第88番、第89番の交響曲は「トスト交響曲」と呼ばれている。終盤に向けて一層の円熟味を増すハイドンの交響曲も、第88番はまたひとつの枠を抜けだした作品であるように思う。その音楽的な深みからか、この曲を録音している指揮者が昔から多い。それも巨匠と呼ばれる指揮者が、丸で申し合わせたかのようにこの曲で競演している。

フルトヴェングラー、ベーム、セル、クナッパーツブッシュ、バーンスタイン、ライナーなど思いつくだけで錚々たる布陣。それまでの曲にこれほどの取り上げられ方をされている曲は思いつかない。そしてこのブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮した一枚も、その中に名を連ねる。なぜだろうか。それはこの曲が持つ、革新的とも言えるロマン性にあるのではないだろうか。

第2楽章を聞くと良い。この楽章は丸でシューマンのようだ(そう言えばひところ、フルトヴェングラーのレコードはシューマンの交響曲第4番との組み合わせだった)。ここだけを聞くとこれがハイドンの作品であると気づくのに時間がかかる。

第1楽章の、実に丁寧で細部にまで神経を行き渡らせた正確な序奏部分を聞くだけで、この演奏が今なお数多くの録音の中でも十分に歴史に耐え得る完成度を誇り、新鮮さを失っていないことに気付く。かつてLPレコードで聞いたコロンビア交響楽団との一連の録音では、ステレオ初期の欠点により何とも厚ぼったく、時には無機的にさえ感じられたのが、リマスターされCD化されると、何か別の演奏に変化したかのような気がした。

ワルターは晩年にあってもなお非常に厳格で格式が高く、それに加え高貴であった。ドイツ音楽の流れを継承しているが故に、古典的な作品にこそその特質が表れているとすれば、このハイドン(やもちろんモーツァルト!)こそ後世に残されるべき遺産であと思われてくる。その真骨頂とも言えるのが、限りなくロマンチックな第2楽章だ。

実際に私は、この楽章を聞いてから「この曲はワルターで聞いてみたい」と思った。その逆ではない。この第2楽章ほどワルター節が似合う曲はない。ある意味で今ではすっかり聞かれなくなった手法、つまりモダン楽器によるビブラートやルバートを多用した節回しは、深く物思いに沈んだかと思うと、すっと目を覚まして確固たる足取りで前進し、その脇の美しい花に見とれる。何かそのような情景が目に浮かんで来る。

テンポは遅く、それにだんだんと止まりそうにさえ感じられるのだが、ピチカートで弦楽器がリズムを印象深く刻むその合間を、弦楽器や木管楽器が鳥のように舞い上がる。こんなロマンチックな歌は、晩年のバーンスタインにも見られた。バーンスタインは師匠をモデルにしたのだろうか。

第3楽章も第2楽章と並ぶ大きさを持っている。ゆっくり堂々たるテンポを持つ、こんな充実したメヌエットを聞くのは久しぶりである。モーツァルトのような軽やかさはない。丸で何十人もが踊る舞踏会のようだが、中間部になると独特のアクセントを伴ったリズムが面白く、ここでも細部にまで心を配るワルターの指揮が冴えている。

これら2つの楽章を経て続く第4楽章は、小規模で軽やか、少し諧謔的でもある。ここでも乱れのないアンサンブルは完璧で、マーラーの流れを組む大指揮者で聞くハイドンも、ヒストリカルな意味を持つにとどまらず、今でも聞き手に新鮮さをもたらす。カップリングされた「軍隊」とともに、このCDは所有価値が高い。

これに比べるとベルリン・フィルとともにスタジオ録音されたフルトヴェングラーの演奏は、とても大人しい演奏に思えてくるが、このように往年の大指揮者が振ったハイドンを聴き比べるのも興味深い。

2014年6月26日木曜日

メンデルスゾーン:序曲「真夏の夜の夢」作品21(コリン・デイヴィス指揮ボストン交響楽団)

Midsummerを辞書で索くと「盛夏」などと並んで「夏至」という意味が記載されており、「日本と違って快適な時期」などとおせっかいなことまで書かれている(「ジーニアス英和大辞典」)。だからシェークスピアが書いた本作のタイトルは「夏至の夜の夢」がより正しいだろう。そのためかかつて「真夏の夜の夢」と訳された題名が、最近では「夏の夜の夢」と変わりつつある。一方我が国で「夏」というと五月の初夏からお盆の頃までを指し、その長さは随分と長い。日本で「真夏」というとその期間は、梅雨明けからお盆までの数週間である。花火大会などが開かれるイメージだ。

ところが「夏至」は昼の長さが最も長い日のことで6月下旬のわずか1日を指し、そういう意味で「夏の夜の夢」と言ってしまうと時期をかえってあいまいにしてしまっているような気がする。

クラシック音楽の世界では、「そはかの人か」(歌劇「椿姫」の有名なアリア)などと言うように、一度定着した古めかしい言い方を続ける傾向があり、それはそれで独特の味わいもあるため、誤解の生じない範囲で古い言い方を好む人も多い(つまり保守的だというわけだ)。というわけで、これは私のコレクションでは「真夏の夜の夢」のままと考えている。

その劇音楽の作品番号は、序曲が作品21で、それ以外の部分(には有名な「結婚行進曲」などが含まれる)は作品61となっている。これは作曲年代の違いによる。ベルリンに住んでいたメンデルスゾーンは、まだそれほど有名ではなかったこのシェークスピアの劇に出会い、まず序曲の作曲を手掛けた。ここではその序曲のみを取り上げた。

先に触れた弦楽八重奏曲が、天才メンデルスゾーンの作風が確立したもっとも初期の作品だとすれば、これは管弦楽作品としてのそれであると思う。そのくらいこの作品の完成度は高く、一度聴いたらなかなか耳を離れないくらいの印象を残す。おそらく誰もがそう思ったのであろう。だからこの序曲を聞いて、本篇の作曲依頼が舞い込んだのだろう。

メンデルスゾーンは劇付随音楽として全曲を完成させるに際し、若干17歳のときに作曲したこの序曲をそのまま採用している。従ってもはや改訂の必要がないと判断したことになる。確かに全体を聞いても序曲だけが未熟で浮いている、などということは全くない。

ヴァイオリンのトレモロで始まる冒頭部分は、指揮者の違いを聞きわけるひとつのポイントであろう。私も手元にあったいくつかの演奏を聞き比べてみた。アバドや小澤征爾などに加え、最新のシャイーによるものまで様々だったが、私が気に行っているのは若きコリン・デイヴィスによる演奏だ。オーケストラはここではボストン交響楽団、交響曲「イタリア」とのカップリングである。

デイヴィスはそれぞれの楽器をくっきりと浮かび上がらせ、ともすればメロディーラインの綺麗さで誤魔化される縦の線の統一にこだわっている。それでいて、終結部に見せるヴァイオリンの静かなカンタービレに集中力を欠かさない。何ともツボを抑えた名演であると思う。なお、劇付随音楽全体は別途取り上げたいと思う。

2014年6月24日火曜日

メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲変ホ長調作品20(ラルキブデッリ&スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ)

弦楽のための交響曲が、メンデルスゾーンの音楽的ないわば成熟の過程を記録した作品となったのに対して、この良く知られた弦楽八重奏曲は、彼の音楽的才能が早くも完成の域に達し、自らの音楽に対する確固たる自信を裏付けるような作品であると言える。我々が普通に聞くメンデルスゾーンの音楽の、最初の本格的な作品はこの曲ではないかと思われる。

二つの弦楽四重奏団の共同作業として、しばいばこの曲は演奏され、録音もされてきた。私が高校生だった頃、家には確かパノハとスメタナの両弦楽四重奏団が一緒に演奏したレコードがあったように記憶している。そしてその作品の燃えるような躍動感に満ちた第1楽章を聞いて、まさか同い年の16歳の少年による作品であるとは信じられず、非常に驚いたものだ。

私がコレクションに加た一枚は、それから10年以上が経過した1992年にニューヨークで録音されたもので、オリジナル楽器の名手アンナー・ビルスマを中心に、ラルキブデッリとスミソニアン・チェンバー・プレイヤーズの演奏。ワシントン・スミソニアン博物館に所蔵されているストラスヴァリウスを用いて演奏されたという触れ込みのソニーのCDである。録音は1992年。

ここで聞くメンデルスゾーンはやはり刺激的である。録音もいいからだろうが、昔聞いたLPの演奏よりも何倍も新鮮に聞こえるのが不思議だ。LPレコードはよほどいい再生装置で聞かないと、いい音に聞こえなかったのかも知れない。

第1楽章「程よく快活に、だが火のように」、第2楽章「ぼちぼちと」、第3楽章「スケルツォ、快速に最も軽やかに」、第4楽章「早く」といった指定がされている。このうち第3楽章のスケルツォは特に有名で、単独にオーケストラで演奏されることもある。例えば、トスカニーニのCDにこの楽章のみのトラックがあったように思う。あるいはHooked on Classicsの中のHooked on Mendelssohmにも登場する。

日増しに暑くなっていく梅雨の中休み。真昼間だというのに窓を開け放ち、垣間見える東京湾から吹く生温かい風に打たれながら、この曲を大音量で聞いた。メンデルスゾーンほど夏に良く合う作曲家はいない、などとのぼせながら思ってみたりする。

2014年6月22日日曜日

ハイドン:交響曲第87番イ長調(クルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団)

ここまで6曲に及ぶハイドンの「パリ交響曲」を、手元にある様々な演奏で聞いてきたが、ここにもう一組、忘れることのできない素敵な演奏がある。まだドイツが東西に分かれていた1971年に、東ベルリンにあったベルリン交響楽団を、クルト・ザンデルリンクが指揮して録音した「パリ交響曲集」の2枚組である。

私はこの演奏をはじめて聞いて(それは第86番の冒頭だった)、その瞬間に「しめた」と思った。思いがけず掘り出し物に出会った時の喜びが、私をとても幸せな気分にさせたからである。全く古さを感じさせないどころか、鮮明で生き生きとした録音と、ふくよかで深みがあり、それでいて端正な演奏は、モダン楽器で演奏されたハイドンのもっとも完璧なもののひとつ(例えばジョージ・セルの演奏がそういう部類に入る)ではないかと思った。

序奏なしで始まる第1楽章はヴィヴァーチェ。一定のリズムを小刻みにしながら進む様は、モーツァルトのカッサシオンなどにも見られるもので、当時の流行なのだろうか。この曲は「パリ交響曲」の中ではもっとも大きな番号の第87番となっているが、作曲はもっとも早い1785年頃と言われている。11分も続くその第1楽章はまったく飽きることがないくらいに素敵だが、それが展開部、再現部などに変わっていく様子が、いい演奏で聞くと手に取るようにわかる(アーノンクールもそのいい例だろう)。

第2楽章の美しいアダージョでは、最後のところで小鳥が鳴くように、木管楽器がさまざに絡み合う。長いがすぐに終わる様な気がするのは、演奏がいいからだろうか。続く第3楽章のメヌエットはオーボエの独壇場。

最終楽章もすこぶる印象的だ。特に中間部に展開されるフーガは興奮を覚える。ザンデルリンクの演奏で聞くと、細部にまでクリアに聞こえ、雨上がりの高速道路を走っているように爽快な気分である。繰り返しが行われるのでたっぷりと味わうことができる。この曲と第86番の2つの曲は、様々な演奏で何度も聞きながら、ここ数日の私はとてもいい気分である。

2014年6月21日土曜日

ハイドン:交響曲第86番ニ長調(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)

一時間余りの通勤途中、私はハイドンの第86交響曲を聴き始め、山手線が新宿駅に到着するのと同時にそれは終った。余りに心地がいいので、演奏を変えて同じ曲を聞くことにした。広場のベンチに腰掛けて第2楽章カプリッチョを聞く。梅雨の合間の蒸し暑い日の朝、夜行バスで広島や岡山から到着した若者が重い荷物を引きずって歩く。高層ビル群のオフィスへ向かうサラリーマン等を眺めながら、出勤前のひとときは過ぎていった。

この曲はニ長調で書かれ全体的にとても充実した印象を与える。それは「パリ交響曲」中もっとも優れた曲だと言われている。メリハリが効いている上に、時折ずっしり堂々とした響きがあるかと思えば、随所にハイドンならではの優雅さと軽やかさも感じられ、そのバランスが好ましい。私見ながらその後のザロモン・セットへと至る晩年の、錚々たる作品群のまさに最初の作品ではないか。

例えば第3楽章のメヌエットがこれほど印象的な曲は、珍しい。その充実ぶりはトリオの部分になると一層際立ち、一つ一つの音符が意味ありげに響く。第1楽章の何かが始まるような荘重な序奏が終わると、明瞭快活な主題かと思いきや、幾分不安定な、やや影の感じる主題が走りだす。だがそれもつかの間で、すぐさま「静かな熱狂」が感じられるあたりは、ハイドンを聞く楽しみの一つの典型であるとも思える。走り出したくなるかと思えば、転調によって景色の色合いが変わる。

第2楽章の長いメロディーも、飽きることはない。優雅なステップと時折フォルテの小節も出現して、スカッとする。総じてこの曲は、とてもいい曲で、隠れた名曲であるとも言えるのではないか。

サイモン・ラトルはバーミンガム時代にハイドンのCDを2枚リリースしているが、その選曲は極めてユニークである。それらはホーボーケン番号の小さい順に、第22番、第60番、第70番、第86番、第90番、それに第102番である。この他の作品の演奏はないが、ベルリン時代になって第88番から第92番までの「隙間」の作品を取り上げ、これも大変素晴らしい。どういう理由でこのような選曲となったがわからないが、その中に「パリ交響曲」から唯一第86番が収録されていることは見逃せない。

サイモン・ラトルの演奏はモダン系楽器を使いながらも古楽奏法の影響を受けたものとなっている。その音色もさることながら、スポーティーで弾むようなリズム感がこの演奏の魅力である。すなわち静かな部分では、体をゆすりたくなり、早い部分では走り出したくなる。乗って聞いていると、小さな音符が次第に大きな音に変わっていくようなシーンに何度も出くわし、この曲がこういう曲だったかのか、と思う時がある。つまり大変ユニークな演奏と思う。

2014年6月16日月曜日

ハイドン:交響曲第85番変ロ長調「王妃」(ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク)

古楽器による演奏のおかげで、それまで平凡に思われていた曲に新たな息吹を感じることが多い中にあって、この第85番変ロ長調もそのひとつだろうと思った。アーノンクールによる霊感に満ちた「パリ交響曲」を聞いた後では、よりその違いが鮮明だ。そして私は、またひとつの期待を裏切らない演奏家、ブルーノ・ヴァイルが組織したカナダの演奏団体ターフェルムジークによって、生き生きとした曲に蘇ったこの曲を聞くことができた。

静かな序奏で始まる第1楽章は、よくあるハイドンの出だしだが、フレッシュで心地よい疾走感の主題が始まると、刺激的で幾分早めな速度が何とも心地よい。ハイドンの典型的な楽しさが、ここにも十分表れている。

第2楽章の静かにステップを踏む演奏も、最初はただ長く、眠い曲だと思っていたが、何度目かに開眼する。やはりアーノンクールの注意深く思慮に富んだ演奏がそのきっかけだった。この曲はマリー・アントワネットが好んだため「王妃」というニックネームで呼ばれるという逸話が、嘘ではないように思われてくる(いい加減なものである)。そしてこの曲が、当時流行していた歌のメロディーだと知った。

第2楽章の後半で、旋律にフルートが絡む。丸でお花畑の蝶々のように、上がったり下がったり、予測できないように見えて一定のリズムがある。何とも楽しいのだ。

第3楽章のメヌエットを経てプレストの最終楽章に入ると、一気に5分もかからず終わる。コンパクトで楽しい曲だが、もっとあとの曲に比べるとインパクトが少ない。だから演奏される機会も少ないし、私も今まで聞いたことがなかった。

2014年6月9日月曜日

ハイドン:交響曲第84番変ホ長調(シャルル・デュトワ指揮モントリオール・シンフォニエッタ)

「パリ交響曲」を聴き始めて「めんどり」「熊」の後は、名前なしの作品である。けれどもこの作品は意外に味わい深い。第1印象はとてもなめらかな曲だということ。比較的長い序奏は、静かにロマンチックである。少し重いなと感じ始めたら、第1主題が始まる。その何と流麗なこと。このメロディーを聞くと、どこかで聞いたことのあるような音楽のように思えてくる。

そうだ。これは紛れも無くシューベルトの雰囲気である。シューベルトとハイドンが同居している。実際にはお爺さんと孫ほどの年齢差があったと思うが、この作品はシューベルトの作風を先取りしているように思う。

流れに乗って第2楽章に入ると、Andanteの長いダンス風の音楽になる。だがここでもどこかシューベルト風。静かで叙情的な雰囲気は、風に乗って水原を行くかのよう。ちょっと長いので眠くなるが、音程が飛躍せずなめらかなのである。

短いメヌエットはきっちりとした曲だが、特に際立った特徴があるわけではないようだ。一方第4楽章のヴィヴァーチェでは再び快活な音楽である。全体に親しみやすく、目立たないが心地よい曲である。

演奏はシャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団(のメンバで構成される小規模な管弦楽団)で聞いてみた。このコンビの古典派作品は大変珍しく、私の記憶ではこれだけではないだろうか。モーツァルトもベートーヴェンも録音していないように思う(もちろんシューベルトも知らない)。だがより多くの刺激的な演奏に交じると、地味な存在であることは否めない。

2014年6月8日日曜日

ロッシーニ:歌劇「チェネレントラ」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

私の「チェネレントラ」との出会いは、「セヴィリャの理髪師」よりも早い。90年代の前半、この曲の決定的とも言える録音が出現したからである。チェチリア・バルトリが標題役を歌い、リッカルド・シャイーが指揮するDECCA盤がそれである。当時の私はロッシーニと言えば、いくつかの序曲くらいしか知らなかったので、オペラ全曲盤のCDはロッシーニはおろか、他のオペラも数えるほどしか所有していなかった。

ところがこの録音はすこぶる評価が高く、内外の音楽雑誌を絶賛させていたし、確か何かの賞にも輝いた。そんなにいいのならひとつ買ってやろう、と私は2枚組のCDを、曲も知らずに買ってしまった。新譜だったので結構高かった。けれども序曲が始まるや否や、そのあふれんばかりの輝かしい音の連続に、耳を洗濯されたかのような錯覚にとらわれたのである。6畳一間の会社の独身寮で、私は毎日この曲を聴き続けた。バルトリだけでなく他の歌手達も素晴らしいし、それになんと言ってもシャイーのスマートでテンポのいい指揮と、それを捉えた見事なブリリントな録音が、今もってこの曲のベスト盤としての地位を確保している。

当時、シャイーの前にはクラウディ・アバドによるロンドン交響楽団の演奏が唯一と言っていいくらいに知られていた。この演奏は、この曲の評価を世間に知らしめた画期的な演奏だった。アバドの演奏には、後年ビデオに撮影されたもの(こちらは確かスカラ座)もあって、それはテレビでも放映されたから私はテープに撮って見たことがある。シャイーの録音で聞いた音楽が、このような作品だったかと改めて知ることになるその演出は、ジャン=ピエール・ポネルによる才気に富んだもので、今持ってこの曲の代表的な映像である。

この代表的な2つの録音に勝るとも劣らない成功を収めたのではないかと思われるのが、今回MET Live in HDシリーズの今シーズンのトリを受け持った「チェネレントラ」であったと思う。豪雨の中を東劇まで見に行ったのは数日前のことだが、未だに私の頭の中には、ロッシーニのクレッシェンドが鳴り響いている。鮮烈さにおいてファビオ・ルイージの指揮は、シャイーには及ばないが、映像を伴っていることで見応え十分であり、アバド盤にないライブの良さがあるのと、アバドよりも即興性と愉悦感において優っていると思われる。

標題役はアメリカ人のメゾ・ソプラノ、ジョイス・ディドナートである。それにお似合いの王子役には、これまた当代一のベルカント・テノール、フアン・ディエゴ・フローレスが受け持つ。今回がこの役を歌うのが最後だと宣言したディドナートは、この役を当たり役とし世界各地でフローレスとのコンビを披露している(マドリードでの映像がリリースされている)。ディドナートとフローレスはここ数年のMETにおける一連のベルカント物の定番歌手で、私もこれまでにロッシーニでは「オリー伯爵」(イゾリエとオリー伯爵)、「セヴィリャの理髪師」(ロジーナとアルマヴィーヴァ伯爵)、それにドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」(マリア)など数々の名演に接してきた。

ディドナートは叙情的ながら力強くもある歌声で、めくるめくベルカントの世界を表現した。私の文章力だと実感がうまく伝わらないので、松竹のホームページに掲載されたニューヨーク・タイムズ紙の現地評を引用させていただくと、彼女は「まばゆい魅力に溢れ、勇敢で、愛すべき感動的なシンデレラをMETで演じ、大成功を収めた。彼女は茶目っ気たっぷりに微笑みながら、超絶技巧を次々と繰り出し、胸の底から響く低音域からキラリと光る高音に軽やかに歌い上げた」。

フローレスの見事さについても、わざわざ私がつたない文章を書く必要はもはやないと思う。最大限の喝采をさらった彼の歌声は、第2幕のアリア「誓って彼女を見つけ出す」で最高潮に達し、とうとう鳴り止まぬ拍手に答えて再度舞台に姿を現すという(近年あまりない)状況に至った。

それ意外の歌手についても不満はほとんどない。意地悪な義姉妹、クロリンダとティスベは共にアメリカ人でソプラノのラシェル・ダーキンと、メゾソプラノのパトリシア・レスリーによって歌われた。彼女たちの意地悪さは見ていてもちょっとしたもので、役になりきっている様はインタビューの時のやりとりやカーテンコールにまで演じきる力の入りよう。一方、3人のイタリア系男声陣、すなわち彼女たちの父親ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリ(バリトン)、王子の従者ダンディーニのピエトロ・スパニョーリ(バリトン)、それに王子の先生で哲学者のアリドーロのルカ・ピザローニ(バス・バリトン)は、いずれもベテラン・イタリア人としてきっちり脇を固めていた。

演出(チェーザレ・リエーヴィ)は寓話的で、この物語が「シンデレラ」であることを意識していると思う。見せ場は空を飛ぶロバ、嵐のシーンでの光と炎、それにフィナーレでの巨大なウェディング・ケーキである。やりすぎれば安っぽくなるのだが、丁度その前で止まった。そういえばソファの足が一本折れていて座るたびに傾く演出も笑いを誘ったし、第2幕の6重唱「これは絡みあった結び目」では並んだ6人をひとつの紐で王子が結んでいきながら歌う。見ていて何とも楽しいのは、映像があるからだ。

ファビオ・ルイージの指揮について。この公演の成功の鍵は、指揮者にもあるだろうと思う。ルイージはロッシーニの指揮のコツについて「急ぎ過ぎないこと」と答えている。彼は前日夜に「蝶々夫人」を振った後、このMET Liveに登場し、その後夜にはアムステルダムに向けて出発するそうだ。よくそんな体力が持つものだと感心するのは、インタビューアのデボラ・ヴォイトしかりである。ルイージは本作品を初めて指揮するとは思われないほど、つぼを心得ていたように思う。重唱の多いこの作品で、歌のアクセントが極めてよく揃え、音楽が弛緩することなく続く。第1幕の「静かに、静かに」あたりから続くフィナーレなど、見ていて惚れ惚れするような歌の連続は、この堅実な指揮によって可能となったと思われる。

総合的に考えて、現在望みうる最高の出来栄えとなった「チェネレントラ」は、今シーズン最後を飾るに相応しい大成功だった。見終わった時、美味しいものを満足行くまで食べたような幸福感に見舞われた。同行した友人のM君と豪雨の中を近くのバーまで歩き、興奮醒めやらぬ気分でビールを傾けた。私は彼に仕事を少し休んででも6時半の開演に間に合わせるようにと忠告し、彼は正確にそれを実行した。「みんなつまらない仕事をしているが、私達はロッシーニのオペラの楽しさを知っているというだけで密かな優越感にひたれるじゃないか」と語り、「どうせ頑張って出生し、金持ちになっても、やりたくなるのはオペラを見ることさ。それなら今日もやっているじゃないか」などと言い合った。彼は「誰もが偉くなれるわけじゃないし、そうなったとしても健康であるとは限らない」と応じてくれた。

2014年6月4日水曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(ローマ歌劇場日本公演、2014年6月1日NHKホール)

非常灯までもが消えて会場が暗くなってからしばらくが経った。やがて拍手が鳴り響く中をリッカルド・ムーティはゆっくりと指揮台に立ち、振り返って会場を見上げた。3階席からは早くもブラボーの声が響く。ムーティはおもむろに舞台の方へ向きをかえタクトを振り下ろした。金管楽器の静かな和音が鳴る。それだけでこの音楽がヴェルディの音であることを語っていた。フルートがあの有名なメロディーを奏で始める。歌うところではめいっぱいカンタービレとなり、速いところでは一目散に勢をつけて走りだす。これはやはり上手いと思った。序曲だけで私は圧倒された。

またもやブラボーが叫ばれるといよいよ幕が開き、舞台上に並んだ合唱団が冒頭の歌を歌う。「祝祭の飾りは落ちて砕けよ」。乙女たちとレビたち。その中に混じってザッカリーア役のドミトリー・ペルセルスキーが2つのアリアを続けて歌う。「エジプトの海辺で」「太陽の輝く前の夜のように」。ペルセルスキーは先週見た「シモン・ボッカネグラ」で重厚なフィエスコ役を演じ私を心底感動させたのだが、この「ナブッコ」においても圧巻であった。おそらく今回はペルセルスキーにつきると思った。

そこへ紛れ込む奴隷の娘アビガイッレは、当初予定されていたタチアナ・セルジャンに代わって、ラファエラ・アンジェレッティが登場した。この案内はあまり目立つようには掲示されてはいなかったが、このことが非常に不親切に思われた。そしてこの交代は私を大いに失望させた。アンジェレッティの歌唱は綺麗なのだが、力が不足気味に感じられた。広いNHKホールに声を轟かせるのは難しいかも知れないし、それがアビガイッレ役ともなると2オクターブもの高低差を行ったり来たり。その難役を演じきることは大変なことだろうとは思う。だからこそ本命の歌手が代わったことを、残念に思わざるを得なかった。おかげでザッカリーアやナブッコとの二重唱も、やや気の抜けたもののように感じられた。

イズマイーレとフェネーナも、最初は少し力不足に思えた。だが彼らは登場するシーンがもともとそう多くない上に、出来が次第に良くなっていった。フェネーナのソニア・ガナッシは、特に第4部において絶賛されるべきレベルの「天国は開かれた」を歌ったことは印象に残っている。

ザッカリーアに次いで素晴らしかった歌手は、主役のナブッコを歌ったルカ・サルシだったと思う。彼はヴェルディの繊細なバリトン役を、ある時は力強く、ある時は思いを込めて歌った。すなわち第1部フィナーレでの怒涛のごときアンサンブル、第2部における王冠奪還のシーン(ただし稲妻に打たれる)、第3部のアビガイッレに対する父親の愛情と弱さ、さらには第4部における改宗のアリア「ユダヤの神よ」などである。各部で見せ所のあるナブッコがつまらなければ、このオペラはやはりつまらなかっただろう。

合唱が活躍するのが「ナブッコ」の大いなる見どころである。ローマ歌劇場の合唱団はさすがにイタリアの合唱団だと思った。ひとりひとりがそれぞれに歌っている。その総合的な力は、まさにヴェルディの歌となっていく。これはオーケストラにも言えることだが、彼らとしてはヴェルディの音楽を、そういう個人個人の思いと力の集合体として捉えているように思える。ややくすんだアンサンブルも底堅く美しく、やはりこれは自分たちの音楽であるというプライドが感じられる。

ムーティの指揮は、歌う時には歌い、力強くあるべきところでは瞬発的に音が鳴り響いた。メリハリのある流れも、かつてのように力みを感じることはもはやなく、それでいて緊張感を維持する。ツボを得た指揮は、オーケストラも合唱団も安心して力を注ぐことができるのだろう。力を抜くことはない。つまりは真面目で、細部にまで神経が行き届き、古い録音に見られるような、慣性的な曖昧さを持つことがない。だからレコードのように美しい。

第3部では、幕前で演じられたナブッコとアビガイッレの二重唱に続く「行け、我が思いよ」の前で、ムーティはきっちりと間を置き、その後には幕が静かに開くと、捕虜となったヘブライ人の合唱団が舞台いっぱいに広がっていた。ここのシーンが第一の見せ場だったと思う。ジャン=ポール・スカルピッタの演出は、派手ではないが退屈なものではなかった。最小限のセットをうまく駆使して、それなりに新鮮なものであったと言って良い。雷のシーンも目立たせず、むしろ音楽にこそ注力されるべきだとのムーティの考えに沿ったものだろうか。偶像か壊れるシーンもほとんど存在しないに等しいくらいのものだった。

アビガイッレの美しいアリア「かつては私も」などが不調に終わり、やや不満はないことはなかったものの、総じてこれは現在望みうる「ナブッコ」の最高ランクの演奏であったと想像できるし、ローマ歌劇場はムーティとの関係により、おそらくは現在望みうる最高の本場物ヴェルディを演奏していることも確かなものに思えた。そうであればあるほどこの公演は、「ナブッコ」のオペラとしての魅力と限界を、おそらくは最高の形で示し得たのではないかと思う。ただ残念なことは、少し広すぎるNHKホールのせいで、何人かの歌手の声が届きにくかった。重唱になれば、特にその欠点が助長された。

何度かのカーテンコールが終わると幕が再び開けられ、舞台上にオーケストラのメンバーも上がって総立ちの観客の拍手に応えた。一連の引越公演が全て終了した。舞台には「大成功ありがとう」「SAYONARA」などと書かれた横断幕が広げられ、合唱団と歌手、それに指揮者はいつまでも手を握り合っていた。まだ6月というのに33度もの気温を記録した東京も、まもなく梅雨のシーズンに入る。まるで地中海性気候を思わせるこの1週間は、その直前のもっとも輝かしい初夏の陽気に、来日した演奏家も大いに東京滞在を楽しんだのではないか、などと想像しながら雑踏の渋谷駅へと下っていった。

(下の写真は1994年、ローマを訪れた際に撮影したもの。歌劇場の前。)

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...