2018年1月31日水曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K595(P:クリフォード・カーゾン、ジョージ・セル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ギレリスによるこの曲の演奏が私の個人的なベスト盤であることは先に書いた。そしてその状態を変えたくないとも思っている。同時にそれは、この曲を気軽に聞けなくさせてしまっていると言っても良い。だから、そういう特別な演奏ではなく、もっと気軽に聞きたいときにどうするか、という問題があった。

K595は天国の音楽で、夭逝したモーツァルトを象徴する音楽、と私は思っている。その演奏は繊細で、そっと人の心に寄り添いながらも、一面で醒めた部分がそれとなくないといけない。このような演奏としては、何をおいてもカーゾンの演奏を思い起こす。実際そのレコードは、モーツァルトの演奏史上の名演と言ってもいいほどの評価である。

彼は第20番と第27番をベンジャミン・ブリテンの指揮で、そして第23番と第24番、それに第26番「戴冠式」をイシュトヴァン・ケルテスの指揮で、それぞれ録音している。前者が1970年の録音で、この2曲を収録したCDが世に名高い。

だが私はまたしてもこれらの演奏を聞いたことはなく、ここではカーゾンが1964年に演奏したものを取り上げることになった。録音はブリテン盤の6年前だが、リリースされたのは2000年頃で、録音嫌いだったカーゾンとしても特に遅い、死後20年近く経ってからのリリースだったと言うことになる。

ここで驚くべきことには、この録音はDECCAの正規の録音だということで、名プロデューサーのジョン・カルショーの名前が記載されているし、何と伴奏がジョージ・セルとウィーン・フィルという贅沢なものだということである。演奏は実際、その名に恥じない名演であると思う。

セルはクリーヴランド管弦楽団との演奏のように、すべてが機械のように正確、というわけではないところが興味深い。ウィーン訛りの、ややテンポが動く様子が第1楽章からわかるが、カーゾンのピアノが入ってくるとピタリと合わせ、きっちりと、しかし無機的にならず、言わば質実さの中にこそ宿る澄まされた感性がモーツァルトの孤独感を強調している。

この状況がもっとも良く表れているのが第2楽章で、クラリネット協奏曲と同じ時期に書かれた曲の「しみじみと語りかける演奏は涙なくして聞けないほど(2005年のライナー・ノーツより)」である。

私は最近数多くの街道歩きや散歩を繰り返し、その間中、音楽を聞くことが多い。ギレリスの演奏は、澄んだ夜に聞くととてもいい。それに対し、セルの伴奏によるカーゾンの演奏は、日中の陽気の中で聞くのが好きだ。だがどちらの演奏も第2楽章になると、時間が止まり、どこか違う世界に漂うような感覚に襲われる。静かな音楽なのに、その他の雑音が耳に入らなくなる。消え入るような小さな音にも、そうとは感じさせないながらも確固たる感覚が宿っている。つまり他の者を寄せ付けないほど悟りきったゆえに自由で豊かな心象が感じられるのである。名曲ゆえに名演奏は多い。けれども、この感覚が表現されている演奏には、なかなか出会うことができない。

2018年1月27日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K595(P:エミール・ギレリス、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

真っ白いキャンバスにひとひらの蝶。私がこのモーツァルト最後のピアノ協奏曲からイメージするのは、このような光景だ。もし自分が亡くなったら、告別式で流して欲しいと思った曲、それがこのK595である。いまから16年以上前、生死の間を彷徨うことになる大病を患った。いつ終わるかもわからない治療が始まるという時、入院前にCDを何枚か持っていこうと思い、迷わず選んだのがこの曲だ。その思いは今でも変わっていない。

演奏も決まっている。ソビエトのピアニスト、エミール・ギレリスがベームと組んだ一枚。オーケストラは勿論ウィーン・フィル。1973年、ドイツ・グラモフォンの録音。カップリングされた「2台のピアノのための協奏曲」とともに数少ないギレリスのモーツァルトだが、これがこの曲の中では最高の名演に入るのではないか。ここで私は、ベームがバックハウスとともに録音したこの曲の、またひとつの最高峰とされる演奏を聞いたことがない。だが少なくとも現時点では、その必要がない、というか、これ以上の演奏に接するのを避けているというのが正確な表現か。

だから、これは極めて個人的なこだわりのある演奏である。だがそれと同時に、客観的に見ても、この曲の持つ特別な意味と感覚を、ひときわ優れて表現していると思う。穏やかで清らか、静謐で、それでいて表情の子細な変化に微妙に寄り添う音楽への慈しみ、そして生に対する愛おしみ。モーツァルトが死のわずか11か月前、友人のクラリネット奏者のために書いた曲は、予約演奏会のために順風満帆の作曲生活を送っていた頃とは全く違う、いわば個人的な思いのこもった曲だと信じたい。

つぶやくように繊細なピアノの音色は、決して大きな音を出すことのないオーケストラの全体やソロに合わさると、急にその表情を変える。モノローグの隙間にそっと現れる光と影の移り変わりに、聞き手は心をぎゅっと締め付けられる。そしてモーツァルトの凄いところは、それをまるで子供でも弾けそうな簡単なフレーズでやってのけるところだ。余計な装飾音はないほうがいい。

第1楽章。そっと南風が吹いてくるように始まるオーケストラは、ときにぷっつり途切れる。最初聞いた時は、どうしてそうなるのかわからなかった。でもまたその風は、同じようにやわらかく吹いてきて、やさしく頬を撫でる。だがこれは冬の音楽である。春のような音楽にしてしまうのは良くない。少し冷たい風、ちょうど今頃の季節である。

第2楽章のピアノが、独り言をつぶやくように、おもむろに主題を弾き始める時、得も言えぬような心の安らぎを覚える。同じメロディーを繰り返すオーケストラは、ピアノと同じ気持ちでここを奏でる必要がある。ピアノとオーケストラは平行して同じ感覚で歌い、両者は共にひとつの平和な世界に入ってゆくのだが、決して交わることはない。人と人がどんなに愛し合っても、分かり合うことがないように。ピアノの音はオーケストラからは独立しており、そのことが聞くものの孤独感を強める。だが決して淋しくはなく、そう思うことで、いっそ幸福に満ちているのがこの曲の持つ不思議な力だ。

第3楽章はもう諦観の境地である。この吹っ切れたような遊びの感覚は、まるで子供の時代の断片的な光景を回想するかのようだ。もしかしたら死の直前は、そのような感覚になるのだろうか。いや、こういうことを書くのはやめておこう。これはひとつの想像に過ぎないのだから。音楽をどう聴こうと勝手である。だがこの曲を「天国の門」と呼んだアインシュタインの言葉を知るようになるより前から、私はこの曲をまさにそのようだと思っていた。

ギレリスのピアノとベームの伴奏は、このような感覚にピッタリで、これとは違う演奏に出くわすことにためらいを感じている。この曲の壊されたくないイメージを、私はこれからもずっと持ち続けて行くだろう。だから、この演奏が持つ要素を欠いた演奏に出会うと、私はほっとする。そしてこの曲や演奏について、何かを書くことほど勇気のいることはない。ギレリスによるK595は、そっとしておいてもらいたい個人的な宝物である。

「春への憧れ」は、命への憧憬である。だからこの曲は、まだ春が遠い冬の、よく晴れた日に似合うと思う。丸で今日の東京のような日だ。そして今日1月27日こそ、まさにウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの誕生日である。

2018年1月25日木曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調K537「戴冠式」(P:内田光子、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団)

無機的だとか、出来損ないだとか、手抜きだとか、何と言われようと私は「戴冠式」と呼ばれるピアノ協奏曲が好きである。理由はいくつかある。まず第一にとても親しみやすく、聞いていて飽きないということだ。特に聞いていて疲れない。第二に、おそらく誰が演奏してもそこそこの演奏になると思う。そして第三には、この曲の持つ伸びやかな楽天性と、行進曲のようなメロディーが好きだからだ。

だからこの曲はシンプルで、簡単すぎる。つまりは深みに欠ける、と言われる。だがまさにそれゆえに、私はこの曲を好む。そもそも考えてみれば、いつから音楽を難しく聞くようになったのだろうか?クラシック音楽は、考えなければわからない、頭で聞くべきだと言われる。私もそう思う。理由は簡単で、そのように作曲されたからだ。ちゃんと頭を使って理解するように作られた音楽。だがそのような難しさ・・・芸術性を持つのはベートーヴェンの中期以降、マーラーまでではないか。

モーツァルトのすべての音楽はそれ以前に作曲された。この時代はまだ、音楽は感性で聞けば良かった。そしてそれは20世紀なって復活する。すなわち音楽が、本来の音楽に戻ったと言ってよい。19世紀の音楽はそういう意味で特殊である。その時代に作曲された「クラシック音楽」は、それゆえに面白い。

モーツァルトの音楽を19世紀を経たあとで聞いている。そしてそこにあるのは、まだ音楽が難しい衣をまとっていなかった時代の光景だ。天衣無縫、天真爛漫な音楽は、そのように聞けばいい。その証拠に、この「戴冠式」というタイトルが付けられた音楽が作曲された時、モーツァルトは失意と絶望のどん族にあった。

予約演奏会のチケットが売れないから作曲ができない。作曲ができないから演奏されない。そういう日々が続き、この曲はたまたま フランクフルトで行われた神聖ローマ皇帝レオポルト2世の戴冠式で演奏された。だからこういうタイトルがついている。

クラシック好きがしばしば陥るつまらない問題は、音楽に必要以上の解釈を付け加えようとすることである。これを回避するひとつの方法は、演奏家と同じような音楽的知識をもつことだ。なぜ「戴冠式」はニ長調か、はたまた第2楽章に左手のパートがない問題をどうするのか。

だがそんなことは専門家に任せておけばよく、モーツァルトの研究者なら追及する価値があるのだろうが、リスナーとしては何もそこまでしなくてもこの曲は楽しい。第一冒頭からうきうきするメロディーだし、第2楽章はこんなに簡単なメロディーが、何でこんなに美しいのか、と信じられない。そして第3楽章は再び愉悦の連続!

何を隠そう私はこの曲でモーツァルトのピアノ曲を知った。それはヘブラーの演奏する「戴冠式」だった。こんなに素敵な曲が、何て楽しいのだろう!だがそのLPレコードに書かれていた解説には、信じられないことが書かれていた。「この曲は音楽的価値に乏しく、従って他の作品からは一段低いとみなされている」 云々。もちろん「それはモーツァルトという天才作曲家のレベルでの話だが」とか何とか断ってあったとも思う。だが子供の私には信じられなかった。「えっ、どうして?こんないい曲が?」カップリングされた第27番よりも、実際のところ印象的だった。

だから私は自分の小遣いで2番目に買ったCDが、内田光子の演奏するこの曲の新譜だった。もっとも私はこのイギリス生まれウィーン育ちの日本人ピアニストをよく知らなかった。メジャー・レーベルで、全曲録音を進行中の彼女は、海外での方がよく知られた音楽家だった。私の買ったCDも輸入盤だった。

当時私はまだ「レコード芸術」などという雑誌をたまには読んでいて、そこに連載されていた吉田秀和氏のエッセイなども目にしていた。あまり深く読むことはなかったのだが、その月はどういうわけか、このCDを取り上げていて、私は深く読み込んだ。そして内田光子のピアノのことが詳しく書かれていたのを覚えている。第2楽章の装飾音の付け方が独特で、それは賛否あるようなのだが、この第26番に関する限り私はとてもチャーミングだと思う。ちょっと失礼な言い方かも知れないが、やや知が勝る彼女の音楽に対し、このモーツァルトの簡単な音楽は、よく中和され似合っている。

テイトはここで実によくやっている・・・とかいうフレーズに私はこの演奏の購入を決意した。伴奏の良さは、見逃せない要素だからだ。もっともいい演奏は多い。第一に思い出すのはペライアで、同じオーケストラを弾き振りしている。もしかするとこちらの方が完成度は高いかも知れないが、録音が硬い。第二にはヤンドーのナクソス盤。誰も褒めないが私は気に入っている。そしてカザドシュはそうとは気づかないほどの卓越したテクニックで第3楽章などとても速い。ヘブラーは明るく陽気。そしてグルダのアーノンクール盤は、これだけ聞き古してもなお新しい風を吹き込むことができることを証明した。

こんな魅力的な曲の評価がどうして低いのか、私にはよくわからない。

2018年1月22日月曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番ハ長調K503(P:リチャード・グード、オルフェウス管弦楽団)

ピアノ協奏曲第25番を初めて聞いた時、壮大でとても力強い曲だと思った。特に第1楽章の冒頭は、それまでにない広がりを持ち、明るく前向きで、そして流れるように華麗である。ハ長調、というのがその理由のようだ。この調性を持つモーツァルト作品としては、何といっても「ジュピター」の異名を持つ交響曲第41番K551が思い浮かぶ。そして戴冠ミサ。

鳴り響いたオーケストラは何か劇の幕開きのようである。音階は上下に階段状に上がったり下がったりしながら、ほれぼれするような自発性と輝きを放つ。私はベートーヴェンの「皇帝」のピアノ協奏曲などのモデルになったのではないか、などと想像してみたりするのだが、意外なことにこの曲を実演で聞く機会は少なく、そして録音もどういうわけか少ない。

私がモーツァルトの20番以降の作品で、最後に触れたのもこの第25番であった。なぜだろうか。これも私の個人的感想でしかないが、どうもカラフルな第1楽章に比べると、残りの2つの楽章は少し地味である。それでも私は、第2楽章を最近好んで聞いている。例えば昨日は、中山道を熊谷から深谷まで歩いたのだが、まるで春のような陽気の中、田園地帯を歩きながらこの曲を聞いていた。蝶々が飛んできそうな、そんな気分にさせられる瞬間があった。静と動の妙味とでも言おうか。遠くに北関東の山々が見える。

その時持ち歩いた演奏は、リチャード・グードによるもので、この曲を含めピアノ協奏曲を10曲集めた5枚組のCDは、なかなか素晴らしい出来栄えである。グードと言えばベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がすこぶる有名だが、そのグードがオルフェウス管弦楽団と競演して、すばらしく完成度の高いライヴを繰り広げていた90年代後半の記録である。ベートーヴェンを得意にしているピアニストによる第25番というのが、なかなかいい。

実際この第25番と第23番は出色の出来栄えで、第23番は1981年の古い録音も収録されている。オルフェウス管弦楽団は指揮者のいないオーケストラであることから、これは弾き振りというわけではなく、室内楽的にお互いの呼吸を合わせた結果の演奏である。ところが音楽が小さくなったり、息苦しくなったりしていない。それどころかこの第25番に相応しい堂々とした風格も感じさせる。まさに驚異的というほかない。そしてグードのピアノのほれぼれとするテクニックは、能動的で安定感のある伴奏に乗って、ストレートな音楽を表現している。それが第25番にこそ相応しいのだ。

ベートーヴェンがこの曲をどう聞いたかわからないが、想像するに技巧派ピアニストとしてモーツァルトの後継たらんとした彼は、モーツァルトの音楽をよく研究したに違いない。第20番に彼のカデンツァが残されていることからも、それは明らかだ。だがベートーヴェンがウィーンで活躍を始める頃、すでにモーツァルトの人気は凋落し、早世してしまう。モーツァルトのピアノ協奏曲第25番は長年埋もれたままとなり、モーツァルト自身ピアノ協奏曲からは遠ざかってしまう。無機質と言われる「戴冠式」と、そして天国のつぶやきである第27番を除いて。

2018年1月20日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調K491(P:エフゲニー・キーシン、コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団)

ピアノ協奏曲第24番K491の特徴は、まず第一に短調であるということ。短調のピアノ協奏曲は第20番K466とこの曲のみである。次に、第22番K482、第23番K488でオーボエを外し、クラリネットを採用していた編成は、再びオーボエが復活、さらにティンパニやトランペットも加わって大規模なものとなっている。この傾向は次の第25番で一層顕著である。作曲年代は第25番とともに1786年とされており、このあとしばらくはピアノ協奏曲から遠ざかるため、いわばウィーン時代の中期の最後の作品のひとつということになる。

同じ短調とは言ってもK466がとても激情的であるのに対し、K491はどこか悲しく、暗い。けれどもその中に抒情的なパッセージが溢れていて、私は結構好きである。そして私はこの曲に、どうしてもベートーヴェンを見てしまう。もしかしたらこの曲はベートーヴェンが好み、研究した作品ではないか。次の第25番についても、「ダダダダーン」の運命の動機が頻繁に出てくる。これらの二つの曲を合わせると、ハ短調、運命という流れが垣間見える!

もちろん、これは一愛好家の思い付きである。だがどうしてもあのベートーヴェンのピアノ協奏曲につながるような雰囲気を感じてしまう。第1楽章の出だしは陰鬱だが、独奏が出てくるとほんのりとロマンチックな香りがしてくる。

第2楽章のやさしさに溢れるメロディーも、ベートーヴェンを聞いているときに出会うような主題だが、ここを静かに、散歩しながら聞くのが好きである。もっとも木管楽器との触れ合いは、モーツァルトならではのものと思う。冒頭いきなりピアノの旋律が聞こえるのも珍しい。

第3楽章はちょっと冴えない。ここで聞く音楽は、ちっとも楽しくない。でもそれはロマン派へと向かう一里塚のような気がする。だからではないが、私がここで取り上げるキーシンによる演奏は、シューマンのピアノ協奏曲とカップリングされてリリースされ、ちょっと目を引いた。キーシンは他にもモーツァルトのピアノ協奏曲を録音しているが、モーツァルト以外の作品と一緒に発売されたのはこの録音だけだろう。

伴奏がコリン・デイヴィス指揮のロンドン交響楽団で、申し分がないばかりか、音楽が実にピアノに溶け合って、骨格のしっかりした中にピアノがブレンドされている。もしかするとライヴの録音レベルが低く、そのことがこのCDの魅力を損ねてしまっている。スピーカーで聞くと、遠くで鳴っている感じである。だがヘッドフォンで聞くと、音楽の細部まで聞こえてきて甚だ好ましい。

第2楽章などショパンを聞いているような気がしてくるキーシンのモーツァルトに私は好意的だが、決して表面的に綺麗な演奏に終始しているわけではない。 キーシンがデビューした頃、あの小さな体で堂々とした音楽をするものだと感心したのを覚えている。モーツァルトでもそういう側面は存分に維持されていて、デイヴィスの大規模な伴奏とうまく噛み合わさることで、重厚さを持った影のあるモーツァルトを立派に美しく演奏している。

2018年1月16日火曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K488(P:アリシア・デ・ラローチャ、コリン・デイヴィス指揮イギリス室内管弦楽団)

冬の関東平野は雲一つない青空が続くのが特徴で、今年もまたそのような日々が途切れない。けれども大阪生まれの私は、冬と言えば時折曇ったり、晴れたりするものだという印象が強い。西高東低の気圧配置は、シベリア気団から吹き降ろす北西の季節風が日本海上で湿気を含み、裏日本に大量の雪をもたらす。その風が太平洋側に到達するときには乾いたものとなって、真冬の晴天をもたらす。

ところが関西地方は、この日本海側と太平洋側を隔てる山が低い。北風に乗った雲は、丹波の山々を経るうちに少しずつ少なくなるが、大阪に達する時にも完全にはなくならないのだ。冬の大阪平野の上空には、このような千切れ雲がぽっかり浮かんでいて、その量や通り過ぎる速さによって冬の寒さが変わる。これが京都になると、雲の量も多くなり、時に雨や雪が降る。

主婦は洗濯物が乾かないと嘆くが、この関西の冬空が私は好きだ。なぜこのような話をするかというと、モーツァルトのピアノ協奏曲K488ほど陰影に富んだ曲はないと思うからだ。この曲は第22番から第24番まで続く一連のピアノ協奏曲として、1786年頃に作曲された。丁度「フィガロの結婚」が上演された頃で、このあたりを境にしてウィーンにおけるモーツァルトの人気にも陰りが見えてくる。だから、有り余る才能を持ちながら、それが認められない天才の内に潜む心の闇・・・K488ほど、その深い心情を吐露したような作品はない、と私も若い頃から思ってきた。

それは第1楽章の淋しいメロディーからしてそうで、クララ・ハスキルのモノラル録音に耳を傾けながらストーブにあたってい暖をとっていたりするレトロな光景が目に浮かぶ。そして第2楽章に至っては、もうどうすることもできない哀しみ・・・それは切々を胸を打ち、冬の深夜で一人孤独に耐えるような光景になってゆく。第3楽章では、何か吹っ切れたように前を向いて歩きだすが、その時の心情はあくまで自信を見つめる内省的なもので、早すぎないリズムと、時に木管とからみつつ音域を上り下りするピアノの調べは、この曲をモーツァルトの最高作品、いや少なくとも古典派における協奏曲の最高峰に位置づけられる、とまあこんな具合である。

だがそれほどの曲にもかかわらず、この曲の決定的な名演奏に巡り合わない。ハスキルの演奏は確かに良いし、あるときはこれこそK488と思っていたが、何分録音が古い。モノラル録音の情報量は、ステレオのそれに比べると圧倒的に少なく、情報が少ないが故の効果とでも言うべきものによって、実際に聞いたのとは違う要素が付け加わっているようにすら思えてくる。

おそらくこの曲の演奏は、何も足さず、何も引かないというのがいいのかも知れない。何せモーツァルトはこの曲を、それまでとは次元の違う入念さを持って作曲したらしい。ピアノ・パートを完全に書き終えてから、他の部分を作ったという。その証拠にこの曲には、ただ一つのカデンツァ部分が第1楽章に挿入されてえおり、しかもそのカデンツァさえも彼自身が書き残しているからだ、という。そういえばこの曲の自由度は少なく、それはすなわち、モーツァルト自信がこの曲の完成度にこだわったからだ、と言うのだ。

だとすれば、この曲はできるだけ装飾を排し、可能な限り自然で、何もてらうことなく音楽をありのままに奏でるような演奏で聞きたい。そう思いながら数多くの演奏に接してみた。時には、オリジナル楽器を用いたピュア・トーンで聞いた方がいいのではないか、と思い、メルヴィン・タンとロジャー・ノリントンの演奏や、ルドルフ・ブッフビンダーとニクラウス・アーノンクールによる演奏にも触れてみた。タンの世評高い演奏はまさに自然体で、まるで春の野を行くようでもあり、第3楽章などはそれなりに愛らしく素敵ではあるが、この曲の持つ影の部分が少ない。つまり快晴の東京で聞くならいいが、湿度の高い大阪の冬には合わない。

聞いていけばみつかるもので、私の最もお気に入りの演奏は、意外なことにスペイン生まれの女流ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャの再録音である。バックをコリン・デイヴィスがしっかりとサポートしていて、伴奏にも風格があり、それでいて音楽そのものの魅力が、一切の飾り気もなく、それでいて愛しむようなタッチで繰り広げられる様は、モーツァルトの演奏に必要なものと不要なものが何かを再認識させてくれる。

ラローチャはショルティと共演した古い録音があるため、この再録音の時にはすでに高齢で、いまさらまた何も、と思った程だ。90年代に嵐のようにリリースされる有名演奏家の再録音に辟易としていた時期である。そのような中に埋もれ、あまり見向きもしなかったが、今聞いてみるとこれがなかなかいい演奏である。特にこのCDは第24番ハ短調と収録されており、こちらの方もすこぶるいい。

第22番変ホ長調と同様にオーボエ・パートをクラリネットに置き換え、それによってふくよかでしかもひしひしと胸に迫る曲になっているような気がする。K488の魅力は、クラリネット協奏曲と同様、イ長調の魅力であり、さらにオーボエを欠く変ホ長調には交響曲第39番がある。この3つの作品に共通するモーツァルトの作品は、私の個人的なイメージで言えば冬の空。それも雲が時折太陽を覆う、不意に寒さの身に染みる青空である。

2018年1月13日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K482(P:ダニエル・バレンボイム、イギリス室内管弦楽団)

モーツァルトのピアノ協奏曲を聞くと、いつも息子が生まれたときのことを思い出す。良く晴れた冬の寒い日の朝のことだった。陣痛が始まると妻は、モーツァルトを聞きたいと言った(妻の誕生日はモーツァルトと同じ1月27日である)。慌てて私は自分のコレクションのなかから、とりわけ妻が好きだと言うホルン協奏曲集と、それだけでは時間が持たないと思い、ペライアの協奏曲全集を鞄に入れ、タクシーに乗り込んだ。

病院に着くと看護婦が、CDプレーヤーを持ってきてくれた。好きな音楽をかけてもいいですよ、と言う。丁度良かったと思った。私はまずホルン協奏曲を部屋に流し、それが終わるとピアノ協奏曲を片っ端からかけていった。ただし短調の曲を除いて。

何時間たったかは覚えていないが、第22番の時だった。息子は無事、産声を上げた。だから息子はモーツァルトを聞きながら生まれてきた、ということになる。もっとも妻はそれどころではなく、ほとんど覚えていないようだ。

第22番の協奏曲を、それまで私は注意深く聞いたことはなかった。病院でも落ち着いて聞くとはできなかった。そのため、私は翌日に妻を見舞う際、渋谷にあったCDショップへ立ち寄り、違う演奏のこの曲を探した。その時出会ったのが内田光子による演奏である。以後私はこの曲を、長い間内田光子の演奏で聞いていた。内田のモーツァルト全集は、ジェフリー・テイトの上手い指揮と、よく考えられたピアノによって高い完成度を誇る演奏である。私も何枚か持っていたが、この第22番と第23番をカップリングした一枚が、このような経緯でコレクションに加わった。

目立たないが、とても味わい深く、そして適度に愉悦に満ちた曲。それがこの変ホ長調協奏曲の印象だった。私のK482を巡る旅が始まった。第1楽章の喜びに満ちたテンポ、第2楽章の歌うようなメロディー、第3楽章の自信に満ちたリズム。この曲を聞けば聞くほど、すべてのピアノ協奏曲の中でも引けを取らない魅力が満載であることを発見する。

その中で全集の中に埋もれてはいるが、ダニエル・バレンボイムが弾き振りをした最初の録音からの一枚が、非常に感動的である。というのもこの演奏には、他の演奏にはない魅力が全体を通して溢れている、と感じられるからだ。バレンボイムはおそらく、確信に満ちてこの曲を演奏したのではないかと思う。それは通常になくロマンチックで、それでいて情に溺れない。第1楽章からわずかにテンポが揺れるが、それも計算されていると思われる。少なくともオーケストラが揃わないわけではない。

第2楽章のゆったりとした深い味わいに、憑かれない人はいないだろう。この曲はこうあってほしいと思っている聞き手を、完全にノックアウトする演奏である。イギリス室内管弦楽団も、木管楽器のセクションを中心に歩調を合わせ、時には十分に呼吸し、またある時にはそれを溜めて見せる。ピアノが比較的長く休止する部分でも、指揮者としてのバレンボイムは力を抜くことなく、実に見事だ。

第3楽章がこれほど長く感じられることはない。この楽章だけでひとつの作品であるかのようだ。もちろんそれは、中間部に入ると、それまでとは対照的なまたひとつの世界が広がるからである。ここが小さな緩徐楽章とでも言うほどに大きく存在している。やがて再起される第3楽章の主題は、一度聴いたら忘れられないメロディー・・・評論家の宇野功芳は、映画「アマデウス」で使われたこの曲のシーンについて触れている。20代のモーツァルトがウィーンの街を馬車で走ってゆくシーンは、そう言えばそういうシーンで使われていたように思い出す。

わずか36年の人生を彗星の如く疾走したモーツァルトが、もっとも光輝いていた時期にこの曲は作られた。自信に満ち、喜びに溢れた音楽が、何よりもそのことを物語っている。だが「明るければ明るいほど、なぜかモーツァルトは哀しくなる」(講談社「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集版」より)。

快晴の冬空に響くモーツァルト。その調べとともに生まれた長男も、もうすぐ12歳になる。

2018年1月8日月曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K482(P:ロベール・カザドシュ、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団員)

モーツァルトがぴピアノ協奏曲第22番を作曲したのは1785年のことである。この頃からモーツァルトの音楽は、次第に複雑、深遠なものとなり、さながら作曲家の内面を吐露するような作品になっていくとされている。実際、続く第23番はハスキルの名演奏に代表されるように、ひしひしと寂寥感に溢れ、その傾向は二番目の短調作品である第24番でさらに深まると思う。

第22番と第23番の対になるに作品でモーツァルトは、オーボエを省いてクラリネットを用いている。 その斬新さが作品に及ぼした影響については、私の音楽的知識ではうまく語ることはできないのだが、この第22番は非常に木管楽器が目立つ作品である。特に第2楽章の中間に長々と続く、木管楽器のみによって醸し出される協奏交響曲の如き趣きは、それまでの作品にない側面を表しているように感じられる。

一般に「ロマン派」と呼ばれる音楽は、ベートーヴェンより後の作曲家に付けられる区分だが、実際にはベートーヴェンの中盤以降の音楽にその傾向が見られるということになっている。だが、当時ピアノの技術的進歩に伴って、ピアノの持つ広音域の表現力を駆使し、力強くダイナミックに表出されるようになっていく音楽は、ベートーヴェンより前、すなわちモーツァルトですでに一つの方向を示しつつあったのではないか。その先駆けとなる作品が、もしかしたらこの第22番かも知れない、などと想像してみた。

いや私はかつて、ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」でそのような傾向があると書いた。主な理由は第3楽章における中間部で、独立した部分が急に現れることにある。この部分を優れたピアニストで聞くと、その前後との対照が見事に表現され、聞くものを次々と違う世界へと誘ってくれるような気がしてくる。

そのような特徴のある部分を、この第22番も持っている。ただ第9番と違うのは、第2楽章ですでに、深々としたある種ロマンチックと言ってもいい表現に、冒頭から入ってゆくことだ。第1楽章の堂々として快活なメロディー、第3楽章のうきうきとした主題に挟まれた二つの部分と織りなす光景。第22番のピアノ協奏曲は、このように実に多彩で、変化に富み、聞くものに様々な表情を見せる作品である。

フランス人のピアニスト、ロベール・カザドシュがジョージ・セルとともにコロンビア・レコードへ録音した一連の演奏は、長い年月を経た今でもレコード史上に燦然と輝いている。録音されたどの曲を聞いていてほれぼれするのだが、特に第22番は、私の最大のお気に入りである。

カザドシュ(フランス語では子音に挟まれた単独のsの音は濁るという法則があるのでこう書くが、一般にはカサドシュと言われている。どちらが本当かはよくわからない)の演奏は明るく快活で、時にセルの規律正しい演奏に乗るとまるで行進曲のようになると思われがちだが、実際には微妙な表情付けが見て取れる。例えば第26番「戴冠式」では、両端楽章の、それこそ行進曲のようなメロディーとは打って変わって、第2楽章の静けさは筆舌に尽くしがたい。規則正しい生活をしていると、かえって自然の微妙な変化にも気づくように、これに勝るものはないほどの絶品である。

同じことが第21番の第2楽章にも言える。第2楽章だけを取り上げれば、圧倒的にカザドシュの演奏に軍配が上がる。そして第23番も第27番も、私は一流の演奏であると信じる(だがこの2曲についてはいい演奏が沢山ある。ついでに言えば、第25番を欠いているのが大変惜しい)。そしてまた第22番は、それ自体目立たない作品ながら、この演奏が私の脳裏を離れない。第1楽章の冒頭から終楽章のコーダまで、ほれぼれするような音の行進は、厳格な正しさの中にあってこそ可能な、精緻で微妙な音色変化を印象づけ、聞き手に途切れることのない集中力を維持させつつ、陶酔の世界へと誘う。まるで名人芸のような演奏である。

2018年1月3日水曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調K467(P:イングリット・ヘブラー、ヴィトルド・ロヴィツキ指揮ロンドン交響楽団)

初めての短調によるピアノ協奏曲第20番ニ短調K466を書き上げたわずか20日後の予約演奏会に、モーツァルトはまた別のピアノ協奏曲第21番ハ長調K467を作曲した。この曲は打って変わって明るく、清々し曲である。対照的な2つの作品は、そのままカップリングされて発売されることが多かった。

私はこの曲が、おそらく最初に聞いたモーツァルトのピアノ協奏曲で、しかも第2楽章だけだったと記憶している。それはフィリップスから発売されていたLPレコードが、映画音楽で使われたクラシックの名曲を並べた企画もので、その中にこの曲が含まれていたからだ。モーツァルトのピアノ協奏曲がこんなにも親しみやすく、綺麗な曲だと初めて知った。

その映画とは1967年のスウェーデン映画「短くも美しく燃え」で、そのタイトルからどんな作品かはだいたい想像ができるが、そのいわば刹那的で、ひたすら美しく燃えるような瞬間を、モーツァルトはそう意識して書いたとは思えないのだが、この効果は絶大なものがあって、今ではその主人公の名を冠して「エルヴィラ・マディガン」とニックネームが付けられることもあるくらいである(この演奏のCDジャケットにもその記載がある!)。

私がその映画を実は見たことなないにもかかわらずこの作品を知ったように、モーツァルトをこの作品から知る人は少なくないように思う。もっとも映画に使われたのは、ゲザ・アンダをピアニストとする録音だそうだが、私が聞いたLPに収められいたのは、ポーランド系のモーツァルト弾きイングリット・ヘブラーによるものだった。

ヘブラーは当時、すでにモーツァルトのピアノ協奏曲全集やピアノ・ソナタ集などを録音していて、ヘブラーと言えばモーツァルト、モーツァルトのピアノといえばヘブラー、といった感じであった。ヘブラーのK467は、やはりポーランドの指揮者ロヴィツキが担当している。少し古いが、飾り気のない清楚な感じのモーツァルトは好感を持って懐かしくきくことができる。

はじめて全曲を聞いたのは、アシュケナージの演奏だったと思う。第1楽章と第3楽章は親しみやすい明るい曲だと思ったし、大変好きな曲になったのは確かだが、後年、第23番K488や第27番K595などの、もっと凄い曲を聞くことになって少し存在感が薄れてしまった。あまり聞くことがなくなったのである。第2楽章を除いては・・・。

やはりこの曲は第2楽章の個性的で無二の美しさに尽きると思う。アンダンテの静かな低弦のピチカートに乗ってヴァイオリン・パートがこの上もなく美しい旋律を引き始めると、いい演奏ならどこか違う世界に入っていく。その旋律はそのままピアノに引き継がれる。ここはさらっと弾かないでほしい。何せ別の世界なのだから・・・。

やがて主題が変調し、ほのかに暗い色彩を帯びるあたりはピアノ協奏曲の真骨頂とも言うべき瞬間の連続で、ここもさらっとやらないでほしい。さらっとやるとムード音楽のようになってしまう。それでもいい曲であることには違いないのだが・・・。装飾音は演奏家の趣味だが、あまり天真爛漫にやられるのを私は好まない。清楚に、静かに、一音一音に思いを込めて・・・。

今年のお正月は満月で始まった。月が輝く夜空を眺めながら、夜の街を歩いた。吹く風は穏やかで、多くの人が犬を連れたりジョギングをしたり、思い思いの時間を過ごしている。平成30年の幕開きはあくまで平穏で、そして幸福感に満ちているように思われた。

2018年1月2日火曜日

謹賀新年

年頭にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。

今や巨匠となったムーティのニューイヤーコンサートで始まった2018年。

政治や外交をはじめとする内外の混乱をよそに、穏やかで明るい年明けに相応しい演奏会だったと思います。「ジプシー男爵」のメロディーは、この指揮者が登壇する時の、いつも新鮮な行進曲風のメロディーで気持ちが浮き立ち、肩の力が抜けてしっとり美しい音楽は「ウィーンの森の物語」で頂点に達しました。いつも惚れ惚れするオーストリアの映像は、今年も息を飲むような美しさでした。

来年はいよいよクリスティアン・ティーレマンの登場とアナウンスされています。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...