2016年7月30日土曜日

ハイドン:オラトリオ「四季」(2016年7月16日、川口リリアホール)

8年前に大病を患って入院する際、もしものことがあったら後悔するだろうな、と思ったことがハイドンのオラトリオ「四季」をちゃんと聞いたことがない、というものだった。死ぬ前に聞いておきたい曲、それが「四季」だったというわけだ。106曲の交響曲をすべて聞いてきて、さらにその先にある金字塔。ハイドンが晩年の精力を注入した大曲「天地創造」と「四季」は、この古典派の膨大な作品の中でも最高峰の作品であるとの評価が高い。だが私はまだ聞いたことがなかったのである。

もちろんCDがあれば、現代では簡単に作品に触れることが出来る。なので入院前のわずかな時間を割いて、私は当時売られていたカラヤンの「四季」(1972年録音、クンドラ・ヤノヴィッツ他、ベルリン・フィル)を購入しiPodにコピーした。入院中の初期に私はこの曲を何度か聞くことができたし、何かとても心のこもった演奏に思えた。この演奏はカラヤンの美学がハイドンに融合し、不思議な魅力のある演奏として今も名高い。

けれども病状が悪化するにつてれ増してゆく不安にさいなまれると、私は自然と音楽から遠ざかっていった。 健康な体を鞭打って、数多くの作曲家や演奏家は音楽を続けた・・・と伝記などではよく紹介されるけど、マーラーだってベートーヴェンだって、本当に体調が悪い時には作曲をしていない。これは考えてみれば当然のことで、中にはモーツァルトのような例外もいるが、それは生活費を稼ぐためであって、芸術がそういう状況で生まれると思っていたわけではない。

私がイヤホンで聞いた「四季」には対訳が表示されるわけもなく、ドイツ語の歌は皆目理解不能、かつその聴取は看護師の検診や同室患者の話し声などによってしばしば中断されるという最悪のコンディションの中でのことであった。私はいくつかの印象的なメロディーを除き、到底楽しめるという状況ではない中での「四季」のリスニングを、残念に、そして仕方なく思った。

退院した2009年は、丁度ハイドン没後200年の記念イヤーで、私はとうとう秋に「天地創造」をライブで聞くことができ、その感激はひとしおだったのだが、その後「四季」についてはなかなか実演に巡り合うことができないでいた。注意深くチェックしていれば、年に1回くらいは東京のどこかで演奏されているのかも知れないが、スケジュールが合わなかったりして巡り合うことが出来ないまま何年もの歳月が過ぎて行った。

今年の7月16日、たまたま家族が留守という土曜日の午後の数時間だけ、自分の時間が生まれた。久しぶりに中古CD屋巡りでもしようかと思っていた矢先、音楽情報サイト「ぶらあぼ」で検索してみたところ、14時から「四季」の演奏があることがわかった。場所は川口。私の家からなら京浜東北線で直行できる。今から行けばぎりぎり間に合うではないか。演奏はバッハ協会とかいうところのもので、そんな団体は今までは知らなかったし有名でもない。でも当日券はありそうだし、それに「四季」の実演に触れることなど一生にそう何度もあるわけではない。そう思った私は、とにかく行ってみることにしたのだ。

ホールはJR川口駅から徒歩わずか、ということだったが入り口がわからない。開演前だというのに人影も少なく、みんなどこにいるのだろうかと案内で聞くと、入り口が4階だと言われた。エレベータで上がると当日券を売っているおばちゃんが机でチケットを裁いており、そこで6000円也を払って開演前にホールへ駆け込んだ。こんなところにパイプオルガンまで備えた立派なホールがあることにまずは驚いたが、そこの登場したバッハ・アカデミーなる合唱団は、結構高齢の方も多く、それにどういうわけか女性が圧倒的に多い(だが3名しかいない男声合唱パートの素晴らしさも書き添えておきたい)。

オーケストラは最低人数。チェロやコントラバスはわずかにひとり。歌唱はドイツ語だが、丁寧に字幕までつけられる。アマチュア的なコンサートかもしれないけれど、一生懸命練習に励んでこられたのだろうということは想像できるし、知り合いばかりの聴衆も6割程度の入りとちょっとさびしいが、ヨーロッパではこんな演奏会は、それこそ小さな町や村の教会では頻繁に行われている。だからたまにはこんなコンサートもいいのでは、と思い直し席についた。

前置きが長くなったが、この演奏会ではある種の奇跡のようなものを感じた。ハイドンの没後200年以上がたって、こんな埼玉の端っこで、「四季」の原語上演がなされるという事実! しかもそこにはヨーロッパ顔負けのホールまであるのだ。大曲とはいえハイドンのオラトリオを、梅雨空の昼下がりに聞きに行くのも奇特だが、それをたまたま知った私が、何の予備知識もなくそこに居合わせるというのもまた、とても不思議な巡りあわせだ。こんなところに、真面目にハイドンを歌おうとする人々がいて、そしてそれをたまたま知って駆け付けるちょっと風変わりなハイドン・ファン、すなわち私のようなリスナーがいることも知ってほしい。

最初の曲が鳴り響いて、少しよろめきながらも、これは紛れもなくハイドンの音楽だと知ったときには、私はとても幸せな気分であった。音楽は上手い、下手といった直線的な概念で測ることはできず、演奏する側と聞く側の相互作用、それも一期一会の瞬間の連続としてのそれ以上でも以下でもない。だから面白いのだが、事実、この力不足に思えた演奏も調子を上げると力のこもったものとなり、最後の「冬」の終盤に至ってはなかなか感動的でさえあった。ソリスト、オーケストラ、それに合唱団が一体となって、四季の美しさ、それぞれの季節を迎える喜びを讃えたのだ。クライマックスのひとつでもある「秋」の終盤では、ここだけに登場するタンバリンとトライアングルを独唱者が鳴らしたのには驚いた。一体どこから聞こえるのかと思ったら、バリトンとソプラノ歌手が鳴らしているのだ。

この演奏会で大変うれしかったのは、指揮者である山田康弘氏自らの翻訳による字幕が舞台上部に付けられたことだ。そのことによって、各場面でどういうことが歌われているのかを手に取るように知ることが出来た。それはこの作品が、単に自然への賛歌、つまりは神の賛美といった型どおりの歌詞にとどまらないことを知ることが出来る格好の機会であったと言える。たとえばそれぞれのパート(春、夏、秋、冬)の中間部で、ソリストが歌う独唱の合間、合間に、歌詞と呼応するような具体的なモチーフが現れるからだ。ハイドンの音楽は古典派そのものなので、鳥の声だといっても基本的な和音の枠組みをはみ出すことはない。あくまで音楽の型を維持しながらも、そこには鳥が鳴き、虫が飛び跳ね、あるいは嵐が来ては過ぎ去るといったような、まるで標題音楽を思わせるような部分が数多く登場する。それは歌詞を追いながら聞いて行かないと、気付くことはできても楽しむことはできない。CDで「四季」を聞くときの限界は、このようなところにある。だからこの演奏会は、こだわってでも字幕をつけたのだろう。そのことが嬉しい。

私はとうとう「四季」とはどういう作品かを知ることができ、そしてこの作品、他にわが国で演奏される機会があったら、ぜひまた出かけてみたいと思った。そしてやはり音楽はライブに限るとも思った。それぞれの季節に30分近くを要する大曲を、途中休憩をはさんで2時間余り。私はあきるどころかとても幸せな気分に浸りながら過ごすことが出来た。演奏が終わって、独唱者がまだ1度しか呼ばれていないのに早々と解散するオーケストラに、もう少し拍手をして余韻に浸っていたかったのは私だけではないだろう。

これでまたハイドン体験が一歩進んだような気がしている。1年にそう何度もでかけることができない演奏会で、私はまたうまくスケジュールが合えば、再度「四季」を、そして「天地創造」を聞いてみたい。だがそれもそう簡単にはかなうことがないので、しばらくはCDを聞きなおしながら過ごそうと思う。幸いなことにこの2作品には録音がひしめいており、名演奏の類も数多い。私もいつのまにか「天地創造」を2組、それに「四季」は3組のCDを所有している。曲に関する詳細は、それらを聞いた後で書こうと思う。いつのことになるのかわからないのだが・・・。

2016年7月9日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K459(P:マレイ・ペライア、イギリス室内管弦楽団)

最近は良くないニュースばかり耳にする。地域紛争に多くの難民。テロや不正、貧困を苦にした自殺など、まさに世界は混迷の時代へと向かう中、それに先んじるかのように英国がEU離脱を決め、アメリカでも国民的な分裂が大統領選挙を歴史的な混乱に引き込んでいる。暗い毎日に嫌気がさし、テレビのニュースどころか新聞も読みたくない日が続く。だがわが国では、憲法改正を影の争点にしながら、経済問題は空前の先送りで誤魔化し、原子力問題はおろか、有権者からすべての関心をそらし、問題点を何ら鮮明に示さないような選挙が行われようとしている。

大きな不安を前にしながら、落ち込むこともできないような閉塞感にも慣れっこになりつつある日々の中で、たまたま耳にしたモーツァルトの、何と美しく可憐なことか。そのような表現はもう陳腐どころか、吐き気を催すと言われても、事実だから仕方がない。ある日、私はいつものような何か月かに一度、栃木県へと向かう東北本線の列車内で、今日もWalkmanから流れる音楽(それは私が意図して持ち出したものではあるのだが)を聞いている。

ピアノ協奏曲第19番は第14番から続く6曲の作品群の最後の作品であり、それぞれ味わいのある作品だが、第20番以降の、音楽史に燦然と輝くスーパーな曲に比較されると、どうしても地味な存在であると言わねばならない。とうてい他の作曲に見ることはできない、モーツァルトの孤独な心の淵をこれでもか、これでもかと表現するような晩年の作品群の中でも、特にピアノ協奏曲の分野はその真骨頂とも言えるだろう。

この第19番に関しては、第3楽章は主題が示された後いきなり始まるフーガに、その特徴を見出すことができる。一通りオーケストラによる音楽が続いた後、今度はピアノが登場して音楽に絡んでいく。相当複雑な音楽なのだろうが、そう感じさせないところがモーツァルトの凄いところだ。第1、2楽章はとても心が落ち着く音楽である。私はこの第2楽章がとても好きだ。この音楽はその後に続く20番以降のピアノ協奏曲の第2楽章に見られるような、何か底抜けのするような寂寥感に襲われることはない。20番以降では唯一そういう音楽である第26番に近い。そうしているからというわけではないのだが、メロディーがきれいなので、車窓風景を眺めながら聞く音楽に相応しい。

ところで第26番を引き合いに出した理由はもうひとつある。この第19番は「小戴冠式」と呼ばれることがあるからだ。第19番と第26番は1970年のレオポルト2世の戴冠式のために、モーツァルト自身によって演奏された。

マレイ・ペライアはアシュケナージやバレンボイムと同時期に、丸で競うようにモーツァルトのピアノ協奏曲全集を録音した。丁度アナログ録音からデジタル録音に移行する70年代から80年代の初め頃だったと思う。これらの演奏に共通するのは、弾き振りであるということだ。そしてペライア盤はその中でももっとも完成度が高く、曲による出来不出来のムラも少ないと思っていた。私はだから、この全集がボックス・セットで安売りされたとき、迷わずこれを購入した。信じられないくらい安かった。

だが今ではもう、録音から30年以上が経過した。演奏の方はまったく色あせることはなく、今でも「戴冠式」などはベストな演奏の一つだと思うが、このCDの最大の欠点はその録音にある。少し大人しく、そして硬いのである。CDが発売され始めた頃に言われた最大の欠点が、この硬さではないかと思う。もしかするとリマスターすることによって、その欠点が補われる可能性がある。だが今のところ、SONYから発売されたボックス・セット以降、再発売されたという話は聞かない。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...