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2024年1月9日火曜日

第21回東京音楽コンクール優勝者コンサート(2024年1月8日、東京文化会館)

お正月休みが終わったと思ったら、すぐに3連休となった。本来なら趣味の街道歩きか、もしくは近郊へのドライブなどに出かけるところである。天候も良く連日快晴が続いている。東京を訪れるには冬に限る、とどこかの国の旅行ガイドには書かれているそうだ。

しかし今年のお正月は、カレンダーの並びが悪いことに加え、コロナ明けで帰省ラッシュが再来したため、結局どこへも行かず家でじっとしていた。そうしたら大地震や旅客機の事故が発生し、旅行気分ではなくなってしまった。そして3連休も「傘寿記念・桂文枝独演会」と散歩くらいにしか外出していない。あまりも侘しいので、何か音楽会でもと検索したところ、東京文化会館で「東京音楽コンクール優勝者コンサート」というのが開かれることがわかった。コントラバス、ファゴット、ピアノのそれぞれの優勝者をソリストに、3つの協奏曲が演奏される。そのプログラムの面白さもさることながら、オーケストラが下野竜也指揮新日フィルというから悪くない。値段も3000円以下と手ごろである。そこで急に思い立ち、開演3分前に会場に到着、当日券を買って2階席へ。

クラシック音楽のコンサートは、何の口上もなく始まるのが通例である。しかしこの日は出演者の紹介のため、元テレビ朝日のアナウンサー、朝岡聡が登場した。彼は手際よくこのコンクールのあらまし、それから登場する演奏者のプロフィールなどを紹介、チューニングも終えて最初の曲、ロータのディヴェルティメント・コンチェルタンテが始まった。ロータは映画音楽で有名なイタリアの作曲家で、近年は彼のクラシック音楽作品がよく演奏されるが、この曲は大変珍しい。なぜならこの曲は、コントラバスの協奏曲の趣があるからである。

ソリストは本コンクール弦楽部門の優勝者である水野斗希という若干二十歳の若者で、すらっとした体格ながら大きな楽器を携えて登場、普段あまり聞くことのできないコントラバスの独奏を楽しむことができた。2023年に始まったこのコンクールは、まだ歴史が浅いが、これは彼が生まれた年でもあり、そして本日成人式を迎えるとのことである。ヴァイオリンやチェロなど、奏者の多い弦楽部門でコントラバスの奏者が優勝するのは初めてだそうだ。

冒頭、下野の指揮するオーケストラが大変心地よい響きで驚かされる。下野の指揮というのは、派手ではないが安定しており、アンサンブルの見事さはなかなかのものだと感心している。東京文化会館のデッドな響きにも巧く対応し、バランスの良さが際立つ。そこの重厚なコントラバスの響きが重なる。

結構長い曲で全4楽章はあっただろうか。軽やかでイタリアの光を感じる作品に、しばし心を奪われる。重音やフレジオレットといった、オーケストラ・パートとしてはまず演奏されることのない技巧も駆使した曲は、一聴の価値があると思ったが、なかなかこういう曲を二度と聞くこともないだろうとも思った。今日もっとも関心したのは、この曲のこの演奏だったかもしれない。

続いては木管部門の覇者である保崎佑という方が登場。彼は音楽学の博士課程も修めた経歴の持ち主で、年齢は先の水野より10歳年上である。ファゴットもまたオーケストラでは最低音を担う楽器で、独奏を務める作品は少ない。有名なモーツァルトの作品もあるが短い曲。それに比べると今回演奏されたロッシーニの協奏曲は、歌うように流れるロッシーニの爽やかな音楽が魅力的な作品である。

ところがこの曲は、出版されたのが2000年代に入ってからだと朝岡が説明する。自筆譜が存在しておらず、正確にはロッシーニの作品であるかどうかはわからないそうだ。まあそれでもロッシーニだと思って聞けば、そのように信じることができる。リードを曲の途中で何度も変えながら、安定感のある演奏を披露して拍手を誘っていた。彼は観客の投票によって決まる「聴衆賞」というのも受賞しているそうだ。

休憩後はピアノ部門の優勝者である佐川和冴という25歳のピアニストが登場、選んだ曲が何とベートーヴェンの第2番のコンチェルトだった。この曲は第1番に先立って作曲されたことは有名で、度重なる改訂を経てベートーヴェンらしさも十分に感じられる素敵な作品だが、演奏される機会は最も少ない。だが彼はこの曲がもっとも好きだと話す。そしてベートーヴェンが自らこの曲を初演したのは、丁度彼と同じ25歳だったというから思い入れが強い。そして彼は大きく体をゆすりながら、まるでモーツァルトのように朗らかに、この曲を披露した。深々とした第2楽章は特に素晴らしく、オーケストラも献身的だった。どこか女性ピアニストを聞いている感じだった。

クラシック音楽に造詣の深いベテランの司会によって、この日のコンサートは通常以上に引き締まって楽しめることになったのは間違いない。そして最後にソリスト3名が再び登場、会場の大きな拍手を受けて、まだ初々しい表情が素敵である。2024年の最初のコンサートでは、このような新鮮な気持ちを感じることとなった。少し寒いがそれでも例年よりは温かい年明けの上野公園も、17時を過ぎればすっかり日が暮れて、大勢の人々が家路を急ぐ。東京文化会館と上野駅は50メートルくらいしか離れていないので、歩いても1分とかからない。その短い距離を爽やかな新春の風が、心地よく吹き抜けていった。

2020年5月31日日曜日

ロッシーニ:弦楽ソナタ集(ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

コロナ禍で外出制限の続く中、季節はいつの間にか春を通り過ぎ夏になった。昨夜は飲み過ぎたので朝早く目覚めた。こういう日には、家族が眠っている間、ひとりだけの贅沢な時間を散歩で過ごすことにしている。スマホからはロッシーニの弦楽ソナタが聞こえている。さわやかな初夏の晴天の朝に相応しい、すがすがしい音楽だ。

弦楽ソナタは、1804年頃ロッシーニがわずか12歳の時に作曲したと言われている。全部で6曲あり、そのどれを聞いても明るく瑞々しい。イタリアのモーツァルトと言われたのがよくわかる。この頃はさすがに後年のクレッシェンドを多用した、あのロッシーニ節は聞かれないが、オペラでしか知ることの少ない作曲家の他の種類の音楽を聞くのは楽しい。いかに早書きで、しかもアーリー・リタイヤをしたロッシーニも、最初の歌劇を作曲し始めるには5年も早い。この頃ロッシーニは、母親とともにボローニャに住んでいた。

ボローニャには世界で最古の大学があり、ちょっとした美しい町である。私も20代の頃ここを半日だけ訪れて、歩き回ったことがある。たしかヴェネツィアからフィレンツェに向かう列車を途中下車したのだと思う。たまたまリッカルド・シャイーが音楽監督を務めていたボローニャ市立劇場の前にも行った。赤いレンガの屋根を見下ろす中世に建てられた塔にのぼり、北イタリアの美しい風景に見入った。冬とは言え快晴の毎日が続いていた。

そんな記憶もたどりながら、弦楽ソナタを聞いている。弦楽ソナタには全部で6曲がある。第1番ト長調、第2番イ長調、第3番ハ長調、第4番変ロ長調、第5番変ホ長調、第6番ニ長調。全部調性が違う。全部聞くと2時間近くにも及び、CDでは2枚組。後年、多くが作曲家自身によって弦楽四重奏用に編曲されたほか、他の作曲による編曲も存在している。少年時代の作品である割には録音も多く、軽快でキレに富み、カンタービレは歌にように心地よい。これはテレワークの日々にうってつけのBGMというわけである。

このような曲を振らせたらネヴィル・マリナーの右に出る者はいない。もともとロッシーニを得意とし、完全な序曲集の録音でも知られるだけにほとんど完璧な演奏で、今もってこの曲の代表的な演奏である(録音は60年代)。従来のモダン楽器による厚みのあるサウンドだが、決して重厚なマトンを羽織ることはなく、生き生きとしてスッキリしている。その微妙な感覚を持ちつつ他の演奏にはまねのできない完成度に達している点が、驚きに値するのはいつものことだ。特にそれが、この曲で成功していると思う。

どの曲をどこから聞いても似たような感じだが、さらさらと流れるヴァイオリンの合間にときおり低弦が機知に富んだ独奏を見せる箇所や、ヴァイオリンがほとばしるような部分がユーモラスで飽きない。最も有名なのは第1番か第3番だそうだ。短いが緩徐楽章の歌うようなメロディーは、この作曲家の後年のオペラに登場するものに似ていたりして、メロディーの宝庫とでも言うべき天才の早熟さを感じさせる。例えば第1番の第2楽章などは、丸でヴェルディの初期のオペラに出てくるような、悲しみに沈む主人公のアリアの導入部のような趣だ。一方、第4番は全体的にしっとりとした感じである。私が気にいっているのは第6番で、その終楽章は「セヴィリャの理髪師」の嵐のシーンの下書きになったのではないか、などと発見して面白い。

なお、このCDにはさらにドニゼッティの「弦楽四重奏曲第4番ニ長調(管弦楽版)」、ケルビーニの「ホルンと弦楽のためのエチュード第2番ヘ長調」(ホルン独奏:バリー・タックウェル)、さらにベッリーニの「オーボエ協奏曲変ホ長調」が収められている。いずれも1800年代初頭のイタリア人作曲家による珍しい管弦楽作品である。

2020年5月5日火曜日

ロッシーニ:序曲集(オルフェウス管弦楽団、クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団)

ロッシーニの序曲集にはいい演奏が沢山ある。この理由は、むしろ曲の楽しさとでもいうべきものかと思う。食後のデザートと同じように、ロッシーニの音楽はどれをとっても美味しいからだ。長い今年の黄金週間は、天気が良くても外出できない日々が続く。こんな時、ロッシーニの音楽に耳を傾けてはいかが?ここでは私がこれまでに聞いてきた数々の演奏を紹介したい。

私が住んでいた大阪府北部のある市では、市内にある図書館のひとつにLPレコードの貸し出しコーナーが登場したのは1980年頃だったと思う。中学生だった私は、市内の北の端に住んでいて、市内のバスを乗り継いて最南部にあるその市立図書館に出かけた。学校のない日曜日の午前中だった。市内在住のある音楽評論家が、聞かないレコードを寄付したからだった。貸しレコード屋などほとんどなかったから、私は掘り出しものを見たさに友人とでかけたのだ。そしてそこには、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団のロッシーニの序曲集のレコードがあった。貸出のカウンターに行くと、図書館の職員は私に、わざわざ来てくれたのですね、と言った。

ロッシーニの序曲集はトスカニーニで決まり、と言われていた時代だからこれは嬉しかった。一切の残響を排し、強直で力強い「ウィリアム・テル」の序曲がその中の白眉だった。私はさっそくその演奏をカセット・テープにダビングし、2週間後、ホロヴィッツとワルターによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲と交換するため、そのLPを返却した。

歌劇「ウィリアム・テル」はロッシーニが作曲した最後のオペラ・セリアで、この序曲は嵐のシーンなど4つの部分から成る情景描写など成熟した音楽が特徴的だが、その序曲はロッシーニの中ではちょっと変わった方だ。むしろ、あのロッシーニ・クレッシェンドが全編に横溢する楽しい序曲は、数々のオペラ・ブッファに存在する。その中で最も有名な歌劇「セヴィリャの理髪師」は、実は歌劇「イギリスの王女エリザベス」からの転用である。私の家にあったクラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団のLPには、歌劇「イギリスの女王エリザベス」序曲と記されていた。

アバドには当時2枚の序曲集のレコードがあった。上記はRCAから発売されていて、ここには「セミラーミデ」序曲や「ウィリアム・テル」序曲が収められていたのに対し、もう一方のドイツ・グラモフォンから発売されていたLPには、私の好きな「泥棒かささぎ」などが含まれていた。どちらもロンドン交響楽団を指揮したもので、収録された曲に重複はないからどちらがいいという議論は意味がないのだが、どちらかと言えば大人しいドイツ・グラモフォンに対し、情熱的なサウンドのRCAといった違いがあった。ただRCA盤しか持っていなかった私は、何とかもう片方の演奏を聞いてみたいと思っていた。

村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」は、第1部が「泥棒かささぎ編」となっていて、この冒頭にアバド指揮の演奏をFM放送で聞いて口笛を吹くシーンがある。しかし私はこの曲を聞くときには、カラヤンの演奏を聞くしかなかった。ベルリン・フィルを指揮した演奏である。カラヤンの演奏は、あのイタリアン・サウンドとはちょっと趣きが異なり、冷静で大人しいように感じていた。それでも小太鼓を伴ったあの三拍子の浮き立つようなリズムは、いつ聞いても、どの演奏で聞いてもウキウキする(なお、アバドのロッシーニ序曲集には、その後ヨーロッパ室内管弦楽団と録音したものもあるようだ。またカラヤンの演奏は別に取り上げた)。

CDの時代が到来して私がいよいよ自分のお金でディスクを買うことができるようになったとき、私が選んだのは新譜として登場したオルフェウス管弦楽団のものだった(録音は1984年、ニューヨーク州立大学パーチェス校)。このディスクは、同オーケストラのドイツ・グラモフォンへのデビュー録音だったようだ。指揮者を置かない民主的なニューヨークの室内オーケストラは、まるでコンピュータが演奏をしたらこうなるのではと思わせるような演奏で、意外にもリズムの切れやフレージングも素晴らしく、しばらくこの演奏をテープに録ってはカー・ステレオで聞いたものだ。ヨハン・シュトラウスのワルツ集と同様、ロッシーニの序曲集は格好のドライブ音楽である。

【収録曲】
1.歌劇「タンクレディ」序曲
2.歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
3.歌劇「幸福な錯覚」序曲
4.歌劇「絹のはしご」序曲
5.歌劇「セビリャの理髪師」序曲
6.歌劇「ブルスキーノ氏」序曲
7.歌劇「結婚手形」序曲
8.歌劇「イタリアのトルコ人」序曲

今聞いてみてもほれぼれするような完璧さと、そこにスポーティーとも言うべき健康的な呼吸が息づいているのがわかる。このリストを見てわかるように、オルフェウス管弦楽団によるロッシーニの序曲集には、大規模な編成を必要とする「ウィリアム・テル」や「泥棒かささぎ」、あるいは「セミラーミデ」といった曲が含まれていない。かつての大指揮者による名演奏に対して一石を投じたような新鮮さがあった。ただ私としてはもう一枚、欠落した作品のためのもう一枚を買い揃える必要があった。

私はどちらかというと新譜を買いたい方だから(クラシック好きには少数派である)、当時発売されたシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団の演奏を購入した。この演奏には「チェネレントラ」も含まれているなど魅力もあるが、豊富なカタログの中では他の演奏に埋没していると言わざるを得ない。これといった長所がないのである。

私が米国滞在中に購入したヨエル・レヴィ指揮アトランタ交響楽団によるテラークの演奏は、またひとつの選択肢だが、ここには有名な曲ばかり7曲しか収められていない。当時私は全米各地のオーケストラのディスクを集めていて、その中にこの演奏を発見したのだった。悪い演奏ではないのだが(録音もいい)ほとんど聞いておらず、デュトワ同様この演奏ではなくてはならないというところはない。

完全な序曲集はおそらくネヴィル・マリナーによるものか、もしくはシャイーによる新しい録音だろうと思う。これらは世評も高く録音も非常にいいだろう。だが私はもはや、ロッシーニの序曲集に耳を傾ける時間がほとんどなくなってしまった。シャイーは他に珍しいロッシーニの音楽を録音しているので、そちらで取り上げることにしようと思う。またシャイーには歌劇「チェネレントラ」などのいくつかの全曲録音盤にももちろん序曲は含まれており、序曲以降より長時間、花火を見ながらシャンパンを飲むかのようなひとときを過ごすことができるのは請け合いなので、わざわざ序曲集として揃える必要はないだろう。これはアバドについても言える。

コリン・デイヴィスがロイヤル・フィルを指揮した60年代初頭の録音で、今はどこで手に入るのかはわからないが、「ウィリアム・テル」「泥棒かささぎ」「セミラーミデ」「ブルスキーノ氏」それに「アルジェのイタリア女」が収録されているディスクがある。これは掘り出し物の大変素晴らしい演奏である。私の持っているディスクはシューベルトの「グレイト」交響曲、ベートーヴェンの第7交響曲の隙間に収録されていて、期待していなかったがなかなか気分のいい名演に出会え嬉しかった。


【収録曲(アバド指揮ロンドン響-RCA盤)】
1.歌劇「セミラーミデ」序曲
2.歌劇「絹のはしご」序曲
3.歌劇「イタリアのトルコ人」序曲
4.歌劇「イギリスの女王エリザベッタ」序曲
5.歌劇「タンクレディ」序曲
6.歌劇「ウィリアム・テル」序曲

【収録曲(アバド指揮ロンドン響-ドイツ・グラモフォン盤)】
1.歌劇「セビリャの理髪師」 序曲
2.歌劇「シンデレラ」序曲
3.歌劇「どろぼうかささぎ」序曲
4.歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
5.歌劇「ブルスキーノ氏」序曲
6.歌劇「コリントの包囲」序曲

2020年2月11日火曜日

ロッシーニ:歌劇「セヴィリャの理髪師」(2020年2月8日、新国立劇場)

ちょうど14年前に息子が生まれたときも、このような抜けるような快晴だった。立春を過ぎたとはいえ強い北風の吹く寒い日で、そのことが陽射しの多さを私の記憶の中で印象的なものにしている。暖冬と言われる今年の冬も、ここへきて寒気団が南下し、東京も真冬の寒さを取り戻した。そんななか、私は妻と共に一年ぶりとなるオペラの鑑賞に向かった。

歌劇「セヴィリャの理髪師」は我が国でも人気のある演目で、毎年どこかの団体が公演しているようだし、新国立劇場でも1998年以来数年おきに、この作品が上演されている。今回のヨーゼフ・E・ケップリンガーによるプロダクションも、2006年、2012年、2016年に続く4度目の上演ということのようである。

今回の上演の目玉は、何といってもロジーナを歌う脇園彩(メゾ・ソプラノ)で、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル出身の彼女はすでにミラノ・スカラ座でこの役を演じているというから、たいしたものである。そして標題役フィガロには フランス人のフローリアン・センペイ(バリトン)、アルマヴィーヴァ伯爵にはアメリカ人のルネ・バルベラ(テノール)、ドン・バジリオにはイタリア人のマルコ・スポッティ(バス)、バルトロには同じくイタリア人のパオロ・ボルデョーニャ(バリトン)が務める。この4人はいずれも、新国立劇場には初登場らしいが、現在この作品を上演するとしたら、もっとも旬に乗ったキャストであるとの触れ込みである。

余裕を持って出かけたはずが、気が付いてみると開演5分前だった。2階の左脇最前列のA席は、発売と同時に確保していた。4人の人の前を通って自席につくと、早くも指揮者のアントレッロ・アッレマンディが登壇。ピットに入った東京交響楽団が有名な序曲を演奏し始めた。

最初の一音を聞くと、それは適度に抑制され、ああこれはあのアバドがヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したような感じだと思った。テンポを少し速く取り、窮屈にならない緊張感を維持しながら、木管やホルンを歌わせていく。音を大きくしないが、2階席からはオーケストラの音が直接響いて良く聞える。これが歌とどう調和するか、聞きものである。

舞台は早くも幕が上がり、回転台に乗せられたセヴィリャのアパートの内部断面となったり、表になったり、慌ただしい。右脇にはネオンを伴った娼館があって、ここを経営してるのが小間使いベルタ(ソプラノの加納悦子)だという設定らしい。ブックレットによれば、設定はフランコ政権下のスペインで、みな意味ありげな服装をしている。つまり、ロッシーニの音楽なのに舞台は垢ぬけない。なのに、とてもカラフルではある。

序曲の間から登場人物が舞台に揃い、それぞれ何やら象徴的な仕草を見せてはいるが、これがどうも舞台の大きさに比して小賢しく、興がそがれる。以降、この舞台での欠点は、それぞれの登場人物がする仕草が細かすぎて、何かを主張するには説得力がなく、全体の流れにうまく乗り切れない印象を残した。音楽が素晴らしいのに、演技が小さいと思ったのは私だけだろうか。

テレビ画面で見るオペラは、小道具に至るまで細かく演出され、それをアップで写す。だがこのような大舞台で見る場合には、観客の視線を象徴的な一点に集める工夫が必要だ。饒舌すぎる演出は散漫となる。加えて我々は、字幕を追う必要がある。この字幕が大変で、長すぎると読みづらく、短すぎると心情が伝わりにくい。視線を切り替える回数を減らす工夫から、複数の人物の会話を一度に表示するから、読み終えると実際の会話よりも先に理解してしまう。ロッシーニのような会話の多い舞台では、これはもう避けられないと言うべきか。

以上、批判的なことを多く書いたが、これは以下に述べるこの舞台の素晴らしさを語る上で妨げにならないようにするためで、音楽的にはこれほど見事なロッシーニの舞台を見たことがない。今回の上演の特筆すべき点は、高水準の歌手が揃ったことによる歌の饗宴ということになる。

特にロジーナの脇園彩は、オペラの中でも最も有名なアリア「今の歌声は」で、自信に満ちた声と演技を披露した。彼女が出てきた瞬間に、何か舞台が急に変わった。このオペラでは脇役を除き、女性は彼女ひとりである。そのことが一層、彼女の存在感を際立たせた。オーケストラがピタリと寄り添いながらも、音楽の道筋を弛緩することなく進めてゆく。いわば理想的な伴奏に彩られて、彼女は一階と二階を行ったり来たり。運命に逆らってでも意志を通す新しい人間像は、モーツァルトから受け継がれている。

脇園は第2幕でも再びアリア「愛の燃える心に」を歌うが、ここでの彼女も実に堂に入ったもの。会場から間髪を入れずブラーヴァが飛び盛り上がる。これを受けるアルマヴィーヴァ伯爵のルネ・バルベラが、私には印象深い。彼の歌は何といっても第2幕終盤で歌う超技巧アリア「もう逆らうのをやめろ」につきる。あまりにも難しいため省略されるのが慣例だったこのアリアが復活したのは、ロッシーニ・ルネッサンスが定着した1970年代に入ってからだったという。ここの部分を聞くと、フローレスがMETで歌った圧巻の歌唱を思い出す。

この日の公演でもっとも大きな歓声に包まれたのは、ドン・バジリオを歌ったマルコ・スポッティだったかも知れない。ただ、フィガロのフローリアン・センペイといいバルトロのパオロ・ボルデョーニャといい、すべて歌手の水準が高く、しかも安定していた。男声がオーケストラの音と混じって早口で歌うと、どこどなく音が籠ってしまう。もしかすると1階席で聞いていたら、そういうことも少なかったのかも知れない。だが、絶妙なタイミングで飛ぶブラボーは、3階席から多く聞かれた。

オーケストラから聞こえるべきギターやチェンバロの音は、少し小さすぎて物足りなかった。嵐のシーンなどは、舞台がくるくる回転しながら、非常に饒舌にいろいろな動作があったが、この部分でコーダに向かう物語の転回もまた、こういった物語の特徴のはずだ。だが、今回の演出はあまりに何もかも詰め込み過ぎで、ストーリーにメリハリが欠ける。このことに最大の不満が残るのが惜しい。それはあの有名なフィガロのアリア「私は町の何でも屋」の歯切れの悪さでも見て取れた。

少なくとも音楽に関しては、非常に高水準の「セヴィリャの理髪師」であったことには違いない。さすがに2階の席で聞くと、あの早口の重唱も音楽に乗って、ちゃんとロッシーニ・クレッシェンドになって聞こえてくる。カーテンコールに何度も応える歌手やオーケストラの横顔を見ていると、今回の公演も満足の出来栄えだったのだろうと思った。

2018年9月2日日曜日

ロッシーニ:歌劇「セミラーミデ」(The MET Live in HD 2017-2018)

「セミラーミデ」のストーリーは複雑だ。舞台進行にとらわれずに書いた方がわかりやすい。15年前に、王族のアッスールを国王にするという約束で、夫である国王を殺害したバビロニアの王女セミラーミデ(超技巧が要求されるソプラノ)は、王の後継者(つまり新しい夫になる人物)に、かねてから好意を抱いていた若き軍人アルサーチェを選ぶ。ところが彼こそが、国王の死の直前に復習を託された息子(はすなわち、王女の息子でもある)だった!アルサーチェは、父親(前の国王)の信託に従って復讐を遂げるが、殺したのは何と母親セミラーミデだった!過去のしがらみを断ち切り、無事アルサーチェは新国王に就任する、というところでハッピーエンド。

上記はあらすじの骨子ではあるが、実際にはここにアゼーマ姫(あまり歌わない美女)に対する三角関係が絡むのでややこしい。アルサーチェ(ズボン役でメゾ・ソプラノ)と暗殺の首謀者アッスール(バス・バリトン)、それにインドの王イドレーノ(超高音を轟かせるテノール) がみなアゼーマ姫と結ばれることを望んでいる。当のアゼーマ姫は、アルサーチェを希望しているのだが・・。

「セミラーミデ」の序曲は長い。かつて良く聞いた序曲集では、必ずと言って取り上げられていた本曲の充実ぶりはちょっとしたものである。だがその曲が、こういうシーンで使われていたのだ、と初めて知った。序曲を聞くだけでは区別がつかないロッシーニのオペラ・ブッファとオペラ・セリアは、いずれも美麗で耳をあらわれる洗われるようなメロディーと、めくるめくクレッシェンドの連続である。違いは実際に笑いがあるかどうか。歌われる歌詞がどんなに悲劇的な内容でも、音楽だけを聞けばその違いはあまりない。

「セミラーミデ」の歌は物凄い。この作品は、そもそも歌う歌手がそろわず、なかなか上演されることがない。本格的に上演されたのは1990年になってのことで、その偉業を果たしたのがMETということらしい。ところがそのMETでも本作品を上演するのは1993年以来らしい。演出は同じジョン・コプリー。第1幕だけで3場面あり二時間。さらに第2幕は第6場まであって1時間半。その舞台は、なかなか見ごたえのある豪華なもの。音楽同様、重厚で、見せる!

さて、主役のセミラーミデは、アンジェラ・ミードというアメリカ人の大柄な女性だった。彼女はまさにこの役のためにいるのではないか、というようにピタリとはまっている。 いくつかあるアルサーチェとの二重唱(第1幕第2場「その愛を永遠に」、第2幕第4場「よろしい、さぁ、手を下しなさい」)は息もピタリと合って、聞くものをゾクゾクさせる充実ぶり。アルサーチェの役に果敢に挑むのは、エリザベス・ドゥショングという小柄な歌手。彼女は美しい声の持ち主だが、ここでは男性の役なので威勢よく振る舞う。小柄なこともあって、恋敵のアッスール(ロシア人のイルダール・アブドラザコフ)、高僧のオローエ(アメリカ人のライアン・スピード・グリーン)、それにセミラーミデに囲まれるとまるで子供のようだが、実際、セミラーミデの息子なのだからわかりやすい。

もっとも拍手が多く、圧巻の出来栄えはインドの王子イドレーノを歌ったメキシコ人ハヴィエル・カマレナだった。彼はフローレス等と並び称される超高音テノールの一人だが、ここでの役の決まり方はその容貌も含め満点で、私はフローレスよりも一枚上手のような感じがしたくらいである。このイドレーノは、物語の主たる内容とは関係なく存在しているように感じるが、歌だけは滅法素晴らしいものが使われており、見る者を飽きさせない。

ロッシーニの音楽の充実ぶりは、この作曲家をして野心的とも思わせるくらいに見事で、その序曲の気合の入れようからも端的にわかるが、次々と繰り出される重唱にこそ、その真骨頂があると思う。これだけ長く、かつ見どころの多い作品を統括するのはさぞ大変だろうと思う。だが指揮者のマウリツィオ・ベニーニは、少し早めにテンポを取り、緊張感を持続させながら、次から次へと的確に音を繰り出してゆく。ベルカント作品を指揮するMETの常連の手腕は、ここでも見事のひとことに尽きる。

映像はしばしば指揮者と、それに呼応する木管楽器奏者の技巧的なソロ・パートを映し出す。場面の転換で最初に弾かれるフレーズは、歯切れよく緊張感を持ちながら、流麗さを失わない手さばきである。オーケストラピットと舞台を行き来するカメラワークもまた、この作品の見どころだった。

私にとってはロッシーニのオペラ・セリア体験の2回目だった。そして完全に打ちのめされたと言ってよいだろう。METライブ・シリーズで私が得た最も貴重なもののひとつは、このようなベルカント作品への開眼だった。我が国はおろか、世界でも滅多に上演されない作品を、このような歴史的高次元で体験でき、かつそれが邪魔にならない日本語字幕と、細部まで捕らえたカメラによって実感できる。それは、この時代に生きていてよかった、とさえ思わせるに十分なものだった。

2018年3月31日土曜日

スプリング・ガラ・コンサート(2018年3月28日、東京文化会館)

ロッシーニ没後150周年を記念して、今年の「東京・春・音楽祭」では、ロッシーニのアリアを始めとしたガラ・コンサートが開かれた。だが実際の公演の後半半分は、ヴェルディやプッチーニのアリアが中心で、しかもここの部分こそ聴きどころが満載、どの歌手も乗りに乗った素晴らしい歌声に、会場に詰め掛けた聴衆は心行くまで魅了され、久しぶりに歌を聞く楽しさを満喫した2時間余りだった。

ソプラノを歌ったアイリーン・ペレスはメキシコ系のアメリカ人で、まだあまり知られていないが、美しくも力のある実力派。まず最初のアリア、「セヴィリャの理髪師」からロジーナのアリア「今の歌声は」を歌う。安全運転の歌いだしで、指揮もどこかぎこちないのだが、最初にしては不足はない。まあこんなところかと思った。だが、休憩を挟んだ後半のヴェルディ「椿姫」より第3幕のヴィオレッタのアリア「さようなら、過ぎ去った日よ」で見せた圧巻の歌声は、私を一気に舞台に釘付けにした。続くアルフレードとの二重唱「パリを離れて、いとしい人よ」では、もう何といったらいいのだろうか、ヴェルディの持つドラマチックな音楽の素晴らしさが堪能できる。オーケストラも前半の最後で「ギユーム・テル」序曲を演奏したあたりから安定し、後半を通じて最後のアンコールまで、それはなかなかの見事なもの。歌声と楽器が見事に調和する様は、オーケストラが舞台にいることもあってなかなか聞きごたえがある。

今回、歌手は4人登場したが、おそらくテノールを歌ったサイミール・ビルグこそ、今日もっとも素晴らしかったと思う。それは前半の「ギヨーム・テル」でのアルノルドのアリア「わが父の庵よ」を歌い始めたときから明白だった。艶があって軽やかな歌声はロッシーニにピッタリだが、後半のドラマチックな各アリアで見せる芯のある歌声は、整ったリリカルな美しさもあって聞きごたえ十分である。後半では歌劇「仮面舞踏会」でのリッカルドのアリア「永久に君を失わば」ですでに圧巻だったが、最後のチレアの名曲「アルルの女」での「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」で頂点に達した。会場がどよめき、一斉にブラボーが響く。

バリトンのジュリオ・マストロターロは、最初の「セヴィリャの理髪師」からフィガロの有名なアリア「おいらは町の何でも屋」を歌った時には、オーケストラのボリュームにかき消されるところが多く、先行きが気になった。しかしオーケストラも含め、まだ時には、十分に声が出ていなかったのだろう。後半になると持ち直し「ファルスタッフ」でのフォードのアリア「これは夢か?まことか?」では本領が発揮された。「ファルスタッフ」はヴェルディ最後の喜劇作品だが、音楽はより深く緻密となり、実力が試される。オーケストラと歌がピタリと決まると、会場から間髪を入れずブラボーが飛び交う。

バスのマシュー・クランはアメリカ人。長身で貫禄のある存在感は、出番こそ少なかったものの、低い声もまたオペラの魅力であることを十分に伝えていたように思う。前半の「セヴィリャの理髪」におけるバジーリオのアリア「陰口はそよ風のように」はやや硬かったが、「マクベス」でのバンクォーのアリア「何という暗闇が」を歌う時には、ドラマチックな歌声で会場を魅了した。

オーケストラはこの音楽祭のために編成されたもので、「東京春祭特別オーケストラ」という名前。各楽団からの奏者が集まっているという触れ込みだが、全体に女性が多く、ヴァイオリンなどは最前列を除いてほぼ女性である。そしてやや迫力が不足しているのではと思われたが、後半は次第に音楽的な表現が実を結び、アンサンブルの良さでこの欠点をうまくカヴァーしていたように思う。「ギヨーム・テル」序曲でのチェロは1階席中央で聞いていると、初夏のそよ風のように暖かく、フルートのソロは桜の花が散るようであった。指揮はイタリア人のレナート・バルサドンナ。後半特に音楽がピタリと歌に寄り添い、音の弱すぎない強さと、歌とソロ楽器の音程を抜群に保ちながら一体感を作り出す手腕はなかなかだと思った。

全般に欠点はなく、総じていい出来栄えだったところが嬉しい。チケットも直前まで売れ残り、どういうコンサートか気にしていたが、会場には若い女性が多く、9割は埋まっていたと思う。次第に完成度を増してゆく歌声に会場は沸き、特に後半ではイタリアの風が通り抜けて行った。私はプッチーニやチレアの音楽や歌が、これほどに精緻で、美しいものだったかと再発見したことは特に書いておきたい。

歌劇「ジャンニ・スキッキ」の超有名アリア「私のお父さん」は短いが、ペレスの歌声は澄み渡り、会場の隅々までこだました。その美しい歌声は、しばし時間を忘れさせ、会場にいることさえわからなくなるほどである。マスカーニの歌劇「友人フリッツ」からは「さくらんぼの二重唱」。彼女は満面の笑みを浮かべ、テノールのピルグも会場を小走りに出たり入ったり、会心の出来栄えだったのだろう、実に楽しそうである。

酔いしれるうちにプログラムは終盤になった。歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕でのアドリアーナのアリア「私は創造の神の卑しい僕」は最高によかった。私は美しいトスカーナの田園やヴェニスの海を思い浮かべた。そしてまたイタリアをゆっくり旅したいと思った。時間をかけて、北から南へと、西から東へと。もしかしたらそれは最後の夢かも知れない。

鳴り止まない拍手に応え、アンコールが続く。まず1曲目はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」から第4幕「馬車にだって」。冒頭でロドルフォ(テノール)とマルチェッロ(バリトン)の二人が歌う。この組み合わせは本日初めて。そして2番目はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕から「奥様お手をどうぞ」。ここではドン・ジョヴァンニとツェルリーナが歌う。この組み合わせも初めてで面白い。

そして最後のアンコールは何と4人で歌う「椿姫」の「乾杯の歌」であった。割れんばかりの拍手に何度も応えるカーテンコールは10分以上続き、歌手と指揮者が何度も手をつないで前に出たり後に下がったり。満足の一夜は盛況のうちに幕を閉じ、花見客で深夜までごった返す上野公園を、私はゆっくりと歩いて行った。春の風がライトアップされた桜の木の間を吹く抜けてゆく時、私は紅潮した頬を鎮めながら、青く深い南ヨーロッパの海を思い浮かべていた。


【曲目】
1.ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
2.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「おいらは町の何でも屋」
3.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「今の歌声は」
4.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「陰口はそよ風のように」
5.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」第4幕より「我が父の庵よ」
6.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」序曲
7.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕への前奏曲
8.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「さようなら、過ぎ去った日よ」
9.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「パリを離れて、いとしい人よ」
10.ヴェルディ:歌劇「マクベス」第2幕より「何という暗い闇が」
11.ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」第3幕より「永久に君を失えば」
12.ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」第2幕より「これは夢か? まことか?」
13.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
14.プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より「私のいとしいお父さん」
15.マスカーニ:歌劇「友人フリッツ」第2幕より「さくらんぼの二重唱」
16.チレア:歌劇「アルルの女」第2幕より「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」
17.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕より「私は創造の神の卑しい僕」

<アンコール>
18.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」第4幕より「馬車にだって」
19.モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕より「奥様お手をどうぞ」
20.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕より「乾杯の歌」

2017年2月19日日曜日

ロッシーニ:序曲集(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

米坂線というローカル線がある。JR米沢駅から新潟県の坂町までの90キロ余りを主に荒川に沿って走る。米沢は奥羽本線の大きな駅で山形新幹線も停車するが、その米沢駅の隅っこにある目立たないホームから、わずか二両編成の列車が出発してゆく。

米沢盆地の初春を私は22歳の時に数週間ばかり過ごしたことがある。自動車運転免許証を合宿で取るため、ここの赤湯温泉に滞在し、長井市にある教習所へ通ったからだ。雪解けが続く4月初旬のことで、遅い春を待つ北国の風景は私にとって思い出深いものである。

その地方都市にある教習所は、マイクロバスによる送迎を非常に広範囲に行っており、もっとも遠くは新潟県との県境にある町、小国であった。教習が終わって最終日に、私は大阪へ帰ることになり、福島に出て東京経由で帰るよりも新潟から帰れないかと考えた。一緒に過ごした新潟大学の学生と、同じく神戸へ帰る同い年の学生の4人で、マイクロバスの運転手に交渉したところ、快く坂町まで送迎してくれることになった。坂町は小国を越えて日本海側に出た羽越本線の小さな駅である。

この時にバスで通った道は国道で、薄暗く雪深い中を猛スピードで走行し、夜の坂町に到着した。そこの駅前で風変わりなカレーライスを食べた後新潟へ出て、そこからは夜行列車(急行「きたぐに」)の普通車で大阪へ帰った。

前置きが長くなったが、そのルートを通る米坂線に乗る機会があり、何十年ぶりかに訪れた米沢は深い雪の中にあった。小国を越えて坂町まで行くルートは、吹雪が途切れることはなく、その風景は寒々として私をしばし憂鬱にさせた。こういう時、何か陽気な音楽でも聞きたいものだ、と思った。そうしたら手持ちのWalkmanにカラヤンのロッシーニがコピーされているではないか。さっそく聞いてみる。ローカル線の心地よい線路音に合わせ、クレッシェンドのリズムが響く。

ここで私は歌劇「ウィリアム・テル」序曲を久しぶりに聞いた。小学校の音楽鑑賞会以来、何度も親しんできた曲だが、ここのチェロの静かなメロディーがカラヤンの十分に長い時間をかけてゆったりと演奏されるとき、北国の冬景色は囲炉裏の前で暖を取る光景に変化したし、それから続く嵐のシーンもまた、窓の外で横殴りに打ち付ける雪の粉に奇妙に合わさって私を快い気分にした。

カラヤンがこの頃に録音した一連の歌劇等の序曲集は、いずれも完成度が高く、こういったオーケストラの小品集でもまた、カラヤンでなければならないと思わせるような、真面目で純音楽的である。それはロッシーニだからイタリア風に、とかオッフェンバックだからフランス風に、といった固定概念を越えている。例えばスッペやヨハン・シュトラウスにしても、カラヤンはベルリン・フィルと演奏して録音を行っている。そのいずれもが、今聞いても色あせるどころか、昔はこういう作品のひとつひとつに丁寧に耳を傾け、心を躍らせていた少年時代があったのだなあ、と懐かしく思う。

「セミラーミデ」は最も長大だが、一番聞きごたえがある曲で、私は他の誰の演奏で聞いても最終的には好きになる。一方「どろぼうかささぎ」序曲は3拍子の浮き立つようなリズムが新鮮で、この曲を初めて聞いた時などは、しばらく耳にみびりついて離れなかったくらいだ。聞き古した「セヴィリャの理髪師」をカラヤンで聞くと、やはり音楽というのはいいな、と思う。

というわけでロッシーニの心洗われるようなリズムとメロディーに耳を傾けているうちに、私を乗せたがら空きのローカル線は坂町へ到着した。ここの駅前でかつて私を驚かせたカレーライスを出した食堂がまだあるだろうかと探したら、どうやらそれらしい店が見つかった。30年以上ここは何も変わっていないように見える。その時は夜だったが、今回私はお昼の羽越線を新潟方面へ向かう。すると向こうのほうから光が差してきた。新潟平野は雪も少なく、そこだけが青空に輝いている。通学途中の高校生が乗ってきては下りてゆくのは、昔も今も変わらない。信濃川を渡り新幹線の高架が見てくるころ、列車は新潟駅に到着した。


【収録曲】
1.歌劇 「セビリャの理髪師」序曲
2.歌劇 「どろぼうかささぎ」序曲
3.歌劇 「セミラーミデ」序曲
4.歌劇 「ウィリアム・テル」序曲


※今回取り上げたCDにはこのほかにスッペの序曲が収録されている。かつて我が家にはロッシーニの序曲のみを収録したLPレコードがあって、上記の他に「絹のはしご」「アルジェのイタリア女」が収録されていた。クラウディオ・アバドの序曲集(2種類ある)と双璧をなす演奏として親しんだものだ。もっとも当時、レコード雑誌で絶賛されていたのはトスカニーニであったのだが。

2015年4月11日土曜日

ロッシーニ:歌劇「湖上の美人」(The MET Live in HD 2014-2015)

ロッシーニのオペラ「湖上の美人」は1819年にナポリで初演されている。それから2世紀近くの時間がたって初めてMETで初演されたこの作品は、表題役エレナにアメリカ人ジョイス・ディドナート、スコットランド王(またはウベルト)にペルー生まれのフアン・ディエゴ・フローレスを起用している。この二人は私の記憶する限り、METライブシリーズでも数々のロッシーニ作品を共演してきており、「オリー伯爵」、「セヴィリャの理髪師」、「チェネレントラ」など一連のオペラ・ブッファで圧倒的に素晴らしい歌を楽しんできた。

このコンビが出るとなれば、その作品に触れたことがなくても観てみたくなる。しかも今回、松竹のホームページに掲載された音楽評論家、加藤浩子氏の現地レポートを事前に読んでしまったので、その期待は高まるばかりであった。上演が始まった初日に東劇で、さっそくこの上演を観たのだが、その印象は「まだこんな作品があったのか」というくらいに素晴らしく、圧巻の一言につきる。私がどう表現したところでプロの評論家にはかなわないので、ここではその表現を一部引用させていただく。


『それは、奇跡のような数分間だった。

静まりかえった劇場を浸す、光を浴びてきらめく金細工のような声。その声のゆくえを見守り、絶妙のサポートを続けるオーケストラ。恋人への想いを歌い上げる声は、時に熱を帯び、時に静まりながらもますます輝きを増し、その声に呼応して指揮者のしなやかな背中が、繊細な手先が、オーケストラピットの薄闇に舞う。声と指揮が完璧に手を取り合い、楽譜から最高の音楽を引き出す奇跡のような瞬間。
 
ケミストリー。

その言葉が思い浮かんだ。恋する2人が共有する天からの授かり物のような、奇跡的な瞬間。目の前の歌手と指揮者は、音楽を介してそれを体現していたのだ。これ以上完璧なコラボレーションがあるだろうか。』(METライブビューイングのホームページより)


評論家の文章には二種類ある。仕事のために仕方なく記述した文章と、心から感動した文章である。そしてこれはその後者に属するものであると私は信じている。彼女の表現がすべてを物語っている。


『作品の本質を理解した演出と指揮に支えられ、名歌手たちが繰り出すめくるめく歌の数々は、客席を陶酔の渦に巻き込んだ。幕切れのアリアが終わった瞬間の沈黙と、直後に爆発した喝采の熱気の凄まじかったこと!』(METライブビューイングのホームページより)


私にとってのこのオペラ体験の意味は、最初のロッシーニのオペラ・セリアであったことだ。つまりあのロッシーニ・クレッシェンドは少し控えめとなり、笑いがこみ上げるようなシーンはほとんどない。舞台は中世のスコットランド。スコットランドを舞台にしたイタリア・オペラと言えば、ドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」やヴェルディの「マクベス」などが思い浮かぶが、共通しているのは舞台が暗く、政争に左右される悲恋の物語というものである。この作品もその例に漏れず、舞台はスコットランドの陰影に富んだ湖のほとり。そこに迷い込んだスコットランド王ウベルト(変装している)はエレナに一目惚れ。彼女はウベルトを狩猟小屋に案内するが、そこで彼女が反乱軍の貴族ダグラス卿の娘であることを知る。

ややこしいのは彼女をめぐる男性が3人もいることだ。三角関係ならぬ四角関係。しかもその一人、エレナと愛を誓いあった仲であるマルコムは、メゾ・ソプラノによって歌われる。話はややこしいが、結局結ばれるのはこの二人である。それに至るまでの紆余曲折がこのオペラのあらすじではあるが、そんなことよりもベルカントの歌のめくるめく饗宴を楽しむのが醍醐味である。

第1幕の最初から合唱も活躍する数々の歌は、間違いなくロッシーニの世界へと誘ってくれる。それに欠かすことのできない歌手たちが、誰をとっても素晴らしいのだ。すなわちマルコムを歌うダニエラ・バルチェローナ(メゾソプラノ)、もうひとり 、父親が嫁にしようとしている反乱軍の首領、ロドリーゴのジョン・オズボーン(テノール)、それからエレナの父親ダグラス卿のオレン・グラドゥスである。

たとえ第1幕で気分がのらない個人的な理由(寝不足とか仕事のストレスとか)があっても、歌の力は偉大である。第2幕は冒頭から息もつかせないほどの圧倒的なレベルで見るものを興奮させる。冒頭ではフローレスが再登場し、極めて美しいアリア「おお甘き炎よ」を歌うと、そこにもう一人のテノール、オズボーンが登場してディドナートを加えた三重唱へと続く。会場は興奮のるつぼと化すのはこのあたりだ。

第2場で国王はエレナの願いを聞き入れ、捉えられた反乱軍の人たち、すなわちエレナの父、マルコムらを解放する。しかも二人が結ばれることをも彼は許すのだ。そのさりげない、べたべたしたところのない展開は、このオペラの主題とも言うべき和解というものを嬉しいくらいにしみじみと味わわせてくれる。これほど感じのいい幕切れもない。最後にはエレナは超絶技巧を駆使してアリア「胸の思いは満ち溢れ」を歌うと舞台は最高潮に達する。炸裂する歌にぴたりと寄り添い、歌手たちとの見事な呼吸の溶け合いを可能にしたのは、ミケーレ・マリオッティの指揮の功績である。目立ち過ぎず、品のある舞台を作るポール・カランの演出と合わせ、この公演を類まれな成功に導いたと思われる。

2014年6月8日日曜日

ロッシーニ:歌劇「チェネレントラ」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

私の「チェネレントラ」との出会いは、「セヴィリャの理髪師」よりも早い。90年代の前半、この曲の決定的とも言える録音が出現したからである。チェチリア・バルトリが標題役を歌い、リッカルド・シャイーが指揮するDECCA盤がそれである。当時の私はロッシーニと言えば、いくつかの序曲くらいしか知らなかったので、オペラ全曲盤のCDはロッシーニはおろか、他のオペラも数えるほどしか所有していなかった。

ところがこの録音はすこぶる評価が高く、内外の音楽雑誌を絶賛させていたし、確か何かの賞にも輝いた。そんなにいいのならひとつ買ってやろう、と私は2枚組のCDを、曲も知らずに買ってしまった。新譜だったので結構高かった。けれども序曲が始まるや否や、そのあふれんばかりの輝かしい音の連続に、耳を洗濯されたかのような錯覚にとらわれたのである。6畳一間の会社の独身寮で、私は毎日この曲を聴き続けた。バルトリだけでなく他の歌手達も素晴らしいし、それになんと言ってもシャイーのスマートでテンポのいい指揮と、それを捉えた見事なブリリントな録音が、今もってこの曲のベスト盤としての地位を確保している。

当時、シャイーの前にはクラウディ・アバドによるロンドン交響楽団の演奏が唯一と言っていいくらいに知られていた。この演奏は、この曲の評価を世間に知らしめた画期的な演奏だった。アバドの演奏には、後年ビデオに撮影されたもの(こちらは確かスカラ座)もあって、それはテレビでも放映されたから私はテープに撮って見たことがある。シャイーの録音で聞いた音楽が、このような作品だったかと改めて知ることになるその演出は、ジャン=ピエール・ポネルによる才気に富んだもので、今持ってこの曲の代表的な映像である。

この代表的な2つの録音に勝るとも劣らない成功を収めたのではないかと思われるのが、今回MET Live in HDシリーズの今シーズンのトリを受け持った「チェネレントラ」であったと思う。豪雨の中を東劇まで見に行ったのは数日前のことだが、未だに私の頭の中には、ロッシーニのクレッシェンドが鳴り響いている。鮮烈さにおいてファビオ・ルイージの指揮は、シャイーには及ばないが、映像を伴っていることで見応え十分であり、アバド盤にないライブの良さがあるのと、アバドよりも即興性と愉悦感において優っていると思われる。

標題役はアメリカ人のメゾ・ソプラノ、ジョイス・ディドナートである。それにお似合いの王子役には、これまた当代一のベルカント・テノール、フアン・ディエゴ・フローレスが受け持つ。今回がこの役を歌うのが最後だと宣言したディドナートは、この役を当たり役とし世界各地でフローレスとのコンビを披露している(マドリードでの映像がリリースされている)。ディドナートとフローレスはここ数年のMETにおける一連のベルカント物の定番歌手で、私もこれまでにロッシーニでは「オリー伯爵」(イゾリエとオリー伯爵)、「セヴィリャの理髪師」(ロジーナとアルマヴィーヴァ伯爵)、それにドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」(マリア)など数々の名演に接してきた。

ディドナートは叙情的ながら力強くもある歌声で、めくるめくベルカントの世界を表現した。私の文章力だと実感がうまく伝わらないので、松竹のホームページに掲載されたニューヨーク・タイムズ紙の現地評を引用させていただくと、彼女は「まばゆい魅力に溢れ、勇敢で、愛すべき感動的なシンデレラをMETで演じ、大成功を収めた。彼女は茶目っ気たっぷりに微笑みながら、超絶技巧を次々と繰り出し、胸の底から響く低音域からキラリと光る高音に軽やかに歌い上げた」。

フローレスの見事さについても、わざわざ私がつたない文章を書く必要はもはやないと思う。最大限の喝采をさらった彼の歌声は、第2幕のアリア「誓って彼女を見つけ出す」で最高潮に達し、とうとう鳴り止まぬ拍手に答えて再度舞台に姿を現すという(近年あまりない)状況に至った。

それ意外の歌手についても不満はほとんどない。意地悪な義姉妹、クロリンダとティスベは共にアメリカ人でソプラノのラシェル・ダーキンと、メゾソプラノのパトリシア・レスリーによって歌われた。彼女たちの意地悪さは見ていてもちょっとしたもので、役になりきっている様はインタビューの時のやりとりやカーテンコールにまで演じきる力の入りよう。一方、3人のイタリア系男声陣、すなわち彼女たちの父親ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリ(バリトン)、王子の従者ダンディーニのピエトロ・スパニョーリ(バリトン)、それに王子の先生で哲学者のアリドーロのルカ・ピザローニ(バス・バリトン)は、いずれもベテラン・イタリア人としてきっちり脇を固めていた。

演出(チェーザレ・リエーヴィ)は寓話的で、この物語が「シンデレラ」であることを意識していると思う。見せ場は空を飛ぶロバ、嵐のシーンでの光と炎、それにフィナーレでの巨大なウェディング・ケーキである。やりすぎれば安っぽくなるのだが、丁度その前で止まった。そういえばソファの足が一本折れていて座るたびに傾く演出も笑いを誘ったし、第2幕の6重唱「これは絡みあった結び目」では並んだ6人をひとつの紐で王子が結んでいきながら歌う。見ていて何とも楽しいのは、映像があるからだ。

ファビオ・ルイージの指揮について。この公演の成功の鍵は、指揮者にもあるだろうと思う。ルイージはロッシーニの指揮のコツについて「急ぎ過ぎないこと」と答えている。彼は前日夜に「蝶々夫人」を振った後、このMET Liveに登場し、その後夜にはアムステルダムに向けて出発するそうだ。よくそんな体力が持つものだと感心するのは、インタビューアのデボラ・ヴォイトしかりである。ルイージは本作品を初めて指揮するとは思われないほど、つぼを心得ていたように思う。重唱の多いこの作品で、歌のアクセントが極めてよく揃え、音楽が弛緩することなく続く。第1幕の「静かに、静かに」あたりから続くフィナーレなど、見ていて惚れ惚れするような歌の連続は、この堅実な指揮によって可能となったと思われる。

総合的に考えて、現在望みうる最高の出来栄えとなった「チェネレントラ」は、今シーズン最後を飾るに相応しい大成功だった。見終わった時、美味しいものを満足行くまで食べたような幸福感に見舞われた。同行した友人のM君と豪雨の中を近くのバーまで歩き、興奮醒めやらぬ気分でビールを傾けた。私は彼に仕事を少し休んででも6時半の開演に間に合わせるようにと忠告し、彼は正確にそれを実行した。「みんなつまらない仕事をしているが、私達はロッシーニのオペラの楽しさを知っているというだけで密かな優越感にひたれるじゃないか」と語り、「どうせ頑張って出生し、金持ちになっても、やりたくなるのはオペラを見ることさ。それなら今日もやっているじゃないか」などと言い合った。彼は「誰もが偉くなれるわけじゃないし、そうなったとしても健康であるとは限らない」と応じてくれた。

2013年9月21日土曜日

ロッシーニ:歌劇「セヴィリャの理髪師」(The Met Live in HD 2006-2007)

ボーンマルシェの戯曲「セヴィリャの理髪師」は、この後に「フィガロの結婚」が続き、そして「罪なる母」へと進む。したがってロッシーニの「セヴィリャの理髪師」はモーツァルトの「フィガロの結婚」の前の話で、伯爵夫人となるロジーナがどのようにして、アルマヴィーヴァ伯爵と結ばれたか、という喜劇である。モーツァルトはロッシーニの前の作曲家だから、当然ロッシーニの「セヴィリャの理髪師」(1812年)を知らない。モーツァルトが知っていた「セヴィリャの理髪師」は、ジョヴァンニ・パイジェッロによりすでに作曲されていた作品(1782年)で、これを受けて「フィガロの結婚」(1785年)を作曲したとされている。

ロッシーニはパイジェッロに作品の許諾を求める手紙を書いたが、初演時には相当な妨害工作に会い、惨憺たる結果に終わった。しかしこの作品はすぐにロッシーニの人気作となり、いまではパイジェッロの方は忘れられている。だが、パイジェッロは、少し調べたところ、92曲もの歌劇を書いた作曲家で、美しい旋律美に溢れているらしい。一度見てみたいものだと思う。

ロッシーニはベートーヴェンの時代に活躍した作曲家でもあるが、その作風は見事なまでに違う。そしてこの「セヴィリャの理髪師」は、丸で吉本新喜劇を思わせるような抱腹絶倒ドラマで、一瞬足りとも気を抜けない楽しいオペラである。しかも優美な旋律美に溢れる音楽が、ロッシーニ・クレッシェンドに乗って駆けまわる様は、よく知っているとは言え、わくわくする。私も今まで見逃していたMET Liveシリーズのアンコール上映に駆けつけることができるということが自分のスケジュール上で決まった時から、ワクワクし通しであった。いつものようにiPodに入れて、アバド、マリナー、それにパターネによる代表的録音を連日聴いていた。

ロッシーニの音楽が人気あるにもかかわらず上演回数が少ないのは、理由がある。歌える歌手を揃えるのが困難だからだろう。だがこのMETで2007年3月に上演されたバートレット・シャー演出、マウリッツィオ・ベニーニ指揮による上演は、映像としては最高の出来栄えではなかったかと思われる。何せアルマヴィーヴァ伯爵にフアン・ディエゴ・フローレスを迎えているのだから。

フローレスの歌が聞きたくてこの公演に駆けつけたファンは数多いだろう。その歌声は、登場する第1幕の有名なカヴァティーナ「ごらん、空が白み」をたっぷりと歌い、ピタリと合わせるベニーニとの見事な呼吸を披露すると、いやがうえにも期待は高まるばかりとなる。そうそう、ここでの登場は画期的なもので、何と客席から舞台に飛び上がったのだ!オーケストラを取り巻くように歌舞伎で言う「花道」が付けられていて、時に歌手たちはこの上で(つまり指揮者の前に来て)歌う。

だがこの日素晴らしかったのは、フローレスだけではない。次に登場する愛すべきキャラクター、フィガロはスウェーデン人のバリトン、ピーター・マッテイによって歌われたが、これが何とも好感の持てる役になりきっていた。おそらくこういう人物が期待されているだろうと感じさせるような、堂々として時にコミカルな役である。この役がテノールではなく、バリトンであることに注目すべきだと思う。屋台の移動車(それが散髪屋)の屋根に乗ったり下りたりして、あのアリア「町の何でも屋」を歌う。

いよいよお待ちかねのロジーナは、登場していきなり「今の歌声は」を歌わなければならない。だが、アメリカ人のソプラノ、ジョイス・ディドナートはこの歌を個性的に歌いきった。コロラトゥーラの魅力を発揮し、あのマリア・カラスの名唱にも引けを取らない歌いぶりは、箱入り娘にしては芯の強い、自己主張型の女性である。

バルトロ。ジョン・デル・カルロ演じる老医師の役こそ、この歌劇の決定的に重要な役で、この人がいなければこの日の成功は半分しかなかったような気もする。それほどこの役は見事だった。もちろんもう一人のバス、音楽教師のバジーリオは、バスの歌手として見事な歌いぶり。登場する箇所は相対的に少ないが、アリア「中傷とはそよ風」を熱唱し、観客からブラボーが乱れ飛んだ。

こうなったら、もう見るしかない。会話の部分でさえいっときの目も離せない集中力で画面を食い入るように見入った結果、第1幕の終盤の抜群に楽しい6重唱以降のフィナーレが終わる頃には、もうヘトヘトであった。15分の休憩をはさみ、興奮を覚ますまもなく、第2幕が始まる。

有名な歌が第1幕に集中しているので、第2幕はCDなどで聞くと地味な印象がある。だがそれは大間違いである。ロジーナの歌のレッスンで、バジリオに変装した伯爵が見事な演技を繰り広げるからだ。舞台に2人のバジリオが居合わせるシーン、鍵を盗むシーンなど、どれも腸がねじれるような笑いだが、その間に挟まれる音楽がまた、楽しい。このようなことをここで文章で書くのも何か限界を感じる。

嵐のシーンが来るともう終わりなのかと思ってしまうが、最後にフローレスはアリア「もう逆らうのをやめよ」で、満場の拍手をさらったのは、ダメ押しの圧巻であった。拍手がなかなか鳴り止まない、という光景を久しぶりに見た気がする。あっという間に幕切れとなったが、最後の最後まで見応え満載の3時間は、瞬く間に過ぎた。お腹いっぱい食べたような充足感で、お昼になっても空腹を感じる事もなく、10時に始まった上映は13時半前に終った。どっと疲れが出て、公園のベンチで子供たちが遊ぶのを眺めながら、うとうととしてしまった3連休の初日であった。

(追記)このディドナート、フローレスの組合せで、今シーズンは「チェネレントラ」が上演される。今から待ち遠しいが、私は来月に、新国立劇場で「フィガロの結婚」を見るう予定である。「セヴィリャ」「フィガロ」と続くその後には、「ばらの騎士」ではないかと思う。すなわち、伯爵夫人を元帥夫人に、ケルビーノをオクタヴィアンに置き換えてみると、この3つで三部作となる。もちろんボーンマルシェの結末とは違うのだが、シュトラウスは確信犯で「ばらの騎士」を書いたのではと思えてくる。

2012年2月8日水曜日

ロッシーニ:歌劇「オリー伯爵」(The MET Live in HD 2010-2011)

ロッシーニ最後の喜劇とは言えそれほど有名でもなく、オペラ作品を紹介した本にも取り上げられることの滅多にない「オリー伯爵」は、何とメトロポリタン歌劇場の初上演である。1828年の作品だから200年近くも上演されなかったその理由について、解説のルネ・フレミングは沢山のベルカント歌手を揃えるのが難しかったからだと語る。

たしかに「ランスへの旅」から採用された歌が多く、その歌手や合唱、それに舞台や衣裳まで含めると相当のお金のかかる作品であろうと思われる。だが初めて接したその舞台は大変素晴らしかった!

私はここで、ただ素晴らしかったという形容詞しか思いつかないのだが、それは音楽も素敵だし、歌は次から次へと美しく、ストーリーは楽しくて演技もうまい。あっという間の3時間だったのである。

やはりロッシーニはいいなというのが最初の感想だ。ベニーニの指揮が歯切れよく軽快であることに加え、オーケストラと歌の録音のバランスも悪くない。だからめくるめくロッシーニの世界を堪能できるのだ。しかも晩年の作品だけあって、音楽が大変充実しており不足感がない。これは先日見たドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」にも言えることだが、作曲者の面目躍如といったところで、スタイルの確立した音楽を使ってその醍醐味を味わわせる。

私にとってロッシーニは、数々の序曲集に加えて歌劇「セヴィーリャの理髪師」を実演で(やはりメトロポリタン歌劇場)、歌劇「チェネレントーラ」をCD(シャイー)とビデオ(アバド)で見て以来である。ディスクで聞くロッシーニも録音が良いと大変素敵だが、実演で聞く音楽の生き生きした感じは、聞くたびにぞくぞくする。

早口言葉で何人もの重唱となるあたりは、私はイタリア語の特権だと思っていたが、これは何とフランス語である。その点が大変珍しい。台詞はほとんどなく歌が続くのだが、そのすべてが陽気で幸福感に満ちている。これはこれで他の作曲家にない世界である。

観客も楽しげに笑っているが、音楽が推進力を持っているのでオペレッタのような馬鹿騒ぎにはならない。それでも第2幕のベッドでのシーンは魅せる!物凄く練習したであろうが、それを完璧にこなしてこそ客席も安心して見ていられるものだ。標題役を歌うフローレスも「悲劇より喜劇の方が難しい」と言っているが、これは誰に聞いても同じ意見だろう。

そのフローレスは開演の半時間前に出産に立ち会っていたというからそれも驚きだが、この作品はもしかしたら「連隊の娘」と同様に、フローレスのためにあるような作品だと思った。男性が女装したり、ソプラノが少年の役をしていたりと、ややこしいがそれもストーリーの面白さの一部である。さらに劇中劇であることも演出の妙味を味わえる。

フローレスと大変な歌声のソプラノ、ディアナ・ダラムウ、イゾリデを歌ったジョイス・ディドナートの3人は、他の劇場でも競演するベスト・トリオである。これにレーズマークの歌うラゴンド夫人を加えた4人が、次から次へと歌いに歌い、そして観客は酔いしれた。期待せずにでかけたが、終わって見るともっとも見ごたえのある上演だった。

(2011/09 東劇)

チャイコフスキー:3大バレエ組曲(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チャイコフスキーの3大バレエ音楽について、個人的なベスト盤とともに感想を書き終えた。3作品のうち最初に作曲された「白鳥の湖」は、1877年の初演時には必ずしも成功を収めることができず、チャイコフスキーにとっても不本意な結果となった。しかし、1890年に初演された「眠れる森の美女」...