ラベル Verdi の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Verdi の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年4月28日月曜日

ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」(2025年4月26日サントリーホール、広上淳一指揮)

流れるように綺麗なメロディーと、情熱に溢れる歌声、そして息をつかせないほど緊張感に満ちた舞台。三位一体となったヴェルディ中期の大作「仮面舞踏会」をサントリーホールで見た。セミ・ステージ形式とされた舞台は、いわゆる演奏会形式ともまた違ってしっかり演出がされており、衣装や舞台道具、それに照明までついて本番さながらの演技力が要求される。それは時に民衆の、時に暗殺集団の声を表現する合唱団にも言える。

いわゆる歌劇場と異なるのは、舞台の真ん中にオーケストラと指揮者がいることだ。舞台はサントリーホールの構造を生かしてオーケストラをぐるりと囲んでいる。合唱団はオルガン前のP席に黒い幕を覆って客席の一部であることを上手に隠し、オルガン前にもずらりと金管の別動隊が並ぶ。その数、20名余り。

指揮者の広上淳一は、音楽の自然な流れをとても重視し、その中から音楽的なバランスを極めて上手く引き出す指揮者だ。それは職人的と言っていいほどで、その音楽がマーラーであれモーツァルトであれ、音符の長さを十分に表現し、強弱をつけて生理的にもっともしっくりくる位置に定めることができる。その広上がヴェルディを振るときいたとき、歌手をさしおいてこれは「買い」だと思った。発売日にチケットを買うのは、私にとっては異例のことだ。カレンダーに丸印をつけ、大型連休が始まるので他の予定を誤って入れぬよう細心の注意を払った。もちろん体調を整えることも。

前奏曲の簡潔にして表情豊かな音楽が聞こえてきたとき、やはり今回は並々ならぬ力がこもっていると感じた。最大音量のアンサンブルでも乱れることはなく、枠役の歌唱を含め、そのバランスが理想的に文句のつけようがなく美しいことは言うまでもない。東京に数多くのオーケストラがあって、評判の指揮者が多くのコンサートを開いているが、広上の指揮する日フィルの音はその中でも一頭上をいっていると確信している。それを実現させているのが、あのひょうきんとも言えるような指揮姿だが、決して笑いを取るためのものではなく、理想的な音楽表現を体現するためにあのような姿になるのだろう。

それは歌唱を伴った場合でも同じである。だが今回の部隊、その歌手陣の見事さたるや、何と言っていいのだろうか、一点の非の打ちどころもないくらいの高水準で、誰から記載していいのかもわからない。登場順で行けば、ヴェルディの作品としては異例の小姓役である森田真央(オスカル)の、よく動き回る役作りに感心したし(もう少し印象的な衣装をつけていても良かった)、登場するのが前半に偏っている謎の占い師を演じたメゾ・ソプラノの福原寿美枝(ウルリカ)には、地の底から燃え上がるようなおどろおどろしい歌声が会場にこだまし、この歌声で是非ともアズチェーナ(「イル・トロヴァトーレ」)を聞いてみたいと思った。

総督の友人にして忠実な部下であるレナート役を歌った池内響は、実直でスマートな印象をもたらすもので、痩せて高身長な容姿も含めピタリとはまっている。ヴェルディがもっとも力を注いだのは言うまでもなくバリトンで、その役柄としてこの上なく素晴らしいのだが、サントリーホールは響きが良すぎて残響が大きいのが、この場合難しいところだ。だがこんな贅沢な悩みを語るのはよそう。

さて、「仮面舞踏会」の二人の主役、すなわちアメーリアの中村理恵とリッカルドの宮里直樹について語る時が来た。これほどにまで理想的で素晴らしいヴェルディの歌声を聞いたことはない。特に宮里のテノールは終始圧倒的な存在感を示し、この舞台の主役として文句のつけようがないくらいである。やや小太りなのに声は高い、という容姿の適合感もさることながら、その高貴な歌声は、パヴァロッティのようないわゆるベルカントオペラのそれではない。一方、中村理恵は世界中のオペラハウスで活躍する我が国を代表するディーヴァだが、アメーリアの役でも「愛の二重唱」に力点を置いて葛藤に満ちた女性心理を歌い上げた。

どの重唱が、どのアリアが、などと言うのではなく、次から次へとつながれてゆく力量に満ちた音楽は、集団テロという陰惨な企みを扱ったストーリーとは違って歌、また歌の醍醐味を味わわせてくれる。だから深刻になることはないばかりか、極上の娯楽作品のようですらある。さりとて滑稽すぎるわけでも、陰鬱なものでもない。ヴェルディの作品は、総じて極めて常識的なのでそこがいいところ。こういう作品が30もある。

私は中期と後期の作品を中心に、多くを最低1回は舞台で見てきた。体調が悪くて昨年「マクベス」を聞き逃したのは惜しかったし、「運命の力」と「ドン・カルロ」はまだなのだが、こういった作品も是非取り上げて欲しいと思う。

セミ・ステージ形式(演出:高島勲)というのが、新しいオペラの表現形態として十分に成立することを示している。登場するのが全員日本人であるというのも悪くない。外国から有名歌手を招聘するとコストがかかるし、練習にも制約ができる。そうでなくても我が国の歌手は、これらの外国勢に隠れて、実力ある人でも主役を歌う機会に恵まれない。だから、こういう企画は大いに称賛されるべきだし、チケット代が下がることで真の音楽好き、オペラ好きが気軽に楽しめるようになればと思う。

次第に高潮して行く舞台に引き込まれ、途中からブラボーの嵐が飛び交ったのは当然だった。広上はその時その時で指揮をストップし、客席と一緒に拍手を送る。オーボエやチェロがソロを担当するシーンでは、そこに照明が当たるのも面白い。普段はピットに隠れてオーケストラを意識することがない(ようになっている)。普段はほとんどオペラを演奏しない日フィルも、舞台で思いっきりヴェルディ節を奏でるのが楽しそうに見えたし、それに何と言っても広上の陽性な指揮と一体となった舞台が、まるで歌舞伎をみるかのように楽しく、字幕を含めどこに視線を送ればいいのか大忙しだった。合唱も良かったが、何と言っても舞台に隠れていたヴェルディの音楽が、ヴェールを脱いで間の前に溢れたことが新鮮だった。

興奮冷めやらぬ聴衆からは惜しみない拍手が続き、出演者も会心の出来だったと見えて長く舞台でカーテンコールに応えていたのが印象的だった。

2025年4月15日火曜日

東京春祭オーケストラ演奏会(2025年4月12日東京文化会館、リッカルド・ムーティ指揮)

2005年「東京のオペラの森」として始まった音楽祭は、今年でもう21周年を迎えたことになる。2010年からは「東京・春・音楽祭」として、丁度桜の咲く3月から4月にかけての上野公園一帯で繰り広げられる音楽祭として規模も拡大し、今ではすっかり春の風物詩となった。

私は2014年から4年かけて行われた「ニーベルングの指環」の演奏会を鑑賞したのをはじめ、今年までほぼ毎年、何らかのコンサートに出かけてきた。最初は小澤征爾を中心に、新作オペラを上演するというのが恒例だったが、2006年(たった2年目)からはリッカルド・ムーティも登場し、その後毎年のように何らかのコンサートを指揮するようになった。今彼が指揮するオーケストラは、専ら若手を中心に特別編成された東京春祭オーケストラで、海外の劇場とのコラボレーションや教育的なプログラムなど、様々な企画が始まり、その他にも多彩な顔ぶれと普段は聞けない珍しい室内楽曲など、意欲的で興味深い日々が続く。

今年の管弦楽のコンサートのトリを飾るのが、リッカルド・ムーティが指揮するイタリア・オペラの序曲・間奏曲などを集めたプログラムであることを知った時、私は即座にチケット購入を決意、妻と二人で出かけることにした。何と言っても御年84歳にもなるムーティが、(それでも彼は毎年何回か来日しているようだが)なお現役の指揮者として意欲的な演奏を繰り広げているのを観たいと思ったし、いまや巨匠とも言えるような指揮者は、ティーレマンを除けば彼が最後ではないか、などと考えたからに他ならない。

ムーティを聞くのはこれが3回目(正確には4回目)である。最初は1990年、旅行先のニューヨークでのことだった。この頃ムーティは、オーマンディの後を継いでフィラデルフィア管弦楽団のシェフを務めており、ニューヨークへもたびたび訪れて定期的な演奏会をしていた。この時聞いたのはベルリオーズの「夏の夜」(独唱:バーバラ・ヘンドリックス)とスクリャービンの交響曲第3番「法悦の詩」だった。1階のオーケストラ席真正面で聞いた演奏は大変見ごたえがあったが、当時の私にとっては馴染みの曲ではなく、あまり印象は残っていない。

その後ムーティの指揮する極めつけの2つのオペラ(「ナブッコ」と「シモン・ボッカネグラ」、いずれもローマ歌劇場の来日公演)を大枚を払って立て続けに見て、もうこれ以上のものはない、と思って遠ざかっていた。その間にアバドや小澤征爾が亡くなり、メータやバレンボイムも活躍を聞かなくなった。私がクラシック音楽を聞き始めた頃、まだ若手だった指揮者が次々と姿を消してゆく中で、ただ一人まだ精力的に活躍を続けているのがムーティである。今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、ムーティの指揮だったことは記憶に新しい。

けれどもこのムーティのニューイヤーコンサートは、私を少々がっかりさせた。ウィーン・フィルの響きがいつもとは違って精彩を欠いていたからだ。録音の方はそう思えず、これはテレビのライブ中継を見た時の感想である。もしかしたらムーティも、高齢による衰えを隠し切れなくなったのだろうか。だとしたら私は今回の来日コンサートで、もはや精彩を欠いた彼の指揮姿を見ることになるのだろうか?まあそれはそれで、記念になると思いつつ当日を楽しみにしていた。

だが指揮台に現れたムーティは、足取りも軽やかで指揮姿も勇みよく、確かにかつての若々しさはないものの、なかなか切れのある音楽を作るではないか。この若手中心のにわか作りのオーケストラを、短期間のうちに手中に収め、歯切れのよいリズムと旋律がくっきりと浮かび上がるカンタービレに特徴付けられた往年の音作りは、まさにムーティの真骨頂であり、誤解を恐れずに言えば、正真正銘のイタリア流であった。

ムーティはまず「ナブッコ」序曲(ヴェルディ)で期待を膨らませたあと、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ)のうっとりするようなメロディーを、実際幕間に聞こえる間奏曲らしく演奏した。前半のプログラムで私が最も感動したのは、「道化師」間奏曲(レオンカヴァッロ)だ。「カヴァレリア・ルスティカーナ」と合わせて上演される2つのヴェリズモ・オペラのうち、「カヴァレリア」の方が親しみやすく音楽もきれいだが、「道化師」の方がやや複雑な心情を表現しており、音楽的充実度が高い。イタリア・オペラの神髄ともいうべき人生の宿命と儚さを、簡潔かつ雄弁に表現している。

ムーティはこのあと、「フェドーラ」間奏曲(ジョルダーノ)、「マノン・レスコー」間奏曲(プッチーニ)と続けて演奏し、これらはいずれも実際の劇中で演奏されると極めて印象深いが、このように間奏曲のみ立て続けに演奏されるとやや単調になる。けれどもこれは贅沢な悩みでしかない。思えばムーティのプッチーニなどどいうのも珍しい。

前半最後を飾るのは「運命の力」序曲(ヴェルディ)で、これは十八番中の十八番。確かフィラデルフィア管弦楽団との来日の際にもアンコールで演奏された記憶がある。トスカニーニ張りの緊張感を保ち、音の強弱を際立たせながら、流れるようなメロディーとたたみかけるようなリズムは健在だ。そういうわけで満員の客席からは前半からブラボーも飛び交うこととなった。

今回の客席には高齢者が目立ち、足どりも重い人が多い。にもかかわらず東京文化会館というところは、トイレに行くにも階段を上り下りしなくてはならず、しかも狭い。傘立てもなく客席は狭いが、音響は悪くない。

後半のプログラムは2つ。まず、カタラーニの「コンテンプラツィオーネ」というめずらしい曲。この曲を聞くのは勿論初めてだったが、わずか10分余りの長さながら、やはりそこにはレガートで音と音がなめらかにつながれてゆくさまを味わうことができる。なお、コンサートマスターはN響の郷古廉である。

もう後半最後になった。「ローマの松」(レズピーギ)である。オーケストラが最大に拡張され、3つの鍵盤楽器のほか両脇に金管楽器の別動部隊も配置された。クラシック音楽で最大の音量を誇るこの曲は、その圧倒的なコーダで有名だが、きらびやかな冒頭と夜の静けさを表現した中間部、それに朝もやにこだまする小鳥のさえずりなど、聞き所には事欠かない。ムーティはゆったりとしたテンポで味わい深く音を刻み、その印象は、これまで同曲を聞いた中では最高のものだった。

オーケストラは指揮に極めて忠実に対応した。コーダに向かって大団円を築く時、フォルティッシモになっても乱れない響きの綺麗さには圧倒された。イタリア音楽を演奏するとき、音というのがどのように重なり、繋がり、あるいは引き延ばされるべきか、何度も細かく練習したのだと思う。これはムーティにしかできないような職人技に思えた。拍手の大喝采、ブラボーの嵐が満員の会場にこだました。退場時に抱き合って喜ぶオーケストラのメンバーに惜しみない拍手が送られた。そしてムーティも、退場しかけたオーケストラの中に再び登場、花束を持って会場に手を振っていたのは印象的だった。

2024年5月30日木曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(2024年5月25日新国立劇場、フランチェスコ・ランツィロッタ指揮)

今や我が国を代表するソプラノ歌手と言ってもいい中村恵理のことを、私はほとんど気に留めたことはなかった。実際過去のコンサートの鑑賞記録を手繰ってもヒットしない。彼女は新国立劇場オペラ研修所の出身ということなので、もしかしたらと思って過去の私が行ったすべての作品の公演プログラムに目を通したが、脇役を含めいまだ接したことがないようだった。

私はこの3月に「トリスタンとイゾルデ」、さらには4月に「エレクトラ」を見て、1回のオペラ公演に高い料金を払って出かけるのはこれで一区切りとしよう、などと勝手に心に決めていた。ところが「トリスタン」を見た際にロビーに掲示されていた、これからの公演の広告を見て、我が国にヴィオレッタを歌う中村恵理なるソプラノ歌手がいることを発見した。そのプロフィールには大阪音楽大学卒業と書かれていた。私は大阪府豊中市で育ったから、この学校のことを良く知っている。私の出身の中学校や高校の音楽の先生に、この大学の出身者も多かった。上空をジェット機が高度を下げて航行し、近くからは焼き肉屋の匂いも漂ってくるような下町に、ヨーロッパで活躍するディーヴァがいるという事実が私を興奮させた。

その彼女が、ここ新国立劇場でヴィオレッタを歌うのは2回目だそうである。最初の登場は2年前、コロナ禍の真っただ中でのことで、この時は代役ということだったようだ。それでも彼女はこの難役をこなし、評価は一気に高まった。いや、それは極東のオペラ後進国でのことで、彼女はすでにヨーロッパにおいて、ミュンヘン・オペラなどいくつかの歌劇場で多くの役をこなしていた。その一つに何と、あのアンナ・ネトレプコの代役でヴィオレッタを歌った、という経歴があることに驚いた。「椿姫」のヴィオレッタともなると、マリア・カラスの歴史的録音が数多く残されており、各地の歌劇場で語り草となっている亡霊に付きまとわれて、そうそう簡単には歌えない役だと思っていたから、なおさらのことである。

興味深くなって私は彼女の経歴をネットで検索してみた。すると何と、彼女は私も住んでいた兵庫県川西市の出身というではないか!これで私は、彼女が主役を歌う「椿姫」の公演に行くことを決めた。幸い妻も土曜日なら行けるというので、私は2階席最前列のS席を2枚買い求め、さらにはそのあとに代々木上原で、以前から行こうと思っていたフランス料理レストランの予約も済ませた。これは2人にとって、久しぶりの祝杯である。今年3月に東京を離れた長男の大学入学を、二人で祝うというのが目的だった。受験を控えて昨年は、私たちも結婚記念日や誕生祝いを自粛してきた。その期間が晴れて解けたのである。

ヴェルディ中期の傑作「椿姫」。原作では「ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女)」と呼ばれる。「フィガロの結婚」「カルメン」などと並んで、あらゆるオペラ作品中最も有名で愛されるこの作品こそ、私をオペラ好きたらしめた筆頭の作品である。そのことはこれまでにも書いた。これまで何度聞いたかわからない録音の数々、旋律もほぼ覚えてしまった作品を、実際に見るのはまだこれが3回目であるが、その数は最も多い。我が国では毎年、どこかの劇団が上演している超人気作品である。私にとって、これはオペラ経験の原点回帰とも言うべきもので、そのタイミングに相応しい公演に、注目の彼女が主演するというのである。

人気取りのような公演ではあるものの、土曜日ということもあってか客席はほぼ埋まっている。やがてピットに入った東京フィルハーモニー交響楽団の左手奥から、指揮者のフランチェスコ・ランツィロッタが登場するのが見えた。舞台は四角形の鏡の舞台が斜めに傾いて設置され、頂点の一つが舞台の前にせり出している。奥の壁も鏡になっていて、フローラの館に集う人々がまとう色とりどりの衣装が鏡に反射する。評判の照明装置が大変綺麗である。その中にヴィオレッタ(中村恵理、ソプラノ)とアルフレード(リッカルド・デッラ・シュッカ、テノール)がいる。間髪を入れず始まる「乾杯の歌」。新国立劇場合唱団は上手すぎて、こういう雑然とした場面もきっちりと機械のように歌い、やや「作られ感」のある喧噪である。

若いイタリア人の指揮は流れるように進み、あれよあれよと正念場のアリア「ああ、そはかの人か~花より花へ」と進む。舞台中央にはピアノが一台置かれているだけ。彼女はその周りをまわりながら、丁寧に、しかもよく通る声でこのソプラノの難曲を歌い切った。歓声に包まれる会場。アルフレードの若々しい歌声もとても好感が持てる。第1幕が終わっても休憩時間にはならず、長い休止のあと第2幕第1場へと続く。舞台のピアノはそのままで、天井になぜかこうもり傘が二つ。これだけでパリの社交界から田舎の館にチェンジ。二人の楽しい生活も束の間、アルフレードの父ジェルモン(グスターボ・カスティーリョ、バリトン)が登場して、世間体が悪いからとヴィオレッタに別れるよう求める。カスティーリョの声は、もしかするとこの公演で最も素晴らしいものだ。ベネズエラのエル・システマ出身とプロフィールにはある。その歌声での力強さと気品は、この役に必要なものがすべて備わっていた。

ヴィオレッタが泣く泣く手紙を綴るシーンや、思いがけず彼女を抱きしめるジェルモン、アルフレードの直情径行なふるまい。この第2幕は演出によってはドラマチックなものだ。しかしこの演出では舞台の転換が少ない上に、音楽が綺麗に流れて行く。歌唱のレベルは見事なのだが、演出上の工夫がちょっと平凡に思えた。そのことによって、第2幕第2場のクライマックスでさえメリハリに乏しい。闘牛士の歌もバレエはなく、動きに乏しいというのも淋しい。最高潮に達したところで歌われる三重唱など、映画で見るとそれぞれの思いが幾重にも重なって映るのだが、これは想像するしかないのは舞台で見る時の悲しさだろうか。

第3幕に入る前の長い休止も、休憩時間とはしないのが今や通例だが、時間はかかっても第1幕、第2幕、第3幕とゆったり見たいと思ったのは、この公演の完成度がすこぶる高く、弛緩することなが一切なかったからだ。歌手、オーケストラ、合唱団の3拍子が揃うことは、この作品ではなかなかないことだ。第1幕の最初から、私は気分が高揚して涙腺も緩む。だからこそ、もっと長い時間この舞台に浸り立った。実演で観る時は、家のリビングでビデオで観るのとは違う体験を期待しているのである。

第3幕の前奏曲が終わって病気に伏した彼女は、何とベッドではなくピアノの上に横たわっている。ジェルモンからの手紙を切々と読むヴィオレッタのシーンは、2階席最前列でも良く見えないからオペラ・グラスに頼るしかない。彼女は最も重要なアリア「過ぎ去りし日々」を、このピアノの上に立って歌うことになった。外に向かって開けられた扉の背後の色が、黒い舞台に映えて、謝肉祭の朝を表現したりする。だが、そこに登場するアルフレードやジェルモンは、そろそろと登場しており、何か普通の訪問者のようで丸で表現的ではない。総じて、演出に不満の残る舞台だったが、歌唱とオーケストラ、合唱と指揮はいずれも高水準で難点を見つけることができないものだった。

幕切れてヴィオレッタは病に倒れるのではなく、幕が下りた舞台の上で最後を歌う。そのために舞台の一部がオーケストラ・ピットにせり出していたのだ。彼女は歌詞では死に絶えるが、直立したまま魂は生き残り、より強い女性としてこの社会に抗う生命力を表現する。この希望的な終幕は、この演出のもっとも特徴的なものだったと言える。

舞台に残った中村恵理には多くの歓声が飛び交い、何度もカーテンコールを繰り返すうち、3時間に及んだ公演が終了した。久しぶりに見たヴェルディの傑作は、やはりこの作曲家の偉大さをひしひし感じるものだった。ヴァンサン・ブサール(演出)も述べているように、この作品は同時代の話をそのままオペラにした斬新なものである。それが当時の女性の社会的立場を、否が応でも明らかにした。だがそのことによって、今日にも通用する普遍的なテーマを持ったこの作品は、愛すべき歌唱性と通俗的なストーリーを持ちながらも、高い芸術性を勝ち取ることができた。

このような作品がヴェルディには目白押しある。9月には演奏会形式ながら「マクベス」が上演される。この作品は私がまだ実演で見ていない作品だから、行かない手はないだろう。梅雨前のうっとうしい空模様もこの日は一休み。吹く風はさわやかで、代々木までゆっくりと歩く私たちも、気分は大変爽やかだった。

2022年10月26日水曜日

ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」(東京フィルハーモニー交響楽団第976回サントリー定期シリーズ、2022年10月20日サントリーホール、チョン・ミュンフン指揮)

ヴェルディ最晩年にして最後のオペラ作品である歌劇「ファルスタッフ」は、これまで少し苦手で、CD などで聞いていてもどこか捉えどころがなく、歌が(重唱が多い)長々と続くだけの作品だと思ってきた(ワーグナーに似ている)。しかし、こういう場合、往々にして作品に真正面から向き合っていないことが多い。特に「ファルスタッフ」のような玄人好みの作品になると、その良さを体感できるような一定の技術的水準の名演奏に接することができない限り、その良さが伝わりにくい。

昨年、2022年の定期演奏会のラインナップを知った時、チョン・ミュンフン指揮による「ファルスタッフ」が目に留まった。この演奏会が最大の魅力に感じられた。なぜなら私は、数年前にベートーヴェンの「フィデリオ」を、やはり彼の指揮する同じ東フィルのコンサート(演奏会形式)を経験しており、その演奏は「フィデリオ」の素晴らしさを余すことなく伝え、今もって記憶に残る大名演だったからである。

会社での仕事を早々に切り上げ、満員の地下鉄に飛び乗りコンサート会場へと急ぐ日常が、久しぶりに戻ってきた。昼から忙殺される資料作りや会議などにストレスは高く、これをわずか1時間のうちにクラシック音楽向けの脳に切り替えるのは、なかなか難しい。

会場はほぼ満席。通常 P 席と称されるオーケストラ背面、すなわち舞台向正面の席は、おそらく合唱団が使うのだろう、黒い布で覆われていた。そしてオーケストラは、いつもより舞台後方にぎゅっと詰められており、さながらオーケストラピットのようである。その前に大きくスペースが設けられ、総勢10名もの歌手が出たり入ったりと忙しい。英国ウィンザー城を舞台としたコメディは、何やら小道具がいっぱい使われるが、それらはこの舞台にも用意されているようだ。

19時の開演とともに、オーケストラに引き続いて舞台に登場したのは二人の従者、バルドルフォ(大槻孝志、テノール)とピストーラ(加藤宏隆、バス・バリトン)、それに医師のカイウス(清水徹太郎、テノール)、さらには太鼓腹の巨漢ファルスタッフ(セバスティアン・カターナ、バリトン)である。

チューニングも終わって指揮者を待っていたら、舞台右袖から一人の掃除婦がホウキを掃きながら登場した。彼は居酒屋「ガーター亭」の主人であり、ファルスタッフに酒を注いだりしている。背が低く、いささか貧相な風貌、などと書くと大変失礼な言い方だが、その主人こそマエストロであった。前掛けを指揮台の下にしまい、前奏曲もなくいきなり第一幕の音楽が勢いよく流れてきた時、その明るくて力強いオーケストラの響きにあのジュリーニの名演を思い出した。チョン・ミュンフンは、そういえばジュリーニのアシスタントを務めていた指揮者なのだ。だが、チョンにとって「ファルスタッフ」は、初めて指揮する作品らしい。

ファルスタッフ役のカターナは、その風貌もぴったりのルーマニア人とのことだが、彼の経歴を見ると面白く、何とカーネギー・メロン大学で化学工学を専攻している。しかし歌声は、これほどファルスタッフにぴったりな歌手はいないと思えるような素晴らしさで、その声量は一頭上を行っている。

今回の歌手は、表題役のファルスタッフを除き、すべて日本人。その数は総勢9名である。この日本人歌手たちをどう選んで配役につけたのか、そういった裏方の仕事は、私のような素人には想像もできないが、彼らは全員甲乙がつけがたいもので、今回の演奏の水準が大変なレベルであることを示している。最初、女声陣の声が少し弱いなどと感じたが、それは時間を経ると次第に良くなった。

第1幕第2場では、それまでの男性4名に代わって、女性4名の登場である。ファルスタッフが同じ文面の恋文を授けるメグ(向野由美子、メゾ・ソプラノ)、フォード婦人のアリーチェ(砂川涼子、ソプラノ)、それにアリーチェの娘ナンネッタ(三宅理恵、ソプラノ)、さらにはおせっかいおばさんのクイックリー夫人(中島郁子、メゾ・ソプラノ)。この中では、クイックリー夫人が、その低い声と意地悪おばさんの風貌を生かして、とりわけ印象に残った。

今回の演奏では、丁度真ん中の第2幕第1場を終わった時点で、休憩となる。指揮台のそばに置かれていた丸テーブルや、そこに置かれている酒瓶など、小道具だけではあるがこのようなコメディのストーリーには十分である。チョン自らが演出した、とブックレットには記載されているが、なかなかの面白さで笑いを誘う。もちろん字幕もついている。

第1幕のうちに、残りの人物、すなわち富豪のフォード氏(須藤慎吾、バリトン)、ナンネッタの恋人フェントン(小堀勇介、テノール)も登場するが、もう誰が誰だかわかりにくい。舞台で見ていてもそうなのだから、音楽だけを聴いていると誰が誰と歌っているのか皆目見当がつかなくなる。舞台を見ても字幕を追わないといけないし、字幕に集中しすぎると肝心のストーリーがわからなくなっていく。

ストーリーは事前に大まかな予習を済ませ、会場では字幕を最小限に追いながら、目は歌手の動きに、耳は音楽に集中させるのがいいと思う。ここで演奏会形式の場合、オーケストラが舞台上に上がっていると、ピットに入っている場合と違って音量が大きくなる。劇場の上階で聞いていると、オーケストラの音が直接聞こえてくるのに似てはいるが、この場合は響きがデッドである。サントリーホールのような残響で聞けるオペラ音楽は、なかなか聴きごたえがあると思う。

休憩を挟んだ後半の見どころは、何といってもファルスタッフが洗濯籠に入れられてテムズ川へ投げ込まれるシーンである。そしてなんと、大きな籠が舞台に登場。ファルスタッフはそこへ入って歌う。これほどにまで演技が入るのは、演奏会形式とはいえなかなか例がないのではないかと思う。重唱は舞台空間を広く使って大変見事だが、それを支えるオーケストラが、やはりここでは前面に出ている。そのオーケストラは、舞台下の小空間から解き放たれて生き生きしている。

英国が舞台とはいえ、まるでイタリア人の日常会話をそのまま音楽にしたような作品である。だがそれもひと段落して、第3幕の妖精のシーンともなると、新国立劇場合唱団も加わって大いに見応えがある。レクイエムを彷彿とさせるヴェルディの真骨頂ともいうべき音楽は、まず合唱の男声陣が、次いで女声陣、さらにはフィナーレで全員が登場。もちろん舞台には10名の歌手がずらりと並ぶ。「世の中はすべて冗談」と歌われるフーガは、次々と歌手に歌い継がれ、客席にまで訓告されるという手の込んだもの。このあたり、ヴェルディはオペラという劇場空間を飛び出して、丸で人生哲学を語るかのように、しかしあくまで軽やかに描いて見せる。その鮮やかさ、そして音楽の重厚さ。人生は喜劇、というヴェルディの最晩年の境地が、興に乗った会話と洒落た音楽からほとばしり出る圧巻の大団円は、指揮者が手を挙げ、オーケストラが総立ちになって終了した。 

わが国では珍しいスタンディングオベーション。コロナ下で禁止されているブラヴォーを叫びたくなる気持ちをこらえて、満場の拍手が会場を包む。そして何とコーダの11重唱をアンコール!オーケストラが引き上げても収まらない拍手に応え、マエストロとファルスタッフが登場すると、総立ちとなっている客席からはさらに盛大な拍手が沸き起こった。

長時間でも飽きることはなく、昼間のストレスもどこへやら。非常に満足度の高い演奏会の終演は21時30分を過ぎていた。空腹の状態で帰宅しても何かお腹のなかがいっぱいになったようなコンサートだった。

(2年越しの腰痛の間、中断を余儀なくされた街道歩きを再開するにあたり、栃木県那須町芦野へ向かう朝一番の「やまびこ」の車内にて)

2021年8月8日日曜日

東京フィルハーモニー交響楽団演奏会(2021年8月6日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:アンドレア・バッティストーニ)

 ツイッターでフォローしている音楽ライターが、川崎で毎年夏に開催される「フェスタサマーミューザKAWASAKI」での音楽会について、好評のコメントを寄せている。ということは、このコロナ禍においても演奏会が開催されているということである。考えてみると神奈川県は緊急事態宣言も出ておらず(7月末時点)、中止になる理由はない。そういうわけで私も久しぶりにコンサートに出かけようとプログラムを眺めてみたら、何とバッティストーニ指揮の東フィルがまだ沢山あまっているではないか!

東フィルのコンサートも、首席指揮者として大人気のバッティストーニが指揮する公演は、いつも売切れ。私も過去に何度か行こうとしてきたが、直前だと満員御礼のことが多く、未だに一度も聞いたことがない。そうこうしているうちにコロナが感染爆発を起こし、コンサートそのものが中止になってしまったのが昨年である。東フィルに限らず、辛うじて観客数を抑え何とか公演にこぎつけた場合でも、外国からの指揮者を迎えることはできない日々が続いていた。

それに加えて、私を襲ったのが腰痛とそれに続く長い闘病の始まりであった。もうかれこれ1年近くに及び、私の下半身はいまだに言うことを聞かず、しびれと痛みが時おり襲ってくる。このような状態で2時間もの間、会場の椅子に座る自信もなければ、そもそも会場に足を運ぶだけの力も失せてしまった。クラシック・コンサートの会場では、歩くのも苦労するような人々をいつも大勢見かけるが、彼らはそうやってここへ来て座っているのだろうか、といつも思っていた。ところがその仲間入りを、私も果たしてしまった。

どうせ世の中は不要不急の外出をしないよう呼びかけられている。たとえ外出に成功したとしても、感染の恐怖に怯えながら常時マスクを装着しなければならず、酷暑の中では不快で不自由極まりない。そういうわけでわずかに開催される演奏会にも、出かけたくなる精神状態ではなかったのである。おそらく同様の状況に置かれてる人は多いと推測される。だからチケットが結構余っている。これでは演奏家の方々も可哀そうである。

コロナ禍が襲いつつあった昨年2月の新国立劇場で見た歌劇「セヴィリャの理髪師」を最後に、生の演奏会から遠ざかること1年余り。しかしここへ来てやっとのことで、腰痛は少し軽くなり、我慢をすれば外出もできるように思えてきた。そもそも人間は、旅行をしたり芸術に触れることによって人間性を回復し、家族や友人との交流によって生活を営む存在である。音楽に接することは、生活に必要な行為であると言える。演奏会への参加は、決して不要不急なものではないのである。

そういうわけで私は久方ぶりにチケットを購入し、8月6日の演奏会に出かけた。プログラムはオール・イタリアン。ヴェルディの歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲で始まり、レスピーギの珍しい組曲「シバの女王ベルキス」と続く。賑やかな演奏会になりそうだ、との大方の予想通り、カラフルなサウンドが会場を満たすと、実演で聞く音楽の高揚感が1年ぶりに私の体に押し寄せてきた。

ドリンクの販売もない休憩時間を経て後半には、世界を代表するハーピスト、吉野直子が登場。今日のプログラムの目玉であるニーノ・ロータの珍しいハープ協奏曲を披露した。

ロータは映画音楽で有名な作曲家だが、実際には複数の交響曲を含むクラシック音楽を多数作曲しており、それらの音楽が死後に演奏されることが多くなっている。ハープを独奏楽器とする曲は大変珍しいが、この曲も定番のフルートとハープの組合せだけでなく、トロンボーンやホルンなどといった楽器との二重奏などもあって、この音色の溶け合いが大変新鮮だった。ハープの清涼感あるバロック的な響きが、現代音楽の要素の中に入りこむ野心的作品に思えたが、音楽としての充実度はどうか、と問われるとちょっと答えに困惑する。

吉野直子を聞くのは初めてだった。彼女の弾くハープのディスクは、アーノンクールによるモーツァルトの定番「フルートとハープのための協奏曲」を私も愛聴しているのは、先に書いた通りである。若い頃から頭角を現し、数々の演奏家と共演を重ねている彼女はロンドン生まれだそうだが、私と一つ違いという年齢もあって親近感が沸く。そして音楽学校を出ておらず、国際基督教大学の出身であることも最近知った。

彼女は鳴り止まない拍手に応え、アンコールに小品を披露したが、これはフランスのハープ奏者だったトゥルニエの演奏会用練習曲「朝に」という曲であることが、ミューザ川崎シンフォニーホールのWebサイトに掲載されている。今日のプログラムは編成が大きく、オーケストラの中に2台のハープが置かれていた。だが彼女はこれとは別のハープを演奏した。曲の中で聞こえてくると世界が一瞬にしてモードが変わり、丸で蝶が舞うような感覚にとらわれるハープも、独奏楽器として使われると、長大な時間、重い楽器をずっと弾いていなければならないのは大変タフなことだと思わずにはいられなかった。

プログラムの最後を飾るレスピーギの交響詩「ローマの松」については、もう何も言うことはないだろう。極採色の大編成はオルガンとその左右に計7名もの金管奏者を配するもので、私の知っている音楽の中でもっとも大音量だと思う曲である。キラキラ光る鮮やかな冒頭とに挟まれて、鳥が鳴く静寂な中間部も聞きものである。私のバッティストーニに対する感想は、意外にも落ち着いたオーソドックスな指揮だということ。だから安心して聞ける指揮者だと思った。その分興奮に満ちた音楽という前評判も、私にはどこか醒めたものに感じられた。

楽団員が引き上げても指揮者のみがステージに呼び出されるのは珍しい光景である。来日した巨匠の最後の演奏会ではよく見るが、それが何と実現された。舞台に再び登場したバッティストーニは、惜しみない拍手に応えていたが、それは彼の日本での人気ぶりを表していた。

2019年5月28日火曜日

ヴェルディ:歌劇「運命の力」(英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ・シーズン2018/19)

これまで何度も「ヴェルディの階段」を昇り降りしてきた。「ヴェルディの階段」とは私の造語で、ヴェルディ作品の発展を段階を意味している。1階にはまだベルカントの様式を残しつつも、若さとエネルギーに満ち溢れた初期の作品の数々が、2階部分には「リゴレット」「椿姫」「イル・トロヴァトーレ」を代表とする中期の作品群が、そして3階にはこのたび触れることになった「運命の力」や「ドン・カルロ」などの充実した大作が並んでいる。階段はまだ続き、上階には「アイーダ」が、さらに上には「オテロ」、最上階には「ファルスタッフ」といった具合である。

いずれも力溢れる名作ばかりの作品を、その初期の作品を除けばほぼすべて、実演かもしくは映画館でのライブ上演で接したことになる。ただ「運命の力」だけが残っていた。この作品は、「仮面舞踏会」や「シモン・ボッカネグラ」と並ぶ玄人好みの実力作品で、ストーリーに華やかさこそないものの、ドラマチックで重量感に満ちた「まさにヴェルディ!」と言いたくなるような作品である。「運命の力」には序曲がつけられていて、その高カロリー、ハイ・パワーな曲を聞いただけで身震いがするほどである。

「運命の力」がなかなか上演の機会に恵まれないのは、豪華な歌手陣を揃えることの困難さに加え、その歌唱が大変に難度の高いものだからであろう。陰惨なストーリーには、ソプラノとテノールによる「愛の二重唱」もなく、代わりにバリトンとテノールが決闘しながら歌うシーンが何度も登場する。祈りのシーンも多く、宗教色が強い。加えて、演出の難しさも指摘するべきだろう。場所はセヴィリャ、イタリアなど各地に亘り、時間の経過も大きい上に、そこに差しはさまれる滑稽な宴会シーンが、全体の集中をそぎ落としかねない。

そういった困難さを乗り越えて、今年の英国王立オペラハウスでは、一般前売りの前から全公演のチケットが売り切れるという前代未聞の事態が起こったらしい。それはキャストを見れば納得が行く。カラトラーヴァ侯爵の娘レオノーラにソプラノのアンナ・ネトレプコ、レオノーラの恋人でインカの血を引くドン・アルヴァーロに、テノールのヨナス・カウフマン、復讐に燃えるレオノーラの兄ドン・カルロに、ヴェルディ・バリトンの第一人者ルドヴィク・デシエという布陣である。ついでにグァルディアーノ神父にはバスのフェルッチョ・フルラネット、ジプシー女のプレツィオジッラには、ヴェロニカ・シメオーニ、グァルディアーノ神父と好一対をなすコミカルな神父、メリトーネにアレッサンドロ・コルベッリ、カラトラーヴァ侯爵には往年のロバート・ロイドが第1幕で少しだけ出演している。指揮はアントニオ・パッパーノ、演出はドイツ人のクリストフ・ロイ。

 運命の力は、ひょんなことから一家を滅亡に追い込む陰惨な結末となる。こういった舞台はスペインこそ相応しい。だかヴェルディはこのオペラを、サンクト・ペテルブルグからの依頼で作曲した。初版の台本は「椿姫」や「リゴレット」を手掛けたピアーヴェが担当し、ヴェルディ自身もジュゼッピーナ夫人を伴って極寒のロシアへ赴いている。だが、初版の結末があまりに惨かったこともあって、改訂作業にとりかかる。病床のピアーヴェに代わって台本の改定作業を行ったのは、後に「ドン・カルロ」と「アイーダ」の台本を手掛けるギスランツィオーニだった。

改訂版の最後では、それまで共に死ぬ設定だったドン・アルヴァーロのみが生き残り、天国に上るレオノーラと、彼らを見守るグァルディアーノ神父との美しい三重唱によって消えゆくように終わることになった。今回のコヴェント・ガーデンでの上演もこの改訂版に基づいている。

さて、舞台はパッパーノの指揮する見事な序曲から始まる。序曲のシーンですでにパントマイムが演じられるのは最近流行りの傾向だが、この舞台では子供たちが英国式の食事をとっているシーンから始まる。この子供たちは、幼いレオノーラや兄のドン・カルロが厳格な父に厳しくしつけられている。みな上流階級の衣装をまとっているが、これは舞台を20世紀前半に移しているからだ。このカラトラーヴァ侯爵家の一室が、これ以降に続くすべての舞台が演じられる共通空間となっていく。このことによって、舞台が散漫になることを防いだという見方もあるが、初めて見る私としては何とも物語に広がりがない。戦場のシーンも修道院のシーンも、あるいは第3幕の宴会のシーンも、同じ空間なのである。

第1幕に入っての見どころは、レオノーラの駆け落ちへの葛藤と、ドン・アルヴァーロの投げ捨てたピストルの暴発シーンである。レオノーラは愛する父親に反逆して駆け落ちを決意するが、それまでの父と娘のやりとりは、またもやヴェルディが全作品で見せた「父と娘」の愛情物語で、ここでもか、と思った。ここでレオノーラはまだ純情な少女だが、この舞台での紅一点の彼女は、このあと第2幕で男装した旅行客に、第4幕で一気に老けた修道女として登場する。その歌唱の見事な変化が、このオペラの最大の見どころのひとつかも知れない。もちろん、ネトレプコはこの変化を見事にこなし、それどころか今や彼女はヴェルディのすべてのレパートリーを満点でこなす大女優としての一面を、安定的に示し得た、まさに面目躍如たる円熟の舞台であった。特に第2幕の幕切れで、僧侶たち(男声)に合わせて歌うレオノーラの祈りは、ヴェルディの音楽が心に染み渡る瞬間だった。

第2幕がレオノーラ中心の舞台だとすれば、第3幕と第4幕の第1場はドン・アルヴァーロとドン・カルロの舞台である。男声二人による目まぐるしい関係の変化を、カウフマンとデシエは丁々発止繰り広げる。その不幸な出自ゆえ翳りがあって輝かしいカウフマンの声や容姿も役にピタリとはまっているが、それにも増してヴェルディらしさに溢れていたのは、デシエだったと思う。

3人の主役がそれぞれ第一の持ち歌を歌うシーンに、観衆が大声援を送る様は見ていて気持ちがいいのだが、それに加えてこのオペラの多彩な見どころが、今回のシネマ・ライブでは楽しめる。すなわち、ジプシー女の小唄「太鼓の響きに」(第2幕第1場)、物売りが戦地に登場して舞台が一気に乱痴気騒ぎと化す「タラプラン」(第3幕第2場)などである。これらの滑稽な挿入は、そこことがかえって悲劇性を助長するという効果をもたらすが、それも一歩間違えば、冗長さのあまり緊張の糸が切れかねない。だがそのことに関しては、今回の演奏と演出は大成功だったと言える。舞台で繰り広げられる、まるでミュージカル風のダンスは、見ていて楽しいものだったし、かといって連続する暗いストーリーを邪魔するものでもなかった。

幕間のインタビューで再三再四指摘されたのは、この作品の持つ宗教性とヴェルディ自身の教会との関りである。なぜなら教会の欺瞞と通俗性が、ことのほか強調された台詞が多いからだ。けれども一方で、ミサ曲にも通じるような歌詞とそれにつけられた祈りの音楽が、例えようもなく美しいのもまた事実である。祈りの作品は二人の神父の性格を際立たせることによって、大変見ごたえのあるもにになっている。すなわち、グァルディアーノ神父とメリトーネである。特にメリトーネを演じたコルベッリは、そのやや小柄で小賢しい歌によって、ピタリと役にはまり聴衆の拍手も一等多かったような気がする。

パッパーノの充実した指揮は、この長い作品を通して常に目を舞台に釘付けにする重要な役割を果たしていたことは、もはや言うまでもない。全体に完成度がすこぶる高い作品に仕上がった今回のシネマ・ライブだが、私はこれまでMETライブ(もう10年以上続き、私はこれを80作品以上見て来た)とパリ・オペラ座ライブ(最近やっていないようだが) しか見たことはなく、英国ロイヤル・オペラまで同様の企画をしていたとは最近まで知らなかった。今回の上演を見る限り、その完成度はなかなか高い。インタビューが中心で、幕間の舞台裏まで見せるMETとは異なり、むしろ作品に焦点を当て、その内容を掘り下げるというやり方は、作品の見るべき焦点を定めさせてくれる。

私はふだん東京のどこかでシネマ・オペラ作品を見ているのだが、今回は関西への出張が重なり、悩んだ挙句、西宮のTOHOシネマでみることになった。直前まで上映時間がわからず、予定を組むのが大変だった。さらに言えば、5000円と言う値段はいくら何でも高すぎるだろう。そういうことで、若干の不満もあるのだが、上映された作品自体については、前評判通り文句なく最高峰の見ごたえであったことは確かである。これで私は「ヴェルディの階段」に登場する主要作品のすべてを、このブログに書くことができた。あとは初期の作品をひとつずつ、楽しんでいく日々が待っている。すでにムーティのBOXセットを買ってある。私は重量級の後期作品よりも、初期の若きパワーの爆発する作品の方が、実は好きなのかも知れない。

2019年2月17日日曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(The MET Live in HD 2018-2019)

暗い舞台の真ん中にベッドが置かれている。前奏曲の冒頭から、そこにはヴィオレッタが横たわっていて、肺病に苦しんでいる。これから起こる出来事は、すべてが回想である。前奏曲が終わると一転、華やかな舞台に登場するパーティの参加者たち。色とりどりの衣装を着た人たちが、グラスを片手に歌いだす。

ミュージカルで有名な演出家がオペラを手掛けることが、ここ数年のMETの潮流になりつつある。その賛否はともかく、トニー賞を受賞した気鋭の演出家、マイケル・メイヤーのカラフルで豪華な舞台は、多くの聴衆がこの作品に抱くパリの豪邸とそこに集う人々のイメージをそのまま再現している。若干、アメリカ的趣味ではあるとしても。

私はこの舞台を見て、あの名作、フランコ・ゼッフィレッリの映画を思い出した。その冒頭のシーン、どんよりと曇ったノートルダム寺院の無音部分が終わると、一人の少年が美しい女性の肖像画に見とれるシーンから始まるのだ。テレサ・ストラータスの演じるヴィオレッタは、咳込みながら迷宮に迷い込む。聞こえてくる歓声に戸惑いながらも吸い寄せられ、一気に社交界の花形の舞台に躍り出る。困惑する間もなく、あれよあれよといううちに現れるアルフレード、そして二重唱。すべてが夢の中で繰り広げられる魅惑の日々。私がオペラと言うものを初めて経験し、そしてノックアウトされたその映画については、かつて何度か触れた。

METのライブ・シリーズとしては何度目かだが、新演出にしてヤニック・ネゼ=セガンを芸術監督に迎えてのデビュー作品となる「椿姫」にヴィオレッタ役として起用されたディアナ・ダムラウは、幕間のインタービューで何とこの映画について触れている。彼女もまた若干12歳だったかの頃、オペラを初めて体験したのがこの映画だったというのだ。彼女がその後、世界的ソプラノ歌手に登りつめるきっかけと成った作品が、私も大阪・梅田の小さな映画館で、ある雨の降る日に見たのと同じ作品だった、というわけだ。虚無と焦燥に満ちた日々。そこに出現した「トラヴィアータ」という作品。この映画が私に与えたインパクトは強く、以降、私が「椿姫」を見るたびにどうしても頭から離れられない作品なのである。

このインタービューによって、俄然私の今日の作品を見る目が変わった。それまで何となく締まりのないものに感じていた今回の公演が、目に見えて良く思えて来たのだった。ダムラウのヴィオレッタは、演技と歌ががっぷりに組んだ見事なものだったが、特に第3幕での演技は圧巻である。もうほとんどの歌が空で歌えるくらいに聞いてきたと言うのに、どうして何度見ても見入ってしまうのだろうか。誰がどう演じたとしても、ここの第3幕、すなわち前奏曲とアリア「過ぎ去りし日々」そして「パリを離れて」は、あらゆるヴェルディ、いやオペラ作品の中でも右に出るものはない、とさえ思う。自らの肖像画の入ったペンダントを渡し、「清らかな乙女が 貴方に心を捧げたとしたら、 その人にこの絵姿を渡してください」と伝えるシーンを、涙なくして見ることはできようか。

全体にカラフルな新鮮味はあったものの、聞きなれた「椿姫」の総合的な印象というものを覆すことには重点は置かれず、むしろイメージ通りの進行に合わせる今風の保守性を感じる結果となった。そのことで私を少々がっかりさせたが、ダムラウを始めとする出演陣は、フレーズの中から、それまで意識されていない部分を探し出し、スポットライトをてようと努力していたように思う。そのことが成功したかどうかは、わかりにくい。ただ、ダムラウの歌のフレーズの一つ一つが、そういったこだわりのある新鮮味を持とうとしていたことは感じられた。

いやむしろ驚いたのは、クイン・ケルシー演じるジェルモンである。彼ほどヴェルディを感じさせる歌唱をジェルモンに与えたことはない。特に「プロヴァンスの海と陸」を歌った頃からだったと思う。この有名なアリアが、これほど見事なヴェルディ・バリトンによって歌われたことはない。その容姿を、もっと威厳のある父親風に仕立てれば、完璧だった。これは衣装の担当であるが。もしかすると、今宵もっとも成功していた歌手は、ケルシーだったかも知れない。

ヴィオレッタとアルフレードが別々にパリに舞い戻り、フローラの館で催される舞踏会が始まるシーンは、私がもっとも好きな部分だ。次々と現れるバレエ・ダンサー、そして賭けのシーン。心臓が高鳴り、緊迫感を出すこのシーンは、手に汗を握るほどである。そして私はまた、ゼッフィレッリの映画を思い出し、涙さえも禁じ得ないのだ。

今回の演出では、久しぶりにちゃんとバレエが楽しめた。しかしネゼ=セガンの指揮は、なんとなくぎこちなく、丁寧でしっかりとはしていたが、あのヴェルディの迫力を感じることはなかった。この指揮者は、もっと流麗で小気味いいテンポの演奏をするものと思っていたが、そのあたり少し意外である。

アルフレードを歌ったペルーのテノール、フアン・ディエゴ・フローレスは、ベルカント・オペラの第1人者ではああるが、そのやや能天気なまでの白痴性が、アルフレードの直情径行でプライドの高い人物像とあまり相性がいいとは言えない、と思った。歌としては完全だが、存在感がないのだ。彼はやはりドニゼッティやロッシーニにおいて真価を発揮すると思う。だが、このオペラの主役は、一にも二にもヴィオレッタである。そのことを考えれば、フローレスのアルフレードもまあ許容範囲ではある。

総じて及第点の舞台も、終わってみればそれなりに見どころは多く、楽しめたことは違いない。だけど、あのヴェルディのゾクゾクするようなリズムとメロディーがやや後退し、変わって万人受けする舞台と予定調和的な演出が、どことなくネット文化主流の今風の時代迎合的に見えてしまうのは残念である。世界的に、こんな風な舞台が主流になってゆくのだろうか。

2018年6月2日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」(The MET live in HD 2017-2018)

METライブ・ビューイングのサイトに音楽評論家加藤浩子が「しびれる」と書いていたのを見つけ、私は迷わず東銀座へ。松竹本社の3階にある東劇は、ここ数年演目次第では一日中、それも2週間に亘って上映し続けてくれることが多くなり、とても嬉しく思っている。そして実際、客はよく入っている。今回の「ルイザ・ミラー」もヴェルディの中では知られていない作品だが、観客の中に熱気のようなものが感じられる。

そしてその上映は「打たれた!」という感じ。あらゆる点において完璧な上演だったので、何から話せばよいのかわからない。まずいつものように指揮者のベルトラン・ド・ビリーが登場。オーストリア放送協会のオーケストラを振っていた時代、超特急の「ドン・ジョヴァンニ」だったかのCDを買った覚えがある。若い指揮者だったと思っていたが、今ではもう中年の指揮者である。

引き締まったリズムと集中力を欠かさないテンポの序曲を聞くだけで、私は一気にヴェルディの世界へ引き込まれてあいまった。クラリネットが悲劇の予感の旋律を吹く。序曲だけで拍手が鳴り響くのが嬉しい。そして間を置かず第1幕となる。最初から登場する娘と父親。娘のルイザはソプラノのブルガリア人ソニア・ヨンチェヴァ。プッチーニを良く聞いたと言う印象があるが、今回はヴェルディのベルカントとドラマチックの両方を必要とする難役に挑戦。しかし彼女の父親役であるプラシド・ドミンゴと来たら!

ドミンゴはもう何十年も歌っているMETのレジェンドだが、今ではバリトンの役をこなす。前にも書いたがドミンゴのやや霞のかかった低い声は、テノールよりもバリトンの方が似合っている。しかも声は衰えるどころか、ますます円熟味をを帯び、今回のミラー役で冒頭に発する声で、聴衆を完全にノックアウトした感じだ。

シラーの原作、舞台は17世紀のチロル地方。演出はエライジャ・モシンスキーで、忠実でああり、かつよく考えられた演出は言うことなしだと思う。自然にオペラの世界に入ってゆく。たとえ台本が滑稽で、話が急展開するものであるにもかかわらず、この音楽は紛れもなくヴェルディの魅力を余すところなく伝えている。

いや私は、後年の大作へとつながる多くの要素を、この若い頃の作品の中に見出すことによって、逆に中期以降の作品がいかに圧倒的な芸術性を持っているかを理解すすることができるし、それに比べるとやや粗削りではあるおのの、すでにヴェルディの音楽が爆発的に展開されている様を聞くことが、とても好きである。若きエネルギーが炸裂し、これでもかこれでもかと推進する音楽は、綺麗な歌声とドラマチックな展開によって、見る者をくぎ付けにする。初期の作品で、すでにヴェルディは大作曲家であった。

ドミンゴの貫禄のある父親は、今風のリベラルな父親にぴったりである。悲劇を予感し、実際にその渦に巻き込まれる悲哀を、ドミンゴで聞くことができるというのは2018年に生きているオペラファンに許された神様からの贈り物だろう。だがそれだけではない。主演者のすべてが決まっている。

まずミラーの相手役で、領主の息子ロドルフォは、ピョートル・ペチャワ。若い青年の初恋のみずみずしさと、破滅をも恐れぬ純粋な精神。やや向こう見ずで、悲劇的な心情を彼ほどぴったりと表現することができる人はいないのではないだろうか。テノールの声の持つ悲しさは、明るいイタリアの空が限りなく悲しいのに似ている。ロドルフォは若きドミンゴも歌った役だが、第3幕で彼はすでに運命を予感している。確信犯としてルイザに服毒させ、自らも死を選ぶ。

この作品は、二人の父親の物語である。そのことを象徴するように、ミラーとヴァルター伯爵は、自殺した二人のそばで顔を見合わせる。若い二人の結ばれぬ恋は、若さゆえに悲劇をもたらすが、それはまた冷静に考えれば、若気の至りとでもいうべきものに過ぎないとも思う。若者は諦めることを知らず、直進的に行動する。それがもたらす悲劇は、後の「トラヴィアータ」の下地となった。音楽的にもストーリー的にも、この作品は中期の先駆けとなる要素を持っている。

悪事を働くヴルムはバスのディミトリ・ベルセルスキーによって、彼がまた素晴らしい。この役は「オテロ」におけるイヤーゴの先駆けである。ヴルムは捉えられたミラーを助ける代わりに、自分を愛しているとルイザに偽りの手紙を書かせる。以降、手紙を書くシーンは「トラヴィアータ」でも象徴的に扱われ、チャイコフスキーは「エフゲニー・オネーギン」で長大なアリアを作曲するに至る。

第2幕で歌われるヴルムと、ヴァルター伯爵によるバスの二重唱は、このオペラの聴きどころのひとつである。ヴァルター伯爵は、バスのアレクサンダー・ヴィノグラドフで、役回りが容姿とピタリと決まっているし、低音を支えることがオペラの出来不出来を決しているような気がする。ヴェルディの実験は、ほかにもある。アカペラによる4重唱である。ここで、ロドルフォの許嫁で公爵夫人(未亡人)のフェデリーカはメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァで、彼女がまた違った持ち味の歌声が安定していて素晴らしい。彼女に伯爵、ヴルム、ロドルフォが加わる。

各幕の合間に舞台装置を入れ替えるため、上演はしばしば中断する。その度にカメラは大道具の入れ替え作業を映し出す。圧倒的な歌唱が続くときの興奮を、この時間が鎮めてくれるのはいいことだけれど、これほど完成度の高い上演を一気に見たい、とも思った。今回、映画館でアリアの度に拍手をする人が、何人かいた。私も心の中が、感極まって詰まりそうだった。もしかするとこれまでみたMET上映の中で、ベスト3に入るほどの出来栄えだったと思われる。

ヴェルディの重量感あるドラマチックな音楽に酔いしれ、美しいアリアに耳を傾ける。物語が心を打ち、喜びや悲しみが津波のように押し寄せる。娘を思う父と父を思う娘は、ヴェルディが生涯にわたって求め続けたストーリーだった。だがここにはもう一組の父子が存在する。伯爵とロドルフォは、父と息子の噛み合わない宿命的な関係を表している。このオペラは父親とは何か、と問いかける物語である。

2018年3月31日土曜日

スプリング・ガラ・コンサート(2018年3月28日、東京文化会館)

ロッシーニ没後150周年を記念して、今年の「東京・春・音楽祭」では、ロッシーニのアリアを始めとしたガラ・コンサートが開かれた。だが実際の公演の後半半分は、ヴェルディやプッチーニのアリアが中心で、しかもここの部分こそ聴きどころが満載、どの歌手も乗りに乗った素晴らしい歌声に、会場に詰め掛けた聴衆は心行くまで魅了され、久しぶりに歌を聞く楽しさを満喫した2時間余りだった。

ソプラノを歌ったアイリーン・ペレスはメキシコ系のアメリカ人で、まだあまり知られていないが、美しくも力のある実力派。まず最初のアリア、「セヴィリャの理髪師」からロジーナのアリア「今の歌声は」を歌う。安全運転の歌いだしで、指揮もどこかぎこちないのだが、最初にしては不足はない。まあこんなところかと思った。だが、休憩を挟んだ後半のヴェルディ「椿姫」より第3幕のヴィオレッタのアリア「さようなら、過ぎ去った日よ」で見せた圧巻の歌声は、私を一気に舞台に釘付けにした。続くアルフレードとの二重唱「パリを離れて、いとしい人よ」では、もう何といったらいいのだろうか、ヴェルディの持つドラマチックな音楽の素晴らしさが堪能できる。オーケストラも前半の最後で「ギユーム・テル」序曲を演奏したあたりから安定し、後半を通じて最後のアンコールまで、それはなかなかの見事なもの。歌声と楽器が見事に調和する様は、オーケストラが舞台にいることもあってなかなか聞きごたえがある。

今回、歌手は4人登場したが、おそらくテノールを歌ったサイミール・ビルグこそ、今日もっとも素晴らしかったと思う。それは前半の「ギヨーム・テル」でのアルノルドのアリア「わが父の庵よ」を歌い始めたときから明白だった。艶があって軽やかな歌声はロッシーニにピッタリだが、後半のドラマチックな各アリアで見せる芯のある歌声は、整ったリリカルな美しさもあって聞きごたえ十分である。後半では歌劇「仮面舞踏会」でのリッカルドのアリア「永久に君を失わば」ですでに圧巻だったが、最後のチレアの名曲「アルルの女」での「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」で頂点に達した。会場がどよめき、一斉にブラボーが響く。

バリトンのジュリオ・マストロターロは、最初の「セヴィリャの理髪師」からフィガロの有名なアリア「おいらは町の何でも屋」を歌った時には、オーケストラのボリュームにかき消されるところが多く、先行きが気になった。しかしオーケストラも含め、まだ時には、十分に声が出ていなかったのだろう。後半になると持ち直し「ファルスタッフ」でのフォードのアリア「これは夢か?まことか?」では本領が発揮された。「ファルスタッフ」はヴェルディ最後の喜劇作品だが、音楽はより深く緻密となり、実力が試される。オーケストラと歌がピタリと決まると、会場から間髪を入れずブラボーが飛び交う。

バスのマシュー・クランはアメリカ人。長身で貫禄のある存在感は、出番こそ少なかったものの、低い声もまたオペラの魅力であることを十分に伝えていたように思う。前半の「セヴィリャの理髪」におけるバジーリオのアリア「陰口はそよ風のように」はやや硬かったが、「マクベス」でのバンクォーのアリア「何という暗闇が」を歌う時には、ドラマチックな歌声で会場を魅了した。

オーケストラはこの音楽祭のために編成されたもので、「東京春祭特別オーケストラ」という名前。各楽団からの奏者が集まっているという触れ込みだが、全体に女性が多く、ヴァイオリンなどは最前列を除いてほぼ女性である。そしてやや迫力が不足しているのではと思われたが、後半は次第に音楽的な表現が実を結び、アンサンブルの良さでこの欠点をうまくカヴァーしていたように思う。「ギヨーム・テル」序曲でのチェロは1階席中央で聞いていると、初夏のそよ風のように暖かく、フルートのソロは桜の花が散るようであった。指揮はイタリア人のレナート・バルサドンナ。後半特に音楽がピタリと歌に寄り添い、音の弱すぎない強さと、歌とソロ楽器の音程を抜群に保ちながら一体感を作り出す手腕はなかなかだと思った。

全般に欠点はなく、総じていい出来栄えだったところが嬉しい。チケットも直前まで売れ残り、どういうコンサートか気にしていたが、会場には若い女性が多く、9割は埋まっていたと思う。次第に完成度を増してゆく歌声に会場は沸き、特に後半ではイタリアの風が通り抜けて行った。私はプッチーニやチレアの音楽や歌が、これほどに精緻で、美しいものだったかと再発見したことは特に書いておきたい。

歌劇「ジャンニ・スキッキ」の超有名アリア「私のお父さん」は短いが、ペレスの歌声は澄み渡り、会場の隅々までこだました。その美しい歌声は、しばし時間を忘れさせ、会場にいることさえわからなくなるほどである。マスカーニの歌劇「友人フリッツ」からは「さくらんぼの二重唱」。彼女は満面の笑みを浮かべ、テノールのピルグも会場を小走りに出たり入ったり、会心の出来栄えだったのだろう、実に楽しそうである。

酔いしれるうちにプログラムは終盤になった。歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕でのアドリアーナのアリア「私は創造の神の卑しい僕」は最高によかった。私は美しいトスカーナの田園やヴェニスの海を思い浮かべた。そしてまたイタリアをゆっくり旅したいと思った。時間をかけて、北から南へと、西から東へと。もしかしたらそれは最後の夢かも知れない。

鳴り止まない拍手に応え、アンコールが続く。まず1曲目はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」から第4幕「馬車にだって」。冒頭でロドルフォ(テノール)とマルチェッロ(バリトン)の二人が歌う。この組み合わせは本日初めて。そして2番目はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕から「奥様お手をどうぞ」。ここではドン・ジョヴァンニとツェルリーナが歌う。この組み合わせも初めてで面白い。

そして最後のアンコールは何と4人で歌う「椿姫」の「乾杯の歌」であった。割れんばかりの拍手に何度も応えるカーテンコールは10分以上続き、歌手と指揮者が何度も手をつないで前に出たり後に下がったり。満足の一夜は盛況のうちに幕を閉じ、花見客で深夜までごった返す上野公園を、私はゆっくりと歩いて行った。春の風がライトアップされた桜の木の間を吹く抜けてゆく時、私は紅潮した頬を鎮めながら、青く深い南ヨーロッパの海を思い浮かべていた。


【曲目】
1.ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
2.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「おいらは町の何でも屋」
3.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「今の歌声は」
4.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「陰口はそよ風のように」
5.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」第4幕より「我が父の庵よ」
6.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」序曲
7.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕への前奏曲
8.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「さようなら、過ぎ去った日よ」
9.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「パリを離れて、いとしい人よ」
10.ヴェルディ:歌劇「マクベス」第2幕より「何という暗い闇が」
11.ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」第3幕より「永久に君を失えば」
12.ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」第2幕より「これは夢か? まことか?」
13.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
14.プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より「私のいとしいお父さん」
15.マスカーニ:歌劇「友人フリッツ」第2幕より「さくらんぼの二重唱」
16.チレア:歌劇「アルルの女」第2幕より「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」
17.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕より「私は創造の神の卑しい僕」

<アンコール>
18.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」第4幕より「馬車にだって」
19.モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕より「奥様お手をどうぞ」
20.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕より「乾杯の歌」

2017年2月18日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(The MET Livein HD 2016-2017)

ヴェルディが大作曲家として成功する最初のきっかけとなった29歳の時のオペラ。その序曲が流れ始めた時、私はまたいつものように胸に熱いものがこみ上げてきた。この作品を見るときは、序曲とそれに続く合唱の、情熱と迫力に満ちた圧倒的な音楽に、しばし心を奪われる。私は、まだベルカントの様式を残した初期のヴェルディ作品が好きだが、この作品にはすでにヴェルディにしかない音楽の量感といったものが宿っていて、私をさらに虜にさせている。

レヴァインは序曲をあくまでたっぷりと、メロディーを大切にしながら悠然と指揮をする。続く第1幕でも、その流れを変えることはない。歌手の方が緊張して、どうもぎこちないのだが、それでもレヴァインは確信的に自分の指揮を貫く。観客は歌手の力んだ姿と、実力を出せばもっと素晴らしい歌を歌うことを知っているのだろう。ブラボーはいわば歌手に対する応援であり、その日にチケットを買って足を運び、時間を共有する自分も脇役とばかりに声援を送ろうと精一杯の努力を惜しまない。するとどうだろう。第3幕に至っては、見違えるような表現になっていくではないか。オペラをライブ映像で見る楽しさは、まさにこういうところにあるのだろうと思う。歌手も聴衆も、聞きどころをわきまえている。

例えばナブッコの娘でありながら奴隷の身分であるアビガイッレは、ソプラノのリュドミラ・モナスティルスカによって歌われ、その超絶的な高低差を行き来するアリアの数々はまさに見どころであるが、第1幕の「私はあなたを愛していました」を歌う時点ではまだ硬く、どうも緊張の糸が解けない感じが見て取れた。しかし第2幕で「かつて私も」の部分を歌い、その際のブラボーが彼女を勇気づけたのであろう。第3幕になってナブッコを押しのけて王座に就き、まるで北朝鮮の某書記長を思わせるような傍若無人極まりない強硬策を宣言するあたりは、なかなか迫力に満ちたものである。

このシーン、すなわちナブッコと立場が完全に入れ替わる場面では、ナブッコを演じたプラシド・ドミンゴの圧倒的な見せ場であった。彼はそういうアビガイッレに跪き、娘のフェネーナ(メゾソプラノのジェイミー・バートン)を助けてくれと懇願する二重唱に、全精力の大部分を費やすことを計画していたに違いない。バリトン役を歌うことでドミンゴは、七十代も半ばだと言うのにレパートリーを拡大し、しかもその精力は衰えるどころか、いっそう磨きがかかっている。

ヴェルディの作品は常に男の弱さを浮き彫りにする。どんなオペラでも男は弱く、繊細である。力強い音楽が時に三拍子で迫りくる印象的な場面の数々も、たった一度のアリアが珠玉のように光彩を放つ。その対比こそ、イタリア文化の象徴のような気がする。つまり一見陽気で明るくも、センシティブで涙もろい。レヴァインとドミンゴという、七十代のコンビにしてこの若きヴェルディの作品は、得も言われぬ貫禄を宿すことになった。

「行け、我が想いよ」のコーラスは慣例により、鳴り止まぬ聴衆に応えてアンコールされた。この様子は発売されているビデオ等でも見ることができ、今回も同じエライジャ・モシンスキーのオーセンティックな演出であることを知っていれば、意外ではない。だが、初めてこの作品のアンコール部分を見ると、この合唱がいつまでも続いてほしい至福の時間であることを実感した。2度目の合唱では優秀なメトの合唱団が、一層リラックスして表情豊かにメロディーを表現したからだ。最近は繰り返さない(原典主義の)演奏が多いが、私はこういう興業的サービスには大賛成である。

その他の男声陣、イズマイーレを歌ったテノールのラッセル・トーマスは、出来栄えで言えばもっとも完成度が高いと思われたが、この作品では女声陣の陰に隠れてしまうし、ザッカリーア(バスのディミトリ・ペロセルスキー)にしても同様である。

ナブッコは2001年になるまでMETの舞台には登場しなかった。だがレヴァインによってこのオペラは、METの代表的なヴェルディ作品の一角を占めるにいたったようだ。それも、ともすればぎこちないストーリーと、やや粗削りな音楽を完璧なまでに覆い隠してしまうほど圧倒的な力を引き出すことに成功したからだろうと思う。なお偶像が崩れ落ちるシーンは、このオペラの数少ない視覚的見せ場だが、下手をするとやや俗っぽい。そのためか、この演出であまり目立たない。結果的に全体のメリハリを感じさせなくすることとなり、音楽とストーリーを良く知っている人にはアピールするものの、もしかしたら初めて見る人には少し物足りない感じがしたかも知れない。

ヴェルディの初期作品は、そういう意味で見れば見るほど味わいが深まるような気がする。だから私はこの夏に行われるであろうリバイバル公演でも、再度味わってみたいと思った。長すぎないのもいい。そして何度も繰り返すように、この公演の見どころは、2017年にもなっていまだに現役の二人、すなわち今や車いすに乗った指揮者ジェームズ・レヴァイン(音楽監督)と、貫禄のあるプラシド・ドミンゴの表題役であることにつきる。彼らは40年以上に亘って競演を続けてきた。ゲルブ総裁による幕間のインタビューに、その深い年輪を感じる取ることもできる。

2015年11月15日日曜日

ヴェルディ:歌劇「オテロ」(The MET Live in HD 2015-2016)

昨シーズンの演目に登場したばかりだというのに「オテロ」がまたもやThe MET Line in HDシリーズに登場した。その理由はこのプロダクションが、長い間続いてきたエライヤ・モシンスキーによるものからバートレット・シャーによるものに変わったからであろう。歌手陣も一新された。20年もの間デズデモナの当たり役だったルネ・フレミングは引退し、ブルガリア人の美貌ソプラノ、ソニア・ヨンチェヴァに変わった。「オテロ」の女声の主役はデズデモナだけだから、この公演の第一の見どころは彼女の歌に尽きる。ここでヨンチェヴァは、第4幕の「柳の歌」を頂点とする聞かせどころで、錚々たる名歌手が名を刻んだ新たなデズデモナ役として、見事な歌を披露した(ように思う)。

インタビューではその人柄がにじみ出るような真摯さで、彼女はこの不遇の死を遂げる女性の犠牲愛とでもいうべきものを、迫力ある力強さと演技力で乗り切った。第4幕の迫真の舞台は、聴衆を画面にくぎ付けにするものだった。表題役を歌ったアレクサンドル・アントネンコ(テノール)とイヤーゴ役のジェリコ・ルチッチ(バリトン)はいずれも東欧の実力歌手で、最近のヴェルディ歌いはみなどういうわけか東欧系である。

シャーの演出は古典的な解釈から見るものの観念を解き放ちつつも、斬新さによる戸惑いを生起させるほどの斬新なものではなく、ちょうどよい塩梅である。私はこういう演出が好きなので、今回のオテロの舞台はなかなか見ごたえがあった。その象徴的なものは、後半の舞台中央に出たり引っ込んだりして形状を変えるガラス(に似せた半透明の)建造物である。このような構造物は3Dプリンターなどを使えば予算も低く抑えられるのでないだろうか、などと余計なことを考えていたが、特に我が国の新国立劇場の素晴らしい照明装置と組み合わされれば、とても見ごたえのあるものになるように思われた。

第1幕の最初は荒れ狂う海のシーンだが、舞台に並んだ合唱団(は船の乗組員である)に動きは少なく、従来のシーンを見慣れている聞き手には少し大人しすぎるように思われた。だが第1幕の冒頭から一気に始まる凝縮された音楽は、まるで前菜からステーキが出てくるようなスタミナたっぷりのボリュームで、むべ完璧な音楽というのはこういうものなのだろう、と唸ってしまうのがいつもの私である。そういうわけだから体力のない私は早々に疲れ果ててしまい、睡魔が襲ってきて第2幕の半分を聞き逃してしまう。ハッと気が付くのはハンカチのシーンからと決まっているのだが、その第2幕の幕切れにおけるオテロとイヤーゴの復讐を誓う二重唱は、身震いのするような素晴らしさであった。

オテロの役は力のあるテノールにしかできないもので、あのドミンゴでさえ力不足とされていた時期があるくらいだし、そういえば私が初めてこの作品に触れたときのレコードは、極め付けと言われたマリオ・デル・モナコの歌うカラヤン盤であった。オペラというのを論じるときには、その作品の持つとてつもない奥深さを脇に置いて、自分が言わば勝手に作り上げた妄想に比較して、どこが足りないなどと不満や不評を並べるのが通例とされているのだが、思うにそれでは歌手や演出家に対し失礼である。だから今回のオテロを歌ったアントネンコの容姿が、あの独特の成り上がりムーア人を想起させず、まるで健康的な若者の風貌であったことや、極悪のイヤーゴがどこかオテロの父親のような雰囲気に見えたというような「個人的な」不満は、割り引いておく必要があるかも知れない(オテロの未熟ぶりを表現するため、それを意図していたとも思える)。

特筆すべき影の功労者は、ヤニック・ネゼ=セガンのメリハリが聞いた指揮ではなかっただろうか。彼の指揮する音楽はすべてが生き生きと息づき、歌うべきメロディーもたっぷりで、強いて比較するならあのクライバーを思い起こさせる。インタビューに現れた彼の、どちらかというと低い身長や、クライバーにあったようなエレガントでウィットに富むようなものとは異なる平凡な指揮ぶりからは、このような力強く繊細な音楽が流れ出ることが不思議である。だがまぎれもなく彼が振るときの音楽は、ほかの指揮者とは一味違う何かを感じさせる。

総合的に考えて、METの新しい「オテロ」はヴェルディの「超」のつく名作の新しいページを印象付けるものであっただろう。なお今回のスクリーンでの見どころは、本編に加えて幕間に放映されるビデオ・ディレクター、ゲイリー・ハルヴァーソン氏を追った12分もの長さのドキュメンタリーで、 本来のこの映像が流される生中継のスイッチングがどういう風に制作されているかの一端を垣間見ることができる興味深いものだったことを付け加えておきたい。

2015年10月31日土曜日

ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」(The MET Live in HD 2015-2016)

卑近な例に例えれば、歌劇「イル・トロヴァトーレ」という作品は逆転に逆転を繰り返す野球の試合を見ているようだ。しかも主役の歌手が揃ってうまいとなると、エースが次々と三振を奪い、主砲が本塁打を打ち合うような手に汗を握る展開となる。METライブ・シリーズも10年目に入る今年、最初のライブ配信に選ばれたのは「イル・トロヴァトーレ」で、ヴェルディ中期の円熟した音楽に支えられて、これでもかこれでもかと続く歌の連続に、ほとんど興奮状態であったのは私だけではないだろう。

3ヶ月余りの夏季休暇を経て今シーズンの最初を飾る演目に、METがこの作品を選んだのはなぜだろうと思った。なぜならこの作品はすでにMETライブ・シリーズに登場したことがあるしキャストもよく似ている。演出が天才的なデイヴィッド・マクヴィカーであることも、指揮がマルコ・アルミリアートであることも、2011年の公演と同じだ。異なる部分としては、レオノーラを歌うのが、今もっとも注目すべきヴェルディ歌いではないかと思われるアンナ・ネトレプコ。彼女は昨シーズンの幕開きを、やはるヴェルディ中期の傑作「マクベス」で夫人役を演じ、驚愕すべき成功を収めたからだろうか。

今回の上演も、まず何を置いても語るべきは、ネトレプコであったと言わねばならない。それは舞台が半分回転して薄暗い城内に登場しただけで沸き起こる拍手にも象徴されていたし、私は最初のレチタティーヴォを聞くだけでこんなに興奮することはないとさえ思うほどだった(もしマリア・カラスに今接することができたなら、おそらくそういう気がしただろう)。舞台における存在感は、まず第1幕のネトレプコから始まった。だが、この上演はそれにとどまらない。まだ1回の表に、一番打者がヒットを売った程度のものだからだ。

ルーナ伯爵を歌うディミトリ・ホヴォロストフスキーは、前回の上演でもこの役をこなし、ロシア語なまりとはいえ表現力のある歌声と、それになんといっても高貴さを兼ね備えた長身の容姿によって、もしかしたら主役ではないかとさえ思わせるに十分な存在であった。だが今回はどうだろう。以前にもましてその充実ぶりは明確だった。登場した時から拍手が鳴り止まず、しばし音楽が中断するほどだった。その理由は、幕前のゲルブ総裁の紹介でも明かされた。夏に脳腫瘍であることを公表し、その病をおしてまで登場したからだ。そのことが今回の役作りに反映されたかどうかはわからない。だが見ていると、何か圧倒的に役になりきっているようなところがあった。

マルコ・アルミリアートによるテンポのいい音楽は、このようなヴェルディ作品において欠かすことのできないものである。彼はMETのオーケストラとコーラスから、集中力を絶やさないばかりかメリハリがあってしかも時にロマン性を持たせる職人的指揮によって、この上演の隠れた成功の要因であったと思う。だが他に書くべきことの多すぎる今回の公演にあっては、その存在感も際立つことがない。

アズチェーナを歌うメゾ・ソプラノのドローラ・ザジックは、METデビューでもこの作品だったというし(その時のマンリーコはパヴァロッティ!)、もう250回以上も歌っているという十八番で、この役を歌うのは彼女を置いて他にない。私も幾度と無く彼女のビデオを見ているし、低い声で歌う時のしびれるような迫力は、まさにジプシー女の怨念が渦巻く復讐劇の影の主役に相応しい。今回も軽々とこの役をやってのけているように感じられた。

これだけの歌手が揃うと、表題役であるマンリーコを歌うテノールは、どれだけ大変か察するに余りあるほどである。これまで多くのスーパー・テノールが「見よ、恐ろしき炎よ」を頂点とする高音を轟かせてきたことか。その困難な役に抜擢されたのは、なんとアジア人のテノール、ヨンフン・リーという人で、私は彼を聞くのが初めてであった。パヴァロッティやドミンゴのような歌手に比べると細いし背も低い。にもかかわらず彼の歌声は繊細にして芯が太く、訳ありの出自を持つ少し陰のある吟遊詩人にピッタリだ、と見始めてから思った。もしかしたらこれまでの数々の名演は、このトロヴァトーレの役があまりに輝かしくて、ストーリーが持つ本質的な暗さと陰惨さを減じさせてきたのではないか、とさえ思った。

つまりはこの韓国人テノールの存在感は、体格的なハンディを歌声と技術でカヴァーする、類まれなものだった。そういうわけで、彼の登場する部分が他の大歌手との重唱部分であっても、はたまたアリアであってもほとんど完璧にその役をこなしていた。

後半の2つの幕は、このようにまずルーナ伯爵、次にマンリーコ、そしてレオノーラが次々に繰り広げる歌の饗宴にに釘付けとなった。どの歌手のどこがと言い始めたらきりがないし、それに私はただ1回だけ見ただけなので、もう一度最初から見てみたい気がする。こんな風に感じる上演は、それほど多くはないのだ。今回の「イル・トロヴァトーレ」はまさにそのような素晴らしいものだった。だが音楽の素晴らしさに比べて作品の持つ支離滅裂で陰惨なストーリーは、時にこの作品を完成度の点でやや見劣りのするものに位置づけられる理由にされてきた。マクヴィカーの演出は、終始舞台を薄暗くし、色というものがほとんど出てこない、丸でモノクロ映画のようなものだった。回転する舞台も上手に城や牢屋を描いているとはいえ、特に指摘するほどのものではないように感じられた。だがそのように暗さのみを強調することで、却って歌そのものに焦点が当てることに成功し、複雑なストーリーの持つ滑稽さから意識を遠ざける結果となった。

マンリーコとレオノーラという主役の二人が相次いで落命し、ルーナ伯爵も弟を失う。結果的にはすべてアズチェーナの計略にはまったということになるのだが、だとしてもこのオペラには勝者はいない。もしかしたら愛に生き、そして死んでいくレオノーラが勝者なのかも知れない。けれども今回の上演では、病をおしてまで圧倒的な演技を繰り広げたホヴォロストフスキーこそが主役であった。彼がカーテン・コールに登場すると舞台に一斉に投げ込まれた花束と鳴り止まない拍手が、そのことを表していた。

2015年6月20日土曜日

ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」(2011/10/5 、新国立劇場)

このブログを書き始めた2012年元旦以前のコンサート記録のうち、オペラに関するものを順に書き続けてきた。そして以下の「トロヴァトーレ」でそれを終えることができる。このあとはブログにすでに書いてきたからだ。

2012年以降のオペラ体験は、MET Live in HDシリーズによってより大きな前進を遂げたと思う。と同時に実演に接することの良さも改めて認識することとなった。オペラという楽しみはお金と時間がかかるけど、それだけの価値のあるものだとつくづく思う。

----------------------------------
新国立劇場の新シーズン(2011-12)の最初を飾る演目は、新演出の歌劇「イル・トロヴァトーレ」である。このオペラはここ最近目いっぱい聞いているのだが、では実演に接した経験があるかとなると、これが実にないのだ。一度はゆっくり聞いてみたいと思っていたので、ここは4階席を買い求めオペラシティへと馳せ参じた。

当日は強い雨の降る日だったが、水曜日にも関わらず多くの人出。しかしその多くが高齢者なのはたまたまなのか。私は昨年の「影のない女」以来だがその時よりも何か、あまり活気のない様子の人が多いように感じた。歌手はなかなか好演しているにも関わらず、拍手が極めて少ないのである。私は出演者が気の毒ではないかとさえ思われた。

それが天井桟敷の4階席でも同じなのである。私の隣にいたご婦人の2人連れなど、まったく拍手をしない。それでも着飾った客でほぼ満席である。もっと下の席ではどうかと身を乗り出すが、これがまた何ともしけた感じ。これで舞台が悪いなら仕方ないだろう。だが、私は今回の公演に登場した歌手や指揮者がそれなりに実力を出していると思われたのだ。

まずレオノーラのタマール・イベーリ。グルジア出身の彼女は、急きょの代役だったそうだが、なかなかの実力派である。最終幕での長いシーンでも緊張感を絶やさず、圧巻であった。容姿もぴたりとはまっている。もっとも拍手が多かったのはルーナ伯爵を歌ったヴィットリオ・ヴィテッリである。「君の微笑み」などはとても素敵で、このルーナ伯爵が実力不足だとこのオペラは実はつまらないのである。

同じことはアズチェーナにも言える。このアズチェーナ役のアンドレア・ウルブリッヒは大したもので、私がCD等で聞いている過去の名歌手に比べても遜色がない。低いメゾの声だが、このアズチェーナを歌いこなす声というのがある。彼女はそれを持っている。マンリーコを歌ったイタリア人ヴァルテル・フラッカールは及第点の出来だと思われる。特に「燃える炎」といった聞かせどころではなかなか聞かせるのだ。

私は初めての実演に接して、いささか興奮していたのかも知れない。それでやはり生の舞台はいいな、と思ったのだが、さて他の客はどうだったかわからない。ブラボーを叫んでいる人もいたが、よく知っている人だろうと思う(ただしクラシックファンはしばしば「知ったかぶり」をする)。だいたい両脇にある字幕を追いながら、難しいストーリーを追おうとすると集中力が途切れる。指揮者のピエトロ・リッツォと東京フィルハーモニー交響楽団は無難な出来栄え。悪くない。

もしこの公演が何かすっきりしないものを残すとしたら、それは演出のせいかもしれない。だが私は批判しようとは思わない。これはこれでいろいろと考えられていることがわかる。全てのシーンに登場する悪魔のような親子?をどう見るかについては意見が分かれるだろう。

私は実演を見ること自体ですでに嬉しくなっているので、このような真新しい演出は大好きである。この「死」をモチーフにした老人は、要所要所でこの難解な話を分かりやすくしようとして、さらにわかりにくくしている。だがよく考えてみるとその存在は、このオペラに付きまとう影の存在であることを伝えている。

私はまったく声を発しないが、常に舞台のどこかで何かを演じるこの存在を楽しく追いかけた。「死」というと恐ろしいが、彼に付きそう若干6歳くらいの男の子が、その恐ろしさを少し緩和してくれて実に素敵であった。子役の彼は私の息子と同じくらいの年齢で、それでいて動じることなく最後のカーテンコールでもぎこちなくお辞儀する姿に、何かとてもほほえましものを感じた。

総じて、私はこの公演は今シーズンを幕開きを飾る成功であったと思う。だが、このような高いチケットを買ってまでオペラを聞きに来る客は、年々少なくなっているような気がする。もちろん私のような物好きなファンも沢山いることだろう。丁度時間帯に、隣のコンサート・ホールではアントニオ・パッパーノが指揮するローマ・サンタ・チェチーリア管弦楽団の演奏会があったので、多くの客はそちらに流れたのかも知れない、などと思うことにしながら帰りの京王線に飛び乗った。

2015年6月9日火曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(2000年3月18日、藤原歌劇団公演)

1年ぶりに東京へ戻った私を待っていたのは、新しい職場での慣れない仕事と、結婚に伴う新生活であった。郊外で暮らすようになったこともあって、共働きの家庭ではオペラどころかコンサートからも遠のいた。ニューヨークでの音楽生活があまりにも刺激に満ちていて、我が国の公演が見劣りするというのも事実だった。次にオペラに出かけたのは2000年に入ってからで、その間丸4年のブランクがあいた。

妻が何か見たい、と言いだしたかどうかは覚えていない。だが私はヴェルディの「椿姫」の公演のチラシを見て、久しぶりにこれなら行ってもいいか、などと考えた。埼玉県民だった私は上野での公演が好都合であった。当時の記録を読み返してみた。以下はその時の文章。

-------------------------------
ヴェルディの最も有名な歌劇「椿姫」は、現在私の最も愛するオペラであり、その理由については過去の文章でも何度も触れた。しかし「椿姫」が満足の行く公演となることは、なかなかないということもまた事実であって、しかも日本でのオペラ公演となるとほぼ絶望的ではないか、と思っていた。ところがこの度のデヴィーアによるヴィオレッタは、何度見たか知れない私のこのオペラに対する思いを心の底から掘り起こし、そもそもオペラを見ることがこんなにもスリリングなものであるのかということを、再認識させてくれたのだった。

第1幕:一見おとぎ話となってしまうのではとさえ思われた出だしで、この後がどうなるのかが心配で心配で仕方がなかったほど緊張したのだが(実際、これほどはらはらしながらオペラを見たことはない)、「ああそはかの人か~花より花へ」を見事に歌いきり、最後の3点音を、カラス風に1オクターブ上げて歌いきったところでブラボーが吹き荒れたことにより、このオペラへの期待が一気に確かなものになったのだった。それほどみんな安心した。そして「やってくれるじゃない、だから次からも期待していますよ」、と言わんばかりの観客席である。だからオペラはやめられないねえ、という感じで幕間のバルコニーでの会話も紅潮した面々が多い。

第2幕:アルフレードとの楽しい日々。しかし父ジェルモンとの面会によりヴィオレッタの心が変化してゆく。2人だけの浪費生活に区切りをつけて泣く泣くパリに帰るヴィオレッタ。ここでのデヴィーアは、丁々発止のレチタティーヴォを益々好調な声で歌いきる。その見事なこと。まるで2人の男声(は決して悪い出来ではなかった)は、すべてデヴィーアを盛り立てるために存在しているかのようであえあった。東京フィルもオペラに慣れているだけあって不満はない。そして指揮が緊張感を損なうことなく全体を纏め上げている。スペインの踊りにいたってはバレエの魅力も満載で、胸に詰まるものがある。最高の見せ場でいよいよ最高潮に達し、客席からもブラボーが絶えることはない。

第3幕:いよいよ絶好調のデヴィーアの演技に、ハンカチで涙を拭う事なしに見ることはできなくなった。演出も回想シーンを獲り入れた独特の雰囲気で悪くない。2階席最前列で見た「椿姫」は、このオペラの総合的な魅力に改めて感銘を受けるとともに、デヴィーアという名ソプラノが今後、この役で益々頭角を現してくることを如実に予感させた。

兎に角、この公演は良かった。日本でのオペラも捨てたものではないな、と思った。デヴィーアは何度も舞台に呼び戻され、その間、歓声と拍手が絶えることはなかった。「久しぶりにいいものを見た」そう思いながら、初春の心地よい風の吹く上野公園を後にした。

  ヴィオレッタ・・・マリエッラ・デヴィーア
  アルフレード・・・アクタビオ・アレーバロ
  ジェルモン・・・ダヴィデ・ダミアーニ、ほか
  
  藤原歌劇団合唱部、東京フィルハーモニー交響楽団(指揮:アラン・ギンガル)
  演出:ベッペ・デ・トマージ

(2000年3月18日 東京文化会館)

2015年6月7日日曜日

ヴェルディ:歌劇「オテロ」(1995年10月2日、メトロポリタン歌劇場)

1995年から1996年にかけて滞在したニューヨークで私は10回以上のオペラ公演を観たが、その中でもとりわけ印象的だったのは、何といっても95-96シーズンのオープニングを飾ったヴェルディの歌劇「オテロ」である。指揮は勿論ジェームズ・レヴァインであった。

メトでは何と1990年3月にカルロス・クライバー指揮による「オテロ」を観ているから2度目の「オテロ」となるのだが、私のオペラ体験というのは実にこれが数回目だったから我ながら何という贅沢な話なのだろうかと思うが、事実だから仕方がない。クライバーの「オテロ」は演出がフランコ・ゼッフィレッリで映画にもなった美しいものである(そしてスカラ座の東京公演でも!)。 その長く続いた演出が94年に終わり、イライジャ・モシンスキーによる新たなプロダクションが始まった。そのまさに最初の頃の公演ということになる。

舞台はとてもオーソドックスなものだったが、20年以上が経過した今となってはあまりよく覚えていない。ところが2004年になってこの時の公演を記録した映像がDVDでリリースされた。私は迷わずそれを購入した。その時の公演はこのビデオで辿ることができるのだ。冒頭レヴァインのタクトが振り下ろされると舞台に稲妻が走り、一気に引き込まれてゆく。ヴェルディのすさまじい音の重なりと、迫力を持った合唱が15世紀のキプロスの沖へと誘う。

嵐の船上に登場したプラシド・ドミンゴ(オテロ)は、「喜べ!傲慢な回教徒が去った」と叫ぶ。この役を20年にも亘って歌ってきたベテラン・テノールの、まだ艶のある50代の声である。張りのある声もさることながら、風貌が映像向きに見栄えがする。そして「喜びの火よ」に続く合唱でレヴァインはテンポを緩めない。一気に、そして緊張感を持ってジェイムズ・モリス(イヤーゴ)の歌「喉を潤せ」が始まる。カッシオはまだ若いリチャード・クロフトが歌っている。

1幕の終わりでは早くもデズデモナの出番である。ルネ・フレミングはこの時初めてデズデモナを歌ったようである。以降彼女のはまり役である。愛の二重唱にあたる「もう夜が更けて」で舞台は一層期待が高まる。

このように実演ではよくわからなかった舞台の隅々の様子までDVDでは楽しむことができる。これはMETライブシリーズと同様である。日本語字幕があるのが何より嬉しい(METでもこの公演から字幕サービスが始まった。だがその字幕は前の席の上部に個別に出てきて、視点を動かすのが大変である。また当然英語である)。

あらすじを追っていくと書くことが膨大になってしまうので割愛するが、私のオペラ体験に照らして言えば、ヴェルディ晩年の音楽がよりこなれて聞こえてきたというのが正直なところである。音楽は途切れることなく進み、歌とドラマが一体となっている。合唱やアリア、それに会話といった区別がつかないオペラは、私にとって最初とてもとっつきにくいものだった。だがその呪縛から逃れ始めたのがこの公演だった。ベテランのレヴァインの指揮が、こういう複雑な音楽でも統一的なコンセプトの中に展開される高い水準にあったことがその大きな理由だと思う。

最終幕は「柳の歌」→デズデモナの死→オテロの死と続くが、これは一気に聞かせる。ビデオで見ると心理的な展開や表情が実によくわかる。けれどデズデモナが「アーメン」と静かにベッドに横たわる時、あるいはオテロが「もう一度口づけを」とデズデモナに近寄りながら力尽きるとき、その静けさの中で消えていくピアニッシモの繊細な歌声は、その時に居わせた人々にのみ共有される体験でもある。何千人もの聴衆と全ての出演者、オーケストラが一体になった奇跡のような瞬間。そのたとえようもない美しさを経験するには、やはり実演しかない。

なお、レヴァインの「オテロ」は70年代にゼッフィレッリ演出のビデオが出ていた。一方モシンスキーの「オテロ」は昨シーズンまで上演され続け、その最後の年にビシュコフの指揮で上演されたものもリリースされている。オテロやヨハン・ボータに変わったがデズデモナは依然フレミングである。このプロダクションもついに終わり、来シーズンでは新しい演出がリチャード・エアによってなされる予定だ。もちろんこの公演はMETライブシリーズで我が国にも中継される。

2014年11月2日日曜日

ヴェルディ:歌劇「マクベス」(The MET Live in HD 2014-2015)

松竹のホームページに「最近のMET史上最大の成功!」などと書かれているのを読むと、このエイドリアン・ノーブルの演出による「マクベス」は、METライヴとしても2008年の再演であるとわかっていても、これはもう見るしかないと思った。それはアンナ・ネトレプコがマクベス夫人を演じるから、という理由以外にない。そして前評判に違わず、私のMETライヴ経験の中でも屈指の名演であるばかりか、これは歴史的な「マクベス」の映像ではないかと確信した。

以下私は、今朝六本木のTOHOシネマズで見た「マクベス」について興奮冷めやらぬ感動を記載することになるのだが、 その感動は、指揮者のファビオ・ルイージが前奏曲を降り始めた冒頭から始まった。ルイージは、病気になった音楽監督レヴァインに代わってMETを指揮し始め、今ではその評価は板に付いた感があるのだが、そのルイージもここへきてMETのオーケストラを完全に掌握し、イタリア・オペラに相応しい統率力で、特には力強いトゥッティや、心に迫るカンタービレを十分に表現する力が付いていると思った。ところが、これはもしかすると、歌手たちの素晴らしさにこたえようと、指揮者、オーケストラ、それに合唱団が持ちうる限りの力を発揮しようとしたからではないか、と思うに至った。

それは第1幕でマクベス(バリトンのジェリコ・ルチッチ)とバンクォー(バスのルネ・パーペ)が歌う二重唱「二つの予言が的中した」で早くも明らかだった。いつもとは違う何か異様な雰囲気が、会場を覆っていた。第2場。ベッドでマクベスからの手紙を読むネトレプコが、登場のアリア「さあ、急いでいらっしゃい」を歌い始めると、私は脳天から竹割りをくらったかのように、全身が打ちのめされた。以後、第2幕が終わるまでの前半は、もうこの舞台がただの名演を超えた歴史的なものであるとさえ、思われたのである。

私はこの映像を、いつもの東劇ではなく、六本木のTOHOシネマズで見た。ところが予想に反して、ここの会場は満席に近い状態であった。おそらく前評判が高かったからろう。そしてそのプレミア・シートにはリクライニングが付いてるのだが、私はついにこれを使う気持にはなれなかったのだ。背筋を伸ばして聞き入れないと、何か十分に楽しめないような気がしていた。それほどこの公演の集中力はすさまじく、ヴェルディの書いた無駄のないドラマ性と迫力ある音楽に、ただただ圧倒されるばかりであった。

久しぶりにヴェルディを聞くと、食事制限をしたあとに豚かつを食べたような気分になる。溢れるメロディーと一糸乱れぬ合唱は、 まだベルカント時代の様相を残していて、高カロリーだが至福の気分にしてくれる。そのドラマ性重視の傾向が明確になる「マクベス」には、女性はただひとりしか登場しない。そして主人公はバリトンである。ヴェルディのオペラに一貫してテーマとなる心理的な葛藤と、男の弱さとでもいうべきものが、シェークスピアの原作によるものとは言え、ここでも明確に示されている。

ネトレプコの存在感は、第3幕以降になっても全く衰えることがない。だからこの作品はマクベス夫人こそ主人公である、という意見もあるくらいだが、それはおそらく違うだろう。ヴェルディが表現したかったのは、彼女の悪辣とも言える権力欲ではなく、それによって狂わされた男の悲劇であるからだ。彼女はそのきっかけであったにすぎない(「オテロ」ではこの役はイヤーゴである)。だがヴェルディはマクベス夫人にとても素晴らしい音楽をつけている。

だが重ねる蛮行に自ら戸惑い、錯乱状態になっていくのはマクベスだけではなかった。第4幕で彼女は、側近がつなぐ椅子の上を歩きながら、登場する。これは彼女の心の不安定さを象徴している。終始暗い舞台は、音楽そのものを決して邪魔することがない。そのことで集中力が生まれた。

ネトレプコの大名演の陰に、他の歌手が隠れていたわけではない。パーペ、ルチッチ、それにマクダフを歌ったテノールのジョセフ・カレーヤもまた、これ以上にないくらいの成功であるばかりか、見事に絵になる格好、そして表情である。ネトレプコが完璧にマクベス夫人になりきっていることに加えて、これら男声陣もまた標準をはるかに超える出来栄えであった。

狂気じみるくらいな拍手は、大歓声とともに全ての歌手に向けられた。だがそれだけではない。冒頭で述べたように、メトロポリタン歌劇場合唱団の、いつも以上に見事なアンサンブルと、それに何といってもルイージの、引き締まった上に表情に富んだ完全な指揮が、これに加わったのだ。その劇的な凝縮度は、若いころのレヴァインを思い出させるほどだ。だからこの上演は、METの数々の名演の中でも一等上を行く完成度であった。

興奮冷めやらぬのは、映画館に来た客だけではなかった。幕間のインタビューに答えるネトレプコの、狂気じみたハイパーさは、彼女がまったくもってマクベス夫人を自分の役にしてしまっていることを裏付けた。今シーズンは本作品を皮切りに、「フィガロの結婚」「カルメン」など、有名作品が目白押しである。やや食傷気味だったかのように思っていた私の音楽生活も、今日の「マクベス」で完全にリズムを取り戻した。暗く残虐なストーリーを味わった後だと言うのに、春のように暖かい六本木の街を吹き抜けていく風は、連休の合間ということもあって、とても軽やかであった。

2014年6月4日水曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(ローマ歌劇場日本公演、2014年6月1日NHKホール)

非常灯までもが消えて会場が暗くなってからしばらくが経った。やがて拍手が鳴り響く中をリッカルド・ムーティはゆっくりと指揮台に立ち、振り返って会場を見上げた。3階席からは早くもブラボーの声が響く。ムーティはおもむろに舞台の方へ向きをかえタクトを振り下ろした。金管楽器の静かな和音が鳴る。それだけでこの音楽がヴェルディの音であることを語っていた。フルートがあの有名なメロディーを奏で始める。歌うところではめいっぱいカンタービレとなり、速いところでは一目散に勢をつけて走りだす。これはやはり上手いと思った。序曲だけで私は圧倒された。

またもやブラボーが叫ばれるといよいよ幕が開き、舞台上に並んだ合唱団が冒頭の歌を歌う。「祝祭の飾りは落ちて砕けよ」。乙女たちとレビたち。その中に混じってザッカリーア役のドミトリー・ペルセルスキーが2つのアリアを続けて歌う。「エジプトの海辺で」「太陽の輝く前の夜のように」。ペルセルスキーは先週見た「シモン・ボッカネグラ」で重厚なフィエスコ役を演じ私を心底感動させたのだが、この「ナブッコ」においても圧巻であった。おそらく今回はペルセルスキーにつきると思った。

そこへ紛れ込む奴隷の娘アビガイッレは、当初予定されていたタチアナ・セルジャンに代わって、ラファエラ・アンジェレッティが登場した。この案内はあまり目立つようには掲示されてはいなかったが、このことが非常に不親切に思われた。そしてこの交代は私を大いに失望させた。アンジェレッティの歌唱は綺麗なのだが、力が不足気味に感じられた。広いNHKホールに声を轟かせるのは難しいかも知れないし、それがアビガイッレ役ともなると2オクターブもの高低差を行ったり来たり。その難役を演じきることは大変なことだろうとは思う。だからこそ本命の歌手が代わったことを、残念に思わざるを得なかった。おかげでザッカリーアやナブッコとの二重唱も、やや気の抜けたもののように感じられた。

イズマイーレとフェネーナも、最初は少し力不足に思えた。だが彼らは登場するシーンがもともとそう多くない上に、出来が次第に良くなっていった。フェネーナのソニア・ガナッシは、特に第4部において絶賛されるべきレベルの「天国は開かれた」を歌ったことは印象に残っている。

ザッカリーアに次いで素晴らしかった歌手は、主役のナブッコを歌ったルカ・サルシだったと思う。彼はヴェルディの繊細なバリトン役を、ある時は力強く、ある時は思いを込めて歌った。すなわち第1部フィナーレでの怒涛のごときアンサンブル、第2部における王冠奪還のシーン(ただし稲妻に打たれる)、第3部のアビガイッレに対する父親の愛情と弱さ、さらには第4部における改宗のアリア「ユダヤの神よ」などである。各部で見せ所のあるナブッコがつまらなければ、このオペラはやはりつまらなかっただろう。

合唱が活躍するのが「ナブッコ」の大いなる見どころである。ローマ歌劇場の合唱団はさすがにイタリアの合唱団だと思った。ひとりひとりがそれぞれに歌っている。その総合的な力は、まさにヴェルディの歌となっていく。これはオーケストラにも言えることだが、彼らとしてはヴェルディの音楽を、そういう個人個人の思いと力の集合体として捉えているように思える。ややくすんだアンサンブルも底堅く美しく、やはりこれは自分たちの音楽であるというプライドが感じられる。

ムーティの指揮は、歌う時には歌い、力強くあるべきところでは瞬発的に音が鳴り響いた。メリハリのある流れも、かつてのように力みを感じることはもはやなく、それでいて緊張感を維持する。ツボを得た指揮は、オーケストラも合唱団も安心して力を注ぐことができるのだろう。力を抜くことはない。つまりは真面目で、細部にまで神経が行き届き、古い録音に見られるような、慣性的な曖昧さを持つことがない。だからレコードのように美しい。

第3部では、幕前で演じられたナブッコとアビガイッレの二重唱に続く「行け、我が思いよ」の前で、ムーティはきっちりと間を置き、その後には幕が静かに開くと、捕虜となったヘブライ人の合唱団が舞台いっぱいに広がっていた。ここのシーンが第一の見せ場だったと思う。ジャン=ポール・スカルピッタの演出は、派手ではないが退屈なものではなかった。最小限のセットをうまく駆使して、それなりに新鮮なものであったと言って良い。雷のシーンも目立たせず、むしろ音楽にこそ注力されるべきだとのムーティの考えに沿ったものだろうか。偶像か壊れるシーンもほとんど存在しないに等しいくらいのものだった。

アビガイッレの美しいアリア「かつては私も」などが不調に終わり、やや不満はないことはなかったものの、総じてこれは現在望みうる「ナブッコ」の最高ランクの演奏であったと想像できるし、ローマ歌劇場はムーティとの関係により、おそらくは現在望みうる最高の本場物ヴェルディを演奏していることも確かなものに思えた。そうであればあるほどこの公演は、「ナブッコ」のオペラとしての魅力と限界を、おそらくは最高の形で示し得たのではないかと思う。ただ残念なことは、少し広すぎるNHKホールのせいで、何人かの歌手の声が届きにくかった。重唱になれば、特にその欠点が助長された。

何度かのカーテンコールが終わると幕が再び開けられ、舞台上にオーケストラのメンバーも上がって総立ちの観客の拍手に応えた。一連の引越公演が全て終了した。舞台には「大成功ありがとう」「SAYONARA」などと書かれた横断幕が広げられ、合唱団と歌手、それに指揮者はいつまでも手を握り合っていた。まだ6月というのに33度もの気温を記録した東京も、まもなく梅雨のシーズンに入る。まるで地中海性気候を思わせるこの1週間は、その直前のもっとも輝かしい初夏の陽気に、来日した演奏家も大いに東京滞在を楽しんだのではないか、などと想像しながら雑踏の渋谷駅へと下っていった。

(下の写真は1994年、ローマを訪れた際に撮影したもの。歌劇場の前。)

2014年5月26日月曜日

ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」(ローマ歌劇場日本公演、2014年5月25日東京文化会館)

今は亡きクラウディオ・アバドがミラノ・スカラ座を率いて来日した時、ともに来日したカルロス・クライバーに押されて評判は目立たなかった。中学生だった私はヴェルディの多くの作品の中にも、変わった名前の作品があるものだな、という程度にしか記憶しなかった。FMやテレビで放映され見入ったのは、クライバーの「オテロ」と「ボエーム」、それにアバドの「セヴィリャの理髪師」の順。だがこの時の来日公演こそ、我が国のオペラ上演史上語り草になっている歌劇「シモン・ボッカネグラ」の極めつけの公演だった(ようである)。それから30年以上が経ってまさか私が、まさか東京でこの作品に接するとは思わなかった。


私はこれまで、欧米の歌劇場が行う引越公演というものを敢えて避けてきた。オペラというのは、その土地や聴衆を伴ってこそ、生きた芸術となるものだと信じてきたからである。イタリアで夏の音楽祭に行ったことはあるし、ニューヨークでメトの公演は何度も見た。だが東京では、地元の新国立劇場や時折上演されるオペラ・カンパニーの上演に行くことはあっても、ヨーロッパ各地からやってくる歌劇場の公演には行くことはなかった。

チケットの値段が法外に高い、というのも大きな理由である。そしてこの引越公演が、数年に一度だったかつての日本ならともなく、今では毎年多くの劇場が、それも日本の観客を目当てにやってくる。主役に評判の歌手を招聘しただけの、有名作品のオペラ公演は、何万円も支払ってまで、東京の多目的ホールに出向く気がしない、というのがこれまでの気持ちだった。

だがリッカルド・ムーティがローマ歌劇場を率いて来日し、ともにヴェルディの作品「シモン・ボッカネグラ」と「ナブッコ」を指揮すると発表された時、ついに私もこの慣例を打ち破る決心をせざるをえなかった。それどころか私はどちらの作品のチケットを買うべきか、さんざん迷った挙句両方の公演を申し込むという事態にまで発展したのである。昨年12月の先行予約受付の当日に、私は両方の公演のF席チケットを申し込んだ。結果は「シモン」のみ当選。そして「ナブッコ」はついに法外と言われるような値段(それでもポール・マッカートニーよりははるかに安いB席だが)を買ってしまったのである。

ついに今日は東京文化会館で「シモン・ボッカネグラ」の一連の初演に接することになり、私はほとんど初めて耳にしたような、これこそまさにヴェルディというような音樂と歌に瞠目することとなった。多くの公演に接している方にすればまた別の意見もあるかと思うが、私にとってはおそらく一生に何度もないような極めつけの公演であったと言って良いだろう。

それは幕が開いてプロローグの冒頭で聞いた第一声からして明らかだった。どの人物も非常に張りのある声で聴衆を魅了したからだ。声の魅力を味わうこの作品にあって、主役級歌手は実に5人も必要とする。そのうち4名が男声である。すなわちバリトンのシモン・ボッカネグラにジョルジョ・ぺテアン、娘の恋人でテノールのガブリエーレ・アドルノにフランチェスコ・メーリ、シモンの政敵でバスのヤーコボ・フィエスコにドミトリー・ペルセルスキー、さらには悪役のパオロ・アルビアーニにマルコ・カリアという布陣である。紅一点、アメーリアには当初、バルバラ・フリットーリが歌うとされていたため、丸でダメ押しを食らったようにチケットを買った客は多かったと思う。だがこれはアテが外れ、エレオノーラ・ブラットに交代してしまった。

とにかくプロローグを聞いただけで、その歌声の充実ぶりには目を見はった。シモンとフィエスコの長い二重唱は、私をヴェルディの世界へと誘った。男声が数人登場して台詞を歌うという、低い声のやりとりだけでこのオペラの80%は成り立っている。一人でも歌手が揃わなければ、おそらく聞いてられない作品ではないかと思う。けれども観客は静かに、格調高い舞台に目を奪われたに違いない。エイドリアン・ノーブルの演出は極めて品が良く、作品を邪魔することなく控えめでありながら、それでもなお、主要な部分ではとても印象的だった。

プロローグと第1幕の間の舞台の展開と、第1幕の第1場と第2場のに、休憩時間はなかった。私はどちらかに休憩があっても良かったのではないかと思った。ムーティは指揮台脇に腰掛け、この時間を静かに待っていた。少し狭い東京文化会館の座席を考慮すると、よりゆったりとした時間が期待された。主催者はおそらく、舞台の緊張感が維持されなくなることを恐れたのであろう。

第1幕冒頭で登場した唯一の女性ブラットは、少し緊張気味に見えた。そのことが表現の幅を狭くしてしまっていたように思われた。結局、このアリア「暁に星と海は微笑み」は、安定を欠いた彼女の独走気味だったように思える。もう少し柔軟な表現、例えば愛情に飢えたような表情付けが欲しかった。けれども彼女はその後次第に調子を上げた。結果的に芯の強い、それでいて父親を心から愛する美しい女性になった。他に女性歌手がいないことも有利に働いたと思う。彼女の声は、多くの男声に混じった時にひときわ綺麗に輝く夜空の一番星となった。

4人の男声はそれぞれ、歌声に特徴がなければならない。このうち外題役のシモンは、いわゆるヴェルディ・バリトンの真骨頂という側面が強い。総督としての威厳というよりはむしろ、ひとり娘のことで頭がいっぱいの父親である。とりわけ叙情的な歌が多いこの役には、はまり役というのがあるのだろうと思う。だが特に第2幕以降では、毒を盛られてふらつきながらも、力強く歌う必要がある。ペテアンはそういう意味で、私にとっては十分な合格点であった。

フィエスコのバスの歌は、このオペラの中でも特に好きなものである。貴族系の彼はシモン以上の気高さと、そして知的で理性的な声が要求されている。私はもしかしたらこのオペラの主役はフィエスコではないかとすら思っている。フィエスコとシモンの長い対話、すなわちバスとバリトンの二重唱は、このオペラの最初と最後に置かれており、対をなしている。前者が対立を描き、後者が和解を謳っている。この両方のシーンが最大の見どころであると思う。

同じバリトンでも悪役のパオロは、シモンのように叙情的な声であってはならない。オテロのイヤーゴを思い出させるような役に、ヴェルディと台本作家のボーイトは24年後の改訂で思い切った表情付けを行った。私にはリゴレットのスパラフチレを思わせもするが、このようなヴェルディの改作によって、この作品が引き締まったと思われる。今回のパオロはその意味で、少し力不足のような気がしたが、それは他の歌手がそれ以上に良かったからだろう。

テノールのメーリについては、私は最大級の見応えがあったと書かざるを得ない。ここでの彼は、もうこの役のうってつけであるばかりか、これ以上の出来栄えを考えることすらできない。すなわち、第2幕における独白「我が心に炎が燃え」は、今回の上演中最大の見どころだった。

第1幕でシモンは、孤児として育てられた娘に再会し、感動的に喜びを歌う。一般に「シモン・ボッカネグラ」の最も大きな見どころは、この第1幕第1場であると言われている。だが「アイーダ」が凱旋のシーンを終えてなお、聞き所が続くのと同様に、「シモン」の第1幕第2場以降の見どころにも事欠かない。私にとってピンと来ないテーマである「父と娘」のシーンだが、それにしても客席に女性が多いのは意外である。こんなに男心を延々と歌うオペラは他にあるだろうか。「蝶々夫人」や「椿姫」が変わりゆく女心を歌うと多くの男性が魅了されるように、このオペラには女性を惹きつける要素があるのかも知れない。だが前者が恋愛の中にある心の変化であるのに対し、後者はもっと家族的なメロドラマである。もしかしたらオペラに求めるものが、男女で異なっているのかも知れない。

そしてヴェルディは、この時期からオペラを、娯楽作品としての趣きを越えた要素を付け加えることを、自らの作風に選ぶことになった。それは彼の、自然な、確信に満ちた傾向であった。いやそうせざるをえなかったのではないか。結局そのような人間ドラマに向かうことでしか、後年のヴェルディは満足できなかった。それは徹底的にリアルなもので、その点でヴェルディの描く世界は、私達の心の日常的な内面にも届くものになった。どういった題材を選ぼうと、彼の視点はそこにあった。「シモン」はつまり、実在の中世の人物を題材にしながらも、極めて人間臭いオペラである。

第2幕でシモンは、アドルノに自分のかつての姿を見出したに違いない。つまりは政敵の娘に恋してしまったのだ。だが時はすでに遅かった。シモンが床に倒れ、折り重なるようにアメーリア(マリア)が介抱しようとする時、合唱が高らかにボッカネグラを讃え幕切れとなる。力強いムーティの指揮は圧巻といって良く、舞台に何度も現れたこの大指揮者に圧倒的な歓声が沸き起こった。

私の手元にはもう一枚、来週の「ナブッコ」のチケットがある。こちらは若きヴェルディの情熱が炸裂する大好きなオペラである。この舞台はおそらく一生のうちでも、最大の思い出になるであろうことを今から想像し、とても楽しみである。

2014年3月7日金曜日

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」(1990年8月18日、ヴェローナ野外劇場)

私のオペラ体験第3弾は、ローマでの「トスカ」、ニューヨークでの「オテロ」に続き、ヴェローナでの「アイーダ」であった。こう書くと、自分でも何と恵まれた体験かと思うが、当時は日本でオペラを見ることなど、余程のことがない限り不可能であった。大阪に住んでいた私は、地元のオペラ・カンパニーというものを知らなかった。それで外国に行くと、物見遊山で歌劇場などを見て回ったのだ。

私のオペラへの旅は、このようにまずイタリアへの旅立ちだった。これは偶然だが、今でもドイツものよりはイタリアものが好きなのは、この体験に基づくのかも知れない。さらに夏の風物詩とも言える音楽祭は、私を気軽にオペラ鑑賞に導いた。カジュアルな服装で、観光客気分でヴェローナに出かけたのは1990年、23歳の時だった。

当時私は夏休みを利用して、スイスのローザンヌにある工科大学に交換プログラムによって滞在する機会を得ていた。私の専門分野であるプログラミングの課題をこなすかわりに、滞在費を大学が支給してくれた。と言っても留学生への奨学金レベルであり、大学の寄宿舎の寮費を払うと、手元にはほとんど残らなかった。

私は毎週末を、ヨーロッパ各地への1泊旅行にあてた。1ヶ月ほどがたち、スイス国内の有名な観光地を巡った後は、いよいよ大好きなイタリアへの旅行を計画した。私のイタリア行きに、どういうわけかイスラエル人とカナダ人の友人が同行することになったが、カナダ人は乗るべき列車に乗ってこない。私たちはミラノ中央駅で彼を待ったが、携帯電話などない時代である。私たちはついに会うことができなかった。あとで聞いたところ、彼は列車を間違え、ヴェローナではなくボローニャに着いていたのである!

イスラエル人は変わった奴で、ミラノの駅前のマクドナルドで昼食を食べたあとは、別れてどこかへ行ってしまった。私が見る予定のオペラなどに興味はなかったのだろう。仕方がないから私はひとりでヴェニス行き急行列車に乗り、猛暑のヴェローナに着いた時にはシエスタの時刻。駅前は閑散としており、ここがあの「ロミオとジュリエット」の町かと戸惑った。

駅からうだるような暑さの中を中心部に向かうと、巨大な円形劇場が威容な姿を現した。ローマ時代の遺跡としては最大級の野外劇場が、有名なアレーナ・ディ・ヴェローナであった。さっそく本日の演目を尋ねたところ、何と「アイーダ」であった。ヴェローナ野外オペラで最も人気のある「アイーダ」は、偶然とはいえ私を大いに興奮させた。しかし切符がないのである!当然、売り切れ、ということだった。仕方がないから諦めてチケット・オフィスを出ようとしたところ、何人かの男が話しかけてきた。ダフ屋である。聞くと今夜のチケットがあるではないか。私は迷うことなくその一枚を、交渉して手に入れた。

開演は夜の9時で、終演は夜半を過ぎ1時頃。さすがイタリアである。お昼は長いから、観光も十分できる。その前に滞在するホテルを決めなければならない。ところが今度は、困ったことにホテルがどこも満室なのである。思えば夏の観光地に何の下調べもなく行くのは、インターネットのない時代とは言え、少し準備不足だと言うしかない。途方にくれていると、あるホテルのフロントの女性は私に、「特別な部屋があるわ」と言ったのだ!「部屋を見せてくれ」と言うと、彼女は私をprivatoと書かれた部屋の鍵を渡してくれた。そこは従業員用の狭い個室だった。だがシーツのあるベッドが置いてあり、シャワーもついている。私は直ちにそこに決めた。イタリア旅行はなんとかなるものだ、と思った。言葉がわからなくても。

「ジュリエットの家」などを散策して夕暮れ時なると、こんなにいたのかと思うほど大勢の観客が、列をなしている。まるで夏の甲子園球場のような感じである。私はそのスタジアムにチケットを持って入ると、それは見事な空間が目の前に出現した。私の席は中段の、舞台に向ってかなり右側であった。石の椅子に腰掛けて開演を待っている間中も汗が噴き出る。けれども夕暮れともなると心地よい風も吹いてくる。やがて隣の人から順に蝋燭が配られ、お互いに火をつけあうと、何万人もの観衆が火の光の中に灯った。オープニングはこのようなことをするのか。今ならビデオで見るシーンも、全て初めての私は感動し、音楽も始まらないのに何枚もの写真を撮った。

この日、誰が何を歌ったかなど何もわからなかった。けれども終演後に買ったプログラムから、次の様な歌手陣であったことが判明する。アイーダ:マリア・ノート、ラダメス:フランコ・ボニゾッリ、アムネリス:ダイアン・カリー、ランフィス:イーヴォ・ヴィンコ、指揮:アントン・グァダーニョ。
大スペクタクルの演出は、円形劇場の最上段から舞台までを広く使い、動物も出演する壮大なものだった。第2幕の凱旋のシーンは息を飲む見事さ。だが第3幕以降の舞台もなかなかのものだった。私はむしろ後半の舞台が思った以上にいいものだ、ということをこの舞台で発見した。深く音楽が浸透していき、夜が徐々に更けていく。音響も思ったほど悪くはない。最後の二重舞台のシーンが終わると、満場の拍手とブラボーが渦巻き、そこにヴェルディの肖像画が登場した。

上演が終わると、待っていたかのようにレストランが一斉にオープンし、夜食の時間となる。私も何かを飲んでいると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。振り向くと何と、スイスの大学の同じ研究室の助手がガール・フレンドといるではないか。ボリビア人の彼は彼女とラザニアなどを食べてる。こんなところで会うなんて、なんという奇遇だろう。私は興奮しながら夜のヴェローナをホテルに戻り、昼間の疲れもあってあっという間に眠りに落ちた。

翌日はお昼にヴェローナを発ち、ミラノへ戻る途中、クレモナに立ち寄った。ストラディヴァリウスの活躍した街である。そしてヴェルディが生まれたパルマは、ここからほど近い場所である。そう思うと、何かとても感慨深い気分であった。

2014年1月11日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

ヴェルディ・イヤーを締めくくる作品は何と言っても「ファルスタッフ」だ。ヴェルディが80歳にして作曲した作品は、「レコード芸術」誌2013年10月号の特集記事「10倍返しの男」(岸純信・著)によれば、①「宿敵ニコライの人気作『ウィンザーの陽気な女房たち』に一矢報い」、②「ロッシーニの魂を蒼ざめさせた」上で、③幕切れのフーガで「対位法はお手の物さ」と宣言した。「ナブッコ」から半世紀を経て彼は、「積年の恨みを晴ら」し、「執念深さを創作意欲に変える姿勢」が完成した。

奇跡とも言える作品の指揮をしたのは、これまた奇跡的にMETの舞台に2年ぶりのカムバックを果たした音楽監督ジェームズ・レヴァインである。彼は専用の車椅子に腰掛けて、ほとんど座りっぱなしでこの2時間余の曲を精力的に指揮した。総裁のピーター・ゲルブ氏はレヴァインのカムバックを誰にも信じられなかったと紹介している。第一「本人にも信じられなかった」からだそうだ。

レヴァインの指揮が全く衰えを見せないどころか、このオーケストラとの長年に亘る関係の上にしか構築できない円熟の音楽によって、ヴェルディの音楽が息を吹き返し、見ているものを興奮させた。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、この「ファルスタッフ」に匹敵する舞台は「ブロードウェイにも多くはない」と絶賛している。

さらに本上演の呼び物のひとつは、この作品の演出が55年ぶりに新しくなったことだろう。しかもその役を担ったのは、私がパリ・オペラ座の「ホフマン物語」で惚れ込んだロバート・カーセンであった。この天才演出家がどのような舞台を作るかは、私の見逃せないポイントだったが、何とそれは50年代のアメリカの台所という、丸で古い映画が飛び出してきたような(と案内役のルネ・フレミングは言っていた)舞台の、細々と並べられた小道具のひとつひとつにまでこだわった見事なもので、次々と変わる舞台の裏側をお得意のカメラワークで迫る。

ゲルブ総裁とレヴァイン、それにカーセンの三者の対談が、この幕間のインタビュー最大の見どころであった。登場人物の素晴らしい演技によって、まったく自然な感じに演技が推移するが、これは綿密に計算され、練習に次ぐ練習によって成し遂げられたものである。カーセン氏が言うようにこの舞台は、何にもまして人間味を謳ったものに仕上がっている。そこでは各登場人物が、何と生き生きとしていることか!

まず主役のファルスタッフは、世界中でこの役をこなし(200回以上も)、昨年のスカラ座公演でも日本に話題を振りまいたアンブロージョ・マエストリであった。まるでファルスタッフがそのままいるかのような圧倒的な存在感は、それだけで見るものを圧倒するし、インタビューで垣間見られたようなイタリア人そのままの気質が、彼の演技を唯一無二なものにしている。文句のつけようがないばかりか、この人のファルスタッフを見てしまうと他の人の演技が想像できないし、できたとしても見劣りがするだろう。

ファルスタッフが恋文を送る2人の夫人、アリーチェ・フォードはアンジェラ・ミード、メグはジェニファー・ジョンソン・キャーノである。このうち、良く歌う方のアンジェラ・ミードと、仕返し劇を企むクイックリー夫人を演じたステファニー・ブライスが登場すると、それだけで舞台は狭く感じられる。何せ巨漢揃いの舞台の上で、九重唱などといったシーンが連続するのだから。だがそういった容姿を含めて、何せ見応えのある舞台である。

このような太っちょの方々の間で独自の恋愛劇を繰り広げるアリーチェの娘ナンネッタ役のリゼット・オロペーサと、その相手役のフェントンを演じるパオロ・ファナーテも、逆に存在感があった。若い役はこの2人だけで、「フィガロの結婚」におけるケルビーノのように、何とも初々しい。一方、うだつの上がらないフォード氏はフランコ・ヴァッサッロという歌手で、そういえば第2幕で衣装を変えてガーター亭へとやってくるシーンでは、客席の笑いを買っていた。

衣装の変更の見事さもこの舞台では特筆されるし、台所に置かれたトランジスタ・ラジオのようなものにまで音楽と一体感のある演出の素晴らしさも記憶に残るが、第3幕ではそれまでの舞台が一転、何か幾何学的なものとなる。私は今回、初めて東劇ではなく、六本木のTOHOシネマズで見たが、土曜日の朝の都心は人も少なく、広い館内には5%程度しか客がいない。私はいつものように嬉しくなって赤ワインなどをちびりちびりとやっていたら、たちまち睡魔が襲ってきた。

それで第3幕の後半は、よく覚えていない。涙が出るほど感動的だった舞台も、気が付くとフーガのシーンになっていた。見逃したかと後悔しかけたが、考えてみればこれほどお正月に見るのに相応しい作品もないだろう。昨年12月14日の舞台は、年末に歌舞伎座でも上演されたようだが、私は年があらたまって最初に見たオペラとなった。気分よくうとうとしていた耳元に、「世の中はすべて冗談。理性だってあやふや。」と歌う歌手の声がこだましていた。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...