2020年6月30日火曜日

ガーシュイン:歌劇「ポーギーとベス」(The MET Live in HD Series 2019-2020)

ユダヤ系ロシア人を親に持つブルックリン生まれの作曲家ジョージ・ガーシュインは、その短すぎる39年の人生を終えるわずか2年前に、ジャズを土台とする斬新なオペラ「ポーギーとベス」を作曲したのは1935年のことだった。この頃はまだまだ黒人差別が当たり前のように存在し、特に南部では大規模な農園で働く黒人の多くが貧しい生活を強いられていた。

公式には南北戦争によって廃止された人種差別は、第2次世界大戦を過ぎて公民権運動が沸き起こる1960年代に至るまで続く。その様子は生々しく、ごく最近まで南部では、バスに乗るにも黒人用と白人用の座席が違っていた。例えば小田実の名著「何でも見てやろう」にはこのように書かれている。
ガラス窓があり、それごしに、向こうの別世界、「黒人用」待合室が見えた。うす暗く狭く汚い。そして、こちらの世界にはわずか五六人の客しかいないのに、それよりはるかに小さい別世界は、人間―黒い色を持った人間でみちていた。
私はニューヨークに滞在した1年間を中心に、アメリカ東部を南北に貫くインターステート(州間高速道路)95号線を、北はメーン州のアケーディア国立公園から南はフロリダ半島南端(さらにはキーウェストまで)ドライブした。感謝祭の週末、早朝にワシントンDCを発ってすぐにバージニア州に入る。ここから「南部」が始まる。さらに南下を続け、サウスカロライナ州に入ると、どこまでも続く平原地帯を走る。途中で東へ折れ、プランテーション農園などを目にしながら海を目指し、やがてハリケーンが時折襲う大西洋岸の港町チャールストンに着いた。ここは歴史的観光地でもあり、今では多くの教会や南北戦争の遺跡などを見て回るツアーがあって、なかなか興味深いところだった。

さて、キャットフィッシュ・ロウ、すなわち「なまず横丁」と名付けられた黒人の居住区を舞台に「ポーギーとベス」は進行する。この作品の原作を書いた小説家は、自身が生まれ育ったチャールストンを舞台にこの物語を書いた。ガーシュインもオペラ化に際して、この街を訪れ黒人音楽などを取材している。私もチャールストンの通りを歩いていたら、教会から大きな声の合唱が漏れ聞こえてきたのを覚えている。それは通常の讃美歌のような、まるで天上から降りてくるような音楽ではなく、地の底から響く激しいリズムを持った霊歌ー魂の響きであった。

ガーシュインは、二十世紀の音楽が定めるべき方向を模索していた時代に、黒人を主人公としたオペラを作曲した。歌手はほぼみな黒人(今風に言えばアフリカ系)でなければならないとされる。しかしここで展開される音楽は、そのストーリーからもわかるようにどちらかというと重く、私は最初楽しく聞く事ができなかった。ガーシュインと言えば、底抜けに楽しいミュージカル「ガール・クレイジー」(その主要な音楽を取って構成した「クレイジー・フォー・ユー」は当時、ブロードウェイでロングランを達成していた)などを聞いていた私には、いつまでたっても続く暗い音楽がつらかった。ストーリーに救いがないのは、この時代の作品の特徴でもあるのかも知れないが、明らかに娯楽作品と異なるのは、この作品が自らが確立したクラシック・ジャズの様式をオペラに昇華させることを目的とした、おわば彼にとっての野心作だったからではないだろうか、と思う。

考えておかなくてはならないことは、この作品はあくまで白人の部類に属する側で作曲された作品であるということだ。ただ今回、何と30年ぶりとなるMETに登場した多くの歌手たちは、並々ならぬ意欲を見せていたように思う。主役のポーギーを歌ったエリック・オーウェンズ(バス・バリトン)は、長年この劇場で歌ってきたバスの第1人者である。大柄で優しい風貌もまたピッタリだと感じられる。幕前に舞台に登場したゲルブ総裁は、彼が風邪をおして舞台に立つことを告げるので、その出来栄えを心配したが杞憂に終わった。大成功だった。

ポーギーによって口説かれ、一時は一緒に暮らす仲となるベスを歌うのはエンジェル・ブルー(ソプラノ)で、この組み合わせでビデオ収録も行われ、昨年リリースされたそうである。それくらいピッタリの役どころといったところ。黒人特有の野太い声が、広い会場に響く。一方、ベスの愛人で悪党のクラウンは、アルフレッド・ウォーカー(バス・バリトン)によって歌われ、筋肉質の巨漢がピッタリ。その他大勢いる女声陣は、クララにゴルダ・シュルツ(ソプラノ)、セリナにラトニア・ムーア(ソプラノ)、マライアにデニース・グレイヴス(メゾ・ソプラノ)。またクラウンを絞め殺した容疑でポーギーが収監されている間にベスを誘惑し、麻薬で誘ってニューヨークへ連れてゆくまた一人の悪党、スポーティング・ライフにはフレデリック・バレンタイン(テノール)が、一人若々しい青年の声で聴衆を魅了した。ジェイムス・ロビンソンの演出は、舞台中央に設えた2階建ての木造家屋が頻繁に回転し、視覚的にも楽しい。一方、中央にピアノを置いたオーケストラを率いたのは、デイヴィッド・ロバートソン。ジャズのスイングはメトのオーケストラでも健在で、熱狂的な聴衆はこのようなリベラルな街で、わめくように喝采を送る。

第1幕の第1場、すなわち幕が開いてすぐに歌われる「サマー・タイム」が特に有名なこのオペラは、勿論ジャズを中心とした様々な音楽的要素が盛り込まれ、詳細に聞いてみるとなかなか聞きごたえがある。だが舞台を伴って見ると、登場人物が多く複雑なうえに、いつも同じような音楽が聞こえているように感じる。それでも今回、私はポーギーとベスによる二重唱、あるいはベスを口説くクラウンやスポーティング・ライフとの、それぞれの二重唱などで見られる、歌の進行と共に起こる心情の変化を、子細に見ることができた。

意志の弱いベスは、純粋なポーギーが自分の身を任せられる存在だとは、やはり信じられなかったのだろう。だが足の不自由な物乞いのポーギーには、他に夢などなかった。ハリケーンで足止めされた島へのピクニックでベスを誘惑した憎むべきクラウンを、決闘のうえ絞殺し、白人の警官に取り調べを受ける1週間の間に、ベスはスポーティング・ライフによってまたも誘惑され、拘留期間が長くなるとそそのかされたこともあり、とうとう一緒にニューヨークへと旅立ってしまう。そんなベスをポーギーは忘れる事ができない。コミュニティの人々の静止を振り切って、ポーギーはベスを追って旅立ってゆくところで幕となる。

この映像を見ながら、私は25年前に訪れたチャールストンの町を思い出した。そして今なおアメリカ社会に影を落とす人種差別に、複雑なものを感じた。最近でも黒人が白人警官に殺され、そのことによって全米でかつてない規模のデモが沸き起こったばかりである。この上演は今年の2月1日だった。直後にコロナ禍が襲ったアメリカでは、1か月後にメトロポリタン歌劇場も封鎖された。この上映はその直前。奇しくもそのような年に、30年ぶりの「ポーギーとベス」は上演された。

2020年6月27日土曜日

ウェーバー:クラリネット協奏曲第1番ヘ短調作品73、第2番変ホ長調作品74(Cl: ザビーネ・マイヤー、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

管楽器のための協奏曲というのは、楽器の特徴から大規模な音楽が好まれるようになるロマン派以降にはあまり作曲されなかった分野である。クラリネット協奏曲の場合、あのモーツァルトのものが断トツで有名で、その他の作曲家の作品はほとんど知られていない。有名作曲家としてはコープランドくらいだろうか、思いつくところでは。確かに最晩年のモーツァルトの諦観に満ちた天国的に美しい作品を聞けば、これを超える作品などあり得ない、とさえ思わせるのは確かである。

そんな中にあって、ウェーバーが書いた2曲のクラリネット協奏曲は、比較的有名でよく演奏される。これらの作品はウェーバーの作品の中ではおそらく有名な方であるとともに、クラリネット奏者の多くが演奏し録音に残している。

ベルリン・フィルへの入団を巡ってカラヤンと楽団員との確執が伝えられ、そのことが長く続く両者の対立を招いた80年代の出来事は記憶に新しが、この時に話題に上ったのが美貌のクラリネット奏者サビーネ・マイヤーだった。当時のベルリン・フィルには、古くからの伝統に従い女性のプレイヤーはいなかった。従ってこの問題は、クラシック音楽における男女平等問題やその体質の閉鎖性といったものを炙り出した。結局彼女の採用は否決され、そのことが彼女のキャリアを一層華やかなものにしたのは皮肉である。

そんなマイヤーの奏でるウェーバーのクラリネット協奏曲は、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデンとの一枚によって知る事ができる。1985年の録音。二つのクラリネット協奏曲のほかに、小協奏曲ハ短調作品26も収録されている。また私の持つ「Great Performance of the Century」シリーズによるリマスター盤では、クラリネット五重奏曲変ロ長調作品34(管弦楽版)も収録されている。

モーツァルトのクラリネット協奏曲から20年後にあたる1811年に作曲された第1番へ短調は、静かな序奏が激情に変わるドラマチックな出だしで始まる。ウェーバーがモーツァルトの作品を聞いていたかどうかはわからないが、少なくともウェーバーの作品はクラリネットの特性をより追求したもので、モーツァルトにはないものを持っている。クラリネットの魅力を、モーツァルト以上に引き出していると言える。

ロマンチックで憂いに満ちた音色と、農民のポルカを思わせるような、素朴で生き生きとした旋律が交錯するのがクラリネットの魅力であるとすれば、ウェーバーのクラリネット協奏曲はこれらの要素を十全に引き出すことに成功している。例えば第1番の第2楽章は、静かで深く物思いに沈むような哀愁に満ちた旋律と劇的な中間部が交錯し、第3楽章では一転、踊りたくなるようなリズムがクラリネットの特徴を際立たせている。第2楽章におけるホルンとの二重奏は、これらのややくすんだ楽器同士が絡み合う印象的な効果を出している。

 一方第2番ホ長調は、第1番よりもさらに充実した作品のように感じられて、私は好きである。第1楽章の堂々とした冒頭は、この作品が長調で作曲されていることを思い起こし、古典的造形を残しているのが好ましい。登場するクラリネットの音程の幅も一気に大きく、より技巧的な要素が感じられる。ロマンスと題されている第2楽章では弦楽器のピチカートが効果的で、ここでは一気にロマン派が開花している。さらに第3楽章では、垢ぬけた踊りのような独奏に乗って、楽しく歌う。そう、クラリネットは歌う楽器である。

小協奏曲はクラリネット協奏曲に先立って作曲され、2曲のクラリネット協奏曲を生むきっかけとなった。演奏時間は10分足らずだが3つのパートから成り、数々の変奏やカデンツァを持つ作品、一方、クラリネット五重奏曲はクラリネット協奏曲と同様、当時のヴィルトゥオーゾだったハインリヒ・ヨーゼフ・べールマンのために書かれたが、作曲されたのはより後年である。クラリネット五重奏曲といえば、やはりモーツァルトとブラームスの作品を思い出すが、ウェーバーの作品もまた、クラリネットの今一つの特徴を良く捉えており、幻想的な雰囲気のなかで音楽が進行する。

一言で言えばウェーバーのクラリネット協奏曲は、技巧的な作品であると思う。従ってマイヤーのような技巧的な奏者によってその魅力は最大限に引き出されていると思う。ブロムシュテットの指揮は、ベートーヴェンではやや物足りないが、このようなロマン派初期の作品にはピッタリである。地味で目立たない曲も堅実で実直に演奏すれば、そこに漂う着飾らない味わいが、骨格のあるドレスデンの伝統的な音色によって引き立てられている。

2020年6月23日火曜日

ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」作品24(T: スチュアート・バロウズ他、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

私のもう一つの趣味である短波放送は、今では「失われた楽しみ」となって久しいが、かつては世界中から降り注ぐ大量の放送を聞くことが、インターネットもない時代、海外の生きた情報に接する唯一の手段だった。Radio Budapestというハンガリーの国営放送局も、早朝などに頑張れば日本で受信できた。当時ハンガリーは共産主義国だったから、自由な旅行をすることもできず、いまだに私は一度も行ったことがない。そのRadio Budapestが放送を開始する際に流れるのが、ベルリオーズの作曲した「ハンガリー行進曲(ラコッツィ行進曲)」だった。

ハンガリー独特の音楽を取り入れた作品は他にも数多く、ハンガリーにも著名な作曲家がいるにもかかわらず、この曲はハンガリー国営放送の開始音楽だった。雑音にまみれて聞こえてくる異国の音楽に、私は心から胸をときめかせる毎日だった(この短波放送を主体とするラジオ放送に関する思い出については、やがてこのブログで私は大いに語らなければならない)。

ベルリオーズは、大好評だった「ラコッツィ行進曲」を「ファウストの劫罰」に取り入れることにこだわった。だからこの物語の舞台の最初は、原作であるゲーテの「ファウスト」とは異なり、何とハンガリーが舞台になっている。そのハンガリーの平原の夜明けのシーンから、この曲は始まる。序曲などはなく、いきなりファウストの歌が聞こえてくる。音楽は日が昇る情景を描きつつ、春を迎えた農民たちの歌や踊りを表す少年合唱なども交えながら進むと、もう「ラコッツィ行進曲」である。

第2部は舞台を北ドイツに移す。絶望の果てに自殺を決意するファウストの前に悪魔(メフィストフェレス)が現れ、ライプツィヒの酒場へと連れてゆく。酒飲みの学生ブランデルの歌う「ねずみの歌」、続くメフィストフェレスの「蚤の歌」、さらにはマルガリータを夢に見る「妖精の踊り」など聞きどころが続く。

まるでベートーヴェンが書くようなドイツ風のファンファーレが聞こえてくると第3部である。 ファウストが侵入したマルガリータの家で、彼女は中世風の「トゥーレの歌」を歌う。二人は夢の中でお互いを恋しており、その夢心地の中に展開される音楽(「鬼火のメヌエット」から「セレナーデ」にかけて)はベルリオーズの真骨頂だろう。やがて二人は「愛の二重唱」を歌う。だがそれもつかの間、ファウストはマルガリータの前を去らなければならない。

第4部はマルガリータとファウストの死。「劫罰」とは永久に続く罪と深い罰のことである。自然と心理、天国と地獄。その間を行き来する幻想的な音楽。ファウストと会うために母親に薬を飲ませ、死に至らせた罪でマルガリータは死刑となる。自らの死と引き換えに悪魔と取引きし、若さを手に入れたファウストは魂を明け渡した罪に問われ、地獄へと落ちてゆく。だが、音楽は最後に「エピローグ」が置かれ、贖罪されたマルガリータは天使に導かれ、天国へと迎え入れられる。合唱の美しい響きが、この曲の後味をいいものにしている。夢の物語の帰結は、夢のように美しい。

ベルリオーズはこのように、オペラとも何ともつかないような作品を作曲した。だが考えてみるとこの作曲家は、従来の枠にとらわれない程奔放な作品を作り続けたと言える。まるでヴィオラ協奏曲のような交響曲「イタリアのハロルド」や、交響曲で物語を表現した「ロメオとジュリエット」など、いずれも複数のジャンルの要素を取り入れたユニークな作品である。「テ・デウム」のように音楽の規模は肥大化し、「レクイエム」は非常に長い。彼の作品に対する情熱は、しばしば原作の変更にまで及んだ。「ファウストの劫罰」もまたゲーテの原作に触発された作品ではあるものの、その物語を彼流に組みなおした音楽作品である。親しみやすさと要素の多彩さにおいて、私は「ファウストの劫罰」がベルリオーズのもっともベルリオーズらしい作品だと思う。

小澤征爾は1973年、名門ボストン交響楽団の音楽監督に就任した。まさに飛ぶ鳥を落とすような勢いだっただろう。師匠シャルル・ミュンシュが黄金時代を築いたアメリカ東部の保守的なオーケストラは、若干38歳の日本人にその運命を託した。それから2002年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任するまでの、30年近くに亘ってこの地位を保ったことは、驚異的な成功だったと思う。私も1990年代に来日したボストン響の演奏会で小澤のベルリオーズを聞いているが、指揮者と一体となり磨き抜かれたアンサンブルに驚嘆したのを思い出す。

ボストン響のシェフに就いた小澤は、さっそくミュンシュの得意としていたベルリオーズの作品をドイツ・グラモフォンに録音した。「ファウストの劫罰」はその時のもので、今でもその音色は色あせないばかりか、むしろ後年に失われてしまった生気がみなぎるものである。小澤の代表的録音と言っていいだろう。主役ファウスト(テノール)はスチュアート・バロウズが、マルガリータ(メゾ・ソプラノ)は何とエディット・マティスが、メフィストフェレス(バス)は若きドイツ人、ドナルド・マッキンタイアが歌っている。ブランデル(バス)はトマス・ポール。ドイツ人のフランス語の歌唱としてどうなのかは意見が分かれるようだが、私はむしろボストン少年合唱団とタングルウッド音楽祭合唱団の洗練された合唱に大いに心を奪われている。オーケストラのサウンドと合わせ、もっとも高水準のベルリオーズが展開されている。

小澤の俊敏なテンポで奏されるリズムには、ときおりはっとさせられるような瞬間がある。聞きなれた旋律がとても印象的に響く。特に、最低限の要素で旋律を歌うベルリオーズの音楽は、鬱陶しい梅雨空の続くこの季節の日本では一服の清涼剤である。ボストン響の夢見心地のように鳴り響くオーボエの旋律は、第4部「ロマンス」で真価を発揮し、そこにマティスの歌が溶け合う。

小澤は後年、サイトウ・キネン・フェスティヴァル松本においてこの作品を舞台上演した(1999年9月)。この時の演出は、METでの「リング」を完成させたフランス人、ロベール・ルパージュだった。私はこのビデオをNHKのテレビで見て大変大きな感銘を受けた。もう一度見てみたいと思ったが、なかなか再放送されない。そんな時、同じような格子状の監獄のような舞台をジャケットに使用したDVDを見つけた。てっきり小澤盤だと思って買ったら、同じルパージュ演出によるシルヴァン・カンブルラン指揮ベルリン国立歌劇場による1999年8月の公演映像だった(つまりサイトウ・キネン・フェスティヴァルの直前ということになる)。

この公演は、ザルツブルク祝祭大劇場の広い空間を利用したダイナミックなものだが、カンブルランの音楽もいくぶん遅くて精彩を欠き、ライブ収録された音響の悪さも手伝って散漫な印象を受けるのは残念なことだ。ホセ・ファン・ダムやスーザン・グラハムといった錚々たる歌手陣を揃えたサイトウ・キネン・フェスティヴァルの小澤の指揮が、やはり光る。

私は賛否両論あるルパージュの演出が好きな方である。そしてMETライブシリーズでも取り上げられた(2008年)。私はこのシリーズを80作品以上見てきたが、この舞台だけは見損なっているのが悔しい。実演では2006年NHK交響楽団(指揮はシャルル・デュトワ)と2016年東京交響楽団(指揮はユベール・スダーン)で聞いている。後者は特に印象が深かった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...