2019年9月23日月曜日

NHK交響楽団第1919回定期公演(2019年9月21日NHKホール、指揮:パーヴォ・ヤルヴィ)

マーラーはとりわけ好きな作曲家だが、かといってマーラーばかり聞くわけではない。演奏会でも交響曲第5番のようなポピュラーな曲であっても、これまでに聞いた実演はたった2回だったと思う。ディスクではもう少し聞いてはいるが、それでもこのヤルヴィの演奏を聞いて、初めて聞く曲のような気持がしたのは実に不思議なことだ。

思うにこれまで聞いたヤルヴィ/N響による数々の演奏では、その曲の魅力を再発見することが多かった。マーラーで言えば、第1番「巨人」、第4番、ブルックナーの第3番などである。今回のマーラーの第5番もまた、全編それまで聞いたことのないような体験の連続で、それだけでこの演奏が類稀な名演奏であったことがわかる。会場を覆った聴衆からは、私がかつてN響で聞いたことのないような大きなブラボーが鳴り渡ったことからも、それは証明できる。

そのマーラーに行く前に、プログラムの前半に演奏されたリヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から「最後の場」について。シュトラウス最後のオペラとして名高い「カプリッチョ」は、上演に2時間余りを要する作品だが、室内楽的な精緻さを持つフランス風の作品である。私はまだ見たことはないのだが、ソプラノの聞かせどころの多い作品のようだ。シュトラウスはこの作品を自らの総決算と位置付けた。

その最後の場では、間奏曲「月光の音楽」から始まって、主人公マドレーヌ伯爵令嬢が歌うソネットにより締めくくられる。約20分のこの部分を、ルーマニア生まれのヴァレンティーナ・ファルカシュが歌った本公演で、私は見事に睡魔に襲われた。それは音楽が始まってすぐのことだった。隣の熱心な聞き手(背の高い彼はとりわけ大きな拍手をした)には申し訳ないのだが、もう片方の隣では、私よりも先に居眠りが始まっていたから、私はまだましな方だった。

おそらくその原因は、歌い手の少し物足りない歌唱にあったのではないかと思っている。1階席の最後尾ではあったが、音楽は直接響く位置にあって、そのことは歴然だった。ホルンを始めとするN響の音色は、とても繊細かつ饒舌だったことを考えると、この演奏は少し物足りなさを残したと思う。けれどもそれは、後半のマーラーと比較しての話かも知れない。実際、平均点は出ていたように思う。このマーラーは、現在聞き得る中で最高の演奏だったとさえ思うからだ。

そのマーラーの交響曲第5番は、やはりホルンが大活躍する。特に第3楽章の長大なスケルツォでは、第一奏者をわざわざ別の特別な位置に移動させ、その演奏を目立たせた。このホルンの上手さは、シュトラウスから始まって交響曲の序奏でも顕著だった。ホルンの音色が舞台のあらゆる壁に反射して増幅され(ホルンは聴衆とは逆の方向に音を出す)、それが耳元へ届く。ホルンがこんなにも印象深く聞えることはまれであり、しかもそのテクニックが冴えわたる様子は、我が国のオーケストラで聞くことはまずない。ところが今日のN響は全く違っていた。これはもう本場の演奏そのものである。

そればかりではない。金管のセクションの完璧な演奏は、トロンボーンやトランペットを含め、圧巻の出来栄えだった。木管楽器の、先を宙に浮かせて吹くシーンの多いこの曲で、その木管楽器の上手ささえも目立たなくさせてしまうような技術的水準は、楽器の弾けない私がいくら形容詞を並べたところで表現できるものではないだろう。そしてティンパニ!音の強さでつける表現の見事さ、そして第4楽章における印象的なハープ!

弦楽器のアンサンブルが最高度において合わされていたことはもやは言うまでもない。N響の中低音の素晴らしさは、それがまるで単独の楽器であるかの如くであり、ヤルヴィの、ややもするとケレン味の多い指揮に呼応して、見事な瞬間を作り出してゆく。そのライヴ感はちょっと興奮する。オーケストラを乗せてゆく感覚は、私の乏しい音楽経験で言えば、マゼールのような芸術的センスを思い出させるが、音楽はそれほどクールではない。とはいえマーラーの世界にどっぷりと分け入っていくタイプではないところが、好みとしての評価が分かれるところかも知れないが。

そういうわけで技術的な観点では申し分のない演奏は、随所に聞かせどころを多く捉えた見事なものだった。第1楽章から第4楽章まで、この曲はともすればただやかましい曲に聞こえるのだが、決してそうではない、十分に注意が払われ、音楽的な部分が見て取れた。まるで吹く風がすーぅと吹き抜け行くように鮮やかさなパッセージ、過去の記憶を蘇らせる一瞬の淋しさ、適度に緊張感を強めたり弱めたり、丸で魔法にかかったように音楽が変化するのを目の当たりにして、これは緩急自在な、どこか能や歌舞伎の世界にでも通じるような静と動の交わり。

このように第1楽章から第3楽章までは発見の連続だったが、有名な第4楽章アダージエットでも、その表現はため息がでる。そして圧巻の第5楽章。コーダでピタリと決まった時の興奮は最高潮に達した。もし私がこの日のコンサートについて、たったひとつ難点を言うとすれば、それはもはや音楽家についてでもなければ、聴衆についてでもない。1階席の構造上の問題である。N響のS席は1階と2階の中央にあるが、ここの席は前の方に行けば行くほど見えにくい。また席の傾斜が緩く、ただでさえ狭い隣との間隔が、前後においても同様になる。これを回避するためには、通路沿いの席に座ることだが、これはなかなかむつかしい。結果的に、背筋を伸ばして前の席の人の頭の間から舞台を窺うしかないのである。

後方の席は、音が目立って衰弱するから、結局どこで聞いても満足な達成感を得ることは難しい。サントリーホールであれば、おそらくこの問題は生じないだろう。けれどもN響のデッドな音は、むしろNHKホールの方が合っているというのが最近の私の印象だ。だが、それも前方の席に限られるのではないか。

私の2019~20年のシーズンは、このようにして始まった。N響の今シーズンの目玉は、10月のソヒエフ、12月のブロムシュテットと盛沢山。1月にはマーラーの「復活」(指揮はエッシェンバッハ)が、6月には第9番(同、ナガノ)がある。シュトラウスも1月には「4つの最後の歌」(ソプラノはオポライス)と「英雄の生涯」(指揮はルイージ)、5月に「アルプス交響曲」(同、ヤルヴィ)が控えている。とても待ち遠しい。

猛暑続きだった夏が去って、台風シーズンが到来。まだまだ不順な天候の続く今年の9月に、次第につらくなっていく我が身の健康を案じながら、渋谷へと続く並木道を歩いた。吹く風が木立をわすかに揺らし、湿気のある風が私の頬を撫でた。

2019年9月19日木曜日

スッペ:序曲・行進曲集(ネーメ・ヤルヴィ 指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)

私が生まれて初めて親しんだ曲は、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲だった。小学校2年生の頃、初めて親に買ってもらった2枚組LPの先頭に、この曲が収録されていたからだ(アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団)。喜歌劇「軽騎兵」序曲は、小学校の音楽の時間に鑑賞する曲でもあった。教科書にその曲の内容が説明されていた。「騎兵隊が馬に乗って威勢よくやってくる。やがて戦死した兵士の墓に参り、しばしお祈りを捧げた後、再び勇壮に走ってゆく」。

中学生の頃になって、カラヤンがベルリン・フィルを指揮した演奏会(大晦日のコンサートだと思われる)のビデオがNHK教育テレビで放映された。ここでカラヤンは圧倒的な集中力で右腕をゆっくりと振り上げ、手首をくるりと回して拳を突き立てる。するとそこで演奏がピタリと止んだ。序奏の休止の直前。申し分のない演奏に、カリスマ的な映像。カラヤン美学の頂点が、ここに示されていた。ポピュラーな小曲でも真剣勝負で演奏する帝王は、ちょっと距離を置いてみると辛気臭いのだが、見とれてしまうのもまた事実である。カラヤンを主役とするこのようなビデオは、まだ映像作品が少なかった時代にも数多く作成され、今では少し古めかしくはなったが、YouTubeなどで簡単に見ることができる。あらゆる角度からフィルム撮影し編集をするという贅沢な作成過程によって、その迫力と演奏は、いまもって圧巻である。

スッペの序曲集はカラヤンも残しており、この他には「詩人と農夫」「ウィーンの朝・昼・晩」のような有名な曲も楽しい。思えば昔は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」だとか、リストの「ハンガリー狂詩曲」だとか、シベリウスの「カレリア組曲」といった軽い小品集を、家族でステレオを囲みながら聞く団らんのひととき、といった時代があった。まだテレビはさほど普及しておらず、ゆっくりとした時間が流れていた。客人が訪ねて来て、レコードを聞くこともあった。テレビが普及した後でも、ドラマやスポーツ中継の合間に放送される演奏会を収録した番組が、週末の夜の楽しみだった。いやクラシックに縁のない家庭でも、洋画やクイズといった、家族共有の娯楽があったものだ。そんな時代が、バブルの時代を境に失われていった。

スッペの序曲集を聞きながら、そんなことを考えた。だが、この演奏は実はSpotifyで聞いている。指揮はネーメ・ヤルヴィ。彼はその録音したレパートリーの多さにおいて、カラヤンを上回るという。私はこの演奏を偶然見つけたわけではない。かつてレコード雑誌などで評価を聞き、購入リストに加えていたものだ。買ったつもりでいたのだが、実際に入手したのはサン=サーンスの管弦楽曲集であると、あとから気付いた。そんなディスクも、簡単に検索、聞くことができるのは画期的なことである。でもその演奏は、もはや誰かと一緒に楽しむこともない。たとえステレオ装置で鳴らしたとしても、音楽を生活の中心にして家族が同じ時間を過ごすことなどあり得なくなった。

代わって音楽の時間を共有するのは、実際のコンサートである。J-POPのような音楽でも、コンサートが占める売り上げが、のびている(このあたりは「ヒットの崩壊」(柴邪典・著、講談社現代新書)」に詳しい)。考えてみれば、これはそもそも音楽を楽しむ手段として、真っ当なことのように思える。音楽とは基本的に、ライヴだからだ。媒体によって楽しむ音楽は、本物の音楽ではない。それを疑似的に楽しんでいた時代は、ここにきてライブという本来の音楽のスタイルをもう一つの中心に据えることによって、本来の音楽の魅力を取り戻しつつあるようだ。無人島へ行くなら仕方がないが、そうでなければ、音楽はライブに限る。

とはいえ、スッペの音楽を生で聞く機会は、大変に少ない。ネーメ・ヤルヴィは時々来日して演奏を聞かせているが、スッペの序曲ばかりを演奏してくれることはまずない。だからSpotifyで聞く意味があるとも思える。スッペの序曲なんて、誰が演奏しても同じではないか、という人もいるかも知れないが、この演奏はちょっとした名演奏だと思う。知らない曲が、次々と出てきて嬉しくなってくる。その合間に、有名曲ももちろん混じっている。「軽騎兵」「美しきガラテア」などだ。

この他に、例えば「ボッカチオ」の行進曲などは、今はなきスポーツ中継の開始音楽のように楽しいし、「軽快な変奏曲」は学生歌「Was kommt dort von der Höhe?(あそこの山から来るのは誰?)」による変奏曲だが、この歌はまたブラームスの「大学祝典序曲」にも使われている。ブラームスはこの曲を「スッペ風のポプリ」と呼んでいたそうだが、ここに意外な接続点があるのがわかって面白い。

愉快な発見はまだ続く。喜歌劇「ファティニッツァ」の主題による行進曲には、シューベルトの「軍隊行進曲」のメロディーが使われている。このように良く聞いてゆけば他にも多くの作品からの転用があるのかも知れない。何せ作品集を見ていると、「フランツ・シューベルト」とか「ヨーゼフ・ハイドン」といった名前のオペレッタまであるのだから。「美しきガラテア」はオッフェンバックの「美しきエレーヌ」に対抗して作曲された経緯もある。ここで同年生まれの二人の作曲家の接点があるというわけである。

ストリーミング配信時代に心配なことは、こういった音楽がCD販売を前提に録音されてきたことだ。その昔、それはまとまった曲の単位を、それなりに時間をかけて練習し、収録したものだろう。だからこそスッペの序曲集も、そのまとまりでリリースされた。だが、何千万曲もあるライブラリの中から、どうしてわざわざスッペの序曲ばかりを聞く人がどれだけいるというのだろうか。しかもそれがヤルヴィの演奏である必要があって、なおかつ、その時間を割くことのできる人が、今後新たに生じる可能性はあるのだろうか。

インターネットの時代になって言われた「ロングテールの法則」というものは、目立たない商品にも触れる機会が平等に与えられることによって、むしろこれらにも一定の売り上げが増えることであり、これまで見向きもされなかった音楽や演奏にも一定のマニアがアクセスできるようになることで、新たなマーケットが誕生するというものだった。だが、この考え方は間違っていたのだろうか。ネットの時代、ますます人は同じものを経験したがり、消費したがる。結局、かつてラジオで一生懸命リクエスト曲を書き送っていた時代よりもはるかに、ごく少数の対象に消費が集中する時代となった。これは文化の衰退に他ならないのではないか。多様性こそ、文化を発展させる基礎だと思う私には、ますますつまらない時代になりつつあるという感が否めない。まあ、私が生きている間だけは、古いものを楽しんでいくしかない、というわけだ。


【収録曲】
1. 喜歌劇「軽騎兵」序曲
2. 喜歌劇「ボッカッチオ」序曲
3. ボッカッチオ行進曲
4. 喜歌劇「スペードの女王」序曲
5. 愉快な変奏曲(学生歌「Was kommt dort von der Höhe?(あそこの山から来るのは誰?)」による)
6. 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
7. 喜歌劇「ファティニッツァ」の主題による行進曲
8. 喜歌劇「モデル」序曲
9. 演奏会用行進曲「丘を上り谷を下って(いたるところに)」
10. 喜歌劇「イサベラ」序曲
11. 喜歌劇「美しきガラテア」序曲
12. 行進曲「ファニータ」
13. 喜歌劇「ウィーンの朝・昼・晩」序曲

2019年9月15日日曜日

オッフェンバック:序曲集(ブルーノ・ヴァイル指揮ウィーン交響楽団)

今年はオッフェンバックの生誕100周年である。ドイツ生まれでありながらフランスに帰化したこの作曲家は、オペレッタの原型を作ったと言われている。そのオペレッタ作曲家として有名なスッペもまた同じ1819年の生まれで、こちらはウィーンで活躍した人である。私はウィーンを旅行した時、意外にもスッペのお墓が大作曲家に混じって堂々と建っていたのを覚えている。
だから今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは、2人の作品がそれぞれ最低1曲は演奏されるものだと思っていた。喜歌劇「天国と地獄」序曲(オッフェンバック)や喜歌劇「軽騎兵」序曲(スッペ)は、かつて取り上げられたこともあったから、私は楽しみにしていたのだが、どういうわけか今年の指揮者ティーレマンは、これらの曲を取り上げることはなかった。

私はオペレッタのような、洒落た気品をただよわせつつも下世話な話が満載の芝居は大好きであり(松竹新喜劇などを思い出す)、またその音楽がさほど難しくなく、簡単に歌えるようなメロディーで甘く切なく、時には乱痴気騒ぎもあるという庶民性こそ大歓迎な聞き手である。同じような人は、意外に多いような気がしているが、クラシック好きというのは、オペレッタを少しランクの低い音楽とみなす習慣があるため、オペレッタなどは人に知られないよう、こっそりと楽しむべきもののようである(私の友人の父親は、音楽家としても有名な家系だったが、その方が無くなって久しい時期に、彼の自宅を訪れたとき、ラックに並んでいた数千枚のLPの中に、少なからぬ枚数のウィンナ・ワルツやオペレッタ全曲盤が存在していたのを、心から嬉しく思った)。

そのオペレッタ音楽の代表格とも言えるオッフェンバックが作曲した数々の作品から、有名な曲を抜き出して集めたCDが、私のオペレッタ・ディスク第1号だった。演奏はウィーン交響楽団、指揮は何とブルーノ・ヴァイル。SONYにハイドンなどの作品を、古楽器オーケストラ(ターフェルムジーク)で残した大御所による演奏と聞いて、これは面白いと思った。実際そうだった。ここでウィーン響は、真面目にこれらの作品を演奏し、録音も素晴らしい。

どの曲も前半は威勢のいい序奏に始まって、ゆったりと美しいメロディーが続くと、途中から何やら動き出したくなる様子。ついに乱痴気騒ぎのような軽快な行進曲に写るという展開。「天国と地獄」と同じだと思えばいい。オッフェンバックは愛すべき歌劇「ホフマン物語」を作曲したことで知られ、その音楽には私は何度も触れているが、100曲にも及ぶと言われる喜歌劇については、これらの序曲を除けば、一度も触れたことはない。


【収録曲】
1. 喜歌劇「鼓手長の娘」序曲
2. 喜歌劇「天国と地獄(地獄のオルフェ)」序曲
3. 喜歌劇「美しきエレーヌ」序曲
4. 喜歌劇「青ひげ」序曲
5. 喜歌劇「ジェロルスタン女大公殿下」序曲
6. 喜歌劇「ドニ夫妻」序曲
7. 喜歌劇「パリの生活」序曲
8. 喜歌劇「ヴェル=ヴェル」序曲


2019年9月9日月曜日

Fête à la Française(シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団)

何度か書いたように、かつて小遣いを貯め、1ヶ月につき1枚まで、などと決めてカタログにいくつかのの目印をつけ、週末になると朝から都会のショップへ出かける。何時間もそこで過ごしながら随分迷ったあげく、次第に聞きたいCD数点と値段を見比べて、目的のうちの1枚あるいは予算内でもう1枚を選別する。そういった、期待と興奮に満ちたひとりで過ごす美しい行為は、Spotifyのようなストリーミング配信の普及によって、完全に過去のものとなってしまった。今ではCDの再生すら困難な時代になりつつある。CDを売る店はほぼ消滅し、CD再生機もほとんど売られていない。一世を風靡したウォークマンやiPodのような再生機でさえ、そこにダウンロードして持ち歩くスタイルが古いものとなった今、変革を迫られている。
ストリーミング配信がもたらした夢のない生活は、私たちの音楽生活を変えようとしている。かつて一生懸命集めたディスクが、いとも簡単に無制限に再生できるというショッキングな出来事も、そのまま外出先でも聞けるというのは、見方を変えれば便利なことであり、かつて候補に挙げながら購入を見送った数多くの演奏に、簡単に触れることができることで、音楽や演奏に対する視野を何十倍にも広げてくれる。しかもその可能性は、比較的低い定額料金で手に入れることができる。

Spotifyで聞くデュトワの指揮する「Fête à la Française(魔法使いの弟子/デュトワ・フレンチ・コンサート)」はまた私にとって、かつて親しんだディスクの思い出をよみがえらせてくれるものだった。今ではどこかに行ってしまったこのCDを、もう聞くことはないかも知れないと思っていたからだ。無くしたからといって再度数千円を投じる気持ちにはないが、機会があればもう一回くらいは聞いてみたいと思っていたのだ。

そのディスクには、フランス音楽の小品が集められている。フランス音楽と言うと、私自身とっつきにくい印象があったことに加え、ここのディスクに収録されている曲には、ほとんど馴染みがなかった。それにもかかわらず、私はいつかこのディスクを上記のように迷った挙句手に入れた。購入した以上、それを好きになるまで聞かないわかにはいかない。投資が無駄になるのは、何としても避けたいと思うのが、この時代のディスク収集家の宿命である。私はカセットテープにダビングして、自宅の車に持ち込み、カーステレオで聞くのが日課となった。このころはほぼ毎日、1時間程度を運転していたから、この演奏は耳にタコができるほど聞いたことになる。こういうことはSpotify時代にはできないことだろうと思う。

ある日、猛暑の中をドライブしていた。締め切った車内はクーラーが効いていて、多少の渋滞も気にならない。そんなときに、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団によるフランス音楽小品集は気持ちの良い時間を約束してくれた。私はこのCDを聞くと、なぜか第二神明道路の下の国道を走行中の神戸市内を思い出す。車内では少しボリュームを落として聞くと、豪華で洒落たサウンドが涼しい車内を満たし、色彩感に彩られたシャープな響きが心に響いてくる。

シャブリエの「スペイン狂詩曲」は、そのような曲の中で、とりわけ私の記憶に残る曲だった。またサン=サーンスの「バッカナール」(歌劇「サムソンとダリラ」)は、このディスクの中では、デュカスの「魔法使いの弟子」と並んで最も有名な曲であり、オーケストラ音楽の醍醐味を聞く思いがする。細部にまで神経を行きわたらせながらも、さりげない手さばきで聞くものを引き込むデュトワの手法は、目立たないながらも絢爛豪華である。勿論、モントリオール交響楽団の技術的水準とデッカの優秀な録音を伴っていることによって、いつもながら完成度の高いものに仕上がっている。

このCDを買った時、そこに収められている曲は、すべて知らなかった。シャブリエの交響詩「スペイン」だってそうだ。こんな有名な曲を、と今なら思うのだが、実際のところこういった小品を聞く時間が、いったいどのくらいあるだろうか。このCDに集められているのは、そんな少し目立たない作品ばかり。歌劇「レーモン」序曲が今では最もお気に入り。サティの静かな2曲がアクセントとなっているが、それ以外の曲の肩ひじ張らない(ように聞こえる)演奏は、最後のイベールの「喜遊曲」まで飽きることはない。



【収録曲】
1. シャブリエ:楽しい行進曲
2. デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」
3. シャブリエ:スペイン狂詩曲
4. サティ:2つのジムノペディ
5. サン=サーンス:歌劇「サムソンとデリラ」よりバッカナール
6. ビゼー:小組曲「子供の遊び」
7. トーマ:歌劇「レーモン」序曲
8. イベール:室内オーケストラのためのディヴェルティメント

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...