2014年12月30日火曜日

ホイアンへの旅-⑦ホイアンの夜


ホテルから町へと向かう無料送迎バスは、夕方の便で2台ものエキストラ車両を追加することとなった。町へと向かって走り始めると、普段は快走する田んぼの中の道が夥しい数のバイクなどで渋滞している。日が暮れかかる頃、ホイアンの町は近隣の村々から繰り出した人々で満杯状態となった。バスの運転手はとうとう途中で客を降ろすという非常手段に出た。私たちは何度も出かけていて慣れていたから、バスを降りて目的地へ向かうことに抵抗はなかった。途中、道端に出ている屋台でドーナツやパンなどを買い、食べながら歩いた。朝来た時とはまるで別の町にいるような賑わいだった。

歴史的な地区の一軒の家の一階で、地元の子供たちが民族舞踊を踊っていた。日本との友好を目的とした催しも開催されていた。「日本橋」のたもとでは子供たちがスイカ割りをしていたのだ。そして日が暮れると大勢の子供たちが、手に灯籠を持って観光客に近づいてくる。彼ら、彼女らは1つ1ドルでその灯籠を売り、観光客は長い柄を使ってトゥボン川へ流していた。私たちは自分の幸福を祈りながら、灯籠が静かに流れていくのを眺めた。無数の灯籠が川いっぱいに広がり、静かに流れて行った。私は「銀河鉄道の夜」に出てくる祭りの情景を思い出した。

満月の夜はあらゆる照明が消され、まさに月光のみで町は輝いていた。足の踏み場もないくらいに混雑する橋を通り、ようやく川向うにたどり着くと、そこでは今日もまた屋台が並び、そのうちのいくつかは大変美味しいベトナム風サンドイッチを作ってくれた。冷たく甘いベトナム・コーヒーが疲れた体を覚醒させる。私たちは帰りのタクシーを探しながら、またもや歩きに歩いた。本日2回目の町歩きは、ホイアン滞在の最後の夜であった。さわやかな風が吹き抜けて行った。満月に照らされたホイアンの町は幻想的であった。私は何か夢でも見ていたような気分で、短かった一週間余りの滞在を終えた。

2014年12月29日月曜日

ホイアンへの旅-⑥ダナンへ


魅力的なホイアンの滞在も何日かが過ぎ、一通りの観光も終わったので、私たちはお土産などを買う必要に迫られていた。ホイアンの町で買えるものは、いつも同じものであった。あれだけ多くの店がありながら、売っているものはどの店も同じものだったのだ。すなわち仕立屋、民芸品、ベトナム料理に使う香辛料やコーヒーなどである。それ以外のものを買おうとしても、どこにあるかもわからない。ある日私はビーチボールを買いに町中を歩き回ったが、あのビニールでできた、日本ならどこにでもあるような浮輪の類(はおそらくすべて中国製なのだが)を発見することができなかった。

つまり工業製品、それに流行の品々はどこにもないのである。

ホイアンの若者は、このような古い町に住んでいることを息苦しく感じているようであった。私たちが服や鞄やそういった少し高級なものを手に入れようと町中をさまよっていると、「ビッグCへ行くといいわよ」と仕立屋の若い女性が教えてくれた。ビッグCとはダナンにあるショッピングセンターだそうである。そして嬉しいことに無料の送迎バスがホイアンからも運行されているらしい。「私は毎週、でかけていたわ」とその女性はいいながら、観光地図に送迎バスの停留所を書いてくれた。そうとなれば是非行ってみよう、ダナンからはタクシーで帰ることもできる。そういうわけで炎天下の町をバス停目指して歩き始めのはいいのだが・・・。

行けども行けどもそれらしいものがない。道行く人にビッグC行きのバス停はどこか、と尋ねても「もう少しだ」「俺のバイクに乗っていかないか」となって、やがては「ノー・サンキュー」。ある中級ホテルのロビーで尋ねると、バスの便は少なく、ローカルバスで行くとよい、とのことであった。ローカルバスのターミナルは、そこからすぐ近くの幹線道路に面している、という風にその地図では見えたのだが、地図は観光地図で縮尺もいい加減、さらに郊外になると遠いところもすぐ近くにあるような書き方がしてあることに私は気付いた(あとでわかったことだが、やはりガイドの地図で一番すぐれているのは、日本語では「地球の歩き方」である)。

大変な暑さの中を家族3人が歩き、やっとたどりついた地元のバス停には、一台のオンボロバスが泊っていて、車体に張られたシールのアルファベットの文字から、そのバスはダナンとホイアンを往復するバスであることがわかった。時刻表を見ると1時間おきという風に見えたので、そういう場合は乗り込んでしまうのが確実な方法である、というバックパッカーの掟に従い、暑い車内に入った。やがて運転手や車掌、それによくわらない人々が三々五々乗り込んできていよいよ出発の時となった。

暑い車内に土埃が舞い込むのを防ぐため、バスは窓のカーテンを閉める。さらに道がでこぼこで常に時速20キロ程度の速さである。そしてこの速さだとダナンまでは1時間はかかると思われた。私たちは睡魔に襲われながらも、開けたまま走るドアから車外へ転落しないように注意していた。途中から道は少し広くなり、大理石を産出する仏教寺院の山(マーブルマウンテン)が見えてきた。ダナンはもうすぐであった。写真などをパチパチとっていたら、後ろから日本語で話しかけてきた若い学生風の女性がいた。「あなたは日本人ですか?」

彼女はホイアンで日本語を学びながら、ホイアンでガイドのアルバイトをしているとのことであった。私がビッグCへ行くと告げると、そこは彼女の家の近くであり、一緒に降りましょう、行き先を案内してあげますよ、と言うのである。そう言えば私たちは、どこで降りればいいのか見当がついていなかった。一応車掌風の太った中年の女性に「ビッグC」と連呼しておいたのだが、バスは繁華街を右に左に走り、確かにどこでおりたらいいのかわからない。

こういう旅行は何とかなるもので、私たちは彼女の案内に従い、ある地点でバスを降りた。彼女はビッグCへの行き方をカタコトの日本語で伝え、私は感謝を申し上げてわかれた。その地点から汚いところを10分程度歩くと、確かにビッグCはあった。もし彼女に会えなかったら、私たち家族はダナンの町でさらに迷っていたに違いない。

彼女はバスの料金のことを訪ね、私が払った金額を言うと「それは良心的な方です。よかったですね」と言った。あとで知ったことだが、何でも料金表のないベトナムでは、公共バスでさえも料金が不明瞭で、特に外国人には何割増しかの料金になることが慣例化しているようである。しかもその裁量権は車掌に委ねられている。いやもしかしたら車掌は、当然のように外国人からは多くを徴収しようとする。あたかもそれが観光客に課せられた義務であるかのように。

ビッグCはダナンにあるショッピングセンターだったが、我が国で言えば、中小都市にある西友かイオンのようなところであった。KFCというファーストフードがあったので、疲れた体にコーラを流しながら休んでいたら、ビル自体が暗くなった。それは数分続いた。つまり停電であった。この停電のおかげでエスカレータが動かなくなっていた。私たちはカートを引きづりながらスーパーマーケットの中をうろうろした。久しぶりに味わう都会の雰囲気であった。

入り口にたむりしているタクシーの一台と交渉し、帰りは多くの荷物を抱えて一気にホテルに帰り着いた時には日も傾きかけていたが、私たちはさっそく水着に着替え、プールで一泳ぎした。バス内で出会った彼女によるとダナンに暮らす日本人は数百人とのことであった。夜になると空に大きな月が現れた。満月は今週末とのことであった。私たちが帰国する前の日の土曜日の夜は、ホイアン中が灯籠祭りで賑わうとのことであった。私たちは満月の夜をホイアンで迎えることができるのを嬉しく思った。ホテルのそばの行きつけのレストランの中庭にある池でカエルを見ていると、息子は帰りたくない、みたいなことを言った。何もない夏の夜は、まさにそれゆえに、とても有意義で気持ちのいい時間であった。

2014年12月28日日曜日

ホイアンへの旅-⑤ミーソン遺跡

チャンパ王国の遺跡は、今でもベトナムに点在している。その最大のものであるミーソン遺跡がホイアン近郊にある。ここは世界遺産として登録されている。あのすさまじいベトナム戦争経てもなお、ラオスへと連なる山岳地帯の入り口に、忘れ去られたように煉瓦を積み重ねて作ったような建物が残っているというのは私に大きなロマンを抱かせた。ぜひこの機会にチャンパ王国の遺跡を見てみたいと思った。

ミーソン遺跡に行くには、タクシーをチャーターするしかない。私はいつも行くホテルのそばの地元レストランで「ミーソン遺跡ツアー」を申し込んだ。朝の約束の時間になると一台のタクシーがホテルに来て(ベトナム人は時間には非常に正確である)、私たちを一台のトヨタ車に案内した。よく見るとドライバーはレストランの主人の弟のようであった。ホイアンの近郊を抜け川を渡り、途中高速道路を通りながら約40キロの道のりを走った。

ベトナムの農村風景をぐねぐねと走りながら次第に山のほうへ入っていくと、入り口に立派な博物館(は日本の支援により建設された)のゲートが姿を現し、そこで入場券を買うと、さらに狭い山道を通り殺風景な駐車場に着いた。大型のバスでやってくる韓国人グループや、HISの旗を持った日本人団体客などが早くも歩き始めていたが、それもお昼までで、一斉に帰ってしまう。なぜなら午後は、暑くて観光どころではないからだろう。私たちも駐車場から遺跡群に向かって歩きながら、うす曇りの天候であることに感謝した。

チャンパ王国は2世紀からベトナムに滅ぼされる17世紀まで存在したチャム族の王国で、交易で栄え、広く東南アジアに勢力を伸ばした。ホイアンはいわばその中心地であり、海のシルクロードの東側の起点にあたる。ホイアンの中心にある「日本橋」が造られた朱印船貿易の頃、日本人町が栄えたのもチャンパ王国の頃と言える。つまりホイアンは日本の東南アジアへのゲートウェイであった。そして興味深いことは、チャンパ王国の国教はインドの影響を受けたヒンズー教(及び後にはイスラム教)であったことだ。その聖地ミーソンの遺跡群は、シヴァ神を祀っている。日本にも近いこのような場所に、そんな文化があることを、恥ずかしいことにこれまで知らなかった。

ミーソン遺跡群にはただ朽ち果てた煉瓦の建物と、内部を改装して博物館風にしてある以外は、さほど見るものもないところであった。その煉瓦も土をかぶり草の生えたいかにも古そうなものから、新たに煉瓦を積んで色を塗り替え、観光地風にしたものまで様々で、どの遺跡がどういう意味を持つかは別途資料を読まないとわからない。だがここでも私は、エジプトのピラミッドやギリシャのデロス島でそうであったのと同様、余りの暑さに観光どころではなくなったというのが正しかろう。それでもわざわざベトナムにやってきて見たインド風の建造物は、仏教文化に興味のある私にとって貴重な経験だった。

緑濃い山岳地帯の中を歩きながら、蒸し暑さと雨季に降ると言われる豪雨、それにベトナム戦争で深く傷ついた遺跡群のことを思った。このような遺跡はゲリラ戦にとって格好の隠れ家となったが、それゆえに破壊された遺跡も少なくない。世界遺産でもなければひっそりと、それこそ見向きもされないような遺跡に囲まれ、そこの歴史が幾重にも重なって存在することの深みを思った。それは何か異様な感じでもあった。やはりここも、ベトナムを考えるときにいつも感じる複雑でとらえどころのないような何かを感じることとなった。

お昼過ぎにホイアンへ戻ってくると、そこにだけ多くの旅行者がいて賑わっていた。今もホイアンは世界中の人々をひきつけているが、それは大昔からそうであったように、様々な文化や習慣が入り混じりながらここの自然や文化に溶け込んでいたのだろうと思う。それがインドシナ半島の南シナ海に面した真ん中辺にあって、今ではベトナム社会主義国の中部に位置している、ということなのだろうと思う。

2014年12月27日土曜日

ホイアンへの旅-④ホイアン市街



タイに比べた場合のベトナムのリゾートの特徴は、何といっても風紀の良さであろう。あのネオンサインだらけのタイのリゾートには、いかがわしい店が公然と並んでいたりするが、社会主義国ベトナムにはそのようなところはほとんどない。ましてここが、近世の面影を残す交易都市となると、クーラーはおろか電気設備もあまりない。実際秋になると町中が水没するような洪水に見舞われるのだそうだ。そのような街に滞在する外国人は、タイと異なり健全である。自転車で付近を散策し、何カ月も滞在する。物価はタイよりも安く、従ってお金はないが長期に滞在したい外国人にはこれほど理想的なところはないだろう。

というわけでホイアンの町へは私たちは、ほぼ毎日昼か夜にでかけることとなった。最初は夕方までホテルのプールで過ごし、日が暮れてから出かけた。だが次第に生活のパターンが変わり、朝から昼にかけて街を歩き、昼過ぎにホテルに戻ってプール、夜はホテル近くの地元のレストランへ行く、といくパターンとなった。夜のホイアンはそれはそれでとても魅力的だが、ゆっくりとショッピングをするにはお昼も捨てがたい。だが日中の町はすこぶる暑い。

ホテルの無料バスが、1日4回往復していて、少なくて使いにくいという意見は多いものの、これを使わない手はない。少なくとも街へ行く際には、これを利用するのが便利である。実際バスの時刻になると、ロビーには毎日多くの人たちが集まってくる。多いときには臨時にタクシーを手配してくれて、乗合なので無料。ホイアンのホテル専用バスターミナルに到着する。ここから歴史的地区までは徒歩で10分程度である。その間も土産物屋やテーラーなどを眺めながら歩く。

ホイアンの中心部はそれ自体が観光地であり、入場券を必要とする。その入場券には博物館などの見どころに何箇所かはいることができるチケットが組み合わされている。ホイアンの中心部に足を踏み入れると、まるで時間が止まったかのような感覚に見舞われる。百年以上はタイムスリップしたような路地には、昔の街並みがそのまま残っている。けれどもその建物はほとんどすべて、土産物屋かテーラー、あるいはレストランである。町の趣を損なわないように気を使いながら、これらの店は多くの観光客を惹きつけている。

テーラーはホイアンを訪ねる際に、欠くことのできない訪問先である、ということを私たちはホテルからのシャトルバス内で知り合ったオーストラリア人姉妹から聞いた。彼女たちは毎年のようにここへ来て、靴やシャツをオーダー・メイドで買っていくというのである。私たちは彼女の推薦する店に行き、スーツ一着とシャツを注文した。勿論、数多くの生地が並べられ、採寸するための小部屋も並んでいる。その中でも最も有名なのが、Yalyというところで、ここはかなり手広くなっており品質はぴか一だが、地元の人に言わせるとめっぽう高いとのことである。それでも日本で同じことをするのに比べたら、大変お買い得と言える。それに旅の記念にもなる。縫製は確かで、ベトナムが世界中の衣料品の工場となっていることが頷ける。服や靴の仕立てには数日かかるので、再び店を訪れ寸法のチェック(直しが必要な場合は対応してくれる)、さらに受取りとなる。

ホイアンの町はそぞろ歩きが楽しい。昼、夜、最低2回ずつは訪れる必要がある。歴史的地区をはずれた界隈にも数多くの店やレストランがあり、それらはTrip Adviserによってランク付けされているので、いい店はどこも流行っている。私は郵便局に行くついでに、バーレー・ウェルと呼ばれる地元のレストランに出かけた。ここでは香ばしく肉を焼き、大量の野菜に巻き、ライス・ペーパーに巻いて食べる。つまり自分で春巻きを作りながら食べる。さしずめ手巻きずし感覚である。

ホイアンの町中にある市場は、訪れるべきナンバー・ワンの場所である。ここで料金交渉をしながら、あらゆるものが手に入る。香辛料やコーヒーなどである。そしてその中のレストラン(屋台のようなところ)で、大変に美味しいカオ・ラウという麺を食べることができる。市場の近くには歴史文化博物館、メインストリートを「日本橋」と呼ばれる来遠橋まで行く途中に、福州会館、貿易陶磁博物館などがある。これらに寄りながら、暑さで歩き疲れたら、川沿いのジュース屋で休みといい。サトウキビのジュースなどは一気に汗が吹き飛ぶ。ボートに乗らないか、と声を掛けられるがそれもまた楽しい。

「タンキーの家」は200年以上前に建てられた中国様式の家である。ここには今でも人が住んでいて、人の家に入る感覚で中を見せてくれる。私が行ったときには入り口におばあさんが横たわっており、そのそばでチケットを聞いてくれた。中には井戸や歴代の主人の写真などが飾られていたが、そのそばで子供がお母さんと遊んでおり、洗濯機が回っていた。

数日後ここの前を通りがかったら、隣の土産物屋が葬儀場になっていた。良く見るとあのおばあさんが亡くなっていた。その葬式は数時間後には終わり、もとの土産物屋になっていた。一人の人間がこんなにも自然に亡くなり、そして自然に弔われ、自然に時間が過ぎていく。考えてみれば、我が国でも少し前までは生と死がごく普通に共存していたのだろうと思う。そう言えばホイアンで毎夜のように行われる灯籠流しも、死者を弔うというよりは幸せを願う行為であるように思えてくる。おそらく両者は連続しているのだろう。実際、流す灯籠を1ドルで売る子供たちはみな、For Happy Lifeと言って寄ってきた。私たちは1つ買い求め、あの亡くなったおばあさんのために流した。彼女の、そして私たちの、これからの幸せな人生を願って。

2014年12月26日金曜日

ホイアンへの旅-③Palm Garden Resort

ホイアンの海側、南シナ海にトゥボン川の河口が広がるあたりに、高級リゾートが並んでいる。その一つが、今回私が滞在先に選んだPalm Garden Resortである。すぐとなりにはAgribankが経営するリゾートもあり、こちらはややローカルだがその先にはNam Haiなどと言った超高級ホテルもある。もちろんリーズナブルなリゾートもあって余分な贅沢を求めなければそのようなところで十分である。料金は10倍程度も違う。

Palm Garden Resortは5つ星ホテルということになっているが、タイやその他の国々の5つ星ホテルと比べるとその違いは歴然である。ここは4つ星クラスと思われる。だが私たちにはそれで充分であった。朝食も必要以上に豪華ではなく、プールも子供連れには十分広いし、すぐそばが海岸で、部屋は広くて奇麗である。私は沖縄の米軍基地内にあったスペース(VOAの中継所だった)を改装したJAL系のホテル、「JALプライベートリゾート・オクマ」に泊った時のことを思い出した。

私たちのホテルの選択基準は、今回も息子のための広いプールであった。子供が騒いでもいい広いプールのあることが第一条件。そしてPalm Garden Resortのプールは、やや変わった形をしており、その一部が子供用として浅く作られていて、広さは他のホテルに比べやや広いと思われた。プールでの日々は今回も忘れられないものとなった。夕方近くになると、泳いでいる人も少なくなり、私たちはプールの一角を占有してWabobaと言われるオーストラリア製のゴムボールを水面に反射させて遊ぶという、日本のプールでは考えられないような遊びを、今回も存分楽しむことができた。一方海は、南シナ海に面しており、波は適度に高く、そこそこ浅い。水も思ったよりきれいに見えたが、実際のところはさほどきれいではないと思う。ビーチ(クア・ダイビーチ)自体は白砂の海岸がどこまでも続き、海岸沿いを散歩すると海辺に面した大衆的なレストランが軒を並べていて、タイのような歓楽的雰囲気を好まない向きには理想的だろう。遠くダナンの町が見え、岬まで見渡せる。

もうひとつのリゾートホテル選びの基準は、ホテル近くの施設である。そしてこれは今回も当たりであった。私たちはホテル内の高価なレストランへは一切行かず、入り口付近に点在するリゾート客目当ての地元のレストランに毎夜出かけた。そのひとつGolden Fishはマスターの男性が片言の日本語を話し、しかも親切で美味しい。カエルの鳴く小さな池の周りで、私たちは毎晩、野菜のたっぷり入ったフォーやベトナム風春巻き、それにバイン・セオと呼ばれるオムレツを食し、ホワイトローズという地元の名物料理も楽しんだ。サイゴン・ビールを飲みながら、ツアーの申し込みをしたり、隣のテーラーに洗濯物を取りに行ったりしているうちに、私たちの素朴で優雅な夜は過ぎていくのだった。色ろりどりのランタンがつるされ、それが池に反射していた。月のあかりが夜のプールを照らし、もうすぐ満月であることを告げていた。

吹き抜けていく風は、夜であれ朝であれ、日本ではほとんど味わうことのできなくなった風であった。毎朝、私たちは朝食をとるレストランで、クーラーの入っていないテラスの席を選んだ。大きなオムレツと大量の野菜の入った麺、それにハムやチーズといった西洋料理をチャンポンに味わうこの国の食生活は、独特の味わいがあった。勿論あの甘くて濃いベトナム・コーヒーを添えるのは言うまでもない。暑い日差しも日蔭に入れば、吹き抜けていく風が快適である。そして今日もまたプール、昼食、プール、昼寝、夕食と続く贅沢な一日が始まると思うと、とても幸福な気分になるのだった。リゾートでの毎日は、この繰り返しにプラスして、少々の観光旅行というのが、ここ数年の私たちのパターンとなっている。

2014年12月25日木曜日

ホイアンへの旅-②ベトナムについて

私がまだ小さいころ「ベトナム」は2つあった。すなわち「北ベトナム」と「南ベトナム」である。学校の先生は「北ベトナム」がソビエトの支援を受けた社会主義国で、「南ベトナム」はアメリカの支援を受けた資本主義国だと教えた。私が熱中した短波放送のガイドにも、北の「ハノイ放送」(日本語放送もある)とは別に、サイゴンにはいくつかの米軍放送などがあると紹介されていた。

南北ベトナムは1960年頃から戦争(第二次インドシナ戦争、つまりベトナム戦争)を始め、それは1975年3月にサイゴンが陥落するまで15年にも及び、死者は500万人を超えた。アメリカ軍による枯葉剤やナパーム弾の使用は世界中の非難を浴び、従軍記者が撮影するベトナムの人々の、沼地を命からがら逃げる姿などを写した写真は、その凄惨を極めた戦場の様子をリアルに伝えた。反戦運動も広がりを見せ、徴兵されるアメリカ人の若者にも反戦ムードが漂っていく。


東南アジアはまだ貧困にあえぐ地域であり、高温多湿な上に衛生状態も悪く、交通や通信といった社会資本などはまだ整っていなかった。そのような国の中でもさらに、長期に及ぶ戦争により開発に乗り遅れた社会主義国ベトナムに、旅行に行くことができるようになる、などと一体誰が想像しただろうか。それも高級リゾートホテルに滞在し、西洋化された部屋でクーラーをかけ、カクテルなどを飲みながらビーチやプールで泳いだ後は、ショッピングを兼ねて世界遺産を訪ねるなどどいう、当時を少しでも知る者にとっては想像できないようなことである。だがそれが今や現実のものとなって久しい。

実際には私には、ベトナム戦争の記憶はほとんどない。むしろ私が驚いたのは、ベトナム戦争が終わった直後にもかの国は、今度は中国との間で国境紛争を起こし、さらにはカンボジアへ軍事進攻してプノンペンを陥落させたことである。一体、戦争はいつ終わるというのだろうか。私は中学生のころに見た、中越国境付近を取材した「NHK特集」の光景が忘れられない。中国から歩いて逃げ帰って来た女の子とその弟は、何もない国境の道に茫然と立ち尽くしていた。雨が今にも降りそうな蒸し暑い熱帯の中を、このようにして命からがら超えてくる難民は、その何年後かにはボート・ピープルとなって南シナ海に現れた。

今にも沈みそうな漁船に何十人という人々が乗り込み、行き先もわからないまま祖国を逃げ出す南の人たち。一体革命とは何だったのだろうか。その行き先に、日本もなった。日本経由でアメリカへ。そう言えばニュージャージーの郊外で南ベトナム出身の人が経営するレストランに行ったことがある。民主党議員の写真などが飾られたその壁には、祖国南ベトナムの写真が、懐かしそうに貼られていた。

私は2014年の夏に、生まれて初めてベトナムへ行くと決めたとき、その歴史について少し知っておこうと思った。それもベトナム戦争をはじめとする近現代史だけでなく、もっと古くからのベトナムの歴史についても、この機会に知ろうと思った。折しも南シナ海の領有権を巡る中国とベトナムとの争いが生じつつあった。万が一軍事衝突ともなれば、家族を危険にさらすわけにはいかず、私のベトナム行きもキャンセルせざるを得ない。それにそもそもベトナムという国は、一体どうしてそんなに戦争にさいなまれた歴史を経なければならなかったのか。私はそのほんのさわりだけでも知っておきたいと思った。

そうしないと、ベトナム旅行は楽しくないとさえ思った。やはり少し古い人間なのだろう。だが大きな書店でベトナム関連の本を探しても、やれ雑貨屋だのグルメだのとやたら写真入りで紹介された旅行ガイド(それはかえって私には違和感をもたらすのだが)しか見当たらないのである。特に若い女性にはベトナムは人気のようで、私のまわりにも行ったことのある人が何人もいた。彼女たちにベトナム戦争の話しをしても違和感が強まるだけである。私はベトナムの歴史について書かれた入門書として「物語 ヴェトナムの歴史」(小倉貞夫著、中公新書)と、比較的軽い読み物として古典的に有名な「サイゴンから来た妻と娘」(近藤紘一著、文春文庫)というエッセイ集、それから「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」で有名な小田実の著作から「『ベトナム以後』を歩く」(岩波新書)の三冊をまずは買い込んだ。

つまり私のベトナム旅行はベトナムの歴史を俯瞰することからスタートした。

ベトナムの歴史を知ろうとして私は、この国の歴史が、すなわち戦争の歴史であることを知ることとなった。もしかしたら戦争こそベトナムをベトナムたらしめるアイデンティティではないかとさえ思った。それはベトナムという国名が、中国による圧力の中で命名された国名であることに象徴的に現れている(「物語 ヴェトナムの歴史」の冒頭)。一方でベトナムは、常に中国に侵略され圧政に甘んじていたわけではない。中国から取り入れた文化を自らの文化に消化し、中国と微妙な関係を保った(この朝貢外交に関しては、朝鮮や琉球にも似たようなところがある)。その反作用としてベトナムは、カンボジア(クメール)や他のインドシナ諸国に対し、侵略を犯している。「北属南進」という言葉は、そのようなベトナムの、二面性を持った国際関係をズバリと言い表している。

ベトナムの歴史は、思うに4つの時代に分けるとわかりやすい。すなわち建国はしたものの中国に支配され続けた10世紀までの時代(何と1000年も続く)、独立国としての時代(1400年頃まで)、二回目の中国支配の時代、そしてフランスの植民地時代から現在までである。近代以降の植民地時代と独立戦争の歴史も、長い中国の圧政と抵抗の歴史の文脈の中で捉えると、より理解が深まるように思えた。このようにして私は、もともと北部に建国されたベトナムが、次第に南部を支配下に収めていく過程を知ることとなった。そして南部には、インドの仏教文化を受け継いだチャンパ王国なる国が存在していたことも初めて知った。

チャンパ王国がベトナムに滅ぼされていくと、ヒンズー文化に代わって北方系の仏教文化がベトナムに入ってゆく。タイとは異なる大乗系仏教がベトナムに栄えたのはなぜかという私の疑問は、ベトナムが直接的に中国の影響下にあったことを知ることによってあっさりと解決した。私が行く予定のダナンには、そのような複雑なベトナムの南北を分け隔てるハイヴァン峠がある。その北部にはベトナム最後の王朝(グエン朝)の首都がおかれたフエ(世界遺産)がある。フエはベトナム中部の代表的な観光地ではあるが、残念ながらベトナムの歴史においてはさほど重要な場所ではない。むしろ私が興味を持ったのは、ダナンから南に30キロほど言ったところにある古い町ホイアンである。ここは長年、交易都市として栄えた歴史を持っており、日本人町もあるという我が国にもゆかりのあるところである。

当時の街並みがそのまま保存されており、町自体が博物館と言ってもいい。トゥボン川に灯籠が流される満月の夜は、月光のみの明かりによって幻想的な光景に包まれる。町自体は数時間歩けば見て回れる大きさだが、私はこの地に8泊もしたので、昼夜を通して何度もここを歩くこととなった。大勢の観光客に交じって地元のお店もあり、天秤に野菜を入れて運ぶ老人などが普通にいたりして風情がある。最初の日、プールやビーチで過ごした私たちは、さっそくタクシーで旧市街の入り口に着いた。そこには様々な形のランタンが、色とりどりの照明をつけて店先に飾られていた。土曜日の夜、人々は大勢繰り出し、トゥボン川にかかる橋は歩くこともできないほどの混雑であった。

幻想的な夜のホイアンの町を歩くととても不思議な気分である。このような観光地が、少し前まで戦禍にまみれた社会主義国の片田舎に存在し、そこに大勢の国籍の人たち(それはありとあらゆる言葉を聞いた)がそぞろ歩いているのである。薄明かりの店内で甘いベトナムコーヒーを飲みながら、私はここが何世紀もの間、世界中の人々を受け入れ、交易で栄えたことを感慨深く思った。長い戦争の期間を経てようやくベトナムは平和を取り戻し、少しの経済的豊かさを持てるようになった。そのことをさりげなく楽しんでいるように、私には思えてくるのだった。

2014年12月24日水曜日

ホイアンへの旅-①到着まで


4月になって夏のバカンスの行き先をいろいろ検討していたら、ベトナム行きの安い航空券が目に留った。お盆の時期、土曜日のお昼に出発して、日曜日の夕方に帰国するパターンで、しかも直行便である。それで燃料費等込み往復6万円もしなかったと思う。私は即座に予約を入れた。

直行便の行き先は、ベトナム中部の都市ダナンである。ここへの成田からの直行便は、後になって知ったことだが7月に入って就航するということだった。航空券が安かったのは、あまり知られていなかったからだろう。だがダナンの近郊には町自体が世界遺産にもなっている魅力的な小都市ホイアンがある。ここのホテルに1週間滞在することに決めた。

直行便だから、初めてのベトナム旅行にもかかわらず、首都ハノイや南部の中心都市ホーチミンにも寄らない。もともとこれらの町にはビーチもなく、バカンスとしては余計な行き先である。それに対しダナンは町自体が南シナ海に面し、付近には美しいビーチが広がっている。8泊9日の滞在は同じホテルとし、空港からホテルなどへの移動はすべて現地でタクシーを拾えばいい。妻はさっそくベトナム料理の教室に通い、蒲田などにあるレストランへ出かけては魅力的なベトナム料理に舌鼓を打つような日々を過ごしながら出発の日を迎えた。

久しぶりに利用した成田空港第1ターミナルには、ベトナム中部へ里帰りするベトナム人の列ができており、やがて小さなエアバス機へと私たちは案内された。ダナンまでの飛行時間は5時間程度で、香港よりは遠くバンコクよりは近い。この時間は、日本から外国に行く便としては短いほうだが、飛行機の旅が歳とともに苦痛となっているな私にとっては十分に長い。だがそれも眼下に湿地帯の広がる大地を目にすると、ついにベトナムへ来たか、という感慨がわき起こった。ベトナムの上空を飛んだのは、初めてのヨーロッパ旅行で香港からバンコクへと向かった時だった。1987年のことである。雲の中から青く長い海岸と深々としたジャングルの森林が見えた。かつてここで激戦が行われた、あのベトナムの大地であった。それもすぐに厚い雲に覆われて、私はメコン・デルタもシェムリアップ湖も見ることはできなかった。

ダナンの空港は意外にも新しい建物だったが、大きさは伊丹空港と同じくらいで雰囲気も似ていた。ただ土曜日の夕方だというのにあまり人はおらず、私たち家族は薄暗い到着ゲートをくぐると、暇そうな銀行で少々の現金を両替しタクシーを探した。タクシーはすぐに見つかりメーターを倒して出発。バイクが渦巻くダナンの町を駆け抜けていきながら、ここは20年くらい前のバンコクのような感じなのだろうか、などと推測した。ロータリーのある広い道を何度も曲がり、近代的な橋を渡ると海沿いの広い道へ出た。高級ホテルや保養地が並ぶ一直線の道をホイアンまで約30分である。

日はもう暮れていた。やがて私たちはPalm Gareden Resortという5つ星ホテルに到着した。引き抜けの広いロビーでチャックインを済ませ客室に案内されると、連日徹夜続きだった妻はぐったりと眠ってしまった。私と8歳の息子はプールのそばにあるレストランで、フォーと呼ばれる野菜入り米粉麺の軽い夕食(すこぶる美味しかった)を済ませ、カエルの鳴き声を聞きながら部屋に戻った。猫やヤモリも大勢いて、ねっとりとした空気が私たちを覆った。浴槽のシャワーが壊れたり水が漏れたりといった一通りのトラブルに対処したら、私も深い眠りについた。暑いとは言っても東京の人工的な暑さとは違う。そして空気が濃い。波の音が聞こえてくるほどあたりは静かで余計な電気もついていない。だから日本の余分な贅沢をすべて脱ぎ捨ててきた気分だった。それはとてもすがすがしい気分でもあった。私はここで過ごす時間が、今日を入れてもたった8日間であることを、早くも残念に思うのだった。

2014年12月20日土曜日

チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71(ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団)

クリスマス・イブの夜、パーティが開かれている。少女クララはドロッセルマイヤーおじいさんからくるみ割り人形をプレゼントされたが、兄フリッツと取り合いになり壊れてしまう。みんなが寝静まった夜、おじいさんに治してもらったくるみ割り人形は、人形の兵隊を率いてネズミの軍団と戦う。クララが投げつけたスリッパで勝利したくるみ割り人形は王子になっていた(王子は冒頭で呪われ、くるみ割り人形になっていたのだ)。王子はクララをお菓子の国に招待し、登場人物たちが踊りを繰り広げる。

このストーリーからもわかるように、チャイコフスキーが作曲した三大バレエ音楽のひとつ「くるみ割り人形」は、クリスマスの時期に世界中で上演される。私もこれまでの人生でたった1回だけ実演で見たバレエは、この「くるみ割り人形」であった(1995年末、ニューヨーク・シティ・バレエ)。

赤いカーペットが敷かれた劇場に着飾った親子連れが大勢見に来ていた。どの客もお金持ちに見えた。特にアメリカの女の子はドレスを着こみ、これから始まるおとぎ話を楽しそうに待っていた。私も今の妻となる女性とここに来ていた。観光客も大勢いた。ホリデー・シーズンのニューヨークはおそらくもっとも華やかな時期である。あの凍りつくような寒さにもかかわらず。

有名な序曲や行進曲は、このバレエを見たことがなくてもどこかで耳にしたことのある曲だろうと思う。それもそのはずでこのバレエ曲の中の名曲の数々は、作曲者自身によって組曲にアレンジされている。この組曲版「くるみ割り人形」は、コンパクトでとても親しみやすいため、録音の数も多い。そして何より現実的な問題として、かつて2枚組のLPやCDを買う予算のなかった聞き手にとって、この組曲はお手軽な入り口だった。だが全曲盤も今では1枚のCDに収まるようになった。

ワレリー・ゲルギエフがマリインスキー劇場管弦楽団(CDではキーロフ歌劇場管弦楽団となっている)を率いて1998年に録音した演奏がそのひとつである。この曲は他の演奏に比べ演奏時間が短いので、このようなリリースが可能だったのだろう。実際に踊る場合には、少し速すぎるのかもしれないが、そのようなことはよくわからない。私はそれでも全曲盤を、単に音楽を聞くだけの楽しみとしても好んでいる。

組曲版と全曲版とでは、曲の並び順が多少異なる。だが後半の第2幕において次々と登場する踊りがこの曲の楽しさであることには違いない。実際に見ても後半になると、知っている音楽が次々と出てくるので身を乗り出して見てしまう。バレエなど興味がなかった私でも、そうだったのだから。

下記に、その全曲版の演奏順を、組曲版で取り上げられている曲に★を付け並べておこうと思う。私が全曲版を好むのは、このような有名な曲に挟まれた曲にも味わいの深い曲があるということに加え、これらの有名曲が少しでも間をおいて、時間をかけて登場してほしいからである(それに「花のワルツ」で終わってしまうのも味気ない)。

チャイコフスキーは叙情的な音楽があふれ出る作曲家だった。音楽の近代化では遅れてきたロシアにあって、洗練された音楽性とやや陰りのあるメロディーがブレンドされている様は、聞き手を間違いな音楽を聞く楽しみに浸してくれる。管弦楽団のゴージャスな響きは、まさにクラシック音楽を聞いている気分にしてくれるのだが、かといってその雰囲気は素朴でもある。かつてロシアでは、もしかしたらとてつもなく寒い劇場で、みなコートなどを来て見ていたのではないかと思う。だから寒い日の夜の散歩に持ちだすにも心地よい。

この曲を初演したサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場は、演奏に対する意気込みも並はずれたものではなかったかと思う。まるでこれこそ私たちの音楽ですよ、と自信たっぷりに演奏するかのおうな素晴らしい腕前を、優秀な録音が支えている。ゲルギエフの指揮もまたしかりである。この曲の録音には数多くのものが出ているが、その中でも屈指の演奏ではないかと思う。子供向けの音楽だと思うなかれ。この演奏で聞くチャイコフスキーは、大人にとっても、かつて子供だった頃に味わったクラシック音楽を聞く楽しみに満ち溢れている。


【演奏順】(★は組曲に取り上げられている曲)

1)序曲★
2) 第1幕
        第1曲 クリスマスツリー
        第2曲 行進曲★
        第3曲 子供たちの小ギャロップと両親の登場
        第4曲 ドロッセルマイヤーの贈り物
        第5曲 情景と祖父の踊り
        第6曲 招待客の帰宅、そして夜
        第7曲 くるみ割り人形とねずみの王様の戦い
        第8曲 松林の踊り
        第9曲 雪片のワルツ
 3)第2幕
        第10曲 お菓子の国の魔法の城
        第11曲 クララと王子の登場
        第12曲 登場人物たちの踊り
            スペインの踊り
            アラビアの踊り★
            中国の踊り★
            ロシアの踊り★
            葦笛の踊り★
            ジゴーニュ小母さんと道化たち
        第13曲 花のワルツ★
        第14曲 パ・ド・ドゥ
            ヴァリアシオン
            金平糖の精の踊り★
            コーダ
        第15曲 終幕のワルツとアポテオーズ

2014年12月17日水曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第6番変ロ長調K238(P:ピエール=ローラン・エマール、ヨーロッパ室内管弦楽団)

若干20分足らずのピアノ協奏曲第6番は、前作第5番よる2年余り後の1770年、ザルツブルクで作曲された。モーツァルトは20歳になっていた。この曲を聞いて最初に思うのは、こじんまりとした美しい曲だということだ。溌剌としているというよりは落ち着いた愛らしさがある。

特に第3楽章のロンドは私も特に好きで、何度かこの曲を聞くうち、第3楽章を何度も聞きたくなった。もちろん第1楽章の気品に溢れたかわいい音楽は、いつものようにピアノと管弦楽が完全なまでに予定調和的な交わりを繰り返す様に聞き惚れるし、第2楽章の、晩年の曲に比較しても劣らない上品さと静かさに、時のたつのを忘れる。それほど美しい曲である。

この曲が第27番の最後のピアノ協奏曲と同じ変ロ長調で書かれていることは、思わぬ発見であった。なんとなく雰囲気が似ているのだ。そして第27番(K595)は私にとって、おいそれとは聞けないモーツァルトの最高峰の曲だと思っている。まるで無色透明な中を蝶が舞っているかのような空間を想像する。

「自然」ということばが思い浮かぶ。ここで言う自然とは、野山や草木などの自然というよりはもっと生理的なものだ。そして何のてらいもなく音楽を紡いでゆくモーツァルトは、ここでもまた超人的である。第3楽章の入り方といい終わり方といい、何と形容していいかわからないのだが、その間に挟まれた中間的な部分にも、転調による色の変化が心地よい。時に聞こえてくるホルンの絡みが、これに味わいを加える。

さて演奏である。私はこの曲をエマールの弾き振り演奏で聞いた。オリジナル風の響きによってこの曲が通常考えられているようにもはるかに大人びた演奏になっている。 そして第15番、第27番とカップリングされているのは、上記のようにこれらの曲が同じ変ロ長調で書かれているからだろう。ピアノ協奏曲としては初期の作品でありながら、晩年にも通じる充実を見せていることを、またこの演奏は示しているように感じられる。

2014年12月10日水曜日

グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16(P:ラドゥー・ルプー、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団)

北欧のノルウェーには一度だけ行ったことがある。それもグリーグの生まれ故郷ベルゲンにまで足を運んだ。首都オスロから急行列車でスカンジナヴィア山脈を越える、世界でも屈指の観光ルートを通ってである。この区間は何としても晴れた昼間に乗車する必要があった。夜行でオスロへ到着し、そのままベルゲン行き急行に乗り継ぎ、フィヨルドを一通り観光すると目的地ベルゲンには夜遅い到着となった。

真夏の北欧は夜10時を過ぎても明るいが人通りはほとんどなく、しかも結構肌寒い。だが私はそのまま夜行列車でオスロへ戻る計画であった。北欧のホテル代は貧乏学生旅行者にとって、とうてい支払うことのできない高嶺の花で、夜行列車をホテル代わりにしていたのである。このようにして7日連続夜行という強行軍で北欧各国を駆け抜けた。いまから思えば無謀な旅行も、決して後悔はしなかった。その時はいずれもう一回来ることがあるだろう、という想定のもとでの旅行だった。だがそれは、北欧に関する限り、一生果たせそうにない。

そういうわけで私のベルゲンの思い出は、夜の駅のプラットホームだけという悲惨なものである。時間をかけて公園を散歩したり、魚市場へ出かけたり、そして少し離れたエデュアルド・グリーグ博物館などへ出かけることなどなかった、というわけである。

グリーグのピアノ協奏曲は中学生の時に音楽の時間に出会った。真面目に鑑賞あいた最初のピアノ協奏曲であった。なぜこの曲が数あるピアノ協奏曲の中から選ばれて教科書に載っているか、私にはわからなかった。友人とベートーヴェンやチャイコフスキーのピアノ協奏曲の方が、よほど印象的だね、などと言い合ったりしていたが、困ったことにこの音楽に関する知識を得ておかないと、テストで点数が取れないということだった。しかも音楽のテストには放送テストがあった。私はそういうわけで、FMからエアチェックしたこの曲の演奏をテープに入れて、毎日のように聞いた。

勿論私は音楽好きだったので、これは楽しい「勉強」だった。いや本当のことを言えば、ラジカセでグリーグのピアノ協奏曲を聞きながら、地理や歴史の勉強をするのが好きだった。このことがきっかけで私は「ながら勉強」族の仲間入りをした。以来大学生になるまで、私は勉強中にラジオや音楽を聞くことが習慣になった。そしてグリーグのピアノ協奏曲は、私の大のお気に入りの曲になった。

旅行ガイド「地球の歩き方・ヨーロッパ編」のノルウェイの章に、この曲のことが書かれていた。フィヨルドの断崖絶壁を、第1楽章の冒頭は表しているのだと言う。 なるほどそう言われればそういう気がする。ベルゲン急行を途中下車して、途中滝のある駅に停車しながら、ソグネ・フィヨルドの観光船が発着する深い入り江の小さな町に降り立った。見上げた崖は息をのむほどに圧倒的だった。

観光船に揺られながら、静かな深い海を進んだ。こんなに寒いのに日光浴をしている人がいる。それも誰もいないような岩の淵に、どうやって行ったのだろうというような狭いところで。白夜の太陽がまぶしいからと言っても、そびえる山に太陽は早く沈む。夜ともなれば人もほとんどいない寂しいところだろうと想像した。冬ともなれば日は山の上には登らず、日照時間などないような土地だろう。やがて私はまた誰もいないような小さな町に着き、置き去りにされないかと心配して早々に乗り込んだ乗客で満員のバスに揺られて急こう配を駆け上がり、ベルゲン急行の駅に戻った。

北欧の澄んだ空気と、静かで明るい光景が私の脳裏に焼き付いている。この曲を聞くと、さらにそこに寂しい叙情的な空気が漂う。毎日テストが近付くと、自室の部屋に籠って夕方いっぱいを勉強で過ごした中学生時代が思い出されてくる。第2楽章の雰囲気は、そういうわけで今でも胸を締め付ける。

私の昔からのお気に入りで、おそらく最初に聞いていたであろう演奏が、アドゥー・ルプーによるものだ。この演奏は今でも評価が高い。先日もNHKラジオ「音楽の泉」を日曜日の朝に聞いていたら、この演奏が紹介された。ルプーは一音一音を大切にしながら、繊細でそこはかとない叙情性が染み入るような演奏をする。アンドレ・プレヴィンの音楽に溶け込んだハーモニーと、絹のようなアナログ録音が実にいい。

今でもこの曲を聞くと、様々なことを思い出すのだが、不思議に懐かしいというものでもない。むしろあの畏敬の念をも抱かせるような大自然を前にしたときに感じる、自覚すべき人間の存在の厳しさのようなものを感じていた若いころの自分の姿を発見するのである。第3楽章のスケール感も、このことを一層加速させる。だからこれはやはり、大人になりかけの多感な中学生の頃に聞くに相応しい曲なのだろうと思う。

2014年12月6日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第5番ニ長調K175、ロンドニ長調K382(P:イエネー・ヤンドー、マティアス・アンタル指揮コンチェントゥス・ハンガリクス)

モーツァルトのピアノ協奏曲は第27番まであるが、そのうち実質的な最初の作品が第5番ニ長調である。この曲は1773年、モーツァルトが17歳の時ザルツブルクで作曲された。若書きの未熟な作品だと思ってはいけない。それどころかさすが天才の作品である、と素人の私でも言いたくなるほど、充実した作品であると思う。

後半の、特に第20番以降の作品が、歴史に名を残すとはまさにこういうことかと思うような溢れる先進性と類まれなる完成度、そして完璧な芸術性を備えているために、モーツァルトの初期のピアノ協奏曲はあまり取り上げられることが少ない(例外は第9番だろう)。けれども交響曲の初期先品とは異なり、これらの作品はどれ一つをとっても、モーツァルトの素晴らしい音楽を堪能できる。第5番にして早くもこんな作品を作っていたのだと改めて感心する。

思えばモーツァルトを聞く喜びの原体験は、このような作品だったかと思う。天真爛漫と言えるような楽天的な響きの中にもエレガントな才能を感じさせることで、非の打ちどころのない、丁度いい乾いた明るさを持っている。リズムは落ち着きながらも小気味良く滑らかにすべり、すべての和音は耳を洗うように心地よい。その音符は適度な度数を持って上がったり下がったり、その間をピアノが駆け抜けていく爽快感。お正月の朝のような新鮮な気持ちになる。

第1楽章のアレグロはまさにそのような曲だ。このような形容詞をここで書きならべてしまうと、このあとの作品で何を書くべきか迷うが、まあそんなことはどうでもよいだろう。とにかく次から次へとメロディーがあふれ出てくる若きモーツァルトの、屈託のない感性がとても心地よい。

第2楽章のアンダンテの、春の野原で戯れるような気持ちにしばし我を忘れる。音楽を聞く喜びとはまさにこういうことを言うのだ、などと考えながら。何の気取ったところはなくても、このような曲をスラスラと書けたというのは、驚くばかりである。

曲が曲だから、どのような演奏で聞いても素晴らしいに違いはないのだが、私のモーツァルトのピアノ協奏曲体験を深めた最初の一枚から、ナクソス音源の録音を久しぶりに聞いてみた。まだCDが高かった頃、モーツァルトのピアノ協奏曲全集は、私にはなかなか手が出なかった。ペライアも内田光子も、とてもいい演奏ではあるが、これらは発売直後で大変高かった。それに比べると一枚あたり1000円で買える新譜録音は衝撃的だった。

私はイエネー・ヤンドーというハンガリー人ピアニストの演奏する全集を、上記の理由から買うことになった。だがその演奏は予想に反して、大変充実したものだったのである。録音もいいし、伴奏と努めるオーケストラもまったく不足がないばかりか、下手なメジャー録音よりはるかにいいのである。 強いて言うならストレートな、さっぱりとした演奏である。それだけにモーツァルトの曲の良さが飾り気なく伝わってくるところに好感が持てる。ビギナー向けの全集ということである。初期の作品は、そういうわけでこの録音さえあれば、当面は良かった。

いや実はカップリングされた第26番K537「戴冠式」もめっぽう素晴らしい。「戴冠式」は晩年の作品ながら初期の作品のように気取らない作品なので、このニ長調の組合せは、この全集の中でもとりわけ完成度が高いような気がする。

第3楽章は再びアレグロとなって、ティンパニーも加わる充実した曲だが、モーツァルトはこの曲を大変気に入り、しかも後年、第3楽章を新たに作曲している。それがロンドニ長調K382である。この曲は独立した曲としても有名で、コマーシャルに使われたり音楽番組の開始音楽に使われたりしている。一度聞いたら忘れられないような曲である。パッパッパと刻むようなリズムはこの当時の流行だったのだろうか。そう言えばハイドンのこの頃の作品にも、似たような節の曲があったような気がした。


2014年12月2日火曜日

R.シュトラウス:管弦楽曲集(ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

今年亡くなった音楽家の一人にロリン・マゼールがいる。私はマゼールの演奏を特に好んでいるわけではないが、悪くはないと思っている。そして過去に4回、生演奏を聞いているがそのいずれもが大変感動的で、こういう指揮者は他にいない。だからマゼールの死を知った時は、これでもう彼の演奏を聞くことはできないのか、と残念に思った。8歳の時に初めてオーケストラの指揮をしたという天才指揮者は、最近でも健康に見えたのだが、それでも老いには勝つことはできなかった。

マゼールの指揮したCDを、コレクションの中から取り出して聞いてみることにした。何枚か候補はあったが、リヒャルト・シュトラウス没後150年ということもあり、管弦楽曲集を取り上げることにした。このCDは米国でのみ発売されたドイツ・グラモフォンのDG Concetsシリーズの2005/2006年版で、ライヴ録音。ジャケットにはエイヴリー・フィッシャー・ホールの正面写真が使われており、演奏の後には熱狂的な拍手も収録されている。ニューヨーク・フィルの定期演奏会は通常、4回程度同じプログラムで演奏され、前日には公開のゲネプロまであるから、それらから組み合わせて収録したのだろうと思う。

 「ドン・ファン」の冒頭からマゼールならではの芸術的官能美が堪能できるが、生演奏ということもあって徐々に熱を帯びてくる。決して醒めた演奏に終始しないのは、この指揮者が実は実演向きであることを示している。けれども発売されるCDはスタジオ録音が多かった。しかも作為的とも思えるようなフレージングに人工的だと批判されたり、計算されすぎたアンサンブルに優等生的で教条主義的と言う人もいたが、そうだとしても私はマゼールのそのようなところが好きである。その真価が良く現れているのが、やはりリヒャルト・シュトラウスの演奏ではないかと思う。「七つのヴェールの踊り」でも「ばらの騎士」組曲でも、いろいろな意味でこれはマゼールらしい演奏であると言える。

そのマゼールを初めて聞いたのは、カーネギー・ホールにおいてフランス国立管弦楽団を指揮したときのことだったと記憶している。このときのメイン・プログラムはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」で、やはりアーティスティックな演奏。アンコールが二曲もあって、最後の「アルルの女」から「ファランドール」が聞こえ始めると、満面に笑みを浮かべたご婦人の客が印象に残っている。

2回目は大阪で聞いたフィルハーモニア管弦楽団のベートーヴェン・チクルスの一つで、交響曲第6番「田園」と第7番の組合せ。この「田園」の第2楽章以降の演奏は、舌を巻くほど見事で、私はすこぶる興奮したのだが、続く第7番がこれ以上ないような名演になったことは言うまでもない。アンコールの「エグモント」序曲に至っては、会場が割れんばかりの拍手に包まれた。今思い出しても体温が上昇しそうだ。

3回目は再びニューヨーク。ピッツバーグ交響楽団の音楽監督の最後を飾る演奏会にジェームズ・ゴールウェイを招き、彼にささげられた自作の曲「フルートとオーケストラのための音楽」を披露した。ゴールウェイはさすがで、マゼールの曲もアーティスティックで面白かった。「バルトークは名演奏だがやや生真面目か。この演奏会でこのコンビの有終の美を飾った」とメモに残している。

第4回目は昨年の東京でNHK交響楽団の定期公演。ワーグナーの「指輪」の音楽を自らが編曲し、70分を超える長大な音楽絵巻「言葉のない『指輪』」を披露した。このときの印象は以前にブログにも書いた。

このように見てみると、マゼールの演奏はいつも最高水準を維持し、しかもそれを実に多くのオーケストラと実現させている。売られているCDを検索してもマゼールほど多くの管弦楽団と録音を残した指揮者はいないのではいか。これはそれ自体、マゼールの才能のなせる技だと思う。マゼールはこのような指揮活動に加えパフォーマンスもうまい指揮者で、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは80年代とそれ以降にもいくつもの名演奏が残っている(1994年など)し、ニューヨーク・フィルの平壌公演などは記憶に新しい(この公演がハイビジョンで中継されたのには驚いた)。

さらに個人的にCDで忘れられないのはヨー・ヨー・マと共演したドヴォルジャークのチェロ協奏曲だが、この「オフレコではないか」と揶揄された完璧に計算的な演奏は、別の機会に取り上げようと思う。また戦後の巨匠が一人亡くなった。享年84歳。


【収録曲】
・ドン・ファン
・死と変容
・七つのヴェールの踊り
・「ばらの騎士」組曲


東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...