2012年1月31日火曜日

ビゼー:歌劇「カルメン」(The MET Live in HD 2009-2010)

マスネーの「タイース」、オッフェンバックの「ホフマン物語」に続いてビゼーの「カルメン」を見た。フランス語のオペラを3つ続けて見たことになるが、Met Live in HDにて比較的有名なオペラを見るのはこれが初めてである。私はできるだけ今まで見たことのない作品を見ることにしていて、既に実演等で見て知っている作品は、どちらかと言えば避けてきた。同じお金と時間を割くのなら、見たことのない作品を見たかったからだ。

だが今をときめくラトヴィア出身の歌手エリーナ・ガランチャがカルメンを歌うとあってはいてもたってもいられない。そういうわけで今日も東劇に足を運んだ。相手のテノール、ドン・ジョゼはロベルト・アラーニャでこれがまたいい。指揮はヤニック・ネゼ=セガンという若い指揮者、カナダ人だそうである。

「カルメン」を初めて見たときに比べると、今では落ち着いてストーリーを追うことができるようになった。思えばこれまでは、次々と繰り広げられる豪華な舞台と有名な歌の数々にすぐに興奮してしまい、気がついてみると終わっている、という感じだったと思う。クライバーのウィーン公演をテレビで見た時も、アグネス・バルツァの舞台も、マゼールによるオペラ映画でも、はたまたオッターの個性的な演技も、私はその都度音楽と歌に打ちのめされ、興奮が冷めやらぬうちにその詳細を忘れてしまうのだった。 オペラの面白さ、楽しさをそのころも熱く語ってはいたが、冷静に考えてみると私はただ圧倒されながら、本質的な部分まで理解していたかは疑わしい。

20代の頃までとは違って、いまではもう少し客観的にオペラを見ることができるようになった。するとカラヤンのCDもレヴァインのDVDも、今や「カルメン」と聞いただけではあまり興味をそそらなくなったし、それよりも他にまだ知らない、見るべき作品が山ほどあるではないかと思うようになった。

舞台でも「カルメン」は見ている。ニューヨーク・シティ・オペラと小澤征爾音楽塾である。だがいずれも綺麗にまとまってはいるものの、新たな発見は徐々に少なくなっていった。仕方がないことなのかも知れない。今回の「カルメン」もそういう点で大きな発見をするには至らなかった。ただ、カルメンのガランチャはこれまでの「カルメン」の中では最高だったと思う。

歌の点でも演技の点でもそれは断言できる。特に最終幕でのアラーニャとの演技は、まさに手に汗を握る迫真の演技だった。カルメンが押し倒されるシーンもカメラがアップで捉えるので、余計にそう感じたのかも知れない。この2人はその容姿も相まって、現在望みうる最高のカルメン&ホセのカップルだったのではないかと思う。

一方ミカエラ役のフラットリは、この役を歌うにはやや大柄で強力な感じのするところが賛否を分けるだろう。歌はいのだが、もう少しリリカルだといいのにとも思うのは私だけか。エスカミーリョはピンチヒッターで上演わずか3時間前にキャストとなったタフ・ローズという人だった。長身で恰好がいいが、何と32歳までニュージランドで公認会計士をしていたというから驚く。

レチタティーヴォでつなぐウィーン版による上演は、今では珍しい方かも知れない。音楽に連続感をもたらすものの、私は何となく劇が陳腐になってしまうような感じを抱いてしまう。演出のエアは第2幕の間奏曲にもバレエを挿入したり、岩山のシーンにまで子供を登場させるなど、ややかしましい演出で焦点がぼやけている。素人受けがするし、たしかに主役の2人に文句のつけようはないが、良く知っているだけにいろいろと考えてしまう公演だった。もしかしたら、収録上の問題として音楽と歌の音が分離しすぎていたのかも知れない。ネゼ=セガンの指揮は、活気に満ちグイグイとひっぱるタイプ。間延びするよりははるかにいいが、緊張感を維持し過ぎようとして大変疲れるような気もした。

(2011/09 東劇)

2012年1月30日月曜日

オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」(The MET live in HD 2009-2010)

三つの失恋エピソードが順に語られるというのがこのオペラのあらすじで、大袈裟な音楽とは裏腹に至って簡単。たくさんの人物が登場し第5幕までもある長いオペラだが、文学的な深みには乏しいような気がする。主役級の女性が4人も登場するのだが、主人公は標題役の男性詩人ホフマン(テノール)である。

本上演ではそのホフマンを、マルタ出身の若手ジョセフ・カレーハが歌うことがまず注目される。この役は長年プラシド・ドミンゴのはまり役で、当然METでもドミンゴ以外の歌い手が歌ったことは近年ない。いやジョン・サザーランドと共演した昔のボニング盤でも、この役はパヴァロッティではなくドミンゴだったし、小沢盤やその他の公演でもドミンゴ、またドミンゴである。

それほどドミンゴの印象が強い作品にいきなり挑むというのは、大変だったと思う。だが無難にまとめるだけでなく、なかなかの好演だった。若いとは言え落ち着いた雰囲気で、詩人としての風貌もなかなかはまっている。当たり役だと思った。そしてその声は、トロヴァトーレのマンリーコを歌わせたいような感じだ。少し息継ぎが気になるところもあったが、手堅い演技は静かな熱を感じた。

もう一人、重要でしかも実力と体力が必要とされるのが、4人の悪役をひとりでこなすアラン・ヘルドである。長身で低い声は、重唱の要でもある。さらにもうひとり、女性が歌う男役のニクラウスが、この作品の成功の鍵を握っている。それはケイト・リンジーによって歌われたが、インタビューを含めなかなか好感のもてる歌手である。この3人の手堅い実力が、この公演を成功に導いたと思う。指揮は音楽監督のジェームズ・レヴァイン。病気でしばらく見なかったが、風貌も指揮姿もまあ健在のようだ。嵐のような拍手は、レヴァインに多く向けられた。私は何十年も前からメトの映像を見ているが、いまだにレヴァインが旺盛に指揮するというのは大したものだと思う。

さて。そのような素晴らしい3人・・・詩人ホフマン、ズボン役ニクラウス、悪役が常に舞台に登場し、その歌声がしっかりとしているのでそれだけでも見事なのだが、これに加えて(当然のことながら)ソプラノが3人登場する。もちろんこれが各エピソードでのホフマンの失恋相手である。

サザーランドのCDでは一人彼女が演じるのだが、今回の舞台は3人の歌手がそれぞれの持ち味を発揮して、これもまた見ごたえが十分。その3人とは、今回の登場順に機械人形オランピアを演じた韓国人キャスリーン・キム、病死する歌手アントニアを演じたアンナ・ネトレプコ、さらにベニスの娼婦ジュリエッタを演じたエカテリーナ・グバノヴァである。この豪華なメンバーが次々に登場してくるので、もはやそれがどうのこうのという次元を通り越して、凄いの一言である。

なおホフマン物語には決定稿がなく、演奏の内容もしばしば異なる。今回は上記の順に演奏されたのだが、私としては登場順に違和感はなく、むしろ順に話が盛り上がっていく感じがして面白い。それはホフマンの恋愛の軌跡としても自然であり、またあの有名な舟歌が後半に出てくるのもいい感じだ。

ソプラノの3人はそれぞれ違った歌の傾向を持っている。最初のオランピアは機械人形だが、彼女の超技巧的アリアは今回の最大の見どころのひとつであったことは疑いがない。小柄な彼女は丸で本物の人形であるかのような演技を続けながらほぼ完ぺきにこのシーンを歌い切り、その喝采はまたたくまに本上演を記憶に残るものにしたのだ。

次に登場したネトレプコについては、もはや何も言うことはないと思う。ロシア生まれの彼女は今や世界最高のソプラノであり、その声の貫録はさすがである。最後にステラとなって現れるのもネトレプコで、舞台での役もオペラ歌手である。

グバノヴァは登場時間がやや短いが、この娼館のシーンは演出上の効果も良く見ごたえがあった。4つの幕が終わってエピローグになると、ニクラウスを演じていたリンジーが、清楚なドレス姿となってミューズ役で登場。説得力のある歌声で最終シーンを締めくくる。このニクラウスこそ本作品の隠れたテーマである。詩人ホフマンにとっての親友の彼こそ、少し議論してみたくなる意味ありげな存在である。だが、そのような難しいことを考える間もなく、3時間に及んだ劇は華々しく幕を閉じる。オペレッタを確立した作曲家が死の直前に残した唯一の歌劇が、このようなドタバタ劇一歩手前の作品であったことを私は恥ずかしながら初めて知った。

案内役はデヴォラ・ボイト。機知にとんだインタビューは今回も楽しい。こうなったら明日の「カルメン」も見て、フランス・オペラ三昧と決め込もうかと思う。

(2011/09 東劇)

2012年1月29日日曜日

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」(The MET Live in HD 2009-2010)

「アイーダ」の見どころは後半の2つの幕であることは、初めてこの作品を見た時に思った。今から20年以上も前の1989年、ヴェローナの野外オペラが来日し、東京ドームで行った公演をテレビ(フジテレビだったか)で見たときだ。この公演は観客のマナーが悪く最悪だったようだが、初めてテレビで見るその舞台に目を見張っていた。

だが有名な凱旋のシーンが早くも第2幕で終わってしまうのである。ええ?まだ物語は続くのに、このあとは何を見ればいいの?などと大学生の私は素人丸出しの気持ちで続きを見続けていた。ところが第3幕、それに第4幕が聞かせるのである。

 翌年、私はロミオとジュリエットで有名なヴェローナの野外劇場の前にいた。8月となると猛暑となる北イタリアの小さな都市は、有名な「アイーダ」を見ようとする観光客であふれており、私も飛び込んだホテルに「privato(従業員用)」の部屋を特別にあてがってもらって、やっとのことでベッドを確保した。

古代ローマ時代に建てられた円形野外劇場はそれだけでも巨大で、ローマのコロッセオよりも大きいのではないかと思われた(実際にはコロッセオに次いで2番目の大きさだそうだ)。そこに詰めかけた何千もの観客が、幕が始まる前には手に蝋燭をともして開演を待つ。日が暮れからる夜の10時頃から始まるので、観客席が蛍の乱舞のように輝き、満点の星のようだ。舞台に指揮者のサンティが登場すると、早くもブラボーの嵐となった。

第2幕。その凱旋のシーンはこの劇場の半分を使った壮大なもので、大スペクタクル!登場する象や馬もその大規模な光景の中では大層小さく見える。階段上に何百もの兵士がピラミッド状に並び、決して座り心地の良くない席だったが、私は感激に酔いしれていた。

だが、この時も私は第3幕と第4幕の歌の美しさがとても印象に残った。その2ヶ月後、私はエジプト人の友人を訪ねてヨーロッパからカイロに渡り、本物のピラミッドやモスクを見て過ごしたのだが、彼の家にあったビデオテープが、実は彼が日本滞在中に保存したあの「アイーダ」で、私は再び本場で日本公演のアイーダを見るはめになったのである。 彼はクラシックなどはほとんど興味がなかったようだが、ことエジプトに関しては思い入れが強く、日本滞在中に買ったVHSビデオデッキに日本のコメディ番組などを大量に録画して帰国し、楽しくないエジプトのテレビを消して見ているようだった。

私のアイーダの体験は以上である。テレビでオンエアされたスカラ座公演(マゼール指揮)や、メトロポリタン歌劇場の評判の公演(レヴァイン指揮)は、録画して保管したが通して見たことはない。いやメトのものは第2幕までは見たが、野外劇場の思い出が強すぎて、劇場の中で行われる舞台の限界を好めなかったというのが本当のところであった。

ところが今回見たアイーダの公演は2009年のものだったが、どこかで見たことのある舞台だと思った。それもそのはずで、メトではもう20年以上も同じプロダクションだったのである!さすがに象は登場しないが馬は登場する。そして何百もの兵士や奴隷たち!この作品はアメリカ人に人気があるのだろう。だが本当はそのような舞台の壮麗さと同時に、見事な歌唱のオペラなのである。その本当のところを、今回改めて思い知った。

3人の主役級歌手は、みな実力派で体格も見事である。それだけでも迫力がある。すなわちアイーダのウルマーナ、アムネリスのザジック、そしてラダメスのポータである。ザジックは先日見た「イル・トロヴァローレ」でアズチェーナを歌った圧巻のメゾ・ソプラノで、何とこの役を250回も歌っているという。その円熟した安定感は、アイーダと張り合う闘志むき出しの表情である。

ラダメスは前のビデオではドミンゴだったが、私はドミンゴという歌手は特に晩年、何を歌っても同じような役に聞こえてならない。その点、ボーダのラダメスはいかにも葛藤の滲むエジプトの将軍でなかなかいい。ウルマーナは清楚なアイーダという感じではないが、まあ、エチオピアの王の娘ということでそれもありか。歌はさすが。第4幕の最後ではピラミッドの墓の中と外で二重の舞台が形成され、死後の世界は孤高の愛の姿へと昇華していく。

私はこの舞台を見て、ヴェルディの作品を一貫して貫くテーマに気付いた。それは「心の葛藤」である。初期のベルカント風作品も、「リゴレット」や「椿姫」に代表される傑作の多い中期も、そして「オテロ」に至る後期の作品も、それはほとんどすべての主役級登場人物に現れる共通した要素なのだ。どんな地位でも場所でも、葛藤に悩む人間の姿は悩ましく、不完全で、そして罪深い。矛盾した境地に陥った人間が悩む二律、あるいは三律背反に複雑な社会を生きる現代人が共感しないわけがない。ヴェルディの音楽は、それゆえに今日も愛され続け、そして上演されているのだ。

(2011/09 東劇)

2012年1月28日土曜日

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」(The MET Live in HD 2008-2009)

歌劇「夢遊病の女」はスイスの村が舞台である。結婚式の前夜、夢遊病の新婦がふと滞在する伯爵の部屋で寝てしまったことから騒動が沸き起こるが、これは夢遊病のせいであることを皆が知って一件落着となる、といういつもながらの荒唐無稽なドラマ。だが、美しい歌が次から次へと歌われるベルカント・オペラの珠玉の名作として知られるだけに、見ごたえは十分である。

数年前のディスクで決定版と称されたナタリー・デセイがアミーナを歌い、指揮はその時と同じピドである。これに今は飛ぶ鳥を落とす勢いの最高テノールで、歌劇「連隊の娘」で一世を風靡したフアン・ディエゴ・フローレスが加わる。やはりメトならではの望みうる最高キャストである。

演出はジマーマンという人だが、ボイトの案内でも明らかなように、舞台は何とマンハッタン、ユニオンスクエアに近い劇の稽古場に変わっている。そこで練習中のストーリーがスイスの村、という劇中劇の形を取るのだ。

この作品は極めて有名である割には、ディスクが少ない。おそらく、マリア・カラスのモノラル録音を筆頭に、定番のジョーン・サザランド盤を除けば、後はこのデセイ盤くらいで、昨年リリースされたバルトリ盤が続く。よって、4種類を聞けばだいたいどういう作品かがわかるのである。

私はiPodに入れたデセイ盤とバルトリ盤を時々聞くが、やはりフィナーレのアリアは圧巻である。ところがそのシーンを初めて映像で見たのだが、やはりここで胸に迫るものがあった。オペラをこのような形で見ることのできる喜びが、夢遊病から覚めて意匠を着換え、村人に混じって踊るアミーナの表情に重なって、恍惚とするシーンだった。

夢遊病のシーンでは、第1幕で何と客席に登場したアミーナは、第2幕で舞台の一部がオーケストラの上部に突き出してきて、指揮者の前で歌うという立体的シーンも、よく調整されたカメラが効果的に映し出し、観客のブラボーも最高潮に達した。

 カーテンコールは幕の内部を映し出し、出演者が抱き合うシーンも見せるが、余韻に浸ったまま終わるので、気分良く映画館を後にすることができた。2時間のオペラも休憩やプレビューを挟んで約3時間、猛暑の日中を涼しい館内でくつろぐことを考えれば、3000円でもまあいいか、という感じである。同じ映像はBSハイビジョンで放送されたのでブルーレイ・ディスクに録画してあるが、とうとうこちらの方は、見る機会を逸したままとなっている。

(2010/08 東劇)

2012年1月27日金曜日

マスネー:歌劇「タイース」(The MET Live in HD 2008-2009)

2011年も夏になってMet Live Viewingのアンコール上映が続いている。その中から2008-2009シーズンに上演された演目の一つ、マスネー作曲の歌劇「タイース」を見た。「カルメン」を除けば、実のところ私の初のフランス・オペラ体験であったし、あらすじはおろか一曲のアリアも知らない。いや「タイースの瞑想曲」だけはどこかで演奏されるのだろうとは思っていたが、それがこういう風に使われていたとは・・・。

舞台は4世紀のエジプト、身分の違う恋愛とくれば「アイーダ」を思い出す。また遊女が真実の愛に目覚めながら死んでいくフランス物、となれば「椿姫」を思い出す。だが「タイース」はこのどちらとも違うストーリーである。それどころか本作のテーマである「キリストへの愛」は、そのどちらの作品よりも深い。であるにもかかわらずオペラとしての人気はこれらの作品には及んでいない。その原因はもしかすると、音楽的な完成度の差にあるのだろうか・・・。

「タイースの瞑想曲」は第2幕の間奏曲である。コンサートマスターが立ち上がり、見事なソロを奏でると熱狂的なブラボーに包まれる。盛大な拍手。このようなシーンは非常に珍しい。その間に舞台裏は次の場面の準備中だ。カメラは両者を巧みに切り替え、音楽の緊張感を失わせずに舞台裏をのぞく。甘美なそのメロディーは、それだけでこの作品が後世に残る理由となっているが、実はここのシーンが全体の折り返し地点である。この「瞑想曲」を境にした二人の主人公の心理的変化(トランジション)こそ、本作品の見どころだと主役を演じたルネ・フレミングは案内役のプラシド・ドミンゴに話す(第2幕後の映像)。

標題役を歌うフレミングが、全編にわたって次から次へと歌うのが本オペラの醍醐味である。もちろん相手の修道士アタナエルを演じるトマス・ハンプソンを忘れてはいけない。だが、このバリトンとソプラノの組み合わせこそが、この作品に暗示された行方を物語る。つまりこの二人は別々のところ(修道院と娼館)から来てめぐり合い、心理的昇華のプロセスを経てそのまま別の方向へ進んでしまうのである。

あの甘美なメロディーはキリストへの愛と現世の欲望の間を揺れ動く心理がそのモチーフだと言われる。だが全体的な印象としては、人間性の複雑な矛盾がもたらす悲劇というものを描き切ってるというほどではない。またベルカントオペラのように歌唱の妙味に酔うわけでもない。

これはこのプロダクションの問題か、作品そのものの問題か、よくわからない。けれども、ときおり音楽の美しさにうっとりとするのはやはりオペラ醍醐味であろうし、指揮者のヘスス・ロペス・コボスがしっかりとした指揮を司っているからだろうと思う。

Met Live Viewingならではの舞台裏へのアプローチは、本作品ではとりわけ効果的である。これは場面展開が多いからだ。ドミンゴによる主役二人へのインタビュー(は舞台裏で行われる)に加え、瞑想曲のソロを演奏した中国系アメリカ人のコンサートマスター、それに衣装を担当した女性にも焦点があてられる。フレミングはこの役のために特にデザインされた6着もの衣装を次々着変えながら登場するのだ。

第2幕でのニシアス邸での踊りや歌のシーンも面白いが、第3幕の砂漠を放浪する二人と、修道女となって入って行く別れのシーンは胸を熱くする。修道士アタナエルの強い信仰心によって修道女になることを決意したタイースは、改心して苦行に励み体を壊す。死の淵にある彼女のもとへアタナエルは何とか現れ、もはや彼女に恋をしてしまったことを打ち明ける。だが彼女はすぐに死に絶え、二人が結ばれることはついにない。ややもすれば荒唐無稽なストーリー一歩手前だが、テーマになっていることは深い、と出演者が声をそろえている。

巧みなカメラワークとオペラ全体を表現した見事なビデオ演出によって、この作品は一定の見ごたえを持つに至った。最初フランス風の音楽が平板で中音域中心の歌にも飽きそうなところだったが、意外にもはじめて触れた作品に新たな発見をし続けた3時間半だった。

※本作品が収録されたのは2008年12月20日だそうである。私はこの時、入院中で大変な闘病のさなかにあった。そういう意味でも感慨深く観た。

※※ここのところ、本作品は数多く上演される傾向にある。かつての名演奏としてせいぜいマゼール盤が有名だったが、最近はノセダ盤(トリノ歌劇場)、それにヴィオッティ盤(フェニーチェ座)などがあるようだ。このメト盤も出ている。

(2011/08 東劇)

2012年1月26日木曜日

プッチーニ:歌劇「ボエーム」(The MET Live in HD 2007-2008)

先日ネトレプコとアラーニャによる最新のオペラ映画「ラ・ボエーム」を見て以来、私も大好きなこのオペラのCDをいくつか聴いてきている。すると丁度今日WOWOWという放送局で、2008年に行われたThe  MET Live in HDシリーズの収録映像が流れることが判明した。Met Liveはこの9月にアンコール上映された12の作品を映画館で見たばかりだが、これは含まれていなかった。こんな好機は逃すまいと、私はテレビの前にスタンバイ。

ミミはルーマニア人のアンジェラ・ゲオルギュー、ロドルフォはメキシコ人のラモン・ヴァルガス、ムゼッタはアインホア・アルテタ、マルチェッロに リュドヴィク・テジエである。指揮はニコラ・ルイゾッティで、先日みたプッチーニの「西部の娘」の公演でも記憶に新しい。

この公演の見どころは、一にも二にもフランコ・ゼッフィレッリの演出である。私が1981年のスカラ座来日公演で初めて見たオペラが、クライバーの「ボエーム」だったことは前に述べたが、私はこの時を最後にゼッフィレッリの伝説的演出には接していない。カラヤンの映画でも、レヴァインのビデオでも登場する演出だが、どういうわけか私は見ていない。これは遺憾なことで、第2幕の豪華な2階建てカフェのシーンなど、見た人はみな「すごい」などと言うのだから、見ていないとこのようなブログを書く際にも何か抜け落ちている感じがして仕方ないのである。

さてその舞台だが、確かに豪華で見ごたえがある。だがテレビで見ていると、いくら大画面とはいえ実演や映画館で見る様子とはかなり異なることが、今回よくわかった。オペラ自体をテレビで見られるようになった時は、それは感動的で、放送されるたびに片っ端からテープに録画したものだし、LDやDVDで登場した際も、その画質に惚れ込んで、いくつかの作品は発売日を狙って購入したものである。でも、いずれの方法をとってもオペラの魅力の何割かしか伝えられていないということだ。

まあそれでも実演に接することは、日本にいると結構難しいので、テレビ放送は有難い。無料放送というわけだから文句を言うのが筋違いではある。テノールのヴァルガスはなかなか好演しているし、ゲオルギューもいい。しかし、今回の公演で良かったのはムゼッタかも知れない。第2幕のワルツのシーンは、大変わかりやすい。非常に多くの人が2階建てのカフェに集い、動物や軍隊行進、さらには少年合唱も印象的。逆に他の演出をよく知らないし、これだけ豪華な歌手を揃えているのだから、通ぶった批評はしたくない。私はまたもやボエームに見とれ、聞き惚れて泣き、多くの新たな発見もした。

第4幕は第1幕と同じ舞台で、一軒家風の一室だが屋根裏部屋のみをホームドラマ風に切り取って強調している。ベッドで横たわるミミを見ているときに、昔見たシーンを思い出した。メトの広い舞台でも、その中にに作られた家の中という、わざわざ狭い場所で演じられる舞台は、第2幕や第3幕の広くて豪華なシーンと対照的である。映画の一シーンであるかのような強調によって、客席も集中力を維持し易いように感じた。古典的なカーテンコールによって登場した主役の歌手たちには、惜しみないブラボーと拍手が送られて、やはり歌劇はいいね、と思うのであった。

(2011/10 WOWOW)

2012年1月25日水曜日

The MET Live in HD Series-プロローグ

ニューヨークのリンカーン・センターにあるメトロポリタン歌劇場(通称The MET)の公演をほぼ同時に世界中の映画館で上映する企画The MET Live in HDシリーズは、2006-2007シーズンに6公演で始まり、今年で6年目に入った。この好企画は高いお金を払って歌劇場へ通うことができないオペラ好きには堪らない。私も2010年に再上映されたベッリーニの「夢遊病の女」からこの企画に目覚め、以来これまでに過去の再上映を含め、19作品を見てきた。

ブログでは都度、その感想などを書いてきたが、ここで再整理をしておきたい。別のブログで書いた文章もそのまま載せることとしたい。

2007-2008
プッチーニ「ボエーム」

2008-2009
マスネー「タイース」
ベッリーニ「夢遊病の女」

2009-2010
ヴェルディ「アイーダ」
オッフェンバック「ホフマン物語」
ビゼー「カルメン」

2010-2011
ワーグナー「ラインの黄金」、
ドニゼッティ「ドン・パスクワーレ」
ヴェルディ「ドン・カルロ」
プッチーニ「西部の娘」
ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」
ロッシーニ「オリー伯爵」
ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」
ワーグナー「ワルキューレ」

2011-2012
ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」
モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」
ワーグナー「ジークフリート」
ヘンデル「ロデリンダ」
グノー「ファウスト」
(続く)

これらの上映は映画館をほぼ真っ暗にして行なわれるため、集中して聞くことになる。しかも字幕が付き、音質もサラウンド・ステレオなので申し分ない。私はこのおかげで、これまでのクラシック音楽の幅がぐっと広がった。CDやDVDでしか経験していなかった作品に、容易に触れることができたことで、管弦楽中心だった鑑賞の対象が、イタリアやフランスのオペラ作曲家にも及ぶこととなったのである。

たとえばドニゼッティという作曲家がいかに重要な位置を占め、かつ有能な作曲家であったかを認識した。それからロッシーニの「オリー伯爵」がこれほど素晴らしい作品だとは知らなかった。ワーグナーの「ニーベルングの指環」はこれを集中して聴く人生で2度目のプロジェクトが進行中である。ネトレプコを始めとする歌手陣のインタビューを聞いていると、彼らがいかに作品を理解し、演じているかが手に取るようにわかって面白い。もしかすると、劇場で聴くことでは味わえない別の魅力があると思うのである。

そういうわけでこれからも、可能な限り映画館へと足を運びたいと考えている。いつもそうなのだが、それほど人気があるわけでもないようで、比較的空いている。ただ「指環」の時は大盛況である。映画館もくだらない作品を上映するのなら、是非The MET live in HDシリーズを上映してもらいたいものだ。

2012年1月24日火曜日

旅行ガイド:「週末香港&マカオ」(平凡社、2011年)

今回のプーケット旅行を香港経由とした理由は、私が香港を好んでいるからである。最近の香港のガイドブックの中から、今回の旅行にも役立ちそうな、それでいて読んで面白そうなものを買ってみた。以下はその時の感想など。

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2011年11月20日

今最も新しい香港のガイドブックが売られていたので買ってみた。これがなかなか面白いのでここに書き留めておこうと思った次第。

思えば香港は私にとって、もっとも渡航回数の多いところ(と言っても4回程度だが)で、実際もっとも好きな都心のひとつである。ここ数年はインフルエンザか何かの騒ぎで旅行は少し躊躇していたし、実際98年の中国への返還直後は、もうあの芳しい香港の姿はなくなってしまったのかとちょっぴり淋しい思いであった。それもそのはずで、街には大陸からの観光客で溢れ、そのマナーも悪く、おまけに香港ドルはベラボーに高かった。

香港中に先行きの見えない焦燥感と諦めの気持ちも充満していたように思う。ビクトリア・ピークは小奇麗になったし、それまで海だった地域も埋め立てられて景観が変わり、そして何とあの香港そのものを象徴する九龍城やカイタック(啓徳)空港がなくなってしまったのだった!

そう、啓徳空港こそ私にとっての香港の第一印象であり、そしてそれはまったく偶然、台北を経った大韓航空機が夜中のネオンサインの洪水のまっただ中に「着陸」するという、時に私は事前準備も想像もできなかった経験・・・寝ぼけた頭をなぐられたような衝撃、それに続く繁華街までの異様なまでに猥雑な道のり・・・深夜でも耐えない人々の匂いと蒸し暑さと騒音の入り混じった中を尖沙咀の安ホテルに到着するまで数十分間を私はいまだに鮮明に思い出すほどにまで強烈だったからだ。

そしてこの本の中にも、啓徳空港がいかに衝撃的だったかを同様に体験した著者のエッセイが載っていたりする。ああみな同じだったのか、などとインターネットのなかった時代を懐かしく思うのだが、さて全ての人が好きになれる街かどうかはわからない。ただタテマエの多い日本社会の窮屈さ、徹し切れない資本主義の中途半端さなどというものに少し辟易している合理的で享楽的な都会人にとっては、香港の魅力というのは尽きないものがある(ニューヨークやパリがこれに相当する)。

本書はそのような香港の「現在」の魅力を伝えている。その変わりゆく姿は中国変換後10年以上がたってもまだ進行形であり、しかもかつての植民地時代とはまた違った魅力を持ち始めていることをノッた文章で知らせている。写真だらけのパンフレット風ガイドブックや、実質本位のホテルリスト(はWebの普及と共に衰退の一途をたどっている)とは異なる視点である。と同時に文明論のようなレベルには達していないので、これは気楽に読める雑誌の記事のようなものだ。
それでいい。ガイドブックとしてまた香港へ行きたいな、と思わせる「文章」に触れること、それは今では難しくなってしまったが、そういう本書の役割を私は歓迎するし、それに実際、この12月には5回目となる13年ぶりの香港旅行を敢行することとなりそうである。

2012年1月23日月曜日

旅行ガイド:「通用乗車地図・第6版」(通用図書有限公司、2011年)

香港の乗り物に実際に乗る場合、やはり正確なガイドがあると便利である(というかないと困る)。そこでガイドブックを手に入れるわけだが、これはやはり現地でないと購入できない。そこで今回香港を訪れたさい、帰りの空港の本屋で余った香港ドルでこのガイドブックを買ってみた。もちろん近々再度香港に行く予定はないので、これは単にコレクションのためのものである。私が買ったのは第6版で2011年版となっている。実際には「香港街道地方指南」というガイドブックとセットで売っれており、両方必要かと言われると片方だけでもいいような気がする・・・。

この2冊があれば、香港中のあらゆる場所がわかるようになっており、バスの路線が地図上に示されている上、停留所にはどの路線が留まるかが記載されている。少し字が小さくて読みづらいが、実用としては十分である。もっともiPhoneが流行る時代には、もっと効率的にバス路線を知る方法があるはずだ。よってこれはコレクションのためのもの、そして居ながらにして香港バスを楽しむためのものであるい(もっともそんな時間は最近ない)。

これを見ながらまだ行ったことのない場所の風景を想像するのが楽しい。今ではインターネットで検索すると一発で誰かの写真にアクセスできる。Google Mapでも同じだ。 だがこういう便利な時代には、あえてそれを見ないほうがいいのかも知れない。旅行も便利になったのはいいが、逆に一生懸命調べたり体験したりして、自分だけの知恵や知識を増やす楽しみは減ってしまった。

2012年1月22日日曜日

旅行ガイド:「香港 路線バスの旅」(小柳淳、TOKIMEKIパブリッシング、2009年)

香港が好きだという人とそうでない人がいると思う。好きな人というのは、おそらく都会と郊外の景色が好きな人で、物質的な豊かさに単純に喜びを見出す人かも知れない。私もショッピングに興味がなくても、香港へ行くといろいろと店を回ってみたくなるから不思議なものだ。これはひとりででもやりたい。

その香港の街を気ままに歩くには、MTRや市電、それにバスに乗るに限る。私の知っている20年前の香港は、クーラーもなくバス停もどこかわからず、料金の煩雑さに辟易していたものだ。だがオクトパスが使える今となっては、路線図片手にどこへでも言ってみたいと思う。

行き先はあまり知られていないところがいい。ガイドブックに常に登場する場所は景観の想像がつくが、新界地区や香港島の南部など、バスでしか行けないところにこそ本当の楽しみが待っているのではないかと思う。よく似た楽しみに地下鉄を適当に乗り、適当な駅で下車して地上に出てみる、というのがある。これも私のひそかな楽しみである。

筆者は複雑きわまりない香港のバスを知り尽くし、その魅力にとりつかれている。そのことが自分のことのように嬉しいので、読んでいると行ってみたくなるし、自分でも何か書いてみたくなる。筆者には「香港路面電車の旅」という処女作もあるようなので、これも読んでみたいと思っている。

データは2000年代後半と新しく、わかりにくかったバスの乗り方まで詳しく書かれている。だが筆者のように思う存分香港バスを楽しむのは、実は結構難しい。それはたかだた数日という香港滞在中に、ショッピングや飲茶の楽しみを犠牲にして、ただひたすらバスに乗るなどということはなかなかできないからだ。もし同行している友人や家族などがいれば、かれらが希望する場所に付いていくことになる。それでも美味しい食事と、変わりゆく街の風景に触れるだけで、まあ十分ではないかという気分になってしまい、帰りの飛行機の中でいつかはきっと、と思いを新たにする。

さしあたり1年でいいので、できれば香港に住んでみたい。だがそれがかなわぬ今は、今後の楽しみに取っておきたいと思う。だからこの本を買って手元に置き、気が向いたらその箇所を読む、という気休め策が必要になるというわけだ。それでもこういう本が出版される事自体が嬉しい。もしかしたら同じ興味をもつ人が数多くいるのかも知れない。

2012年1月21日土曜日

プーケット・香港への旅-元旦

カウントダウンから一夜明けた香港は、いつもの街に戻っていた。ただ元日は祝日であり、今年は日曜日なので土曜日からの3連休となる。このためどこかのんびりした雰囲気だったと思う。朝ホテルをチェックアウトして香港駅の航空カウンターでボーディング・パスを受け取った私たちは、最後のショッピングに出掛けた。中環の歩道橋を歩いていると、なぜか人通りが多い。それは香港で働くフィリピン人の街と化していたからである。新年を迎えた日曜日、彼女らは友人・知人に会い、教会へ出かけ、そして昼食を共にしておしゃべりに余念がない。いつもの香港・中環の日曜日の風景の拡大版だろう。

だが、そのような中でもひときわ大勢の人々でごった返す通りがあると思ったら、それはパレードであった。今年は「龍」の年。中国人にとって特別な年ということになる。大勢の小中学生がドラゴンののぼりを持って街を練り歩くのだろう。だが私たちはゆっくり見ている暇はなかった。

お昼ご飯を大家楽(Cafe de Coral)という外食チェーン店(香港風ファーストフード)で取ると、靴を一足買っただけでタイム・オーバーとなった。再びエキスプレスに乗り、空港に到着して出国手続きを終えると、しばしの免税店ショッピング(ただし香港の空港は大変充実している)のあと、再び機上の人となったのである。すべてのフライトが分単位の狂いもなく離陸し、そして着陸した。どのフライトも驚くほど安定飛行を続け、一度足りとも離陸着陸時を除いてシートベルト着用サインは点灯しなかったのは、私にとっても記憶にない。

キャセイ航空の機内食は、かつてほどではなくなったにせよ、満足の行くものだった。子供向けのキッズ・メニューも充実していた。再び大勢の日本人の中にいる自分を発見して、もう旅行は終わるのだなと思った。長すぎす、短過ぎもしない旅行だった。プーケットと香港を滞在期間中堪能しつくしたという思いもあるし、家族を含め病気も怪我もなかったのは幸運だった。成田について重い荷物を引きずるながら、私たちは寒風の中を家路についた。

今日は元日だというのに、何かとても消失感に見舞われた。そして翌日には早くも禁断症状が現れた。私はタイで買った蜂蜜を紅茶に入れて飲んだ。プーケットの心地よい風が吹いてきた感じがした。けれどもこのような感覚は、日が経つにつれて徐々に薄れていった。

2012年1月20日金曜日

プーケット・香港への旅-トラムとバスに乗って

香港島を東西に走る路面電車(トラム)は世界でも珍しい二階建てである。実際観光客には大変人気なようで、二階席の最前列にはカメラを構えた人がいつも乗っている。かつて20年以上前に来たときには、そういう感じではなかった。乗り場はわからないしいつも混んでいる上、料金の精算がややこしい。だがオクトパスの出現によって観光客にも身近な乗り物になったのだろうと思う。

オクトパスカードとは香港で使える電子マネーのことで、パスモやイコカと同様、決済時にピッとかざして使用する。予めチャージ(増値)しておくと、その額になるまで使え、しかも1回に限り、その額を超えてもデポジット分を切り崩して使える。そういうわけで香港を訪れる人はみな、オクトパスカードを持っているか、空港などで買う。そのためのカウンターも充実しており、わかりにくいバスや切符の必要なMTRにも使えるので大変便利である(コンビニでも使えるし、増値できる)。

日本より歴史のあるこの電子マネーは、実は日本の技術が使われているらしい。子供用もあり、3歳以上は料金が必要だが、その場合に「ピッ」の音が変わる。トラムは降りる時にかざすだけだが、すべての停留所に留まるとは言っても、二階席から下へ降りて順番に降りるためには、数ストップ前から人ごみをかき分けて前方へ動くなど準備が必要だ。もちろんアナウンスはない。

トラムは次から次へとやって来るが、稀に5分以上1台も来ないことがある。そういう場合は間違いなく大混雑なので、さらに遅れる。乗れない人はタクシーに乗ったりして先を急ぐ人も多い。で、遅れが続くと後ろから次のトラムがやってくるので、結果的には混雑が分散するという合理的な仕組みである。車体全体に塗られたカラフルな広告も楽しい。

ルートは単純だが、注意をしないと行きたいところの手前で折り返す場合もある。行き先は漢字と英語で記載されているが、来た電車がどこまで行くかは覚えておいて都度判断するしかない。最も遠くまで行く電車は、本数が少ない。私は西營盤と銅鑼灣を何度も往復したが、西行きでは上環行きには乗れず、東行きの時には跑馬地行きを避ける必要があった。この区間では大通りを行くため、路面電車らしい狭い道を抜けていく感じはあまり体験できない。なので一度端から端まで乗ってみたいと思っているが実現していない。MTRが発達しても、安くて便利なトラムの人気は衰えそうにない。

トラムに乗って銅鑼灣に出掛けたのは、大変有名な台湾のレストラン鼎泰豊の香港店に行くためである。日本にも店があって、私も一度出掛けたが、妻によれば上海の店はその比ではなく美味しかったとのことである。食にうるさい香港のことだ、そういう店があるのなら開店と同時に足を運んでみたいと、朝食も取らずに香港ホテルへ。その1階にある店に案内されてやはり驚いた。開店したばかりというのにもうほとんど席が埋まっているのだ。私は案内されるまま小龍包を何種類かと、忘れがたい鶏肉の紹興酒漬け、さらにはチャーハンなどを頼んだ。

シートに記入して店員に渡すと、直ぐに料理が運ばれてきた。周りを見ると、みな大人数でわいわいやっている。私達のような家族連れもいて、日本人だとわかると丁寧に説明もしてくれる。このようなサービスもこの店の特長だろう。お昼だと言うのに動けないほど食べ、勘定をすませて店を出ると、そこには長蛇の列ができており、みなメニューを抱えて注文品の記入に余念がなかった。


もう一つの有名なトラムは、100年以上前にできたピーク・トラムである。言わずと知れたスイス製の観光用登山電車で、物凄い急勾配をビクトリア・ピーク目指して登っていく。ところが年々人気が高くなり、私が今回乗った大晦日の夕方は、何と一時間も待つこととなった。このトラムのもう一つの見所は、途中に通過する線路沿いの高級アパートが垣間見られることだ。けれども結構高くつくので、2人もいればタクシーで頂上まで行ってもらうか、もしくは路線バスを使うのが良い。路線バスも2階建てで、二階席に乗ると振り落とされるようなスピードでカーブを抜けてゆくので、トラム同様スリル満点である。私たちは今回、トラムで上りバスで降りてきた。バスは中心地から行けるので便利である。

昔は何もなかった展望台も、今ではさらに立派な(そして高価な)展望台まで付設されているが、景色のいいところへ行くのにわざわざ追加料金を払わなくても良い。それにしても年々高くなっていく高層ビルがとうとう展望台の高さに達した感がある。カウントダウンも始まるということか、上ってくる人も多かったが、かといってレストランなどは比較的閑散としていた。寒かったからかも知れない。

2012年1月19日木曜日

プーケット・香港への旅-中環付近

これから私は香港島の中心地中環の北側一帯のことについて、書こうと思う。この地域についてはガイドブックに詳しいし、私も数時間滞在しただけなので、もちろんその魅力のすべてを書くことはできない。ここの地域はしかしながら、香港に滞在する旅行客にとって、不思議なほどに魅力的であると思われるからである。その理由は、古いものと新しいもの、高級なものと庶民的なものが渾然となって存在するその面白さとパワーである。

香港島のトラムの走る通りより少し山側に入ると、マクドナルドなどがあって人通りの多いストリート皇后大道中がある。ここを少し西側に行くと歩道橋があるので上がる。このあたりがまず楽しい。それは高級品ばかりでない香港のお洒落なショッピング街だからである。銅鑼灣が渋谷か原宿、九龍半島が銀座だとすれば、ここは表参道か青山あたりの雰囲気ではないだろうか。土地の狭い香港では、これらの街が寄り添っている。暑くなければ歩いていける距離なのである。

歩道橋はとても長いエスカレータを備えており、これにただ乗ってさえいれば、坂の上の方まで運んでくれる。この乗り物を体験するのも楽しいが、その途中に交差する道に折れていけば、それぞれの道にそれぞれの雰囲気があって、当然お店やレストランもあって、これがなかなか楽しいのである。

そのような道の中でもっとも大きいのがHollywood Road(ハリウッド・ロード)である。このハリウッド・ロードの南側、すなわち山側をSOHO、北側つまり海側をNOHOと呼ぶ。ここで私は本家ロンドンのSOHOを思い出すのだが、いわば新しく開けた繁華街で、ニューヨークにもSOHOというのがある。これはハウストン・ストリートの南側、という意味である。香港のSOHOもその名の通り、やたら外国風、すなわち西洋風である。だからこの地域に行くと英語の看板が目立ち始め、白人が多くなり、そして深夜まで営業のバーやテーブルクロスにワイングラスをセットしたレストランなどを目にすることができる。これは香港でも少し珍しい。一方NOHOは香港の下町で、その向こうは上環である。

かなり高いところまで登って行くが、観光客の多そうなのはまあCaine Roadあたりまでだと思われたので、そこで右へ折れ坂の上の道を孫中山記念館まで歩いた。孫中山こと孫文は言わずと知れた近代中国の革命家で、辛亥革命を指導したことで知られる。彼は広東省の出身で、医学を学ぶため香港大学に在籍していたのでこのあたりに住んでいたのだろう。だが博物館自体は洋館を改築してオープンしたもので、そのこだわりには返還後の中国の強い意志を感じる(開館は2006年)。

急な坂に建てられた博物館はたしか4階建てで、順に登りながら革命家の生い立ちが紹介されているが、そこに我が国との接点が多いのも見逃すことができない。詳しいことはここに書かないが、孫文が日本に亡命していた時期に、かずかずの知遇を得ていたことはここの展示でも紹介されている。さらには昔の香港の写真なども展示されており、興味はつきないが、歩き疲れた私たちは坂道を下り、さらには蘭桂坊を目指した。

大晦日のカウントダウンを待ちわびる大勢の人がここ蘭桂坊に集まろうとしていた。私はその近くのタイ料理屋に行こうとして歩いていたのだが、至る所にポリス・レーンが敷かれて歩けない。子供も連れているので、人ごみに入っていくのは危険である。そこで仕方なく、私たちは大晦日の夕食を通りがかったベトナム料理屋で取ることにした。ところが予想に反してここの料理は、今回の旅行中最高の素晴らしさだったのである。

レストランの名前は「La taste 品越」と言う。場所はStanley St. 34-38となっている。階段を上がって2階がレストランなので、最初は流行っているのだろうかと思ったが、出てきた料理の美味しいこと!ここはあまり教えたくないが、前回もスタンリーで食べたタイ料理といい、今回のベトナム料理といい、香港のレストランは非常にランクが高い。後から来た客が大勢でやってきてたらふく食べ、すぐに出ていった。カップル客も多く、パイナップルの皮に盛られたチャーハンなどをおもむろに食べているが、いずれも大層美味である。今回の旅行の中でもっとも心にのこっと一品は、ここで食べた魚のフライだった。


2012年1月18日水曜日

プーケット・香港への旅-嗇色園黃大仙廟

まだ啓徳空港があったころ、着陸間際にかすめて通る九龍城は「東洋の巣窟」などと言われ、どこの主権も及ばない悪の不法地帯だと言われていた。実際、日本から到着した矢先に観光バスでこの近くを通り、「このように香港は危険なところです。決してひとりで歩かないように」などと脅されたものだ。実際に近くからその城壁を見ると、何とまあよくこのような建物に多くの住民があるものだと感心したものである。当時、不法な移民が数多く住み、違法な取引が横行していたようだ。

だが香港返還を前に九龍城も取り壊され、その後には観光スポットとして蘇ったというから時代は変わるものである。その九龍城を過ぎて最初のMTRの駅である黃大仙は、プラットフォームを上がると寺院に直結している香港でも有数の観光地である。

おおよよ合理的で功利的な香港の街であっても、風水をはじめとするパワースポットは数多く存在し、その調和も興味深いのだが、ここの寺院でも熱心なお祈りをしている地元の人をみていると、香港人はお金だけを信じているわけではないことがよくわかる。その向こうには高層アパートがいくつもそびえたち、香港らしい風景を醸し出している。

周りには運勢を占う数多くの占い師がブースを構えている。日本語や英語の通じるところもあるようだ。たいていパソコンが導入され、生年月日を入力すると運がいいとされる数字や方向、職業や家族関係、好調な年と年齢などが示されるようだ。つたない言葉で占ってもらうよろいも、このソフトを買ってきたほうが楽しいかも知れない。

MTRを引き返し、久しぶりに尖沙咀の中心街である彌敦道へ出てみた。ここは私にとってもいつも訪れるところである。ところが、かつてよく通った重慶大厦の前にいたのが気が付かなかったほどにそこは変わっていた。まず空が見える!それだけあの街を覆っていた二階建てバスすれすれの看板が取り払われ、両サイドはきれいに整備されていた。何ともいかがわしい街だった彌敦道の東側にも大規模なビル(ハイアット・リージェンシー)が立っており(2007年オープン)、垢抜けた街に変貌を遂げていたのだ。ハイアットなど、かつては彌敦道に面していて、部屋は広いものの窓からは看板しか見えないホテルだったのだが・・・。

これには驚くと同時に、やはり香港らしさが消えていったような気がした。そう言えば海に面していたペニンシュラ・ホテルは、今ではその前にできた文化中心に視界を遮られているが、これはだいぶ前の話。そしてスターフェリー乗り場へ向かう途中に出現したのが1881ヘリテージという、これまた高級なショッピングセンター兼ホテルである(2009年オープン)。ホリデーの時期ということでか、すべからくギラギラに装飾が施され、その綺麗なこと!

定番のスターフェリーには今回も乗って、中環までのわずか約10分程を夜景を見て楽しんだ。香港島の摩天楼は私のこなかった十数年の間にものすごい勢いで発展していた。こんな高い建物を立てて大丈夫だろうか、などと竹組で建築中だった中国銀行タワー(367m、70階、1990年)や、独特の形をした香港上海銀行、それに中環廣場(374m、78階、1992年)などもはや影の薄い存在になり、 いまでは中環と上環との間にそびえる中環中心(346m、73階、2008年)、スターフェリーの降り場にそびえ立つ国際金融中心(415.8m、88階、2005年)が他を圧倒してその存在感を誇示している。

さらに目を九龍側へ転じると、そこには再開発中の西九龍地区(埋立地)があり、環球貿易広場(484m、110階、2010年)がその威容を誇っている。もちろんこれらのビルというビルが新年に向けてのカラフルな電球(LED?)で装飾され、時々色が変わるなど見ていて飽きない。そのカラフルな光の海を渡ることは、いつ来ても香港観光の目玉である。

中環でスターフェリーを降り、歩道橋をわたって山側へ向かう。かつての寂れた雰囲気はなくなり、香港駅の上にあるIFCモールには、巨大なApple Storeが物凄い多くの客を呼び込んでいる。その光景は写真に収めたくなるほどだ。ここから中環の主だった地域にはすべて歩道橋でつながっているのも驚いた。ビルというビルが超高級なブランドの店で埋め尽くされている。ビルの内部にはクリスマスツリーやジオラマの展示など、デフレの日本には見かけなくなって久しい飾りが、これでもかこれでもかと続く。チョコレートでできたクリスマスツリーの前で写真を取る家族連れを見ていると、景気のいい中国は羨ましくさえ思えてくる。

中環からトラムの通りを過ぎると、若者も集まるカジュアルな地域となる。坂が急になりはじめると、歩道はエスカレータとなって坂を登っていく。香港の中でもっともいま最も楽しそうなスポットは、ここから始まるのである。

2012年1月17日火曜日

プーケット・香港への旅-香港へ

香港の眩い光は、プーケットでのんびり過ごした身にはとても刺激的で、久しぶりの都会に私は胸踊る気分であった。私は香港が好きで、これまでにも何度も旅行している。最近はそれでも10年以上前で、中国に返還されて間もなくの頃だった。当時の香港ドルは高く、しかも街中に大陸からの観光客が溢れ、さらに中国に返還されたことで内心は平静を装いながらも、心はどこか落ち着いかない、そんな空気が蔓延していた。「これで香港らしさもなくなったな」というのがその時の私の感想で、事実、最近は香港を旅行した日本人をあまり見かけないし、アジアの最大級の都会の地位も、上海やシンガポールに押され気味のような気がしていた。

だが、最近発売された香港のガイドブックを読んでいると、新しい香港の魅力のようなものができてきたような気がした。中国の経済の好調さに後押しされて、中国としての香港も一定の地位を主張しているような気がする。そういうわけで久しぶりに香港に行ってみたいと思った。香港の食べ歩きには世界の他の都市にない魅力があるし、ホテル選びの楽しさもある。第一、極めて合理的な香港人の魅力は喩えようもない。

丁度お正月を香港で迎える今回のプランは、プーケットが第一の目的地だったが、そこへ私たちはキャセイ・パシフィック航空で行くことができたことで、ついに香港にも立ち寄るという一石二鳥に成功したのだった。香港は来るべき鳥インフルエンザの発祥地となる想定である。こんなところにはもう二度と行くことはない、と諦めていた香港行きが現実のものとなった。

日本からプーケットへ行くには、主に直行便を使うか、もしくはバンコク経由が主流である。タイ航空を使うことになるわけで、乗り継ぎの場合、最悪バンコクでの滞在が必要となる。プーケットの魅力に比べればバンコクなどすっ飛ばしたいくらいだし、かといって評判のいいシンガポール航空で行くと余計に時間がかかる。ところがキャセイの場合にはこの乗り継ぎが実にいい。オンラインで予約を取ると、12月のホリデー・シーズンでも一人往復8万円程度(燃料費など込み)である。

私は今回HISの担当者に航空券の手配を依頼したが、彼女は実に的確にお勧めのパターンを提示してくれた。バンコクで大洪水が起こっていたが、かと言って香港経由がそれほど混雑しているわけでもなさそうだった。制約付きのキャンセルのポリシーに同意すれば、比較的安価であった。

航空券を独自に手配した以上、ホテルの手配も個別に実施した。12年前の香港旅行ではホテルのサイトに直接予約を入れ、インターネット予約を行ったが、今回は格安予約サイトとして有名ないくつかを試すこととなった。どこの予約サイトがいいのかは様々な意見があるようだが、私はagodaと呼ばれるタイの予約サイトを利用した。これはさほど深い考えがあったわけではない。いろいろな評判を後になって調べてみると、ここのサイトはキャンセル時の課金ポリシーに説明が不足しているなどといった否定的意見が数多く検索された。しかし私の今回の旅行に関する限り、それは実に満足のいくものであった。

2度の予約変更にも、予め説明をされていた通り、一切の追加料金は発生しなかったし、エキストラベッドの追加や朝食の有無、空港からの送迎など様々な質問にも直ぐに答えをしてくれた。アカウントを持っただけでポイントをきっちり貯めることもできるし、そのアカウント管理や予約サイトの扱いなどはシステム的に大変優れたインターフェースである。タイの会社なのでプーケットに強いという側面もあったように思う。

香港のホテルはどこも大変魅力的に思えてくるため、最終的にどこに泊まるかはなかなか楽しい悩みである。まず香港島か九龍側か、といったことに始まって、アクセスの良さ(これが値段に直結する)、部屋の広さ(東京のように狭い)、景色(結構重要なポイント)といった観点から吟味する。良いホテルでも安い時があり、その値段は中国流チキン・レースのように流動的に決まるから目が離せない。加えて次々と新しいホテルがオープンするので数年前の評価は参考にならない。

だが私はプーケットで贅沢をしたこともあり、香港はホテルライフを楽しむよりは観光とショッピングなので、むしろ便利で安いところを探した。まだ泊まったことのないところで、年末年始でも空いており、エキストラベッドを追加してもそこそこ安く、しかも評判のいいホテルは、一生懸命探せばあるものだ。結局、上環から近い西營盤にあるアイランド・パシフィックというホテルに泊まることになった。ここはビジネスホテルを少し高級にしただけのツーリストクラスのホテルだが、一応ハーバー・ビューという触れ込みだったし、第一、トラムの前なので移動に便利ということであった。

空港からエキスプレスに乗り、香港駅でタクシーに乗り換えてホテルに到着したときには、すでに日が暮れていた。香港滞在は丸3日しかないのであまり無駄には過ごしたくない。そういうわけで、部屋に荷物をおくとさっそくトラムに乗り、灣仔の方まで行ってみた。美味しそうな安い潮州料理の店で夕食を済ませると、またトラムで引き返した。12月29日、日本ではお正月を迎える準備に忙しい頃である。だが旧正月を盛大に祝う香港では、通常通りの街の雰囲気であった。クリスマスの休暇の直後ということもあり、世界中からの観光客で溢れていた。その多くが中国大陸の人で、白人はいまだにイギリス人が多い。これに比べプーケットに沢山いたロシア人は、いつのまにか見かけなくなっていた。

街中のイルミネーションも華やかだった(写真はショッピングセンターにあったジオラマ)。プーケットから来た我々には香港の冬が寒いと思った。トラムの窓がいつも開いているので、二階席に陣取ると涼しい風が入り込んできた。それに排気ガスと食べ物の匂いが交じり、香港に来たことを肌で実感するのだった。

2012年1月16日月曜日

プーケットへの旅行-残りの日々

私たちは2012年12月21日に成田を発って、同じ日の夕方にプーケットへ入った。それから香港へ行くまでの丸7日間をラグーナ地区にあるホテルAngsana Laguna Phuketに滞在した。このホテルは6月までSheraton Grandeと言われていたところで、約半年のリフォームを経て経営が変わり、Banyan Tree系列のホテルとして再オープンしたのである。私たちが滞在したのは、入り口の看板も完成していないリニューアル後約半月のことで、展望台やいくつかの施設はまだリノベーションの最中だった。

クリスマスをここで静かに過ごし、水泳を始めた息子の相手をしつつ毎日ビーチやプールで泳いだ。浮き輪に投げて遊ぶボールも買った。プーケットの他の地域への観光は、主に昼からタクシーを手配して出かけたが、それらはパトン・ビーチ、プロンテプ岬、シャロン寺院、プーケット・タウン、それにラグーナのダウンタウンである。

私たちの滞在もあと2日を残すのみとなって、長いと思われた旅行も折り返し地点を過ぎていた。まだ利用していない施設として息子はKid's RoomでWiiか何かをして遊び始め、妻は一度だけはと評判のAngsana Spaを利用した。私はもっぱら洗濯物の手配とタクシーの交渉、それに1時間500バーツの海岸沿いのマッサージなどを利用した。持っていった携帯ラジオを聞くのは、私のひそかな楽しみである。ただ世の中はiPadで世界中のインターネット放送が聞ける時代だ。ホテルにもインターネットルームがあったし、各部屋には自由に使える無線LANが完備されていた。

私はiPadでラジオ日本の放送スケジュールを検索し、その日本語放送の時間に合わせて短波ラジオをチューニングしてみた。すると午前9時(現地時間)からのシンガポール中継が物凄く良好に受信できた。その時の受信音を一度ブログに公開してみたかったので、ここに置いておく。

ホテルのバーではリゾートらしくほぼ毎晩バンドによる演奏が行われていた(火曜日から土曜日)。ここのギターを弾くボストン生まれのアメリカ人のおじさんは、タイ人の奥さんと結婚しており、ここで同じような曲を毎晩歌っていた。どういうわけか息子はある日、そのバーの最前列に腰掛け、彼らの弾くカントリー風の曲(懐メロ)に見入った。ホテルのバーは、レストランに比べてもさほど高くはないので、私もカクテルなどを注文してでかしソファに寝そべり、彼らの音楽を聞いていた。よく見ると毎晩同じ人が同じところに座っている。みないっときのリゾート気分を名残惜しそうに過ごしているように見える。

カウンターからピーナツやビールが運ばれてきて、そよ風に吹かれながら喉を潤していると、子供がまわりを走りまわり、リクエスト曲などを告げに行く。家族連れが多いホテルなのでどこにも子供がいるが、もともと客がそれほど多くはないので嫌にならない。休憩時間が来て我が息子のところへギターのおじさんがやってきて話しかけ、私も英語で応じていた。2歳の孫がいることや、次回は一緒に歌おう、などと言ってくれる大変気さくな人だ。広いホテルの中庭にバンドの歌がこだまし、装飾で明かりのついた木々や芝生、プールなどが大変美しく感じられた。

私は結局4回もこのバーに通い、寝る前のひとときをリラックスしたムードで過ごした。地元のカクテルなどをゆっくりと飲んでいると、自分がどこにいるのかも忘れそうだった。

プーケットを経つ前日、私はいつものように海岸へでかけ、ここで20年も毎日売店をしているおばさんに別れの挨拶をした。記念に写真をと言うと、喜んで看板の前に立ってくれた。息子の丸刈りの顔を撫で、ネックレスの仏陀を見ては何かと話しかけてくれた。次回もまた来てね、とおばさんは言い、私もきっと来るよと答えて別れた。思えば一人で旅をすると、このような小さな出会いや別れが何とも胸に響くものだ。そういう経験はもう20年以上もご無沙汰である。だが、今回私は久しぶりに昔世界を歩き回った時に感じたような、旅行の感覚・・・様々な出来事を自分の経験と勘でこなしていく冒険的感覚を呼び覚ますことができた。嫌な思い出はほとんどなく、そしてランの花咲く微笑の国の人々は、毎日笑顔で私たちに接してくれた。海の向こうに沈みかけた夕日に照らされて、おだやかなプーケットの海は静かに暮れていった。



2012年1月15日日曜日

プーケットへの旅行-ラグーナのリゾートエリア外

西洋化されたラグーナ地区は、タイらしくないと言ってしまえばそれまでだが、リゾートとしての趣は大変優れたものだ。だがそれを一歩外へ踏み出すとしたら、そこには一体何があるのだろうか。これはなかなか興味深い問題だが、そのことを詳しく書いたガイドブックも少ないので、ここで私の体験を書いておこう。まずそこには、何もない。あるのは2つだけだ。ひとつはタイ人の普通の生活、すなわちホテルやレストランで働く人びとが普通に家族と暮らす街で、学校や屋台や店などが並ぶ。英語はほとんど通じない。もうひとつはラグーナ地区で暮らすリタイア西洋人向けのお店。それには高級スーパーもあれば、別荘向けの家具屋やベーカリーなどもある。

実はホテルを出るのも一苦労で、貸し自転車を使って道路を行くのも良いが、道がわからなくなると困ることと、熱帯の暑さ、それに子供連れは車道なので危険だということ。かといって公共的交通機関もない(あるかもしれない)。ホテルを出て門までの数百メートルを歩いたところに個人でやっているタクシー屋のブースがあるので、それを使うのが一般的だろう。この場合、街までの片道は100バーツと相場が決まっている。帰りも同様の手法でなんとかなる。

大通りに出ると学校などもあって、帰りの中学生がゲームセンターにたむろしていたりする。車が行き交うが、そばには屋台や民家もあって至って普通の雰囲気。私たちは屋台で食事を済ませ、スーパーで買い物をすべく通りを歩くことにした。ヨーロッパ人向けのレストランなどが集まっているラグーナに最も近いストリートはそれなりに高い。スーパーはやはり外国人向けのものを売るところは、品揃えが豊富だ。セブンイレブンなどの地元スーパーもあるのだろうが、少し遠く不便だ。

そういうわけでラグーナ地区に泊まる一般的な客は、日用品を買うにもタイの標準から見れば馬鹿高い物価に目をつぶらなければならない。普通の街を歩くことがそれほど楽しいわけでもないので(そうしたければパトン・ビーチかプーケット・タウンまで足を伸ばせば良い)、結果的にラグーナのダウンタウンはわざわざ時間を作っていく所ではない気がする。私の息子はここで理髪店に入り、頭を丸刈りにした。これはたったの100バーツで、楽しい体験ではあったが、彼らからすれば変わった外国人もいるものだと語り草になったのではないだろうか。

写真はラグーナを出て幹線道路に交わるところ。電柱に送電線や電話の線などがごちゃごちゃに絡んでいる。これはまだましなほうだ。これを見れば、停電もATMの停止もインターネットの接続不可も、時々起こりうることはわかる。

2012年1月14日土曜日

プーケットへの旅行-Phuket Town

プーケット島最大の街はPhuket Townである。Phuket Townは都市と言ってもいいくらい広がりを持っており、コロニアルな建物も残るところだがビーチからは遠い。それでもバスや国道はすべてPhuket Townを中心に作られているので、どこかに出かけるときは通ることが多いし、そうでなくてもいわば普通のプーケットの街を見たければPhuket Townに行くのが良い。物価もリゾートに比べラバ安い。

そのPhuket Townの中心は時計台のあるロータリーだが、その近くにあるショッピングセンター、オーシャン・ショッピング・モールは中心的なスポットということになっている。だがここは普通のショッピングセンターでやや場末の雰囲気。その近くのロビンソンデパートとその間にある屋台街は、普通のタイの雰囲気で旅行者は一度訪れたい地区だ。土産物や日常品を扱う広大なプーケット・スクェアも近い。最大のプーケットのショッピングセンターは郊外にあって、歩いては到底行けない。このようにパトン・ビーチと違って行くべき所がまとまっていないという点で、いささか不便なところではある。タクシーで行く場合、どこで下車し、どこから乗車して帰るかを予め決めておく必要があるだろう。

コロニアルな雰囲気とは言うものの、その姿は建物の一部に色とりどりの壁や日差などが付いているといった程度であるが、いつもは海とプールしか見ていない目には、それなりに新鮮に思えてくる。滞在期間が長くて、少し時間に余裕があったらプーケット・スクウェアにでも行ってみるといいだろう。下着やサンダルの店ばかりだが・・・。


2012年1月13日金曜日

プーケットへの旅行-Wat Charong

仏陀のネックレスは、シャロン寺院の土産屋で遂に発見した。後日、またもやタクシーを手配し、プーケットで最も有名な寺院へと向かった私たちは、快晴の青空のもとを国道を南下し、プーケットタウンを通り過ぎていった。これまで空港と観光地しか見ていなかった我々は、これでようやく普通の人が暮らす街並みと、郊外にある工場やショッピングセンターの様子、バイパスの渋滞、プーケット島の全体的な規模感や光景を知ることとなった。


タイの仏教は日本とは違い、上座部系の仏教である。これは小乗仏教などとも習ったが、大乗系の中国や日本に伝来した仏教とは違って、むしろ本流の色合いが濃い。スリランカなどもそうだが、こちらの仏教はとにかく豪華である。例えばここのシャロン寺院にしても、金ピカの仏陀が所狭しと並んでいて見るものを驚かせる。私は最初写真撮影はできないものと思っていたが、ロシア人などがパチパチやっているし、それを禁止する張り紙も見当たらなかった。後ろから来た熱心な信徒(というよりはタイ人はほとんど敬虔な仏教徒である)が、金の箔を僧侶の像にペタペタを貼ってお祈りをしている。私も日本式にお祈りをし、そして線香を供えた。

日本人にとってタイの魅力は、その美しい自然、美味しい食べ物、安い物価、それにタイの人々の微笑など数多いが、私はそこに同じ仏教国としての親近感を感じざるを得ない。サンスクリット語あるいはタイ語で、例えば阿弥陀如来や弥勒菩薩をどう言うかは覚えていないが、それと同じ概念で仏像の種類を彼らはよく知っている。息子がとうとう手にしたネックレスは、滅多に作られていない特注品で、その土産屋の主人がケースを手配し、自ら仕上げているとのことだったが、そのネックレスを下げているといつも道行く人から声がかかった。

見せてくれとというので差し出すと、これは一番いい仏さんだなどと言ってくれる。そして彼らはとても親近感を感じてくれるようだ。この効果は私にとって予想外だった。けれども私も横臥の姿勢をした仏像が好きなので、ごく小さな置物を買ってケースに入れてもらった。

しかし面白いことにタイにおける仏教の伝播は、13世紀である。このことは私にとっても意外だった。仏教国としての歴史は日本のほうが古いということになる。ワットというのは寺院の意で、バンコクにも数えきれないくらいのワットがある。私はこれらを一日がかりで歩きまわった記憶がある。ただでさえ暑く空気の汚れたバンコクで、私は気が遠くなりそうになりながら、見て回った。

プーケットにも寺院が多くあるが、そのなかで最大の寺院がこのワットシャロンである。他は知らないが、確かに間近で見る塔や本堂は、広い敷地の中を進むにつれて豪華な姿を表す。上に登ればプーケットの穏やかな風景が広がる。風が通り抜けてゆき、強い日差しでも陰に入るとしばし涼しい。ココナッツのジュースで喉を潤し、昼下がりのシャロン寺院を後にした。

シャロン寺院へ向かう前に、私たちはプーケット島の南端に位置するプロンテプ岬を目指した。行ってみるとそれなりに整備された観光地で、何か日本の岬の公園とよく似た感じがするが、ここから見る落日は素敵だそうである。そして目を右へやるとナイハン・ビーチのリゾートがよく見える。美しい入り江にはヨットなどが浮かび、ラグーナ地区の風景とはまた違った美しさである。
プロンテプ岬からボン島などの方向へ回ると、そこには海岸沿いに安そうなレストランが点在していた。このあたりにも大きなホテルはあるようだが、今の私にとってはプーケット・イコール・ラグーナの光景となってしまっている。それだから、次回にもし来ることがあれば、果たしてよほどの思いがなければ、そこに泊まることもないだろうと思っている。

2012年1月12日木曜日

プーケットへの旅行-Patong Beach

プーケットで最も賑やかなパトン・ビーチは、ラグーナ地区から南へ40分ほど下ったところにある。普通「プーケットへ行く」というとこのパトン・ビーチ界隈のホテルに泊まることになるようだ。ここはタイであってタイでない、というとどういうことか分かる人にはわかり、わからない人にはわからないと思うが、つまりはタイにしかないようなタイらしくない場所である。

歩いている人はヨーロッパ人が多く、その雰囲気もラグーナあたりのリゾート客とは少し違う。街中がネオンの洪水で、夜通しロックのかかるバーが軒を連ねている。実際ここが活気づくのは、夜も更けてからである。私たちは、クリスマス・イブのお昼にここへでかけ、9時過ぎまで滞在した。

ラグーナの海岸のおばちゃんの息子が運転するトヨタのタクシーに乗って、海岸沿いの道をいくつもの山を超え、渋滞が激しくなったと思ったらそこがパトンだった。私たちはカオマンガイと呼ばれる料理(蒸した鶏肉が乗ったご飯)の美味しいと評判の店を探すべく、その近くで降り立ったのだが、なかなか目指すレストランはみあたらない。道端のマッサージ屋の表で暇そうにしている女性たちに尋ねると、たくさんの人が寄ってきて長い時間をかけて地図を解読してくれた。英語の話せる主人が、ここからは30分程度かかるという。だが歩き始めるとすぐにその店(というよりは屋台を少し大きくしたような地元の店)があった。3人で150バーツ(飲み物付き)だったと思う。

土産物屋を探しながら、銀行で両替もし、そして最も人通りの多いバングラ通りを海岸に向かって歩いた。息子がBang Taoビーチで遊んでいると、たまたま通りがかった物売りの女性から、私の知らないうちに十字架のネックレスを買ってしまった。息子は大いにそれを気に入っていたのだが、仏教徒の私としては「どうして大仏さんのにしなかったの?」などと言ったところ、息子は「自分も大仏のが良かった」などと言い出した。しかしその物売りの女性に再会することは難しい。「そんなもの、土産物屋に行けばいくらでもあるよ」と言ったのだが、息子はそれを信じてしまった。パトン・ビーチでの目的は、まずはこのネックレスを探すことにあった。ところがこれがないのである。

私たちは、あらゆる場所へ歩いて行き、土産物屋に顔を出した。でも仏教国タイにあっても、ここはそのようなものは売れないのだろう、どこにも置いていない。仏像や仏様の置物などは非常に多いのだが、適度な大きさのネックレスというものが見当たらないのである。

バングラ通り沿いのショッピングセンターで、夏の夜に着る室内着を何着か、それに日本への土産物を物色した後、ビーチに出た。丁度日が暮れる頃で、数多くのチェア貸し屋が店じまいを始めたところだった。その観光客の多さは、さすがにパトン・ビーチだと思わせたし、その入口の前から海岸沿いに続く通りには、数多くのレストランが並んでいてどこも賑わう前の準備に勤しんでいる。小魚を足に吸わせてマッサージをする店も多く、ロシア人が楽しそうに足を入れている。しかしどこを探しても仏陀のネックレスがみあたらない。

アイスクリームを食べたり、バックパッカーの集まるような安宿地区などを、かつての旅行を思い出しながらなつかしく散策しているうち(といってもここは初めてである)、日もくれてお腹もすいてきた。私たちは少し引き返したところにあったショッピング・センター「ジャンセイロン」に入った。地下にフードコートがあるとわかったので、さっそくその巨大なアーケードに足を踏み入れた。

フードコートの美味しさは、その殺風景な店構えとは裏腹に、ちょっとしたものであることはタイを無銭旅行した者なら知っているはずだ。タイ各地の料理のブースが並ぶ中で、私は赤い焼豚の乗った焼そばとシンハー・ビール、それにスイカのシェイクを注文した。クリスマスイブの土曜日ということもあってかなりの人出だったが、家族連れはたいていもう少し高級なレストランに行く人が多かったようだ。フードコートはかなり閑散としているし、土産物屋も暇そうだ。

夜も8時を過ぎると、ショッピングセンター内はかなりの人出となった。噴水やサンタクロースの象、それにツリーなどが飾られ、有名なレストランは家族連れで賑わっている。ストリート・ミュージシャンのショーに見入るうち、そろそろ帰る時刻となった。ショッピングセンターを出たところでタクシー屋が声をかけてくる。Bang Taoビーチまで700バーツの規定料金だそうだ。タクシーではなトゥクトゥクではどうかと言ったら同じ料金だと言う。ところが家族がそれに乗りたいと言い出した。そこで私たちは1台のトゥクトゥクを手配し、足を前に伸ばして投げ出されないように注意しながら夜のパトンビーチを走り抜けた。

昼に歩いた通りは、見間違うほどに活気づき、店という店、レストランというレストランはきらびやかに電飾が施されていた。かなり渋滞していたが、慣れた運転手は猛スピードで他車を追い抜き、夜の集落や山野を超えて夜のラグーナへ帰りついた。もはや喧騒はなく、蛙の鳴く静かなクリスマスの前夜の風が、火照った私の顔を撫でた。息子は買ったサンタクロースの帽子をかぶったまま、車の中で心地よい眠りについたようだった。

2012年1月11日水曜日

プーケットへの旅行-Lagunaの他の地域

ラグーナ地区を巡回する水上バスに乗れば、周りのホテルなどに簡単に行くことができる。約20分おきに船がやって来るが、ボート1とボート2があって行き先が異なる。ただ折り返す時に1と2が入れ替わるので、回り方が異なるだけである。間違わないようにという配慮から、乗る時に行き先を聞かれる。

私たちは当初予約を試みたLagune Beach Resortというホテルのプールに行こうと思い、ある日この水上バスに乗った。静かな湖面をのんびりと進むこと約30分でここのホテルの船着場に着いた。Laguna Beach ResortはLaguna地区の最も南にあって、景観の良いビーチのそばにある。このためプールと海岸が接しており、どちらも行き来ができる良さがある。子供向けにはスライダーのあるプールがあるので、家族連れには人気だ。もっとも人気がありすぎて若干混雑しており、ゆったりと過ごす向きには落ち着かない。

目の前はすぐそこが海岸なので、その方が落ち着けるかも知れない。Angsanaあたりよりは遠浅のような気がするし、ジェットスキーなどのアクティヴィティはこちらの方が充実している。波も静か。両ホテルはさほど離れてはいないので、海沿いを散歩がてらに行くこともできる。

私はプーケットに到着して3日目の朝、Laguna Beach Resortに出かけ、プールとその前の海岸で一日を過ごした。 ここのホテルを含め、ラグーナ内のすべての店やレストランはサインだけで決済ができる(プールについては決まりがあって、しかるべき料金を払いチケットを購入することとなる。この金額が結構高いので、私は仕方なく支払ったがプールに行くだけならお勧めはしない)。

これ以外のホテルで私が出かけたのは、もっとも高級と言われるBanyan Treeというホテル(Angsanaより北側)である。ここは見るからに高級で、ロビーなどもワンランク上の雰囲気である(AngsanaもBantan Treeの系列である)。敷地も広くゴルフ場で使われるようなカートでコテージを行き来する。しゃれたカフェもあって、そこでのんびり過ごすのも良い。子供が走りまわっていなければ、私もそうしたと思う。
ここへ行ったのは、海岸沿いのLotusレストランが近いだろうかと思ったからである。しかしビーチからは若干遠い上に、ビーチを少し戻る形で歩く。

ラグーナ地区の共通的なショッピングエリアというのがあり、Canal Villageと呼ばれている。ここにはおみやげ屋やカフェ、コンビニなどが並んでいて、銀行やクリーニング屋、医者もある。丁度郊外にできたモールのような雰囲気である。Jim Thompsonのアウトレットなどもあって、それなりに人は入っているが、至って静かである。子供用のトランポリンなどもあったが、私たちは船着場そばのカフェに座って夕立をしのいだ。静かで美しい日暮れ時は、何かヨーロッパにいるような感じだった。

2012年1月10日火曜日

プーケットへの旅行-Bang Tao Beach

ラグーナ・エリアは海に面しており、どのホテルからも簡単に海岸へ出ることができる。ホテル前の海岸はホテル客専用と言ってもいいほどにまわりから遠く、Angsana Laguna Phuketの場合にも宿泊客専用のタオルを備えたカウンターやシャワーなどがある。プールで泳がない日には、海沿いのチェアに寝そべって、何をするわけでもなくただぼうっとしているのが良い。このチェアはホテル専用の部分と、1日100バーツで都度確保するものとがあるが、実際どのようになっているのかよくわからない。

海は風の強い日には、やや波が高い。Angsanaの前はやや波が高くなる地形になっているような感じだ。しかも数十メートルで足が立たなくなるので、泳ぎに自身がないと少し怖い。海はインド洋のアンダマン海で、時おり非常に高い波が来るのも大洋ならでは感覚である。

ホテルから海に出ると、そこはラグーナ地区外のエリアなので、自営の店やレストランが乱立している。当然ホテルよりも安いのでなかなか重宝する。例えば洗濯は、Laundry Serviceの看板を掲げたおばさんに言うと、1キロ100バーツ程度で翌日までに洗ってくれる(もっと安いところもあるはずだが)。またどこにでもあるタイのマッサージは、ここでも一応受けられて500バーツ(1時間)程度である。水着のまま、風が吹き抜けていく感覚は、高級店では味わえない良さだろう。実際流行っている。

旅行会社のブースも多いが、たいていは一人でやっている。今回は行かなかったがピピ島のような離島へ行きたいとき、あるいはラフティングのようなアクティヴィティは、こういうところで安価に申し込める。タクシーも割安で、交渉次第だがパトン・ビーチまで片道600バーツほどであった。島をめぐる旅に出るのも悪くない。ホテルでタクシーを呼んでもいいのかも知れないが、ここのおばちゃんと知り合いになっておくと、何かと便利である。彼女たちは毎日同じところにいるので、覚えてもらえばいつも話しかけてくれる。片言の英語で何とか通じる。街中よりは高いが、ホテルよりは格安の売店、とうもろこしを焼いているおじさん、服やアクセサリを売るお店もある。みな友達同士といった感じだ。

もちろんレストランもある。どの店も同じような感じだが、Lotusというレストラン(Angsanaからだと少し北へ歩く)だけは非常に流行っていて、予約をしている客も多い。ここの味は確かに良く、雰囲気も良いので私も何度かでかけた。海沿いを歩いてゆくので、ビーチサンダルが便利。

どのレストランもメニューを掲げているが、タイ語にはお目にかからない。そしてどういうわけかロシア語のものが完備されている。一般的なタイ料理(と言っても辛さは控えめ)だけでなくピザやスパゲッティなどイタリアンが必ずある。味は店によって違うと思うが、まあ雰囲気はどこも似たようなものなので、昼間にビールやカクテルを飲み歩き、いろいろ研究するといいと思う。

物売りのおばさんも来るし象も歩いてくるが、非常にのんびりとした感じで好感が持てる。もっと海のきれいなビーチもあるようだが、それは次回のお楽しみ。タイのビールはジュースより安く、ミネラルウォーター並なので、一日に何度も飲みたくなる。カクテルはハッピーアワーで100バーツだがホテルのレストランだと400バーツくらいだから、そういう感覚である。もっともタイの普通の街なら、ここは馬鹿らしく高い地域ではある。

海岸の砂は細かく、南北に非常に長く続いているので開放感がある。日によっては壮大な夕日も見られるのかも知れない。だが雨季には海が荒れて泳げないと聞く。

波がすぐそこまでやってくる席に座って、夜には花火があったりするのを眺めながら、美味しいシーフードに舌鼓を打っていると、むこうからバンドの歌声が聞こえてきた。そういえばここは4年前、インドネシアの大地震の影響による大津波が襲った地域だ。ジュース屋のおばさんに聞くと、数名が亡くなり、ホテルは半年間に亘って閉鎖されたそうだ。だがここで大いに食べ、飲んでいる人たちは、そんな心配はしていないように感じられる。いつくるかわからない災害を心配して、意味のない堤防を立てるという話も聞かない。そんなことより所詮この世の快楽である。今を楽しまずしてどうするのか、と開き直っているのかも知れない。少なくとも私には、そう思えた。

2012年1月9日月曜日

プーケットへの旅行-Angsana Laguna Phuketのプール

Angsana Laguna Phuketのもっとも特徴的で感動的な施設は、アジア最大級とも言われているその長くて広いプールである。全長は300メートルもあるらしく、歩いて往復するだけで十分なエクセサイズとなる。深さは1.2メートルあるので泳ぐにも十分だ。深いから水温は暖かすぎない。このプールにほとんど人がいない。チェアで横になっている人が大半で、ときどき親子が歓声を挙げているが、たとえボール投げをしていても決して邪魔にならないくらい空いている。

上記の写真は、子供用のプールで砂が傾斜状にプールに入り込んでいる。けれどもある時間にここに入っている人は数人程度である。子供用とは言っても直ぐに水深は1.2メートルとなるので、大人にも十分と言える。チェアは十分な数が用意されていて、もちろん宿泊客専用だから、大きなバスタオルも用意されている。

このプールの向こう側の側面は、直接客室になっていて、客室のバルコニーから直接プールに入ることができるようになっている。この形態の部屋は人気が高い。子供用のプールはそのまま別の場所まで続いている。橋の下をくぐると、そこにはレストランPoolsideの一部があって、プールの中にも席が用意され、水に入ったままカクテルなどが飲める。

さらに中庭の茂みの中を通ってスイートルームの建物の方まで伸びており、ここまで泳いでくる人は少ないが、同じ人が行ったり来たりしながら歩いているので、すれ違うのもまた楽しい。まだ開業したばかりだからだろう、クリスマスの時期なのに誰も泳いでいないことも多い。建物の間をプールはさらに続き、別のレストランBodega Grillのそばまで続く。ここにはジャグジーや滝があって、子供でも泳げるように浅い作りとなっている。

Bodega Grillのそばのチェアは、なかなか素晴らしいのだが結構空いていた。甘いお茶やフルーツなども用意されているから大変贅沢な気分である。

静かなプールに本などを持ち込んで思い思いに時間をつぶし、暑くなったら水につかる。時々子供の相手をしたり、端から端まで往復したりすると、疲れて今度はしばし惰眠にふける。空は時おり曇ったりするが、風が吹いて心地よい。ヤシの木が揺れて、時々枯れ葉が落ちてくる。ゲストの国籍は様々で、いろいろな言葉が飛び交う。最も多いのがロシア語で、次が中国語。そしてオーストラリア人の英語。日本人はあまり見かけない。

夜になるとプールの底が青く光って大変幻想的だ。泳ぐことはできないが敷地内を散策し、そばのレストランで食事を取る。蝋燭がともされた薄暗いテーブルに、焼きたてのピザやタイ料理が運ばれてくる。マンゴジュースがオレンジ色に照らされている。水上バスが人を乗せてラグーンに着く。ホテルのバーからは、 カエルの合唱に混じって カントリーの音楽が聞こえてくる。落ち着いたムードの中で、ホリデーシーズンの夜は更けてゆく。


東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...