2019年3月24日日曜日

読売日本交響楽団第215回日曜マチネーシリーズ(2019年3月24日、東京芸術劇場)

シルヴァン・カンブルランはその9年に及ぶ読売日本交響楽団の常任指揮者在任中、数々の名演奏を繰り広げていたらしい。特にメシアンの歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」の2017年の名演の後は、その良好な関係が深化し、名演に次ぐ名演となっていたという。だから、いつかは聞きたいと思い続けていたものの、仕事や家庭の雑事に追われ、体調の良し悪しも手伝って、いままで一度も実演を聞いてこなかった。毎年何回ものコンサートが開かれるという理由もあっただろう。また次回にも、と言うわけである。

だがそんな指揮者も9年もの歳月が過ぎると、やがて終わりの日がやって来る。とうとうこのシーズンを最後に、彼は読響の常任指揮者を辞するというのである。最後の月であるこの3月は、カンブルランの集大成とも言うべきプログラムの数々で、イベールとドビュッシーから成る「名曲シリーズ」、シェーンベルクの大作「グレの歌」、さらには得意とするフランス現代ものばかりからなる特別演奏会「果てしなき音楽の旅」と続き、最後にはベルリオーズの幻想交響曲を中心とするマチネーシリーズで締めくくる。

マチネーシリーズは2日間同じブログラムなので、その後の方の24日のコンサートが文字通り最終公演である。カンブルランは今年71歳というから、これでもう我が国のオーケストラの指揮台に立つことはない、ということはない。すでに京都市交響楽団や広島交響楽団への秋の客演が決まっているらしい。だから本人も「全く悲しくはない」と話している(インタビュー記事による)。

それでも今月のコンサートに対する意気込みは相当なものだったようだ。さらにはTwitterで検索して見ると、賛辞に溢れたツイートが目立つ。そして私も出かけた東京芸術劇場での公演もまた、非常にしっかりとした気合の入った演奏で、読響の観客がこれほどまでの拍手を送る姿は初めてだった。3階席からは指揮者の表情を読み取ることはできなかったが、おそらくは本人も満足の行く演奏会だったのだろうと想像する。何度も続くカーテンコールの最後にはオーケストラから思いがけない「フレンチ・カンカン」のプレゼントが待っていたのには驚いただろう。

盛況のコンサートが終わっても鳴り止まない拍手に応え、2度もソロ・カーテンコールに応えた指揮者には、総立ちの観客からブラボーが絶えなかった。そのシーンを観客はスマホ写真に納め、SNSに投稿することが公式に許容されていた。だから私もこのブログに掲載することができる。このいきな計らいも保守的な読響には珍しい。

プログラムは満席の聴衆とオーケストラが緊張する中、ベルリオーズの歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲で幕を開け、さらにピエール=ロラン・エマールを迎えてのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番と続いた。フランスものばかりを並べた今月のコンサートの最終日に、このフランス人のカップルはベートーヴェンの作品を選んだことも意外である。しかも第3番は唯一の短調のピアノ協奏曲である。エマールは丁寧にこの作品を弾き、最後にはクルターグの「遊戯」という曲からの一節をアンコールした。

休憩を挟んで挑む幻想交響曲に、客席は固唾を飲んで聞き入っている。オーケストラもいつもと違う雰囲気である。その様子が伝わって来る。どこまでも煽ることなく、きっちりと丁寧な演奏も第3楽章になって木管楽器が活躍する牧歌となると、音の溶け合いもさらに深まり、第4楽章「断頭台への行進」から終楽章にかけては、圧倒的な音量と統制の中で聞くものの心を掴んでいった。

このコンサートは私にとって特殊な経験となった。実にしっかりと申し分のない象徴的な演奏会なのだけれども、どこか感動しないのである。その原因はいくつか考えられる。まず私の体調。花粉症の季節に、どことなく雑音の多い観客。いくら最前列とは言え3階席ともなるとオーケストラの音は総じてこじんまりとしており、反射音が多いためか特に弦楽器に厚みが感じられない。いやもしかすると、それはフランス音楽を意識した音作りなのかも知れない。でも昨秋に聞いた井上道義によるマーラーの時にも感じたのだが、これは読響の限界を示しているのだろうか。それともホールの特性か(新国立劇場で聞いた「神々の黄昏」は素晴らしかったし、やはり昨秋のアントニーニの演奏会も悪くなかったのだが)。だがそういうことは、この記念になるような演奏会に対しては、避けようと思う。私は一期一会ともなるカンブルランの体験に、その最終の公演に立ち会うことができたのだから。

カンブルランが読響の常任指揮者になる前に、私はベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」のビデオを買って持っていた。最初なかなかとっつきにくかったベルリオーズの音楽を、鮮やかに聞かせてくれた演奏だった。だから私は、カンブルランのベルリオーズこそ聞きたいと思っていた。もしかしたら、私が初めて聞いたDVDから数十年が経ち、こちらの耳が、感動的なものを感じなくなってしまっているのかも知れない。肥えてしまった、というのならいいが、心に余裕を失くしてしまっているとしたら、少し悲しい。

2019年3月22日金曜日

ベルリン放送交響楽団演奏会(2019年3月20日、東京文化会館)

平成の30年間は「失われた30年」と丁度重なり、バブル崩壊後すなわち昭和の終わりをゆるやかに下る、失意と閉塞の時代でもあった。平均化すれば縮小していく経済は、この国をなだらかに「金持ち国」から「貧乏国」へと導こうとしている。だから、我が国を訪れる欧米のクラシック音楽家は、この先もうなくなってしまうのではないか、と長い間危惧してきた。

それでも我が国には、ヨーロッパに劣らないほどの愛好家がまだ多くいて、来日する音楽家を心待ちにしている。21世紀に入って20年近くたとうとしている最近でも、毎年多くのオーケストラやソロ演奏家が東京を訪れる。毎日どこかのコンサート会場で、世界を代表する団体の公演が繰り広げられ、時にはバッティングすることも多い。地元の演奏家がこれに加わり百花繚乱の様相を呈する我が国のクラシック音楽界の状況は、ここ東京が、ウィーン、ベルリン、ロンドン、ニューヨークなどと並び、世界の音楽の中心地であるとさえ思える。いやそうなってもう久しい。

毎年3月頃の、丁度イースターの前の時期になると特に多くなる来日演奏家の公演は、今年3月20日も赤坂のサントリーホールでは、グスターボ・デュダメル指揮ロス・フィルが、上野の東京文化会館では、ウラディーミル・ユロフスキーが指揮するベルリン放送交響楽団の演奏会が、ちょうど同じ時刻に始まるという事態となった。しかもプログラムでマーラーの「巨人」をどちらも取り上げると言う偶然が重なる。

もっとも私は、今や来日のオーケストラ公演は年に一度程度しか行かないし、その理由は昨今の座席代の高騰にあるので、デュダメルを一度は聞いてみたいと思いながら、S席2万9千円という目の玉が飛びでるような価格を見てあっさりと断念。いくらなんでも、それはおかしい、なとどぼやいていたところ、もう片方のベルリン放送響の方は、まだB席が残っていて1万1千円となっている。しかもソリストにレイフ・オーヴェ・アンスネスが招かれてブラームスの協奏曲第1番を弾くという(ちなみにロス・フィルは何とユジャ・ワンである!)。しかも「巨人」は嬉しいことに「花の章」付きという。これは聞き逃す手はない。年末にはカレンダーに印をつけ、満を持して3階席の最前列を確保した。

ところが3月に入って、私のもとにある手紙が郵送されてきた。おもむろに開封すると、そこには何とアンスネスが昨年より肘を痛めており、プログラムをブラームスのピアノ協奏曲第1番からモーツァルトのピアノ協奏曲第21番ハ長調K467に変更するというのである。並行して開催されるリサイタルは中止されるものの「 来日公演を強く希望する本人の意思を尊重して」オーケストラ公演には予定通り同行するというのである。私の行く公演は一連の日本ツアーの初日に当たり、主催は都民劇場。プログラムの最初には、これも予定になかったモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲が組まれた。

来日の初日、しかもプログラムの変更。客席は満席とは言い難く、特に1階席を中心に空席も目立つ。観客に高齢人が多いのは最近では珍しくないが、今日は特にその傾向が強い(若い人を見かけない)。通常なら嫌なものが頭をよぎる事態である。ところが舞台に登場したオーケストラから出て来たドイツの音楽は、やはり本場物を思わせる音色に伴われ大変充実したものだった。ユロフスキーは細身の長身から的確に各パートを指揮する。私は初めて聞く指揮者だが、最初の「フィガロ」の音感覚から好印象を持った。

待望のアンスネスは、チューニングを終えたオーケストラが静かに待機する長い時間のあとにようやく登場し、どういう音楽になるのかと固唾を飲んで見守ったが、そのモーツァルトからは、やはり世界を股にかける第一級のピアニストからしか聞こえないような、明確で綿密な音楽に、一気に引き込まれていった。第1楽章の展開部で見せるニュアンスの変化は、CDなどで聞く巨匠の録音からはあれこれと批評され、またその通り聞きとれるのだが、実演で感じ取れることはなかなかない。けれども今日のアンスネスの弾くK467の表情は、淡い緑から少し濃い緑に変化するようなかすかなものでありながら、微妙な部分にまで神経を行きわたらせたものである。それは丁度、日向から日陰に入るというよりは、陽射しが次第に増してゆく春の陽気であり、薄雲にわずかに陰ったり、また晴れたりといった丁度今の季節に合っている。

第2楽章の微妙なアンダンテは、思い入れたっぷりの演奏を聞きたがるが、ここではすっきりとしていて、それでいて表情が確信的である。第3楽章の愉悦に満ちたロンドも、それほど難しい音楽ではないが、こうやってきっちりと第1級の名演奏で聞くと、これ以上にないような幸福感に満たされた。もしかするとブラームスでなくても全く良かったのではないだろうか。モーツァルトの有名曲を、これほどきっちりと演奏された名演奏に接する機会など、実際なかなかないものである。「真の傑作」は「美しさとユーモア、ソリストとオーケストラの間で交わされる気品に満ちた会話に溢れ」、この「魔法のような」音楽を心行くまで楽しんだ観客の大きな拍手に応え、何とアンコールまで演奏されたのは驚いた。ショパンの夜想曲第4番が弾かれるわずか数分の間に、今度は表情を一気に変えて集中力を増し、音の変化が紡ぎだす色の変化が、まるでスポットライトが舞台を照らしているかのようさえ感じられる。空気はいっそうさえ渡り、もしかすると私がこれまでに聞いたどの演奏よりも美しいピアノ演奏だったとさえ思う。

それにしてもベルリンのオーケストラは、モーツァルトを「おらが音楽」として自信たっぷりである。テクニックだけを見れば昨今のN響の方が、もしかすると上かも知れない。けれどもゆとりを持って弾く木管の味わいには、本場のオーケストラでないと表現できないものがあるというようなこともわかる。だから後半の「巨人」への期待は大いに高まる。そして第1楽章の「さすらう若人」の主題が聞こえて来た時には、実演でこの曲がこれほどに精緻に聞こえたことはなかったような気がした。

コンサートで「巨人」を、私は何回も聞いてきた。聞くたびにそれなりに感動的な曲で、演奏する側としては重宝するであろう。けれども全編を通していい演奏はあまりない。実演ゆえの興奮がもたらす効果に惑わされているが、昨年聞いたアラン・ギルバートの演奏など「終わり良ければ・・」の典型だったし(これでは「花の章」も台無しである)、これまで最高と思ってきたパーヴォ・ヤルヴィも第2楽章までは雑然としていた。 ヤルヴィを上回ったファビオ・ルイージも第1楽章は関心できなかった(もとより広いNHKホールの3階席では、音楽の感動も音波と共に減衰する)。

それに比べるとユロフスキーの指揮するベルリン放送響の今回の演奏は、私の「巨人」鑑賞史上断トツの第1位だった。第1楽章のピアニッシモの冒頭から横一列に並んだ8人のホルンが起立するコーダまで、聞きどころが満載で興奮の連続だった。ミスタッチがなかったわけではない。だがそんなことは何ら問題なく、音楽の統一感とそのライブならではの新鮮さ、そしてそれをおそらくはきっちりと目指す音楽の形の中に表現するプロの腕前は、まだ若作りと言われたこの曲が、すでに後半の交響曲につながる壮大で深遠なマーラーの世界を、その冒頭から持っていることを意識させるものだった。

特に第2楽章「花の章」は滅多に聞くことができないが、これほどにまで美しく実演で聞けたことが何より嬉しい。うっとりとする春のような、まさにこの季節に相応しいこの楽章は、間をあけず第3楽章(通常の第2楽章)につながっていった。その見事さ!この楽章の緊張感に満ちたスケルツォが、興奮を再び呼び覚ます。

静かに始まるコントラバスに耳を傾け、子供の頃に聞こえた行進曲を回想するマーラーが、つかの間見せる童心への回帰と懐かしさ。誰にも見せられないナイーブな心の弱さを、第3楽章の中間部で聞くことができる。この部分が私にとって最大の聞きどころでもある。ユロフスキーは優等生的ではあるが、決して醒めた指揮をするわけではない。身振りはそつなく器用にまとまってはいるものの、聞こえてくる音楽は中庸にしてフレッシュである。第4楽章に至っては、オーケストラの熱演も加わって、見事な演奏に終始する。全編1時間以上にもなるハイブリッド版「巨人」(様々な稿を混ぜたもの)で、オーケストラをその気にさせそれを維持するのは大変なことだ。だが、この日の演奏は、その稀な名演だったと思う。もしかするとそういう演奏は、常日頃から行われているのかもしれないが、人生の間にそう何度も聞くことができるわけではない。だから今日のアンスネスのモーツァルトとユロフスキーの「巨人」は、いいつまでも心に残る演奏になるだろう。

新しい人生への出発の季節でもある春を、私たち日本人は桜とともに待ちわびる。そんな3月の公演に相応しいプログラム。大規模な演奏会のために来日する数多くの団員はみな、日本での演奏が楽しそうだ。そしてそのことが感じられる演奏会だった。さらに驚くべきことに、このような曲の後にもアンコールが演奏された。バッハの「G線上のアリア」をマーラーが編曲したバージョンは、厚い弦楽器による今では珍しい響きだが、そのことがかえって新鮮でもあった。そう、今回の公演のテーマはマーラーだそうである。妻が行くことになっているサントリーホールの公演(は一連の最終公演でもある)では、マーラーの編曲したベートーヴェンの交響曲第7番が演奏されるらしい。きっと大規模で熱い演奏になるだろう。そしてその頃には、桜の花も満開になっているはずだ。

2019年3月10日日曜日

Spotify

SP→LP→CDとほぼ20年おきに大きな変化に直面する音楽再生メディアは、ここへきてストリーミング配信に急速に移行しつつあるというのが、今の私の率直な感触だ。ネットの時代になって20年以上が経過したが、音楽配信なんて随分前からあるではないか、と言われるかも知れない。その通りなのだが、CDが売れなくなって10年余りが経過し、そのあとに主流となるのが音楽ダウンロードかと思いきや、その時間は非常に短く、ダウンロード販売が主流になったとは言い難い(CDもこの間に売れ続けた)。

一方、CDのようなサンプリング周波数44.1キロヘルツ、量子化ビット数16ビットという古い規格のリニアPCMに変わるものとして期待されたSACDや、その録音技術であるDSDも、マスタ録音の場では古い規格に置き換わることになったが、再送用音楽ファイルのフォーマットとしては、一部マニアの枠にとどまっている。いやPCMでもハイレゾ化の移行は、ここにきてとん挫していると言わざるを得ない。常に聞き手が高音質を求めるのだという思い込みが、この判断を狂わせているのかも知れない。結局、ひところもてはやされたネットオーディオ機器も、今ではさっぱり売れなくなってきている。私もインターネットラジオを聞くくらいしか、いまではネットオーディオ機器を使うことはない。

これに変わって音楽配信、しかもダウンロードではなく、そのまま再生するストリーミング配信が、大規模にそのリスナーを増やしている。多くのストリーミング配信で聞くことができる音楽は、CDと同等かそれ以下の音質であるにもかかわらず、膨大な音源を有し、定額で聞き放題というのが特徴である。音源は以前にCD等で発売された過去50年程度のものだけでなく、最新のリリース作品も含まれる。聞き放題といっても月に千円以下というのが魅力である。加えて携帯音楽プレイヤーとしてのスマートフォンが、ますます重要になってくる。もちろん絡みにくく高音質なBluetooth対応のイヤホンとセットでなければ意味がない。

定額制のストリーミング・サービスは今や百花繚乱の如き様相を呈しているが、私の感触ではSpotifyが一歩先に行っているようだ。といってもすべてを試したわけではないのだが、いろいろな意見や記事を総合するとSpotifyの世界的戦略はちょっとしたものだ。まず、無料というグレードがあり誰でも手軽に試すことができる上に、その期間は何と無期限である。手軽に始められるだけでなく、そのまま聞き続けることができる。

勿論、制約もある。今のところ、30分に1回程度のCMを聞かなければならないし、シャッフル再生でしか聞くことができない(オペラ好きとしてはこれは困る)。音質も少し悪いし、ダウンロードして(通信料を節約して)聞くこともできないようだ。だがちゃんと契約しても月にたったの980円である。同じ住所に住む家族なら、1480円で最大6つのアカウントを所持できる。このことの意味は、とても重要である。違法ダウンロードがはびこるくらいなら、わずかでもちゃんと著作料を支払う契約者となってもらうことが、リスナーにとってもアーティストにとっても重要だと考えている点だ。もちろんマーケットは全世界だから、一人当たりの支出はわずかでも、作品によってはかなりの収入になるだろう。

音楽ストリーミング配信は、3つのものをリスナーから解放しつつある。まずひとつは、メディアを所有しなければならないという考えである。膨大なCDやその保管スペース、あるいはファイルの置き場所(すなわちハードディスクとそのバックアップを含む維持管理)が不要となる。これまで一生懸命になってカタログを見つめ、評論家の意見を聞きつつ集めてきたCDが、すべてゴミになる可能性さえある。もっとも人は、最終的には所有したくなる生き物だと言う人もいるが、私の場合、よほど気に入ったCD(特にオペラ)を除けば、点数を半数以下にできると考えている。もちろん今後はディスクを買うことはないだろう。

2つ目は、二番手以降の目立たない作品や演奏に対する根拠のない低評価である。購入する資金に余裕がない場合(たいていの人はそうだ)、ある作品に対し、世間的に高評価な演奏を買おうとする。リスクが少ないからだ。たとえそれが失望に終わっても、皆が讃える演奏について、自分なりの納得ができる。だがその結果として、いつまでも同じ録音のディスクが売れ続けて来た。ドヴォルジャークの「新世界」といえばカラヤンかクーベリックか。あるいはケルテスがいいのか(それも2種類あるが)。だが「新世界」は星の数ほどの録音があるし、これからも演奏され続ける。そういった演奏に触れる機会は、これまではなかなか得ることができなかった(機会としてはあったが、資金を拠出してわざわざ時間をかけて聞きこむだけのゆりとは、庶民にはなかった)。だが、定額制の音楽配信によって、これまで見向きもしなかった演奏や作品に出合う機会は増えるだろう。ネットでは一般に困難だとされる機会喪失も、音楽配信に関しては増大するというのが私の考えである(これはクラシックに限った話ではない。歌謡曲でも他人が歌った=「カヴァーした」歌に簡単に接することができたりする)。

今一つの解放は、面倒な再生操作である。コンパクトディスクが初めて登場した時に、永久に音質が劣化せず、しかも70分余りにも及ぶ再生時間の途中で、ディスクを裏返す必要はないと言われた。けれども今となっては、逐一ラックで希望のディスクを選び出し(そのために私は作曲家年代別に配列している)、プレイヤーやアンプのスイッチを入れて盤をトレイに乗せ、目的のトラックを選択して再生するという動作でさえ、面倒なものとなりつつある。FMラジオを聞くように、スイッチひとつで選曲ができ、それをそのまま世界中のどこにでも持ち出せるのがいい。Walkmanのようにいちいち音楽ファイルをコピー(かつてはカセットテープにダビングしたものだ)する必要もない。ラックを眺める代わりに、Spotifyには検索機能が容易されているし、気に入ったものが「お気に入り」に登録しておけばいい。

かつてカセットにダビングして好きな曲をリスト編集した行為は、Spotifyでは「プレイリスト」がこれに相当する。ここに6000万曲にも及ぶ音源から、好きなものを登録しておけばいい。随時並び替えもできるし、気分を変えてシャッフル再生も可能だ。これで好きな音楽リストを作れば、いつでも好みの音楽を聞くことができる。そして驚くべきことに、自分のプレイリストを公開したり、他人と共有することもできるのだ!

ということは他人のプレイリストも勝手に聞くことができる(公開をしない設定もできる)。自分と好みの似ている人が作成したプレイリストには、自分の好きな別の曲が入っていたりして面白いし、その人が登録している別の曲に触れることもできる。この機能によって、自分のお気に入りの曲ばかりを聞き続けることから少し離れ、ちょっとした偶然の出会いを楽しむことができる。これは今までになかった楽しみである。

さらには他人の作成したプレイリストだけでなく、Sportifyが自動的に作成するプレイリストというのがある。AI技術の導入によってある曲や歌手が好きな人向けに、コンピュータが選び出したプレイリストを提供してくれる。ある流行歌手が好きなら、その歌手の傾向に沿った様々な選曲をパッケージにしたもの(Radioと呼ばれる)もあって、気分に応じて様々な聞き方ができるというわけである。

GoogleのCromecastがあれば、Spotifyをテレビ画面に映すこともできる。ジャケットの画像や歌詞を写すこともできる。Chromecastの驚くべき利点は、操作するスマホの通信料がかからない(Spotifyを操作するPCやスマホは、あくまでリモコンに過ぎず、Chromecastの受信は自宅ならWifi経由となる)点だ。さらに私が契約している格安スマホのサービスには、Spotify(だけではないが)については通信料がかからないオプション(無料)があって、これを使えば外出しても通信量が加算されない。

FM放送のようなライブ感(「今、赤坂では雪が降ってきましたよ」などのトーク)がないことくらいだろうか。だがそれが好みならインターネットラジオでもradikoでも聞けばいいのであって、結局のところラジオとSpotifyがあれば私の場合、音楽生活は80%完璧である。あとの20%は、時々行く生のコンサートと特にこだわって聞くCDである。

Spotifyで最近接した例を2つ紹介しよう。

(1)1月にでかけたN響の定期では、ソヒエフの指揮によりフォーレの「ペレアスとメリザンド」、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」、それにリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」といった曲が取り上げられた。ブリテンは1枚、「シェエラザード」もたった2枚しかCDを持っていない私としては、もう少しいろいろな演奏で聞いてみたかった。だがそれにもまして、ソヒエフの他の演奏も聞いてみたいと思った。Spotifyで「ソヒエフ」と検索すると、ソヒエフの他のオーケストラを指揮して録音した他の曲などに混じって、「N響定期第1904回」とかいう誰かが作ったプレイリストが表示された。他の演奏ながらコンサートと同じ順番で、私はこれらの曲を聞き、実演との違いや曲の持つ他の側面を感じることができた。

(2)チレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」を最近METライブで見て、大学生の頃に初めてこの曲を聞いたことを最近書いたのだが、この曲のCDを持っているわけではなかった。こういう場合、CDを売る店は今ほとんど消滅したので、HMVオンラインなどで購入するか、あるいは昔のようにFM放送で放送されるまで待ち続けるしかない。図書館に行ってみれば、もしかすると誰かの演奏が置いてあるかも知れないが、このようなめずらしい曲のCDは、たぶんない。だが私は、いまやそんなことをしなくてよいのだ。Spotifyを起動して「チレア」あるいは「Adriana Loucverour」などどやれば、たちどころにアリア「私は芸術の僕」(の中には、ネトレプコのものもある)や、最新の全曲録音(2009年トリノ歌劇場のライブ)が見つかる。ネトレプコはMETライブで見たアドリアーナだし、トリノの全曲録音は自前で買うことはまずない代物である。だからこそこのようにお手軽に聞くことのできるSpotifyは、私の音楽生活に革命をもたらしつつある。


(補足)
定額制の音楽ストリーミング配信はほかにもある。このうちNaxosミュージック・ライブラリはクラシック専門として以前からあるものだ。検索の方法や音源の多さ(CDにして13万枚)など、クラシックに限れば一番充実していると思う。けれどもクラシック以外の音楽もこの際聞き放題を楽しみたいと思うのが通常だろう。しかもクラシックだけで毎月2000円するというのは、個人としてはちょっと躊躇する金額というのが実用だ。

Deezerは私が購入したネットワークプレイヤーにSpotifyと並んで対応しているサイトで、音質の良さ(といってもCDレベル)が売りである。だがギャップレス再生ができない(2019年末現在)というオペラ好きにとっては致命的な欠陥がある。

一方、MP3の320kbpsレベルと言われるSpotifyのPremiumも自宅ステレオに接続してみたところ、確かにCDには劣るのは明白だけれども、上記の「アドリアーナ・ルクヴルール」などをだらだらとBGMのようにして聞くだけなら何ら不足はない。音楽はそもそもライブで聞くもので、実際それに勝るものはない以上、ちょっとした音質の差など、価格と手間の圧倒的な手軽さの前では無意味な議論だと言える。

2019年3月3日日曜日

チレーア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」(The MET Live in HD 2018-2019)

あれは大学生の頃だっただろうか。FM放送から流れてくるチレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」という作品に、はじめて触れたのは。

当時私はヴェルディやモーツァルトのオペラに目覚めた時で、有名な作品であれば何でも聞いてみたいと思っていた。大学生であっても試験前の勉強くらいはするもので、その日は私も受験生時代を思い出しながら、自宅で机に向かっていた。勉強をするときは自然にラジオに手が伸びる。ところが日曜日の午後というのは、どこの放送局も競馬中継ばかり。唯一NHKのFM放送だけが、私をクラシック音楽に誘ってくれる時間だった。そういう誰も聞かないような時間帯に、NHKはオペラの全曲録音を放送することになっていた。

今でもニューヨークの公共ラジオは、メトロポリタン歌劇場の土曜日の公演を中継している。この放送を楽しみにしている人は多いようで、MET Live in HDシリーズの中でよくアメリカ人の歌手たちが、小さい頃この放送を聞いてオペラに目覚めた、などという話をしている。だが我が国ではオペラはまだ身近なものではなく、実演はおろかレコードを通しても、オペラを全曲通して聞くことなど滅多にできない時代だった。そのような時代に、NHK-FMの「オペラ・アワー」は、貴重な番組だったと言える。

透き通りような、それでいてしっとり落ち着いた声の持ち主、後藤美代子アナウンサーが喜歌劇「こうもり」の序曲に乗せて番組が始まる。その日の曲目は、私も聞いたことのない作曲家チレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」だった。どこの歌劇場の誰の演奏によるものかは、覚えていない。もしかするとその日は、CDの全曲録音ではなく、どこかの放送局のライブ録音だったように思う。タイトル・ロールを歌ったソプラノは、ミレッラ・フレーニだったかも知れないし、レナータ・スコットだったかも知れない。そのどちらかだけは、ほぼ確かだと思う。歴代の大歌手が主役を歌う作品であるにも関わらず、チレーアなどという「アドリアーナ・ルクヴルール」以外では知られていないイタリアの作曲家(唯一の例外は「アルルの女」における「フェデリコの嘆き」だろう)。ヴェルディの「椿姫」と「オテロ」、あとはプッチーニの歌劇のアリア集程度しか聞いたことのない私が、なぜかこの作品を初めて聞いて、それなりに楽しんだことを覚えている。

後で知ったことには、「アドリアーナ・ルクヴルール」は結構有名なオペラで数々の名歌手が録音を残しており、その中には上記のフレーニやスコット以外にもレナータ・テバルディ、モンセラット・カヴァリエといった錚々たる顔ぶれが並ぶ。多くの役をこなした世界的ソプラノ・スターが、やがてどうしても歌いたくなる作品、それが「アドリアーナ・ルクヴルール」とのことである。そして今回、METでその番が回ってきたのは、アンナ・ネトレプコだった。18世紀パリに実在した大女優の役と聞けば、世界中のヒロイン役を欲しいままにした人物が惚れる作品だということだろうか。

10年以上が経ったMET Liveシリーズに初登場した「アドリアーナ・ルクヴルール」は、その顔ぶれが豪華である。主題役のネトレプコに加え、アドリアーナと女性同士の熾烈な争いを繰り広げる恋敵のブイヨン公爵夫人にメゾ・ソプラノのアニータ・ラチヴェリシュヴィリ、二人が争う美男のザクセン伯爵マウリッツィオにテノールのピョートル・ベチャワという布陣。今やイタリア・オペラを歌える歌手は、みなロシア・東欧系になってしまった。一方、重要な役割を担う劇団の舞台監督ミショネはバリトンのイタリア人、アンブロージョ・マエストリである。マエストリと言えば、「ファルスタッフ」の当たり役というイメージが強い実力派である。

読む年齢によって小説の見方が変わるように、オペラ作品もまた年齢によって見方が変わる。若い頃は「椿姫」の「ある日、幸運にも」(アルフレードが第1幕で歌うアリア)などを聞いては胸を締め付けられていたが、今ではミショネの密かな恋心と、温厚で優しさを湛えた心情に心を奪われる。彼は第1幕で自分がアドリアーナの相手にはならないことを悟ると、独白「さあ、モノローグだ」で複雑な感情を吐露するものの、以降この劇には何かと出続け、いつもアドリアーナに寄り添うことで思いを保とうとする。その初老ゆえの知恵とで言うべき行動は、作曲者チレーアの投影ではないかと書かれている(音楽之友社「スタンダード・オペラ鑑賞ブックⅠ~イタリア・オペラ(上)」)のを読んで一層親近感が増した。

ストーリーは一人の男性を巡る二人の女性の鞘当てと書けば単純だが、見た感じでは随分複雑である。だが私はここで、この作品を金曜日の夜に映画館で見たときの状況を正直に告白しなければならない。2月に入って体調を壊し気味だった私は、仕事が終わってから3時間余りにもわたって映画館に座るだけの体力がないことは明らかだった。それでもこの作品は見ておきたい。この機会を逃すわけにはいかないので、私は迷った挙句、結局東銀座の駅から東劇へと歩いて行った。パンを二つ買い込み、インタビューの時間などに食べていると、予想通り睡魔が襲ってきた。

最近のMETライブには珍しく、どういうわけか客の入りが良くない。これほどきれいな歌に満ちた作品なのに意外であった。けれども音楽を子守歌にうとうととするには好都合だった。第1幕でネトレプコがいきなり有名なアリア「私は芸術の卑しい僕」を歌ったのを最後に、ほとんど記憶がない。途中、第2幕との間も切れ目なく上演されたため、私が目を覚ますのは、アドリアーナとブイヨン公爵夫人が対決する壮絶な二重唱(第2幕の幕切れ)だったのだ!おかげでこの作品のもっとも複雑な部分、すなわち政治的な理由でマウリッツィオが公爵夫人に取り入る部分をすっ飛ばして理解することとなった。

第3幕はフランスを舞台にしたオペラらしくバレエも挿入されるものだが、ここの音楽「パリスの審判」はほのぼのとしたもので、劇中の舞台で演じっれると古風でこじんまりとした感じ。チレーアの音楽は他の作曲家の作品と比べても、どことなく決定打に書ける感じがする。そんな微妙な不足感が実はこの作品の魅力で、私が学生時代に「ながら勉強」しながら聞き続けた理由もあるような気がする。つまり、何となく聞いているオペラとしては実にうってつけなのである。ヴェルディのように高カロリーではないし、プッチーニのように胃にもたれることもない。おかげで特に心に残るメロディーがあるわけでもないし、クライマックスと呼べるようなドラマチックな場面も少ないにもかかわらず、十分に抒情的で時に歌手が、感情的に変化して急に高らかに歌い始めるあたりは、イタリアにおけるオペラの大衆演劇という側面をにわかに表す。

アドリアーナがマウリッツィオに贈ったすみれの花が、よりによってなぜかアドリアーナに届けられ、恋人から絶縁されたと嘆くアドリアーナ(そういうシーンにも常にミショネは登場する)のもとへ、やっとのことでマウリッツィオが戻って来るが、彼がアドリアーナと愛の二重唱を歌う時には、ブイヨン公爵夫人が偽って届けたすみれの花に染み込まされた毒がアドリアーナに回り、彼女は痙攣を起こしながら死に絶えてゆく。

劇団コメディ・フランセーズの人間模様がこのオペラのまたひとつの側面だが、女性の嫉妬による恋敵の毒殺という劇的な要素が絡んでいる。それも歌が適度に心地よく、いわばオペラの典型のような作品だと思う。そんな作品を劇中劇として再現し、舞台の中の舞台に人間関係を表現したデイヴィッド・マクヴィカーの演出は見事だと思った。彼はまたインタビューで、本作品の本質的な要素として、真実と嘘の境界がわからなくなる点だと述べていたような気がする。第3幕の後半で、バレエを見る客席に座っていたアドリアーナと公爵夫人が、いつのまにか感情をむき出しにして歌い始める時、視点は舞台の中から外に飛び出る。「道化師」の先駆けとも言えるような設定が、ことのほか生きてくるのだと思った。

ヴェルディの後、プッチーニに向かうオペラ史の中で、ヴェリズモ的要素をほのかにたたえつつも、フランスらしい抒情性を持ち合わせた作品。指揮のジャナンドレア・ノセダは、昨年N響の定期を振った引っ張りだミラノ生まれのイタリア人で、長らくトリノの歌劇場で活躍してきた経歴を持つ。彼は煽るタイプの指揮者で、ちょっとムラがあるというか、その時によって印象が随分と異なる印象がある。けれども今回の上演では、オーケストラから力強い表現を引き出していて見事だった。


(注)「オペラ・アワー」を始めとするNHKのクラシック番組を長年担当した後藤美代子アナウンサーは、 2017年逝去されていたようだ。「オペラ・アワー」に代わる番組は今でもあるようだが、まだ音楽メディアが少なかった頃の、心をときめかせてくれたFM番組で聞くクラシック音楽の時間が、名実ともに過去のものになってしまったような寂寥感に見舞われた。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...