2012年8月31日金曜日

東海自然歩道③(摂津峡~南春日)

大阪のハイキングでは必ず登場する「ポンポン山」は、大阪と京都の境にあって、山崎の奥の方にあたり、明智光秀が織田信長を討つために引き返した「天王山」の裏手に当たる。このコースは手軽に山歩きを楽しめる上、美しいお寺を通る。その日は丁度「文化の日」の祝日で、紅葉を楽しむハイカーで大勢の人出であった。東海自然歩道を歩き始めて3回目で、数多くの人に出会った。1979年の秋のことである。

神峯山寺(かぶさんじ)はそのポンポン山への登山の入り口にある、なかなか風情のあるお寺で、あまり有名でもなく、かといってそれほど知られていないわけでもない。天台宗のお寺で開山が697年というから奈良時代の話である。考えてみれば、箕面から勝尾寺を経てここに至るまで、修験霊場を通ってきたことになる。役行者の銅像などもあるから、まさにそのような北摂の「秘境」を散策しているのだが、家から近いところの山々がこのような歴史を持っているのかと思うと、何かとても不思議な気持ちであった。

写真はその神峯山寺の写真(撮影は2009年の秋)だが、細い道をくねくねと通ってきたところに広大なお寺の参道があって、平日は静かなところである。時おり参拝客がつく鐘の音が谷間にこだまする。そのような神峯山寺を突き抜けて、本山寺の参道となり、ここをポンポン山めがけて上り坂が続く。ハイカーも多く、道も狭いので、他の客に邪魔にならないようにテンポよく歩いていたら、意外に速く山頂に着いた。足を鳴らせばポンポンと鳴る、などと言われているが、頂上には広場も少なく景色も良くないので、そのまま下り坂を勢い良く下る。

それからどういうところを通ったか、もう昔のことなので忘れたが、気がつくと京都に入っていて、宅地化の波が波及してきているそのような郊外の縁を、楽しく歩いていた。「南春日」という阪急バスの停留所があるのを発見したので、今日はそこまでとし、家路を急いだ。そこから先は京都のへりをまわって社寺仏閣を尋ねる、なかなかのコースである。だが長い距離を歩いた私たちは、気持ち良い疲れを感じながら、阪急東向日駅に着いた。


2012年8月29日水曜日

R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」(The MET Live in HD 2009-2010)

ドタバタ劇に最高の音楽が一貫して寄り添い、生き生きとした人間模様が描かれる。それはまさにモーツァルトの再現と呼ばれるに相応しいと思った。R.シュトラウスの代表的な作品である歌劇(と言うよりは楽劇)「ばらの騎士」は、私にとって何故か遠い存在の作品で、これまでに実演でも接した「陰のない女」や「ナクソス島のアリアドネ」、あるいはビデオで見た「サロメ」よりも後に触れる作品となった。いやこれまで見たことのない作品であったことがむしろ不思議である。

その理由はこのオペラの魅力が、誰かによって語られてもなかなかその面白さが伝わってこないことになるのではないか。つまり音楽がどのような文章を持ってしても、それを超える様な表現にならない。そのくらいこの作品は、その音楽によって印象づけられる。優れて音楽的な作品と思う。

それは序奏とそれに続く元帥夫人とオクタヴィアンのベッド・シーンから、最後はオクタヴィアンとゾフィーが結ばれる最後まで途絶えることがない。台本を読めば荒唐無稽な会話にしかならない劇も、音楽に乗って語られただけで、ドラマチックになったり、ペーソス溢れる気分になったりと、それは丸で魔法のように自分を襲う。シュトラウスの術中にはまったようなところが、また何とも言えず心憎い。聞き慣れたワルツの音楽も、第3幕になって一気に盛り上がり、そのまま三重唱に雪崩れ込むあたりは、この作曲家の真骨頂である。

The MET Line in HDシリーズの夏のリバイバル上演も、すっかり私の年中行事となった。今年も2012-2013シーズンが始まるまでの残暑の東京で、これまでに見落としていた作品を見て行く事にする。その最初が、2010年1月に上演された「ばらの騎士」で、元帥夫人はもちろんルネ・フレミング、その恋人のオクタヴィアンにスーザン・グラハムという配役は定番である。原作では17歳と32歳の関係だそうだが、実際は歳の差があまりなく、しかもゾフィーのクリスティーネ・シャーファーを加えるともう「タカラヅカ」の世界になりかねない。

だから客席には女性が多いのかと思いきや、中年以降の男性が目立つ(相変わらず客席は20人くらいと少ない)。女性のオペラ・ファンは、「タカラヅカ」とは違い、むしろテノールの男性歌手を好むから、主役3人が女性、しかも唯一の主役級男性はスケベなオックス男爵ただひとりということになれば、これはそういう女性ファンを惹きつけない。しかし、主題は女性の老いということになっているし(または男性の存在の浅さか)、音楽が女性の重唱を聴かせるために書かれたと思うようなメロディーの連続なので、これはそうとう意図されて作曲されたと思われる。

実際、オクタヴィアンがもし男声によって歌われたら(あるいはバロックオペラのように、すべてが男声によって演じられたら)、またそれは全く違った世界になっていたと思われる。だが幕間のインタビューでプラシド・ドミンゴが語っているように、このオペラのタイトルは、「オックス男爵」になる予定だったそうだ(シュトラウスの妻に反対され「ばらの騎士」になったらしい)。

指揮はオランダ人のエド・デ・ワールトで堅実な運び。演出はナサニエル・メリル。このふたりはめずらしくどちらもインタビューに取り上げられない。もし指揮がレヴァインだったら、などと思って聞いていたが、そう言えば「ばらの騎士」にはあの伝説的なカルロス・クライバーが2つもの映像を残している。私はそのいずれもまだ見たことがないので、これはやっとそれを見る準備が整ったというべきだろう。

カルロスのリズム感に溢れ、メリハリの聞いた指揮は、この音楽にきっと素晴らしくマッチしている。シュワルツコップを元帥夫人に迎えたカラヤンのビデオも見てみたい。そしておそらくMETのこのシリーズで、私の経験上、5本の指に入るであろうレベルの感激であったことも指摘しておきたい。歌もさることながら、とにかく音楽に酔いしれた4時間が、あっという間に終わった。「百聞は一見に如かず」ということを実感した今回の「ばらの騎士」で、久しぶりにMetの感激を味わった。

2012年8月28日火曜日

東海自然歩道②(泉原~摂津峡)

夏に再び泉原を訪れた時に、私たちは中学生になっていた。上音羽の農道を標識に従って歩いていたら、畑作業をしていた農夫が私たちを呼び止めて、何やら話してきた。訛りがひどくて何を言っているのかよくわからなかったが、よく聞いてみると「研究しとるんやろ」というようなことを言っているのがわかった。「研究?」私たちは顔を見合わせたが、農夫はにこりと微笑んで私たちの行く方向を教えてくれた。

「研究」という言葉が長い間私の頭から離れなかった。一体何の研究をする目的で歩いていたというのだろうか。だが今ではその「研究」がこういうことではなかったかと想像している。

上音羽と 千提寺の集落は、昔から隠れキリシタンの里として知られていた。高槻の城主だった高山右近は、信長の時代にクリスチャンとなり、以後、江戸時代に入ってもキリスト教を捨てなかった。ここの集落一体は、その当時に追放されたキリシタンが隠れて暮らしたことで有名となり、今では博物館も立っているが、当時はまだそのような建物はなかった。私が調べたところでは、その末裔がキリシタンとして公になったのは、何と大正時代になってからだそうだ。

そのような高山右近は、丁度この近くの高山という集落で生まれた。今でも地名が残るその場所は、北摂霊園の入口付近の、それは小さな村落である。しかしここには「隠れマリア像」が残り、「高山城」というお城まであった(写真は北摂霊園から見た高山集落。2012年撮影)。

高山右近は加賀からマニラへ逃れ、キリシタンとしての生涯を終えるが、その様子はNHKの大河ドラマ「黄金の日々」を思い起こさせる。その後私はポルトガルとの交易に興味を持ち、リスボン、マデイラ、マラッカ(マレーシア)、マカオなどを訪れたばかりか、長崎、平戸といった隠れキリシタンの村にも足を運んだ。遠藤周作の小説「沈黙」は、後年に読んで感銘を受けたが、そのキリシタン体験の私の原点というべき上音羽集落を通って、竜王山へと向かった私たちは、その農夫からキリシタンのことを夏の自由研究にでも調べていると思われたのかも知れない。

急激に山を上り、頂上といってもさして景色もよくないひっそりとした竜王山で昼食を取ったあと、急速に山を下ったところに千提寺があり、その境内を通って再び山道に入るという面白いコースをたどったが、真夏の平日にこのようなところを歩く人もおらず、山道を通ると何やら蛇らしきものが逃げていくような体験もした。

車作という名前の集落に出ると、ここはダンプカーがひっきりなしに通る騒々しい府道を歩かねばならなかった。集落は山間の古いところだが、どういうわけかこの場違いな光景が私たちを印象付けた。騒音を立てて走るダンプカーに轢かれまいと注意しながら、私たちは何の面白みもない林道に入った。勾配がさしてあるわけでもないこの林道は、どのくらい長く続いたかわからない。まったくもって人影もなく、しかも単調な林道で、山道でもなく集落でもない、おそらく東海自然歩道の中でもっともつまらない部類の道である。

だが私たちはここをかなりの早足で歩いた。その方が速くここを脱することができる、という思いからだが、それには理由があって、夏の夕立が迫ってくるような感じがしたからである。積乱雲が立ち込め、いつ雷がなってもおかしくはなかった。強い日差しと目が眩む様な猛暑の中を、私たちは摂津峡を目指して急いだ。再び山道に入って、蜘蛛の巣をかき分けながら清流が見えてきた時には、雷が鳴り響き、大粒の雨がたたきつけるように降ってきた。ここでキャンプをしていた人たちも退散して、すっかり人はいなくなっていた。私たちは一目散に走り、そして摂津峡のバス停にたどり着いた時にはびしょぬれであった。

2012年8月27日月曜日

東海自然歩道①(箕面公園~泉原)

東京まで続く東海自然歩道の第一歩は、箕面の滝をさらに上ったところにある「政の茶屋」で、ここには大きな看板が立てられ、その横から上りの階段に入っていく。自然探索路ともなっているここから勝尾寺あたりまでは、歩く人も多く、道幅も広い尾根道である。休日でなくてもリュックを背負った行楽客が、時おり後を振り返りながら登っていく。休憩したり立ち止まったりするたびに追い付かれたり追い抜いたりしているうちに、開成皇子の墓にたどり着く。ここが一番上で、いわば頂上である。

勝尾寺(写真。ただし2010年の頃のもの)はこのあと急激な下り坂を降りれば10分程度で到着するが、逆に勝尾寺から登ると30分くらいかかる。だからこの時私たちは勝尾寺へはよらず、そのまま北摂霊園の方を目指した。道はこのあたりから狭くなり、通る人も少なくなる。

早朝に千里の自宅を出たものの、昆虫館へよったり猿と「鬼ごっこ」をしているうちに、早くもお昼の時間になってしまい、開成皇子の墓の近くで昼食のお弁当を食べた。小学生の四人組というのも珍しいのだろうか、すれ違う人はにこやかに挨拶を返してくれるが、そのような出会いも勝尾寺への分岐までであった。

私たちは国土地理院の発行する二万五千分の一の地図に赤く線で塗りつぶした道を、迷わないように注意しながら進んでいったが、北摂霊園を左手に林道へ下る頃には、人影もなくなり、背丈を超えるような草が生い茂っているような、淋しい道を進むことになった。基本的に分岐がない間は、東海自然歩道の標識がない。このため迷っても気づかない恐れがある。私たちは早くも不安になり、何度も地図とガイドブックを読み比べながら、もう暗くなりかけた砂利の林道を進んでいった。すれ違う人も、車も何も通らない。私たちはもうあまり会話をしなくなり、今日は次の集落までにして帰ろう、などと話し合った。

そこに一人の若者が前を歩いていることに気づいた。二十歳位の彼は、結構大きなリュックを背負っており、野宿も覚悟のハイカーに思えた。我々は小学生で軽装である。我々が追い抜こうとした時に視線があって、「こんにちは」などと話しかけた。その大学生(と思われた)は、我々ににこりと微笑んで、どこから来たのか、どこまで行くのかなどと聞いてきた。こちらも聞いてみたと思う。このようなところを歩いているのは、東海自然歩道のハイカーに決まっていた。私は彼もこれから相当何日もの間歩き通すのだろう、一体どういう理由でこのようなことをしているのか聞いてみたくなった。

だが荷物の大きな彼は、我々より相当重い足取りだった。少しの間一緒に歩いたが、やがて彼は「気を使わないで、先に行っていいよ」というようなことを言ったと思う。私たちは暮れてゆく山中の人もいない林道が淋しいので、何とも心苦しかったが先を行く事にした。優しそうな青年だった。彼は私たちをどう思ったのかわからない。だが、彼も何かとても嬉しそうだった。

大阪府茨木市に入っていた。小さい時から自動車で何度か通った集落が、ここの泉原というところだった。ここも大阪か、と思うような山里の村は、静かで、なかなかの風情がある美しいところをある。東海自然歩道の面白さは、そのような山里の家の路地裏を通り抜けることにある。道が分岐するたびに共通様式の看板が立ててある。その標識をたどりながら、泉原の集落を降りてゆくと、そこには阪急バスのバス停があった。時刻表で調べてみると、茨木市行きのバスがもうすぐ来ることがわかった。

私たちは、そのバスに乗ることにした。ここで帰らないと、次の集落がどこで、どこから帰られるかわからない。だから私たちは無理をしないことにしなのだ。もちろん頭には次のことがあった。次回はここに再び来て、そのあと摂津峡まで歩けば丁度いい距離で区切りがいい。そういうわけで私たちは、ここでハイキングを中断した。実際に歩いてみると、いろいろなことがあって楽しい一日だった。このことがきっかけになり、このハイキングはその後、4年間、全部で12回にも及ぶ行程になったのである。

2012年8月26日日曜日

東海自然歩道(プロローグ)

「東海自然歩道」というのは、明治百年を記念して整備された全長1700キロにも及ぶハイキング道である。「明治の森」という名の国定公園が、日本には2箇所ある。この道はその間、すなわち東京の高尾と大阪の箕面を結んでいる。

古くから関西(上方)と関東を結ぶ街道は我が国の基幹道であり、近代以降も鉄道や道路が、まずはこの2つの大都市間を結ぶものとして建設されてきた。だがそれらとは一線を画し、ただ歩くためだけの、それも山間部のみを通過していく道というのはなかなか興味深い。しかもこの自然歩道には、統一的な標識が随所に立ててあり、とりわけ京都や奈良といったあたりでは、いわゆる名所旧跡の中でも山野に点在する社寺仏閣の類をわざわざ経由してくれる。つまり、究極の歴史散歩のような側面を持っているのである。

関東の一部を除けば、比較的アクセスのし易い街道や山里を通るので、ハイキングの初心者にも適しており、何よりも順に辿りつつ歩くことで、少しづつ東京に近づいていく(上りの場合)というゲーム感覚も手伝ってなかなか楽しい。

私がこの存在を知ったのは、小学生の時だった。当時在住していた大阪府豊中市北部、千里丘陵の一角は、この起点となる箕面に大変近く、小さい頃からその山脈を眺めて暮らしてきた。事あるたびに訪れた「箕面の滝」からさらに少し登ったところが、その出発地点となっている。私は国土地理院が発行する2万5千分の一地図を順に買い込み、赤鉛筆とガイドブックを片手に友人と道をトレースしていくうちに、次第に自分の足で歩いてみたくなり、とうとう小学校を卒業した翌日に、友人3人と歩き始めることになった。

まだ桜も咲かない初春の早朝に、私たちは箕面の滝道を上り、静かで清々しい朝もやの中に、多くの猿がいるのを発見した。友人の1人が少し近道をしようとして、崖の中を歩こうとしたその時に、一匹の猿が彼を襲い、(ここではよくあることだが)彼の昼食に持参したおにぎりを彼らに奪われるという事件が発生した。もっとも早朝だったのであたりには誰もおらず、私たちはただ笑い転げるのみだった。

その後通過した「昆虫館」では、まだ開館時間前だというのに4人もの小学生が通ったことに驚いた館長が、特別に館内を見せてくれるという嬉しい申し出があり、私たちは小一時間、カブトムシやトンボ、それに蝶やセミなど、完全に貸切状態で見物することができた(私が虫というものに興味を抱いたのは、後にも先にもこの時だけである)。このような楽しい時間を過ごしていたので、出発点の「政の茶屋」に着いた時にはもうお昼になっており、そしてそこからどこまで歩くかさえ決まっていなかった私たちは、東京までの全長を記した大きな案内板を見上げながら、「さあいよいよ始まるぞ」を意気込みを新たにした。



さて、私はこれから数回にわたって、この12歳のときに歩き始めた東海自然歩道の思い出を、少しづつ書きし記して行こうと思う。もちろん、はじめてハイキングに出掛けたのはもっと小さい時であったし、その際の記録というのも別に書いておこうとは思う。だがまず、私が自発的に友人たちと出掛けたこの記録こそが、私の最初の「旅行」の原点であると思う。

ところがそのような楽しい東海自然歩道のトレースも、私たちが大学に進学するための勉強に忙しくなった頃には自然消滅してしまった。それまでは春休みや夏休みなど、年に数回のペースで歩き連ね、気がつくと日帰りも困難な滋賀県の信楽付近にまで到達していた。

私は克明にというわけではないが、出掛けた記録というのはメモしている性格なので、実は何月何日にどこを歩いたかということだけは、今でもわかる。そのメモを先日発見したのがこの文章を記すきっかけであるのだが、その経過は以下の通りである。


  1. 1979年3月23日箕面公園~泉原集落
  2. 1979年8月泉原集落~摂津峡
  3. 1979年11月3日摂津峡~南春日
  4. 1980年4月3日南春日~清滝
  5. 1980年8月7日清滝~玄啄
  6. 1980年玄啄~貴船口
  7. 1981年4月7日貴船口~大原
  8. 1982年4月1日大原~比叡山根本中堂
  9. 1982年8月19日大谷~南志賀
  10. 1982年11月21日比叡山根本中堂~南志賀、大谷~石山寺
  11. 1983年3月28日石山寺~宇治
  12. 1983年8月25日石山寺~雲井


東京に移り住んで20年以上が経過したが、東海自然歩道のもう一つの起点である東京の高尾山には、実はまだ出掛けたことがない。一度行こうと思いつつ何年もが過ぎた。高尾山からのルートは、相模湖あたりまでは家族向きだが、そこから先はしばらく本格的な登山コースになると聞く。もとより闘病中の私はかつてのような体力を喪失してしまっている。けれども富士五湖をドライブで訪れた際、曲がり角に「東海自然歩道」の標識を発見した際にはとても懐かしく思った。

結局私が歩いたのは、全体の十分の一くらいではないかと思う。そして東海自然歩道の名は、以降あまり聞かなくなったので、今では標識の整備状況もわからない。何度も迷ったことがあるし、宅地開発によりなくなっていたり、あるいは標識が曲がっていたりすることも当時から多かったので、もしかするとこのようなコースは、自然消滅するかも知れない。ちなみにamazonで検索してみても、何年か前に発売されたガイドが見当たる程度である。

なお、私はこのような少年の頃の思い出を書き記すのが初めてである。どのような形で文章にするか、結構悩んだ。当時の写真もほとんどないし、気軽に再訪することもできない。山登りや歴史散歩の専門家でもないので、記憶を頼りに書いたところで、つまらない文章になるような気がする。ごく個人的な日記の一部というところだが、これを事始めにしてこれまで訪れた場所をすべて書き記して行きたいというひそかな願望もあり、その最初として避けて通れないのである。


※写真は千里ニュータウンから見た箕面連山(1989年)

2012年8月3日金曜日

ハイドン:交響曲第81番ト長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

ハイドンの交響曲作品を1番から順に聞き続け(初期のいくつかはスキップしたが、それでも30番以降はすべてを取り上げ)、とうとう81番、「パリ交響曲」の手前まで到達した。このようなことを思い立ったそもそものきっかけは、アダム・フィッシャーの全集を格安で手に入れた2001年頃に遡る。それから10年以上を経て、これ以降は有名曲が連続するその寸前のところまで来たことになる。

もっともその直前の81番という曲は、特に有名でもなければ演奏されることも滅多にないものだ。ではどういう曲か。第1楽章はおちついた感じで始まる。全体に弦楽器の重なりが特徴的で面白い。こういう曲調は、それまでとは少し異なるというのは、意図したものだろうか。ただ真剣に聞いていると新しい発見もある。

第2楽章はよく似た感じが続くアンダンテだが、独奏バイオリンに木管が加わり、それがピチカートになるあたりは大変美しい。メヌエットの第3楽章を経て、やはり落ち着いた感じの第4楽章になり、最後まで完成度は高い。もしかしたら80番よりバランスはいいかも知れない。

それでもここ数曲は、数あるハイドンの交響曲の中に埋もれて、取り立てて素晴らしいというわけではない。だが、それは他の作品、すなわち「パリ交響曲」から「ロンドン・セット」に続く目白押しの名曲に比べての話である。80番以前の表題付き作品は、それらに比べると音楽的な魅力は不十分かも知れないが、ハイドンの創作と工夫の軌跡が見られることもあって、知的には面白い。その2つの山の谷間にある曲のいくつかは、どう考えても損をせざるを得ない存在である。これが他の作曲家のわずかな作品なら・・・。

アダム・フィッシャーの全集とはここでお別れにしようと思う。全33枚組、2001年まで足掛け14年を擁したこの演奏は、全体を通して言えば、ドラティしかなかったハイドンの交響曲に真剣に挑んだその後の最初の全集である。すべてはデジタル録音され、その過程で古楽器奏法の流れが定着したこともあって、演奏自体の進化も感じられる。エステルハージ城で録音されたハンガリー人とオーストリア人によるオーケストラは、数年前のハイドン・イヤーに来日し、私も交響曲第104番などを聞いた。

初期はNimbusレーベルから発売されていたようだが、その後同レーベルが倒産?したことで、私にハイドン作品に真剣に向き合う機会が訪れた。私は2002年に長期の入院をしたが、その時に第1番から聴き始め、「パリ交響曲」の手前まで来たところで退院した。毎日数枚を続けて聞いていく日々は、私にとってつらい思い出とともにあるため、あまり思い出したくはない。だが、このようなきっかけが、より多くの演奏で珍しい初期の作品を聞き比べることに発展した。

そのうちのいくつかの作品は、もう二度と聞くことはないかもしれない。だからこそ、このような文章を書くことで、もし何かの機会があれば珍しい作品の感想を思い出す手がかりとしたい。この全集BOXの解説書には、指揮者の顔写真が掲載されている。興味深いのでコピーして掲載しておこうと思う。


2012年8月2日木曜日

ハイドン:交響曲第80番ニ短調(アンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカ)

ハイドンの交響曲を初期のものから順に聞き続け、とうとう80番台に突入した。「パリ交響曲」まであと一息である。この曲の演奏を、古くから定評のアンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカの演奏で聞いてみた。

ニ短調のこの曲は、愛すべき曲である。聞くほどに深い味わい。特にこのドラティの演奏で聞くとそう感じる。この曲のこの演奏は完成度が高くて曲の魅力を伝えてやまない。全曲、全楽章と通して同じようなトーンが貫かれ、短調の暗くて劇的な要素よりは、しみじみと哀しく、それでいて優雅である。少し素人じみた思いつきだが、どこかシューベルトを思い起こさせる。

特に第1楽章から第3楽章までは、私のお気に入りの曲である。第1楽章の簡潔にして見事な表現は、ハイドンの短調の中では傑出しているのではないだろうか。 こう書くと逆節的だが、ドラティの演奏は古楽器奏法全盛の昨今にあって、何かとても新鮮である。

第2楽章は第1楽章を受けてその哀しみを深めていく。そのつながりは、第1楽章あっての第2楽章で、傾向が一貫している。哀しさを通り越して美しく孤独である。だが、救いようがないものではない。あくまで古典的な枠の中での表現で、モーツァルトのように内省的過ぎもしない。ロマン派の曲を聞いてくると、このような曲は何か物足りない印象もあるが、私には完成度が高く大いに好ましい。

第3楽章メヌエットは、これまでの2つの楽章の流れを受け継いでいる。ほのかな暗さは、決して内面的な悲しさというものではない。言ってみればブルックナーのような曲が、この流れにあるような気がした。だが第4楽章については、何となく雑然としていて少々損をしているように思われた。この楽章は比較的明るく展開するし、特につまらないというわけではないのだが、何となく中途半端に感じるのだ。だが前半の充実は、それを補って余りあると思われる。

かつてハイドンの交響曲全集と言えば、ドラティ盤のみが孤高に存在していた。初期の作品など、この演奏がなければ触れることができなかった時代が長く続いた。しかし確かLPにして何十枚という全集を買うだけの余裕は、一般的なリスナーにはなかっただろう。CDの時代になって、数多くの古楽器演奏が登場し、このような曲でも探せば数多くの演奏が手に入り、いずれもが見事な演奏のようだ。だがここでドラティの演奏に立ち返り、この試聴記においても敬意を表しておこうと思う。以降の作品では、あまりに多くの演奏がひしめいているので、ドラティの演奏を取り上げる機会は、今のところもうないと思えているからだ。

2012年8月1日水曜日

ハイドン:交響曲第79番ヘ長調(オルフェウス管弦楽団)

序奏なしで始まる第1主題は、なめらかに歌うように始まる。ここ数曲のハイドン交響曲の中では、やや趣きが異なると感じる。浮き立つようなメロディーではないが、これはこれで落ち着いた好感の持てるものだ。シューベルト風のムードとでも言おうか。

第2楽章に入っても静かで美しいメロディーが続く。何かをしながら、あるいは電車に乗りながら聞いていると、今どこを聞いているのかわからなくなってしまった。するとアレグロ風のメロディーが聞こえてきたので、もう終楽章に達したのか、などと思ってしまった。このメロディーは繰り返され、展開もされる小さなソナタのような感じでコーダもある?

ところがその後に本当の第3楽章が始まった。元の雰囲気に戻るので、第2楽章の後半は何か特別な部分だったように感じる。そして第4楽章へ。ヴィヴァーチェという速度指定だが、やはり落ち着いた感じで、しみじみと美しい。対位法がうまく使われていて美しい。全体的に起伏に乏しく地味だが、それだけにこれまでとは異なった魅力を放つ作品に仕上がっている。

オルフェウス管弦楽団の考えられたアクセントが微妙な気品を表現し、独特の味わいがある。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...