2018年8月28日火曜日

ブルッフ:スコットランド幻想曲(Vn: チョン・キョンファ、ルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

明治時代になってメロディーに日本語の歌詞がつけられた世界民謡の中に、スコットランド民謡が多いのは良く知られている通りである。「故郷の空」や「蛍の光」などは、もう日本オリジナルの旋律ではないか、と思わせる程身近なもので、音階が日本人の感性に合っているのかどうか、その辺りは専門家ではないのでよくわからないが、同じ島国の「ちょっと中央からは離れた」感のある素朴な情緒と、どことなく寂しくて懐かしいムードが奇妙にマッチしている。

そのようなスコットランド民謡は、同じように世界の人々を魅了させるようで、ドイツの作曲家マックス・ブルッフもまたスコットランド民謡を題材に素敵な幻想曲を書いている。このヴァイオリン独奏を伴うオーケストラ曲は、あの有名なヴァイオリン協奏曲第1番の次に有名な曲で、この組み合わせを一枚のLPやCDに収録したディスクも数多い。韓国人のヴァイオリニスト、チョン・キョンファもその一人であり、何と1972年に録音したLPは今でも輝きを失っていない。1972年と言えばまだ大阪万博の2年後であり、従ってこの録音はもちろんデジタルではない。指揮はルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィルという渋いのも魅力。私はLPを愛聴していたが、CDになって買い直した時にはメンデルスゾーンも収録されていた。

どの楽章も基調となるスコットランド民謡をベースに書かれているため、全4楽章に亘って抒情的なメロディーと、親しみやすく民族的なリズムが次から次に出てくるが、ブルッフ自身はスコットランドを訪れたことがないらしい。一度聞いたら忘れらないかのように思える旋律も、繰り返し聞いていくうちに表面的に思えてくるのも事実だが、それでも演奏の良さが加われば、味わいのある名曲となる。ヴァイオリンの親しみやすさと、両端楽章で活躍するハープの音色が印象的である。

第2楽章及び第4楽章の舞曲風のメロディーと、第1楽章、第2楽章の甘美でロマンチックな雰囲気が交互に現れる。第2楽章の後半は、一旦終わったかと思うといつの間にか次の楽章へとつながってゆく。ヴァイオリンは親しみやすく、切ないメロディーを奏でているが、特に第4楽章などはテクニカルでもある。個人的には第2楽章が好きだ。第1楽章は、何か「朝の連続テレビ小説」のテーマ音楽のようだ。

私はチョン・キョンファの演奏しか知らないが、今ではYouTubeなどで簡単に様々な演奏に接することができる。けれども、大阪に住んでいると京都や奈良に滅多に行かないのと同様、数多の演奏はいつでも聞けるとなるとかえって聞こうとはしないものだ。とはいえ、Wikipediaからもリンクされているマリア・エリザベス=ロット(ヴァイオリン)による演奏(クリストフ・ヴァイネケン指揮バーデン=ヴュルテンベルク州ユーゲント管弦楽団)は、ドイツ風の骨格の太い、なかなかいい演奏である(南西ドイツ放送のビデオ)。

2018年8月22日水曜日

「ホセ・カレーラス ーヴェローナの偉大な夜(Grande Notte a Verona 1988)」

ホセ・カレーラスが病に倒れ、その復帰第一声となったのが、1988年8月8日ヴェローナ野外劇場で行われたガラ・コンサートだった。このDVDにはその時の熱狂的な模様が収められている。ローマ時代の広大な円形劇場は、毎年夏になると、オペラ劇場となって世界中の観光客を引き寄せる。「ロメオとジュリエット」で知られる北イタリアの小さな都市が、ホテルの予約も取れなくなるほどの賑わいを見せ、連日深夜まで賑わう。

そのヴェローナ野外劇場へ、私は1990年の夏に出かけ、8月18日の夜に歌劇「アイーダ」を鑑賞したことは以前にも書いた。この頃、学生の職業体験プログラムで滞在していたスイスのローザンヌから、1泊2日で出かけた小旅行の時である。2か月に及ぶ滞在を終え、私はジュネーヴからバルセロナへ向かうスペインの特急列車「タルゴ」に乗り、夜遅く着いた。バルセロナは2年後にオリンピックを控え、広場にプロモーション用の特設スクリーンが設けられ、そのSONYの大型スクリーンで放映されていたのが、あの「三大テノール」の映像だった。

「こんなビデオがあったのか」と驚いたローマ・カラカラ浴場跡でのコンサートは、それから数か月が経って日本でもセンセーショナルに発売され、私もビデオで購入した。この時にプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの両者に対し、この公演を持ち掛けたのがホセ・カレーラスだった。白血病を克服した彼が設立した財団(Fundacion Internacional Jesep Carreras)への寄付というのがその名目だった。このコンサートはFIFAワールドカップ・イタリア大会決勝戦の前夜に開催された。世界的なテノール歌手が同じ舞台で歌うと言う、そのこと自体がセンセーショナルな出来事であることは、オペラ・ファンならよくわかる。1990年の私のイタリア旅行は、このワールドカップ退会の直後だったわけである。

それから遡ること丁度2年。カレーラスの復帰に駆けつけた歌手は錚々たる顔ぶれあった。もう30年も前となったそのコンサートで、当時の大歌手たちが熱唱を繰り広げる様子が収録されている。今は引退してしまった伝説の歌手(モンセラット・カバリエやルッジェーロ・ライモンディほか)もいれば、今でも活躍するいぶし銀のスター(レオ・ヌッチ、フェルッチョ・フルラネットほか)、亡くなった歌手(ゲーナ・ディミトローヴァやルッジェーロ・ライモンディ)らも若々しい歌声を響かせている。またルネ・コロはただ一人ワーグナーを歌い、ヘルデン・テノールとしての美声を大空に轟かせる。エヴァ・マルトンにイレアナ・コトルバス、マーラ・ザンピエリにエレナ・オブラスツォワ…にあまりに次々と大歌手たちが登場し、今の歌手とは一味違う存在感と、情感を込めて歌うその歌のひとつひとつに、驚嘆のため息をついていると、あっというまに時間が過ぎてしまう。

CD等で聞いていた大歌手たちの映像が、次々と映し出される。その歌はどれも有名な曲ばかりであるのも珍しい。一般にガラ・コンサートでは有名歌手は登場しても有名な歌は歌わないことが多いし、オーケストラの間奏曲などを差しはさむことも多いからだ。しかしこのコンサートはまさに「偉大な夜」すなわち特別だった。最後に満を持して登場するホセ・カレーラスが「グラナダ」を歌うまで、目が釘付けのままで飽きることはない。マドリード交響楽団(指揮:ホセ・コラード、カルロ・フランチ)という、お世辞にも上手とは言えないオーケストラも丁寧な演奏だが、ただでさえ音響効果の悪い熱帯夜の野外劇場で、うちわ片手に舞台に見入る1万人は下らない聴衆も熱い声援を送る。テレビの画質は悪く、時おり音声が大きくなったり小さくなったり。歌手が登場する場面はカットされている。また私が持っているこのDVDには、スケジュールが合わずビデオ出演したプラシド・ドミンゴの映像は含まれていない。

以下に、その見事な顔ぶれと曲名を列挙しておく。このリストを見ただけで鳥肌が立つというものだが、実際にはDVDで通してこの映像を見ることは非常に少ない。映像と言うメディアは、それ自体が貴重な記録でもあるのだが、今ではYouTubeなどで手軽に手に入る映像を、わざわざ手元に保管しておく必要はないのかも知れない。

だが、このビデオは私にとって特別な存在である。それは後年、ホセ・カレーラスと同じ病に侵された私が闘病の真っただ中の2002年の秋、妻が思い余ってカレーラス氏に手紙を書き、励ましの返事を受け取っているからだ。バルセロナから三鷹(当時の私の住所)に届いた一通の手紙には、まさに移植のその日付と共に、直筆のメッセージも書き添えられていた。私は今でも大切に保管している。カレーラスは、今でも時折来日し、その輝かしい歌声を聞かせている。


【収録曲】
1.ロッシーニ:歌劇「セビリャの理髪師」より「私は町のなんでも屋」
   レオ・ヌッチ(Br)
2.ポンキエルリ:歌劇「ジョコンダ」より「自殺!」
   ゲーナ・ディミトローヴァ(S)
3.プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」より「なんと素晴らしい美人」
   ペテル・ドヴォルスキー(T) 
4.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」より「私の名はミミ」
   ゾーナ・ガザリアン(S)
5.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」より「心身ともにくたくたで」
   ジャコーモ・アラガル(T)
6.ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」より「彼女は私を愛したことがない」
   ルッジェーロ・ライモンディ(Bs)
7.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「ママも知るとおり」
   エレナ・オブラスツォワ(A)
8.ロッシーニ:歌劇「セビリャの理髪師」より「かげ口はそよ風のように」
   フェルッチョ・フルラネット(Bs)
9.ヴェルディ:歌劇「アイーダ」より「勝ちて帰れ」
   ナタリア・トロイツカヤ(S)
10.チレア:歌劇「アルルの女」より「ありふれた話(フェデリコの嘆き)」
   ルカ・カノーニチ(T)
11.マスネ:歌劇「ル・シッド」より「泣け、泣け、わが目」
   モンセラート・カバリエ(S)
12.ヴェルディ:歌劇「アッティラ」より「ローマの前で私の魂が」
   サミュエル・レイミー(Br)
13.ヴェルディ:歌劇「運命の力」より「神よ、平和を与えたまえ」
   アプリーレ・ミッロ(S)
14.ドニゼッティ:歌劇「愛の妙薬」より「人知れぬ涙」
   ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ(T)
15.ベッリーニ:歌劇「ノルマ」より「清らかな女神」
   マーラ・ザンピエリ(S)
16.ワーグナー:歌劇「ローエングリン」より「はるかなる遠い国に」
   ルネ・コロ(T)
17.ヴェルディ:歌劇「オテロ」より「無慈悲な神の命ずるままに」
   シルヴァーノ・カローリ(Br)
18.プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」より「ひとり寂しく捨てられ」
   エヴァ・マルトン(S)
19.ヴェルディ:歌劇「椿姫」より「プロヴァンスの海と陸」
   ホアン・ポンス(Br)
20.ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」より「心に炎が燃え上がる」
   アントニオ・オルドネス(T)
21.ドビュッシー:歌劇「放蕩息子」より「アザエル、アザエル、どうしてお前は私から離れていったの?」
   イレアナ・コトルバス(S)
22.ララ:グラナダ
   ホセ・カレーラス(T)

2018年8月20日月曜日

ウィンナ・ワルツ集(フランツ・バウアー=トイスル指揮ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団)

例年になく暑い夏もいつもまにか季節が変わり、ここ数日は秋の気配が漂っている。100周年記念の夏の高校野球も、連日の熱戦のうちに幕を閉じようとしている。暑い残暑の日々に、どういう音楽がもっとも心地いいだろうか。経験的な回答の一つは、ウィンナ・ワルツである。2003年の夏、1か月以上に及ぶ入院から帰還した時、私ははじめてそう思った。その時に見たアーノンクールの指揮するお正月のニューイヤーコンサート、中でも「皇帝円舞曲」が、美しいシェーンブルン宮殿の映像と共に心に残っている。

シュトラウス一家のワルツはもちろん素敵だが、シュトラウス以外の作曲家が作曲したウィンナ・ワルツの名曲を集めた一枚が手元にあったので、今回はそれを聞くことにした。邦盤のタイトルは「金と銀」となっているが、これはもちろんレハールのワルツ「金と銀」のことで、それ以外にも計7曲を集めた洒落た一枚。ウィーン・フィルではなくウィーン・フォルクスオーパーのオーケストラがここでは登場する。もちろん、あの独特のアクセントを持った3拍子を、気取らずしかもロマンチックに表現、ウィーン情緒満点の演奏である。

久しぶりにレハールの曲を聞きながら、初めて親に買ってもらったLP2枚組のことを思い出した。その中にはワルツを集めた面があって、レハールの「金と銀」、「メリー・ウィドウ・ワルツ」、ワルトトイフェルのワルツ「ドナウ川のさざ波」、それに「スケーターズ・ワルツ」の4曲が収録されていた。私はこのLPを何度も何度もかけては、擦り切れるようになるまで聞いていた。確か小学校3年生の頃だったように思う。演奏はアーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団。ジャケットの解説で志鳥栄八郎が、家族団らんのひとときを、ビールでも飲みながら耳を傾けると良い、などと書いていたように思う。思えば一家がステレオ装置を囲んで、クラシックの名曲を鑑賞するなどろいう上品な時間は、裕福な家庭でもとっくの昔に失われてしまった。

この2枚組のLPにも、どういうわけかシュトラウスの音楽が入っていない。その他には、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲や、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」序曲、それから「アンダンテ・カンタービレ」や「グリーンスリーヴズの幻想曲」といった作品が、「名曲のアルバム」の如く収録されていた。こういうファミリー向けディスクも、今では過去のものとなってしまった。 だが私は、今でもポピュラー・コンサートの類が大好きである。このようなCDを見かけると、つい買ってしまうのだ。

バウアー=トイスルの指揮するフォルクスオーパー管弦楽団は、いまでは堅苦しいウィーン・フィルのニューイヤーコンサートと違い、肩ひじ張らず、かといっていい加減でもない、丁度いいムードでご当地ものの名曲を、むしろ本家はこちらといわんかのように弾いている。小粋で気さくな雰囲気には好感を持てる。

なお、ローザスの「波濤を越えて」は、かつては有名な曲だったが、今聞くことは非常に少ない。この作曲家は何とメキシコ人である。一方、指揮者のバウアー=トイスルは、あのクレメンス・クラウスに学んだ生粋のオーストリア人である。2010年に死去。フィリップスの録音は1981年となっている。

それからもう一つ。ウィーンのフォルクスオーパーと言えば、「メリー・ウィドウ」の来日公演を思い出す。テレビで見て、実に楽しかったのだ。まあそういうことも含めて、2回旅行したことのあるウィーンの庶民的な光景を、その明るくて澄み切った青空とともに思い出す。ついでなので、1987年に旅行した時の写真を何枚か
探して貼っておきたい。


【収録曲】
1.カルル・ミヒャエル・ツェラー:「謝肉祭の子供」作品382
2.フランツ・レハール:メリー・ウィドウ・ワルツ(舞踏会の美女)
3.フヴェンティーノ・ローザス(エンシュレーゲル編):波濤を越えて
4.フランツ・レハール:「金と銀」作品79
5.ヨゼフ・ランナー:「宮廷舞踏会」作品161
6.カルル・ミヒャエル・ツェラー:「ウィーンの市民」作品419
7.ヨゼフ・ランナー:「ロマンチックな人々」作品167



2018年8月18日土曜日

ベッリーニ:歌劇「ノルマ」(The MET Live in HD 2017-2018)

ノルマはポッリオーネを巡るアルダジーザとの「女の闘い」に敗れたのかも知れない。だが彼女は最後、自らの命を絶つことによって、この身勝手なローマの将軍の愛を手に入れた。二人の子供を父親に託して。

古代ローマが支配するガリア地方の森に宿るドイルド教徒の巫女長ノルマを主人公とするベッリーニの歌劇「ノルマ」は、ベルカント・オペラ最高の作品であると言われている。私もMETライヴでロッシーニ、ドニゼッティ、それにベッリーニの主要な作品に接してきたが、とうとう最後に「ノルマ」を見る時がやってきた。そしてその舞台は、この上演史の一角を争うであろう高水準のもので、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。自らケルト人の血を引くという彼は、舞台いっぱいに森の中を再現し、その舞台が上下にスライドするとノルマの家が現れる。ノルマは木の根の下に住んでいるのである。

暗い舞台は最終シーンになるまで暗いままである。だがカルロ・リッツィによって指揮されたオーケストラの、時には溜を打って歌手に合わせ、時には推進力が明るいメロディーに溶け合う見事な伴奏によって、めくるめくようなアリアや重唱のシーンが、飽きさせることなく次々と展開していく。特に第2幕に至っては、この間奏曲から最後の瞬間まで、丸でヴェルディの音楽ではないかと間違うほどドラマチックな力強さに溢れる様は鳥肌が立つほどで、この音楽が後の作曲家に与えた影響は大きなものだっただろうと想像させるに難くない。

実は私は昨年の11月に、この公演の模様が上映されたときに一度見ている。この時の内容があまりに素晴らしかったので、今回、もう一度会場へ足を運んだのである。METライヴの作品はもう80作品以上見てきているが、2回見たのは初めてのことである。それくらい私は打ち震えるような感動を味わったし、このブログも最初ではなくアンコールの際にもう一度見てから書くと決めていた。半年以上が経って改めて見ていると、半分は忘れていたものが蘇り、また半分は新たな発見をすることとなった。この間、私はマリア・カラスが歌うこの作品の歴史的名演奏をWalkmanに入れて持ち歩き、幾度となく耳にしてきたというのに・・・。

「ノルマ」は、少し聞くだけでとても完成度の高い作品だと思う。序曲を聞くだけで劇全体を覆う様々なメロディーが登場し、それらが要所要所の歌の旋律を思い出させてくれるので、ここを聞くだけで期待が高まるのだ。まず登場するのは長く圧制に苦しむドルイド教徒たちだが、その合唱に続き、まずはポッリオーネ(マルタ人のテノールのジョセフ・カレーヤ)がアリア「彼女と共に」でリリカルな歌声を披露することから始まるが、ここからしてぞくぞくする。ローマの将軍の彼はこれまで敵方の巫女ノルマと通じ合っていたが、今ではその愛も醒め、あろうことか別の巫女の見習いである若いアルダジーザ(メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート)に好意を寄せているのだ。

やがて民衆の期待に応えてノルマ(アメリカ人ソプラノのソンドラ・ラドヴァノフスキー)が登場し、イタリアオペラの中でも最高のアリア「清らかな乙女」を歌う。登場していきなり、実力が試されるのだ。以降、ノルマはほぼ舞台にずっと出ずっぱりで、その歌も重唱が多く、難易度が高い。今回の演出は、そこに演技の様子まで加わるのだから、彼女曰く「ブリュンヒルデを3回歌うよりも難しい」とのことである。最高難度の役というわけだ。

ノルマというとマリア・カラスである。カラスの歌うノルマの録音は、正規録音が2種類、実況録音もあるが、モノラルの実況盤が歌に関しては最高らしい。もっとも私は共演者も含めた総合点で、セラフィン指揮のスタジオ録音盤(後年の)を持っているが、ラドヴァノフスキーの歌声はカラスにはあまり似ていない。むしろジョーン・サザランドのような系統ではないかしら。こちらもパヴァロッティなどと共演した録音があるので、一度聞いてみたいと思っている。

アダルジーザはノルマよりは低い声で歌われるが、存在としてはむしろ若くて純粋な性格付けがされている。ノルマも去ったあとで、彼女は短いアリアを歌い、これで主役3人のお披露目が終わる。 そしてここからは第2場を通しても、重唱の連続である。第1幕後半のノルマとアダルジーザの丁々発止のやりとりに、ポッリオーネまでが加わって舞台は緊張と興奮の中で進行するのだ。第2場の舞台は、(この演出版では森の地下にある)ノルマの家で、二人の子供が登場し、見る者の心にノルマの悲劇的な気落ちが伝わってくる。

第2幕になると、舞台はいよいよ緊張を高めて行く。ノルマはポッリオーネとの恋に破れ、このままでは二人の子供がローマで悲劇的な生活を強いられると予想し、子供を死なせようとまで思い詰めるのだ。だが彼女にそれはできない。そればかりか、アダルジーザに対する憎悪をむき出しにして、揺れ動く彼女の心情が千変万化する。面白いのはベッリーニの音楽が、登場する立場の違う二人によっても同じ旋律で歌われることだ。歌詞は違うが、このような歌をただCDなどで聞いていると、綺麗な歌に聞き惚れているだけで、その中に潜む対立がよくわからない。映像で見る「ノルマ」は、そういう意味で耳で聞くよりも何倍もよくわかる。

ノルマとアダルジーザの心理変化は、長い二重唱のテーマである。ラドヴァノフスキーは何度もノルマを歌っているそうだが、ディドナートは今回がこの役のデビューとのことだった。インタビューではディドナートは、ラドヴァノフスキーの「胸を借りて」演じていると答えていたが、力が入りすぎていて、もしかしたらノルマよりも力強い表現だったと思う。もっとも若いアダルジーザの方が、いまやポッリオーネの心を掴んでいるのだから、その方が現実味がある。ただ、ノルマが感じるほどにアダルジーザは悪意はなく、むしろ清らかで純粋な存在だと私は思う。この二人の表現の違いをどう解釈し、舞台に求めるかがこのオペラに対する好みや評価の中心だろう。

最後には二人の子供をアダルジーザに託し、自分は諦めると決心するノルマに対し、アダルジーザも自分こそ身を引くと言い張る。あるいはアダルジーザがポッリオーネを改心させると言い残し、ポッリオーネの元に走るも説得が効かないことを告げられ、再びアダルジーザに憎悪を抱く、といった有様で、女性同士の心情の対立はもつれにもつれる。どちらの役も一方より弱いと、この丁々発止の場面はうまくいかないだろう。だが今回の上演は、見事につきる。歌声が絡み合い、その歌詞とは別にめくるめく陶酔のシーンに事欠かない。

最後になって、いよいよ裏切られたノルマはローマ軍への蜂起を決意する。高僧の悪露ヴェーゾ(バスのマシュー・ローズ)が歌うただ一つのアリア「テレべの不当な圧制に」は重量感が溢れ、合唱との対比や掛け合いなど、ヴェルディの作品に受け継がれた要素が多く見受けられる。二人の子供を彼に託すよう説得すると、彼女は自ら犯した罪を認め、生贄になることを宣言する。捕らえられたポッリオーネは、もはやノルマに対して改心し、自分も死をもってノルマへの愛情を示すとき、ノルマの心はアダルジーザに対する憎悪も消え、純粋で気高い心が高らかに歌われる。

ヴェルディはこのオペラからどれほど多くの影響を受けたのだろうと思いながら、ずっと舞台に見入っていた。日本では「ノルマ」を始めとしてベルカント・オペラを見る機会が少ない。これほど難易度の高い歌を歌える歌手は、そう多くはないのだろうと思う。だからMETライブは貴重な機会と言える。直前の「魔笛」に比べると客席は閑散としており、そのことが一層、何かとても贅沢な時間を過ごしていと感じながら過ごした3時間半だった。

2018年8月15日水曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD 2017-2018)

後に結婚することになる今の妻と初めてデートをしたのは、今から23年前の12月、ニューヨーク、リンカーンセンターにあるメトロポリタン歌劇場でのことだった。見たのはモーツァルトの歌劇「魔笛」。土曜日の夜の公演で、前から行こうと思っていた公演に彼女も来たいと言う。しかしチケットがない。当時普及し始めていた携帯電話を持って早めに会場へ出かけると、年間予約席のキャンセル分を売るおばさんが話しかけてきた。さっそく彼女に電話をすると、すぐに来ると言う。私は即座に2階席の正面を2枚、合わせて270ドルだったが躊躇なく買った。

この時の公演の演出はグース・モスタートで、DVDでも発売されている1991年の映像と同じである(ただ歌手はすべて異なる)。当時のプログラムを見て驚いたのは、何とルネ・パーペが脇役(弁者)で登場している!今ではドイツを代表する世界最高のバスのパーぺは、今回の映像でザラストロを歌っている。インタビューではこの公演だけのために、ニューヨークへ駆けつけたとのことである。そのザラストロは貫禄十分で、彼の右に出る者はいないだろうと思わせる。

モスタートからバトンタッチされた次の演出が、今回も見たジュリー・テイモアによるものだが、彼女の演出は、その出世作であるミュージカル「ライオン・キング」と同様にファンタジックで無国籍。決して下品ではなく、巧みに表現されているとは思うが、私はあまり好きにはなれないところがある。どうしてだろう。操り人形や仮面が随所に現れ、回転舞台には無機的な建造物が時折現れる。ザラストロの出てくるシーンは黄色く対象的で、夜の女王は赤のイメージ。一方、パパゲーノは鳥刺しらしく緑。

主役のタミーノなど厚化粧をした顔つきは、何か中国の劇に出てくる道化師のようでもあり、それが私の違和感を誘うのかも知れない。あまり高貴な感じがしない。一方、鳥や熊など多くの動物が登場するが、それらを含めて無国籍で毒がないのである。モノスタトスにしてもコニー・アイランドのポップコーン屋みたいな感じ。まあ、最初からそういう感じがしていたから、あまり期待をせずに、いつもは座らない後方の出来で、遅い昼食を取りながら鑑賞していた。

すると、三人の侍女が歌っているところからいきなり睡魔に襲われた。私は何も抵抗せず1時間弱に亘って眠りについた。この間に夜の女王のアリアも聞き逃してしまった。気が付くと舞台に登場した奴隷たちが音楽に合わせて踊りだす、グロッケンシュピールのシーンだった。もう第1幕の終わりも近い。だが、この睡眠のおかげで、その後のシーンには冴えた頭で映像を見ることとなり、第2幕でのモーツァルトの歌と音楽は、私を心の底から感動させた。

思えば第2幕をここまで注意深く見たのは、初めてではないかとさえ思うほどに、それぞれのシーンが印象的であった。実際には何度も見ているのだが、「魔笛」自体を通して見るのは何十年ぶりかであるから、まあそういうものだろうとも思う。しかし知れば知るほどに深みの増すのが、オペラという芸術である。

歌手は、ザラストロを歌ったルネ・パーぺ以外はあまり有名でない。けれども総じて高水準で、実力派揃いだったと言える。主役のタミーノは、アメリカ人のチャールズ・カストロノヴォ(テノール)。相手のパミーナは、ゴルダ・シュルツ(ソプラノ)という人。彼女は黒人だろうか、その歌声には力強さがあり、どこかキャサリーン・バトルを思い出す。またパパゲーノはオーストリア人のマルクス・ヴェルパ(バリトン)という人で、演技も上手い。パパゲーナは、最後まで仮面を被っていてあまり歌わないが、アシュレイ・エマーソン(ソプラノ)、モノスタトスにはグレッグ・フェダレイ(テノール)という大柄な歌手。

さて本作品最高の見せ場は、キャスリン・ルイック(ソプラノ)の歌った夜の女王ではなかろうか。全部で12分しか出演しないという彼女が歌いだすと、舞台に一気に引き込まれ、その完璧な歌声は広い空間にこだまする。指揮は今年解雇された音楽監督ジェームズ・レヴァインで、キビキビとした指揮は車椅子に座っているとはいえ見事である。

荒唐無稽で安物の勧善懲悪ものという変な歌芝居であるにもかかわらず、「魔笛」が輝きを放つのは一にも二にもモーツァルトの音楽が人間業とは思えないほど圧倒的に素晴らしいからに他ならない。そのことについて、限りなく多くの人が語り、書き残している。第1幕の冒頭でタミーノが大蛇に襲われる時、わずか一瞬、ひとことのセリフで大蛇を退治する時の音楽の見事さ。最終幕でモノスタトスと夜の女王が消えてゆくその数秒後に、ザラストロの前で結ばれるタミーノとパミーナ。どの瞬間をとっても物語の展開の見事さとそこに付けられた音楽の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。どんな演出をしたとしても、この圧倒的な音楽の前では、霞んでしまうのではないか。それこそマジック、魔法の音楽である。

聞きどころについて語ろうとしても、全編が素晴らしいので語る術をなくしてしまう。昔から親しんできたオペラだけに、持っているCDや映像も数多いが、今ではアバドが指揮したモーツァルト管弦楽団のものが気に入っている。今年の秋には、新国立劇場で新監督に就任する大野和士がベルギーから持ち込んだ新しい演出で上演される。私はすでにそのS席のチケットを2枚買って、妻と出かける予定である。演出はMETライヴでも有名な南アフリカの美術家ウィリアム・ケントリッジで、今から大いに楽しみである。

2018年8月14日火曜日

ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調作品26(Vn:五嶋みどり、マリス・ヤンソンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チョン・キョンファの演奏でこの曲を初めて聞いたとき、アリラン、または演歌のようだと感じた。こぶしのきいたアクセント、粘り気のあるアーティキュレーション、歌謡性に満ちたメロディー、そのようなものが東アジアの流行歌を思わせる。だがブルッフは19世紀に活躍したドイツの作曲家である。

ヴァイオリンの特性を生かした親しみやすいメロディーは、しばしばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調とセットにされ、発売された。同じロマン派の中頃に作曲されたのだから、当然といえば当然なのだが、私が不思議だったのは、ブルッフという作曲家の他の曲を聞く機会が、ほぼまったくないことだった(「スコットランド幻想曲」くらいだろうか)。このヴァイオリン協奏曲も第1番となっているが、では第2番や第3番は一体どんな曲なのか、私はいまだに知らない。

よく考えてみると、ヴァイオリン協奏曲だけが有名なこの時期の作曲がいる。パガニーニは別格として、ヴュータンやシュポーア、あるいはヴィエニャフスキなどである。彼らは技巧的で親しみやすく、それゆえに単純というか飽きられやすいという性格を帯びるため、現代でもさほど有名ではない。ブルッフの曲もまた、同じように少し低く見られている。いや、メンデルスゾーンだってかつてはそうだった。

ブルッフは民族音楽に題材を取った作品を多く残し、そのうちのひとつが「コル・ニドライ」というユダヤ民謡に題材を取ったものである。そういうこともあって私は長年、ブルッフもユダヤ人だと思っていたが、そうではないらしい。でも音楽は非常にユダヤ的な感じがするのは私だけだろうか。ほの暗く哀愁に満ちた旋律は、聞くものの琴線に触れる。夏の記憶が蘇るような懐かしさがこみ上げる。

まず第1楽章。冒頭の深く静かな中から次第にヴァイオリンが立ち上がってくる。まずここが聞きどころ。オーケストラに乗ってヴァイオリンが歌いだす。ここが最初の演歌。軽く叩くティンパニの響きが印象的。日本人としては適度な粘り気がいいが、ヴァイオリニストによっては過度にロマン的だったり、あっさりしすぎていたり、好みの分かれるところだろうか。

第2楽章に移行していくムードはメンデルスゾーンを思い出させるが、ブルッフはもっと簡単である。だが第2楽章は最大の聴き所で、時に物思いに沈み、時に消え入るかのような緊張を持続させながら、情緒たっぷりに歌うのがいい。

第3楽章では再び演歌となり、今度はこぶしを満開に利かせて走る。ブラームスのヴァイオリン協奏曲と似ていなくもないが、ブラームスにアジア的な情緒は感じない。どういうわけかこの曲は、私にとって歌詞をつければそのまま歌えそうな曲に思えてくるのだ。

今の私のお気に入りは五嶋みどりによる演奏で、伴奏はマリス・ヤンソンス指揮ベルリン・フィルというゴージャスなもの。ここでの五嶋は、彼女の真面目で素直な面と丁寧さを持ちながらも、明るく情熱的である。その適度な感覚がいい。まあこれも好みの問題かもしれないが。

特に第2楽章は、速度を落としてぐっとため込んだかと思うと、途切れることのない音色を最大限に引き伸ばし、ため息の出るような美しさに聞きほれていく。緩急と強弱の丁度いい塩梅。その表現力に心が揺さぶられる。第3楽章ではそれが再び演歌となってほとばしり、最後まで突き進む。曲が終わるや沸き起こる歓声に、これが実はライヴ録音だったことに初めて気づく。

2018年8月13日月曜日

チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」(The MET Live in HD 2006-2007)

広く高い舞台空間に、紅葉して赤や黄に染まった落ち葉が全面に敷き詰められている。この情景で季節は収穫期を迎えた秋の夕暮れだとわかる。けれどもそれ以外に、この場面を説明するものはない。地域も時代も。やがてそこでリンゴの皮を向く中年の女性たちが、「娘たちが歌っているわ、過ぎ去った昔にも、私がそうしていたように」とロシア語で歌う。時代背景については、その内容から次第に明らかとなっていく。夏のMETライブのアンコール上演で接したロバート・カーセンの演出によるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」は、10年以上も前の2007年の上演で、舞台上にほとんど何もない、というものだった。

やはりこの時期に制作されたウィリー・デッカーの「椿姫」を思い出すまでもなく、いわば流行の演出というものがあったのだろうと思う。登場人物の心理描写に焦点を当て、必要最小限の物体のみを象徴的に残したうえで、その他のものを大胆に排除するこのような演出は、最初の印象こそ刺激的ではあるものの、飽きが来やすい。そのためだろうか、METライヴで取り上げられた次回の「エフゲニー・オネーギン」は、新しい演出となり、舞台はわかりやすいロシアの田園風景に戻された。第2幕での決闘のシーンでこそ、登場する人物中心に焦点が当てられたが、第3幕では華麗な舞踏も披露され、一転華やかな舞台に高貴な女性へと変貌したタチヤーナの衣装が映えるものだった。

それに比べると、このような上演に接するには想像力を養う必要がある。常に頭を働かせ、歌詞の内容や音楽から、ありったけの知識を総動員しながら、登場人物の動機や心理を考えなくてはならない。それはつまり、大変集中力が要ると同時に、見ている者の知識の水準が試される。各人が同じ印象を抱く確率は、どうしても少なくなる。初めてこの劇を見た時に知り得た情景でさえ、私は思い出す必要があった。思い出すことができない場合(いや、初めてこの作品に接する人がそうだろう)には、一体どういうことになるだろうか。要するにあまりに情報量が少ないのだ。CDを聞きながら歌詞を追う時に働かせる想像力とも少し違う。なぜなら私たちは、舞台上の歌手たちを目で見ている。その表情はカメラが確かに捉えているのだから。

けだし不思議な感覚である。デッカーの「椿姫」は、もう来シーズンには登場せず、新演出となることが決まっている。音楽はそのままに舞台のみ解釈を変えるという上演は、そもそも総合的な芸術であるオペラにおいて、演出家のウェイトのみが大きくなるという弊害を伴っている。そのことをまず踏まえたうえで、聴衆が作品に一般的に期待するイメージを、私は大切にしてほしいと思う。なぜなら普通の、多忙で金銭的にさほどゆとりのない私のような聞き手は、一生にそう何回も同じ作品の上演に接することなどできないからだ。

前置きが長くなったが、カーセンの「エフゲニー・オネーギン」は、そのように私を少しがっかりさせた。第2幕がそのまま第3幕につながれ、有名なポロネーズの音楽に乗って見せられるのは、なんとオネーギンの着替えのシーンである。この最大の娯楽的数分間に、数年間の時代の遷移を想像するという努力をしなくてはならない。これは私にとって大いなるフラストレーション以外の何物でもなかった。

ただ事実としては、チャイコフスキーはこの作品を、小さな芝居小屋で上演するような演劇として作曲し、初演している。この演出は、そういう意図に沿うことを意識したのかも知れない。室内楽的な緻密さと繊細さによって、抒情的なメロディーは一層深みを増し、心理的な要素を強調する結果となる。もちろんそのことを可能とするだけの、歌手の技量を伴っての話である。嬉しいことにこの点に関しては、この公演はほぼ満点の出来栄えであった。もしタチヤーナをルネ・フレミングが、レンスキーをラーモン・ヴァルガスが、オネーギンをディミトリ・ホヴォロストフスキーが歌わなかったら、こういう結果にはなっていないだろう。

なぜ今夏、このような古い方の舞台をアンコール上演したのかは、想像の域を出ないのだが、おそらくは去年55歳の若さで死亡したホヴォロストフスキーを偲んでのことと思われる。彼はこの上演の後に脳腫瘍を患い、闘病を続けていた。まるでオネーギンを歌うために生まれてきたとさえ言えるような貫禄は、この舞台からも彷彿とする。一方、ルネ・フレミングのタチヤーナは、先に見た次のプロダクションで歌ったアンナ・ネトレプコがほとんど完璧といえるような歌と演技だったため、見劣りがするのではと少し心配だった。けれどもそれは、まったくもって杞憂だった。長い「手紙の歌」は、舞台に机とベッドだけ。それでも長時間、聴衆を釘付けにし、圧倒的な歌唱を披露した。私はこれほど上手いフレミングを初めて見たような気がした。

レンスキーを歌ったヴァルガスはメキシコ人で「ロシア人に見えない」などとインタビューで笑っているが、イタリア・オペラ風でもあるその歌い方にも違和感はなく、むしろ艶のあるテノールの美声は、決闘を前にして歌う「レンスキーのアリア」を始めとして聞くものを圧倒した。

さらに脇を固める3人の歌手は、これもまた見事であった。オリガのエレーナ・ザレンパは、熟練の味わいで、素朴ながら力強い芯のあるロシアの女性そのもの。ロシア語ともフランス語ともつかない奇妙な歌を歌って当時の上流階級を皮肉ったひょうきんな家庭教師トリケは、当時の歌謡曲を模して作曲されたというシャンソンを歌ってコミカルな雰囲気を醸し出し、舞踏会のシーンに彩を添えた。さらには終幕で、タチヤーナの夫となったグレーミン侯爵を、バスの重鎮とも言えるセルゲイ・アレクサーシュキンが歌い、ロシアの歌はかくあるべし、といった感のある安定したバスの歌唱で満場の拍手をさらった。

オネーギンは厭世的で、鼻持ちならない自尊心を持つ若い貴族だが、放浪の旅から帰って来てタチヤーナに出会うや否や、本当の恋に目覚める。立場が逆転する男女は、実際には今でも思い合っているのだが、タチヤーナの決然とした理性から結ばれることはない。フランス・オペラのように殺人事件になったり、イタリア・オペラのように心中したりもしない。タチヤーナは、(かつて自身がそうされたように)オネーギンに率直に絶縁を告げる。そこに復讐の意図はない。だからこの作品は、素朴な味わいが損なわれることなく終わる。オネーギンは、失恋してもなお、これは恥辱であるとプライドを隠さない。そのことが本作品の、もっとも印象に残るところだ。

この作品に溢れる抒情的なメロディーは、聞くものの心をとらえる。歌劇「エフゲニー・オネーギン」の序奏の出だしから、私はまだ見たことのないロシアの広大な情景へと誘われる。オペラの伝統のなかった国で、イタリアにもフランスにも負けないくらい美しい作品が誕生した。メロディーはそのまま単純に演奏したら何の変哲もない音階である。だがそこにメランコリックな表情をつけると、見違えるほど豊かな抒情性を身に着ける。幕間に流されたメイキング・ビデオで指揮者のワレリー・ゲルギエフは、そのことを一瞬のうちに示して見せる。その瞬間にチャイコフスキーの音楽の神髄に触れたような気がした。

2018年8月10日金曜日

バーンスタイン:ウェスト・サイド・ストーリー(ケネス・シャーマーホーン指揮ナッシュヴィル交響楽団、ほか)

レナード・バーンスタインがウィーン・フィルを指揮して収録したベートーヴェンの交響曲全集には、指揮者本人による解説が付けられていて、これもまたバーンスタインの多才さを感じるビデオだが、その中の、確か第5番だったかで「ベートーヴェンは(突き詰めて考えた結果として)必然的な次の音を見出す天才だった」というような話があったように思う。非常にユニークな解説は大変興味深いものだったが、この表現を私はバーンスタイン自身の作品である「ウェスト・サイド物語」の音楽に使ってもいいと思う。

1957年というと昭和32年のことで、もちろん私はまだ生まれていないし、バーンスタインもニューヨーク・フィルの指揮者として快進撃を続けていた頃だった。 それはすなわち、もう半世紀以上も前のことで、「ウェスト・サイド物語」はブロードウェイのミュージカル史において一世を風靡した傑作として今でも上演されている。1961年には映画にもなり、私も何度かテレビで見た記憶があるが、その時にも感じたのは、この作品はとにかく音楽につきるということである。才気あふれるその音楽を、作曲者本人もその後録音しているのだが、どういうわけか未だにオリジナル・サウンド・トラック盤の世評が高いようである。もう録音はかなり古いというのに。

私はアメリカ人ではないから、この作品に抱く特別な感覚を理解できていないのかも知れない。オリジナル・キャストで聞く「マリア」や「サムウェア」をはじめとする抒情的な歌も、「アメリカ」や「マンボ」といったノリノリの歌も、いわゆりブロードウェイらしさ、ミュージカルらしさが全編に横溢しており、古き良きアメリカの文化を彷彿とさせる。何といってもこれにはニューヨークの香りが充満し、無機的で荒廃した地区に住む若者同士の抗争と、そこに横たわる移民問題やラブ・ロマンスが、一種独特の雰囲気を形作っている。

私はこの曲を、マリアにキリ・テ・カナワ、トニーにホセ・カレーラスを配して録音された作曲者自身の指揮による演奏で体験した世代だが、これはこれでミュージカルをオペラのレベルに仕立てようとしているチャレンジングな企画だった。ただ、カレーラスの英語が不完全であるうえにあのオペラのような歌い方がどうも耳に馴染まない。確かにトニーはプエルトリコ系だし歌詞に「Buenas taldes」などと聞こえる部分もあるのだが、この録音はむしろメイキング・ビデオでこそ楽しみたいと思う。これは録音風景を追ったドキュメンタリーだが、 出演者の人間模様が滲み出て秀逸な作品だと思う。もっとも私はハイライトのCDも持っている。

この曲をもうクラシックとして聞く外国人には、オリジナル・サウンドといっても心に響かないし、かといってオペラ風の歌い方にもちょっと違和感があるのでは、と思っていたところ、ケネス・シャーマーホーンという人が南部テネシー州のナッシュヴィルにあるオーケストラを指揮して録音したCDに出会った。76分にも及ぶ完全版で、2001年の録音である。レーベルはNAXOS。オリジナルと比較してどうのこうの、という人がいるかも知れないが、そういうことを考えない向きには、なかなか高品質な出来栄えであると思う。

歌手の歌は、正統的なミュージカル風の歌い方で、英語の歯切れはなかなか良いまかりか、歌唱力の点でも聞かせる。「マリア」や「I feel pretty」のような部分でも聞かせるし、「ジェット・ソング」から「マンボ」に至るジャジーで踊りたくなるリズムは、アメリカを感じるスイング感もあって、良く録音されていると思う。

「ウェストサイド」とはマンハッタンの西側、すなわち60丁目あたりから70丁目にかけてのエリアである。いまでこそそこにはリンカーンセンターがあり、ジュリアード音楽院などもある高級で文化的な中心地だが、メトロポリタン歌劇場がまだ引っ越してくるまでのこの地域は、非行少年やギャングが日夜跋扈し、時に警察沙汰となるのも珍しくなかったという。不法移民が住み着き、治安も悪かったのだろう。碁盤の目になっているマンハッタンの中を、唯一曲がりくねって南北に走る通りがブロードウェイで、この通りを南から歩いてゆくと、セントラルパークの南西端の入り口、コロンバス・サークルを過ぎたあたりからウェスト・サイドとなる。

街は荒れてはいるが、若い移民たちはどこか夢をみているような純粋なところがある。シェイクスピアの「ロメオとジュリエット」をニューヨークに移したような物語は、ある意味で珍しくない展開だし、音楽におけるメロディーや和声の進行は、それこそ長い年月をかけて進化してきたものを受け継いでいると思う。例えばフィナーレの音楽など、ワーグナーが「ワルキューレ」で用いたメロディーを思い起こさせるし、どういうムードはどういう音階で演奏されるのが効果的か、というようなことは良く踏まえられているのだろう。

この作品の独自性は、しかるに何といってもリズムの多様さにあるのではないだろうか。シンコペーションがふんだんに使われ、目まぐるしく変化する興奮は、ストーリーを越えて魅力的である。これらの音楽は、ダイジェスト版とも言える「シンフォニック・ダンス」でも取り上げられているので、その躍動感あふれる新鮮さを味わうことはできるが、全編にわたって無駄がなく、印象的なメロディーが続くという作品なので、ハイライトはもったいないだろう。

個人的には以下の重唱を中心とした活発な音楽が好きで、よくかいつまんで聞いている。「ブルース」「マンボ」「アメリカ」 「トゥナイト(五重唱)」それに「クラプキ巡査どの(Gee, Officer Krupke )」の5つである。最後にこのCDに登場する歌手を書いておこうと思う。有名な曲だが、録音されたものはそう多くはない。でも、まあ1枚あればいいと思うし、今ではYouTubeなどで簡単に聞ける便利な時代である。

  マリア:ベツィ・モリソン
  トニー:マイク・エルドレッド
  アニータ:マリアンヌ・クーク
  リフ:ロバート・ディーン

指揮者のケネス・シャーマーホーンはニューヨーク・フィルにおいてバーンスタインの助手を務めた人物である。

2018年8月2日木曜日

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64(Vn:ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ、ジェラード・シュウォーツ指揮ニューヨーク室内交響楽団)

ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーンの3つのヴァイオリン協奏曲を「三大ヴァイオリン協奏曲」と呼ぶ習わしがある。ベートーヴェンとブラームスはわかるが、どうしてもう一つがチャイコフスキーではなくてメンデルスゾーンなのだろう、と思っていた。もしかしたらこれは、ドイツ人の仕業ではないかと思うが、それもあながち間違いではないだろう。けれどもメンデルスゾーンが評価されてきたのは戦後のことで、それまでのドイツでの評価は低いままだった。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、ヴァイオリンでないと表現できないような甘美なメロディーに溢れ、冒頭など一度聞いたら忘れられないようなインパクトがある。最近出版された百田直樹の「クラシック 天才たちの到達点」(PHP研究所)にもこの曲が取り上げられており、「まるで魅惑に満ちた女性のように、時に優しく、時に情熱的に、また時にはエロチックとも言えるほど情緒たっぷりに語りかける」(第1楽章)と書いている。

だが、それぞれ曲の演奏について語る段落で、この作品に関しては「名盤は山のようにある」とだけ語り、何人もの古今東西の著名なヴァイオリニストを列挙するにとどめられているのは物足りない。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(と言って区別するのは、もう一曲ヴァイオリン協奏曲があるからだ)の演奏の差異について語ることは、実は結構難しいのかも知れない。あるいはまた、誰の演奏がどのように自分にとっていい演奏なのかを見つけ出すのは、この曲に関する限り、多くの人が困難だと考えているきらいがある。実は私も長年そうだった。

その理由は、メンデルスゾーンに対する評価が低い期間が長く続いたことで、演奏上の魅力発見が十分になされてこなかったからではないか、と私は考えている。まだ60年代の頃は、ヴァイオリニストと言えば男性の技巧派の巨匠が中心で、この曲をみな軽々と演奏して終わり。まあこんなものですよ、という雰囲気がする。決して悪いわけではないのだが、ハイフェッツにしても、オイストラフにしても、フランチェスカティにしても、スターンにしても、同様の傾向がある。

70年代以降は逆に、若手ヴァイオリニストのデビュー曲としてもてはやされ、女性であれ男性であれ、新鮮で爽快な明るさはあるが、どことなく真面目で表面的であっさりとしている。チョン・キョンファ、ムター(旧盤)、ケネディなど。しかしこの曲がそんな薄い曲なのだろうか。何せ「三大ヴァイオリン協奏曲」である。作曲に6年もの歳月を要した本作品は、モーツァルトのようにさらさらと書かれた作品ではない。急げと言うのはわかるけど、そう簡単なものではないのですよ、とメンデルスゾーンは作曲を約束したゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスター、フェルディナント・ダーヴィットに宛てた手紙に書いている。

私は中学生の頃、教科書に載っていたこの曲を、音楽鑑賞の授業の中で聞かされた。協奏曲の説明をするのに、なぜピアノ協奏曲ではないのか、なぜモーツァルトではいけないのか、やはり不思議だったが、そういうこともあってメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を真剣に聞いた(試験に出るからだ)。

ある時、カセットテープでこの曲を聞いているうちにうとうと眠くなってしまい、気が付くと何か深々としたメロディーが流れている。その表現にこれがロマン派かと思った。そして終わったと思っていた第1楽章がまだ終わっていない。カデンツァ(もまたメンデルスゾーンが細かく作曲したものだ)が終わってもさらに第1主題が弾かれる時、ここのヴァイオリンがオーケストラと絡み合ってゆく様は、ゾクゾクさせる。やがて途切れることなく続いていく第2楽章の抒情的なこと!しかし、終結部のように音楽が一瞬終わるかに見える途切れの後に、ひと呼吸を置いて第3楽章の明るい曲につながっていく。ここの推移部の見事さは、ベートーヴェンを意識したものだろうか。

そういうわけで、もっと深々としたロマンチックな演奏ができないものかと常々考えていた。しかし上記のように、この曲の演奏はみな表情の変化に乏しく、まるで古典派の曲のようである。実際にはもっと多様な表現が可能な魅力を秘めているはずなのに。

そう思っていたところ、昨年NHK交響楽団の定期公演で聞いたニコライ・ズナイダーの演奏に大きな感銘を受けた。私が聞きたかったのは、こういう演奏だったと思った。けれども広いホールの3階席では、この演奏の魅力が伝わりにくい。ズナイダーはメータやシャイーとこの曲を録音(録画)しているようだが、残念ながら私はまだ聞いていない。とてもきれいな音色のヴァイオリニストである。表現の多彩さを極めたような演奏はないものかと、80年代以降に録音された演奏をあれこれ聞くうち出会ったのが、ナージャ・サレルノ=ソネンバーグによる1987年のデビューCDであった。

サレルノ=ソネンバーグは、実は過去に2回実演を聞いている。いずれも1995年のニューヨーク滞在中でのことで、一度目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番(アンドリュー・デイヴィス指揮BBC交響楽団)、2度目はそのわずか2か月後に、ショーソンやラヴェルの短い曲(ジョルジュ・プレートル指揮フィラデルフィア管弦楽団)の演奏である。その時の印象はあまり強いものではなかったし、また若い女性のヴァイオリニストが登場したな、といった程度だったのだが、彼女ほど奔放な演奏家もないのでは、と思うほどにこの演奏はユニークである。いやむしろ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をこれほど情緒たっぷりに演奏した演奏は他にないのではと思う。

いろいろ調べて行くと、彼女はその後指の怪我を負い、演奏家としての危機を迎える。私が聞いた95年頃は、まさにその復活途上にあった頃のようであった。その後彼女は見事に復帰し、我が国にも登場しているようだが、私は詳しいことは知らない。この曲を始めとして、数々の演奏はどれも個性的なようで、私も聞いてみたい気がするが、まずはこのCD、「余白」に収録されたサン=サーンスの「ハバネラ」と「序奏とロンド・カプリチオーソ」、それにマスネの「タイースの瞑想曲」を含め、極めて魅力的である。色彩感あふれる演奏は、伴奏のジェラード・シュウォーツ指揮ニューヨーク室内交響楽団(こんな団体は知らなかった)の協力的な伴奏と見事にマッチしている。知に情が勝るような演奏のふりをした、デフォルメされた部分は、9分半に及ぶ第2楽章を中心に全体に及んでいるが、決してもたれることのないメリハリのある面を持っており、フレッシュで現代的である。もしかしたらその後の演奏にも影響を与えているようにさえ思えてくる名演奏である。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...