2015年5月29日金曜日

モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲変ホ長調K365(316a)(P:ラドゥー・ルプー、マレイ・ペライア、イギリス室内管弦楽団)

若いモーツァルトの快活で心地よい響きが、このピアノ協奏曲でも聞くことができる。ザルツブルク時代の最後とも言える時期に作曲された「2台のピアノのための協奏曲」は、非常にしばしば「3台のピアノのための協奏曲」とともに録音される。私が初めてこの作品に触れ、自ら購入したルプーとペライアによるCDもまた、そのような一枚である。

ペライアは80年代に、歴史に残るピアノ協奏曲全集を弾き振りで録音し、その評価はいまだに落ちていない。この演奏は録音がやや硬いという難点を差し引いても、同時期に発売された内田光子による全集と双璧をなす素晴らしさと思っている。とにかく完璧なのである。そしてこの全集は、しばしば省略される第1番から第4番までをも含んでいながら、第7番と第10番を欠いていることが、はじめは不思議だった。この第7番が「3台のピアノ」、第10番が「2台のピアノ」のための協奏曲であることを知ったのは、このCDを所有した時からだった。

いわばその全集を補完するのがこのルプーとともに入れた1枚で、よってペライアはイギリス室内管弦楽団を弾き振りもしている。録音は80年代後半、余白には幻想曲ヘ長調K608と、四手のためのアンダンテと変奏曲ト長調K501が入れられている。

ペライアはモーツァルト弾きとしての名声を決定的なまでに高めたピアニストだが、ルプーのモーツァルトというのはあまり思いつかない。Deccaレーベルからリリースされている有名な録音は、ベートーヴェンとグリークくらいだろうか。けれどもこれらの演奏は、目立たないが極めつけのリリシズムを湛えた演奏として名高い。そのルプーによるペライアと組んだCDを池袋のHMVで試聴した瞬間、これだと思った。最初の出だしから、こんなに見事なアンサンブルがあるのか、というような名演に思えた。2台のピアノがまるで一人によって弾かれているように溶け合うものの、その音の厚みや複雑な絡みは紛れもなく2台分で、独特の雰囲気である。私は特に第1楽章の堂々とした音楽が気に入っている。

2015年5月25日月曜日

レオンカヴァッロ:歌劇「道化師」(The MET Live in HD 2014-2015)

ファビオ・ルイージの指揮する前奏曲が流れると、会場は一気に引き込まれていった。マスカーニよりも音楽的に新しい要素が散りばめられた音楽は、この作品をほとんど聞いたことがなかった私を驚かせた。カルーゾの歌う「衣装をつけろ」は良く知っているが、そのメロディーが緊張感を持って奏でられた。幕が開く前にマイクを持って登場したトニオ(ジョージ・ギャクグニザ)は、まずはじめに前口上を述べる。

この物語は実際にあった話をもとにしている。愛し合う男女とその悲劇的な結末。それは何も特別な人にだけ起こるものではない。旅芸人の一座だって普通の人間と同じなのだ。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」の悲劇から50年後。同じ南イタリアの村ではすでに電気が通じ、自動車も走る時代となった。旅芸人の一座はそこでトラックの荷台を改装して舞台を作り、歌芝居を演じていた。座長の妻ネッダ(ソプラノのパトリシア・ラセット、それなのに筋書き通り馬に乗って登場する)は、夫のカニオ(テノールのマルセロ・アルヴァレス)の執拗な愛情に辟易していたのだろう。美貌のネッダをひそかに慕うトニオは、ある時ついにネッダに告白を試みるが、彼女は「毒蛇」などと罵って彼をあしらう。

トニオが自尊心を傷つけられてしまったあたりから、この物語の悲劇は進んでいく。おそらくもともと濃密で小さな世界に閉じ込められた人間関係の中で、隷属的な立場にあるトニオ、溺愛され精神的にも身動きの取れないネッダ、といったあたりがもうこの悲劇を起こるべくして起こさせる、と言ってもいいかも知れない。

ネッダを口説く男がもう一人いる。村の青年シルヴィオ(バリトンのルーカス・ミーチャム)である。いよいよ一座が村を去るという前日になって、ネッダとシルヴィオは駆け落ちを約束する。だがそのことをトニオが知り、トニオから告げられてしまった座長カニオは、うすうす感ずいてはいたもののやはりそうだったのかと悲しみのあまり泣きたい気持ちであるのに、今宵は道化師として人を笑わせなければならない自分のつらさを歌いあげる。有名なアリア「衣装をつけろ」である。このアリアはカルーゾによって有名となり、テノールの中でも屈指のアリアとしてその表現が確立された。彼の歌う録音はいまもって塗り替えられることのない音楽メディアの売上ベスト記録として有名である(古いモノラル録音だが私も持っている)。

さて第2幕に入る前の間奏曲が、またいい。ルイージの指揮はここでいっそう冴えわたり、巧みなカメラがオーケストラ・ピットを写しだす。何という美しい音楽。私はここから幕切れまでの間はほとんど釘付け状態であった。

劇中劇となって現実とフィクションの区別がつかなくなってゆくカニオ。音楽は喜劇と悲劇が巧妙に交錯する。視覚的にも圧巻であった。マクヴィカーの演出がここで真価を発揮した。それからラセットの歌うソプラノの奇麗な歌声は、ヴェリズモ歌いとして理想的なものであると思った。迫力がありながら威圧的でなく、澄んでいながら細くもない。その彼女が丸でストリッパーのような姿をして演じるのが、道化芝居のコミカルな舞台である。ジャグリングやケーキの盛り付け、冷蔵庫に閉じ込められるトニオなど、とにかく見せ場は盛りだくさんあるが、その滑稽な舞台が徐々に復讐の場と化してゆく。「もう道化師ではない」と歌うカニオは遂にネッダを刺し、横たわる彼女から駆け落ちの相手が観客に混じるシルヴィオであることを聞きだす。

客席にいたシルヴィオを捉えて彼をも刺し殺すカニオ。「これで道化芝居は終わりました」と、この舞台ではトニオが叫んだ。圧倒的な集中力の1時間余りが終わると割れんばかりの拍手。これほど音楽的に充実した、完成度の高い作品だとは知らなかった。私としては「カヴァレリア・ルスティカーナ」」よりもはるかにこちらの方が見ごたえがある、と思った。かつて見たゼッフィレッリの映画ももう一度見てみたい。

レオンカヴァッロは派手なマスカーニと違い地味で、オペラ作曲家としての活躍は対照的である。けれどもこの作品は若干25歳のトスカニーニによって初演されたらしい。もしタイムマシンの乗ることができるのなら、私はその初演に立ち会ってみたいと思う。

2015年5月24日日曜日

マスカ-ニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(The MET Live in HD 2014-2015)

朝一番にチケット売り場に並ぼうとして驚いた。今回は何と女性が多いこと!それも若い人も結構いる。ところが男性陣はおじさんばかり。東劇のMETライブシリーズも今年は一日3回上演する作品も多く、この企画は確実に裾野を広げている。けれどもこんなに女性の多い回というのも珍しい。なぜだろうか。

その答を考えることから始まった。おそらくわかりやすい回答は、今回の上演作品、すなわちマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とレオンカヴァッロの「道化師」が、いずれもヴェリズモ・オペラであるということだ。舞台はともに南イタリア。まだ因習の残った小さな村だが、近代化の波は押し寄せていて、人々は自由を求め始めていた。そこで起こる血なまぐさい劇は、テレビドラマのような展開を見せる。ドロドロした人間関係、不倫が引き起こす悲惨な結末。人は人を殺し、愛情は屈折する。このような内容が女性人気の理由なのではないか、とひそかに思う。

さて今回の「二本立て(ダブル・ビル)」は、いずれも新演出でデイヴィッド・マクヴィカーがこれを担当している。私はこの演出家をとても気に入っているので、これは見ないわかにはいかない。そしてMETライブでこの作品を上演するのも初めてだし、私はビデオやCDでしか見たこともない。個人的にはヴェリズモ・オペラがそれほど好きな方ではないが、やはりこれらは見ておくべき作品だろう。

マスカーニを一躍スターの座に押し上げたのが「カヴァレリア・ルスティカーナ」である。1890年のことだ。マスカーニは1945年まで生きていた作曲家だから、自作自演の録音も残っているようだが、私はこの作品をゼッフィレッリの監督するオペラ映画(ジョルジュ・プレートル指揮)で初めて体験したし、カラヤンのCDも持っている。カラヤンの有名な「間奏曲」はそれだけで涙が出るほどに美しく、音楽というのは奇麗なメロディーだけでどうしてこんなに感動するのだろうといつも思うほどだ。

今回は指揮がファビオ・ルイージである。彼は今やMETの首席指揮者だがこういう作品を指揮するとその才能が如何なく発揮されるように思う。出だしの前奏曲とそれに続くいくつかの合唱は、この作品が丸でミュージカルのように楽しく、ポピュラーなものであることを示している。主役はサントゥッツァ(ソプラノのエヴァ=マリア・ヴェストブルック)で彼女はほぼ一貫して舞台に登場している。円形の回転舞台を囲んで並べられた椅子に黒い服の人々が座ると、何か新興宗教の儀式のようだが、この日は復活祭の日。登場人物は皆黒い服を着ているので、作品中一貫して華やいだところがない。

サントゥッツァは自分を捧げたトゥリッドウ(テノールのマルセロ・アルヴァレス)のことが忘れれない。それで彼の母親ルチアのもと訪ねる。もとより小さな村なので皆が知りあいのようなものなのだが。サントゥッツァはトゥリッドウがいつしかこの村に帰っていること、そしてあろうことか、すでに彼を捨てて馬車屋のアルフィオ(バリトンのジョージ・ギャグニザ)に嫁いだはずのローラと密かに通じていることを知ってしまうのだ。サントゥッツァはトゥリッドウに会って復縁を迫るが、逆ギレされとうとうアルフィオにトゥリッドウの不倫を知らせてしまう。このことが決定的にトゥリッドウを、そして彼女をも不幸に陥れる引き金を引いてしまったのだ。ああ、なんということか!

有名な二重唱は前半部分にあるがシンプルな舞台で音楽的なメリハリだけが勝負である。またそのあとにあの間奏曲もあるが、無難にこなした感じである。後半の緊迫したアリアも素晴らしかったが、全体的に見てソプラノとテノールが絶唱するヴェリズモ・オペラ独特の雰囲気が会場を覆う。圧倒的な迫力は作品の持つポテンシャルをほぼ完全に表現していたように思うが、あくまで舞台を、オペラ上演を見ているという感覚から脱することはなかった。だから質が低いとは思いたくはない。けれどもどんなに滑稽なストーリーであれ、それが美しい音楽を伴って歌われる時、なぜか涙腺を刺激するような瞬間がある、というのがオペラの不思議でもある。ヴェリズモはあまりに現実的なストーリー過ぎて、見る側にそのような意外性を発見するだけの心理的余裕を消失させてしまうのだろうか。

トゥリッドウに決闘を申し込まれたアルフィオは、トゥリッドウを刺殺してしまう。そのことを知ったサントゥッツァとルチア。私はこの母親のルチアが気の毒でならない。トゥリッドウは自分が死んだら、サントゥッツァの母親になってくれ、などと嘆願するが、こういったあたりは何か白々しい。皆が幼馴染みのような小さな村で、このような悲劇は起こるべくして起こった。ルチアまでもがソプラノで歌われると、オペラ自体が高い声の出し合いとなる。ヴェルディやそれ以前のオペラと違って低い声の歌はあまり聞かれず、そのことが何か通俗的な気分にさせ、私をヴェリズモから遠ざけけいるのかも知れない。

2015年5月22日金曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K271「ジュノーム」(P:レイフ・オーヴェ・アンスネス、ノルウェー室内管弦楽団)

モーツァルトのピアノ協奏曲のうち第20番以降の「超」有名作品群を除くと、ほとんど聞いたことがなかった私は、初めてこの第9番を聞いて深い感銘を受けた。なぜならそのこには、いわゆる未熟なモーツァルトなどいないばかりか、後年の作品にも勝るとも劣らないような深みを感じたからだ。それほどこの第9番は、他のモーツァルトの若い頃の作品とは異なる。そして後年に発展する音楽の要素があるように思う。

最初そう思ったのは、第3楽章の冒頭で気持ちが揺れ動くような、低くて速いピアノの音がとても印象的だったからだ。その時の演奏はよく覚えていないが、もしかするとクララ・ハスキルによるモノラル録音だったように思う。ノイズの混じる中に音楽がリズミカルに動き、同時にレトロな気持ちがした。だがほどなくしてその音楽はメヌエット形式の長い中間部に入る。そこでピチカートに乗って、ややスピードを抑えたピアノが何ともロマンチックなメロディーを弾く。第3楽章の中にもう一つの音楽が宿っている。

おそらく第1楽章の冒頭のちょっと変わった出だしも、第2楽章のオーケストラの不協和な響きも、当時としては画期的だったのではないか。モーツァルトのザルツブルク時代の最後を飾るピアノ協奏曲であるこの曲は、とても先駆的な作品である。そしてそこにつけられた愛称「ジュノーム」というのが、またこの作品を特別なものにしている。何せモーツァルトのピアノ協奏曲の中でニックネームがついているのは、「戴冠式」とこの曲だけなのだから。

「ジュノーム」というのは「若い男」という意味だと長い間思っていた。けれどもこれは人の名前だった。しかもジュノーム嬢。それが実際どのような人だったかはよくわかっていない。私はいずれにせよこの作品は、若いピアニストによって演奏されるのがいいと思っている。年老いた ピアニストが枯淡の境地で演奏するのも悪くはないが、これはまぎれもなくモーツァルト21歳の時の作品であり、しかも若い女性ピアニストに捧げられているのだから。

そういうわけでいろいろ聞いてみたが、一番気に入っているのは北欧のピアニスト、アンスネスの弾き振りによる録音だ。と言っても彼も1970年生まれということだからあまり若くはない。演奏はピリオド・アプローチも意識した速いもので、リズム感のいいタッチが現代的である。これまでかつてのもったりした演奏で聞いてきたが、今ではこのような演奏が好きになった。ノルウェーの団体らしく響きは透明で快活。若いモーツァルトに相応しい。

この曲の持つ際立ったコントラスト、ピアノ表現を一歩進めたような革新性。そういった部分をストレートに表現している。何度も言うように「ジュノーム」は、後年の想像を絶するような深みを想起させる「何か」を感じさせてはくれるが、同時に若いエネルギーに溢れた作品として私は聞きたい。

2015年5月20日水曜日

シューマン:交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団)

真夏の紀勢本線を新宮に向かって走る列車に乗っていた。30年以上も昔のことだから、各駅停車の客車に冷房はなかった。窓を全開にしても熱風が吹き込むばかり。私は窓から身を乗り出してラジオを聞いていた。すると眼前に太平洋の大海原が広がってしばらく続いた。列車は速度を上げて走った。するとラジオから偶然シューマンの交響曲第3番が聞こえてきたのだ。

NHK-FMの番組がほとんどクラシック音楽で占められていた頃だ。この時の演奏はジュリーニの指揮するロサンジェルス ・フィルの新譜。ジュリーニがロスの音楽監督に就任してしばらくしたころだったと思う。とにかくこの時の経験は、私をしてこの曲を明るい陽光の中で広がる海の風景と関連付けてしまった。これがライン川の音楽だと言うのに。そういうわけで私は今でも夏が近付くとこの曲が聞きたくなる。

シューマンの最後の交響曲は、とても明るく自然な喜びに満ちている。第1楽章の冒頭は「春」(第1交響曲)の第1楽章と並んで親しみやすい曲だ。 ライン川に身を投げて自殺を試みた作曲家とは信じられない。そんな明るい曲を、イタリア人の指揮者がカリフォルニアのオーケストラを指揮しているのだから、そこに広がるのは地中海性気候の海である。第2楽章のテンポはゆったりとしており、大きな船にでも乗っているような感じだ。第3楽章に至っては昼下がりの夢うつつのような気分だし、第4楽章になると大海原に陽が沈んでいくようなイメージに変わる(私の場合)。

中間の3つの楽章がいずれもどちらかというとスローな曲であるにもかかわらず、最終楽章の第5楽章は目いっぱい盛り上がって終わると言う風ではない。どこか尻切れトンボのような印象を、初めて聞いた時には覚えた。つまり第1楽章がとても堂々として風格があるのに、そのあとが何か物足りないのである。そういうことで私は第1番や第4番に比べると全体の印象は薄い。けれども第1楽章だけは「ライン」が一番好きだ。

シューマンのすべての作品の中で、最初に触れたのがこの交響曲第3番「ライン」の第1楽章だった。 そして演奏が良ければ音楽が光沢を放つのもシューマンの特徴である。サヴァリッシュやハイティンクなどドイツ風の明るい音色とスピード感で聞かせる演奏も多いが、ジュリーニの滔々とした演奏がこの曲のもう一つの魅力を表現しているように思う。ジュリーニはヴィオラ奏者だったそうだが、明るすぎない音色が音符いっぱいにまで引き延ばされて合奏される時の、弦楽器の渋くて暖かい厚みは、大河となって流れゆく川の情景を見事に表しているように感じる。そう言えばケルンの大聖堂をライン川をはさんで見た光景こそ、この曲の本来のイメージだったろう。

2015年5月18日月曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(P:マウリッツィオ・ポリーニ、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は内省的な作品である。ここで「内省」というのは自己を省みることだが、演奏者がそうしているとか、作曲家がそのような気持ちで作曲したかどうかまではわからない。私が言うのは聞き手このこと、それも自分についてである。私はこの曲を聞く時、とりわけ第2楽章で、次の第5番協奏曲「皇帝」の時とは明らかに違う気持になるのだ。

自分自身の心のどこか片隅にあるような感情を覗かれるような気持ち、孤独で苦しかった頃の思い出を振り返る時のような、ちょっと時間が止まったような気分。こういうことは音楽を聞く場合よくあることだが、この曲はまさにそのような作用をもたらす作品である。深く沈んだ止まりそうな弱音が、ピアノで静かに弾かれる時に、心をギュッと掴まれたような作用を受ける自分というものがそこに存在している。他の人はどうなのだろうか。そしてそれを音楽的に証明することはできるのだろうか。

私は全く専門家ではないから、コードの進行がどのような気分を聞き手に喚起するかというような、作曲上のテクニック(それはポピュラー音楽で顕著である)についてはよくわからない。またそれが明確な形で定義されているわけでもないだろう。だが西洋の音楽が長い歴史を経て培ってきたこのような音楽上の特性と聞き手の心情の間に、経験的法則に基づく、あるいは明文化されていない関係が存在する。ベートーヴェン自身がその意図をもっていたか、あるいはそのいうな感情を持ちながら作曲したか、それは不明であり、また演奏家がそのことを理解して再現しようとしているか、となるとそれもまた明確には言えない。

おそらく音楽の面白さはそのような曖昧な部分にあるのではないかと思う。どのような感情が喚起され、どのような感覚を抱いて聞くかは、最終的には聞き手に任される。聞き手は何をどう想像しようと自由である。

第2楽章までの陰影に富んだ旋律が、時に息苦しく目まいにも似た感覚を抱かせる。 だがそれもいつしか終わって静かに、かつ確信を持って始まる第3楽章の出だしに、どこか新しい世界へと踏み込むような新鮮な気分にさせられる。不安な中にも着実な足取りで歩みを進める気分は、私の場合若い日の思い出に重なっている。

前にも書いたように思うが、ポリーニがザルツブルク音楽祭でアバド指揮ウィーン・フィルと共演した録音をFM放送で聞いた20歳の頃の年明けに、私は友人たちと飲み明かし、気がついていたら家のベッドで寝ていた。まだ酔いが残る冬の朝、私の心に年末に聞いたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第3楽章が鳴り響いた。どういうわけかこの時の音楽が私の心から離れない。あの演奏をもう一度聞いてみたいと思う。だが放送録音は再びオンエアされることはない。私はポリーニというピアニストの弾くベートーヴェンに特に興味を持ってはいなかったが、どういうわけかこの時の演奏は素晴らしかったと思う。

後年になってアバドがベルリン・フィルの音楽監督に就任し、ポリーニをソリストに迎えてベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を一気に録音した。発売されると同時に私はこれを買い求め、今でも手元に置いてある。ここで聞く第4番もその演奏である。だがどうしてもあの時の、ウィーン・フィルとの演奏とは違うような気がする。1987年のザルツブルクの演奏は、もっとよかったのではないか・・・。

実は検索をしてみると、この時の録音が非正規でリリースされているようだ。 けれども録音状態はわからないし、それに音楽というのはやはり1回限りのものだとも思う。ライブ収録された放送だったとしても、それを何度も聞くことができないという良さもまた音楽の大切な側面だ。あの時のポリーニは確かに良かったねえ、でも後年のベルリンで入れた録音は少し物足りないねえ、などと語っているのがいいのかも知れない。少しは通のような気分になれるし、それにいつまでもその時の気分に浸ることができる。二度と経験できない過去を振り返る時の、若干の悔しくもどかしい気分とともに。それはあたかも苦い初恋の思い出のように・・・。

2015年5月17日日曜日

マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」(オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団他)

マーラーは「復活」を6年もの歳月をかけて作曲した。その苦心を反映するかのうようにこの交響曲は、それまでの他の交響曲作品とは比較できないくらいに大規模なものだ。5楽章構成であることに加え2人の独唱や合唱団、それに舞台裏に配置されたバンダまでもが登場する。後半の3つの楽章は続けて演奏され、ここだけで50分、曲を最初から最後まで続けて聞くと80分ほどかかる。つまりベートーヴェンの第九を超える演奏規模と言うことになる。

かつて私の家にも「復活」のLPレコードがあり(ズビン・メータ指揮のウィーン・フィルだった)、単独で2枚組の交響曲というのが何とも驚くべきものに思われた。録音も秀逸なこのレコードの第1楽章の冒頭を私は友人と何度も聞き、家が震えるのではないかと言うような大音量で鳴らしたのを思い出す。その丸で火山が爆発するようなフォルティッシモを聞くだけで私は満足し針を外すのだったが、後年この曲を聞くとそのような盛り上がりが第1楽章にももう一回、そして長い第5楽章には何度も登場する。それだけでなく震えるくらいにメロディーが奇麗な第2楽章、旋律が忘れられないほど印象的な第3楽章、さらにはハッとさせられるような啓示に満ちた第4楽章など聞きどころが満載である。

マーラーはしかし、この曲を順調に書き進めたわけではない。特に第5楽章の作曲にまつわるエピソードは有名だ。ハンブルクの教会で尊敬する指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀に出席したマーラーは、オルガンと合唱による詩人クロプシュトックの「復活」の中の「汝、よみがえらん」を聴いた時、作曲中の交響曲の終楽章に使用することを思いついたというくだりである。「それはまるで稲妻のようにわたくしの身体を貫きました。そしてすべてが、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はこのような『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです。」

私がこの曲の全体を初めて知ったのは、エジンバラ音楽祭でレナード・バーンスタインがロンドン交響楽団を指揮したビデオ映像を見た時だった。教会でのライブ映像は、マーラーにひとかたならぬ情熱を注いだこのユダヤ系指揮者が、まるでマーラーの生き写しではないかとさえ思われたのだ。特に終楽章での圧倒的な感銘は、音楽というものの概念について再考を迫るほどの気迫に満ちている。「私は生きるために死ぬのだ」と歌われる時、カメラは何度も教会の天井を写しだす。天からの稲妻が、教会にいたマーラーに降り注いだように。

何と言っても圧倒的な作品であるこの交響曲は、私がまた最も愛するマーラーの作品でもある。そしてそのように感じている人も多い。指揮者のサイモン・ラトルはこの曲が自分の指揮者人生を決定づけたと言っているのを読んだことがある。彼自身、バーミンガム市交響楽団とベルリン・フィルを指揮して2度も録音している。有名は実業家ギルバート・キャプラン氏が、この曲だけを指揮するアマチュア指揮者として有名であり、私費を投じてロンドン交響楽団を指揮した演奏を録音し、その評価がもとでとうとうウィーン・フィルの指揮台にも立った(ドイツ・グラモフォンからリリースされている)。ここで彼は自らの改訂稿を用い、それが今では一般的なものになっている。言うまでもなくウィーン・フィルというのはマーラー自身が指揮を務めたオーケストラである。

私は「復活」の第2楽章が好きで、新しいCDを入手するとここの演奏をまず聞くのが慣例だが、なかなかいい演奏には出会えない。バーンスタインの演奏など遅すぎて、しかもあまり楽しくない。それに対して小澤征爾のボストン盤は純粋で古典派のセレナーデのようだが、現在私の最も好きな演奏である。第4楽章の「原光」は、ナタリー・シュトゥッツマンの独唱で聞いた時、アルトの歌声の響きがまるで暗闇に差す一条の光にそっくりだと思った。

人間は大きな苦悩に閉ざされている!
私は天国にいたいと思う! 
神はきっと一筋の光を私に授けなさり、
永遠の喜びの生命の中で私を照らしてくださるにちがいない。

一方第1楽章はもともと「葬礼」と呼ばれた。第1交響曲「巨人」で朝に向かって歩き出した若者は、早くも挫折し死に絶える。第2楽章で過去を回想するものの第3楽章で夢から覚め、第4楽章で信仰に目覚めた彼は第5楽章で神の啓示を受ける。魂がよみがえるのだ。「復活」とは死者の復活であり、キリスト教で言うところの復活(Resurrection)である。

生まれ出たものは、必ず滅びる。
滅びたものは、必ずよみがえる!
私は生きるために死のう!

この曲の録音には数多くのものが存在するが、今のところ私にとって何度か聞いた実演を上回ったものはない。少々技術的に平凡な演奏でも実演に勝るものはないとさえ思う。圧倒的な音楽の前に、言葉を失うのだろう(特に第5楽章のホルンが聞こえてくるところなど)。だからこの文章を書くに際していくつかの演奏を聞きなおしたが、部分的にいいとは思えてもそれが記録された、再現可能なものであるという事実そのものが私を冷静にさせ、白けさせてしまう。消え去ってもう二度と再現されない音楽とともに過ごす長大な時間。その中にこそこの曲の真髄があるように思えてならない。マーラーの想定した時間経過をそのまま演奏者とともに過ごす一期一会の瞬間を伴ってこそ、胸に迫るものがあるように思う。

だからCDでは、先に取り上げたアバドや、上記で触れた演奏とは異なる、もう少し客観的な演奏も聞いておきたいと思う。まだ作曲者が生きていた時代に活躍をしていたオットー・クレンペラーは、生涯に幾度となくこの曲を取り上げており、そのうちのいくつかはいまだに録音がリリースされているが、その中でもヒルデ・レッスル=マイダンがメゾ・ソプラノを、エリザベート・シュワルツコップがソプラノを歌ったEMIのステレオ録音に登場してもらうことにしようと思う。冷徹ななかにも情熱が宿っているような演奏。音の広がりと曖昧にしないアクセントはこの指揮者の特徴だ。ただ残念なのは第4楽章である。ここだけはメータの演奏(独唱はクリスタ・ルートヴィヒ)が断然いい。まだマーラーの演奏がポピュラーではなかった時代、1961年の録音。フィルハーモニア管弦楽団、そして合唱団。

2015年5月10日日曜日

ワーグナー:交響曲ハ長調他(ネーメ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)

ベートーヴェンに心酔していたワーグナーは、結果的にはベートーヴェンがむしろ不得意としていたオペラの分野で新境地を開いたが、そのワーグナーも若い頃に交響曲を作曲していることは興味深い。交響曲ハ長調と未完に終わった交響曲ホ長調である。 このうちハ長調の交響曲は1832年実に19歳の時の作品、未完成のホ長調は21歳の時の作品である。

ドイツのFM放送などを聞いているとこれらの交響曲は割合耳にすることが多い。歌劇「リエンツィ」がドレスデンで成功を収めるのが27歳の時だから、これらの作品はワーグナーのあの毒がまだ少ない。従ってはじめて聞いた時は、一体誰の作品なのだろうと思った。

交響曲ハ長調は、それでも40分ほどの長大な曲である。どうしても作品が大規模化するのはワーグナーの場合仕方ないのだろうか。雰囲気はロマン派前期のものだがシューベルトとはやや違う。そう言えばハ長調という調性は、ベートーヴェンの交響曲第1番と同じだ。ビゼーにしてもウェーバーにしても、またシューベルトもメンデルスゾーンも、若い頃の作品は瑞々しくて私は好きである。

序奏を伴う第1楽章から骨格がはっきりしていている。比較的長く重い序奏が終わると高らかに流れる主題は健康的で、来ていて心地よい。第2楽章のロマンチックな調べも味わいがある。第3楽章はスケルツォで、やはりベートーヴェンを意識したものだろう。第4楽章になるとどことなくシューベルトかウェーバーのような雰囲気で、平凡と言ってしまうには印象的で、何かよくわからないのだが聞き終わった充足感もないわけではない何かがここにある。

ネーメ・ヤルヴィはエストニア出身の指揮者でパーヴォの父である。彼はスコットランドのオーケストラを指揮してChandosレーベルに数多くの管弦楽作品を録音している。これもその一枚だが、他にもスッペやサン=サーンスといった作曲家の序曲集などをリリースして好評だ。ワーグナーの珍しい作品を集めたこのCDも、2つの交響曲を中心にめったに録音されない作品をSACDのフォーマットで収録している。「リエンツィ」序曲のテンポを時に抑えた表現など、若干ケレン見が目立つのも息子と良く似ている。


【収録曲】
・交響曲ハ長調
・交響曲ホ長調(フェリックス・モットル編)
・感謝の行進曲
・歌劇「リエンツィ」序曲
・皇帝行進曲

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...