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2026年5月6日水曜日

シューマン:ヴァイオリン協奏曲ニ短調(Vn: アンティエ・ヴァイトハース、アンドルー・マンぜ指揮北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)

ゴールデンウィークの真っ只中、今日も東海道新幹線に乗って京都へ向かっている。朝から全席満席で、外は雨。車窓に当たる雨粒は真横に流れ、山々は霞んで見える。田植えを控えた田んぼには水が張られ、いつもの初夏の風景が広がっていた。

連休の始まりにふさわしい明るい曲を、と最初は思った。しかし、どこか進んで陰鬱な気分に寄り添ってくれる音楽はないだろうか、と考えたとき、ふとシューマンのヴァイオリン協奏曲を思い出した。そういえば、この曲についてはまだ書いていなかった。

「のぞみ」が小田原を通り過ぎるころ、Spotifyでこの曲を再生した。ヴァイオリン独奏はアンティエ・ヴァイトハース。調べてみると、私と同い年の1966年生まれのドイツ人女性だという。指揮はアンドルー・マンゼ、オーケストラは北ドイツ放送フィル。2020年の録音。彼女は室内楽的な活動を中心にしているようだ。日本での知名度は高くないが、誠実で温かい演奏をする人だと感じた。

今でこそ録音は増えたが、この曲は大作曲家の作品にしては演奏される機会が少ない。もしかすると、演奏家を選ぶ曲なのかもしれない。澄んだ音で、アクセントをきっちり刻み、六度跳躍のような難所をしっかり決められれば、シューマンらしい印象的な音楽になる。ブラームスにも言えることだが、シューマンはより繊細な注意が必要なのだろう。しかし、このヴァイトハースの演奏は、マンゼの献身的なサポートもあって、メリハリがあり、とても美しく仕上がっている。

この協奏曲はシューマンの遺作であり、死後長い間、日の目を見なかった。だが、紛れもなくシューマンの音楽であり、第1楽章の広がる感覚は、まるで平野の空をグライダーで滑空するようだ。ワーグナー的とでも言うか。

列車が天竜川を越えるころ、雨は上がったが、空はまだどんよりしている。今日の新幹線の車窓から眺める新緑の景色は、この曲によく似合っている――そんなことを思っているうちに、長い第1楽章が終わった。列車は浜名湖の湖面をかすめるように走り抜けていく。

第2楽章は第1楽章に比べると短く、ゆったりとした夢を誘うような美しい音楽だ。ヴァイオリン協奏曲における長大な第1楽章、短い緩徐楽章、そしてロンド風の第3楽章という構成は、ベートーヴェンが確立し、ブラームスやチャイコフスキーも踏襲した形式である。シューマンもまた、その伝統の中にいる。第2楽章から第3楽章へと切れ目なく続く構成は、全体に明るく健康的な印象を与える。

しかし、クララ・シューマンはこの曲を「決して演奏しないように」と忠告したという。理由は、シューマンがライン川に身を投じる直前に書いた「天使の主題による変奏曲」と酷似しているからだとされる。結局、この協奏曲が初演されたのはナチス政権下の1937年。依頼を受けたヨアヒムではなく、ゲオルク・クーレンカンプがカール・ベーム指揮ベルリン・フィルとともに演奏し、その模様は短波放送で全世界に流されたという

2026年2月10日火曜日

NHK交響楽団第2057回定期公演(2026年2月8日/NHKホール、フィリップ・ジョルダン指揮)

今回のN響定期は、少し変わったプログラムだった。前半がシューマンの交響曲第3番「ライン」、後半がワーグナーの楽劇「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」の3曲(ソプラノ独唱:タマラ・ウィルソン)。同時代のドイツ人作曲家とはいえ、シューマンとワーグナーの音楽は似ても似つかない。「ライン川」という共通点で並べたのだろうが、どこか取ってつけた印象が拭えない。それでも後半のワーグナーが目当てだったので、久しぶりにAプロのS席を購入して出かけた。

前日から降り続いた雪が代々木公園の木々に積もり、まるでクリスマスツリーのように光っている。どんよりした空と刺すような寒さの中、空気だけは澄み切っていて気持ちが良い。人も少なく、こういう日は原宿から歩くのも悪くない。衆議院議員選挙の投票を済ませ、開園20分前にNHKホールへ到着した。

悪天候のせいか客席はやや空いており、当日券も出ていたのには驚いた。何しろ今日の指揮者はフィリップ・ジョルダンである。N響初登場、しかも1回限りのプログラム。ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任したばかりという話題性もある。辞任の理由は「意見の相違」という毎度のパターンだが、このポストが難しいのは周知の通りだ。

それでも劇場育ちの指揮者として、特にワーグナーの評価は高い。しかも今回は「神々の黄昏」終幕の3曲を続けて演奏するという。これを逃す手はないと、シーズン初めからチラシに丸をつけて待っていた。幸い予定も空き、数日前に行けることが決まった。

前半の「ライン」は、シューマンが入水自殺を図った頃の作品ではあるが、私は精神医学の専門家ではないので、そこに病的な影を感じることはない。むしろ健康的で明るい作品だと思う。予想通り、演奏は悪くなかったが特筆すべきものもなく、どちらかといえば退屈だった。こうなると、前半からワーグナーをやってくれればよかったのに、と勝手なことを考えてしまう。「ニーベルングの指環」は名曲の宝庫だし、ワーグナーの交響曲なども一度実演で聴いてみたい。

しかし、20分の休憩を挟んで始まった後半は、同じオーケストラとは思えないほど音色が変わり、ドラマ性を踏まえた音作りが見事だった。

「ジークフリートのラインへの旅」が始まると、一気にワーグナーの世界へ引き込まれる。これが同じライン川を描いた音楽とは到底思えない。ワーグナーのそれは、悠久の流れの中に滔々と広がる独自の世界だ。6台のハープが並ぶ壮観な舞台で、ひとりの奏者が舞台裏へ移動する。楽器のバランスは完璧で、2階席にも十分に響く。

NHKホールは広すぎるほどだが、だからといって大音量で押し切るとバランスが崩れる。ジョルダンは初登場とは思えないほど音量のセンスが良く、さすがカペルマイスター出身のマエストロだ。「ラインへの旅」が終わると間髪入れずに「葬送行進曲」へ。舞台は一気に重々しく深刻な展開へ移る。

まるで早回しの映像や映画の予告編を見ているようで、このスピード感についていくのは少し大変だ。だが、これはいつものことでもある。四夜にわたる「指環」を通しで観たことのある人なら、あの長大な物語の最後に「葬送行進曲」が始まる瞬間の震えるような感動を知っているだろう。しかし、抜粋として聴くと、あの“麻薬のような陶酔感”にはどうしても届かない。もちろん承知の上で聴いているのだが、そう思うとどうしても、前半には「ラインの黄金」や「ジークフリート」の場面を入れてほしかった、などと考えてしまう。シューマンではなく。

それでも、この日の「葬送行進曲」は圧巻だった。そして続く「ブリュンヒルデの自己犠牲」。舞台には焼け落ちるヴァルハラも、燃えさかる炎も、ラインの水底も見えない。それでも想像力が勝手に補い、舞台の記憶と重なって没頭してしまう。

いつの間にか登場したアメリカ人ソプラノ、タマラ・ウィルソンの熱唱は、オーケストラの盤石なサポートに支えられ、ホール奥まで響き渡った。わずか40分ほどに凝縮されたワーグナーが見事に目の前に蘇り、演奏が終わると万雷のブラボーと拍手。歌手と指揮者は何度もカーテンコールに応え、難しいソロを見事にこなしたオーケストラの奏者たちにも、いつまでも熱い拍手が送られていた。

2025年11月24日月曜日

NHK交響楽団第2050回定期公演(2025年11月21日サントリーホール、ラファエル・パヤーレ指揮)

もともとN響のB定期は、やや玄人好みの選曲だと思っていた。従来からN響では、同じ指揮者が約1か月間滞在して、3つのプログラム計6回の公演を指揮する。公式には記されているわけではないが、Aプロは指揮者の十八番、Cプロはポピュラー作品が中心に組まれているものと思われる。しかしN響もいまや世界的指揮者を多く招聘することによって、長い期間マエストロを、極東の島国に拘束しておくことは困難になったように思われる。今シーズンで言えば、移動に伴う疲労が心配な超高齢のヘルベルト・ブロムシュテット、首席指揮者のファビオ・ルイージ、それにウクライナ戦争であらゆるポストを辞任したロシア人、トゥガン・ソヒエフを除けば、毎回指揮者が入れ替わる。11月はAとCが名誉音楽監督のシャルル・デュトワで、Bのみベネズエラ人のラファエル・パヤーレとなっていた。

デュトワのC定期は世紀の名演だったと聞いている。ここで演奏されたラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)には、私もできれば行きたった。しかしあの広いNHKホールで、演奏を堪能しようと思えば1階席の中央に座る必要があり、それには座席の確保が困難な上、席自体がやや狭く視界も良くない(端の席はほぼ絶望的)。しかも夜の渋谷の雑踏、もしくは休日の代々木公園のお祭り騒ぎの中を会場に向かうのは、私にとってもはや苦行である。そういうわけで、最近NHKホールに出向くのは避けている。

そのデュトワがB定期も振るかと思いきや、そうではなかった。年間会員としてはちょっと残念だったが、こればかりは仕方がない。そういうわけで今月は、パヤーレの登場である。パヤーレを私はかつて一度聞いている(2017年)。ところが今回配布されたプログラム・ノートによれば、彼のN響への初登場は2020年2月と記されている。これはどういうことかと思ったら、定期公演の話であった。私が出かけたのは「N響『夏』」と呼ばれるコンサートで、ここはいわば若手指揮者による名曲プログラム。実はほとんど印象は残っていないが、聞いたという事実は覚えていたので、まだましな方である。

そのパヤーレも、今やモントリオール交響楽団のシェフに抜擢されたようだ。ベネズエラ生まれと聞けばドュダメルを思い出すが、独自の音楽教育プログラム「エル・システマ」のホルン奏者出身とのことである。しかし今回のプログラムは、新大陸の音楽ではなくドイツ音楽、それもシューマン、モーツァルト、それにリヒャルト・シュトラウス。言わば王道の選曲と言うべきか。だから曲は名曲ばかりでも、これは指揮者にとっての意欲的プログラムであると思われた。B定期としてのこだわりは、そういうところだろうか。

さて、シューマンの「マンフレッド」序曲は、かつてフルトヴェングラーのCDで聞いたくらいで、ほとんど知らない。シューマン独特の、あのくすんだ音色がN響から聞こえてくる。指揮はこの曲だけ完全な暗譜で、指揮台は置かれていなかった。特に心に残るようなわけでもない平凡な演奏が終わって、舞台左奥に置かれていたピアノを、どうやって舞台中央に運ぶのか、私はこれまで何度もサントリーホールに通っているが、ちゃんと見るのはこれが初めてである。

舞台は階段状になった半円形の台が設えてあり、指揮者を中心に後方の奏者ほど高い位置に並んでいる。この階段を乗り越えるため、何と舞台の一部の段差が電動装置によって切り取れたように沈み、そこの部分だけがフラットになったのだった。その作業のため、第1及び第2ヴァイオリンのセクションは一時退場を余儀なくされた。このような舞台の準備作業を、私は興味深く見ながら、次のプログラム、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を待った。

再び舞台の階段が正常位置に戻り、ヴァイオリン奏者の椅子が並べられると、団員たちの一部が再登場。ピアノのC音を合図にチューニングが開始された。程なくしてソリストを務めるエマニュエル・アックスと指揮者が登場した。

アックスと言えば、私は子供のころから録音で知られているアメリカ人のピアニストで、ヨーヨー・マと競演した録音などで良く知られているが、実演で聞くのは実はこれが初めてである。そしてモーツァルトのピアノ協奏曲第25番もまた、実演で初めて聞く曲である。この曲はハ長調で書かれており、モーツァルトのハ長調と言えば、「リンツ」や「ジュピター」などが思い浮かぶ。いずれも壮大でストレートな華やかさを持った曲で、誤解を恐れずに言えば、奏者を選ぶというか、なかなか難しい曲に思われる。

だからかどうかはわからないが、この25番のピアノ協奏曲は、いい曲と思うのだが演奏されることは少ない方だ。パヤーレはその最初音を、ふわっとしてスッキリとした音色で始めたのは印象的だった。アックスのピアノがまた、モーツァルトに相応しく、雑味なく響く。全体に好感の持てる演奏ではあったのだが、それ以上でもそれ以下でもない。もしかするとパヤーレの音作りは、やや雑なところがあって、細やかな音の表情や音色の変化に乏しく、N響はうまく取り繕ってはいるがちょっと平凡な演奏に終始したように感じた。しかしアックスのピアノは何とも素敵で、その真骨頂はアンコール曲(ショパンのノクターン第15番)で示されたと言って良いだろう。

休憩を挟んでオーケストラが倍増され、舞台上にずらりと並んだ姿は壮観だった。リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」と言えば、毎年数多くの公演がなされる名曲中の名曲だが、たしかにこの曲ほどオーケストラの醍醐味を味わわせてくれる曲もない。にもかかわらず、私はかつて2回しか聞いていないのは意外であり、しかもそのうちの1回は、すでに忘却の彼方にあった。今回検索してみると、2020年1月にN響で聞いている。しかもこの時の会場もサントリーホール、指揮はファビオ・ルイージ、ゲスト・コンサートマスターはライナー・キュッヘルとなっている。

私が聞いた位置が悪かったのか、それとも体調が悪かったのか、あるいはこの曲についてまだあまり多くを知らなかったのか、そのあたりはよくわからないが、その前に初めて「英雄の生涯」を聞いた時の読売日本交響楽団による演奏会(2015年3月のサントリーホール、指揮はジェラール・コルステン)はよく覚えているので、ルイージの演奏はどこか物足りなかったのかも知れない。

さてその「英雄の生涯」のパヤーレだが、これは前半のプログラムにおけるやや精彩を欠いた演奏に比べると、少なくとも私の個人的な印象としては悪くなかった。というよりも、結構よかったんじゃないかと思っている。もしかするとパヤーレの音は、どこかフランス風のオーケストラのように平べったく、しかしながら色彩感は豊かであった。この結果、何とも言えないようなムードを醸し出していた。全体として見た場合に、ずっとうっとりとして自然に身を任せておけばいいような気分が私を被い、それは最後まで続いた。

なぜかとても心地が良く、聞いているだけで気持ちが満たされるような感覚は、オーケストラの技量によって作り出されたのか、指揮者の意図するところだったかのかはよくわからない。しかしこの丸で韓国ドラマを見る時のような、魔法のようにしっとりとした演奏は、まぎれもなくオーケストラを聞くことの喜びを感じさせてくれた。饒舌なヴァイオリン・ソロを弾いたコンサートマスターは、長原幸太だった。そしてファゴットもホルンも小太鼓も、十分に巧く、そつがない。そのことが演奏に余裕を与え、指揮者が大きな身振りでドライブする姿が上滑りすることもなかった。

客席全体がこの演奏を良いと感じたかどうかは、正直なところわからない。N響の定期となるとほぼ会員で埋まっているから、皆相当耳の肥えた人たちである。そしてこの演奏にはブラボーはなかった。感動しているのは私だけかとおもった。ところが、消えかけていた拍手がわずか数人に減ったにもかかわらず、それを熱心に続けている人がいる。そしてその拍手は、あろうことか次第に大きくなってゆき、オーケストラが退場してしばらくしても絶えることはなかった。よく見ると、私の隣の席のいつもの夫婦も、珍しく退場せずにずっと拍手している。

「一般参賀」などと揶揄されるコロナ禍後の指揮者に対するちょっと大げさな反応には、少し辟易している。この若手指揮者に対し、東京のリスナーは良い印象を持って帰ることを土産に、今後の成長を見守りたいという老婆心に導かれている要素がないとも言えないかも知れない。しかし、私はまた自分がそうであったように、この演奏には(すくなくとも後半の「英雄の生涯」に限れば)、実にいいものだったと素直に思った人が、一定数いたということだ。それを証明するかのように、長い時間の後、再び舞台に指揮者が登場した時には、多くのブラボーが叫ばれたのだ。

そもそも我が国には、クリスマスを祝う伝統はない。にもかかわらず、いやだからこそというべきか、東京では早くもクリスマス・ムードになっていた。サントリーホール前の噴水にもクリスマスツリーがお目見えし、階上には赤と緑の垂れ幕が下がっている。一層華やいで見えるこの頃、いつのまにか11月も後半になって師走の足音が聞こえてきている。長く夏が続いた今年は、もう少し秋を楽しみたかった、という本音を言い出すまもなく、来る年の準備に追われるのだろうか。そいうえば、在京オーケストラの来シーズンのプログラムが出そろった。会場前で配布される大量のチラシの束を繰りながら、早くもカレンダーに注目のコンサート情報を書き込んでいる。

2024年3月24日日曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第758回定期演奏会(2024年3月23日サントリーホール、アレクサンダー・リーブライヒ指揮)

定期会員になると安く席が確保できるのはいいのだけれど、その日にスケジュールが入ってしまうこともあって、日程調整が結構大変であることは経験済みだ。それでも今回、初めて日フィルの春季の会員になったので、夏までの計5回のコンサートのチケットが送られてきた。その最初となる第758回定期演奏会が、サントリーホールで開かれた。

毎年3月の下旬になると、アークヒルズ脇にある桜並木は、「満開」と言わないまでも結構な咲き具合で、「7分咲き」か「満開近し」の趣である。ところが今年は、(早く咲くと言われていたのに)寒の戻りが長く続き、一向に咲く気配がない。「ちらほら」でもなく「つぼみほころぶ」といった塩梅。聴衆もコートを着てマフラーを巻き、曇天の中を会場へと急ぐ。

演奏会は2日にわたって開催された。正式には私は金曜日の会員なので、本来は前日22日の予定だったのだが振替をしてもらった。このシステムは大変有難い。そして振り替えてもらった席も1階の通路側と悪くない(A席)。席に行くと会員向けの冊子が置かれいて、アンケート用紙が入っていた。

5つある定期演奏会のうち3つ以上がお目当ての場合、会員になるのが経済的だ。今季は4つの公演に興味があった。その中に今回の公演は入っていない。しかし、会員にならないと行かないであろうコンサートでの、曲や演奏との思いがけない出会いもまた、定期会員の醍醐味であると言える。プログラムは三善晃の「魁響(かいきょう)の譜」、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番(独奏・辻彩奈)、そしてシューマンの交響曲第3番「ライン」という、どちらかと言えば玄人向けの渋い内容。でもこういう時こそプロの心をくすぐるからか、名演奏になることも多いことは過去に経験済みである。

さて、そういうわけでアレクサンダー・リーブライヒというドイツ人の指揮者も初めて聞くことになったわけだが、日フィルとの相性もなかなか良いと見えて、実力の発揮された印象的な演奏となった。まず三善晃の作品だが、最近コンサートで日本人作曲家の作品が取り上げられることが多い。しかし私はこの曲を初めて聞いた。「魁響」という言葉は(おそらく)造語で、手元の広辞苑にも載っていない。プログラム・ノートによれば「魁」はさきがけ、すなわちものの始まりの前段階を意味し、その響きという意味で名付けたようだ。ただ興味深いのは、この作品が岡山のコンサート・ホールのこけら落のための作曲されているこで、吉備地方の霊感に触発されたことによるということである。

岡山はほとんど旅行したことがないが、吉備津神社には行ったことがある。ここの長い回廊を、雪の降る年末の寒い日に歩いた。寒くて霊感どころではなかったが、その時のことを少し思い出した。曲はしっかりとした、割と長い曲だったが、手中に収め切った指揮と演奏で聞くものを飽きさせない。中盤のリズミカルな部分も含め、現代音楽の語法てんこ盛りのような曲だが、堂々としたものであった。

ヴァイオリンのセクションが一時退席し、独奏者のためのスペースが作られる。やがて登場した辻彩奈は、初めて聞くヴァイオリニストである。ここのところ、若い日本人の弦楽奏者に出会うことが多いが、彼女もまたそうである。シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番は実演で聞くのが2021年以来2回目。近年なぜかポーランド人作曲家の作品がプログラムに上ることが多いような気がする。若い演奏家がシマノフスキの作品をこなしてしまう技量の高さにも驚くが、失礼ながら私はこの曲の間中、耐えがたい睡魔に襲われてしまいほとんど記憶が残っていない。それでも最終盤のカデンツァでの堂々とした演奏は、この曲に賭ける彼女の強い気持ちが表れていたように思う。

休憩をはさんで演奏されたシューマンは、さっそうとしたさわやかな演奏だった。ホルンをはじめとして日フィルの巧さが際立った。シューマンの音は弦楽器と管楽器がそのまま混ざったような独特のもので、アレルギー性鼻炎に苛まれる春霞の時期に良く似合う、などいうことを思うのは私だけだろうか。ただ「ライン」という曲はライン川の雄大な景色をそのまま音にしたようなところが魅力的で、私は4つの交響曲の中では最も好きな作品である。それでも実演では、過去に一度しか接していない。

リーブライヒの伸びやかなで、かつ細やかな指揮によってこの曲の魅力が伝わって来る。今ではめずらしく各楽章の間に十分なポーズを置くのが好ましい。音楽を聞く喜びを味わい、その終楽章でコーダが決まると、女性がうなり声をあげ、続いて多くのブラボーが飛び交った。おそらく満足の行く出来だったのだろう、大変うれしそうに何度も舞台に上がった指揮者は、満面の笑みを浮かべていたのが印象的だった。

2019年6月16日日曜日

ニコラス・ナモラーゼ(p)・リサイタル(2019年6月9日、東京文化会館小ホール)

思いがけず妻がニコラス・ナモラーゼなるピアニストのリサイタルに行きたいと言うので、小雨模様の中、東京文化会館へ出かけた。会場に着いてみると数多くの人がロビーにいる。その理由は、大ホールで二期会公演「サロメ」(リヒャルト・シュトラウス)が開かれていたからだ。「サロメ」は私も注目していたけれど、ここのところ体調がすぐれない中、たとえ1幕物とは言え、物凄い集中力を必要とするオペラを見るだけの気持ちになれないでいた。だがピアノのリサイタルであれば、もう少し気軽に足を運ぶことができる。

ナモラーゼという若いピアニストの名前など聞いたことがない。それもそのはずで本公演が日本でのデビューとなる。もっとも世界的に見ても、まだデビューして間もない新星である。プロフィールによれば1992年ジョージア生まれとある。若干27歳ということか。CUNY(ニューヨーク市立大)に在籍しており、昨年カナダのホーネンス国際コンクールに優勝、今年2月にカーネギーホールでリサイタルを開いたらしい。「桁外れの芸術家」などと各種の批評が掲載されているが、日本でのコンサートは名古屋と東京のみだ。

東京文化会館の小ホールは、正方形を45度傾けたような形をしていて、その建築は若干古めかしいもののモダンで、なかなかいい音質だと私は思った。ロビーは広く、広い窓から見える上野駅前の雑踏からはかけ離れた空間である。やがて舞台を照らす照明の中に現れた青年は、まずスクリャービンのソナタ 第9番作品68「黒ミサ」という曲を弾き始めた。タッチの確かさと、揺らぎのない音感は、とても好感が持てる。あっという間の曲だった。

続くバッハのシンフォニア第9番へ短調BWV795を、続けて弾き始めたとき、私ははっと息を飲んで、椅子に座りなおした。少し眠くなっていたからかも知れない。ところが前半の最後の曲、バッハのパルティータ 第6番ホ短調BWV830を聞いている間中、それはそれは心地よい睡魔に襲われ続けた。演奏がつまらないからではない。何とも心地よい睡眠を誘うのは、その音楽か醸し出す音の波が、絶え間なく私の脳に一種の陶酔の状態をもたらしたからだ。安定した集中力と、その中に調和する繊細で確固たる音波のゆるぎない繰り返しは、バッハの構造的で夢幻的な面を十分に表現していた。

休憩時間にコーヒーを飲むと、頭がさえ渡り、後半のプログラムへ。まずシューマンの「アラベスケ」が聞こえてくる。私はここで、ロマン派はいいな、などと思っていたのだが、この曲が私の今日のお気に入りだったと思う。続く「晩の歌」もシューマンである。バッハとシューマン、それにスクリャービンに混じって、後半のプログラムは彼自身が作曲した「アラベスク」と練習曲第1番、第2番、第3番と立て続けに演奏した。自身の作品は、どこで切れ目があるのか(ないのか)もわからないので、拍手を挟む余地もなく一気に弾き終えた。

まだ始まって1時間半しか経過していない。そこでここからはアンコールということになる。何度か出てきてはお辞儀をすると、やおらピアノの前に座り、まずは「荒城の月」をアレンジした静かな曲でスタート。その後はオール・スクリャービンであった。それらは以下の通り。練習曲嬰ハ短調(作品42-5)、同嬰ニ短調(作品8-12)、同変ホ長調(作品48-8)、同嬰ハ短調(作品2-1)、同嬰へ長調(作品42-4)。アンコールは計6曲もあった。終わって会場を出ると、サイン会に並ぶご婦人方に混じって掲示されたアンコール曲を控えた。どこか間の抜けたロビーに向かうと、大ホールの「サロメ」はすでに終了していたことに気が付いた。

ナモラーゼというこのピアニストは、音の歯切れの良さが私の相性に合っているように思った。日曜午後のひと時を過ごすには、たまにはリサイタルもいい、と思った。

2017年7月1日土曜日

NHK交響楽団第1863回定期公演(2017年6月30日、NHKホール)

パーヴォ・ヤルヴィは今シーズンしめくくりの定期公演で、圧倒的なシューベルトの演奏を聞かせ、それは前人未到の領域にあったと思う。デッドヒートを繰り広げるマラソンを見ているような、長い興奮の時間。この間、聴衆は一時も目を離すことなく、舞台に釘付けであった。第1楽章の冒頭から、オーケストラをドライブするその身振りの、どんな細やかな部分にさえ敏感に反応するオーケストラは、一糸乱れることもなく、この長大なシンフォニーを一気果敢に演奏した。

スポーティーでアグレッシブなシューベルト。それはこの有名な曲を聞いてシューベルトの音楽を久しぶりに思い出そうとする安易な聞き手を頭から裏切る大胆なものだ。だからこそこの境地は、他の指揮者がまだ成し遂げていない領域にも達する野心的なものだ。そうとわかる聴衆は熱狂的に拍手を送り、そうでない聴衆を翻弄、混乱させた。だが驚くべきはこのような世界トップクラスの次元での勝負を可能とさせるN響の技術的水準の高さである。もちろんそれは、長年の数々の指揮者を経て到達したものであろう。そして、さらにそれを推し進めたのは、首席指揮者ヤルヴィの功績と言っていいと思う。もう四半世紀にわたってN響の公演を聞き続けてきたが、それだけは自信を持って言えるのである。

圧巻のシューベルトの演奏に入る前に、後になっては遠く霞んでしまった前半のプログラム、シューマンの歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲と、同じくシューマンのチェロ協奏曲イ短調(独奏はターニャ・テツラフ)についても触れておく必要がある。

歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲は私も初めて聞く曲だったが、メリハリの効いた演奏であった。続くチェロ協奏曲は、この目立たない曲を綺麗に、そして颯爽と弾きこなしたのが印象的であった。音色の美しさは比類がなく、3階席で聞いていても、無駄がないにもかかわらず決して細くはないチェロの音色が、自信を持って弾きこなされてゆく様子は、手に取るようにわかった。おそらくこれまでに聞いてきた独奏のチェリストの中で、私の印象はもっとも大きいものだった。できれば他の曲も聞いてみたい、そしてCDなどを買ってみたいとさえ思わせた。

アンコールにはJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」の冒頭が選ばれた。この誰もが知っている曲によってテツラフの演奏のスタイルを再確認した聞き手も多かったと思う。それは速く、そして流れるようでありながら、抑揚を適度に伴い、聞き手の心を瞬時にわしづかみにしてしまう現代的で、しかも美しいスタイルである。それは丁度、ヤルヴィの演奏に極めて似ている。音楽を一度紐解き、彼女なりに組み立てた結果、それまでにない大胆で新鮮な音楽が誕生する。

シューベルトへの期待は、前半のシューマンのややくすんだ、どちらかというと少し気分が乗らない雰囲気を見事に打ち消すところから始まった。時計の針は数十年バックする。シューマンをして「天国的に長い」と言わしめたのをあざ笑うかのように、「グレイト」と名付けられた交響曲をこんなにも挑戦的に演奏した音楽家がいただろうか。3階席で聞いていてもオーケストラの表情のどんなに些細な変化であっても、あるいは音の組合せが千変万化するすべてのタイミングにおける音色の変化・・・それは連続的であるというよりは離散的であり、写実的とも言っていい輪郭を伴う現代的でデジタル的変化・・・が手に取るように感じられた。

それでも冷静さを維持しながら確認したところでは、おそらくは第4楽章の第1主題を除いて、ほとんどの部分は反復された。第1楽章の第1主題は、これが反復されると一気にオーケストラはヤルヴィの楽器となった。第2楽章の木管楽器の溶け合いや組合せの変化は、まるで高速列車の車窓風景を追うように見事だったし、終楽章に至ってはまるでアクション映画のクライマックスを見るかのような興奮を覚えた。

第2楽章の後半で、音の重なりが頂点に達し、その途端しばし休止を迎えたあとに出てくる低弦の響きは、舞台の左手に配置された「ヤルヴィ・シフト」によって強調され、その時間は会場がこの音に聞き惚れて物音ひとつでない。第3楽章のトリオの場面は、この音楽がこんなに長かったのかと思わせる至福の時間。全体的に速い演奏ながら、それでもなおたっぷりとこの曲を堪能させてくれた。かつて聞いたどんな演奏とも違う。N響でもこれが3度目だが、最初のサヴァリッシュとの名演などと比較しても、そのスタイルは随分と異なる。演奏によって音楽がまだ新境地を示しうることの証明である。

オーケストラが指揮者と一体となり、ほとんど完璧なまでの熱演を繰り広げるヤルヴィとN響のシーンも、いまでは当たり前のような光景になっているのだろう。それにしてもその中では、極めて成功した部類に入るのではないか。3月のヨーロッパ公演では絶賛の嵐だったようで、その記事は今月の「フィルハーモニー」にも記載されている。そしてそんな演奏をここ東京で何度も見られるのは幸福である。生きていてよかったとさえ思った。次回は是非とも前の方で、できれば9月に再オープンするサントリー・ホールで、この組み合わせを聞いてみたい。そしてそれは、お金と時間さえ許せば可能なのである。梅雨の合間の暖かい風で興奮した頬を醒ましつつ、夜の公園通りを下って行った。

2015年7月23日木曜日

シューマン:交響曲第4番ニ短調作品120(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューマンは第1番の交響曲「春」の次にこの交響曲を作曲したが、今日よく演奏されるのは10年以上後になって改訂されたものである。今では何種類かの原典版の演奏も存在するようだが、私はまだ聞いたことがない。そういうわけでこの第4番は私にとってシューマン最後の、もっとも円熟した響きを持つ交響曲として聞いているのだと思っている。つまりとてもシューマン的なのであろう。

各楽章が続けて演奏される。楽章間が同じ和音を伴ってつながっていく様子は見事であり、特に第3楽章から第4楽章にかけてのクライマックスはベートーヴェンの第5交響曲を思い出させる。ここの盛り上がりを初めて聞いた時、私は身震いに似た感覚を覚えた。その時の演奏は今でも歴史的とされるウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるもので、亡くなる前年の録音。オーケストラはベルリン・フィルだった。

この演奏はモノラル録音であるが、異様なまでのロマン性と骨格のしっかりしたフォーム、それに情熱的なパッセージなどその魅力は尽きることがない。おそらくフルトヴェングラーの残した録音の中でも極めて完成度が高いものだと思われる。この演奏の魅力について書かれた文章は枚挙に暇がないほどだから、私はもう少し最近の演奏を取り上げたいと思う。デジタル録音された80年以降の演奏の夥しい数の中で、もっともその演奏が似ていると思うのが、レナード・バーンスタインによる演奏だろうと(すべてを聞いたわけではないのだが)思っている。

バーンスタインとシューマンの相性は非常によく、そこにウィーン・フィルのふくよかで豊かな響きがプラスされて名演奏となっている。ライブ録音された演奏はきりりと引き締まっていながら情熱を忘れてもおらず、 指揮台を踏み鳴らすようなバーンスタインの姿が目に浮かんでくるようだ。もしかするとその息遣いも捉えていよう。特に終楽章は燃えている。たしかFM放送でこの演奏に接して以来、私はこの演奏を手に入れたいと思った。「春」とカップリングされ、後に全集となった一連のセッションはブラームスやベートーヴェンと同様、映像にも収録され、このコンビの黄金期を伝えている。

序奏の深く沈んだようなメロディーから第1楽章の主題が聞こえてくるあたりや、それが重厚な中にも大きな推進力を持って進むさまはドイツ音楽の真骨頂だろうと思う。第2楽章のロマンチックな旋律や第3楽章のスケルツォとそれに続く圧倒的なフィナーレ。ここまで書いてきて思うのはこの曲が30分程度と短いながら、無駄な部分のほとんどない完成度を感じさせる点である。ベートーヴェンの交響曲がそうであるようにこの曲もまた、演奏を云々する以上に曲が素晴らしいということに尽きる。どんな演奏で聞いてもそこそこ満足な上、その表現上の違いもまた曲の魅力ゆえなのだろうと思う。ライブで聞いたこの曲としては、パーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィルを率いて来日した際のものが、少人数編成でありながら大いに感銘を受け心に残っている。

2015年5月20日水曜日

シューマン:交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団)

真夏の紀勢本線を新宮に向かって走る列車に乗っていた。30年以上も昔のことだから、各駅停車の客車に冷房はなかった。窓を全開にしても熱風が吹き込むばかり。私は窓から身を乗り出してラジオを聞いていた。すると眼前に太平洋の大海原が広がってしばらく続いた。列車は速度を上げて走った。するとラジオから偶然シューマンの交響曲第3番が聞こえてきたのだ。

NHK-FMの番組がほとんどクラシック音楽で占められていた頃だ。この時の演奏はジュリーニの指揮するロサンジェルス ・フィルの新譜。ジュリーニがロスの音楽監督に就任してしばらくしたころだったと思う。とにかくこの時の経験は、私をしてこの曲を明るい陽光の中で広がる海の風景と関連付けてしまった。これがライン川の音楽だと言うのに。そういうわけで私は今でも夏が近付くとこの曲が聞きたくなる。

シューマンの最後の交響曲は、とても明るく自然な喜びに満ちている。第1楽章の冒頭は「春」(第1交響曲)の第1楽章と並んで親しみやすい曲だ。 ライン川に身を投げて自殺を試みた作曲家とは信じられない。そんな明るい曲を、イタリア人の指揮者がカリフォルニアのオーケストラを指揮しているのだから、そこに広がるのは地中海性気候の海である。第2楽章のテンポはゆったりとしており、大きな船にでも乗っているような感じだ。第3楽章に至っては昼下がりの夢うつつのような気分だし、第4楽章になると大海原に陽が沈んでいくようなイメージに変わる(私の場合)。

中間の3つの楽章がいずれもどちらかというとスローな曲であるにもかかわらず、最終楽章の第5楽章は目いっぱい盛り上がって終わると言う風ではない。どこか尻切れトンボのような印象を、初めて聞いた時には覚えた。つまり第1楽章がとても堂々として風格があるのに、そのあとが何か物足りないのである。そういうことで私は第1番や第4番に比べると全体の印象は薄い。けれども第1楽章だけは「ライン」が一番好きだ。

シューマンのすべての作品の中で、最初に触れたのがこの交響曲第3番「ライン」の第1楽章だった。 そして演奏が良ければ音楽が光沢を放つのもシューマンの特徴である。サヴァリッシュやハイティンクなどドイツ風の明るい音色とスピード感で聞かせる演奏も多いが、ジュリーニの滔々とした演奏がこの曲のもう一つの魅力を表現しているように思う。ジュリーニはヴィオラ奏者だったそうだが、明るすぎない音色が音符いっぱいにまで引き延ばされて合奏される時の、弦楽器の渋くて暖かい厚みは、大河となって流れゆく川の情景を見事に表しているように感じる。そう言えばケルンの大聖堂をライン川をはさんで見た光景こそ、この曲の本来のイメージだったろう。

2014年11月5日水曜日

シューマン:交響曲第2番ハ長調作品61(ジュゼッペ・シノーポリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューマンの交響曲第2番は、第4番のあとに書かれた交響曲である。この作品はシューマンの精神的な病いの中で格闘しながら作曲され、その精神状況が音楽に表れているという。だからそのような感情の起伏を表現した演奏が、よりロマンチックであり、そして時には痛切であるという。

だが私がそのような「基礎知識」を仕入れたのはずいぶん後になってからのことで、それまでに私は、交響曲第1番「春」や第3番「ライン」の、明るく快活な音楽がとても気に入っていたし、フルトヴェングラーのモノラル録音で聞く第4番の演奏は、まことに気宇壮大で迫力があり、ロマン派の音楽も後期に入るとこのような充実を見せるのか、と単純に感激していたものだ。

第2番はそのような経験を経たのち、比較的後になって聞いた記憶がある。全集で買ったCDの中で、随分地味な存在だったように感じたこの曲を、とりたてて深く聞いたことなかったのである。けれどもそのような交響曲第2番が、なぜかとても目立つ存在となった2つの演奏があった。

若くして倒れたユダヤ系イタリア人指揮者、ジュゼッペ・シノーポリはデビュー当時、ウィーン・フィルとこの曲を録音して、とても評判になったのがそのひとつである。若い指揮者(たしか記憶では29歳)がウィーン・デビューをすることはそれまでにもたまにあったが、よりによってシューマンの、それも交響曲第2番という曲を選ぶというのが、とても珍しく新鮮だった。その当時の録音のノートには、彼自身が精神医学の専門家で、シューマンの作曲当時の状況が音楽に反映したという分析が記されていたから、シノーポリの演奏は(やはり同じ時期に発売されたシューベルトの「未完成」と同様)、極めて個性的であるながら独特の説得力があったのである。

けれども私は当時、シューマンの交響曲をそれほど深く知らなかったし、まして第2番の演奏が「分析的」であるなどと言われても、もうひとつピンとこなかった。この演奏はむしろ、ウィーン・フィルのみずみずしい音色に感銘を受け、割に一生懸命演奏している(と思われる)真剣な姿が目に浮かぶようで、そのことがまず印象的だった。音にメリハリがあり、テンポも揺れるとはいえ、伝統的なロマンチックな演奏とも一線を画す演奏は、今ではさほど斬新さを感じないが、当時はちょっとした斬新な演奏だったと思う。

もう一つの第2交響曲の思い出は、バーンスタインが死の直前、札幌でこの曲を若者のオーケストラ相手に真剣な指揮をする姿をテレビの追悼番組で見たときである。涙を流しながらその第3楽章を指揮する姿は、シューマンの作曲当時の、まるで死の淵をさまようような感情を再現しているようで、恐ろしく痛々しく感じたものだ。この曲が好きだ、と語るバーンスタインのやつれた姿は今でも目に焼き付いているが、この作品はそんな気持ちにさせる作品なのか、などと思ったりしたのだ。

だがいま聞く第2番の交響曲は、私にとってそれほど深い痛切な痛みをもたらしてくれるわけではない。もし自分が生死の間をさまようような時に、この曲を聞いたら、もしかすると自殺しかねない状況に陥るかも知れない。が、シューマンは作品としての音楽を作曲し、メンデルスゾーンによってライプチヒで初演された。マーラーの後期作品を聞いても思うのは、いかに狂気じみ、時に死の淵にあろうと、作曲というような行為ができるうちは、まだ理性的であるというのが私の経験的な感想である。

だから私は、この曲を聞くことができる精神状態にあるときには、 この曲を普通の気持ちで聞いていたいと思う。シノーポリの演奏も若々しく、活気に満ちている。ウィーン・フィルの音色が見事にとらえられており、いま聞いても古い感じがしない。この演奏と、存在自体は目立たないが無視してしまうにはあまりにもったいないハイティンクの演奏が、私の現在のお気に入りである。

(シノーポリは2001年、ドレスデンで「アイーダ」を指揮中に心筋梗塞で倒れ、55歳の若さで亡くなった。マーラーやヴェルディの演奏で快進撃を続けていた矢先の突然の訃報であった。多忙を極めた末の過労死ではなかったかとささやかれた。マーラーも晩年、あまりに多忙でそのことが死期を早めたのではないかと思う。そう言えばメンデルスゾーンもまた、仕事のし過ぎであったと思う。これらユダヤ系の音楽家に共通するのは、寿命を縮めるほどに精力的であるという点だ。)

2014年4月12日土曜日

シューマン:交響曲第1番変ロ長調作品38「春」(ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

毎年春、それも桜の散った後の、少し遅い春になると聞きたくなるのがシューマンの作品である。少し眠気を誘うような、もやがかかった日は特に、シューマンの作品が似合う。そのシューマンの作品でも「春」というタイトルが付けられた作品が、交響曲第1番変ロ長調である。この曲はシューマンの交響曲の中でもとりわけ明るく、親しみやすい。

シューベルトの「グレート」交響曲の発見に触発されたこの作品は、メンデルスゾーンによって初演された、ロマン派のまさに中間に属する作品である。第1楽章の冒頭から、トランペットとホルンのファンファーレで始まる。そのメロディーを弦楽器で繰り返すと、両者がからみ合って序奏部分のクライマックスを築く。ここの部分を聴くだけでもうれしくなる。少し遅くなって木管楽器などが陰影を保ちながら絡んでくる。少しずつクレッシェンドしていく様は春の息吹を感じさせる。やがて鳴り出す第1主題。どんな演奏で聞いても、ここの第1楽章は素晴らしい。

第1楽章の緩急を伴った曲調は、ほのかな中にも力強く春の始まりを感じさせる。時折響くトライアングルの響きは耳に心地よいが、私はこの曲を聞くとどういうわけか春の海を連想する(もちろんシューマンはこの当時ライプチヒにいたので海とは関係ないと思う)。

第2楽章のドイツ・ロマン派を地で行くようなラルゲットはまた、第1楽章とは違う魅力に溢れている。一方第3楽章は快活なスケルツォで、リズムの変化が面白い。音楽はそのまま終楽章に入っていくが、ここで春は満開となる。一気に書き進められたというこの交響曲には、後年になって自殺未遂をするようなシューマンを見つけることは難しい。

どのような演奏で聞いてもいいのだが、私は古くからの愛聴盤であったサヴァリッシュの演奏に耳を傾けている。この演奏は当時東ドイツ領だったドレスデンのオーケストラを使い、EMIが録音したものだ。当時のシュターツカペレ・ドレスデンの響きは、時折西側のレコード会社が録音している。例えばカラヤンの「マイスタージンガー」、クライバーの「魔弾の射手」といった具合である。サヴァリッシュも1972年、この輝かしいシューマン全集を録音してその評価は今でも下がることがない。

サヴァリッシュはこの演奏で、時に冷たいなどと言われる演奏を、颯爽と熱く仕上げている。時に元気が良過ぎるほどの演奏は全体にフレッシュで知的、メリハリが合って今では数多いテンポ感のある演奏も、この演奏が基準になっているのではないかとさえ思えるほどだ。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...