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2026年6月14日日曜日

東京交響楽団第741回定期演奏会(2026年6月13日サントリーホール、オスモ・ヴァンスカ指揮)

オーケストラが同じでも、指揮者が変わるだけで見違えるほど巧くなり、聴き慣れた名曲にも新たな発見が生まれる――そんなことを改めて実感した演奏会だった。

フィンランドの名匠オスモ・ヴァンスカが昨年に引き続き東京交響楽団の指揮台に立ち、ベートーヴェンの交響曲第8番とラフマニノフの交響曲第2番を披露した。ヴァンスカのベートーヴェンといえば、私にはBISに録音されたミネソタ管弦楽団との演奏が強く印象に残っている。確か「第九」だったと思うが、オーケストラは極限まで研ぎ澄まされ、古楽器奏法の精神の極致を実現したかのような鮮烈な演奏だった。

あれから20年近くが経った。今回の演奏はモダン楽器によるもので、しかも弦楽器は16型という比較的大きな編成である。私は1階席の端(A席)で聴いたため、音響面では必ずしも理想的とは言えなかったが、プログラムによれば初演時は第1ヴァイオリンが18人もいて、今回より大きな規模だったという。つまり、ベートーヴェン自身が指揮した初演も当時としてはかなり大規模な編成であり、オリジナルの姿に近いと言える。

そのような大編成でありながら、細部への神経の行き届いた精緻な表現には心を奪われた。第8交響曲はベートーヴェンが古典的作風へ回帰した作品であり、その造形美の完成度は全交響曲中でも屈指だろう。無駄をそぎ落とした音楽は苦悩の影を感じさせず、明るく楽天的な気分に満ちている。

第2楽章の小刻みなリズムはメトロノームの発明に触発されたことで有名だが、一音一音に込められた音色の変化が実に魅力的だった。第3楽章トリオではホルンが活躍し、プラハへ向かうベートーヴェンの高揚感まで彷彿とさせる。長大な第4楽章のコーダが終わると間髪を入れず拍手が起こり、この演奏会の成功を予感させた。

30分ほどの前半が終わり、20分の休憩となる。

今シーズン前半の東響は、思わず足を運びたくなる公演が目白押しだった。私は4回券を購入し、4月のパブロ・エラス=カサド、5月の新音楽監督ロレンツォ・ヴィオッティ、そして6月のオスモ・ヴァンスカと沖澤のどかという顔ぶれを選んだ。どの公演もプログラムの魅力が大きかったことは言うまでもない。

実はヴァンスカを聴くのは今回で3度目になる。最初は2008年、読売日本交響楽団とのベートーヴェンで、第4番や第8番を指揮した。当時は全集録音の時期だったが、不思議なことに私の印象はそれほど強く残っていない。同じ作品を聴いているにもかかわらず、今回ははるかに深く心に響いた。座席の違いなのか、オーケストラの違いなのか、それとも聴き手である私自身が変わったのか。

2度目は東京都交響楽団と、十八番のシベリウスだった。交響曲第5番から第7番までを取り上げた公演で、評判も高く、東京文化会館に集まった熱心なファンの熱気をよく覚えている。しかし演奏自体には既視感があり、驚きという点ではやや物足りなかった。また東京文化会館は音が拡散しやすく、個人的には集中しにくいホールでもある。

それに対して今回のラフマニノフは、東響の演奏史のみならず、日本における同曲の演奏史の中でも屈指の名演だったのではないかと思う。前半で示された細部への徹底したこだわりは、後半でさらに大きな成果を生んだ。精緻を極めた結果、オーケストラの表情は千変万化し、それでいて全体のバランスは絶妙である。その響きの統御ぶりは、まさに職人的。ヴァンスカは時折身をかがめ、次の瞬間には舞台上で跳ね上がる。決して大柄な指揮者ではないが、その身体表現がオーケストラの集中力を最後まで維持していた。

日本フィルのカーチュン・ウォンや広上淳一にも独特の身体表現があるが、ヴァンスカの場合は、ときにオーケストラへ主導権を委ねるような瞬間がある。そこで音楽はかえって自由さを増し、一気に飛翔する。

第1楽章は比較的遅いテンポながら、どこかシベリウスを思わせる寂寥感と、ロシアの大地を感じさせる重厚さが絶妙に融合していた。
色彩感あふれる第2楽章のスケルツォも見事だったが、やはり白眉は第3楽章である。抒情的な旋律が次々に現れ、ヴァンスカの音楽に完全に同化したオーケストラからは、うっとりするような歌が延々と紡ぎ出された。

このアダージョでは、ヴァンスカはトランペット奏者を舞台裏で演奏させた。その効果は抜群だった。音が分離して聞こえることなく、舞台上のオーケストラと自然に溶け合い、幻想的な響きを生み出していたからである。

そして大団円となる第4楽章。抒情性に満ちたラフマニノフの音楽は、チャイコフスキーとは異なる洗練された都会的な感覚を備えている。もちろん、この作品が書かれた時点ではまだアメリカ亡命前である。それでも彼はロシア音楽の最も美しい歌を交響曲の中へ注ぎ込み、通俗性に陥る寸前で踏みとどまりながら、壮麗で華やかなコーダへと導いていく。

1時間近くに及ぶ大作を存分に堪能した。終演後には大きなブラボーと拍手喝采が続き、その熱狂は10分以上にわたって鳴りやまなかった。

2026年5月17日日曜日

東京交響楽団第740回定期演奏会(2026年5月16日サントリーホール、ロレンツォ・ヴィオッティ指揮)


良く知っている曲ばかりのプログラムは、気持ちが楽である。フレーズを歌えるほどに馴染んで聞き所を心得ているし、演奏による違いもすぐに実感できる。今回のコンサートは、前半にベートーヴェンの交響曲第1番、後半にマーラーの交響曲第1番「巨人」という、ふたつの「第1交響曲」を並べたもの。あまりにも有名過ぎて普段なら敬遠するのだが、今回は違った。

東京交響楽団が新しい音楽監督に就任する、まさにその就任披露の演奏会。これまでに音楽監督だったのは、秋山和慶、ユベール・スダーン、そしてジョナサン・ノット。ヴィオッティは4代目ということになる。そのヴィオッティ、私はイタリア人だと思っていたのだが、実はローザンヌ出身のスイス国籍であることが判明した。1990年生まれの若干36歳ながら、ウィーン・フィルの定期にも登場する世界的な指揮者である。

そのローザンヌにかつて2か月ほど滞在したことがあるので、あの世界一綺麗な(と思っている)町で育った指揮者に特別な興味を覚えた。私がローザンヌに滞在していたのは、学生だった頃の1990年夏だったので、彼の生まれた年である。急な斜面に建ち並ぶ中世の街並みと古い教会、その合間を縫う石畳の向こうにはレマン湖が見え、さらにはフランス・アルプスの高峰がそびえている。

よくこれほどの指揮者を、東京交響楽団は次の音楽監督に迎えることができたのだと思う。プロフィールを読むと、2014年、東響とは彼の指揮者人生において初めてオーケストラとなる演奏会を指揮をしたそうである。しかも代役。以来、このオーケストラとは何度か共演を続けてきているようだが、私は彼を聞く初めてのコンサートだった。就任披露となっていることもあり、会場は特別な雰囲気に満ちていた。チケットは完売し、あとから妻を誘おうとしたが、それは果たせなかった。

ベートーヴェンの交響曲第1番は1800年に初演され、マーラーの交響曲第1番はその約100年後に初演された。いずれも音楽史の転換点となる節目の年であり、その象徴的作品に他ならない。まさにベートーヴェンの交響曲第1番によって「芸術」としてのクラシック音楽の「始まりの始まり」となり、そしてマーラーの交響曲第1番によって、その「終わりの始まり」が示されたと言える。19世紀の最初と最後の作品を並べたのが、今宵のプログラムというわけである。

さて、拍手に迎えられてオーケストラが席に着くと、やがて指揮者が現れた。ヴィオッティは深々とお辞儀をしたのが印象的だった。タクトを下した瞬間に響いたのは、まぎれもなくベートーヴェーンの和音。序奏に引き続き、勢いよく第1楽章のメロディーが流れた。音は少し硬いという印象。やはり緊張のせいかもしれない。最近には珍しく、右手最前列がチェロである。

私はコロナ禍の始まった2020年、ベートーヴェン生誕250年の年に企画されていた数多くのコンサートに出かける予定だったが、ほぼすべてが中止を余儀なくされてしまった。そのことが残念で、以来、ベートーヴェンの交響曲が演奏されるたびに、各曲1回は聞くことにしてきたが、それも今回の第1番、そして来月の第8番(オスモ・ヴァンスカ指揮東響)でめでたく終わる予定である。

第3楽章から第4楽章にかけては、そのまま続けて演奏されたのは印象的だったが、その演奏が終わるころにはオーケストラも少しずつゆとりが生まれてきたように感じられた。無難に演奏を終えたのだろうが、これはこの曲としては高水準の名演だったと思う。ハ長調の曲は難しい。ヴィオッティは特に古楽器風の音作りではないようにも思えたが、やや残響が少ないようにも思った。集中力が並々ならぬ思いを伝えていた。若い、エネルギッシュな指揮だったが、それだけではなく、聞き所を押さえて十分に音楽的であった。

いつものようにトイレには長い行列ができ、後半のプログラムを待つ。私は今回、2階の後方ブロックの最前列であった。しかしここからはオーケストラの全体が見渡せ、悪くない。NHKホールならS席の距離である。しばらくして4管編成に増強されたオーケストラが登場、最上段にまで弦楽器奏者がいるのは、さすがに壮観である。

第1楽章のかすかな響きで音楽が開始すると、やがてクラリネットが、トランペットが、徐々に音楽は大きくなってやがて太陽がパッと姿を現す。そのクレッシェンドの印象的なシーン。この曲は聞きどころが満載である。ヴィオッティの指揮はここでも少し硬く感じられたが、それも第2楽章の鋭く刻むスケルツォで、彼は自信を深めていったように見える。この第2楽章のリズムは私のこだわる部分だが、これまでに聞いてきたどの演奏よりもエキサイティングだった。そして中間部の繊細さも!

第3楽章は「巨人」の白眉ともいえる楽章だ。まず冒頭のコントラバス。通常はソロであるフレーズを、何と彼は奏者全員で弾かせた。さらに中間部では、ハープの独特な響きに伴われて、マーラーの心の奥底を垣間見るようなシーンとなるが、彼はそのことを十分心得ており、その表情付けには圧倒された。しかもこれまで聞いたことのないような、新しい音楽に聞こえてきたのはちょっと意外だった。

楽章の間だというのに、静まり返った会場は、第4楽章のシンバルの一撃を指示するタクトに全体の視線が注がれていた。咳をしたり、座りなおしたりすることもできないくらいに体が硬直し、その霊感に圧倒されていたのだ。そのようにして始まった長い第4楽章は、まるで魔法にかけられたような圧倒的なものだった。展開部の弦楽器のアンサンブルは、それはもう感涙にむせぶような気持ちにさえなったのだ。

圧巻のコーダに至っては、ホルン奏者が総立ちとなり、会場が震えるような音量の中を突き進んだ。演奏が終わると爆発的な拍手とブラボーが送られたのは当然のことだった。各奏者を順に讃え、指揮者も長々とお辞儀を繰り返す。オーケストラが去っても会場を去る人は少なく、拍手と歓声が続く。そして再び姿を登場した長身のマエストロは、舞台を歩き回って手を振り、この就任披露が大満足の結果となったことを観客とともに祝っていた。

2025年9月20日土曜日

NHK交響楽団第2043回定期公演(2025年9月19日サントリーホール、ファビオ・ルイージ指揮)

今シーズンからN響の定期会員になった。定期会員になるのは1992年以来、34年ぶりのことである。丁度就職して東京に住み始めた頃で、思いっきり演奏会に出かけることができることが大いに嬉しかった。この年、9月から始まる新シーズンのNHKホールのチケットは、最安値がたしか1000円で、これは3階席後方(E席自由席)だった(この席は今では3000円になっているが、学生割引というのもある)。

私はまだ初任給をもらったばかりの新入社員だったが、同じ3階席の前方の席を確保した(D席3000円)。広いNHKホールに毎週のように通い、あまり聞くことのない曲も楽しんだ。満員になることはまずないから、席を移動してゆったりとすわり、時に睡魔に襲われるのもまた良いものだ、などと考えていた。当時、サントリーホールでの公演はなかった。

N響の定期会員だったのはこの1年だけだったが、その後もN響の公演にはしばしばでかけてきた。平均すると毎年数回は聞いている。そのほとんどがNHKホールでのもので、それも2階席かそれより後。1階席は中央に座らないとオーケストラを後方から眺める感じになるのが面白くないからだが、中央の席はすでに埋まっていることが多く、しかも高い。NHKホールの座席は狭く、両隣に人がいると窮屈な上、前の人の頭が視界を遮る。1階席からはオーケストラを見上げる位置になって、後方の演奏家が見えない。2階席なら全体が見渡せるが、そこはすでにかなり後方になってしまい、臨場感に乏しい。

とにかくNHKホールで聞くN響の演奏会は制約が大きく(しかも渋谷の繁華街を通らなければならないことが決定的につらい)、音響も悪いので最近はよほどいいプログラムでなければ敬遠しているのが実情なのだ。しかし、サントリーホールであれば、家からも行きやすい上に音響も良く申し分がない。本当はサントリーホールでN響を聞いてみたい。ところがこのサントリーホールでの定期公演は、毎回ほぼ売り切れ。すなわち定期会員だけですでに満員になってしまっている。その定期会員は、NHKホールの場合と違って1年更新だから、更新時期に合わせて1年分のチケットを買う必要がある。安い席やいい席は継続の会員に優先的に売り出されるから、さらにハードルは高い。

そういうわけでサントリーホールでのN響定期は、なかなか聞くことができないのである。しかもサントリーホールでの公演プログラムは、玄人好みの凝ったものが多いという特徴があって、招聘される指揮者の意欲的なプログラムとなっているのはいいのだが、いわゆる定番、あるいは名曲の類は巧妙に避けられており、それらはNHKホールでのプログラムに回されている、という次第である。

前置きが長くなったが、とにかく今シーズン(25~26シーズン)、私は意を決してサントリー定期の会員になった。これで来年6月までに開催される全9回の定期公演にS席が確保された。あとは毎回、何らかの事情で行けなくなる事態を回避しつつ(これが意外に多いのが、これまで定期会員を躊躇ってきた理由でもある)、月1回は金曜日(2回ある公演の2日目)に赤坂まで出向くことになった。今年、N響は99周年。なかなか意欲的なプログラムが並んでいる。先日はヨーロッパ・ツアーに出かけたばかりで、その模様はようやくテレビで放送された。

今回の公演は、そのヨーロッパ・ツアーにも同行した首席指揮者のファビオ・ルイージで、プログラムはまず武満徹の「3つの映画音楽」(これもヨーロッパ公演の演目)、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(独奏:マリア・ドゥエニャス)、それにメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」である。猛暑の今年は、いったいいつになったら秋が訪れるのだろうかと、もう諦めの境地で過ごしていた矢先、ようやく気温が下がった19日、サントリーホール前の広場には多くの屋台も出て、金曜日のオフィス街が賑わっていた。その合間を抜けて会場へと入る。いつものサントリーホールではあるが、どことなく行儀のいいN響の聴衆ですでに満席である。

最初の曲「3つの映画音楽」は弦楽合奏のみの曲である。武満が生涯にわたって作曲した映画音楽から「ホゼー・トレス」「黒い雨」「他人の顔」に使われた曲を編曲し、1つの管弦楽曲として構成したもの。私もCDを持ってはいるが、実演は初めてであった。私の座席はRCセクションの7列目で、オーケストラを斜めに見下ろす位置にあり、とてもいい。そこから聞くN響の音は、いつもNHKホールで聞くものとは全く違っていた。

特にそれを実感したのが、次のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲である。白いドレス姿で登場したドゥエニャスは初登場。まだ若い彼女は、しかしながらなかなかしなやかで音色も美しい。聞きなれた曲が、まるで初めての曲のように感じられるのは、N響を含めた音のバランスの良さ故だろうか。これまで聞いていたこの曲がいったい何だったのだろうかとさえ思った。私は公演前に飲んだワイン(サントリーの赤)のせいもあって心地よい睡魔に襲われ、しばしば夢見心地で長い第1楽章に酔いしれた。

注目すべきはそのカデンツァで、何と彼女は自前のそれを披露するではないか!この曲のカデンツァと言えば、だいたいヨアヒムのものと決まっており、私もしれしか聞いたことがない。ところが彼女は、そう、あとの第3楽章のものも含め、自前の、それも大変聴きごたえのあるカデンツァを聞かせたのである。何と言おうか、さほど技巧的でもなく、しかし斬新さがあって長い。それが自然に入り、静寂な聴衆の前で圧倒的な量感を持って奏でられ、そしてすっとオーケストラに溶け合ってもとに戻る時の得も言われぬ美しさは、今日のコンサートの白眉であった。

第2楽章の精緻な表現も見事で、特に後半の美しさは特筆すべきものだった。第3楽章で見せた迫力のあるロンドは、この曲の魅力を100%以上に引き出し、聴く者を興奮させていった。それにしてもN響の音は、さらにボリュームを増したかのようで、普段は大人しい聴衆も熱い拍手を送っていたが、今日の演奏会はマイク一本垂れておらず、テレビ収録されたのは前日のコンサートだったのだろうと思う。これは放送された時に再度見てみたい。

休憩を挟み、後半は「イタリア」交響曲のみ。30分1本勝負のアレグロを、ルイージはこれ以上にないくらいのスピードで演奏した。その迫力たるや、まるで上に向けた水道の蛇口から、天に向かって水がほとばしり出るようで、一糸乱れぬアンサンブルの極致と化したN響の演奏は、いまやヨーロッパの一流オーケストラにも比肩しうるものだと確信した。特にチェロとコントラバスによる低弦の響きは、かつて非力だった日本のオーケストラとは見違えるほどの充実ぶりで、第4楽章まであっという間の演奏。ただ速いだけのうわついたものではなく、木管が宙を舞い、ホルンが咆える。実演で聞くオーケストラの醍醐味である。

これまで幾度となく聞いてきたN響の演奏会なのに、このサントリーホールで聞く異常なほどの素晴らしさは、一体どういうことなのだろうか、と思った。いや白状すれば、サントリーホールでN響を聞くのはこれが初めてではない。とすればこれは指揮者による効果としか考えられない。ルイージという指揮者は、表現的にはやや無機的で、深い感銘を残すことがあまりない指揮者だが、音作りについては超1級品なのだろうと思った次第である。その良さがNHKホールでは拡散してしまうが、サントリーホールでは凝縮されて迫って来る。ルイージのコンサートはまだあと2回(11月、4月)あるし、他の指揮者とも聴き比べることができるのが楽しみである。

次回は早くも10月10日、ヘルベルト・ブロムシュテットが予定されている。御年98歳の指揮者を聞くことができれば、それだけで生涯の記憶に残るものとなるだろう。

2025年9月1日月曜日

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(The MET Line in HD Series 2024-2025)

こう言うとオペラ好きの人から笑われそうだが、私はベートーヴェンの「フィデリオ」が大好きである。これまでに実演で2回、CDで4種類、DVDで2種類は見聞きしているだろう。その「フィデリオ」がMET Liveに登場するのは初めてである。待ちに待った感がある。もっとも日本での公開は5月頃だった。私が見るのは、夏休みに上演されるリバイバルになってしまった。忙しくて行けなかったからである。なお、ニューヨークでの公演(収録日)は、本年3月15日となっている。

「フィデリオ」の魅力は何と言ってもベートーヴェンの音楽そのものに尽きる。舞台はスペインの監獄で暗い。男装したレオノーレはフィデリオ(ソプラノのワーグナー歌手、リーゼ・ダーヴィットセン)と名乗って刑務所に侵入、そこの看守ロッコ(バスの重鎮、ルネ・パーぺ)の部下となり、夫であるフロレスタン(テノールのデイヴィット・バット・フィリップ)を救い出す、という救出劇。

第1幕には一応、男女の恋物語として看守の娘マルツェリーネ(中国人のソプラノ、イン・ファン)に言い寄るジャキーノ(テノールのマグヌス・ディートリヒ)との二重唱なども用意されてはいるが、音楽がベートーヴェンとしては未熟なものが多い。「あまり得意でないことをやっているな」という感じである。しかも今回のマルツェリーネはアジア人ということもあって、どうしても私などは「昭和のお姉さん」(つまり「サザエさん」)のようなムードを感じてしまい、やや興ざめ。とはいえ、私はこの無骨な音楽も大好きで、やはりベートーヴェンにしか書けないものを感じるのである。看守ロッコの上司である刑務所長のドン・ピツァロ(バス・バリトンのトマシュ・コニエチュニ)を含めた4人が第1幕を長々と演じるが、そのクライマックスは何と言っても、夫の身を案じて歌う長いレチタティーヴォとアリア「悪者よ、どこへ急ぐのか」である。ベートーヴェンは音楽を中心に据えて歌を書いたので、息継ぎも難しく、このアリアの難易度は相当なものである。

幕間の紹介によればダーヴィットセンは、双子を妊娠中の身だそうで、この公演を最後に育児休暇に入るそうだが、さっそく来年の「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデでカムバックするというから驚く。公演が終わった舞台裏の画像で、感極まって涙ぐむ彼女の姿は印象的だった。歌唱の方もさすがに見事だったが、私は第1幕の後半を、折からの猛暑の疲れも手伝って心地よい睡魔に襲われ、あまりよく覚えていない。指揮者は女性のスザンナ・マルッキ。人気はあるようだがどことなく平凡で、あのベートーヴェンの推進力が感じられないのは残念だった。

映像の前口上でゲルブ総裁が、この難しい時代に「フィデリオ」を上演することの意味を訴えていたが、実際にはこのプロダクション(演出:ユルゲン・フリム)は、随分前(一説では2000年頃)から上演されているらしく、古典的な舞台装置である。ロシアの捕虜収容所などでなくて良かったと思った次第。序曲は「フィデリオ」の序曲で、第2幕に「レオノーレ」第3番は挿入されなかった。

短いインターミッションの後、第2幕が始まった。私はこの第2幕の冒頭が気に入っている。ベートーヴェンが書いた最高の音楽のひとつではないかとさえ思う。それがひとしきり演奏されると、いよいよフロレスタン(テノールのデイヴィット・バット・フィリップ)が登場、「神よ!」と叫ぶシーンがこのオペラの真骨頂である。ここから続く長大なアリアは、最大の聞き所の一つである。透明なテノールの響きも含め、このオペラの不思議なところは、舞台が常に暗黒であるにもかかわらず、音楽がむしろ陽気であることだ。それこそベートーヴェンのベートーヴェンらしいところではないだろうか。

従って遂にレオノーレとフロレスタンが再会し、そこに居合わせるロッコとドン・ピッアロを含めた4人によるやりとりは、有名なレオノーレのメロディーや「勝利のファンファーレ」を含め、大いに盛り上がってゆく。緊張感が増すというよりは、ドラマの域を超えてオラトリオと化してゆくのが面白い。ただ、私はマーラーが始めた序曲「レオノーレ」第3番の挿入が、どうしても欲しいと思うので、司法長官ドン・フェルナンド(バスのスティーヴン・ミリング)が水戸黄門のように登場し、勧善懲悪の大団円を迎えるまでのひと時を、間奏曲のように待ちたい気持ちが強い。舞台も急に明るくなって、ここから長大かつ壮大なフィナーレに入るのだが、その前の「溜め」が欲しくなるのである。だが、最近はそういう演出は減ってしまった。

マルッキの指揮も第2幕は調子が良く、高らかに歌い上げられる自由と愛への賛歌に、会場からは惜しみない拍手が送られていた。この音楽は誰がどう演奏しても、ベートーヴェンにしか表現できない音楽とストーリーである。世の中の正義が揺らいでいる今の時代にあって、このような渾身の音楽を聞くと、胸が熱くなる。私はビデオ上映のオペラで涙を流すことは滅多にないが、約1年ぶりのMET Liveでベートーヴェンの感動的な音楽に、改めて心を動かされたのだった。

2025年7月29日火曜日

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団演奏会(2025年7月27日ミューザ川崎シンフォニーホール、高関健指揮)

決して気を衒った演奏ではない。ただしっかりと楽譜に忠実に、そして誠心誠意音楽を正攻法でまとめた演奏ながら、これほど共感に満ち、聞くものを幸福にする演奏にはそう出会えるものではない、と感じたコンサートだった。特にプログラム前半、小山実稚恵を独奏に迎えたベートーヴェンの「皇帝」は、私の涙腺をしばしば刺激し、この聞きなれた曲がこうも素直に、立派に表現されていることを心の底から喜んだ。

ミューザ川崎シンフォニーホール、で毎年夏に開催される「フェスタ・サマーミューザ」は今年でもう21年になるそうだ。2005年にこの催しが始まった時、私は闘病中で、その存在すら知らなかった。2018年に初めて出かけ、以後何度か行ったことがある。梅雨明け直後の猛暑の首都圏で、国内オーケストラを中心としたプログラムが連日続くというものだ。川崎駅前の雑踏に気が滅入り、いつもちょっと足を遠ざけてしまうのだが、今年はオープニング・コンサートに「言葉のない指環」(ワーグナー/マゼール編)があって、これに行ってみようと思っていた。

しかし考えることはみな同じようだった。このプログラムは早々に売り切れてしまった。仕方がないから他に面白そうなのはないかと探していくと、私の予定が空いている日に開催されるものとしては、7月27日(日)東京シティ・フィルの演奏会が目に留まった。プログラムは前半がベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(独奏:小山実稚恵)、後半がマーラーの交響曲第1番「巨人」という名曲プログラム。私は小山実稚恵も指揮者の高関健も聞くのが初めてだから、丁度いいと思った。このお二人は、長年東京で毎年限りない数のコンサートを開いているが、どういうわけか私はまだ未経験ということが決定打となり、2階席(といってもオーケストラ後方)を買い求めた。

そして後から知ったことには、この演奏会も満員御礼、すなわち早々にチケット完売となったのだ。首都圏在住のクラシック音楽ファンは、やはりこのような名曲プログラムが好きである。そして私も夏の音楽祭では、こういうのがまあいいか、と思った。「皇帝」と「巨人」、どちらも大好きな曲である。それにも増してこのような企画が20年以上も続き、しかも盛況なのは嬉しいことである。そこには聴衆を裏切ってこなかった歴史があるのだろう、と思った。毎回オーケストラを変えて、様々な指揮者が様々な曲を披露する。その中には学生のオーケストラもある。料金はリーズナブル。

ミューザ川崎シンフォニーホールというところは、音響自体は悪くないのだが、構造が少し変わっていて螺旋状に縦長の形状をしている。どの席からもちょっと視界が悪い。私の座った2階席からも、各楽団員を真横か後から眺める位置だが、その3割程度はそもそも見えない。もっとも指揮者とピアニストは丸でテレビカメラのように良く見える位置なので、悪くはない。落ち着いた衣装で登場した小山とは別の通路から高関が指揮台へ。熟年の演奏会といった雰囲気で、客層も年齢層がかなり高め。

「皇帝」の冒頭の和音が丁寧に鳴り響いた時、私は「そうだ、この音だ」と思った。ベートーヴェンがロマン派の香りを高めつつ、ピアノという楽器の魅力を最大限に引きだそうとした大コンチェルト。それをたっぷりと、味わう。伴奏パートを担うオーケストラの指揮がピタリとポーズを取る間際に、ピアノが阿吽の呼吸でフォルテを連打する。大規模なソナタ形式もわかりやすいこの曲は、味わいのあるカデンツァ的部分(ベートーヴェンはこの曲に「カデンツァ」は不要と記し、それに合わせるかのように自らが作曲した独奏部分を挿入した)で最高潮に達する。それにしてもシティ・フィルからは紛れもないベートーヴェンの絹のような音色が出てくるのが嬉しい。

その様子は第2楽章にも弾きつがれ、うっとりと耳を傾けているうちに第3楽章へ。静謐な中から徐々に主題を醸し出す第3楽章の入口の絶妙な指揮と独奏が、このような角度から明確にわかる演奏に興奮した。以降、変奏を繰り返しながら悠然と進む「傑作の森」の例えようもない幸福感を、私はこの曲を聞くたびに味わう。演奏がというよりは、これはもう曲の魅力が勝っている。ただその魅力を損なわずに演奏してくれればいい、と思う。今日の演奏は、たとえ少しのミスがあろうとも、それはそれで実演の妙味でさえあるのであって、ライブの醍醐味は決して完璧な演奏であることではない。そういう風にして、長い前半の演目が、大盛況のうちに終わった。期待していたアンコールは、何とショパンの「夜想曲」第2番だった。この有名な曲を私は第1人者の名演で触れる時、そこにはショパン弾き(彼女はショパンコンクールの入賞者でもある)ならではの確たる息遣いと音色が感じられた。好感を持って、私は小山の初めての演奏会を心から楽しんだ。

20分の休憩を経てオーケストラがスケール・アップされ、マーラーの「巨人」が始まった。この演奏は後半になるにつれて良くなっていった。あまりに何度も聞いている局なので、どうしてもその比較になってしまう。例えば第1楽章の主題が出るところはもう少し印象的にならないか、第2楽章のリズムはもう少し跳ねないか、第3楽章の中間部は別世界に焦がれるように...と。しかしこの演奏が、少々違和感を覚えた原因は、もしかすると利用されたスコアによるものかも知れない。プログラムによれば本公園では「ラインホルト・クービックによる2019年校訂版」が日本で初めて使用される、とのことである。スコア研究の第1人者たる高関のこだわりを感じるが、ではそれがどういう違いがあるのかと追えば、それはよくわからない。

冒頭のバンダなどでしょっと聞き苦しいミスもあったシティ・フィルだったが、オーボエやホルン(終楽章では起立した)の熱演もあり、最後は大団円となった。若い団員が多い同オーケストラを聞くのは、私が東京で音楽を聞き始めてから30年以上がたつにもかかわらず2回目である。魅力的なプログラムが安価に聞けるなら、もう少し足を運んでもいいと思った。

2025年4月8日火曜日

ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス(2025年3月6日東京文化会館、ヤノフスキ指揮)

CDなどのメディアで聞く時と、実演を聞く時とでは、同じ曲でも印象が随分異なることが多い。どちらがいいかは、一概に言えない。このたび私は、生まれて初めてベートーヴェンの大曲「ミサ・ソレムニス」を聞いた。一生に一度は生で聞いてみたいと思っていた曲だ。2020年、ベートーヴェン生誕250年の年にこの曲は演奏されるはずだった。ところがコロナ禍で多くのコンサートが中止を余儀なくされた。この曲を聞く機会は、いったん消えてしまった。あれから5年、ようやく再びその機会が訪れたのだ。

ベートーヴェンは「第九」の前に「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)」を作曲した。この2つの大曲は並行して作曲が進められた。「第九」の方はほとんど人がメロディーを知っており(だって年末のスーパーマーケットに流れている)、一部の人は一節を原語で歌えるほどであるのに対し、「ミサ・ソレムニス」の方はまったくそういうところがない。何度聞いても、この曲を口ずさめるようにはならない。だが「ミサ・ソレムニス」は「第九」に比して劣る作品かというとそうではなく、むしろ秀でた作品とされている(それはベートーヴェン自身が言っていることだ)。

けれども「ミサ・ソレムニス」が演奏される機会は非常に少ない。4人のソリストと合唱団を揃えるのが大変で、コストに見合わない、というのは事実ではない。なぜなら同じ規模の「第九」は、それこそ(我が国では)年中演奏されているからだ(曲が難しいから練習が大変であるにもかかわらずチケットが売れない、ということはある)。おそらく音楽的な要素が両曲で異なり、ミサ曲にはそれに合わせた複雑な技法が駆使されている、と見るのが正しいのではないか。私は楽譜も読めないが、おそらくこの曲は歌うのもかなり難しい。第一、4人のソリストと合唱はほぼずっと歌っており、オーケストラも大変な力量を要するように思う。それを束ねる指揮者となれば、いわゆる素人の熱演では済まされない側面があるのだ。

巨匠が残した録音でも、これを80分にもわたって聞き続けるだけの集中力を維持するのは難しい。いっそ実演で聞くことができれば、その音楽の実際のところが見えてくるのではないか。私はそう考えた。そしてその時が来た。今年21年目となる東京・春・音楽祭で上演されたワーグナーの「パルジファル」は大変な名演だったようだが、その際に登場したソリストと合唱団、それに指揮者とオーケストラが、わずか数日後にこの曲を披露する、というのだからちょっとしたものである。

その独唱陣は次の通り。ソプラノはグアテマラ出身!のアドリアナ・ゴンサレス、メゾ・ソプラノがアリアーネ・バウムガルトナー、テノールにステゥアート・スケルトン、そしてバスはタレク・ナズミ。いずれも世界的に活躍するワーグナー歌手陣。グルネマンツやクンドリを歌った歌手が、そのまま東京に残って歌う贅沢なもの。マレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団、合唱は東京オペラシンガーズ。4月4日にも同じ演目のコンサートがあったから、これは1日空けての2回目ということになる。

全体に8割程度の入りに見えた。私は3階席の向かって左端で、少し視界が遮られるがオーケストラを見下ろす感じで悪くない。歌手陣はオーケストラの後、合唱団の前に陣取るから良く見える。そして驚いたのは、その音の生々しさだった。4人のソリストのみならず、オーケストラの響きの豊穣さに圧倒された。これはNHKホールではありえない音だと思った。3階とは言え、この席は悪くないのか、それともホールがいいのか、あるいは音作りが抜群に上手いのか。とにかく家でスピーカーから聞こえる音とはけた違いにヴィヴィッドである。特に管楽器と低弦の響きが大変美しいと思った。

ヤノフスキの指揮は速すぎるという人がいるが、これは体感的なものだろうし、最近はこの曲もスッキリした演奏が増えているので、私は違和感はない。そして冒頭にも書いた通り、これほど見事な音楽が生き生きと響いてくることに、心から驚かざるを得なかった。それが最初だけなら、良くある話だ。しかしヤノフスキの指揮は弛緩することなく集中力を維持し、全体の長さと規模の大きさを見通すバランスも見事だった。短期間とはいえ、「パルジファル」から続く共演によって生み出された一体感、呼吸の良さ、インティメーションとでも言うべきものが感じられた。

ベートーヴェンの大作は、途中から訳が分からなくことがある。「フィデリオ」の第2幕がそうで、熱量が過剰気味となりストーリーなどどうでもよくなってくる(その意味で極めてバランスの悪いオペラだ)。「第九」の第4楽章にも若干そのような傾向があるが、この「ミサ・ソレムニス」にも同様なものを私は感じていた。ところが今回の演奏では、そのような歪みが感じられなかった。醒めた演奏ということだろうか?そのあたりは、他の演奏を聞いていないのでよくわからない。ただ、もしかするとこの曲は、弛緩して退屈するか、あるいはエネルギー過多に陥って、無駄なシンチレーションを起こすか、どちらかになってしまうような気がする。ヤノフスキの演奏はそういうことがなく、これは職人的に大名演の類ではないかと思われた。

4人の独唱は総じてうまく、だれのどこがどうの、という印象ではない。またコンサートマスターの川崎洋介が起立して演奏した「ベネディクトゥス」の独奏部分には目を見張るような気分にさせられたし、最後の方でトランペットが太鼓とともに鳴るシーンも(ここでハッとする)、やはり実演で聞いていると大変印象的であった。

当然拍手は鳴りやまず、オーケストラが去った後でもカーテンコールが続いた。そしてそれが2回目に及ぶのは、やはり珍しいことだ。それほど聴衆は、この滅多に演奏されることのない大曲の類まれな名演に盛大な拍手を送った。

上野の春は桜が満開で、大勢の人で賑わっていた。そのまま帰るのは何となく惜しいので、桜の通りを不忍池方向まで下った。昼に降った雨もすっかり上がって快晴となっていた。傾きかけた太陽の光に照らされて、ピンクの花びらがいっそう輝くのを惜しむように眺めながら家路についた。

2024年10月24日木曜日

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(2020年二期会公演ライブ映像上映、大植英次指揮)

2020年はコロナ禍により多くの社会生活が犠牲になった年で、クラシック音楽のコンサートも軒並み中止、海外からの演奏家の来日もほとんどがキャンセルされたのは、記憶に新しいところである。この年はくしくもベートーヴェン生誕250周年にあたっていて、ベートーヴェン作品のコンサートが数多く企画されていた。新型コロナウィルス流行の最大の犠牲者のひとりは、ベートーヴェンである。

そのベートーヴェン唯一の歌劇である「フィデリオ」が、コロナ流行の真っ只中だった2020年9月、二期会によって上演されていることを私は知らなかった。もともと随分前から企画されていたのだろうから、ギリギリの判断を迫られたと言って良い。あれから丁度4年が過ぎ、もう過去のことは忘れてしまいそうになるくらい日常を取り戻してきているが、パンデミック開始から半年がたったころの世の中は、まだまだ異常事態の中にあったのは確かである。

そのような状況で開催された「フィデリオ」は、歌手がすべてスケジュール調整のしやすい日本人だったということが幸いしたのかも知れない。新国立劇場で開催された公演のライブ映像がビデオ上映されることを当日になって知り、東京文化会館(小ホール)に出かけたのは、ようやく秋めいてきた10月20日のことである。いつものように上野公園は黒山のような人だかりで、まるで上海の繁華街にいるような感じ。しかし小ホールはひっそりと静まり返っていて、数えるほどしか入場者はおらず、贅沢に座って上演開始を待った。

ベートーヴェンが一生を費やして作曲した歌劇「フィデリオ」が、私は大好きである。何と言ってもあのベートーヴェンの音楽が、2時間以上にわたって楽しめる。序曲はいうに及ばす有名だし、いくつかの歌は独唱であれ重唱であれ、一度聴いたら忘れられないメロディーである。何度も改訂した序曲(今回は「レオノーレ」第3番が用いられたが終わると、いきなり若い頃のベートーヴェンの音楽が聞こえてくる。その生削りで中途半端なロマン性と無骨で単純な音楽は、少なくともドン・ピツァロが登場する頃まで続く。

ところが第2幕に入り、重唱が多くなっていくとストーリーなどを離れて、愛だの正義だのといった教条主義的理想論が、高らかに歌い上げられる。そのエネルギーは終盤にかけて半端なく、その高揚感がストーリーや歌詞の一本調子な退屈さをどこかへ追いやってしまうから不思議だ。総合的に見て音楽としてはベートーヴェンの最高傑作に入るのではないかと思っている。演奏会形式を含めるとこれまで3度の実演に接しているほか、あのレナード・バーンスタインがウィーン国立歌劇場を指揮した伝説的公演のビデオを含め、数多くのCDを所持している。

さて、新国立劇場で開催された二期会公演の「フィデリオ」は、いつものようにダブル・キャストが組まれたが、今回ビデオ上演で見たのは、以下の歌手陣の公演である。まず主役であるレオノーレ(フィデリオとして男装)は土屋優子(ソプラノ)。彼女は北海道生まれとある。その夫で刑務所に捕らわれている政治犯フロレスタンは、福井敬(テノール)。今や主役級を次々こなす我が国のトップ・テノール。刑務所の看守で小市民的だが憎めないロッコ役に妻屋秀和(バス)、先日も「夢遊病の女」での名唱の記憶が醒めやらないが、このような役にピッタリと思う。そしてロッコの娘で、レオノーレに恋するマルツェリーネに冨平安希子(ソプラノ)。容姿端麗でしかも歌声は響き、それは序盤の見どころである。

一方、フロレスタンを殺そうと画策する悪役ドン・ピツァロには大沼徹(バリトン)。官僚的で何を考えているかわからないような陰湿さが良く表現されていて、若干日本の警察ドラマを見ているような感じも否めないが、よくできたキャスト。そして登場場面は少ないが、重要な大臣ドン・フェルナンドには黒田博(バリトン)。貫禄十分で高貴さもある。合唱は二期会を中心に新国立劇場合唱団、藤原歌劇団も加えた混声舞台というのも面白い。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団、指揮は大植英次である。

指揮が大植英次だったというのが、私がこの公演に注目した理由の一つである。プログラムによれば、ドイツに住む彼はコロナ禍で次々と公演が中止になる中、急遽「フィデリオ」の指揮の依頼を受けたのだという。おそらくは別の外国人指揮者が予定されていたのであろう。8月に帰国し、2週間の隔離を経て公演に挑んだようだ。バーンスタインを敬愛し、そのバーンスタインから直接多くの教えを受けた彼は、ベルリンの壁が崩壊した際に行われた歴史的な「第九」の演奏に立ち会い、「友よ」という歌詞を「自由」に変えて歌った伝説的演奏について詳しく語っている。

パンデミックで閉ざされた世界中の人々が願ったのが、そのような自由だった。その思いは「フィデリオ」の舞台、中世のスペインにおける圧政に苦しんだ正義の人の開放の物語に通じるものがある。いやベートーヴェンの音楽には、「第九」であれ「フィデリオ」であれ、自由への賛歌とも言うべき人類愛に満ち溢れており、それだけであると言ってもいいくらいだ。その人間賛歌を高らかに歌い上げるのは、第二次世界大戦が終わって復興したウィーン国立歌劇場の戦後最初の演目が「フィデリオ」だったことが象徴的であろう。

だから今回の演出を担当した深作健太が、舞台をナチス政権下のドイツ、そして冷戦時代の東ドイツ、さらには冷戦終結後でも戦禍の絶えない世界を俯瞰するような意味づけを行ったことは、それがコロナ以前から構想されていただろうにもかかわらず、一定の説得力を持っているとは言える。象徴的だったのは、最終幕で合唱団が付けていたマスクを敢然と外して歌うシーンだった。マスクこそが不自由の象徴だと言わんばかりである。これはコロナ禍における偽善的なものに対するささやか反抗だと私は解釈した。

しかし全般的に行って、私はオペラの作品にこのような政治的意図を感じさせないまでも、現実の世相を強調して見せることをあまり好まない。これでは純粋な音楽の物語が、余計な想念にかき消され興ざめである。頻繁に表示される文章のテロップも、それが意味するところを直接的に伝えすぎていると思う。とはいえ、もともと舞台が刑務所という暗い舞台である上に、ヘンテコな恋愛の歌も挟まれて、不得意な分野に苦労したベートーヴェンというのを感じるが、第2幕ではそれらが昇華され、まるでオラトリオのようになっていく。このようなビデオで観ていると、重唱の面白さが堪能できる。

大植の指揮は、ストレートかつ一気にベートーヴェンの音楽を聞かせるもので素晴らしい。序曲には「レオノーレ」第3番が用いられ、あのマーラーが考案した第2幕終盤での挿入はなかった。プログラム・ノートの大植のインタビュー記事におけるバーンスタインの証言では、「フィデリオ」はもともと3幕構成だったと推測されるとのことだが、だとするとその間に「レオノーレ」を差しはさむのは悪くない考えだと思う。

ビデオによる上演には字幕も付けられ、アングルも歌手を追っているので飽きることはない。ただ音質は、オーケストラについてはワンポイントマイクで録られたような貧弱さであり、それに歌手のボリュームが相当大きく乗っている。これはMet Live in HDシリーズなどでも同じだが、実際に聞こえる会場での音質とはかなりかけ離れている。そうでもしないとビデオとしてはやや物足りないものになるとの苦渋の判断だとは思われるが、世はAI時代である。このような音響工学にもその技術が取り入れられると、もう少し現実の舞台に近づけられるのではないかと思っている(いやそれ以上に効果的になってしまうのは良くないのだが)。

2024年3月17日日曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第21回「すみだクラシックの扉」シリーズ演奏会(2024年3月15日すみだトリフォニーホール、上岡敏之指揮)

長男が通う高等学校の卒業式があった日は、終日会社を休むことにしたのだが、妻と長男は同級生たちとともに懇親会に出かけてしまうので、ひとり午後からはすることがない。それはわかっていたので、そもそも卒業式には出席しないはずだった。でもまあ今では18歳が成人の年でもあり、子育ての区切りとして出席してもいいかと思った。私はそれこそ0歳から、本格的に家事、育児に携わったこともあり、それが18年続いた。息子のためというよりも、これは自分のための儀式であると思った。

その日の午後、丁度いい時間に上岡敏之の指揮で新日フィルのコンサートが開かれることを知ったのは、丁度2週間前のことだった。何と金曜日の昼間のコンサートである。しかもこれはシリーズ化されていて「すみだクラシックへの扉」を銘打たれた、いわば名曲シリーズである。そしてその会員はそれなりにいて、当日券こそ発売されるものの、がら空きというわけでもない。おそらくは定年を過ぎた老人たちのいい趣味の時間になっていることと想像される。第21回目の今回は、翌土曜日との2日間、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番とシューベルトの「グレイト」交響曲が演奏されることとなっている。

名曲プログラムとはいえ、これはなかなかいい選曲ではないか。しかも春に聞くに相応しい。そして驚くべきことにピアノ独奏はフランス人のアンヌ・ケフェレックである。彼女はもういい歳ではないかと思う。私が生まれた頃にはもう、有名ピアニストだったようだ。私もサティの名曲集を持っている。そのケフェレックを初めて聞く。

今回の座席はピアノも良く見える1階席前方の右手。隣に座った女性が、プログラムの要旨を声に出して読んでいて、シューベルトの生きた時代とベートーヴェンの生きた時代はほぼ重なる、などといったことや舞台に団員が登場して拍手が起こり、やがてコンサートマスターの崔氏が登場した、などといちいち話している。よく見るとその隣に高齢の母親が座っていて、どうやら目が見えないらしい。同じような障害を持つ観客も少なからず目につく。体の不自由な方でも気軽に通えるコンサートとして、この催しは行われているのだろう。

ケフェレックが登場し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲が始まった。上岡の指揮は軽快に、丁度花の咲き始めるこの頃の初々しさを保ちつつ、朗らかである。やはり実演はいいな、と改めて思う。一通り第1主題の提示が終わり、ピアノが入る。この掛け合いの妙味が、私の席からは手に取るようにわかる。目が見えなくても、それは空気から感じ取ることができるかもしれない。ケフェレックのピアノもまた、若々しく気品に溢れ、若きベートーヴェンの音楽家としての明るい将来を見据えているかのようだ。

聞きなれたカデンツァではなく、短めのカデンツァだった。そして第2楽章に入ると、丸でモーツァルトのようにさりげなく優雅な表情を見せながら、円熟の演奏が続く。上岡の指揮は終始楽しそうである。第3楽章のロンドに至っては、ちょっとしたアクセントの強調が心地よく、木管楽器やビオラなど、私の席からも良く見える楽器は、指揮者の細かい動作にも機敏に反応する姿が手に取るように見えた。

指揮者はピアニストにも出だしの指示を怠らないような注意を維持しつつも、むしろ安心してオーケストラの指揮に重点を置いた様子。演奏がピタリと決まると会場からは多くのブラボーが飛び交った。プログラムの最初からこれほどのブラボーというのも珍しいくらいだった。

アンコールはヘンデルのメヌエット。静かな会場に透き通ったピアノの音色が響く。落ち着いた飾り気のない、しかし品のあるしみじみとした演奏だった。ピアノがこれほど美しいと思ったことはないくらいだった。

後半のシューベルトについては、推進力のある演奏で一気に聞かせるものとなった。この長い曲は、そうでもしないと聴衆の集中力が維持されないのかも知れない。私は第2楽章など、もう少しゆったりと聞きたくなったが、このテンポも許容できる。けれども第3楽章のトリオ部分などは、もう少し思いを込めてほしかった。

オーケストラが全体に若く、女性の数が非常に多い。そのことによるのかどうかわからないのだが、弦楽器の厚みが少し足りず、ややバランスが悪い。かつて日本のオーケストラはどこもこんな感じがしたが、そのような塩梅である。結果的に音楽に主張が感じられないような気がする。「グレイト」交響曲はただ長いだけの曲ではなく、その長さの中に隠しきれない悲しい表情が見え隠れする。そういうフレーズにも注意を払い、ただ音符を辿るだけに演奏にしてほしくはないと思うのだが、この曲の演奏会はなかなか思うような曲に感じられないことが多い。

私がかつて実演で聞いたサヴァリッシュの演奏(N響)とミンコフスキの演奏(ルーヴル宮音楽隊委)は今も思い出に残る演奏だった。あれ以来、プログラムを見つけては通っている。なかなか名演奏に出会えない曲である。しかしこの曲は第2楽章で「ブルックナー休止」のモデルになったのではないかとさえ思える部分があったりして、聞き所は多く、名演奏に出会えた時の嬉しさはちょっとしたものだ。「明るさ」と「円熟」という「相容れない要素が奇跡的に交わった」ような曲(プログラム)というのは、言い得て妙だと思う。

上岡の演奏はめっぽう遅いことがある一方で、今回のように程よく高速な演奏もあるのだと思った。演奏が終わると多くのブラボーが飛ぶ。3月に入っても冬の寒さが続いていたが、ようやく気温が20度近くまで上昇し、春の陽気がやってきた。その最初の日の午後、私はコンサート会場をあとにして両国方面にぶらぶら歩き、帰宅してビールを飲んだ。やがて家族も帰ってきて、長かった高校生活の日々(それはコロナと受験の日々でもあった)から解放された嬉しさに、改めて酔いしれた。私にとって、まさにそういう日に相応しいプログラムのコンサートだった。

2024年1月17日水曜日

読売日本交響楽団第634回定期演奏会(2024年1月17日サントリーホール、セバスティアン・ヴァイグレ指揮)

セバスティアン・ヴァイグレという東ドイツ出身の指揮者は、2019年から読売日本交響楽団の常任指揮者を務めており、しばしば定期演奏会に出演している。しかし私はここのところ読響の演奏会からは遠ざかっており、一度聞いてみたいと思いつつも、これまでヴァイグレの演奏に触れる機会はなかった。

そこで、いいプログラムがあればと思っていたところ、1月の定期が丁度私のスケジュールにも合い、好都合であることが判明した。直前ではあったものの、席はまだ埋まっておらず、私は2階左手のS席を押さえることができた。オール・ドイツ・プログラムで、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、それにリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」である。ここでベートーヴェンの独奏は、若きスウェーデンのエース、ダニエル・ロザコヴッチが登場する。ロザコヴッチは初来日というわけではないが、若干22歳で、すでに数枚のディスクをリリースしており、その中には本日の演目、ベートーヴェンも含まれている(伴奏はゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル)。

そのロザコヴッチの経歴は神がかり的でさえある。かつてアンネ=ゾフィー・ムターが15歳でカラヤンと共演したとき衝撃を抱いたものだったが、彼は9歳でデビュー、15歳でドイツ・グラモフォンと専属契約を結んでいるそうだ。すでにリリースされている協奏曲のCDにベートーヴェンが含まれているのは驚きである。

このたびの演奏会の目玉は、プログラム前半に置かれたこのベートーヴェンであることには疑いがなかった。まだワーグナーらしい曲調に乏しい「リエンツィ」序曲が威勢よく演奏されたあと、舞台の椅子が若干並び変えられ、指揮者とともに長身のロザコヴッチが登場した。舞台上部にはいつになく多くのマイクロフォンが垂れ下がっており、これは何らかの収録が行われるであろうと思われた。

ヴァイオリン協奏曲の序奏と主題が始まってもごく平凡に振舞っていたヴァイオリニストが最初の音を出した時、意外にも線が細く、音にさほど特徴があるわけでもないなと思った。それでもオーケストラと指揮者は淡々と演奏を続け、長い第1楽章も終わりかけた時、急に音楽が変質した。それは有名なヨアヒムのカデンツァに入った時だった。繊細ながらも集中力を保つヴァイオリンは、ひとつひとつのフレーズに精神を注ぎ込み、満員の聴衆を長い間釘付けにした。微動だにせず独奏に耳を傾ける指揮者とオーケストラを真横に見る絶好の位置からは、その迫力が手に取るようにわかる。

第2楽章は、その神秘的な競演の場であった。この曲がこれほどにまで説得力を持ち、美しく思ったことはなかった。ただ残念なことに、ホルンの音が外れた。ヴァイグレはホルン奏者出身だから、ここは残念に思ったのではなかろうか。以降、ホルンの不安定さは、この演奏に玉にキズだったことは隠しようがないが、まあ実演ではそれは仕方がないことで、そういうハプニングも含め、静まり返った聴衆と演奏家の筋書きのない相互作用が、実演に接するときの楽しさでもある。

第2楽章の後半から、そっと第3楽章に入るまでの数分間は、音楽が永遠に続くとさえ思われた。おそらくここに生じたケミストリーは、実演でしか作用することがない驚異的な美しさだった。繊細に、静かに、丁寧に、音楽の集中力とその持続。そこから醸し出される繊細で強靭な音楽。そして第3楽章に至ってのすばらしいロンドは、そのカデンツァを含め、天国的な瞬間の連続と化した。オーケストラの中ではファゴットが秀逸で身震いがするほど。

演奏が終わって多くのブラボーが飛び交ったのは当然のことであった。情動的な演奏ではなく、かといって円熟味があるわけではない。若々しいと言えばそうなのだが、品があって落ち着いている。まさにベートーヴェンがうってつけだと思ったが、チャイコフスキーも聞いてみたい。そう思っていたら、すでにリリースされているようで、ロビーでCDが売られていた。何度も舞台に呼び戻されたロザコヴッチは、アンコールにバッハのソナタを演奏した。

これだけで満足感いっぱいのコンサートだったが、休憩時間のあとはシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の演奏となった。舞台には100名を超える団員が所狭しと居並び、P席上部のオルガンにも光が当たる。有名な序奏に引き続いて、まるで結婚式に相応しいようなメロディー。そこから続く音の饗宴は、若干支離滅裂気味ながらこの作曲家を聞くときの醍醐味であるオーケストレーションが堪能できる。

ベートーヴェンでは異音のしたホルンも6名に増員されていたが無難にこなし、チェロをはじめとする弦楽器最前列奏者の複雑なソロも決まって、耳の機能がフルに試されるような時間。約30分程度だが、オーケストラの機能が十分引き出されたことによって、豊穣で起伏に富む表現が手に取るように伝わってくる。やはりオーケストラは近くで聞くのが良い。特にサントリーホールの脇の2階席はオーケストラ全体が見渡せ、指揮者と奏者のやり取りが見て取れるのでお気に入りだ(ただ音は分裂気味)。

久ぶりに聞く読響の演奏も、かつてに比べると上手くなったと思った。若いプレイヤーも多く、今後の演奏が楽しみである。読響の聴衆もまた独特の雰囲気があるのだが、次回はどの演奏会にでかけようかと、配られた年間プログラムの冊子を見ながら思い悩んでいる。

2024年1月9日火曜日

第21回東京音楽コンクール優勝者コンサート(2024年1月8日、東京文化会館)

お正月休みが終わったと思ったら、すぐに3連休となった。本来なら趣味の街道歩きか、もしくは近郊へのドライブなどに出かけるところである。天候も良く連日快晴が続いている。東京を訪れるには冬に限る、とどこかの国の旅行ガイドには書かれているそうだ。

しかし今年のお正月は、カレンダーの並びが悪いことに加え、コロナ明けで帰省ラッシュが再来したため、結局どこへも行かず家でじっとしていた。そうしたら大地震や旅客機の事故が発生し、旅行気分ではなくなってしまった。そして3連休も「傘寿記念・桂文枝独演会」と散歩くらいにしか外出していない。あまりも侘しいので、何か音楽会でもと検索したところ、東京文化会館で「東京音楽コンクール優勝者コンサート」というのが開かれることがわかった。コントラバス、ファゴット、ピアノのそれぞれの優勝者をソリストに、3つの協奏曲が演奏される。そのプログラムの面白さもさることながら、オーケストラが下野竜也指揮新日フィルというから悪くない。値段も3000円以下と手ごろである。そこで急に思い立ち、開演3分前に会場に到着、当日券を買って2階席へ。

クラシック音楽のコンサートは、何の口上もなく始まるのが通例である。しかしこの日は出演者の紹介のため、元テレビ朝日のアナウンサー、朝岡聡が登場した。彼は手際よくこのコンクールのあらまし、それから登場する演奏者のプロフィールなどを紹介、チューニングも終えて最初の曲、ロータのディヴェルティメント・コンチェルタンテが始まった。ロータは映画音楽で有名なイタリアの作曲家で、近年は彼のクラシック音楽作品がよく演奏されるが、この曲は大変珍しい。なぜならこの曲は、コントラバスの協奏曲の趣があるからである。

ソリストは本コンクール弦楽部門の優勝者である水野斗希という若干二十歳の若者で、すらっとした体格ながら大きな楽器を携えて登場、普段あまり聞くことのできないコントラバスの独奏を楽しむことができた。2023年に始まったこのコンクールは、まだ歴史が浅いが、これは彼が生まれた年でもあり、そして本日成人式を迎えるとのことである。ヴァイオリンやチェロなど、奏者の多い弦楽部門でコントラバスの奏者が優勝するのは初めてだそうだ。

冒頭、下野の指揮するオーケストラが大変心地よい響きで驚かされる。下野の指揮というのは、派手ではないが安定しており、アンサンブルの見事さはなかなかのものだと感心している。東京文化会館のデッドな響きにも巧く対応し、バランスの良さが際立つ。そこの重厚なコントラバスの響きが重なる。

結構長い曲で全4楽章はあっただろうか。軽やかでイタリアの光を感じる作品に、しばし心を奪われる。重音やフレジオレットといった、オーケストラ・パートとしてはまず演奏されることのない技巧も駆使した曲は、一聴の価値があると思ったが、なかなかこういう曲を二度と聞くこともないだろうとも思った。今日もっとも関心したのは、この曲のこの演奏だったかもしれない。

続いては木管部門の覇者である保崎佑という方が登場。彼は音楽学の博士課程も修めた経歴の持ち主で、年齢は先の水野より10歳年上である。ファゴットもまたオーケストラでは最低音を担う楽器で、独奏を務める作品は少ない。有名なモーツァルトの作品もあるが短い曲。それに比べると今回演奏されたロッシーニの協奏曲は、歌うように流れるロッシーニの爽やかな音楽が魅力的な作品である。

ところがこの曲は、出版されたのが2000年代に入ってからだと朝岡が説明する。自筆譜が存在しておらず、正確にはロッシーニの作品であるかどうかはわからないそうだ。まあそれでもロッシーニだと思って聞けば、そのように信じることができる。リードを曲の途中で何度も変えながら、安定感のある演奏を披露して拍手を誘っていた。彼は観客の投票によって決まる「聴衆賞」というのも受賞しているそうだ。

休憩後はピアノ部門の優勝者である佐川和冴という25歳のピアニストが登場、選んだ曲が何とベートーヴェンの第2番のコンチェルトだった。この曲は第1番に先立って作曲されたことは有名で、度重なる改訂を経てベートーヴェンらしさも十分に感じられる素敵な作品だが、演奏される機会は最も少ない。だが彼はこの曲がもっとも好きだと話す。そしてベートーヴェンが自らこの曲を初演したのは、丁度彼と同じ25歳だったというから思い入れが強い。そして彼は大きく体をゆすりながら、まるでモーツァルトのように朗らかに、この曲を披露した。深々とした第2楽章は特に素晴らしく、オーケストラも献身的だった。どこか女性ピアニストを聞いている感じだった。

クラシック音楽に造詣の深いベテランの司会によって、この日のコンサートは通常以上に引き締まって楽しめることになったのは間違いない。そして最後にソリスト3名が再び登場、会場の大きな拍手を受けて、まだ初々しい表情が素敵である。2024年の最初のコンサートでは、このような新鮮な気持ちを感じることとなった。少し寒いがそれでも例年よりは温かい年明けの上野公園も、17時を過ぎればすっかり日が暮れて、大勢の人々が家路を急ぐ。東京文化会館と上野駅は50メートルくらいしか離れていないので、歩いても1分とかからない。その短い距離を爽やかな新春の風が、心地よく吹き抜けていった。

2023年3月24日金曜日

オーケストラ・アンサンブル金沢第39回東京定期公演(2023年3月22日サントリーホール、広上淳一指揮)

さわやかな春の風が吹き抜けていくコンサートだった。かねてより一度は聞いてみたいと思っていたオーケストラ・アンサンブル金沢は、定期的に東京でも演奏会を開いているので、聞こうと思えばチャンスはいくらでもある。特に2018年に芸術監督となったミンコフスキとの演奏には、私も大いに興味を抱いていたのだが、コロナ禍で演奏会がどうなったかもわからず、気が付いてみると広上淳一が「アーティスティック・ディレクター」とやらに就任していた。

広上と言えば、このコロナ禍に私が何度か出かけ、名演奏に酔った日本人指揮者のひとりである。京響とのマーラーや都響とのベートーヴェンが記憶に新しい。ハーモニカを片手にリハーサルを行い、全身をくねらせて踊りながら指揮をするユニークな姿も印象的だが、そのようにして表現される音楽が極めて正統的でしかも生気に溢れ、耳だけでなく目が離せない。明るく陽気な音楽であることも素敵だが、生理的な説得力がある。音楽はまず楽しくなければならない、という感じである。

その広上の指揮するシューベルトの交響曲第5番、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番(独奏:米元響子)、それにベートーヴェンの交響曲第2番がプログラムである。例年よりずいぶん早く桜が満開となった東京で、何と素敵なプログラムだろうと思った。直前にコンサートがあることを知るのはいつものことだが、もちろん今回も当日券があることがわかり、その座席を調べるとP席を含め安い席がまだ売り出されている。サントリーホールはどこで聞いてもいい音がするから、今回はむしろ指揮者が良く見える席にしようと、2階左手の真横に陣取ることにした。

ここのところ2日に1回のペースでコンサートに来ているが、オーケストラの第1音が鳴ったとたんに、広上の音は素敵だと思った。音に艶があって、光っている。オーケストラの技量もいいからか、開放的で弾けている。そうだ、やはりこのようでなくては。どうしても比較してしまうが、大野和士の都響やバッティストーニの東フィルからは聞こえなかった清涼感とリズム感が耳を打つ。これは指揮者の腕だと思う。

そういうわけで、シューベルトがわずか19歳の時に作曲した第5交響曲に私は聞きほれた。まるで小川に水が流れていくように、さらさらと進む音楽は、それ自体非常に瑞々しいのだが、その一音一音の音の表情付けが、また聞いていて嬉しくなるほどに面白いのだ。第2楽章になると、そのことがいっそうよくわかる。

ヴァイオリニストの米元響子は、プロフィールによれば史上最年少でパガニーニ・コンクールに入賞したとのことである。1997年のことだから、もう20年以上も前のことになるのだが、私はこれまで聞いたことがなかった。日本人も今や多くのプレイヤーが国際的に活躍しており、そのすべての人の演奏を聞くことは不可能に近い。白いドレスで登場した彼女は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を丁寧に演奏した。面白かったのは、ヴァイオリニストが体を揺らしながら演奏するそばで、指揮者も同じように踊っている姿である。だが笑うというのではない。なぜなら聞こえてくる古典派の音楽は、決して歪でもなければ、変に局所を強調するわけでもない。にもかかわらず、細部にまで表情が豊かであることは、その指揮姿と実は表裏一体であろう。

第4番のコンチェルトは、その前後の2曲に比べると地味で目立たないが、この作品も作曲家が19歳の時の作品である。新しい発見だったのは、この曲の各楽章に印象的な独奏部分(カデンツァ)が挟まれていることだ。米元も含め、肩ひじ張らずに自然体の演奏を繰り広げる。何の小細工もない。が、とても新鮮。演奏が終わって拍手が続くと、彼女は何とパガニーニの奇想曲から第24番をアンコールに演奏した。

休憩を挟んでいよいよベートーヴェンとなる。私がここ数年聞き続けてきたベートーヴェンの交響曲も、いよいよ第2番の番となった。この曲、私は大のお気に入りで、とりわけ第2楽章のラルゲットのメロディーを愛するのだが、この曲がまた春の音楽である。第1楽章冒頭の一音から広上節がさく裂し、序奏が終わると一気にほとばしり出る主題は、手を向ける方向を少し変えると音の表情も見事に変化。このシーンはそのまま録画して何度も見てみたいと思うほどだ。ティンパニの強打が心地よく、木管楽器の味わいも絶妙である。

それにしても広上の音楽は、速かったり遅かったりすることがなく、その印象的な指揮姿とは対照的に極めてオーソドックスである。にもかかわらずこれほどの興奮を覚えるのは一種のマジックと言ってよい。ライブではないと味わえないものがあるとも言える。オーケストラも乗ってくる。会場は8割程度の入りで、いつもとは違う客層だった。ネクタイをした人が多く、何となく聞きなれていない感じ。もしかするとスポンサー企業の招待客や地元金沢の人が大勢来ていたのかも知れない。にもかかわらず静まり返った聴衆からは、終演後の大きな拍手が贈られ、一部にはブラボーも飛んだのはコロナが終息してきている証拠である。

マイクを持って挨拶をした指揮者は、このオーケストラが岩城宏之によって創立されたことなどを紹介し、アンコールにレスピーギの曲を演奏した。18時半といういつもより早く始まったコンサートも21時になり、私も幸せな気分でアークヒルズを後にした。

オーケストラ・アンサンブル金沢は、石川県を拠点に活躍する有数の室内オーケストラだが、その設立が1988年とかなり古い。そのことを私は最近知ったのだが、これほど有名になったのは、演奏を記録したCDなどがリリースされ始めた頃だったと思う。それから20年以上が経過し、私も初めて耳にしたその演奏は、世界に引けを取らないほど艶のある魅力的な音色にあると思った。私はこのコンビで、是非ビゼーの交響曲やプロコフィエフ、それにハイドンの作品を聞いてみたい。金沢に住んでいれば、定期会員になりたいとも思った。

2023年1月17日火曜日

NHK交響楽団第1974回定期公演(2023年1月15日NHKホール、トゥガン・ソヒエフ指揮)

また素敵なピアニストに出会ってしまった。上海生まれのハオチェン・チャン(Hao-chen ZHANG、张昊辰である。彼が紡ぎだす音楽は、気を衒わない程度に揺れ動き、ささいな感情の変化を表現する。その細やかで、かつ自信に満ちた音楽性は、聞き手にちょっとした驚きをもたらす。そうだ、まだこのような表現があったのだ。それは過去の他の演奏を打ち消すような攻撃性はなく、むしろその中に溶け込んで、自然に独自の世界を切り開いているように見える。なるほど、だから2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールでは辻井伸之と一位を分け合った。

この音楽性が、3年ぶりにN響の指揮台に立つトゥガン・ソヒエフと唯一無二のコラボレーションを繰り広げる。結果生まれる音楽は、完璧である。さらにその音楽が、ブラームスのピアノ協奏曲第2番である。イタリアに触発された北ドイツの作曲家の、ほのかに明るく気楽でありながら、ストイックで静かな音楽を奏でると、知的な愉悦感と安らぎが高度な次元で融合する。イタリアの片田舎を旅するようなのどかなその情景は、夏の朝の中に立ち上る静かな川縁であったり、秋の夕暮れの平和的な田園だったりする。

ソヒエフの伴奏は見事というほかなかった。もともと私はソヒエフを初めて聞いた時から、N響の音がいつもと違うと感じたものだ。それはテレビで見たときに直感した。その後実演で聞いた組曲「シェヘラザード」の圧倒的な名演と、その前に演奏されたブリテンやフォーレの作品で、私は生涯忘れられないコンサートを経験したが、当時音楽監督だったトゥールーズ・キャピトル管弦楽団によるチャイコフスキーの「白鳥の湖」でも、同じことを感じた。彼は不思議なように、オーケストラの音色を操る。音と音の組み合わせが、一音一音と異なっていくそのさまを、全く最適な音量で轟かせる天才的な才能を持っている。

これがフランス音楽のエッセンスとでも言うべきもので、精緻で繊細な音の変化がもたらす雰囲気は、まるでほんの少しの醤油を混ぜただけで味が変化する日本料理のように奥深い。そして今回のドイツ音楽でも、そのことは立証されたのだ。ブラームスの内省的で複雑な心理が、こんなに見事に表現されたことがあっただろうか。そしてピアノの明るいタッチが、ブラームスとイタリアという、どこか相容れないようなものの融合を見事に表現した。あのポリーニがアバドと録音した演奏がそうであったように。

第1楽章のホルンの出だしとそれに続く長いソロ。スケルツォ楽章の独特な変化はリズムにも表現され、第3楽章でのチェロ独奏部分を頂点に、最終楽章での、まるで踊るような嬉しさの中で迎えるコーダに至るまで、酔いに酔った50分間は至福の時間だった。まさかこんな演奏を味わえるとは思ってもいなかった。ハオチェン・チャンは、プロフィールによれば1990年生まれ、若干32歳ということになる。日本での公演も多いというから、一度リサイタルを聞いてみたい。評判によればシューマンが良さそうである。

私が思い立ってN響の定期公演に出かけたのは、朝から冷たい雨が降ると予想され、趣味のウォーキングを諦めざるを得なかったからだ。NHKホールでのN響のコンサートに行くのは、コロナ禍直前の2020年1月以来だから、丁度3年ぶり。これは前回のソヒエフの来日とほぼ同時期である。だがこの間に世界は変わってしまった。プログラム・ノート「フィルハーモニー」によれば、北オセチア生まれのロシア人である彼はウクライナ戦争が始まった時、トゥールーズのオケとボリショイ劇場の音楽監督を自ら辞任したそうである。芸術家か政治を通したメガネで見られるのを嫌ったからだろうか。この間にNHKホールは改装のため、一時的に拠点を池袋に移したが、この東京芸術劇場で聞くN響は、どこか違和感があって好きになれなかった。このたび会場がどんな風に変わっているのだろうかと興味があったが、椅子の狭さや音響など、何一つ変わっていないように思えた。

ソヒエフの音楽は、健在だった。いやより深みに達したのではないか。それが如実に証明されたのが、プログラム後半のベートーヴェンだった。私はコロナ禍で、生誕250周年となった2020年のベートーヴェンの演奏会を全てあきらめざるを得なかったが、それを埋め合わせるように、交響曲が演目に上ればチケットを買って聞いてきた。第5番、第9番「合唱」、第3番「英雄」、第7番、第6番「田園」と聞いてきて、今回は第4番である。この「北欧の乙女」のシンフォニーを、記録によれば過去に10回程度は聞いているようだが、記憶に残っているのはあのカルロス・クライバーの来日演奏だけである。しかし今回の演奏は、その演奏にも勝るような完成度だったと思う。

今回の私の席は、少しケチってB席だったこともあり(何と当日券は座席指定ができないと言われた。かつてはできたのに!)、1階席ではあるもののほとんど壁際というところ。この位置で聞いた演奏もいくつかあるが、あまりいい印象はない。ところが、である。指揮者がソヒエフに変わって、何とこの位置でも素晴らしくいい音に聞こえるではないか!それは奇跡といってもいいくらいに、音と音が程よく溶け合う。さらにはピアノまでも!何度も書くが、ソヒエフの音の組み合わせのバランスと強弱の妙が、こんな位置でも確認でる!そしてN響の木管楽器が、とても見える位置ではないにもかかわらず、手に取るようにヴィヴィッドだ。何ということだろう、それに向こう側に座っているヴィオラのパートの熱演ぶりが、指揮者を超えた位置からもよくわかるのだ。

驚いたことにソヒエフは、ふだん両手のみで指揮するが、ベートーヴェンの演奏では指揮棒を持って現れた。音の強弱にさらにメリハリがつけられ、手品のように各パートを指示していく。丁度真横から見る彼の指揮ぶりは、クライバーとはまた異なった興奮に満ちたものだ。オーソドックスな演奏でありながら、これほどにまで確信に満ちた見事な演奏には、そう出会えるものではない。オーケストラも乗っている。どこかどうというわけではなく、すべてがいい。良く知った音楽が見事に終わって、マスクをしていなければ飛び交ったであろうブラボーを心の中で大きく叫びながら、許可された写真を何枚も撮った。舞台袖から花束が送られ、それが本日限りでコンサート・マスターを引退する「マロさん」こと篠崎史紀氏に渡されたとき、とりわけ大きなものとなった拍手は、珍しいことにオーケストラが立ち去っても鳴りやまなかった。そういえばそれまで冷めた客が多かったN響のコンサートだが、いつのまにか登場の際にも拍手が起こるようになっていた。3年ぶりのコンサートで、変わったものと変わらなかったもの。その両方がいろいろ発見だった、私にとっての今年最初のコンサート。

今シーズンからN響のシェフは、イタリア人のファビオ・ルイージに変わった。ソヒエフもそうだったが、世界中を飛び回る多忙極まりない指揮者には、もう少し落ち着いてコンサートを指揮してもらう必要があると感じていた。だがコロナ禍を経て、少なくともソヒエフに関しては今月はたっぷり3つのプログラムを振る。最近発表された来シーズンでも、再び1月に来日することが決まっている。ハオチェン・チャンとソヒエフは、今私が目を離すことにできない音楽家である。

2022年11月27日日曜日

NDR北ドイツ放送フィルハーモニー交響楽団演奏会(2022年11月23日みなとみらいホール、アンドリュー・マンゼ指揮)

午前6時4分。空が白み始めた東京駅をやまびこ51号盛岡行は静かに出発した。2022年11月25日。私はまたもや東北新幹線の旅人となって北へと向かう。行き先は釜石。東日本大震災の被災地を巡る旅もこれが4回目となる。約1年ぶりとなる今回は、釜石から宮古までを行く。もう11年もたっているのだから、これは被災地旅行というよりも、まだ見ぬ三陸方面への観光旅行である。

第1回目は災害の復興が始まったばかりの2014年頃で、気仙沼の漁港にはプレハブの屋台村が開設され、そこから程遠くないところには大津波を受けて倒れかけたビルや家屋が、まだそのまま残されていた。しかし、今年の1月にはその廃墟も屋台村もすっかり近代的なターミナルやショッピングセンターへと変貌を遂げ、新しくておしゃれなレストランや土産物屋が立ち並んでいた。

上野駅を出るとようやく外が明るくなった。荒川を渡ると遠くに富士山が見えた。満員の始発列車は宇都宮を過ぎても多くのビジネスマンを乗せている。コロナの影響で長く閑散としていた新幹線も、もはや過去のものとなりつつあることを実感する。新花巻駅でローカル線に乗り換え、釜石に着いたのはまだ11時前のことだった。かつて一昼夜かかった東北も、いまでは数時間で行ける。新幹線が開通して以来のことで、これはもう40年が経過したことになる。

釜石へと向かう間中、私の耳はベートーヴェンの交響曲第7番が鳴り響いていた。2日前、新装を終えた横浜みなとみらいホールで聞いた、北ドイツ放送フィルハーモニー交響楽団の演奏があまりに素晴らしかったからである。指揮はイギリス人のアンドリュー・マンゼ。古楽器演奏の指揮者として有名で、ヴァイオリニストでもある。彼が、フォルクスワーゲンの本社がある工業都市ハノーファーのオーケストラである北ドイツ放送フィルの首席指揮者であることを私は知らなかったのだが、ここは大フィルの大植英次が振っていたオーケストラである。

プログラムはまず、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲で幕を開けた。第1音の和音が鳴り響いたとき、ああこれは紛れもなくドイツのベートーヴェンの音だと思った。何とも言えない木製のぬくもりを感じさせる音。古楽器的にビブラートを抑えているから、つやがあって、力強くもあるがしなやか。まずは音色の洗礼を受けた後、推進力をもって進む音楽は、これから始まるコンサートへの期待を最大限に膨らませるものだった。客の入りが少々少ないのが残念なほどだが、おそらくはコロナでプロモーションが遅れたこととも関係があるかも知れない。私もこの演奏会を新聞広告で知った。しかも発売日は、その広告のあった6月から2か月後の8月末だった。

2曲目のプログラムは、ドイツの重鎮、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えてのピアノ協奏曲「皇帝」である。親日家でもあるオピッツは、どこか日本に滞在しているのだろうか、私は昨年にも代役として演奏されたブラームスのピアノ協奏曲第2番も聞いている。コリン・デイヴィスやギュンター・ヴァントといった今は亡き巨匠とのレコーディングもあるピアニストは、しかしながらここで推進力を維持すべく、どちらかというとモダンであっさりと仕上げていく。もたつかない演奏は、ドイツの伝統的な重みのあるものを期待していると裏切られる。だが、オーケストラとの相性を考慮すると、これは当然のこであると思われた。第2楽章の流れるようなメロディーは、どこかメンデルスゾーンを聞いているような感じでさえあった。

休憩を挟んでいよいよ交響曲第7番である。来日メンバーはそう多くなく、典型的な二管編成であり、従って音量はさほど大きくはない。これがビブラートを抑えて演奏されるのだから室内オーケストラを少々大きくした感じではあるが、各楽器の奏者も大変上手く、引き締まったリズムが大柄な指揮者の細かい指示にも機敏に対応していく。決して堅苦しい演奏ではない。たとえば、第1楽章のカデンツァを含めて大活躍する木管楽器は、これぞ本場ドイツのプレイヤーと思えるような、自由闊達に歌い、そして流れに溶け込む。その即興的とも言えるような妙味は、おそらく同じ演奏は2回とないだろう。こういう職人的演奏が生で聞けるから嬉しい。録音だともっとあらたまった演奏になると思う。嬉しいことに主題は繰り返され、2回目ともなるとプレイヤーにも自信が感じられて、その推進力と新鮮さがさらに増大する。

第2楽章の素晴らしさは例えようもなく、指揮者の細かい音量の指示に、実に細かく対応している。この第2楽章はあまりに見事だったので、思い出すだけでもうれしさがこみ上げてくるが、できればもう一度聞いてみたい(アンコールしてほしかったとさえ思う)。第3楽章のスケルツォも申し分なく、きっちりと楽章間で休憩を挟むと、満を持したように流れ出るアレグロ。圧巻のフィナーレは、もう何も言うことはないだろう。客席は高齢者が目立つものの、拍手はしっかり熱狂的で、コロナ流行下でなかったら熱烈なブラボーが出たことだろうと思われる。

一連の最終公演となったこの横浜でも、アンコールに演奏されたのは何とスウェーデンの作曲家アルヴェーンのバレエ音楽「山の王」から「羊飼いの娘の踊り」という曲。オール・ベートーヴェン・プログラムの最後に北欧の音楽を演奏するというのも粋な話だが、確かにオーケストラのより明るく透明な響きが前面に出て、ちょっと固めのドイツ音楽とのさりげない対比を示して見せた、ということだろうか。

26回目の結婚記念日だったこの日の演奏会は、あいにく冷たい雨の降る一日となった。賑やかなみなとみらい地区のカフェで時間をつぶしたあとは、関内にあるフレンチ・レストランに移動して妻と二人だけで祝杯を挙げた。今年も残すところ1か月余りとなった。今年最後のコンサートは、東北3県を巡る今回の旅を終えた12月7日、サントリーホールで開かれるシュターツカペレ・ベルリンのコンサートである。8年ぶりとなる釜石は今回も快晴の陽気で、どこまでも青く深い静かな太平洋を望むことができた。今夜は宮古まで行って龍泉洞近くに泊まる。三陸海岸は、津波のことを忘れるくらいにとても風光明媚なところである、と今回も思った。

2022年9月27日火曜日

東京都交響楽団第398回プロムナードコンサート(2022年9月23日サントリーホール、小泉和裕指揮)

コロナ禍に見舞われた2020年は、ベートーヴェンの作品が数多く演奏されるはずだった。しかしそれが叶わなくなり、私も大変残念だった。だから、その後徐々に再開されたクラシックのコンサートでベートーヴェンの作品がプログラムにのぼると、私はできるだけ聞きに行こうと思ってきた。奇数番号の交響曲で、この願いはまず達成された。そして今回、「田園」のプログラムが目に留まった。指揮は都響の終身名誉指揮者、小泉和裕。毎年何回か開かれる「プロムナードコンサート」と題された、わずか一夜のみの名曲プログラムは、実のところなかなか充実した名演奏となることが多い。

それにしても「田園交響曲」を聞くのは何年ぶりだろうか。手元のリストを検索してみると、何と2004年にロジャー・ノリントンで聞いて以来であることが判明した。この時の演奏は究極のノン・ビブラート奏法で、舞台最上段にずらりとならんだコントラバスから響く嵐のすさまじさに圧倒されたものだった。もはやベートーヴェンの交響曲は、従来のモダン風演奏には出会うことができなくなったとさえ思った。まあ、古楽器奏法の魅力に取りつかれていた私は、それでも良いか、などと納得していた。

それから20年近くがたって、今では様々な演奏が切り広げられているが、ここで聞く小泉の演奏は、まっとくもって一昔前風の、つまりはモダン楽器による演奏スタイル。とはいえ、カラヤン譲りの颯爽とした演奏はスタイリッシュで新鮮である。いわゆる巨匠風の悠然たる演奏ではないが、昨今の過激なまでに集中力のある演奏とは一線を画す、安心して聞いていられる演奏である。こういう演奏が結局は人気が高いようだ。サントリーホールは、コロナ禍で私が出かけた演奏会の中ではもっとも客入りが良かったように思う。私も久しぶりに「田園」を聞きながら、長かった2年半の「非日常」の日々と、特に今年の夏に起こった公私にわたる様々な困難に、思いを馳せた。

いっときはどうなるかと思った夏の日々を回想しながら、まだ続く不順な天候に自律神経がかき乱されている最近の状況も、わずかずつではあるが時が経つにつれて改善されているように思える。何も手につかない日々が続いたが、それも癒されていくのだろう。そう「田園」には、ベートーヴェンのモチーフである「困難を克服して喜びに至る」テーマが反映されている。

今回の演奏では第3楽章の繰り返しが省略されていた。「農民たちの楽しい踊り」もあっという間に嵐が来て、乱されていく。しかしすぐに始まる「神々への感謝」とともにフィナーレに向かった。それにしてもわが国のオーケストラも聞いていて上手くなったものだと改めて思った。そつなくこれくらいの演奏はできるのである。

休憩をはさんで演奏されたのは、レスピーギの「ローマの噴水」と「ローマの松」であった。この2曲は、やはり実演で聞くに限る。オーケストレーションの巧みさを肌で感じることができるからだ。録音だとつい聞き逃してしまうわずかなフレーズやアンサンブルに、耳をそばだて集中して聞き入ることができる。そして小泉の演奏が実に職人的で、これらの曲を見通し完全に手中に収め、純音楽的にオーケストラを操る余裕の演奏。

特に「ローマの松」のような大規模な曲になると、いわゆる熱狂的・扇動的な演奏になっても大変聞きごたえがあり、バランスを欠いているにもかかわらず大いに盛り上がる。それも音楽の表現ではある。けれども小泉の演奏は、その対極にあると言ってよかった。冒頭の賑やかな部分も、オーケストラをゆとりをもってドライブし、冷静でさえあった。そのため各楽器がよく聞こえt。「アッピア街道の松」が最終部に差し掛かった時でさえ、そのことは保たれた。おそらくすべての管弦楽作品中最大と言っていいような、左右の金管バンダを含め、あれだけの音量が鳴っていながら、冷静さを感じるその指揮と演奏が、私がこれまでに聞いた「ローマの松」では経験できなかった新しい側面を浮き彫りにした。

一言でいえば大変「整った」演奏だった。コンサートが終わって舞台に何度も呼びもどされた小泉も、いつもの表情で拍手に応え、台風の近づく秋分の日のコンサートがが終わった。会場を出ると、とうとう雨が降り出していた。もう9月も終わるというのに、蒸し暑い日が続く。今年の夏は異例づくめの夏だったが、それでも少しずつ、少しずつ、秋の足音が近づいている。

2022年6月17日金曜日

東京都交響楽団第953回定期演奏会(2022年6月13日東京文化会館、小泉和裕指揮)

かつてオンラインで都響のチケットを購入したことがある私の元へ、一枚の葉書が届いた。6月13日の定期公演の内容を知らせるものだった。今月の指揮は終身名誉指揮者・小泉和裕で、メンデルスゾーンの「宗教改革」とベートーヴェンの「エロイカ」。なかなかいい組み合わせだと思ったが、この日は月曜日。翌日以降も仕事が控えるサラリーマンとしては、あまり気乗りのしない曜日である。

ところが都響からは、当日券の発売を知らせる電子メールも届く。見てみたらS席からC席まで多くの席が残っているようだった。このプログラムの公演は1回のみ。全力投球のコンサートとなるか、名曲ばかり故の惰性的なコンサートなのか。どうにも判別がつかない。それでもC席なら高くはないし、それに翌日は午後から会社に行けばいいということになって、私は4年ぶりとなる東京文化会館へ出かけた。当日券は電子チケットのみの扱いで、電源を入れたスマホをかざして入場する。とうとうクラシック音楽の世界にも、電子化の波が押し寄せた。思えば90年代に入った頃から、あの懐かしいチケットの半券を取っておくことはなくなった。プレイガイドがオンライン化され、共通の用紙に印字しただけの、無味乾燥なものになったからだ。そのため、確かベルリン・フィルを聞いた時には、わざわざ「記念チケット」なるものが入り口で配られた。席の表示はない単なる紙であった。

新型コロナの蔓延に最も深刻な影響を受けたのは、悲運の作曲家ベートーヴェンだったかも知れない。またとない生誕250年記念を、世界中の音楽家が祝おうとしていた矢先のことだったからだ。ほぼすべてのコンサートがキャンセルされた。そういうことを埋め合わせるべく、私は最近ベートーヴェンの交響曲をプログラムに見つけては、そのコンサートに出かけることになった。特に昨年の秋以降、奇数番の作品に触れてきた。順に第5番、第7番、第9番「合唱」という順だった。となれば次は第3番「英雄」。これまで何度触れてきたかわからないベートーヴェンの交響曲も、特に第3番などは20年近く遠ざかっている。あんなに何度も聞いた作品なのに、名演奏の記憶が薄れてしまった。専ら安い席で聞いていたからだろうか。特にNHKホールの3階席で聞いた演奏会には、ほとんど思い出がないのは、偶然なのか。

コロナ・パンデミックは、私に日本人演奏家を見直すきっかけを与えてくれた。これまで機会がありながら、聞く機会のなかった指揮者やソリストに巡り合うこととなった。広上淳一のパントマイムのような楽しい指揮や、秋山和慶の職人的な名演奏の数々に混じって、小泉和裕のスタイリッシュで集中力のある演奏が心に残っていた。考えてみれば、日本中のオーケストラを指揮してきた小泉の、もっとも関係の深いオーケストラが都響であり、そしてその定期演奏会にレギュラーで登場する彼のプログラムには、その真価が発揮されるような曲が並んでいる。今回もそうで、メンデルスゾーンの「宗教改革」というのも、滅多に演奏される曲ではないが大いに魅力的である。トスカニーニからカラヤンを経て続くメンデルスゾーンの演奏スタイルが、カラヤン・コンクールの覇者となった小泉に引き継がれているのは、どう考えても明らかである。そしてあのフィルハーモニア時代から名演奏を繰り広げたカラヤンの流線形「エロイカ」も、また小泉によって継承されているのだろうか。そんなことを考えながら、会場へと急いだ。

久しぶりの上野駅は、改札口が変わってあか抜けた感じになっていたが、上野動物園へと続く大通りの雰囲気は、昔パンダが初めてやってきた70年頃の記憶と変わらない。そして文化会館の少し狭い通路や、部分的に死角となる両サイドの上階席も、今やレトロな香りが立ち込める。都の所有する施設だから、ここと池袋の芸術劇場が都響の主な活動拠点である。その音響効果を熟知している組合せの公演に、何かとても嬉しい気分となり、期待が高まっていった。そして、「宗教改革」の最初の音がなりひびいたとき、そのことが現実のものとなったのだ。

この曲の冒頭はコラールを配した厳かな雰囲気で始まる。ゆったりと流れる中音域の弦楽器に乗って、管楽器がこれらのメロディーを奏でる時、東京のオーケストラにして中欧の響きが自信を持ってなっていることに心を打たれた。やがて始まる主題からは、メンデルスゾーン節になる。思い切りよく飛ばしてゆく小泉の指揮にオーケストラが付いてゆく。ほとばしるような熱い演奏になるのに時間はかからなかった。やはり今日のコンサートは「当たり」だと感じた。

第2楽章の明るいスケルツォは、民謡風のメロディーの中間部が特徴。歌うような素朴なメロディーと、重厚で壮麗な教会音楽が同居しているのが本作品の面白い(中途半端な)ところ。「宗教改革」は番号で言えば第5番だが、これは彼の若干21歳の頃の作品である。プロテスタントに改宗したメンデルスゾーンは、自らの意志で本作品の作曲にとりかかる。様々な紆余曲折に翻弄され、結局この作品が世に出たのは、メンデルスゾーン死後のことだった経緯は、ブックレットに詳しく記載されている。

弦楽器の旋律が美しい第3楽章は短いが、このような曲に私はもっともメンデルスゾーンらしさを感じたりする。そして第4楽章は続けて演奏された。ここで音楽は再び教会風に戻り、高らかな賛歌となっていく。教会風な崇高さがあるかと思えば、やや通俗的なメロディーが織り込まれるとてもユニークな作品に思えてくるのだが、演奏の魅力を感じるにはわかりやすく、演奏していても楽しいのではないかと推測したりする。メロディーが親しみやすく、いつも音楽が推進するロマン派前期の音楽は、とりわけ小泉の指揮に合っていると感じた。ロマン派前期の作品で言えば、私は彼の指揮で、シューベルトの「グレート・シンフォニー」を聞いてみたい。

さて、20分の休憩を挟んで次はベートーヴェンの「エロイカ」である。この曲の最初の和音は、音楽史を変えた和音だ。小泉はそこを一気に響かせた。その集中力と音のややデッドな響きは、何といったらいいのだろう、もう天才的な音のバランスと強さであって、この一音が続く50分近い演奏を決定づけるほどのインパクト。私はこの「英雄」の第1楽章を聞くたびに、ソナタ形式の主題はどれか、などと考えて行くのだが、かつて一度も成功したことはなく、第1主題の繰り返しがあったかどうかくらいで(今回はなし)、聞いているうちにそんなことはどうでもよくなっていく。音楽の流れは大河が勢いよく流れて行くようで、いつまでも聞いていたい。ゆっくりとした演奏も悪くはないが、小泉のように颯爽と駆け抜けてゆく演奏がモダンで一時期の流行スタイルであった。

第2楽章、葬送行進曲。思うに東京文化会館の響きはかなりデッドである。だからオーケストラの響きが直接的に会場にこだまして、その強さが弛緩すると音楽は崩れるようなところがあるが、小泉・都響の集中力はこれが絶えることはなく、大フーガを始めとするこの曲の聞かせどころをどんどんこなしてゆく様は見事である。それにしても「エロイカ」は、何という作品なんだろ。

後半が腑抜けになるような演奏が多い中で、第3楽章のホルンのトリオを含め、一気呵成に続ける。ここで気を抜くわけには行かない。だからできるだけ早く、前へ。そして第4楽章の冒頭へ流れ込む。もちろん休止はほとんど置かず。流れ出る第4楽章の変奏曲に身を委ねながら、私はベートーヴェンが交響曲に持ち込んだ壮大なドラマを見ることになる。私が愛してやまない第4楽章は、ベートーヴェンのもっとも明るい側面が出た素晴らしい曲で、第2番に次ぐ造形美が感じられる。

都響が燃えた演奏が終わり、大歓声に包まれる。小泉自身会心の出来だったのではないだろうか?何度登場したか知れない都響の定期でありながら、その挨拶の身振りなどから、それは如実に感じられた。いつまでも聞いていたい音楽が終わったことに、久しぶりに淋しさを感じた。1回限りの月曜日の定期演奏家は、決して気を抜くことなく、むしろ本当に聞きたい人が聞きに来る熱いコンサートのように感じた。私はまたこのコンビを気に入ってしまった。次回は9月23日(祝日)、「田園」ほかが演奏される。プロムナード・コンサートと題されるマチネシリーズは、サントリーホールである。

2022年1月12日水曜日

第65回日本赤十字社献血チャリティ・コンサート(2022年1月8日サントリーホール、Vc:上野通明、広上淳一指揮東京都交響楽団)

昨年の10月に、私は都響の定期でドヴォルジャークのチェロ協奏曲を聞いている(サントリーホール)。この時のソリストは佐藤春真で、彼は2019年にミュンヘン国際コンクールに優勝した新鋭のチェリストとしてドイツ・グラモフォンからブラームスの作品をリリースするなど、その活躍ぶりが目覚ましい(https://diaryofjerry.blogspot.com/2021/11/39320211020.html)。

ところが丁度この頃、もう一人の日本人チェリストが何とジュネーヴ国際音楽コンクールに優勝したニュースを耳にした。上野通明はパラグアイで生まれたチェリストで、数々の世界的コンクールを総なめにしてきているが、ジュネーヴとなると別格でもある。そしてその彼が凱旋公演を行うことになり、最初がソニー音楽財団の主催する日本赤十字社チャリティコンサートだった。

私はこの公演のことを12月に知り、さっそく妻の分と2枚のチケットを購入した。オーケストラも佐藤の時と同じ東京都交響楽団で指揮は広上淳一。広上は昨年11月に、やはりここサントリーホールにて京都市交響楽団の演奏会を聞いているので、立て続けである。しかもこの時はベートーヴェンの第5交響曲を聞いているから、年末の第九、今回の第7番とベートーヴェンのシンフォニーが続く。私は白血病の患者として過去に何度もの輸血で命をつないでいるから、日本赤十字社のチャリティというのも嬉しい。音楽を聞くだけで、募金ができるというわけである。

2人の新進気鋭のチェリストによりドヴォルジャーク、広上の楽天的で目一杯楽しい指揮、ベートーヴェンの奇数交響曲、そして都響のサントリー公演。こうも同じ傾向が続くとどうしても比較をしたくなるところだが、音楽は繰り返し聞くこともできず、聞いている席も違うし、第一聞き手のコンディションも日によって違うので、あまりそういうことに意味はない。ただ2人の演奏は対照的で、どちらも素晴らしく、そして感動的であったことは確かである。

今回はA席ながら1階席前方で、ソリストも指揮者もよく見える。スラリとした体形によれよれのジャケット、もじゃもじゃの頭髪。その第1音を聞いた時、物凄いエネルギーで耳に押し寄せてきた。たった1台の低音楽器からこんなに豊穣な音波が発生するのかと思った。佐藤春真のときは2階席真横だったので比較はできないが、上野通明のチェロの存在感は圧倒的でさえあった。

ドヴォルジャークのチェロ協奏曲の骨格を良く理解し、体に染み込んでいるのだろう。流れ出る音楽は時にゆっくりとフレーズを取り、貫禄も十分である。広上の指揮がこれを好意的にサポート。終楽章はいくぶん勢いが出て、若さゆえか粗削りになる部分もないわけではなかったが、それでも音楽がうねって盛り上がり、チェロとオーケストラが織りなす競演に興奮さえ覚えた。都響は昨年10月の佐藤春馬の時(指揮は小泉和裕)よりも上手いと思った(特に木管)。

佐藤のチェロは繊細で、それも素晴らしかったのだが、上野のチェロはむしろエネルギッシュだと思った。音も根太い。だがこういう印象は、聞いた場所、競演した指揮者によって違う効果と区別がつきにくい。私は実演で、あのドボコンが聞けるというただそれだけで感激するたちだが、今回の上野のチェロは、私をノックアウトした。アンコールで演奏されたバッハの無伴奏から第1番の「クーラント」がまた素晴らしかった。この無伴奏は丸でヨーヨー・マのように速く開放的で、音色も美しかった。

休憩を挟んでのベートーヴェンは、第1音を聞いた時から広上の心地良いアクセントに驚かされた。この第1音はずっしりとドイツ風の重厚さを強調する場合と、明瞭で強い場合(ハンガリー風とでも言おうか)があるが、広上は後者である。これがモダンな雰囲気を醸し出すのだが、陽気で広がりのある音楽は、今回も私の心を捉えて離さなかった。

時に飛び跳ねるかのような指揮は、この音楽がダンスの権化であることからもわかるように、広上にマッチしている。時にソロを弾く木管楽器の巧さも光るし、第2楽章の歌謡風のメロディーも耳に心地よい。第4楽章に至ってはオーケストラも大変な熱演で、1階席前方からは指揮者と弦楽器の第1列しか見えないから、視線は自然と指揮に釘付けとなる。

聞きなれた第7番も、実演で聞く機会が多いかと言えば、私の場合そうでもない。だが今回の演奏は過去の300回あまりのコンサートの中でも上位10%に入る出来栄え、そして感銘度だった。私は昨年のマーラーで広上のファンになってしまったから、春の京都で開催されるマーラーの交響曲第3番も出かけて行こうかと考えている。

興奮のうちに終楽章が終わって、何度も舞台に呼び出される指揮者の後ろから、打楽器奏者が入場。良く見ると弦楽器奏者の譜面台にもう一枚、楽譜が置かれている。新年のコンサートに相応しく、アンコールとしてヨハン&ヨゼフ・シュトラウスの「ピツィカート・ポルカ」が演奏された。外連味たっぷりのリズムに合わせ、弦楽器ばかりが一斉に弦を弾くと、その響きは乱れることなく会場にこだまする。やはりこの実演の空気感は、どんな再生装置でも再現できないだろう。

チャリティ・コンサートと銘打った名曲ばかりのニューイヤーコンサートだったが、独奏、指揮、オーケストラとも大変な熱演、そして名演だったことはとても嬉しい。今年、2022年がどうか良い年でありますように、と会場に居合わせた全員が思ったに違いない。そういう時だからこそ音楽は社会にとって必要不可欠であり、演奏会も決して不要不急なものではないことを、ここ何回かのコンサートで実感している。

2021年12月19日日曜日

東京交響楽団演奏会・第172回名曲全集(2021年12月18日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:秋山和慶)

本当に感動的なコンサートは、あとあとまで余韻が残るものだ。今年最後のコンサートに、年末の「第九」を選んだ。久しぶりだった。今年は妻が「第九」を聞きたいと言ったからだ。ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」を聞くのは、2018年末のNHK交響楽団(指揮:マレク・ヤノフスキ)以来3年ぶりである。コロナ禍で多くのコンサートが中止となった昨シーズンから年月が経ち、ようやく日常が取り戻せるようになってきた今年の締めくくりに、「第九」ほど相応しい作品はない。

ところが「第九」は人気作品であって、どの公演も満員御礼となることが多く、今年も例外ではなかった。各オーケストラが短い期間に演奏を競い合う中、やや惰性的で散漫な演奏も少なくない。今年のコンサート情報を眺めながら、私たちが行くことのできる日程(それは週末に限られる)と会場から、売れ残っているチケットを探し始めたのが11月のことであった。

幸なことに、東京交響楽団が名曲全集と銘打ったシリーズの中に、辛うじて席を探し出すことができた。とはいえまだクリスマスも1週間後に控えた12月18日。年末の雰囲気には少し早すぎる。これは各公演の中でも最も早いもので、東京交響楽団でもこのあと30日まで断続的に「第九」公演が続く。しかし早くも冬休みに入った高校生の息子に尋ねると、しぶしぶ「行く」と答えた。何でも「オミクロン株」なる新しい変異型コロナウィルスが世界を席巻しつつある中、いつ何時再度ロックダウンという事態も起こりかねない。行けるなら早い方がいい、というのが私たち家族の結論だった。

14時前に会場へ赴くと、すでに大勢の人でにぎわっており、公演情報を映した掲示板にはチケットはが売切れと表示されていた。ホールはすでに満席の状態で、こういう光景は久しぶりのことである。あらためて「第九」の人気に驚くが、やはり今年はちょっと気分が違っているのかも知れない。昨年にも「第九」の演奏がなされたのかは知らないが、まあそんなことはどうでもよい。指揮はこの楽団の音楽監督である秋山和慶。1941年生まれというから御年80歳。私の父とほぼ同年代である。先日(12月4日)ここ川崎で、彼の指揮する洗足学園のオーケストラによるサン=サーンスを聞いたばかりだが、学生オーケストラとは思えない落ち着いた名演奏で、私は息を飲んだほどである。この他にもかつて、東響でマーラーの「嘆きの歌」の名演に接している(もっと古いところでは1989年に神戸でN響公演を聞いている)。

秋山の指揮は私にとって、とても印象深い名演の記憶ばかりである。非常に端正でオーソドックスながら、洗練された美しい響きで新鮮な印象を残す。外面的な効果を狙うわけではなく、音の重なりの微妙な違いをきっちりと表現し、どのフレーズも次につながる時に停滞したり、急ぎ過ぎたりしない。こういうちゃんとしたところは、素人の私が聞いていても大変よくわかるし、几帳面であるものの堅苦しくはなく、むしろモダンである。思えば小澤征爾と始めたサイトウ・キネン・オーケストラの初回の演奏会には、彼が小澤と交代で指揮をしていた記憶がある。桐朋学園における斉藤秀雄の門下生ということになる。もっとも小澤は1935年生まれだから、6歳ほど年下ではあるが。

プログラムの最初にワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲が演奏されるというのも、今となっては大変古風でさえあり、私などは大いに好ましいと感じる。そもそも「第九」のみでは、何か損をした気分になるのだが、ここにワーグナーを持ってくることで、「第九」から最も啓示を受けた作曲家のひとりにスポットライトを当てる。

だがその演奏は、残念ながらオーケストラの試運転状態といったところ。私の席からは、丸でおもちゃのような音がしていた、と書けばちょっと気の毒だが、アマチュアに毛の生えた程度の演奏に思えたのは私だけではなかったようだ。クライマックスのシンバルが少し早すぎたように感じたし、それは1回だけではなかったので、「第九」の時にどうなるのかちょっと心配になった。

休憩なしで「第九」が始まった時、合唱団とソリストはまだ舞台に上がっておらず2巻編成のオーケストラのみ。向かって左手から第1・第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順。右手奥にコントラバス。一方、打楽器は左手奥に並び、ちょっと私の席からは見えにくい。この会場は舞台で死角となる部分が、座る席のよって多いのが残念である。また残響が大きく、私の好みとはやや異なる。しかも縦に高く、席は非対称というのも変わっている。この結果、3階席以上となると見下ろす感じとなる上に、間接的な音波のみを聞いているような感じがする。今回はS席2階だったので直接波を聞いている感じがしており、こういう状態で「第九」を聞くのは、もしかすると初めてではないかと思った(正確にはサイモン・ラトルの指揮でウィーン・フィルの「第九」を聞いているのだが、どういうわけかこの時の印象がぼやけている)。

オーケストラから緊張が感じられたのは第1楽章を通しても変わらなかった。決して間違いを犯すわけではないのだが、まだ固く、アンサンブルの溶け合い具合が定まらない。これは実演でよくあることで、仕方がないのだが、この後どうなるかというところがとても大事である。それにしても「第九」というのは長い曲だなと改めて感じる。

第2楽章に入って、オーボエを始めとするソロ、ティンパニの活躍を含む長いスケルツォが進むにつれて、ようやくエンジンの調子が良くなってきたように感じたオーケストラは、第3楽章のアダージョをとても美しく弾き切った。目を閉じると、各パートが管楽器と重なる時の音色の変化がとてもよくわかる。これはやはり実演で聞いてこそ感動的である。録音・調整された音が鮮明に各楽器を捉えているのは当然のことだが(そうでないものもある)、ライブで見ながらこれを実感するのは、驚異的なことだと思う。

まだ録音技術がなかった今から200年前に書かれ、その後多くの作曲家に底知れぬ影響を与えた「第九」は、おそらく実演で聞いた時の感動たるや、想像を絶するものだったに違いない。アダージョ楽章の、管楽器がしばし揺蕩うひとときを経て一気に3拍子で流れを変え、ピチカートでクライマックスを築く時の変化は、この音楽の分岐点としてその後に続く「新しい音楽」への序章でもある。ここを境にして、今日の演奏もまた、大きく飛躍を遂げたと感じたのは私だけではなかったようだ。

間を置かず第4楽章に突入するのが近年の流行りだが(そのため、合唱団とソリストは第2楽章と第3楽章の合間に登場した)、この理由は、やはり第3楽章の「頂点」から一気に下るスピード感に弛緩を許したくないからだろうと思った。第4楽章の最初に各楽章の回想シーン(とその否定)があることから、私は長年、第3楽章のあとに「切れ目」があると思っていた。だがそうではないのだ。

低弦楽器のよっておもむろに「歓喜の歌」の旋律が流れてきたとき、今日の演奏はとてもいいものになると確信した。各楽器が右から左へと重心が移り、その変わる様を「生のステレオ」効果によって実感することができる。そしてついにバリトンが大声で宣言する。「おお友よ、もっと喜びに満ちた歌を歌おう!」

今日の歌手は全員日本人で、バリトンは加耒徹。その声は大音量をもって会場にこだまし、この音楽の際立った目印を示した。「やるな」と思った。決定的な宣言が音波を通し、震えるようなエネルギーとなって体に共鳴を与える。雪崩を打つように合唱団が、ソリストが歓喜を歌う。総勢40人程度しかいない新国立劇場合唱団の、何と見事なことか!ソプラノの安井陽子が、負けじと大声を張り上げる。彼女の歌はもはや誰の耳にも明確に聞こえ、メゾ・ソプラノの清水華澄も円熟の音楽性だ。

長いフェルマータも、秋山は無駄に伸ばしたりはしないあたりが、演奏に程よいストレスを持続させるのだろう。行進曲でテノールの宮里直樹が、これでもかと歌う声はまだ若くて張りがあり、そのことがとてもいい。フーガに突入するオーケストラ、そして大合唱。「第九」の聞きどころは続く。

だが、本日最大の聞きどころは、このあとコーダに入るまでの、天国的な空間に分け入る部分だった。厳かで畏敬の念を感じさせる「第九」の真骨頂を、その通り示したのだ。これは私の「第九」経験史上、初めてのことだった。4人の歌手と合唱が一体となって神を賛美し、人類の歓喜を鼓舞する。ここが「第九」最大の聞きどころだとわかってはいても、そう感じる演奏にはなかなか出会えるものではない。CDやビデオの場合は、ここまで集中力をもっておかないとよくわからなくなってしまう。ライブの場合では、客席を含めもっと数多くの要素が絡む。

消え入るような歌唱に続いてコーダになだれ込む「第九」の最後は、もうどうでもいいような歓喜の中を突っ走る。秋山の指揮は、その状況でも合唱とオーケストラのバランスを鮮明にし、テンポをやや抑え、そこはかとない効果を指示することを忘れない。これは練習通りにやったためでのことかも知れないが、さらに白熱した演奏ぶりは指揮からも十分に感じ取れる。

正攻法の「第九」を久しぶりに聞き、「音楽」を味わったと思った。満場の拍手は途切れることなく続いた。舞台最前列に登場した4人のソリストが、次のカーテンコールでは元の位置(合唱団の最前列)に上がった時、まさかアンコールが演奏されるとは思わなかった。緊張が解けて、最高のアンサンブルに成熟したオーケストラから充実した響きが流れてきた。合唱が重なると、それはあの有名なスコットランド民謡だった。私は感涙し、体の震えが止まらなかった。これほどにまで美しい合唱を聞いたことがない。その震えは暫く続き、涙で舞台が見えにくくなったと思っていたら、照明が少しずつ消えて行き、最後には指揮とコンサートマスターのみを照らし出した。「蛍の光」を歌う合唱団とオーケストラのメンバーがペンライトを持っている。このまま続けて第2番の歌詞も聞いていたいと思ったら、音楽は終わってしまった。だが思いがけない年末のプレゼントに、会場は再び沸いた。

このような企画は、最初から予定されていたのだろう。毎年恒例の行事かも知れない。けれどもそうとは知らない私たちは、この光景に大いに感激し、初めて味わった「第九」の見事な演奏にしみじみととした余韻の時間を過ごした。たった1回限りの音楽は、それが名演であれば、はかないながらも説得力のあるものとなる。「第九」の感動によってワーグナーは、ベルリオーズは、ブルックナーは、そしてマーラーまでもが作曲家になる決意をした。その力は、こういうことだったのか、と思った。また来年も、このコンビによる「第九」を聞きたいと思った。心温まる感動を残しながら私たちは、師走の川崎の街をあとにした。

2021年11月7日日曜日

京都市交響楽団・東京公演2021(2021年11月7日サントリーホール、指揮:広上淳一)

まるで魂が乗り移ったような演奏だった。

長年、常任指揮者などを務めた広上淳一が京都市交響楽団を率いるのは、来年2022年3月までとなった。京響の2年ぶりとなる東京でのコンサートは、このコンビとしては今回が最後となる。常任指揮者としての「ファイナルコンサート in 東京」と題されたチラシを見たのは先月の下旬だった。演目はベートーヴェンとマーラーのいずれも交響曲第5番。前者がハ短調、後者は嬰ハ短調。凡そ100年を隔てて作曲されたこの2曲は、それぞれ新しい境地へと踏み出す交響曲であると同時に、モチーフにおいても大きな関連性がある。広上は大胆にもその2曲をプログラムに配し、真っ向から勝負するというチャレンジングなもの。14年に及ぶ関係の有終の美を飾るものとなるかは、勿論当日の出来次第。音楽は決して事前に作り置きしておくことのできないものだからだ。

ベートーヴェンの冒頭で、聞きなれた主題が鳴り響いた時、私はとても新鮮なものを感じたのは不思議ですらあった。配置は昔からの標準的なもので、左からヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順。古楽器奏法が主流の現在、むしろ懐かしい響きである。しかもテンポはゆっくり目。主題提示部の繰り返しは省略。たっぷりと旋律を歌わせ、自らも道化師のように踊る広上の姿に、こちらも釘付けとなるのに時間はかからなかった。このような「古典的な」ベートーヴェンは随分久しぶりに聞くな、などと思いつつ、それがここまで新鮮に響くには何か理由があると考えた。それは広上が、すべてのフレーズ、すべての和音に至るまで、ここはこういう音でなければならないという確信に満ちた音作りを目指しているからではないだろうか。

広上の演奏に接するのは初めてである。最近ではNHK交響楽団にもたびたび客演しているし、東京生まれの指揮者なので勿論のことながら、東京での活躍が多い。にもかかわらず、私はこれまで広上の生演奏に接したことがなかった。それなのに、初めて聞く彼の指揮するオーケストラが、京都のオーケストラであるというのも何か不思議な感じである。第1楽章のオーボエのカデンツァ以外では、オーケストラの自発性に任せているというよりは、細部にまでこだわって指揮をしているように思えた。ただそれが威圧的ではなく、開放的で明るいのは、その滑稽とも思える大袈裟な指揮姿からではないだろうか。

第2楽章もたっぷりと歌わせ、聞きなれた音楽が何故かとても嬉しいくらいに新鮮だ。きっちりと、しかし曖昧さもなく進むが、それについて行くオーケストラの技量も確かなものだと感じた。そして第3楽章の低弦の響き。最近の我が国のオーケストラも、かつてのように薄っぺらい低音ではなくなって、むしろヨーロッパのそれに近い。しかし第3楽章までですでに非常に朗らかな感じがしてしまうため、第4楽章の歓喜はむしろ控えめに感じられた。第4楽章でも主題提示部の繰り返しはない。これはプログラム自体が長いためだろうか。

私はこの曲をこれまでにどのくらいコンサートで聞いているか、過去のメモを手繰ってみた。印象には残っていないものの、結構な回数であることが判明した。今回の第5交響曲の演奏は、その過去の記録に照らしても、これほどまでに印象に残った演奏はないと思った。聴衆が期待しているのはこんな演奏ではないか、と広上は考え、その実践をしているように思われた。だから後半のマーラーに、期待が膨らんだ。ただマーラーの交響曲第5番は、ホルンやトランペットを始めとして、結構な技巧が要求される。京都市交響楽団は、その期待に応えられる技量があるのだろうか、と私は少し心配だったのが正直なところだ。だがこれは杞憂に終わった。

私は広上の指揮に限らず、この地方自治体が運営するオーケストラを聞くのも初めてだった。いや実際には、2回目ということもできる。それは小学生の頃、体育館で聞いた出張演奏会の小さなアンサンブルが、京響だったからだ。今から50年近く前のことである。私の通っていた小学校は、大阪府の北部にあった。私の通っていた小学校の音楽の先生は、音楽室に高額なオーディオ装置や楽器などを配備し、児童には楽器を触らせてばかりいる大変ユニークな方で、この先生がその年に招へいするオーケストラを決める時、「京響が一番真面目でいい」と言っていたのを覚えているのだ。まだ何もわからない小学生の授業の中で、そういうことを言った。それ以来、京響は私にとって、いつかは聞くべきオーケストラとなっていた。けれども当時、一番人気は大フィル。大阪から京都に出かけて行くのも不自由なら、京都に音響のいいホールもなかった。

東京に来てからは、関西のオーケストラを聞く機会もほぼなくなった。しかし2008年に京響の常任指揮者に広上が就いてから、京響の技量は飛躍的に上昇し「黄金時代をもたらした」(プログラム・ノートより)とのことだった。私は初めて聞く広上の指揮する演奏会に、京響を選んだ。そしてそのことが大正解だったことを、マーラーの奇跡的な大名演によって確信するに至る。オーケストラの巧さだけでなく、それを引き出した手品師のような広上の指揮が、これほどにまで聴衆を惹きつけるのかと思った。

マーラーの冒頭はトランペットの響きで始まる。モチーフはベートーヴェンのそれと同じ3連符とフェルマータ。しかし100年後のクラシック音楽は、非常に複雑だ。長いマーラーの演奏は、聞いてゆくと今どこにいるのかもわからないような世界に入ってゆく。交響曲第5番の、比較的構造の明確な曲であってもまたしかりである。第1楽章の重苦しく闘争的な音楽。悲劇的な第2楽章。こういった場面をたっぷりと、体を左右にゆすりながら、時に大きくジャンプしては向きを変え、丸でパントマイムのように軽やかに踊る。オーケストラはその表現に寄り添い、最大限の技量をもってついてゆく。この一糸乱れぬ関係は、長年に亘って築かれたものであることを感じさせ、さらにはかなりの量の練習が施されたのではないかと想像するに十分であった。

奇跡的に、まるで魂が乗り移ったようにオーケストラと指揮が一体化してきたと感じたのは、第3楽章からだった。この長いスケルツォを千変万化するリズムやフレーズの中に表現しきった彼らは、続く有名なアダジエット(第4楽章)で、さらに深化したアンサンブルを響かせた。指揮者の正面に配置されたハープと、100%の音量を鳴らす弦楽器の絡み合い。一音ごとに響きに重みを増すフレーズに合わせ、指揮はこれでもか、これでもかとオーケストラを引き立ててゆく。時に唸り声が響く。その楽章が終わったとき、会場が物音ひとつしない静寂に包まれた。消えてゆく音に合わせ、かすかに目を閉じた私は、終楽章でのホルンの響きに身を寄せ、流れては澱み、大胆に鳴らされては消え入るように染み込むマーラー・マジックに翻弄されることとなった。難しい音楽が次から次へと現れ、重なり、大きくなって会場を満たすときでさえ、広上の確信に満ちた指揮は、驚くべきほど雄弁なものだった。こうなればオーケストラも、乱れることなく心がひとつになって、実力以上の力量が示されることとなる。すべての楽器の、すべての奏者が体を揺らし、思いっきり力を込めて弾く。後方にいる弦楽器奏者までもが、まるで魔法にかかたかのように熱演を繰り広げる。その有様は、聴衆にも乗り移ったかのようだ。

全部で2時間20分以上に及んだコンサートが、さらに長い間、拍手の嵐に包まれた。何度も舞台に呼び出された指揮者は、オーケストラが去っても熱心な聞き手に応えた。「アンコールはありません」などと会場に向け挨拶をした広上は、「京響がとても個性的なオーケストラに成長した」というようなことを云った。私はこれまで、そのあまりに大袈裟でひょうきんな指揮姿に、いったいどういうコンサートをする指揮者なのかとこれまで思ってきたが、今日の演奏を見て明確に判った。両手だけでなく、顔の表情、時に両足までも駆使しながら、体のすべてを通して音楽を伝えようとする姿は、それゆえにオーケストラのあらゆる部分に明確な指示を出す。そのユニークな指揮と演奏が一体になった時、驚くような名演奏が誕生する。本日の演奏は、まさにそのことを実体験することとなったのだった。

このような個性的な指揮が、歳をとるとしづらくなってゆかないか心配である。けれども少なくともあと何回かは、京都でこの組合せの演奏会が予定されている。特に注目すべきは、文字通り最後の演奏会となる来年3月の定期である。この時取り上げられるのは、マーラーの交響曲第3番だそうである。私は帰省を兼ねて、京都まで聞きに行こうかとも思っている。

2021年8月9日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団演奏会(2021年8月7日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:下野竜也)

コロナ禍に見舞われた昨年、NHKは日曜夜のクラシック音楽の放送枠に、全国の地方オーケストラの公演を取り上げた。その中でとりわけ私を注目させたのは、下野竜也が指揮する広島交響楽団のベートーヴェン「エグモント」(全曲)の演奏会だった。序曲だけが有名なこの作品の全曲を、ナレーション(エグモント)とソプラノ(クレールヒェン)付きで演奏する意欲的な取り組みは、ベートーヴェン生誕250周年だったこともあり、事前に組まれていたものだろう。だが私の目を見張ったのは、その演奏の素晴らしさだった。

私は未だにこの鹿児島生まれの指揮者の姿を見たことがない。読売日本交響楽団などをしばしば指揮しているから、接しようと思えば簡単なことだと思いながらも、なかなかその機会が持てないでいた。だがテレビで見たその指揮は、なかなかスマートなもので、特にフレーズが次のフレーズに移ってゆく時、自然に流れを持続させるのが非常にうまいと思った。広島交響楽団というのが、どの程度の演奏団体なのかは実演で接したことがなく未知なものだったが、少なくとも映像で見る限り、これは第1級の演奏だと思った。他のオーケストラと比べても、それは歴然としていたと思う。

そしてエグモントとしてナレーションを担当するのが、バリトン歌手の宮本益光。この単なるナレーションに歌手をわざわざ起用しているのは、この演奏会の成功の要因だと思った。日本語なので自然に頭に入って行くことに加え、音楽との微妙な交わりがとても良い。ミューザ川崎シンフォニーホールで聞いた実演に関していえば、マイクを使う必要もなかったのではないだろうか?かえって残響が耳に残った。

クレールヒェンを歌ったのは、これも広響との公演と同じソプラノの石橋栄美で、彼女を私は新国の「フィデリオ」(2018年)で聞いている(マルツェリーネ)。その経歴から、私の生まれた大阪出身で、しかも私の育った豊中にある大阪音楽大学の出身とある。豊中でもとりわけ庶民的な地域にあるこの大学の前を、私はこの4月に歩いたばかりであるだけでなく、私の通った高校の音楽の先生などもこの大学を出ていたりしたから非常に親近感が沸く。もしかして同じ高校?などと勘繰り、さらに経歴を調べてみたら彼女は東大阪の出身で高校は天王寺にある夕陽丘高校だと判明した。

その石橋のソプラノの素晴らしさも特筆すべきもので、舞台向かって右後方より聞こえてきた自信に満ちた歌唱は、私が聞いた1階席では完全に音楽に溶け込み、素晴らしいバランスで3つのアリアを完璧に歌いこなした。 

ゲーテの戯曲にベートーヴェンは音楽を付けた。そのことだけでも興味が沸くこの作品の全曲が演奏されることは非常に少ない。私はかつてジョージ・セルがウィーン・フィルを指揮して録音した演奏でこの曲を知り、その後、クルト・マズアがニューヨーク・フィルと録音したCDで親しんで来た。だが実演に接する機会が来るとは思わなかった。この度、偶然川崎の音楽祭のパンフレットなどを眺めていたら、昨年テレビで見た広島での公演と同じものを日フィルとやることがわかった次第。迷わずチケットを買い、勇んで会場に入ったがその客席は2割にも満たない状況に、いくらコロナ下とは言えちょっと残念に思った。前日のバッティストーニは、5割は入っていたと思うからなおのことである。

プログラムの前半は、何とシェークスピアを題材にした曲が3つ。ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲で始まり、ヴォーン=ウィンドウズの「グリーンスリーヴス」による幻想曲を経てニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」と続く不思議な選曲。これらの3曲は非常にポピュラーで聞いていて楽しい作品だが、この日の演奏会は兎にも角にも後半の「エグモント」に注力した感じ。練習していないとは思わないが、軽く流した感じもしてちょっと不満ではある。だが「グリーンスリーヴス」の美しい音色は、心に染み入ってしばし音楽に触れることを喜んだ。

昨日の東フィル、今日の日フィル、いつもの東響、だけでなくここ川崎で聞くオーケストラの音は、いつもちょっと濁っている。これはホールに原因があるのかも知れない。だがこのホールに来ていつも思うのは、その客層の良さである。何かとても音楽を聞くことを楽しみにしている人が多いと思う。醒めたN響の定期会員や、何か特別な感覚のある読響、それに余り音楽に縁のない人がなぜか多い都響、と在京オーケストラにも様々な個性がある。そんな中で、この川崎に集う聴衆は、オーケストラが登場するだけで拍手を送る。だがそのような愛すべき聴衆も、今や高齢化が避けられないようだ。そのことがちょっと淋しいと思った。

なお、毎年夏の「フェスタミューザ」の広告に使われるイラストは凝っていて面白い。今年はベートーヴェンがテニスのラケットを持ち、マーラーがコーラ片手に山登りに出かけるというもの。とても面白いからここにも張り付けておきたいと思う。


2020年12月30日水曜日

ベートーヴェン:「ミサ・ソレムニス」ニ長調作品123(S: エリザベート・ゼーダーシュトレーム他、オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)

ベートーヴェンは、従来のキリスト教の枠を越えたところに、真の超越的な神と正義、自然の摂理と人間の尊厳を見出そうとした。この思想は、常に確信的で破壊的な創造に彼を駆り立て、その総決算としてほぼ同時期に作られた他に類を見ない2つの作品、すなわち交響曲第9番と「ミサ・ソレムニス」(あるいはまた「盛儀ミサ」「荘厳ミサ」とも訳される)が存在することになった。交響曲第9番は、それまでのあらゆる管弦楽作品を越えた作品であり、「ミサ・ソレムニス」もまた、典型的なミサ曲とは異なり、ミサ曲を越えたミサ曲として存在する。そして「ミサ・ソレムニス」の捉えどころのない難解さは、交響曲第9番を従来の交響曲として理解しようとすることが破たんを来すのと同様である。しかしこのこと=両作品におけるベートーヴェンの生涯を通じた革新的な動機=について思いを馳せることができれば、理解は比較的容易ではないか。そんなことを思いながら、改めて「ミサ・ソレムニス」に挑戦した。

「ミサ・ソレムニス」作品123はまさに、交響曲第9番作品125の直前に位置する作品である。そしてベートーヴェン自身はこの「ミサ・ソレムニス」を自らの最も偉大な作品だと語っている。このことは大きな意味を持つ。しかし「第九」であれば、我が国では農村の合唱団でも歌っているほどに身近な存在であるのに対し、「ミサ・ソレムニス」のフレーズを歌うことができる人に出会うことは稀である。「第九」の各楽章のわずかなフレーズを聞いただけでも、そのメロディーが心から離れないのに対し、「ミサ・ソレムニス」のメロディーはほとんど心に響かない。一生懸命に聴けば、ところどころ離散的に、記憶が形成されることがある程度である。演奏を変えて聞いても、この傾向は変わらない。ミサ曲であれば、他の作曲家のレクイエムや、ベートーヴェン自身のもう一つのミサ曲(ハ長調)の方が、ずっと親しみやすいのは事実である。

他の管弦楽曲や合唱作品と異なる「ミサ・ソレムニス」のとっつきにくさは、後期の弦楽四重奏曲や晩年のピアノ・ソナタに通じるものかも知れない。だが、今一つ思い出されるべきは、この作品が当初作曲され、初演された時点では、「キリエ」と「グローリア」のみだったという事実だろう。ベートーヴェンは1819年、長い間後援を惜しまなかったルドルフ大公が、大司教に就任することが決まった翌年の即位式に向け、祝典用に演奏すべく自ら申し出て作曲を始めた。しかし、あまりに多くの楽想が沸き、音楽が長くなりすぎて間に合わなかったとされている。結局、現在の形に完成されたのは2年半も後になってからのことで、この間もベートーヴェンは精力的に作曲を続けたようだ。この曲の初演は、何とサンクト・ペテルブルグで行われているが、それはベートーヴェンが筆写譜を各地の王侯貴族に送っていたからで、その楽譜を購入したロシアのガリツィン侯爵が、慈善演奏会で取り上げたからだと音楽史の本には記載されている。

生誕250年を迎えた今年、私は満を持してベートーヴェンの最も偉大な作品のひとつである「ミサ・ソレムニス」を、ここで取り上げることにしようと思う。これまで避けてきた作品だが、ほとんどのベートーヴェンの管弦楽作品(すなわち、室内楽曲と独奏曲を除く作品)について記述してきて、もう他に取り上げる作品がなくなってしまった。このまま避けて通ることができない関門のような作品である。この記述のために選んだ演奏は、独唱にエリザベート・ゼーダーシュトレーム(ソプラノ)、マルガ・ヘフゲン(アルト)、ヴァルデマール・クメント(テノール)、マルッティ・タルヴェラ(バス)、そしてニュー・フィルハーモニア合唱団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるもの。指揮は80歳を超えていたオットー・クレンペラー。1965年の録音。

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さて、音楽は通常通り「キリエ」で始まり「グローリア」と続くが、この2曲は比較的馴染みやすい。「キリエ」はどんよりと曇った海に漕ぎ出していくような厳かな曲で、クレンペラーの演奏で聞くと、粗削りな部分が丸で白波のように感じられ、長い航海を前に波に揺られているようである。クレンペラーの武骨な指揮が、透明でレンジの広い録音によって、一層その広がりを感じさせる。私などは、他の作曲家のどんなレクイエムにもまして、厳粛でありながら、作曲家の確固たる自信が迫り来る曲だと感じる。このような曲がそれまでに、いやそれ以降もあっただろうか。簡素な3部形式で、ミサ曲に聞く主題の和音が提示されると中間部に至るが、やがてオルガンを伴う主題が再現されるとき、その音楽は一層耳に馴染んでくる。すでに合唱と4人のソリストは全力投球を必要とする(以上、約10分)。

「グローリア」は、輝かしく崇高で、ほとばしり出る合唱が圧倒的な曲である。ベートーヴェンのアレグロは、ここで全開である。この「グローリア」は4つの部分から成っている。激しい部分に引き続いて、テノールを先頭に独唱、それに合唱までもが再び力強いテーマに戻る。ここまでが第1部(約5分)。これに対し、ゆっくりとしたやや重苦しい部分が第2部(Qui tollia peccata mundi)。しかしこういう部分こそが、ミサ曲ならではの崇高で神妙な部分に思える。木管楽器が印象的(約6分)。

扉が開いて新しい世界に入ってゆくような堂々とした第3部の冒頭のメロディーは印象的である(Quaniam tu solus sanctus)。やがて始まる第4部は合唱も入り乱れてのフーガであり、聞く者を興奮の中に誘う。アーメンと何度も歌われ、最後の方は丸で「フィデリオ」の最終部を見ているように速く、圧倒的に昂揚し、突然終わる(約6分)。

「クレド」は4つの部分。まず合唱のバスが、続いて満開の合唱が、それ以前の部分に勝るとも劣らず力強く歌いだす。漸次的に押し寄せるパワーに圧倒されながら、合唱と管弦楽のハーモニーに酔いしれたい。音楽は大きくなったかと思うと、にわかに静かになったりしながら起伏を持って進行し、フーガもある(約4分半)。

音楽がアダージョになったら第2部である(Et incarnatus)。教会の神秘的な響きがするのは、そのような施法で書かれているから。そしてフルートのトリルの乗せながら独唱が天空に舞う。音楽はここからしばらく重苦しい響きが続く。それは神の苦しみが歌われる部分だからである。だがそれも啓示を得たように突如速い音楽に転換し、蘇る(7分以上)。

ここからの「クレド」の第3部と第4部はひたすらフーガとアーメンの音楽である。ここの、「ミサ・ソレムニス」における中心的な部分は、物凄い音楽としか言いようがない。よくこんな音楽を書いたものだと、あっけにとられるほどだ。それにしても「ミサ・ソレムニス」における独唱と合唱には、「第九」よりもはるかに高度な技術を要する。それも全編に亘って。複雑極まりに音楽を聞いていると、「第九」さえかわいい曲に思えてくる。フルートに乗って、やがて音楽は消え入るように登っていく(10分程度)。

これまで興奮の渦のなか、何が何かわからないような気持ちて聞き続けて来たが、まだここからが後半である。いい演奏でここまで聞いてくると、この曲はなかなか魅力満載の実力ある楽曲だと心から思い知らされる。ベートーヴェン以降のミサ曲で、この曲に迫るのはヴェルディの「レクイエム」くらいではないかとさえ思えてくる(ベートーヴェン以前でも、バッハの「ロ短調ミサ」のみが、これに匹敵する唯一の曲とされる)。それでももし、この曲がとっつきにくいと思うなら、もしかするとその原因は、あまりにまとまりを重視して、かえって音楽の規模が小さくなってしまった演奏(録音)のせいかも知れない。それまでの規範に収まらないこの曲を表現するには、その枠をはみ出す必要がある。「第九」もそのような要素があるが、それでもどの楽章のどのフレーズをとっても、親しみやすいメロディーに溢れている。「ミサ・ソレムニス」にはミサ曲独特の旋法、典礼文に即した楽曲が書かれているものの、ベートーヴェンならではの迫力を終始感じる点では、この曲以上のものはない。

「サンクトゥス」は静かに始まる。しかしやがては女声合唱のプレストが始まり合唱が高らかに歌うと(ここまで4分)、やがて管弦楽のみの部分(前奏曲)に入ってゆく。ここが「ミサ・ソレムニス」における全体の折り返し地点ではないかと思う(1分半)。そして独奏ヴァイオリンが続く「ベネディクトゥス」の開始を告げる。終始厳かで静謐な調べは、絶えず続く独奏ヴァイオリン(オブリガート)と4人の独唱によって特徴づけられ、そこに合唱が染み入るように合流する。全体の中でも白眉とも言うべき部分は、聞く者を陶酔の中へと誘い、しかも大変長い(11分!)。

いよいよ最後の「アニュス・デイ」である。3つの部分から成るこの終結部は、まず痛切な祈りの第1部で、バスの独唱によって開始される。イタリア・オペラの終幕冒頭に歌われる不気味な予感といった感じ。夜も更けてきたころ、静かにひとり耳を傾ける。祈りの歌が、ソプラノによって、テノールによって、重なり、合唱に引き継がれたかと思うと再び合わさり、ひたすら深く、心の淵まで染みわたる。ベートーヴェンが書いたおそらくもっとも崇高な音楽のように思えてくる(7分程度)。

だがそのような深淵な音楽にも明るさが差し込んでくる(第2部「われらに平和を与えたまえ(Dona noblis pacem)」)。ここの音楽から最後までの間は、特にベートーヴェンらしく印象的である。フーガが平和の安寧を願う。するとティンパニ、そしてトランペットが行進曲のように響くのだ。不安げな表情を見せる独唱陣。これがちょっとしたアクセントになって、再び平和を求める合唱に戻る(6分)。

最後は速い。金管楽器とティンパニによる力強いコーダが始まる。寄せては返す波のように、合唱や独唱が何度も押し寄せる。気高く荘厳な音楽も、最後に再びティンパニによる響きが何かの啓示を行いながら、まるで尻切れトンボのように終わる。

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クレンペラーの「ミサ・ソレムニス」の演奏を評価するのには、努力が必要だ。逆説的な言い方だが、この演奏の偉大さを認識するには、それ以外の演奏にも耳を傾けておかなければならない。そこで私は、ショルティの演奏にある程度の時間をかけて聞いてみた。ショルティと聞いて毛嫌いする向きもあろうかと思う。何を考えているのか、よりによって気高いミサ曲にショルティとは?という意見である。だが「第九」でも書いたように、いくつかの大規模作品におけるショルティの説得力は素晴らしいものがある。

ショルティとクレンペラーの演奏に共通するのは、骨格が非常に明確な点である。そう書けばカラヤンやバーンスタインはどうなのか、と言われるかも知れない。だからこれは程度の問題で、カラヤンは部分的に丸く、全体的に磨きがかかっている。バーンスタインともなるとこれはかなりデフォルメされてくる。そういう点ではショルティ(あと一つ挙げるとすればガーディナー)の演奏は、鋭角的とでも言おうか、録音もいいので曲そのものの形が見えてくる。そのような骨格をさらに太くし、しかも広がりを与えているのがクレンペラーの演奏である。峻厳、崇高などという形容詞を使う人も多いが、これは80歳を超えて体力を失った巨匠が、車椅子に座りながらも楽団員に睨みをきかせ、あらんかぎりの統制力を発揮しようとしたこと、楽団員がそれを真摯に受け止め、可能な限り応えようとした結果であると推測される。

ショルティの演奏で全体をおおよそ理解した後に聞くクレンペラーの演奏は圧巻である。どの部分をとっても、この類稀な録音が、60年近くを経た今でも新鮮に再生できることを心から喜びたい。大波に乗るような悠然とした「キリエ」、椅子から転げ落ちるのではないかと心配する「グローリア」、武骨で気違いじみたように荒れ狂う「クレド」、ヴァイオリン伴奏に乗ってこの上なく美しい「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」。悠揚迫らぬテンポが続く「アニュス・デイ」に至っては、神がかったように天に昇ってゆくような気持になる。この終曲をここまで心に刻む演奏は他にない。「心より出でて、再び心に戻らんことを」。この曲は、やはりベートーヴェンの書いた最大の曲であると同時に、その最高の演奏の一つが、間違いなくこのクレンペラーのものだろうと得心するに至った。

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曲のあきれるような大きさと、演奏の底知れぬ偉大さに腰を抜かし、結局のところ、「ミサ・ソレムニス」におけるベートーヴェンの革新性とは何だったのだろうか、と改めて考えてみた。けれども素人には、その破格の規模や表現の複雑さに圧倒されるだけであった。

様々な解説を参考にすれば、音楽的には2つのことがまず、言えるのではないかと思う。ひとつは、「サンクトゥス」から「ベネディクトゥス」に至る標題音楽にも似た物語風の進行である。すなわちキリストの肉と血が「パンと葡萄酒」に変化する「聖変化」の儀式と、「前奏曲」を経て三位一体の降臨へと続く。今一つは、「アニュス・デイ」における軍隊風のラッパがもたらす不安への回帰と、それを打ち消して、高らかに平安を謳うまでのプロセスである。いずれもベートーヴェンらしい、飾り気のないストレートな表現で新しさを打ち出している。

ベートーヴェンの音楽のベートーヴェンたる所以は、その解釈を聞き手に迫ることである。「こんなに考えて作曲したのだ。聞き手も考えて聞き給へ」と言われているように感じてしまう。だからベートーヴェンの音楽は、聞き手を験すようなところがある。特にこの「ミサ・ソレムニス」は、難解な曲でありながら、それを聞き手がどう理解しているのか、究極的なところでベートーヴェンは問いかけているような気がする。

ベートーヴェン生誕250周年の今年は、コロナ禍に明け暮れた大変な一年だった。全世界が暗い苦悩に満ち溢れたと言って良い。であればこそ「苦しみから幸福へ」というベートーヴェンのモチーフに倣い、来年こそは幸せな年となることを願いたい。今年は、きっとどこかで演奏されるであろう「ミサ・ソレムニス」を実演を聞くことを願っていたが、それもかなわわなかった。しかしいつか、圧倒的な迫力を持つこの偉大な曲を大合唱で聞いてみたい。そう願いつつ今年のこのブログを終えることとしよう。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...