2023年4月27日木曜日

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団特別演奏会(2023年4月24日サントリーホール、飯守泰次郎指揮)

飯守泰次郎の指揮するブルックナーの演奏会に、一度出かけてみたいと思っていた。随分前から、一部のファンには熱烈に支持されていたが、私にはこれまで縁がなかったからだ。飯守泰次郎を知ったのは、新国立劇場の芸術監督に就任した2014年頃だった。私は彼がバイロイト時代の人脈を駆使して招聘するワーグナー歌手らとともに、「パルジファル」「神々の黄昏」「ローエングリン」「さまよえるオランダ人」を聞き、さらにはカタリーナ・ワーグナーの演出するベートーヴェンの「フィデリオ」の名演奏を聞いた。これらは私のワーグナー視聴史を飾る貴重な思い出である。

そのワーグナーを崇拝したブルックナーもまた飯守の得意とする演目で、彼自身が「挨拶」でそのことに触れている。ブルックナーとワーグナーには共通点が多く、「バイロイトでワーグナーの仕事をした経験が、ブルックナーのサウンドを構築する土台になっている」と語っている。飯守の指揮によるブルックナーは、先日4月7日にも交響曲第8番の演奏会が行われている。私はこの演奏会にしようかと迷ったが、直前に上岡指揮新日フィルによる同曲を聞いたばかりなので、24日に開催される第4番の方を選んだ。交響曲第4番「ロマンチック」はブルックナーの交響曲の中では最も有名で、明るいメロディーが全体を覆う私の好きな曲である。

シティフィルというオーケストラを聞くのは初めてであった。プロフィールを見ると創立が1975年だから、もう半世紀近くの歴史があるということになる。N響を筆頭に数多ある在京オーケストラの中で、どちらかというと目立たず次点といった感じのオーケストラという印象があったが、飯守の指揮する演奏会は評判がいい。彼自身解説のなかで、音楽は生きているものだと書いている。「楽譜に書ききれない自由さがある」以上、「常に聴きあいながら有機的に音楽を創っていく」営みが重要だと語っている。今回の演奏会も、演奏が進むにつれてどのように音楽が進(深)化するか、それが大いに注目するところだった。

第1音の弦楽器によるトレモロが響いた瞬間、私はこのオーケストラが発する得も言われぬ響きに驚かされた。音に艶があって生きている!その音はまさに中欧のそれであって、しかも明るいのだ。紛れもなくブルックナーの音を、飯守は作り出している。オーケストラが時に音を外しそうになったところで、この音色は揺るがない。2階席真横という席ながら、そのことを実感して嬉しくなった。

第1楽章の明るくて優雅な主題は、私が初めて聞いたブルックナー音楽の原点である。その時聞いたレコードの指揮はブルーノ・ワルターで、そこはやはりメロディーの歌わせ方の上手い演奏だった。最初のゾクゾクがこのメロディー、とこの曲を聞く時の相場は決まっている。その第1楽章はソナタ形式で書かれているが、そういう音楽の構造が何かとてもよくわかる。飯守はすっかり体が弱って、支えがないと指揮台まで歩けない状態だったが、音楽が始まってしばらくは用意されていた椅子に座ることもなく、むしろ早めのテンポで駆け抜けた。

第2楽章の美しさ、特に中間部の短いメロディーがこの曲最大の聞き所だと思っている。このメロディーを聞くために、実演の会場へと足を運んでいると言ってもいいくらいである。私にとってのこの曲の、2回目のゾクゾクは、実に自然な成り行きでやってきた。だが、私はここを境に、今日の演奏が化学変化を始めたように思う。ここからの音楽は、いっそう洗練されて聞こえてきたからだ。特に第2楽章ではヴィオラが活躍する。オーケストラを真横から見ていると、正面からではあまりよくわからない管楽器に注目が行くが、これが弦楽器とどう絡み合っているかが手に取るようにわかる。

第3楽章は狩の音楽だが、ここではホルンを始めとする金管楽器が活躍する。飯守は椅子に座りながらも、淡々と音楽を進める。ブルックナーの音楽には人間性が感じられない。だから、音楽は無為無策のように、むしろぶっきらぼうで素っ気なく指揮するのが良いようなところがある。しかし、そういう音楽がただひたすら繰り返されてゆくと、研がれた石が光沢を放ち始めるようになる。大改訂を繰り返した第3楽章の中間部は、素人が聞いても音楽的ではないが、繰り返されるスケルツォを聞いていると、ひたすら漂白される砂糖の結晶のように思われてくる。

長い休止の間、飯守は幾度となく楽譜のページをめくり、何かを確認しているようだった。今日のプログラムはこの曲ただ1曲のみ。その全力投入の演奏も、終楽章へと入る。そして3回目のゾクゾクは、第4楽章早々のクライマックスと決まっている。飯守の今回の演奏は、第2稿ノヴァーク版ということになっている。良く知られているように、この曲で通常演奏される第2稿の2つの版に、いずれもシンバルは登場しない。ところが舞台には第1楽章から、ずっとシンバル担当の打楽器奏者がいて、この人が第4楽章早々のクライマックスで、満を持してシンバルを叩いたのである。

この効果は抜群だった。そしてシンバルはこの1音だけ。そもそもシンバルが入る稿というのを良く知らないのだが、これはおそらく折衷版ということだろう。ややこしいことはともかく、ここから20分余りをかけてコーダに至るまでの演奏は、ブルックナー音楽のもっとも感動的なシーンの連続だった。

これだけの名演奏なのに、客席が3割程度しか埋まっていないことが残念でならない。月曜日ということもあるし、定期演奏会ではないという不利な点もある。しかしコロナの期間を含め、私が経験した中では最も少ない聴衆の数だった。だがその数少ないファンは、大いに熱狂的でもあった。歩くのがままならないマエストロは、係員に支えられながら舞台の袖で諸手を挙げ、順次各パートを立たせた後も再三にわたりブラボーの声援に応えた。もちろんオーケストラが去っても拍手は鳴りやまず、指揮者が再び会場に立った時には、再度割れんばかりの拍手に包まれた。

ブルックナーの名演奏は実演でしか得られないものがある。単純だか壊れやすいその音楽は、オーケストラの技術が良くなければならない上に、音楽の最中に一種の動的な変化がなされる必要がある。滅多におきないその変化が生じた際の、圧倒的な感動はこの作曲家の音楽の虜にさせるに十分である。そして今回の演奏もその水準に達した。オーケストラのアンサンブルが指揮者とのコラボレーションによって次第に高次元でまとまり、技量を超え神がかったような一体化が醸成されていった。まさに飯守が期待した成果だった。できれば他の作品も聞いてみたいと思っていたら、配布されたチラシの中に、来シーズンの定期でシューベルトの「グレイト」が掲載されているではないか!これは今から楽しみである。

2023年4月23日日曜日

紀尾井ホール室内管弦楽団第134回定期演奏会(2023年4月21日紀尾井ホール、トレヴァー・ピノック指揮)

プログラムに上ると可能ならすべて聞きに行きたいと思う曲がある。シューベルトの長大な交響曲第8番ハ長調、いわゆる「グレイト・シンフォニー」は私にとってそういう曲である。名曲だけに毎年何回かはどこかの団体によって演奏されているし、レコードの枚数も限りがない。実際、実演で聞くこの曲はその長さが気にならない。それどころかいい演奏で聞くと、いつまでも聞いていたいとさえ思う。

私がかつて実演でこの曲を聞いたのは4回ある。そのうち2回は鮮明に覚えているが、あと2回は記憶にない。鮮明な方は、サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団とミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊によるものである。サヴァリッシュのシューベルトは、それだけで間違いがないとも言えるが、ここで私は第3楽章トリオ部分の美しさに開眼した。ミンコフスキの方は、何といってもリズムの楽しさで、特に第4楽章の乗りに乗った演奏に舌を巻いた。そう考えると、記憶にない方の2つの演奏、すなわちノリントン指揮とパーヴォ・ヤルヴィ指揮のいずれもNHK交響楽団による演奏は、なぜ印象がないのかわからない。もしかすると聞いた座席の位置が良くなかったのかも知れない。

そのシューベルトの「グレイト・シンフォニー」を英国のピリオド奏法で名を馳せた指揮者、トレヴァー・ピノックが指揮する。この指揮者を聞くのは初めてである。プログラムの前半には定番のモーツァルトも用意されているから、これは「買い」だと思った。かつてドイツ・グラモフォンから発売されていたバロックからモーツァルトに至る一連の演奏は、一世を風靡したかのような感さえあった。ブリュッヘン、アーノンクールなどと並んで、80年代の古楽器ブームの最盛期に登場したピノックのCDを、私も何枚か持っている。

そのピノックも77歳だそうで、昨年(2022年)からは紀尾井ホール室内管弦楽団の第3代目の首席指揮者に就任したそうである。私は紀尾井ホール室内管弦楽団を聞くのは2回目である。もう5年前の丁度同じ日になるのだが、ハイドンの「十字架上のキリストの7つの言葉」を聞いており、紀尾井シンフォニエッタ東京から名称を変更した団体の技量の高さはすでに体験済みだから、きっといい演奏会になるに違いないと確信した。

ピノックはシューベルトの「グレイト」を指揮するの当たり、特にメッセージを寄せていて「シューベルトの交響曲第8番は、私にとって宝物のような作品であり、人生のあらゆる要素が詰まった体験と省察のための音楽です」と語っている。彼にとってこの曲を振ることは、特別なことなのだろう。だからこの日の演奏会は、とどのつまりは「グレイト」に集中し、そこにほとんどすべてエネルギーを傾けたと言っても過言ではないだろう。最初の曲「イタリア風序曲」の丁寧で明るいサウンドは、いわば「グレイト」のためのウォーミングアップといったところだが、一音一音の色付けにこだわりが感じられて大変好ましい演奏に仕上がっていた。

一方のモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は、ピノックの定番中の曲である。ところが何と、私はこの曲の実演を聞くのが初めてであった。ピノックは無難にこの曲を指揮したと思う。ただ私はどことなく、練習不足の感が否めなかった。オーケストラの音色、特に弦楽器のそれに、何となく洗練されたものが感じられなかったからである。音がやや艶を欠いていて、どこかアマチュアの団体が演奏しているような感じである。そう思ったのは、後半のプログラムではまったく違った素晴らしい音に変貌していたからである。

ただピノックはチェンバロの奏者でもある。チェンバロという楽器は、音が上部に「キン」と突き抜けるようなところがあって、もしかするとそういう音作りなのかも知れないと思った。シューベルトではむしろロマン派のアンサンブルになっていたがモーツァルトでは、敢えてもっと賑やかな古典派の音にしていたのかも知れない。

紀尾井ホールという会場を私は好ましく思っていない。その理由は最寄りの駅から遠いことに加えて、トイレが不思議なことに地階と2階にしかないというおかしな構造をしていることによる。このため大多数の1階席の聴衆は、階段を上り下りしないと用を足せないのだ。我が国におけるクラシック音楽のリスナーは近年、特に高齢化が著しく、この階段の上り下りには拒絶感を抱く人も多いのではないか。だからかどうかはわからないが、これだけ素敵なコンサートなのに、客席は6割程度しか埋まっていない。もったいない話である。

シューベルトの交響曲第8番について、音楽評論家の森朋平氏が大変素敵な文章を解説に記している。それによれば、若い頃はモーツァルトをモデルにしていたシューベルトも、病に侵されるようになるとベートーヴェンが目標となった。「治ったと思っても回帰してくる関節と頭の痛み」によって死を意識する若き作曲家は、それまでのような「”歌”や”抒情”に耽溺しない、古代の叙事詩を読み上げるごとき偉業」を成し遂げる。それは「4か月におよぶザルツブルク方面」への旅行を皮切りにゆっくりと形をなしていった。

病気と死の恐怖にさいなまれながら、彼は長大な作品を残す。その冗長なまでの(私はそうは思わないが)長さに「演奏不可能」とレッテルを張られたこの作品は、後年シューマンによって見いだされ、メンデルスゾーンによって初演されるまで日の目を見ることはなかった。私が衝撃を受けたのは、その頃のシューベルトがローマの友人に充てて書いた手紙の一節である。「もう二度と目覚めなければいいのに」と、彼は書いているのだ。私の患う病魔もこの状況に似ている。驚くべきことにシューベルトはそんな苦境の中でこの曲を作曲したのだ。そこにはシューベルトの並々ならぬ決意が感じられる。「未完成」とは対照的に、この曲はシューベルトのポジティブな側面が横溢している。しかしその中に時に垣間見せる内省的な瞬間が、この作品の奥深い魅力である。

さてピノックの「グレイト」だが、結論から言えば、大変感動的であった。オーケストラのアンサンブルの見事さは、前半とは異なって群を抜いていた。特に終楽章でのリズム感のよい集中力は、できればもう一度聞いてみたい。ただ、第2楽章ではもう少し表情付けがあっても良かったと思う。中間部で一気に静かになるところ。ここで吹く心の隙間風こそが、私がシューベルトを愛する理由なのだ。

同じことは第3楽章のトリオにも言える。あまりに健康的で明るい演奏なのだ。だがこの抒情的な部分の美しさは例えようがない。できればここはゆっくりとした演奏で聞いたみたいものだ。その前後は威勢が良くていい。このコントラストの妙をつける演奏に、私はまだ出会っていない。ただでさえ長いこの曲で、弛緩させることなく集中力を維持することに気を取られるあまり、この第3楽章のしっとりとしたメロディーが、いつも不完全なものに終わるように私は感じてしまう。

いくつかの不満はあるとはいえ、高い水準でこの曲を聞くことができた喜びは、何をおいても特筆すべきだろうと思う。そしてシューベルトの魅力を、またいつか実演で聞いてみたいと思う。生ある限り、私はシューベルトを愛し、そしてシューベルトの曲を聞き続けたい。あのピアノ・ソナタの全集を、私はそのために買い求め飾ってある。

長大な曲の最後の一音が鳴り終わったとき、フォルティッシモで終わる曲にしては珍しいことに長い静けさが保たれた。多くの聴衆の中に、音楽の一部とも言える静寂をぶち壊す人がいなかった。そのことで今日の演奏会の品の高さがうかがえようか。ブラボーこそわずかではあったが、これには指揮者も満足した様子だった。木管楽器を始めとする奏者の技量の高さにも驚かされた演奏会が終わると、何と小雨が降り始めていた。4月とは思えない暑さの中を、赤坂見附の交差点まで歩くと、紅潮した頬も次第に緩み、新橋の雑踏に塗れるころには深遠なシューベルトの心の闇も、どこかへと消えて行ってしまうようだった。

2023年4月18日火曜日

バルトーク:管弦楽曲集(アダム・フィッシャー指揮ハンガリー国立交響楽団)

前にも述べたように、私はバルトークが苦手だった。しかしこの舞曲を中心とした管弦楽曲集に接した時、これは聞けると思った。ハンガリー生まれのアダム・フィッシャーがハンガリー国立交響楽団を指揮したCDである。このCDはNimbusという黒いジャケットのレーベルから発売されていた。Numbusというレコード会社は、しなしながらいつのまにか倒産し、私のCDを含め多くが廃盤、入手不可能となってしまった。私は中古屋を巡り、何とかあと1枚のCDを買い求めた。

バルトークの音楽は、ハンガリーやジプシーを題材にした複雑なリズムが特徴である。ピアニストとして有名だったので数々のピアノ作品を手掛けたが、それらのいくつかは管弦楽曲に編曲された。「ルーマニア民族舞曲」もその一つである。「棒踊り」「帯踊り」「踏み踊り」「角笛の踊り」「ルーマニア風ポルカ」「速い踊り」の6つのパートから成っている。タイトルを見るだけでわくわくする。ルーマニアはかつてハンガリー王国の一部だった地域が存在する。そこの民謡を題材に選んだ、と解説にはある。難解で万人受けしないバルトーク節はここには不在で、大変親しみやすい。7分足らずの短い曲だが、それぞれに独特の表情付けがある。何といってもクラシックの世界では、ルーマニアなどといった国は未知の国で、どのような音楽が存在するのか興味深い。私はもちろん行ったことはないが、健康な体でなくなった今となっては、もう一生行くこともないであろう。

一方「舞踊組曲」は、この中では最も有名な曲ではないかと思う。この曲は最初から管弦楽曲として作曲された。ハンガリーの首都、ブダとペストが合併して50周年を記念する年に委譲されたというのが作曲の経緯である。18分ほどの曲は6つの部分からなり、音楽は切れ目なく演奏される。「ルーマニア民族舞曲」ほど気さくな作品ではないが、バルトークの特徴が程よく現れていて親しみやすい。ファゴットやトロンボーン、ハープなどが活躍し、コル・レーニョと呼ばれる弦楽器の奏法(弓の木の部分で弦を叩く)やグリッサンド(ハープなどで滑らせるように弾く)なども見られる。

「ハンガリーの風景」はピアノ曲からの編曲(5曲)。全体が非常に描写的で親しみやすいが、面白いのは「トランシルヴァニアの夕べ」でのオーボエ(もしかするとコール・アングレ)の牧歌的なメロディーに五音音階が用いられていることもあって、非常に日本風の響きがすることである。ここでハンガリーはアジア系、などといい加減で陳腐なことを持ち出す気はないが、バルトークの別の面を見る思いがする。「2つの映像」はドビュッシーの影響を受けた幻想的な管弦楽曲で、「花盛り」「村の踊り」の2曲から成る。それぞれ10分程度の曲。特に「花盛り」はドビュッシーそのものの作風で、間違えそうなほどだ。バルトークにもこのような作品があったのかと思った。

アダム・フィッシャーの指揮はメリハリが効いて録音も大変良い。独特の透明感とややくすんだ東欧風の色彩が感じられる、とてもチャーミングな一枚。


【収録曲】
1. ルーマニア民族舞曲 Sz.68
2. 舞踊組曲 Sz.77
3. ハンガリーの風景 Sz.97
4. 2つの映像 作品10, Sz.46
5. ルーマニア舞曲 Sz.47a

2023年4月8日土曜日

バルトーク:ピアノ協奏曲第1番Sz83(P: ジャン=エフラム・バヴゼ、ジャナンドレア・ノセダ指揮BBCフィルハーモニック)

週末の早朝に、熱いミルク・ティーを飲みながらバルトークを聞いている。家族はまだ寝ているから、大音量で音楽を流すわけにはいかない。久しぶりにSONYの高級ヘッドフォンを取り出してパソコンに繋ぎ、先日実演を聞いたばかりのフランス人ピアニスト、ジャン=エフラム・バヴゼの演奏に耳を傾けている。セーターがなくても寒くない陽気だが、今日は朝から雨雲が立ち込め、路面が濡れている。今年の春は桜があまりに早く散ってしまい、4年ぶりに日常を取り戻したというのに、何か拍子抜けしたような新年度の始まりであった。

バルトークは3つのピアノ協奏曲を作ったが、その最初の第1番は1926年夏に作曲されている。和暦では大正15年のことで、音楽関係ではNHK交響楽団の前身である新交響楽団が設立されている。2つの世界大戦に挟まれた不安定で暗黒のような時代、とこれまで私などは考えてきた。マーラーの死がひとつの音楽史における区切りと考えると、そのあとの時代、すなわちロマン派が終わってラヴェルやストラヴィンスキーの時代に入ってゆくのだが、バルトークもまたそのような時代にハンガリーで活躍した。

バルトークは民族音楽の収集と研究がライフワークであったようだ。彼の作品にその影響が色濃く反映されているという。私は専門家ではないし、ハンガリーの民謡にもまったく無知なので、どれがどうということは言えないが、リズムが千変万化するあのブラームスの「ハンガリー舞曲」や、リストの「ハンガリー狂詩曲」などに親しんでいるから、親しみやすい音楽だと思って聞いてみるのだが、これが一向にそうではなく、むしと難しくてよくわからない、というのが第1印象だった。

バルトーク自身そのことを認めていて、ピアノ協奏曲第1番についても「難点といえば、たぶんオーケストラにとっても、聴き手にとっても、非常に難しいというところでしょう」と述べている。民俗音楽をそのままの体で作品に反映させるだけの時代は終わり、20世紀の音楽としての傾向を踏まえないと、クラシック音楽としての存在感は主張できない。バルトークはそれを実践した。同じハンガリーの同世代コダーイやチェコにおけるヤナーチェクと同様の位置づけと言えるだろうか。

そのバルトークはピアニストでもあった。そして彼の最初のピアノ協奏曲は、バルトークが新古典主義の趣向を強める最初の作品と位置付けられている。とはいえ、私が聞いた印象ではやはり土着的な匂いがする。メロディーもほとんどなく、とらえにく。けれども私にとってストラヴィンスキーが常にそうであるように、ある時演奏次第では、耳にしっくりくるときがあるものだ。

ブーレーズが3人の異なるピアニスト、オーケストラと共演・録音した豪華なCDは私も買っていたが、これはどういうわけかほとんど聞いてこなかった。ブーレーズのCDとしては、ストラヴィンスキーやドビュッシーなど、新たな録音がリリースされるたびに大いに評判を呼び、私も興奮して何枚も買ったのだが、どういうわけか心に響かない。これは演奏が悪いというのではなく、もしかしたら録音によるものなのかも知れない。なぜなら実演で聞いた演奏では、めっぽうヴィヴィッドで躍動的だったからだ。録音ではどういうわけか立体感が失われ、醒めた冷たいものになっている。録音上の演出がそこにあるのではないかと疑っている。

第1楽章はピアニストが思いっきり低いキーを連打し、それに打楽器を主体とするオーケストラが絡むシーンから始まる。ブーレーズによるこの曲のCDではツィメルマンが独奏を担っているが、来日時の公演映像が残っていて、そこではポリーニが見事な競演を繰り広げている。そのポリーニが鍵盤の端っこに指を置いて、指揮の合図を待つシーンが印象に残っている。ブーレーズとポリーニよるライブ映像は、もはや老人とも言える年齢の二人が、このような難曲でもそつなくやってのける円熟の極みに感嘆するが、ここで取り上げるのはバウゼが2009年に録音したCDで、快速の演奏はもはやこの曲が、こなれた「通常の」クラシック音楽として、まるで難しさなどないかのように「普通に」演奏されてしまっている。

ソナタ形式、と言われてもピンとこないが、よく聞くと第1楽章は主題が再現される。リズムに合わせて踊りだしたくなるような曲がノセダの指揮によって洗練されたものになっている。一皮むけたかっこいい演奏だが、これは後から聞くとブーレーズの「完璧に」板についた演奏から続く道の上にいるうなところがある。なるほどブーレースの演奏を再認識するきっかけにも、私の場合、なったのである。

第2楽章では、静かな中に独特の雰囲気が醸し出される。ここでも打楽器がピアノに絡む。いや良く聞いてみると、ここの楽章に弦楽器が登場しない。バルトークの新しい響きが、彼自身のオリジナルかどうかは知らないが、打楽器の活躍によるところが大きいと思う。不協和音と時に乱れる楽器群。それでも太鼓が足取りを刻む。夜の音楽。

バウゼ/ノセダの組み合わせで聞く第3楽章は極めてカッコいい。快速で一気に駆け抜けるノリのいい演奏に、もはや古い演奏に見られる澱みはない。バルトークの音楽の一種の面白さが堪能できる。あっという間の7分弱。それにしてもこの曲が初演された時、指揮者は何とフルトヴェングラーだったらしい。ちょっと想像ができない。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...