2023年5月31日水曜日

シベリウス:交響曲第4番イ短調作品63(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

シベリウスの交響曲は、指揮者によってずいぶん印象が異なると感じている。定評あるパーヴォ・ベルグルンドで聞く時の印象は、無駄なものがなく素朴でありながら、何か真摯に訴えかけてくるようなところがある。シンプルで品のある北欧の清潔感が漂うイメージ。しかしシベリウスはベルグルンドだけではない。この難解とされる交響曲第4番を初めて聞いた時(それが誰の演奏だったかの記憶はすでに失われているのだが)、カラヤンの演奏で聞いたみたい、と直感的に思った。

カラヤンは、シベリウスを得意とした指揮者であった。特にドイツ・グラモフォンから発売されている何回目かの交響曲集では、第1番から第3番までの初期の作品を「スルー」して、第4番以降のみを取り上げる玄人好みの趣向となっている。その第4番の演奏は、私が期待した通り大変充実した演奏である。カラヤンは、この第4番を特に得意としていたらしいのだが、一般に言われているのは難解で暗く、人気がないというものである。確かにコンサートで取り上げられることはほとんどない(ただし、今シーズンのN響はパーヴォ・ヤルヴィがこの曲を振った。プログラムの前半であるが)。

私は、フィンランドを除く北欧をたった一度だけ旅したことがあるが、夏には夜中まで明るい天候と、冬になればほとんど光に恵まれない寒い生活が、この地域の人々の生活に重大な問題を引き起こす引き金になっているのではないかと思った。おそらく規則正しい(と中緯度地域に住む私は思っている)生活が困難で、時に発狂したくなるような陰鬱な気分や陽気で馬鹿に楽しい気分になったりするのではないかと思う。すでに名声を確立していたシベリウスも、暴飲暴食に明け暮れ、アルコールやタバコといったものに毒されていったようだ。

この第4交響曲を作曲したのは丁度そのころ、咽頭がんの疑いが持たれた時のことである。しかし結果的に腫瘍は悪性ではなく、シベリウスも闘病生活から癒えて、体力を回復することになる。郊外に移り住んで作曲に専念していたシベリウスが、死への恐怖と、そこから回復した後のほのかに安らいだ気持ちが複雑に交錯する作品となっている。不摂生な生活を改めたからかも知れないが、シベリウスは90代まで生きることのできた稀な作曲家である。

第1楽章の冒頭からチェロが暗い旋律を奏でる。このメロディーはその後も続き、自由な形式によって反復されるのか発展されるのかもわからないまま、ひたすら暗い海の中を行く。しかし私は、特にカラヤンの演奏で聞く時、この曲が単に暗いだけの曲ではなく、決して抑うつ的ではないと思った。演奏によって、このあたりの印象は違うのかも知れないが、息苦しくはならないのである。それはもしかしたら、こちらの体調がいい時にだけ聞いているからかも知れないが。誤解を恐れず言えば、この第1楽章は時にブルックナーのように聞こえる。

第3楽章は第1楽章よりも内面的ではある。しかし私はここでもドラマか映画の音楽のように聞くことができる。中間部では丸で救急車が近づいてくるような部分があったりする。一方、第2楽章と第4楽章は明るい雰囲気も併せ持つ。第2楽章は北欧の自然を描写したようなシベリウスらしさが現れて、ちょっとした気分転換になっていると思うし、第4楽章はグロッケンシュピールの印象的な音色も加わって、安らぎさえも感じられる。

このようにちょっと不安定で、わかりにくい音楽ではあるが、カラヤンの手にかかると音楽的に充実したものに仕上がる。その妙味もまた職人的で、ベルリン・フィルの重厚な弦楽器に支えられてロマンチックなムードにもなっている。ベルグルンドなどに比べると味付けの濃いカラヤンの演奏が、どこまでシベリウスらしい表現なのかはわからない。だが、シベリウス自らがカラヤンのことを「自身の最高で唯一の解釈者」だと言ったことは、思い起こすべきだろうと思う。

2023年5月1日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第749回定期演奏会(2023年4月29日サントリーホール、ピエタリ・インキネン指揮)

シベリウス初期の大作「クレルヴォ交響曲」を日フィルが定期で取り上げることがわかった。ちょうどゴールデンウィークで、スケジュールは空いている。ここのところシベリウスの作品を聞いてきているので、ちょうどいい機会である。しかも、常任指揮者であるフィンランド人ピエタリ・インキネンは、2008年以前続けてきたそのポストを、この定期演奏会を最後に勇退するとアナウンスされている。十数年に亘る密接で良好な(と言っていいだろう)関係の集大成として、自国の作曲家シベリウスの大規模な作品を取り上げるということだろう。

この演奏会のために招聘した2人のソリストは、ともにこの曲を長年歌ってきたフィンランド人、ヨハンナ・ルネサン(ソプラノ)とヴィッレ・ルネサン(バリトン)。すべてフィンランド語で歌われる男声合唱には、東京音楽大学とともにヘルシンキ大学の男声合唱団が加わる。満を持しての演奏会は2日間に及び、長年シベリウスの名演奏繰り広げてきたこともあって、前評判も上々のようである。私は2日前にチケットを買い求め、連休初日の暖かい陽気の中、今週2度目のサントリーホールに向かった。

70分余り休憩なしで演奏される「クレルヴォ交響曲」は、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」から「クレルヴォ神話」を題材にしている。このストーリーはとても残酷で悲しいが、ここでは触れない。5つの楽章からなる音楽の第3曲と第5曲に男声コーラスが入る。前半、特に第1曲などは、まるでNHKの大河ドラマの主題曲のような曲で聞きやすい。ここで早くもシベリウスの作風が充満している。

今、昨日の名演奏のコンサートを思い出しながら京都へと向かう新幹線の中でこの文章を書いている。耳元ではコリン・デイヴィスによる演奏が流れている。私は、インキネンという指揮者を過去にたった一度しか聴いていない。だが、それは極めて印象に残る演奏会だった。私はそこで、ワーグナーのいくつかの管弦楽曲と「ニーベルングの指環」をマゼールが編曲した「言葉のない指環」を聞いたのだが、このオーケストラがあの滔々と流れるワーグナーの、一面は明るく一面は渋い見事なアンサンブルを引き出していたことに驚嘆したものである。今回のプログラム冊子によれば、そのインキネンは今やワーグナー指揮者としての地位を確立し、なんと今年(2023年)のバイロイト音楽祭で「指環」全曲を指揮するそうである。

私はそんなことなど知らず、数多くいるフィンランド人指揮者の一人、くらいにしか考えてなかったが、なるほどと合点がいった。そして今日のコンサートでも私は、このオーケストラがかくも自信に満ちた表情で、完成度がすこぶる高く、とても豊穣で緻密なアンサンブルを奏でることに驚きを禁じ得なかった。それまでに聞いた日フィルの中でトップクラスの巧さは、惚れ惚れするほどだった。これは指揮者の技量によるのだろう。もちろんそれに加えて、長年の信頼関係が決定的に貢献してることは言うまでもない。前半の2曲で充分にシベリウスの管弦楽曲に馴染んだ所で、いきなり低い男声合唱が聞こえてきた時には、会場全体が一気に引き締まった。私は今回、2階席の奥の端というところながら、ゾクゾクと体が凍りついたのである。

2人の独唱(クレルヴォとその妹)はストーリーテラーに徹する。全部で100名ほどの男声のみの合唱が、オーケストラの音に加わる様は興奮ものである。ここで全ての音が実にバランスよく聞こえてくる。息を切ってストーリーは進み、心拍数が上がる。緊迫感が続くのが第3曲である。できればもう一度聞いてみたい。この第3曲は全体のクライマックスで、25分弱と全体の40%を占める。

続く第4曲は再び管弦楽のみの曲で、なんとなく間奏曲風。前半が長く後半は舞曲風。そして終楽章は再び男声合唱が入る。大河ドラマの音楽も、終結部では大団円を迎える曲調が続く。長大なコーダが終わって、指揮者がまだタクトを振り上げているさなかに、フライングの拍手が起こったことは大いに残念だった。だが、この拍手はすぐに大歓声へと変わった。ブラボーはの声がこれほど、大きくかけられたことはない。久しぶりの熱狂的な拍手と歓声は、この演奏の満足度を示していた。

インキネン氏にとって定期演奏会としての最後の公演となったことを記念して、日フィルから花束が贈られとき、それはいっそう大きいものになった。合唱団と大編成のオーケストラをが立ち去っても続く拍手に応え、指揮者が再び登場。指揮台に上がって歓声に応える指揮者に対し、さらに熱い拍手がもたらされた。ただ、このコンビの演奏会は今後も続くようである。私は再びワーグナーを聞いてみたいと思いながら会場を後にした。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...