2014年7月15日火曜日

ベッリーニ:歌劇「清教徒」(パリ・オペラ座・ビューイング2013-2014)

音楽史の本を紐解けば、ベッリーニの最後の歌劇「清教徒」についておおよそ次のような記述に出会う。ベルカントの時代もこの頃になると、ドラマ性を帯び始める。アンサンブル・オペラとして歌また歌の競演が繰り広げられるベルカントの中のベルカントとも言うべき作品である。第2幕にはドニゼッティの「ルチア」にも影響を与えた「狂乱の場」があり、最終幕でのテノールの最高音は何と三点へ音にも達する、云々・・・。だが私は「清教徒」をこれまで・・・極めつけとも言うべきサザランドとパヴァロッティのCDを持っていながら・・・実はほとんど聞いたことがなかった。

昨年は「ホフマン物語」や「ファルスタッフ」など、なかなか見応えのある作品で見る者を魅了したパリ国立歌劇場のライブ・ビューイング(とは言っても「ライブ」ではなく実況録画されたビデオ上演)の今シーズンのプログラムとして「清教徒」が掲載されてたことを知った私は、川崎のTOHOシネマズに赴いてこれを見ることにした。舞台は17世紀のイングランド、王党派と清教徒の戦いが繰り広げられる中で結婚を誓い合う男女は、それぞれ別の派閥の出身で、いやが上にもこの政争に巻き込まれる。「一見ロメオとジュリエットのような話だが、父親はその結婚を許すのです。ただそれだけ!」と解説のおじさんが冒頭で述べると、ピットにミケーレ・マリオッティが登場し、美しいメロディーが流れだした・・・。

舞台にこしらえられていたのは、骨組みだけでできた建造物で、その様子は「丸で鳥かごのようだ」。その中の一室にベッドが置かれており、女性が寝ているところからこのオペラは始まった。彼女はソプラノのマリア・アグレスタで、エルヴィーラ役としてほとんどずっと出ずっぱりの3時間となる。清教徒のエルヴィーラは、王党派の騎士アルトゥーロ(テノールのドミトル・コルチャク)と恋仲で、伯父のジョルジョ(バスのミケーレ・ペルトゥージ)の計らいでめでたく結婚できることになった。

回転する鉄の骨組みの下で多くの合唱団が歌い、そこに歌が絡む。独唱というのはほとんどなく、すべてが二重唱、三重唱の類である。ひたすら歌は明るくで伸びやかである。演出はロラン・ペリという人で、幕間のインタビューに登場したようだが、私は休憩時間にポップコーンを買いに行ったので見逃してしまった。

長い第1幕では、あまりに歌が楽天的に続くので少々食傷気味にもなったが、面白いことに私を驚かせたのは、第2幕後半で歌われたバスとバリトンの二重唱「ラッパを鳴らせ」の、トランペットも登場してのゾクゾクするようなシーンであった。ここの感銘はちょっとしたものだったが、その理由はこの映像を見ていく内に次第に明確となった。歌手の出来栄えに、集中力と感銘の度合いが比例していたからである(と思う)。すなわち、この上演の最高の出来栄えは、バスのペルトゥージだったと思う。彼の登場する場面はいずれも、一層引き締まって聞こえたし、そのことは客席も気がついていたようだ。

主役のアグレスタもペルトゥージと同じくらいの素晴らしさで、「リボンが首筋を撫でるような」美声は適度に力強くもあり、第1幕第2場の最後のアリアではふらつくことなく最高音を広い会場に高々と震わせていた。この二人が今回の成功の要因であったことに比べると、アルトゥーロの恋仇リッカルドを歌ったバリトンのマウリシュ・クヴィエチェンは、やや声の質がベル・カント向きではない。一方、アルトゥーロを歌ったコルチャクは、最高にスリリングな歌を披露することができるというただそれだけで十分に見応えがあったとは思うが、欲を言えばどうも一本調子というか、メリハリに乏しいというか、なんとなく物足りないと感じたのも事実である(贅沢な話である)。このことに拍車をかけたのは、もしかすると指揮者のマリオッティの、いささか平凡な指揮だったかも知れない。もし指揮がもう少し陰影に富んでいれば、歌はもっと引き立ったかも知れない・・・。

総じて上演水準が高いとは言うものの、緊張感を維持することが難しいのはベルカント・オペラの宿命だと思われた。考えてみれば「清教徒」は、最低でも4人の強力な歌手が揃わないと名演にはなりえない。上述のリチャード・ボニングの指揮するCDは、サザランド、パヴァロッティ、カップチッリ、ギャウロフという夢の様なキャストが、それぞれ最高地点の出来栄えを残しているが、これを上回るというのもちょっと想像しにくい。だから今回の上演は、現在望みうる最高のレベルにチャレンジした記録として好意的に評価すべきなのだろうと思う。

アルトゥーロは結婚式の直前に、処刑されたチャールズ一世の王妃ヘンリケッタの逃亡を助け、そのことがもとで捉えられる。恋に敗れたと思ったエルヴィーラは発狂し、鉄骨の「鳥かご」の中を行ったり来たり。有名な「狂乱の場」は、おそらくこのオペラの見どころである。だが、それ以外の第1幕、最終幕にも綺麗な歌は山ほどあるので、BGMのようにずっと鳴らしながら日がな一日を過ごすのも悪くはない。ロッシーニのようなコロラトゥーラや早口言葉の連続でもなければ、ヴェルディが目指した心理描写にも欠くという作品も、それはそれでないと寂しくなる。ヴェルディの初期作品が好きな私には、それなりに楽しめる作品だと思った。

2014年7月13日日曜日

映画「パガニーニ」(2013年、ドイツ)

好きなクラシック音楽についてこのブログに書いている以上、昨日見た映画「パガニーニ、愛と狂気のヴァイオリニスト」についても少し感想を書いておかねばらない。私は映画評論家でもなければ音楽評論家でもないから、ここに書く内容は一愛好家、つまりは素人のそれである。もしまだこれから見ようと思っている方におかれては、以下の文章を読むかどうかの判断はお任せする。一部ネタがバレてしまうことは確かだが、私の文章力では、だからといって実際にこれから見る人にとって妨げになることもないとも思う。

この映画のテーマは、神によって楽器の才能のみを与えられた男の悲劇である。そのことは終わりの方のシーンで、パガニーニ自らが病床に伏しながら言うセリフに象徴されている。彼はかつてロンドン公演の際に知り合った指揮者ワトソンの娘シャーロットに対し、その恋が遂げられないことをいまだに嘆いている。ヨーロッパ中を席巻した超技巧派も、本物の恋に苦しむ。年老いた彼は自筆譜を送り、自分の音楽を残そうとする。ここにあるのは等身大の、ひとりの哀れな音楽家の姿である。

パガニーニが自分の作品をコピーされることを恐れ、自筆譜を燃やしてしまったというのは有名な逸話である。だが彼は自分の音楽家としての人生を、その終盤になって振り返り、水銀中毒によって蝕まれた体を横たわらせながら手紙を書くのだ。

この映画のタイトルは「The Devil's Violinist」という。悪魔はパガニーニにヴァイオリニストとしての類まれな才能だけを与え、それ以外は与えなかった。悪魔は彼の体を蝕み、破壊する。ギャンブルや酒、それに愛欲に溺れ、あるときは自分の楽器をさえ賭けの担保とした(これも実話である)。そこに現れる一人の男、ウルバーニとの出会いと関係がこの話の中心である。ウルバーニはあるとき突然パガニーニの前に姿を表し、無条件でマネージャになることを契約する。彼こそがパガニーニの才能を見抜くことができるという、悪魔の使いだったというわけである。

ロンドン公演においてウルバーニは、その公演を成功すべくこの狂気のヴァイオリニストを公私にわたってマネージする。新聞記者を利用して記事を書かせ、一方で女性運動家をも誘惑する。音楽産業の隆盛を誇るロンドンは、当時のヨーロッパの「成功すべき都会」であった。彼はコヴェントガーデンでリサイタルを開き、その価格を釣り上げる。席は最初売れ残るが、そこに姿を現したのは英国王であった!彼はその場で即興を披露する。それが「英国国歌による変奏曲」で、この曲もパガニーニの作品であることを初めて知った。

少しできすぎた話であろうし、ここで滞在中に親しくなった指揮者の娘シャーロットが歌う英国的な歌詞のついた歌は、確かにパガニーニのメロディーを使用しているとは言え、この映画のために作られたのではないかと想像する。ついでに言えば、エンディングで流れるシューベルトの「魔王」のパガニーニ風の変奏曲も、彼の作品ではない(ただシューベルトが大金を支払ってまでパガニーニの演奏会に出かけ、その音楽を絶賛したのは有名である)。

全体にパガニーニの作品が流れているのは当たり前と言えばそうだが、やはりあの底抜けに明るく、しかも時にメランコリックな音楽にはいつもうっとりさせられる。リストもラフマニノフも、あのヴァイオリン協奏曲第2番「カンパネッラ」を編曲しているが、ここのメロディーが随所に登場するのは当然であり、極めて印象的である。だが、もっとも心に残ったのは、パガニーニが滞在するアパートを抜けだして酒場へ向かい、そこでギターを交えた即興演奏を披露するシーンである。

パガニーニは素敵なギター曲やギターとヴァイオリンとの二重奏を残しているが、ギターといえばその源はリートであり、リートの本場イギリスの民謡は、南国のパガニーニにうまく融け合って哀愁を帯びる。だから監督バーナード・ローズ(彼は脚本も書いている)は、こういうシーンを入れたかったのだと思った(ついでに彼はベートーヴェンを描いた映画「不滅の恋人」の監督だそうだが、私はプラハへ向かう郵便馬車に合わせて交響曲第8番の第3楽章が使われていたのを大変良く覚えている)。

この映画の最大の見どころは、俳優がヴァイオリニストを演じているのではなく、ヴァイオリニストが俳優を「演じている」という点だろう。ドイツ人のヴァイオリニスト、デヴィット・ギャレットである。彼は超技巧的な作品をもちろん自ら演奏している。パガニーニらしい風貌に化けているのも興味深いが、彼はあるとき理解ある一人の父親として息子の前に現れる。だが弟子を含めこの放蕩音楽家を継ぐものはいなかった。

なぜ彼がこのような天才的ヴァイオリニストになることができたのだろうか。それは映画の最初のシーンで語られるわずか数分の映像に見て取れる。彼は幼少時代に父親から厳しく指導されながら育ったのである。だからウィーンで再会した息子が家庭教師に叩かれたと知って、この家庭教師を即刻追い出す。このようなシーンは、おそらく現代の観客を意識したものだろうと思う。

200年以上も前のヴァイオリニストの、謎につつまれた生活を描いた作品だというのに、会場はほぼ満席という、最近の記憶にはほとんどないような状況であった。

2014年7月2日水曜日

ハイドン:交響曲第89番ヘ長調(ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク)

流れるように美しい旋律も、良く聞くとハイドンならではの驚きと変化が随所に散りばめられ、それはそれで聞いていて楽しい作品である。特に全楽章を通して、そこここに現れるフルートを中心とした管楽器は、丸で木のこずえを行き来する小鳥のように愛らしい。

この曲でハイドンはまた違った曲調を試しているようにも思える。第1楽章のやさしいメロディーに続き、アンダンテの第2楽章は、相対的にさほど遅くはなく、朝の散歩のように明るく陽気である。一方第3楽章は民謡風で、やはりフルートが活躍する。全体的に牧歌的でのどかな曲に思える。

ベルリン・フィルを指揮したサイモン・ラトルの演奏も完成度は高いが、このやや目立たない曲にあってはいささか大人しく、真面目である。一方ブルーノ・ヴァイルの指揮するターフェルムジークは、古楽器の音色を活かし、快速のテンポでこの曲を都会的に仕上げながら、陰影を強調している。

第4楽章でリズムが一瞬「溜め」を打って流れていくところが何度かある。木管が絡み、短調になったり長調になったり、速いテンポを追いかけていると小気味よい気持ちがしてくる。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...