2017年12月31日日曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466(P:アルフレート・ブレンデル、チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団)

少し迷ったが、ここにもう一間、K466のCDについて書くことにしようと思う。オーストリアのピアニスト、アルフレート・ブレンデルによる新しい演奏である。伴奏はチャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団。2005年の発売だから録音は2004年頃だろうか。1931年生まれのブレンデルは2008年に引退しているので、その数年前の演奏ということになる。

先に取り上げたグルダも1930年頃の生まれで、いわば同年代のピアニストだが、生粋のオーストリア人であるグルダとは違い、ブレンデルはチェコの出身である。チェコとウィーンはほど近いので、いわば郊外のような感覚だが、そこで思い出されるのはシューベルトのことである。シューベルトもウィーンで育った作曲家ではあるが郊外の出身で、そのせいかシューベルトを弾くブレンデルは相性がいいように思う、というのは考えすぎだろうか。いやモーツァルトがシューベルトに聞こえると言うか。

沢山の音楽家を飲み込む大都会ウィーンに単身出てきたのは、モーツァルトも同じであった。しかも彼はザルツブルクの大司教と決裂し、父親の反対を押し切ってのことである。音楽家は貴族の庇護の下にあるというのが当たり前の時代、不安と焦燥にかられながら、実力だけを信じて作曲に、演奏にまい進する若き日々。モーツァルトのピアノ協奏曲のうち、最高峰の作品群はこのような時期に書かれている。

自ら作曲し、自ら演奏して新作を披露する予約演奏会に、野心的なモーツァルトは短調の曲を初めて書いた。それがニ短調のピアノ協奏曲K466で、華やかさとはかけ離れた、苦悩に満ちたような表情で始まる。それが常識破りであることに加え、おもむろにさりげなく入って来る独奏もまた特徴的である。これでもか、これでもかと不安定な主題を繰り返しながら、音楽は深い森の中に入ってゆく。この中に入ると、それはまた抜け出せないような孤独の世界。時に長いカデンツァが置かれるが、モーツァルトは自身のものを残していない。

ベートーヴェンやブラームスがこの曲に感銘を受け、有名なカデンツァを残していることは前に述べた。グルダの演奏も当然のようにベートーヴェンのカデンツァを用いている。だがブレンデルは自作のカデンツァを演奏しているのだ。これは最初の録音である70年代の時から変わらない。この時の伴奏はマリナーである。

マリナーと組んだブレンデルのモーツァルト全集は大変に優れたもので、おそらく80年代に入り、ペライアや内田光子のものが登場する以前としては、最高のものだったと思う。我が家にも第20番と第24番の、すなわち二つの短調の曲をカップリングしたLPレコードがあった。当時はあまり印象に残らなかったのだが、今から思うととても模範的で、しっかりした演奏だったと思う。

それから四半世紀が立ち、多くのピアニストがそうしたように、ブレンデルもまたモーツァルトの協奏曲を再録した。一部の曲のみであったが、その中にK466も入っていた。私はまだ銀座にHMVがあった頃、この2枚組CDを見つけ迷わずカートに入れた。ハイドンのピアノ・ソナタを1枚目に収め、2枚目はモーツァルトの曲が収録されていた(K466の他にピアノ・ソナタK332とコンサート・ロンドK382など)。

ブレンデルは25年前と変わらない、完成された格調高さで音楽を始める。だが演奏には流行りというのがあるもので、生真面目でひたすら模範的な80年前後の演奏とは異なり、少し肩の力が抜け、吹っ切れたように感じる。オーケストラが古楽器風の奏法の影響を受け、フレッシュに響くのもその理由かも知れない。そして何より素晴らしいのは第2楽章である。ブレンデルは聞きなれたメロディーに、心地よい装飾を施してゆく。さらっとやや早めのテンポ感は、春の野を行くが如きで、この曲が短調で書かれた暗い曲というイメージとは対照的である。その自由な遊び心が心地良く、この曲のまた一つの表現であるのかと思う。

なお、カップリングされたコンサート・ロンドニ長調K382は、完璧な演奏である。茶目っ気のある子供の遊びのような曲だが、きっちりと、機転を利かせながら変奏されてゆく様子は、巨匠のピアニストが奏でる卓越した妙味である。録音も素晴らしい。

2017年12月30日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466(P:フリードリヒ・グルダ、クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

かつてまだCDやYouTubeもなかった頃、聞きたいと思った曲や演奏に出会うのは、大変な労力を要することだった。私の中学生時代は、まだお小遣いも少なく、図書館にも録音メディアなど置かれていなかったのだが、どの曲がどういう曲で、どの演奏がいい演奏か、などを評した書籍や雑誌は山ほどあって、モーツァルトの27曲あるピアノ協奏曲のうち、特に第20番以降は珠玉の名曲がズラリと並び、孤高の名演奏が目白押しであることは知っていた。

その当時、珍しい短調の曲として知られる第20番ニ短調(K466)、映画音楽にも使われた第21番ハ長調(K467)、「戴冠式」というサブタイトルの付いた親しみやすい第26番ニ長調(K537)、それにこの世のものとは思えないほど美しい第27番変ロ長調(K595)の4曲は、私もSONYの「音のカタログ」などと称した、さわり部分だけを集めたカセット・テープなどを何度も聞きこんでは、一度でいいから全曲を聞いてみたいと思っていた。

FM放送の番組と放送される曲、それにその時間を記した雑誌を買って、ラジカセをスタンバイ。放送が始まるのを待って、わずかな小遣いで買ったテープの、その余白部分を省いた状態で録音ボタンを押すという、今から考えれば涙ぐましい作業も昔話となり、「エア・チェック」という専門用語は死語となってしまった。レコード屋に行けば、数千円でLPレコードを買うことはできたのだが、それが果たして「最も優れた」演奏であるかは評論家の意見に頼るしかなく、それが裏切られることもしばしばであることを想像できた。だから、廉価版と呼ばれる再発物でなければ、なかなか手を出すことはできない。これらは少し古い、あるいは「ニ番手」の演奏が中心なので、どうしても「もっといい演奏があるのではないか」との疑念が晴れることはない。気に入らない演奏に出会うと、再生装置が悪いのかも知れない、などと余計なことを考え、それは限度がない。

そういうわけだから、フリードリヒ・グルダがピアノを弾き、クラウディオ・アバドがウィーン・フィルを指揮したレコードが発売され、評価が高いと知ったときは、一度でいいからこの演奏を聞いてみたいと思ったものだ。もっとも私は当時、K466を知らず、カップリングされているK467の方を聞きたいと思った。この曲の第2楽章はクラシック好きでなくても知っている有名な曲で、そういう部分だけを集めたLPがうちにあったのだが、全曲を通して聞いたことがなかったのだ。

そんな折、私が高校入学のお祝いに、親戚の叔母さんが好きなものを買ってくれることになった。予算は5000円というから、私はカルロス・クライバーのベートーヴェン(第5番)とグルダのモーツァルトを所望した。前者が2400円、後者が2600円だった。近くのレコード屋にはこれらの在庫がなく、仕方がないから大阪・梅田のクラシック専門店(大月楽器)に出かけて買ってくれたのを思い出す。

さて、私はこのLPの演奏を聞くことによって、K466の方の魅力に触れることとなった。それはまず、第2楽章の例えようもない美しさを私を襲うことから始まった。ここで際立つのはグルダのタッチの明晰さである。強さ、響きの正確さ、前後の音との間隔がすべて完璧なのである。それがアバドの、丁度良い程に引き締まり、真面目で無駄なところのない伴奏に絡み合う様は、今聞いてもほれぼれする。そしてこの部分で感じることのできるモーツァルトの孤高の淋しさは、モーツァルトに対する別の側面を浮かび上がられる。

そしてとりわけ私を驚かせたのは、両端の楽章で弾かれるカデンツァが、あのベートーヴェンによるものであると解説にあったことだ。第1楽章の終盤で、まるでモーツァルトの音楽に挑むようなベートーヴェンの曲は、その数年後にピアノの名手としてウィーンに知れ渡るこの世紀の作曲家の面目躍如たる名曲である。モーツァルトの音楽を壊すことなく、尊厳にあふれてしかも自然に、そして雄弁に、その先の音楽を提示している。いわばモーツァルトの中にベートーヴェンが居るのである。

静かに入るピアノの、恐ろしい程の旋律は、第3楽章の冒頭で激情的な冒頭で回帰される。ウィーン・フィルの少人数編成の伴奏が、アバドの現代的で理性的な指揮によって迸る。オーボエのうら悲しいモノローグや、コーダで荘重に吹かれるトランペットによって、音楽的空間は宇宙のような広がりを持つ。グルダのピアノは真剣で敬虔に満ちているが、それはモーツァルト音楽の持つ魅力をできるだけ素直に表現しようとした結果であるように思う。

グルダのモーツァルトは、同時期に録音されたK537とK595のカップリングも出ていたが、こちらの演奏を聞くことが出来たのはさらに4年後、韓国で買ったカセット・テープによってのことだった。気が向いた時に、好きな曲だけを演奏するようなグルダのスタイルは、聞き手にもどかしい思いをさせたが、そのグルダがK537を再録音するのはアーノンクールとの出会いによってであったのも天才的なひらめきだったのだろう。この演奏も大変に素敵で、「戴冠式」という通俗的な曲を面白く聞かせている。大いに気に入って、また次の演奏をと待ち望んでいたが、2000年に70歳で急死してしまった。心臓病で倒れたまさにその日は、敬愛するモーツァルトの生誕の日(1月27日)のことであった。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...