2018年4月28日土曜日

レ・ヴァン・フランセ演奏会「協奏交響曲の夕べ」(2018年4月24日、オペラシティ・コンサートホール))

思い立って、レ・ヴァン・フランセ(フランスの風)という名のグループのコンサートに出かけた。というのもグループのメンバーを見て驚いたからだ。フランスを中心とする世界的な管楽器奏者から成るその人たちには、クラリネットのポール・メイエ、フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのフランソワ・ルルー、ホルンのラドヴァン・ヴラトコヴィッチ、それにバソンのジルベール・オダンがいる。特にヴラトコヴィッチは、モーツァルトのホルン協奏曲のCDを持っていて私の愛聴盤である。

レコードで耳にしたことのあるような奏者たちの生演奏を、一度に聞くことが出来る。そしてプログラムがまた大変魅力的である。18世紀に活躍した古典派の作曲家が残した協奏交響曲ばかり4曲も演奏される。いずれも演奏されるだけで珍しい作品ばかりだが、あのモーツァルトのK297bも含まれており、この作品が実際に聞けるなんてワクワクする。管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。最低の人数に絞った小編成で、指揮者はいない。雇われたオーケストラといった感じ。

会場に集まった今宵のリスナーは、とても若い人が多く、女性が目に付く。いつも老人ばかりが主体の私のコンサート活動にあって、これは異例である。よく見ると制服姿の高校生や、背中にフルートだのクラリネットだのを背負った姿を見かける。これはすなわち、本日登場する管楽器の、若きプレイヤーということになる。世界最高の演奏が聞けるとあって、集まって来るのは当然のことである。

協奏交響曲というのは複数の楽器が登場する協奏曲風の交響曲で、シンフォニア・コンチェルタンテと言うが、この分野の作品は古典派時代に数多く作曲されるものの、ベートーヴェン以降になるとさっぱり流行らなくなった形式である。おそらく音楽の規模が大きくなるにつれて、地味な存在に追いやられていったのだと思われるが、資本主義的な興行にとって、多数の独奏者に出演料を支払うことが困難になっていった側面もあるのではないかと思う。

さてコンサートの最初はプレイエルの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第5番ヘ長調B115」という作品である。プレイエルはハイドンの弟子だが、私はいくつかの交響曲を聞いたことがあるだけの作曲家である。プログラム解説書によれば、全部で6曲もの協奏交響曲がのこされているそうだが、今回演奏された第5番は、1800年前後の作品のようだ。

オーケストラの人数が少なく、ややなぞっているだけのような感覚で、そのことが本来は溌剌としているであろう古典派の形式美を伝えそこなってしまったのではないか、などと心配したが、舞台に向かって右からフルート、バスーン、ホルン、オーボエの順に並んだ独奏のやりとりに見とれているうちに曲が終わってしまった。ホールの残響が私の好みに合わないせいか、どうも中途半端の音がする。

2番目はダンツィの「フルートとクラリネットのための協奏交響曲変ロ長調作品41」。マンハイム学派の作曲家の作品である。クラリネットのメイエは、やはり素晴らしく、陰影に富んだ音色を使い分け、聞きごたえのある演奏に仕上げて行く。もちろんパユのフルートが悪いわけがない。彼はトゥールーズのオーケストラと競演した時にもそうだったように、一人だけiPadを譜面台に置いている。足でページを繰る操作を行うようだが、私などは途中でシステムがフリーズすたらどうなるのだろうか、あるいはページを一度にめくり過ぎたりして、演奏すべき箇所がわからなくなったらどうするのだろうか、などと余計な心配をしてしまう。だがそんなことはお構いなしに、自然体でありながら実に伸びやかで、完璧。

さて、オペラシティのコンサートホールは、ウィーン学友協会に似せているのか、長方形をしている。しかも1階席にほとんど傾斜がない。このことが今回も私に非常なストレスを与えることとなった。プレイエルでは前の席が空いており、舞台が良く見えたのだが、第2曲の前に遅れて来た大柄な学生が座ると、途端に視界が遮られたのだ。クラリネットを吹いているらしいこの学生は、しかも椅子に前かがみで腰掛けるから、私は終始、体を右か左に寄せなければ舞台がおとんど見えない。しかも右隣の女性は、大きな袋を両ひざの上に置いて不安定な格好をしつつ、曲の合間にチラシを繰るのである。

最悪のコンディションは後半も続いた。第3曲のドヴィエンヌの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第2番ヘ長調」は、ほとんど印象に残っていない。唯一フランス人の作品だが、ホルンのヴラトコヴィッチなど、どうしてこんなに柔らかいきれいな音がするのだろうと、聞き惚れていた、とでも書いておこう。

当日券を買う時に空席だった右隣に座っていた女性は、休憩時間になっても膝上の大袋を床に置こうともせず、そのまま不安定な姿勢である。一方前の学生は、その右隣が3つも空いているというのに、前かがみの姿勢のまま動こうとしない。ところが、最後のモーツァルトの演奏の前になって、突如右隣の女性が席を立ったのだ!

当日券を買った女性が、今日もっとも有名で目玉の作品を聞かないまま退出したことで、私は堂々とその席に移動した。このことによって視界が一気に開けた。再び登場した4人の独奏によって奏でられた モーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンのための協奏交響曲変ホ長調K297b」は、すこぶる楽しめた名演となった。ほれぼれするようなメロディーが続くこと20分。私はやはりモーツァルトが一頭群を抜く作品を残していることに納得するとともに、比較的早いテンポで演奏されるザルツブルクの天才による作品に体を揺らした。

この作品を聞きながら、協奏交響曲の面白さを初めて体験したと言ってもいい。その理由のひとつは、独奏楽器と同じ楽器が、オーケストラの中にもあって、彼らのメロディーの受け持つ部分の違いを見ることが面白いということである。協奏曲というのが、これらの楽器間でのやり取りをも含むものなのだ。最初は流すようだったオーケストラも、さすがにモーツァルトともなれば練習を繰り返したのだろうと思う。このモーツァルトの演奏は、おそらく一生もう耳にすることがないであろうこの作品の、最初にして最後の超名演だった。なおNHKが本公演を収録していたので、後日放送されるものと思われる。

アンコールに現れた5人は、最後にイベールの「木管五重奏のための3つの小品」の一部を演奏した。急に現代の音楽となった会場の拍手は、この作品で最高潮となった。もしかすると古典派の作品は、彼らの技巧を持て余すことになっていたのではないかとさえ思わせた。丁々発止のやりとりはあっという間に過ぎ去った。だがそれにしてもこのコンサート・ホールの設計には納得がいかない。2階席などは舞台が遠くて見えにくいし、2階サイドの席はパーシャル・ビューである上に、常に横を向く必要があり首が疲れるのだ。現代の東京において、なぜこのような形のホールを作る必要があったのか、私には全くわからない。

2018年4月24日火曜日

NHK交響楽団第1884回定期公演(2018年4月20日、NHKホール)

久しぶりにベートーヴェンを聴いた。それも最近ではむしろ珍しくなった感のあるモダン楽器風の演奏である。CDを含め、もう年に数回も聞かくなったベートーヴェンの作品を2つ並べる演奏会に、NHKホールの客席は3階の奥までビッシリと満員である。それほどこの日のコンサートは特別であった。

特別であることの理由は、まずピレシュが引退を表明し、このたびのツアーは日本の聴衆にとって最後になるということである。思えば1944年生まれのピレシュは今年74歳である。私の両親ほどの年齢であるにもかかわらず数多くのレパートリーをこなし、世界各地で演奏を繰り広げる現役の世界的ピアニストであり続けることが、どれほど大変かは想像を絶する。

今一つ本公演が特別な理由は、指揮者のブロムシュテッについてである。彼もまた91歳と「超」高齢なのである。私の知る限りでは、70年代頃から非常にきびきびとした演奏をする指揮者で、東ドイツのドレスデンのオーケストラを指揮していたころに録音されたグリーグの「ペールギュント」は、高校生のころの私の青春の音楽であった。それはそれは毎日、カセットテープが擦り切れるほど聞いた記憶がある。敬虔なクリスチャンとして厳格な演奏をすることで知られ、練習もめっぽう厳しいとの評判だが、私もN響で聞いたシベリウスなどは忘れられないし、ブルックナーの第4番も脳裏に焼き付いている。

「一期一会」というに相応しい今回の定期公演に、チケットは早々に売り切れた。同じ組み合わせで昨年末のベルリン・フィル定期が催されたということは、後で知ったが、馬鹿でかいNHKホールが連日満員、チケット完売となったのは、私の記憶でも朝比奈隆以来ではなかろうか?それほど期待の大きいコンサートに、私は弟と妻を誘い、辛うじて手に入れたのは3階のC席であった。高い方からチケットが売れていくN響定期において、これは残念ではある。だが実演に触れることができるだけで幸運である。

ピアノ協奏曲第4番は、静かに始まる。いきなりピアノのソロがあって、同じメロディーをオーケストラが繰り返す。おもむろにメロディーが始まるのは第2楽章、第3楽章でも同様で、これはベートーヴェンの実験的な側面が強調されている。ピレシュの冒頭は、美しい響きが少しの疲れの中にも確実に響き、その独自の世界は、まわりからちょっと浮くようでもあるが、優しく、そして精神的な幸福感に持ちている。それが彼女の音楽の魅力そのものであると思う。この個性は、独奏部分で真価を発揮する。すなわち、私は今回の演奏の最高の部分は、第2楽章であったと信じている。

ベートーヴェンがなぜこの曲にだけ短い緩徐楽章を書いたかわからない。だが凝縮された中に、もうこれ以上に無駄はないと思われるほどの集中と深遠さを持ってこの音楽は流れる。その例えようもない静謐さのなかにあって、ピレシュの音楽がどれほど精練され美しかったかをここに記すことはほぼ不可能である。私はただ涙があふれんばかりだったということ以外に。

編成をおそらく演奏当時の規模、すなわち少数の弦楽器と2管編成に限定したオーケストラは、広い舞台にはさらに小さく見えた。その編成は、続く交響曲第4番でも同様で、作品番号の近いこの2曲は同じ日に初演されているという。

傑作の森の頃のベートーヴェンが、もっとも意欲的に作曲を繰り広げていた作品群の中にあって、この2曲は若干地味な存在と言える。つまり「北欧の乙女」である。ブロムシュテットはもう高齢なので、弛緩した演奏になるのではないか、だとしてもそれはそれで充実した枯淡の境地に接することになるのではないか、という期待は見事に裏切られた。舞台にさっそうと現れた指揮者は、いつもの少し早めのテンポでオーケストラを引っ張っていく。序奏も比較的早く、それは最後までそうであったが、特筆すべきは管楽器と弦楽器がこれほどうまく溶け合った演奏もないではないかというほど精密に計算された掛け合いが全楽章を通して展開されたことだ。

フルートがオーボエに、クラリネットが弦楽器に、線上に現れては繋がり、音が重なることもなければ途切れることもなく、順番にスーッとひきつがれてゆく。まるで一つの楽器のように正確に。これほど管楽器が活躍する曲にあって、室内楽のように精密さが要求される様は、前半のピアノ協奏曲第4番と同様、聴衆を釘付けにした。

アグレッシブでエキセントリックな演奏が主流となった昨今のベートーヴェンだが、90年代の頃のモダンな演奏に久しぶりに接したというのが正直な感想だ。大拍手の中を何度も舞台に登り、特に木管楽器のメンバーと握手を交わす。オーケストラも満足の一夜だったのではないだろうか?もうこのコンビで演奏会を聴くことはできないのだろうか?いやそんなことはない。近秋の定期にブロムシュテッとは再登場し、遂にはブルックナーの第9番やマーラーの「巨人」などを指揮することになっている。もう今からわくわくする。

2018年4月22日日曜日

東京交響楽団第65回川崎定期演奏会(2018年4月15日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

今回の演奏会のお目当ては、後半のブルックナーではなく前半のマーラーであった。マーラーの交響曲第10番嬰へ長調は、未完に終わった。1911年に亡くなる前年の1910年に着手されている。第1楽章の「アダージョ」はほぼ完成形だったようだが、第2楽章以降はスケッチのみが残されている。この部分を補って、全曲として完成させたデリック・クック追補版などは最近演奏されることも多いようだが、今日、ジョナサン・ノット指揮による東京交響楽団による演奏は「アダージョ」のみ、そのラッツ校訂版ということになっている。

大作、交響曲第9番を完成させたマーラーは、ニューヨークに活動の本拠地を移していたが、まだ飛行機もない時代、新旧の両大陸を移動し、演奏会を年に何十回もこなす生活は、彼を過労死へと導いたのではないか、と私は思っている。マーラーはすこぶる精力的であり、その多忙ぶりはメンデルスゾーンを思わせる。本作品は、持病として不整脈を持つマーラーの、病んだ心臓のようにギクシャクしたものだという指摘があるが、私はむしろアルマの不貞にも苦しみながら超多忙な生活を続けるマーラーの、ストレスの多い精神状態を体現しているように思っている。それは現代人そのものの感覚であり、その方向が(至極簡単に言えば)十二音階や不協和音の多用される音楽へと発展?してゆくことになる。

さて私はこのプログラムの演奏会を、前日のサントリーホールで聞こうと考えていた。残り少なくなったチケットをオンラインで買おうとしたとき、表示されたのはS席がわずかに1枚。その1枚を大急ぎで押さえたものの、決済の方法を間違い、自動的にキャンセルされたとわかったのは前日のことだった。ところがサントリーホールのホームページには、何とS席とA席合わせて80枚もの当日券が売り出されると書いてある。私は少々混乱し、それなら翌日の川崎のコンサートも当日券が十分にあると考えた。実際、その通りであった。

当日券売り場に並んでいると、後ろに居た女性が知り合いの人と会話を始めた。彼女は前日の演奏会がいかに素晴らしかったかを話し、そしてもう一度聞きたくて今日もここに来たと言った。同様の意見は、他の客からも聞こえた。そういうことがあったので、私は迷わずS席を買うこととなった。2階最前列の席は、それでも空席が目立った。ところがこれは実に大名演だったのである。

マーラーの交響曲は、私にとって初めて実演に接する曲で、そしてこれでマーラーの作品は一通りすべて聞き終えることとなる記念すべき日である。ノットは丁寧に、そして時にはつんざくような響きを会場に響かせた。この作品、私が何か書くことはほとんどできないのだが、一つ言えることは、それまでの作品からさらに先へと進んだ感のあることだ。ノットの演奏は、そのことを考えさせた。だがそれが何であるかは、少なくとも私の経験からはうまく表現できない。

ブルックナーの交響曲第9番ニ短調もまた、この巨匠の未完の作品である。ただこちらは第3楽章まであり、それだけでも1時間を超える作品である。スケルツォが第2楽章に置かれれtることもあって、完成された一つの作品を聞くようなところがある。今日の演奏会は、ロマン派後期のシンフォニスト二人の未完の曲というわけである。

演奏は第2楽章以降が秀逸で、もしかするとこの作品を実演で聞くことのできる最高のレヴェルにあったのではないかと思う。それは解釈がどうのこうのということではなく、オーケストラの集中力と迫力が、恐ろしいほどに発揮された演奏だったからだ。我が国のオーケストラの演奏会となると、聴衆を含め少し醒めた演奏が多い中にあって、東京交響楽団は全体に若い奏者が多く、実力派揃いではないかと思う。たとえばオーボエの荒恵理子、 ファゴットの福井蔵などである。

この二人しか私は実名を知らないのだが、マーラーの「アダージョ」でも見せた精緻でふくよかな響きが、ブルックナーでは如何なく発揮されたと思う。最前列左右に分かれたヴァイオリンはもとより、ヴィオラや左手置くに陣取ったコントラバスまで、フォルテの時には揺れに揺れ、最後列のプレーヤーまでもが思いっきり弦を上下させる様は、ベルリン・フィルのビデオを見る時のように手に汗握る興奮である。

そのような迫力だけで押し切るような演奏に終始していては、ブルックナーにはならない。だが今日の演奏は第3楽章のアダージョにおいて、さらに演奏に磨きがかかったように思える。我が国のリスナーはマナーがいいといつも思うが、今日の川崎に集結した聴衆ほど私を驚かせたことはない。曲が終わっても、誰一人拍手しないのである。完全なる静寂の時間が長く続いた。手を下げないノットが、十分に長い沈黙のあとで腕を下すと、会場のあちこちから怒涛のようなブラボーが響き渡った。

拍手は十分以上は続いたと思う。そしてN響以外のオーケストラの定期で、オーケストラが引き上げても拍手が鳴りやまないシーンを、私は初めて見た。オーケストラを含め、会場全体が音楽に浸る時間を共有し、その美しさに感動した。サントリーホールでのその模様は、NHKによってビデオ収録されたらしい。だから放送される時が来たら、ぜひ見てみようと思う。このまたとない時間を思い出すために。

2018年4月9日月曜日

バリオス:ギター曲集(G:ジョン・ウィリアムズ)

例年より早く桜が散って、新緑がまぶしい季節となった。吹く風はまだ少し寒いが、青空に木々の緑が映えるこの季節を、私はことのほか愛している。そんなまぶしい陽気に相応しい曲として、私はバリオスのギター曲集を聞いていた。

それは箱根峠から三島へと下ってゆく急な坂道でのことであった。江戸時代のまま残る石畳の松並木を抜けると眺望が開け、右手には白銀の雪を頂く富士が、左手には陽光を受けて鏡のようにキラキラ光る駿河湾が見渡せた。日曜日だけれど、歩く人はほとんどいない。箱根ではあれほど多くの外国人観光客を見かけたし、小田原方面へと下る道には大勢のハイカーがいるけれど、逆の方向(これを昔は「西坂」と言った)へと下る人は少ないのだ。

左のポケットに入れたWalkmanから心地よいギターのトレモロが聞こえてくると、時間が止まったような感覚が私を覆う。朝食にパンを一枚だけ食べてきただけの、いわば空腹の状態で何時間も歩き続けていると、飢餓感が五感を研ぎ澄まし、自分に本来の感性が戻って来る。ジャンパーの襟を立て、箱根連山に吹き付ける太平洋からの南風を受ける。わずかばかりの雲が富士山に当たり、その頂上にだけ漂っている。5合目付近まで被る雪との境界がわからない。景色を楽しみつつも足元に注意しながら、急な坂道を少しずつ下りてゆくには、登るとき以上に体の様々な筋肉を動かす。そのリズムが心地よい。

バリオスは南米パラグアイの作曲家である。だからここで聞くギターの曲が、青々とした森の風景にマッチするとは言っても、日本の山の緑と、南米アマゾン近くのそれとはずいぶん異なるだろうと思う(このCDの副題は「パラグアイのジャングルから」となっている!)。けれどもそんなことは関係ない。音楽は作曲された意図とは違うところで、また聞き手の勝手なイメージと結びつく。

私がニューヨークで勤務していた頃、西海岸サンフランシスコへの出張を命じられたことがある。もう北米滞在も終わりかけていた頃のことだ。初めて私は仕事で、カリフォルニアへと飛んだ。日本人の社員とは何度も電話でやりとりをしていた。時に冷たく、厳しくもあったその同僚も、実際に出会ってみると同じ人間である。特にその女性は、美人だということで注目の的であり、私も出会いを楽しみにしていた。

だが会ってみると、彼女は淋しそうな表情をしていた。日本を離れてアメリカ人と結婚し、郊外でふたりで暮らしていた。一週間の滞在が終わり、明日ニューヨークへ戻るという最後の日、私は個人的に彼女の夫が運転する韓国製乗用車に乗って、夜のドライブに招待してくれた。その夫はあまり幸福そうな感じではなかったが、それは仕事が売れないからだと説明してくれた。音楽関係の仕事に携わり、その専門も現代音楽の評論だと言っていたような気がする。つまり私の英語力では、詳細はわからない。

私は自分も音楽が好きでよく聞いている、と適当に話した。こちらはプロではなく、単なる愛好家である。彼は、最近リリースされたジョン・ウィリアムスのギター曲など、なかなか素晴らしいものだ、とか何とかつぶやいた。まさにそのCDを私もニューヨークのタワーレコードで買っていた。SONYのやつですね、バリオスの。その時彼の表情が一変した。「そうだ、まさにそれだ。あれは本当にいい!」

実は私はまだそのCDを聞いていなかった。だが彼は、初めて自分に友人ができたかのように、嬉しそうに話してくれた。よく理解できなかったが、彼は行く予定のなかったベイ・ブリッジの、ちょっと隠れた名所にまで私を案内し(確かそこは軍関係者のみが入れるところだった)、島のように遠くに輝く「霧の町」の夜景を楽しんだ。西海岸の乾いた、少し肌寒い風が、吹き抜けていった。

同じような風の中で、私は何十年ぶりかにこのCDを聞いた。そしてギターと言えば「禁じられた遊び」とか「アルハンブラの思い出」のような曲しか知らない私も、それと同じかそれ以上に印象的なトレモロの続くギターの名曲に、時間のたつのも忘れるような感覚を味わった。長い坂道も、このようにして春の光を受けながら、私はすこぶる愉快であった。

サンフランシスコを離れる時、その同僚が私に言った。夫はあなたとお話が出来て、久しぶりに楽しそうだったです、と。私はその時の彼女の、嬉しそうな笑顔が忘れられない。バリオスのこの音楽を聴くと、いつもその時のことを思い出す。

私は中山城址公園の、もう芝生だけとなっている広大な広場に立っていた。北条氏が何千人もの家来を率いて築城した山上の要塞も、たった半日で豊臣勢に滅ぼされたそうである。今も残る遺構の上を歩きながら、私は遠くにそびえる富士の高嶺に見入っていた。いつのまにか、バリオスのギターは終わり、次に収録されているベートーヴェンのミサ曲ハ長調が鳴っていた。新学期の快晴の一日を、ひとりで過ごす贅沢な時間を、私は心行くまで味わっていた。


【収録曲】
1.ワルツ第3番
2.前奏曲ハ短調
3.クエカ
4.マシーシャ
5.大聖堂
6.フリア・フロリーダ
7.ワルツ第4番
8.最後のトレモロ
9.マズルカ・アパッショナータ
10.蜜蜂
11.古いメダル
12.郷愁のショーロ
13.サンバのしらべ
14.アコンキーハ
15.前奏曲ト短調
16.森に夢見る
17.クリスマス・キャロル

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...