2012年9月27日木曜日

プッチーニ:歌劇「トスカ」(The MET Live in HD 2009-2010)

プッチーニのオペラはみな甘美なメロディーと大声で歌うアリアの連続で、見る前はいつも何だか気乗りがしない。ところがいざ見始めてみると、一挙手一投足にまで付けられた音楽が意味を持ち、それが誇張され、勢いを持って聞き手に迫り来る。ストーリーの滑稽さも、迫真の演技と抑揚の大きな歌唱を伴うと、感動が襲うから不思議なものだ。

歌劇「トスカ」はそのようなプッチーニのオペラの中でも、とびきり有名である。3人の歌手を揃えるだけで舞台が成り立ち、チケットもよく売れるから世界中の歌劇場の主要なレパートリーである。そしてMETでも25年にわたってフランコ・ゼッフィレッリによる豪華な演出が続けられてきたようだ。だが変化の時が来て、とうとうその演出がスイス人のリュック・ボンディに代わった。新演出の舞台は音楽監督のジェームズ・レヴァインが指揮する予定だったが、これは代役のジョセフ・コラネリになった。

さてその舞台は、反体制派の画家カヴァラドッシがマリアの絵を描く聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会内。アルゼンチン出身のテノール、アルバレスが「妙なる調和」を歌い、トスカも登場して絵に描かれた女性が自分でないことに嫉妬する。この間に脱獄犯アンジェロッティをかくまい、彼を逃すと、悪徳な警視総監スカルピアや「テ・デウム」を歌う子供たちも登場して非常に賑やかである(ここは教会なのに)。

ワーグナーの楽劇なら眠くなって小一時間をうとうとしても、舞台はさほど変わらない。ところが展開の速いイタリア物はわずか10分でも貴重なシーンを見落とす。私は数日来の寝不足がたたり、事前にトール・サイズのコーヒーを飲んだにもかかわらず、第1幕の最後を見逃してしまった!

だが今回のThe MET Live in HDシリーズは休憩時間が2回もあった。インターミッションの間に今後はコーラで気持ちを整え第2幕へ。ストーリーは簡単で、何度も見ているオペラにこちらも余裕で接していたが、それでも「歌に生き、恋に生き」が突如!始まると、見も心もトスカに同情してしまうからオペラとは不思議なものだ。その歌は涙をも誘い、神のむごい仕打ちを恨む。歌い終わって嵐のようなブラボーが沸き起こると、すぐに我に帰るのだが、それもまたしばらくするとスカルピアの殺人シーンとなり絶句。硬直した体が震え始めると、幕間のインタビューが始まって気持ちが戻る。

第3幕はわずか30分ながら、見所が凝縮されている。クラシックを聞いたことがある人なら誰でも知っているアリア「星も光りぬ」を聞くと、私はあのローマで見た「トスカ」を思い出さないわけにはいかない。テルミニ駅のカフェで昼食をとっていると、ある年老いたイギリス人が話しかけてきた。彼は古代遺跡でオペラを上演しており、自分が見た「アイーダ」がいかに素晴らしかったかを語り、そして私たちにも鑑賞を勧めたのだった。

早速私たちはそうすることにしてチケット売り場に行ったところ、その日の演目は「トスカ」だった。「アイーダ」でないことに少しがっかりしたが、ここはローマである。ローマを舞台にした「トスカ」を生で見ることができることを私は嬉しく思い、そしてその夜、生まれて始めてのオペラ体験となったのだった。

真夏のローマは夜になっても気温が下がらず、観客はみなミネラル・ウォーターと扇子!を持ち込んでの観劇となった。木々に宿った大量のセミが、スポットライトの明かりに反応して大合唱を奏でていたが、それも第3幕になると消され、静かなシーンとなった。カラカラ帝の浴場の岩壁は、そのままサンタンジェロ城のシーンに活用された。「星も光りぬ」はまさにローマの夜空にこだまし、私は感極まっていた。実弾が入っていたことがわかったトスカは、芝居で倒れたものと勘違いしてカヴァラドッシに駆け寄る。殺人容疑の追手が迫る中、気が動転したトスカはとっさに城に駆け上がり、その上から投身したのだった!

ボンディの演出の最大の見所はこのラストの場面だったが、トスカが飛び降りると明かりが一瞬にして消えた。現実とフィクション空間を行ったり来たりしているうちに、あっという間の3幕が終了した。グルジア出身のバリトン、ギャグニッザは代役だが素晴らしい出来栄え。フィンランド人のマッティラは当たり役と言える声質でまあ及第点。これに対してアルバレスは雰囲気もなかなか良い。指揮のコラネリもツボを抑えて悪くない。大歌手を3人揃えて聞けるMETならではの豪華なトスカを見るのも悪くない。でも登場する4人がいずれも壮絶な死を遂げる「トスカ」よりは、私は「ボエーム」の方が好きかも知れない。

2012年9月23日日曜日

ヴェルディ:歌劇「マクベス」(The MET Live in HD 2007-2008)

シェークスピアの同名の劇を原作とする歌劇「マクベス」は、ヴェルディ初期の野心作である。この作品では歌そのものよりも物語としての構成が優先している。それはヴェルディがその後何十年もの間に追求することとなった音楽とドラマの融合の、まさに先駆けとも言える性質である。

若きヴェルディがフィレンツェのベルゴラ劇場での初演の際に、演出上の詳細にまでも口を出したことは有名であり、歌手をも指定した。シェークスピアの世界を表現するために、どのように歌が歌われ、演じられるべきなのか、表現方法を微に入り細に亘って細かく指示したのだ。それゆえに初演は大成功だった。このオペラが当時極めて重視された要素のいくつか・・・愛情のシーン、テノールやソプラノのリリカルなの歌声、あるいは明るく祝祭的な舞台、などを明らか欠いていたにもかかわらず。だが、その斬新さからこのオペラの人気は低調となり、やがて忘れ去られて行く。

私たちはすでに「オテロ」や「サロメ」を知っているので、このような劇もまたありだろうとは思うのだが、それが19世紀の半ばでなされたことは驚くべきことだ。詳細に見てみよう。ヴェルディは1813年の生まれだから、初演当時(1847年)では34歳ということになる。そして18年後に大幅に改訂を行うのが1865年だから52歳である。この1865年というのは、すでに「椿姫」「リゴレット」などの中期を通り越し、「ドン・カルロ」を完成させた頃である。この間の音楽的発展にも目を見張るが、驚くのはもう老年に差し掛かった頃になって、今親しまれている「マクベス」の改訂版を作ったことである。

この改訂では初版の音楽にかなり手を入れているということだが、今では改訂版の上演が主流であるため、私も聞いたことがない。そして音楽は後年の充実ぶりを反映していながら、初期の美しい音楽のスタイルも残している。両者はうまく融合し、合唱の素晴らしさも随所に現れる。幕が開いて第2場に登場するマクベス夫人は、手紙をモノローグで読んだあといきなりずっしりとした声を轟かせて「野望に満ちて」を歌わなければならない。すぐに彼女はイングランド王の暗殺を思いつき、亭主にそそのかす。その急転直下の感情の変化を、当たり役のグレギーナは圧巻にやってのけた。

時に躊躇する小心者の夫マクベスを演じたのは、代役として登場したルチッチという歌手だが、標準以上の出来栄えでヴェルディ・バリトンを堪能することができた。さらにはただひとつしか歌わないテノールのピタスも、なかなかの歌声で喝采をさらった。

このオペラでは主役級の女性がマクベス夫人ただひとりで、彼女の出来栄えがすべてである。最終幕の夢遊病のシーンも悪くなかったが、全体的に欠点といえるものがないバランスのとれた高水準な出来栄えが、このオペラの真髄を伝えることに成功した。最後まで暗い舞台と不気味な歌詞も、凄まじい迫力と圧倒的な緊張感の連続が見るものを飽きさせない。

その成功の最大の功績は、何と言ってもレヴァインではないだろうか。最近は病気で指揮台に登場しなくなったレヴァインが、歌手を引き立てながらもリズムを揺らさないおなじみのストレートな指揮ぶりで、歌手をしてのびのびと歌わせ、オーケストラの協力的な熱演を誘った。リバイバル上演だというのに映画館には数多くの観客が詰めかけ、最近にはない混雑ぶりだったことは、この上演の成功が確固たる事実として定着したことを示していたと言うべきだろうか。

2012年9月17日月曜日

オペラ映画「魔弾の射手」(2010年、スイス)

ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」は、ドイツ以外ではあまり上演されないようで、私も未だに一度も実演に接していない。これほど「ドイツ的」なオペラもないのは、あの長いダイアローグがすべてドイツ語によってなされることから、ドイツ人の歌手を揃えて満を持して上演しないといけないからだと思う。だがそういうと、モーツァルトの「魔笛」だって台詞は多いし、ワーグナーの「ジークフリート」だって台詞こそないものの、至って長い歌詞をすべてドイツ語で歌わなければならないではないか、と言われるかも知れない。

確かにそうであるのだが、それらがインターナショナルな評価を得た第一級のオペラであるのに対し、少し地味な感じがするし、特別に歌唱力を要求される難しい歌があるわけでもなく、何ともローカルな印象を拭えない。そのような特別な人気があるわけでもないオペラとなると、ドイツ人を揃えて上演するほどの期待値が高まるわけではないということになって、興行上困難なのではないか、などと勘ぐってしまう。

けれどもディスクで聞いてきた身としては、このオペラが数多くの合唱や管弦楽に彩られ、ロマン派前期特有の、構成美を有しながらも叙情にも満ちた素晴らしいバランスを保っていることを考えると、一度は実際に見てみたいと長い間思っていた。ベートーヴェンからいきなりワーグナーに飛び越えるのは、何か違和感があるのも事実で、その間に位置する最重要作品とあらば、なおのことである。その歌劇「魔弾の射手」が映画となっていることを偶然発見し、しかもそれが近くの映画館で上演されるということを新聞で知ったことは、私にとっての今年の大ニュースのひとつであった。

そういうわけで有楽町のヒューマントラストシネマという新しい映画館に駆けつけたのだが、ここは小さな映画館がいくつも列ぶところで、イトシアという新しいビルの4階にあった。座席数は数十で、満席ではないが4割くらいは埋まる、この手のものとしては上出来の観客数で、土曜日の夕方ということもあり、見に来る人もいるものだなあ、などと思ったのである。演奏はダニエル・ハーディング指揮のロンドン交響楽団、2010年スイス映画。監督はイェンス・ノイベルトという人である。

まず思ったことは、このような古典的な舞台(それも森や村、野原などである)の映画がよく撮れるものだなあ、ということ。丁度大河ドラマのロケのようで、当時の風習(1650年頃のボヘミア)が、日本人の私にはよくわからないのだが、上手く描かれているのだろう。我が国に置き換えれば、元禄時代の風習を再現しなければならないのと同じだろうか。

急に何百年もの昔にタイムスリップさせるための、オペラ映画でよく使われる方法をこの作品も使用している。小学生が森に遠足にやってきて、そこで人形劇をするというものである。序曲の間その光景が映し出される。これは現代である。この、原作にはない登場人物は、幕間にも登場するが、それがうまくアクセントになって、全体の劇の奇妙な興奮と錯覚と鎮める効果を示す。歌劇であることとストーリーが滑稽であることを、忘れてしまう効果はこの作品にもあるので、それをうまく中和してくれるのだ。

猪谷の場面は、音楽だけで聞くと何やら騒々しい音楽で、恐ろしい雰囲気も持ってはいるがそれは音楽上の表現にすぎないと思いがちである。この時代の音楽は、まだ全体に古典的雰囲気を残しているので、物語を型にはめて表現する傾向がある。しかしそれでも映像を伴ってこのシーンを見ると、ボヘミアにかくも深い谷があるのか、と思うことに合わせて、その恐ろしさが倍増する。もしかするとこの音楽は、そのような一種オカルト的な映像付きの場面の映画音楽にしても十分に威力を発見する、現代的な雰囲気をすでに持っているのではないか、と思うのである。それはワーグナーが後を継いだロマンチックな世界である。

女性の歌についても触れておかねばならない。エンヒェンとアガーテの二重唱などは、この映像の白眉ではないだろうか。全体に各場面が印象的である。第1幕では村が舞台で、農村の土臭い身なりの人々が群れ集う中、射撃大会の行われるシーンはこのようだったのか、と思う。自分の想像で聞いていたことがいかに情報不足だったということか。第2幕の城か宮殿を利用したシーンは大変美しいが、猪谷の場にいたって急転直下、夢にも出てきそうな怖いシーンが映画ならではだ。

第3幕では宮殿の庭で、射撃大会が行なわれる。ハッピーエンドがしらけないかと心配したが、隠者などもうまく登場して、それなりに劇としての形式を維持していることに驚く。最終的に、これはやはり映画だろうということで、映画でなければできないオペラの新しい表現を、今日この作品でもやってのけた、というところが私にとっては何とも嬉しく、新鮮であった。

(2012年3月24日)

【出演】フランツ・グルントへーバー(Br)、ベンノ・シュルム(Bs-Br)、ユリアーネ・バンゼ(S)、レグラ・ミューレマン(S)、ミヒャエル・フォッレ(Br)、ミヒャエル・ケーニヒ(T)、ルネ・パーペ(Bs)、オラフ・ベーア(Br)他、ベルリン放送合唱団、ロンドン交響楽団/ダニエル・ハーディング、監督:イェンス・ノイベルト

2012年9月15日土曜日

東海自然歩道⑫(石山寺~雲井)

1983年のこの年もやはり暑かった。石山寺から宇治川を渡って歩き出した私たちは、滅多に人の歩かないような道を信楽を目指して進んでいた。ただ平凡な道であったことと、夏のために草は生い茂り、蜘蛛の巣があちこちにある。蛇も出てきそうなところを、私たちは気合を入れて歩く。一人では少しこわいような道が延々と続いた。

小学校の卒業と同時に始めたこの奇妙なハイキングも、今回で12回目となった。私たちはそれぞれ違う高校の2年生になっており、勉強やクラブ活動に忙しく、そしてしばらくすれば大学受験が控えている。1年に2~3回づつ、5年にわたって歩き続けてきたが、そろそろこの先どうするかを考えなくてはならない。このままのペースではいつ最終地点へ着けるかもわからないし、第一大学生になっても続けるのか、誰かが浪人生になればどうするのか、などと漠然と考えていた。

林道のようなところを歩いて飽きてきた頃、田代という何の変哲もない村を通りがかり、私たちは喉が異常に乾いていたので、そこへ着けばジュースの販売機か、あるいは何か飲み物を売る店くらいはあるだろうと考えた。まだコンビニエンス・ストアなどない時代である。ところが、その集落には店が一件もないばかりか、自動販売機も何もないのである。私たちはその異様なことにまず驚き、そしてどのようにすればこの喉の渇きを癒すことができるだろうかと考えた。今日の終点まではまだ峠をひとつ越えなければならない。

私は思い切って、そこにあった一軒の民家を尋ねることにした。暑い夏の昼下がり、何やら怪しげなところで不気味だったが、そこに一人の女性が出てきた。私はハイキングをしていることを告げ、この付近に店か販売機がないかと尋ねたのである。しかしその人は、残念ながらそういうものはない、と言うのである。ここの集落の人はどうして過ごしているのか、今でも謎である。そう言えばバス停らしきものはあったが、バスが来る気配もない。

私たちが困り果てていると、女性は家の奥から冷たい麦茶を出してきて、よかったら飲んで下さいと言ってくれた。私たちは好意を受けることとし、その冷たい麦茶を思い切り飲んだ。奇妙なところだったが、親切な人に出会うことができたことで気を取り直し、国鉄信楽線の雲井駅を目指して歩き出した。信楽線の途中の無人駅は、列車が1日に数本しか来ないという超ローカル線の駅であったが、私たちはそのうちの1つに待って乗ることができた。柘植、そして木津を経由して大阪に帰った頃は、もう陽が暮れていた。

私たちの東海自然歩道ツアーは、これが最後であった。その後、4人はそれぞれ受験勉強で忙しくなり、誰も誘い合わないまま自然消滅してしまった。うち2人とは今でも年賀状のやりとりがあるが、30年近く会っていない。一人は私と同じ関東在住で、今では大学生の息子がいるお父さんのようだ。今は銀行勤めの彼は、小学校の高学年で近くの市に転校し、違う中学、高校を経て関西の大学に進学した。就職して埼玉在住となったので、私は大宮に住んでいた頃に会おうとしたことがある。もう一人は京都の薬科大学へ進学し、今では大津に住んでいる。彼はこの最終地点にもっとも近い。最後のひとりは、大学を中退しアルバイトをするうちに行方不明となってしまった。いまではどうしているのか、何もわからない。(完)


※東海自然歩道に関する本は多くない。そのうち、右は「東海自然歩道ウォークガイド」(日本万歩クラブ編、1994年、学研)で、東京からのガイドだが、細かいところは地図が示されるだけである。

※左は地図として出版された(2001年、ゼンリン)。だが細かいところはよくわからない。

※今東海自然歩道がどうなっているのかはよくわからないが、Googleで検索すれば多くの歩行記が見当たる。写真や地図も豊富なので、これらを参考にすれば迷うことなく行程を進むことはできるだろう。


※公式なものとしては、環境省のHP:http://www.env.go.jp/nature/nats/shizenhodo/tokai/index.htmlに「東海自然歩道連絡協会」のページ:http://www.tokai-walk.jp/がリンクされている。

(追記)東海自然歩道のもう一つの出発点である東京の高尾国定公園には、私の家からも比較的簡単にいくことができる。この文章を書きながら、初めて訪れてみたくなった。その際には追加的な文章を掲載しようと思っている。

2012年9月14日金曜日

東海自然歩道⑪(石山寺~宇治)

石山寺を出たところで東海自然歩道は分岐する。2つの道があってどちらを通ってもいいのだが、鈴鹿のあたりで2つの道は合流し東京へと向かう。東海自然歩道にはこのようなオールタナティブなルートが2箇所あって、もう一つは名古屋方面だが、どうしてこのようになったのかはよくわからない。

私たちはどちらのコースを進むべきか、ここで少し迷った。できるだけ早く東京に近づくには、石山寺から宇治川を渡って信楽へ抜け、概ね旧東海道の近くをたどるコースは、付近に見所こそ少ないが、たった2回の行程で合流地点へ行ける。しかしこの場合、往復の交通費だけで相当な出費を覚悟しなければならないし、時間がかかる。

それに対し、宇治を経て奈良盆地を縦断するコースは、いわゆる「山辺の道」を通ることになるので、ほぼ平坦な道が続く。登山好きの人はこのような平坦なコースを「つまらない」などと嘆くが、名所旧跡に寄れるのはこちらの方で、持参しているガイドブックはこのコースに入っていく。大阪からあまり急激に離れて行かないので、往復の電車も便利である。

私たちは後者、つまり奈良経由の道を選ぶこととし、再び石山寺にやってきた。それは1983年3月末のことで、4人は高校2年生の始業式を間近に控えた春のある晴れた日であった。石山寺を見ることもなく歩き出した私たちは、やはり西国三十三箇所の札所として有名な岩間寺も通過するだけとなったことが悔やまれてならない。このような山間部のお寺に行く事は、結局その後の人生においても達成されていない。しかし若い時は、人生が無限のように思えるものだ。私はそれより拝観料と時間がもったいないと思ったし、お寺を見る楽しみなどというものにはほとんど興味がなかったのである。

名神高速道路が京滋バイバスとして宇治へ向かう道は、これがまた険しい道で、冬などは天気が変わる。しかも山の中の道となれば、あるのは電力の鉄塔かテレビの中継所くらいで、ほとんど人が住んでいないような山間部である。だがそこは京都と大津と宇治という、大昔からの町の丁度真ん中のような地点で、そこがまだこのように昔ながらの風景をとどめているのか、などと思ったことは覚えている。宇治茶などを算出する京都府の南部の古い山里を歩きながら、ほとんど人がやって来ないような平凡にして隔離された山間の村が、いまなお静かにその美しさを保っていることに少なからず感動を覚えた。

宇治は平等院に来たことが2回あるだけであった。京阪の宇治駅から大阪までどのように帰ったかは記憶が無い。一度京都へ出たのではなく、おそらくそのまま淀屋橋へ出たのではないかと思う。次回の行程はこの続きとなる予定だった。だが、私たちはどう魔が差したのか欲張りなことを考え始めていた。山の辺の道を完歩する前に、合流地点までひとまず行ってしまおうと考えたのである。かくして次回の自然歩道ハイクは、再び石山寺を起点とし、信楽までのコースをたどることになったのである。

※写真は「東海自然歩道」(読売テレビ編)第1巻に付けられていた付録の地図の一部。踏破した部分を黒く塗っていった。

2012年9月12日水曜日

東海自然歩道⑩(延暦寺根本中堂~南志賀、大谷~石山寺)

初回から数えて10回目のハイキングは同じ年の11月の日曜日であった。例によって京都河原町へ行き、そこから京阪三条まで歩く。秋の朝の京都は清々しくて気持ちが良かった。早朝だったので紅葉目当ての観光客も少ない。京阪三条から路面電車を乗り継ぎ坂本へ。さらにそこからケーブルカーで比叡山に登った。延暦寺の根本中堂から、今度は前回のゴールであった南志賀の駅まで山道を下る。

ここをどのように歩いたのか、実はほとんど記憶にない。私は友人たちと2組に分かれて歩くことにしていたが、最初に歩いたチームと概ね10分の時差を設けることにしていた。まだ携帯電話のない時代だったので、最初に歩いたチームが東海自然歩道の標識に通過時刻を書いたテープを張って行き、後のチームがそれを剥がしていく。このようにしてどちらかが道に迷えば、そこでわかるようになる。ただ連絡手段がないのは困るので、2台のトランシーバを持って行き、にわか登山ごっこをしていたのである。

この効果は行程が単調であっても、時間や距離を感じなかったことである。20キロもの行程をただ4人が歩くだけだったら、そう長続きしなかったであろう。ゲーム感覚と、それに無線の楽しみを兼ねた作戦は、今思えば実に奇妙な光景に思えるが、それはそれで楽しかった。一種のオリエンテーリングのようなものだったとでも言えようか。

京阪電車で南志賀駅から浜大津経由大谷駅まで戻り、次は前回の出発点から石山寺までの行程である。再び蝉丸の歌碑を拝みながら、私たちは逢坂山トンネルの上を超え、山道を石山寺まで進んだ。この区間は整備されて気持ちが良かった。落ち葉を踏みしめながら歩くと、久しぶりに山道を歩く楽しみとなった。京都の北山は、観光地こそ寄るもののその間はほとんどハイキングに適さない感じだった。それに比べると今回の行程は、山道ながらも適度に往来があり、起伏もさほどではなく距離も適切だった。

石山寺には夕方に着いた。源氏物語ゆかりの石山寺は、いつ行っても数多くの観光客で賑わっているが、秋の休日は相当な人出であった。瀬田の唐橋をながら京阪電車を三度浜大津まで戻り、京阪三条に着く。再び鴨川べりを四条河原町に出て阪急京都線で帰る。東海自然歩道もこのあたりまで来ると、往復の電車の時間が馬鹿にならないようになってきた。交通費もかさむ。一体いつまで続けることにするか、私たちは電車の中で話すうち、梅田駅に戻った。

2012年9月10日月曜日

東海自然歩道⑨(大谷~南志賀)

高校生になると急に忙しくなり、日程を合わせるのも難しくなってきた。けれども夏休みを利用して私たちは次のセクションを歩く予定を立て、記録によれば1982年8月19日早朝、阪急北千里駅に集合した。ここから阪急で四条河原町まで行き、さらに鴨川を少し歩いて三条京阪に向かう、というのが私たちのここ数年来のパターンであった。延暦寺からスタートすべく私たちは、京阪大津線を坂本まで乗り継ぎ、さらにケーブルカーに乗って根本中堂に行く、というのがその日の計画だった。

ところが夏だというのにその日は天気が悪かった(と思う)。私たちは延期しようかと話し合ったが、スケジュールが合わないと次回は次の休みにまで持ち越しかねない。そこで急遽、コースを変更することにした。今回は山道を避け、主として大津市内の平坦なコースのみを歩く、ということにしたのである。すなわち、京阪大津線を逢坂山トンネルまで行き、ここと立体交差する東海自然歩道を逆行、近江神宮などを通って延暦寺のふもとの地点まで行き、次回は残りの区間を歩く、というものであった。

実際にどのように歩いたかは断片的な思いでしかないのでよくわからない。ただ今にも雨が降り出しそうな中を逢坂山トンネルの入り口まで行き、

  これやこの ゆくもかえるも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

という蝉丸の歌で有名な逢坂の関の跡地(歌碑がある)までたどり着いたことは覚えている。ここから東海自然歩道を下りのルートで出発した私たちは、少し山道を歩いて三井寺に着いた(はずである)。

三井寺というのもまた立派な天台宗のお寺で、ここを含めて滋賀県にも数多くの名刹・古刹の類がある。そしてそれらは京都のように観光化されすぎていないため、一度はゆっくりと訪ねてみたいものである。大津市の郊外を進み、次の目的地は近江神宮であった。

天智天皇によって遷都され、一度は日本の首都でもあった時期もある近江神宮はまた、小倉百人一首のかるた会が開かれることでも知られている。

  秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

というのは百人一首の最初の歌で、天智天皇は中大兄皇子としても知られているが、近江神宮自体は昭和に入ってから建てられた整然とした神宮であった。

東海自然歩道について書かれた本はいくつか持っている。そのうち2001年に文庫本で発売された「シェルパ斉藤の東海自然歩道全踏破」という本は、軽妙な文章で面白い。彼は1989年に歩いているようだが、もちろん東京からの出発である。この区間も石山寺から始まって野宿をしながら嵐山まで行くという強行軍で、私たちのようなゆっくりのんびり派とは異なり本格的なトレイルである。彼はアウトドアの分野では良く知られた人で、世界中の道をヒッチハイクなどをしては日本に帰り、日記風の本を出版し続けている。ガイドとしては役に立たないが、そもそもこの道について書かれた本がそう多くはないので、貴重ではある(ただ今ではホームページもあるので、多くの情報を得ることはできる)。

2012年9月8日土曜日

東海自然歩道⑧(大原~延暦寺根本中堂)

約1年ぶりの大原で東海自然歩道を再開した時には、私たちは高校生になっていた。4人とも行く高校が異なることとなったが、入学式の直前に何とか再会し、新しい生活を想像しながら京都へと向かった。今回の行程は京都からいよいよ滋賀県へと入る道で、あの比叡山の登山となる。延暦寺の境内を通るので、見所の多い区間である。

東海自然歩道のガイドは多くが下りのルート、すなわち東京を起点として大阪へ向かう。この場合、延暦寺へのコースは坂本からの上りである。ケーブルカーも敷設された上り道はなかなか急で、大変なコースだと思われた。しかし私たちは京都側から登るので、この区間は下りとなる。そういうわけでこれはラッキー、とばかりに三千院の前を素通りして歩き出す。

延暦寺は日本の仏教界においてはリーダー的な存在で、最澄の開いた天台宗の総本山は長らく(そして今でも)中心地である。ところが京都から見ると比叡山は、北東方向の山の一つではあるが、そこからお寺の一部が見えるわけではなく、ましてその登山道が整備されているとも言い難い。バスも通っているが、狭い道をくねって行く。織田信長が火を放った「迷惑な存在」も、丸でそれを隠すかのようにひっそりと裏側にいる、という感じである。

昔から延暦寺への道も、敢えて言えば目立たないものとして存在し続けたのではないかと思うほど、大原からの行程は山道そのものである。細く険しい上り道であった。景色が良いというわけでもなく、歩く人も多くはない。そのような道だからこそ、ここは修行の場として存在してきたことを思わずにはいれらない。「千日回峰行」などという気が遠くなるような修行が、千二百年にも及んでなお今でも行なわれている。

私たちは修行僧にこそ会わなかったが、その代わりに急な山道を越えてドライブ道へとたどり着いた時には、喉がからからに乾いていた。修行では飲まず食わずでここを歩き通すから、ジュースの販売機などという俗物は始めから用意されていないのだろう。だが、あまりの喉の渇きに、持ってきた水筒の水が早くも底を着き、私たちは自販機を目指して歩き続けた。そしてとうとう駐車場のそばに来た時、そこに500ミリリットル入りのHi-Cアップルが入った自動販売機が設置されていることに気づいた。傾きかけたその機械は嬉しいことに壊れてはおらず、しかも購入者が少ないためか、その缶は極めて冷たく保たれていることが想像された。私たちは一目散に買い求め、一気に飲み干した。その感覚は今でもよく覚えている。私たちは「解脱」などということからはかけ離れた存在として延暦寺に入った。

「五体投地」という、チベット仏教にも通じるような「密教」の儀式があることは瀬戸内寂聴の本で読んだ。その流れが我が国の仏教の本流である。奈良時代の「南都六宗」の腐敗によって新しい仏教への期待が高まった平安時代に、遣唐使として派遣されるエリート僧は、大乗の教えの中から密教の教学を日本に持ち帰った。大津のふもとの村の出身だった彼は延暦寺を建立したが、その中から鎌倉時代の新しい仏教の開祖が次々と誕生する。すなわち法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、さらには日蓮(日蓮宗)などである。

その延暦寺の中心が「根本中堂」ということになる。私は以後合わせて3回ほどここに行ったが、最近20年以上は出かけていない。寒いお正月明けの頃に、焚き木がしてあったのを覚えているが、その時を含め、ちゃんとお参りしているとは言い難い。近いうちに再び訪れてみたいと思っている。

密教と、さらに古くからあった山岳信仰のようなものが結びついて発展したのが我が国の仏教であると思う。しかしそれは仏陀がインドで開いたオリジナルな仏教とはかなり異なっている。私はその元の仏教なるものに大変関心が高いのだが、そういうことについてはまた別の機会に書きたいと思う。

東海自然歩道は根本中堂からまっすぐ大津側に下っていく。琵琶湖の風景が開け、晴れていればなかなかの風景である。だがその日は天候が悪く、今にも雨が降り出しそうな雰囲気であった。そのため私たちはバスで京都市内へ戻ることとし、下りの区間は次回に歩くことにした。ドライブウェイから雲の合間に見える琵琶湖もなかなか美しかったが、山中越と呼ばれる峠道を京都白川通に向けて下るあたりは道路も狭く、やはり京都の閉鎖性を思わずにはいられない。ここが近江と京の主要な道路であったというのだが、県道として整備されたのは昭和に入ってからであり、そしていまでもそこは大雨の時には規制されるようなところである。

京都の少し裏側の山で、日本仏教の総合施設とも言うべき延暦寺は、京からは分け隔てられて存在している。しかしそこがしばしば都の政治家から疎んじられる存在となったばかりか、そこから改革的に派生した鎌倉時代の新興勢力を含め、しばしば都の政治を脅かした。いまでも異様なその存在は、高校生の私にも強い印象を残した。

2012年9月7日金曜日

東海自然歩道⑦(貴船口~大原)

京都は千年以上もの期間にわたって都会であり続けたにもかかわらず、少し山地へ入るとそれは何もない田舎であって、道行く人もほとんどいない。鞍馬天狗で有名な鞍馬寺(写真は2011年秋のもの)の前から、私たちは再び山地に入り、大原の里を目指した。途中、静原という集落を通るが、ここは岩倉からさらに山を分け入ったところであって、私たちが通った30年前は、一部に道を舗装中だった箇所があるだけの、静かなところだった。

東海自然歩道の看板だけがひっそりと立っており、そこを間違えないようにしながら進むと、再び山地に入り、そしてとうとう大原の里に出た。大原三千院で知られる左京区のこのエリアは、バスで観光客が訪れるのは一部に過ぎず、それ意外の場所は何とものどかな所である。1981年の4月のことで、私たちは中学3年生になったばかりの、入学式の前日のことであり、そして桜が丁度見頃を迎えていた。

うららかな春の陽がさんさんと降り注ぐ穏やかな昼下がりを、私たちは北に向って歩いたときほど幸福な気持ちの時はなかった。今でもその時の気持ちはよく覚えており、東海自然歩道の思い出の中でもとりわけ印象に残る時間だった。付近は京野菜などを作る農家で、静かに作業をする人々がもくもくと野菜を収穫している。昔から変わらない里山の風景の中を、私たちは寂光院の前に出た。

寂光院は聖徳太子が立てたと言われる、それは古いお寺で、しかも平家の滅亡後、建礼門院が隠遁生活を送ったという大変由緒あるところである。対岸にある三千院よりも私はこちらに惹かれた。だがその時も、例にならってまた来ることがあると、拝観を避けて素通りした。三千院にも寄らずに、私たちはバスに乗って三条河原町へと帰った。もちろん次回はここからの歩きである。だがその時に拝観するわけでもないだろう。中学生にとって、往復の交通費だけでも高額になり、そこへ加えて拝観料を支払うのがもったいなかったのである。

だが2000年の5月に放火事件が起こった。金閣寺に続き、またもや貴重な文化財が焼失した。何百年も前に作られた本尊なども焼けてしまい、私はその時、ここを見ていなかったことを大いに悔やんだ。2006年には再建されたようだが、かつて何とも古い建物が、田んぼの畦道のようなところを進んだ場所にあるという風情が失われたのではないかと思う。京都はしばしば文化財が放火によって焼失する。だから行ける時に行っておくべきだと思う。


2012年9月6日木曜日

東海自然歩道⑥(玄琢~貴船口)

阪急京都線の四条河原町が私たちのハイキングの起点となった。といっても実際にはバスが三条京阪から出る。そして当時京阪電車はここが終点で、四条河原町から三条京阪までは、鴨川沿いに歩いたものだ。早朝に千里を出発して四条河原町に急行で着き、さらに三条京阪からバスで出発地点まで行くともうお昼近くになっていた。

鴨川沿いを歩くことは、しかしながら実に気持ちのいいものだった。早朝であれ夕方であれ、河川敷をゆっくりと歩きながら、ゆったりと過ぎてゆく京都の街の美しさを感じた。玄琢を出発して、車道と北山の山道を少し歩き、貴船口駅に着いた時には、少し日が傾きかけていた。だが、鞍馬寺を経由して大原まで歩くには距離がありすぎた。細切れになるのは承知の上で、私たち四人は早くも京福電鉄に乗り、出町柳に向かった。写真はその当時のもので、満員の車内から前方を撮影したものだが、向こうに見える山は比叡山で、岩倉付近を通過中ではないかと思われる。

出町柳駅も今と変わらないローカルの駅だが、そこから京阪三条を経て四条河原町までの数キロを、私たちはまたもや歩き出した。秋の日が傾き、夕日が鴨川に映えて大変美しかった。朝とは違うくつろいだ光景があった。犬を散歩させながら歩く人も、カップルも、何かとても自然な感じがする。私はその後、大学生になってからもここの付近を愛したし、今でも義理の妹が住んでいる北白川へ向かうときは、この付近を通りながらこの日のことを思い出す。

そういうわけで東海自然歩道の記憶はほとんどないが、その往復に友人四人と歩いた鴨川の景色は、私の心に長く残っている。嬉しいことに、いまでもその風景はほとんど変わっていない。

2012年9月4日火曜日

東海自然歩道⑤(清滝~玄琢)

東海自然歩道も京都に入ると、行く先々が名所旧跡で楽しさが増してくる。夏になって再び清滝に来た私たちは、ここから神護寺を目指して歩き始めた。観光コースとは言え真夏である。ただでさえ暑い京都の山道を歩くという人もそれほど多くない。清滝川沿いの道を、私たちは比較的速いペースで歩き始めた。

神護寺が見えてくると、頭の上にお寺の一部が見え、観光客が投げる「からわけ」と呼ばれる陶器のかけらが見えないかと目をこらしたのを覚えている。周山街道、すなわち国道162号線は、京と若狭を結ぶ古くからのルートのひとつで、北山の山中をまっすぐに北上するルートである。私も一度ドライブしてみたいと思いながら、いまだに果たせていない。

このハイキングからさらに数年前、私は祖父に連れられて神護寺へお参りに来たことがある。まだ市電の走っていた頃のことである。国鉄京都駅前から国鉄バスに乗ろうとしたが、あまりに人が多く足の踏み場もないような混雑だったことを記憶している。それほど昔から人の多いこのあたりだが、それはおそらく紅葉のシーズンだったからだろうと思う。

神護寺は高野山真言宗の寺院だが、ここはその開祖である空海と、そして天台宗の開祖である最澄がともに関わりのあるお寺で、そういう寺は珍しいばかりか、国宝がいくつも置かれている、なかなかのお寺である。その神護寺をベースとした我が国の仏教のふたりの巨星のエピソードは、私の想像力をかきたててかなり興味深い。いわば国費留学生だった最澄が、私費留学生ながら密教を本格的に授かって帰国した後のふたりの出逢いと決別・・・そのような話を私は最近「百寺巡礼」(五木寛之著、講談社)で読んだが、その神護寺がこのとき通ったお寺だった・・・のである。

このような名所を経ておきながら、その中間の道はそっけないほどに整備されていないのもまた京都府内の自然歩道である。次の観光地、貴船神社と鞍馬寺につくまでは、何キロにもわたって車道(つまり国道)を歩く。これでは自然歩道ではないか、と言いたくなる無愛想なところがまた京都らしい、などと考えながら、ダンプカーやトラックの行き交う道の端を歩いた。京都もこのあたりはまるで人里離れた山中で、なにやら怪しげでしかも不気味ですらある。

2012年9月3日月曜日

東海自然歩道④(南春日~清滝)

東海自然歩道を歩き始めてから丁度1年が経過し、4回目の行程となった。中学2年生となり、始業式の始まる直前に、私たちは再び南春日のバス停にやってきた。京都市の郊外の、新興の住宅地造成がところどころに見受けられるそのような街を通って進む。道路や家の工事の影響で、標識が喪失しているところや、曲げられたりして行く先の方向が間違っている標識が散見された。私たちは注意深くそれを追い、あるときはもときた道を遡って進むことを余儀なくされた。

それでも舗装のされていな山道へ入ると、そこは一本道であった。山里の散策は私たちをいい気分にさせた。昔からの山道が、いまなお当時のまま残っていると思うと不思議な感覚だった。「苔寺」として有名な西芳寺(京都市西京区)のあたりを通り過ぎた。今では世界遺産などとされているが、当時でも数多くの観光客が訪れる名刹だった。しかし私たちはまたいつでも来れる、などと言い合い、こういった有料の名所には立ち寄らなかった。これはその後に通過した各地の名所でも同様だったが、あれから30年がたっても今なお訪れていないのは少し残念な気がする。

松尾というところは、阪急嵐山線の終点嵐山の一つ手前の駅で、目立たない駅ではあるが松尾大社という広大な神社があって、その前を桂川がながれている。古事記にも登場すると言われるその風格ある神社は、これが京都になければもっと目立つ存在になったであろう、などと思った。静かで背の高い木立の参道の中を通って行くと嵐山の駅前に至り、そして有名な渡月橋を渡った。

嵐山は小さい時から何度か来たところだが、いつ来ても人が多い。欄干部分が木造の長い橋は、自動車も人も通るので狭いが、渡り終わって見る風景は写真と同じように美しい。土産物屋にたむろするおばちゃんや修学旅行生に混じって、私たちは嵯峨野と呼ばれる地区に入っていく。ここの嵐山の風景を思い出すと、何年たってもほとんど変化しない風景の良さというものを感じる。変わりゆく大都市の風景とは対照的に、変わらない美しさというものを実感する。実際はそうでもないのだろうが、いつきても、前と同じような感じがするのだ。

  小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの 行幸待たなむ

という歌で知られる小倉山は、また「小倉百人一首」の小倉山のことで、この嵐山にある。調べてみるとこの歌を詠んだ藤原貞平は9世紀の人だが、百人一首を編纂した藤原定家は13世紀の人で、その間は500年もある。その百人一首を編纂したとされる小倉山荘があったという常寂光寺もその付近にある。

土産物屋の並ぶ界隈を清滝に向かって歩く。トンネルと抜けるとそこが清滝で、またもうひとつの古い観光地、愛宕山が見える。愛宕山は戦前、ケーブルカーもあった愛宕神社の山だが、今ではそのような面影がなく、ハイキング向けの山と化している。だが私の住む東京都港区の愛宕神社もここの同系列の神社である。鉄道唱歌にも登場する愛宕山が、私はどうして東京で歌われるのか、私は不思議だった。だが今では京都の愛宕山を知る人も少なくなった。

東海自然歩道を上りで歩く手引きとして、私たちは読売テレビが編集した全4巻からなる「完全踏破」ガイドブック(創元社、1973年)を持参していた。細かい分岐道まで細かく紹介しているこの本が、私たちのバイブルだった。だがいまでは入手も困難となり、そしてそのような力作が出版されることも、以後はないのではないかと思うと残念である。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...