2024年2月18日日曜日

ブルックナー:交響曲第6番イ長調(ヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団)

前にも書いた通り、交響曲第6番は私がブルックナーに開眼する契機となった曲である。なぜだかはわからない。当時20代だった私は、大阪から東京に出てきて最初の年に、いきなりN響の定期会員になった。といっても新入社員の月給は非常に安かったのでC席を選択した。3階席でも割と前の方で、しかも中央より。そして春に入社してまだ研修中だというのに、私は1992年4月から毎週のように、定時に会社を抜け出してはNHKホールに向かうことになった。

平日なので満席ということはなかったが、仕事を終えた安堵感と、簡単には解けない緊張感が交錯して音楽に集中するのが難しい。それでも東京での演奏会に出向いていることの嬉しさが勝っていた。慌ただしく席についてオーケストラの出番を待ちながらプログラムに目を通していると、間もなく演奏が始まる。知らない曲も多いので、開演前に飲んだワインの力もあって、睡魔に襲われるのに時間はかからなかった。その日は定期会員としての最初のコンサートで、東京で聞く初めてのコンサートだった。

当日のプログラムの前半は何とハイドンの交響曲第3番などで、後半はブルックナーの交響曲第6番。すべて初めて聞く曲だったし、ガブリエル・フムラとかいうポーランド人の指揮者も知らなかった(N響への客演も2回目、しかもこれが最後だった)。私は当然のように眠り、目を覚ましてからまた聞き続ければいいと開き直っていた。長いブルックナーの交響曲はそのような私にもうっけつけで、第2楽章はゆったりとしたメロディーが起伏を伴いながら進行する。私はブルックナーの音楽を散漫で退屈極まりないと思っていたから、その日は何も期待していなかった。ただN響の演奏会とはどのようなものであろうかと、初めて巨大なNHKホールに行ってみることが目的だった(あとでわかったことには、このコンサートはフェルディナント・ライトナーが指揮する予定だったが、病気で交代したらしい)。

おそらく第3楽章のスケルツォあたりで目が醒め、そして当然の如くその後は頭が冴えわたった。第4楽章に入り、次第にコーダに向かっていくところで、私の脳に化学変化が起きた。どういうわけか、ブルックナーの音楽がアルプスを背景にそびえるゴシック風建築(教会)に思えてきたのである。一糸乱れぬN響が、まるでひとつの楽器になったように思えた。私は雷に打たれたように動けなくなった。それから終演までの数分間は、まったく奇跡のようにどこか遠くの世界へ行っているように感じた。フォルティシモになっても綺麗なアンサンブルとは、かくも美しいのかと思った。

会場にいたすべてのひとがそう感じたわけではない。温かいが醒めた聴衆からは、普段と変わらない不熱心な拍手が起こり、テレビ収録もある日の客席は7割程度の入りでしかない。だが私には、それが大名演に思えた。熱心に拍手をして指揮者のカーテンコールを楽しんだ。心が幸福感で満たされ、私はブルックナーの音楽がこれほどにまで浄化作用のある音楽だとは思わなかった。なぜ多くの人がブルックナーに心酔するのかが、少しわかるような気がした。

このような「ブルックナー現象」は、常に生じるわけではない。むしろ滅多にしか起きない。だがごくまれに、ほんの偶然のように、雲の合間から光が差してアルプスの高峰が、金色に輝く時がある。畏怖の念さえも感じさせるそのような瞬間は、まさにライブで演奏を聞く醍醐味と言える。

さて、交響曲第6番は、改訂だらけのブルックナーの音楽には珍しく、ほとんど稿の違いというのが存在しない。作曲者自ら完成度が高いと考えていたのだろう。比較的平凡な第4番を経て初めてブルックナーらしさが確立する曲が第5番と言われているが、第5番は少し暗くなかなかいい演奏に出会えない。これに対し、この第6番は比較的演奏によるむらがないと言える。続く第7番、そして最高の(と私は思う)第8番の4曲が、連なるアルプス連峰のようにそびえている。特に第2楽章アダージョの素晴らしさは、他の曲に引けをとらない。全体に楽天的で明るく、こういう音楽ならずっと聞いていたい、何も考えたくない、とさえ思わせる。

第1楽章は親しみやすいメロディーだが、何となく複雑でぎこちない展開に感じる時もある。私のイメージは朝の音楽である。第3楽章のスケルツォは、少し聞いただけでブルックナーとわかる曲である。ホルンの活躍するトリオ部分を挟んでたっぷりと楽しめる。第4楽章はちょっととりとめがない雰囲気が漂う。けれども第1楽章から聞いてくると、この楽章はそのまま勢いで聞ける。特にコーダは快速に飛ばし、一気にたたみかけるように終わる。

私がブルックナー好きになるきっかけとなったこの交響曲は、ディスクを揃える際に、特に綺麗な音で聞きたいと思った。いろいろ探し求めていた矢先、ヘルベルト・ブロムシュテットがサンフランシスコ交響楽団を指揮したデッカ盤がリリースされた。ブロムシュテットにはこのサンフランシスコ響盤を含めて3種類あるらしいが、これは2番目のもので、今となっては存在感が薄い。他の2種を聞いていないので何とも言えないが、私はこの演奏で満足である。とにかくしみじみと綺麗で明るく、健康的。交響曲の前にはワーグナーの「ジークフリート牧歌」が収録されており、こちらも静かで整った名演。とにかくサンフランシスコ響の美しいアンサンブルに聞き惚れるうちに曲が終わる。

2024年2月17日土曜日

ブルックナー:交響曲第1番ハ短調(マレク・ヤノフスキ指揮スイス・ロマンド管弦楽団[リンツ稿]、アンドリス・ネルソンス指揮ゲヴァントハウス管弦楽団[ウィーン稿])

ブルックナーが最初の交響曲である第1番(習作を除く)を作曲したとき、作曲家はすでに40代の半ばだった。そのあとに9曲の交響曲を作曲したわけだから、大変遅咲きの部類に入る。なので、最初の頃の作品だからと言って、若さが前面に出ているようなところはあまりない。むしろ晩年の作品にも通じるような充実度を見せていると言える。

交響曲第1番を、そのように私は思っている。だがこの作品には2つの稿が存在する。作曲された時のリンツ稿と、改訂されたウィーン稿である。晩年の改定は1年以上の期間に及び、それは交響曲第8番の作曲後だったということから、2つの稿の違いはブルックナーの作風の変化を大きく反映していると言わざるを得ない。詳細にどこがどうということを知らなくても、実際に聞いた印象が随分異なるように感じる。ただそれには、この曲に対する演奏者の解釈によるところも大きいと思う。初期の作品らしく、速く荒れ狂うように演奏するものが「リンツ稿」には多いのに対し、晩年の作品のような円熟味を感じる演奏が「ウィーン稿」には多いと思うからだ。

私が所有している本作品のCDは、マレク・ヤノフスキがスイス・ロマンド管弦楽団を指揮したSACD(Pentatone)である。ここで聞ける演奏(リンツ稿)は、録音効果もあって大変活気があり、一点の曇りもなくまい進する快演である。ブルックナーの音楽は、特に自然体でゆったりと気宇壮大に進む演奏スタイルが効果的であって、多くのブルックナー・ファンはどちらかというとそういうのを好む。私もどちらかと言えば、こういう円熟味を帯びたブルックナーが好きだと、これまでは言ってきたのだが、この演奏に接して前者、完璧な機能美を前面に出して直線的に進む演奏も、またいいものだと感じた。

この交響曲第1番については、これまで演奏の主流を占めてきたのは、初期のリンツ稿である。活気ああって、機能美の極致とも言うべき精度でオーケストラが鳴り、圧倒的な高揚感を味わうことができる。オイゲン・ヨッフムのような定常あるブルックナー指揮者も、この作品ではリンツ稿で演奏を繰り広げている。

一方、ウィーン稿におけるブルックナーの改訂は、こういう傾向を緩和する方向に向かっている。特に第3楽章の印象的な違いは大きく、この楽章の速度がリンツ稿では生々しく野性的でさえある。特にこのヤノフスキの演奏で聞くと、また違う側面が強調されていて面白い。スイス・ロマンド管の演奏が素晴らしく、それを的確にとらえたすこぶる優秀な録音が、このディスクの最大の特徴だと思う。

さて歳を重ねると、若い時の行動が青臭く、時に気恥しく感じられるのが普通である。ブルックナーも若い(と言っても40歳だが)頃の交響曲第1番に対し「生意気娘」と呼んで大幅な改訂を行った。と言ってもこの作品をよみがえらせる作業をわざわざ行ったのだから、それなりに気合の入ったものだっただろうし、そうする価値があると思ったに違いない。もともと良い作品だと思っていたということである。この感覚もわかるような気がする。

現在では「リンツ稿」による演奏が多くなっているようだが、「ウィーン稿」で演奏された最近のディスクで私のお気に入りは、アンドリス・ネルソンスがライプチヒ・ゲヴァントハウス管を指揮した演奏である。これは一連のブルックナー全集の完結編となるものだ(他に交響曲第5番、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」が収録されている)。ネルソンス盤(ウィーン稿)とヤノフスキ盤(リンツ稿)では聞いた時の印象がまるで異なる。わかりやすい違いは演奏時間で、ネルソンス盤が約55分要しているのに対し、ヤノフスキ盤はたった約47分である。つまりネルソンス盤は約2割長い。

第1楽章アレグロは、威勢のいい行進曲風の主題に時折木管楽器が絡み、オルガンの音を彷彿とさせる金管のアンサンブルが交錯する。もうこの時点でブルックナーの特徴が満遍なく出ている。第2楽章アダージョも大変美しいが、ヤノフスキの速い演奏で聞くと、高速道路でスイスの湖近くを走っているような感覚を思い出す。

もっとも特徴的な第3楽章はスケルツォ。まるで刑事ドラマの展開部のようなメロディーである。これを実演で聞くと、両翼に並んだヴァイオリンとヴィオラの掛け合いが楽しく、そのあとをチェロが似た音型を次々に演奏してゆくシーンが面白い。繰り返しがきっちりとあるので、ブルックナーの第3楽章は平凡なトリオを挟んで何かと冗長な音楽に感じられることもあるが、いい演奏で聞くと楽しくていつまでも聞いていたい。

終楽章フィナーレは「快速に、火のように」と指定された荒々しい音楽である。いよいよドラマも大詰めという感じ。最近では原典版に立ち返る傾向が強いため、リンツ稿による演奏が主流となっているが、先日聞いた下野竜也指揮による都響の演奏会でも、そしてネルソンスの新盤もウィーン稿であるのは面白い。「若々しさが失われた」ことに抗ってリンツ稿の速い演奏を取るか、「最終稿でより円熟味のある」ウィーン稿を良しとするか、これは楽しい比較作業である。クラシック音楽を聞く楽しみのひとつが演奏による違いであるが、ブルックナーの場合、ここに稿による違いも加わる。特にこの交響曲第1番においてはその違いが顕著で、ブルックナーの音楽演奏の際立った2つの傾向を反映しているだけに、この面白さが際立つこととなる。

2024年2月15日木曜日

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調作品47(エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

私は大阪で育ったから、朝日放送で週末夜に放送されていたテレビドラマ「部長刑事」を何度も見ている。たった30分の刑事ものというのも珍しいが、このドラマは少し変わっていて派手なシーンはあまりなく、むしろ心理ドラマとしての面白さが前面に出たユニークなものだった(と記憶している)。全国にネットされているわけではなく、刑事も犯人もみな関西弁丸出しのセリフだから、私にとってはたいへん身近に感じることができた(通常のテレビドラマは標準語で会話がなされるため、関西人には親近感がわかない。特に学園もの)。

さてその「部長刑事」に登場するテーマ音楽が、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章なのである。ところがこのドラマに使われる演奏は遅い。我が家にあったレナード・バーンスタインによる演奏は、これとは対照的にめっぽう速い。この違いは、この作品を語る上で避けて通れない「第4楽章のテンポ」問題なのである。遅い方を採用する指揮者は、私の知るところではヤンソンス、インバルなど。近年は原典主義の流行で、新しい録音ほど遅い演奏が多くなっている。

どちらが好きかという前に、この作品の初演者で今なお評価が高いムラヴィンスキーの演奏に耳を傾けてみる。するとそれはバーンスタイン同様に一目散に駆け抜ける演奏だ。というわけで、ここの演奏は速いのが標準だと思いたくなる。ところが、このムラヴィンスキーの演奏のもとになっているのが、出版された楽譜(遅い方)ではなく、手書きされた写譜だというのである(速い方)。ムラヴィンスキーの初演にはショスタコーヴィチ自身が立ち会っているから、わけがわからなくなる。テンポの問題は、実は第4楽章冒頭だけでなくコーダにもある(コーダではバーンスタイン盤がめっぽう速いのに対し、ムラヴィンスキー盤は重くて遅く、対照的である)。

どちらが正解かよくわからないのだが、まあ細かいことはさておき、この曲の魅力は何といってもその分かりやすさではないだろうか。ショスタコーヴィチは暗黒の時代を生きた作曲家だった。スターリンによる粛清はあらゆる分野に及び、人気作曲家でさえも例外ではなかった。因縁をつけられ、事実ではなくても批判されたり投獄されるのは日常茶飯事だったのではないかと思う。そういった批判をかわすため、ショスタコーヴィチはそれまでとは違った明快な音楽を作曲した。それが第5番の交響曲だった。一時「革命」とも題されたその音楽は、寒さと飢えに苦しむ農民が、やがて雪崩を打つように首都に侵入し革命を勝ち取るというストーリーである。これがベートーヴェン以来の「苦しみからの勝利へ」という第5交響曲の図式に、変にマッチする。

だがその解釈を真っ当に受けてよいのだろうか。この「勝利」は偽りの勝利であり、第2楽章のワルツは強制され、第4楽章の歓喜は銃口を向けられた中で繰り広げられる狂気であると解釈することもできる。共産主義に迎合したのか、それとも表面的には社会主義を讃えつつも、虐げられた芸術家の魂の叫びこそが隠されたテーマなのか、それはわからない。だが、ムラヴィンスキーの初演にショスタコーヴィチは立ち合い、その初演は大成功に終わることでショスタコーヴィチの名誉は回復、以降2人の親交は続き、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの作品の多くを演奏した。交響曲第5番は結果的に、正反対の2つの解釈が可能なものとして在り続けている。

第1楽章は長く、フルートのソロや行進曲風のメロディーなど様々なテーマが現れ、ピアノやチェレスタといった楽器も登場する。これだけでも十分に楽しいが、第2楽章のスケルツォになるとロシア風のダンスで、重低音と管楽器の組み合わせが面白い。一方、第3楽章はこの曲の神髄とも言うべき部分で、弦楽器主体のラルゴである。寒さと飢えに苦しむ悲痛な響きで涙も出てこない。突如、ティンパニがクレッシェンドし、軍隊の行進のようなメロディーが威勢よく鳴り響く。金管楽器の旋律は一度聴いたら忘れられない。静かな部分も経て、再度主題が現れると小太鼓やシンバルなども登場し、祝祭的な音楽となってコーダに突き進む。オーケストラを聞く醍醐味が味わえる。

エフゲニー・ムラヴィンスキーは、ロシア革命前の1903年サンクト・ペテルブルグの生まれである。3年年下のショスタコーヴィチはまだ生まれていない。程なくしてロシア革命が起こり、以降、ソビエトが崩壊する直前の1988年に没するまでレニングラードのオーケストラを指揮し続けた。ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルのコンビは、世界でもっとも高水準の演奏を繰り広げるものとして有名だった。しかし鉄のカーテンの向こう側の演奏の実態が知れ渡ることは、実際にはほとんどなかった。

我が国には1973年に初来日、以降2年おきに来日を果たすが、私が本格的にクラシック音楽を聞き始めた1980年以降は、予定されながら実現することはとうとうなかった。新聞の広告に何度か来日公演のチケット販売予告を見たが、その数か月後には「公演中止」の広告に変わった。録音嫌いでもあったムラヴィンスキーのショスタコーヴィチは、数多くのディスクが発売されているが、そのほとんどがソビエトで録音され音質が悪い。しかし第5番に関しては1973年来日時のNHK録音を始めとして、いくつかが知られている。今回私が聞いているのは、最晩年の1984年4月にソビエトでライブ録音されたものだ。Eratoから発売され、現在はDENONレーベルで音楽配信されている。音はいい。

このムラヴィンスキーの演奏と双璧をなすのが、西側の若手選手、レナード・バーンスタインの演奏だろう。もっともバーンスタインはロシア系の移民の子孫だったことから、ロシアへの愛着もあったのだろう。冷戦の雪解けが進んだ1959年、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニックとともにモスクワの舞台に立つ。この時のショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏は、華々しく楽天的でさえある。この快活な演奏をショスタコーヴィチ自身が聞いていて、舞台に駆け寄った逸話は有名だ。バーンスタインは演奏旅行の後、ボストンでこの曲を録音した。現在聞くことのできるディスクは、この時の伝説的録音として今なお名高い。私が初めてこの曲を聞いたのも、我が家にあったこの演奏のLPレコードだった。

バーンスタインとムラヴィンスキーによる2つの演奏は、今もってこの曲の東西の横綱である。

2024年2月10日土曜日

プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」作品64(小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

セカイのオザワが亡くなった。小澤征爾の指揮するボストン響は、何十年にも亘ってその磨きかかった響きを維持し、精彩を欠くことはなかった。小澤征爾のディスクは名盤が数多く残されているが、その中でも屈指の出来栄えのひとつを取り上げようと思う。

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シェイクスピアの戯曲「ロメオとジュリエット」には、数多くの作曲家が音楽を付け、様々な作品に仕上げている。もっとも有名なのは、グノーのオペラだろうか。これはそのものズバリの名作。一方ベッリーニは「カプレートとモンテッキ」を書いているが、これはキャピュレット家とモンターギュ家という意味。アバドが取り上げたが、さほど有名な作品ではない。一方、英国の作曲家ディーリアスは「村のロメオとジュリエット」。バーンスタインは同じストーリーをハーレムに移し、ミュージカル「ウェストサイドストーリー」を作曲。古い両家の争いが、罪のない男女の仲を妨げるという純愛物語は、ゼッフィレッリの映画でこれ以上ないほどの美しさに仕上がっている(よくテレビで放映されていた)。私は高校時代、英語学習の副読本として簡単なものを読んた記憶がある。

ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」は、長いがなかなかの名曲である。ロシアに目を転じるとチャイコフスキーが幻想序曲「ロメオとジュリエット」を20分程度の作品に仕上げている。両家の戦いのシーンがまるでチャンバラのようだが、初期の傑作とされている。そして極めつけはプロコフィエフである。バレエ音楽として全4幕(9場52曲)から成る作品は、通して演奏すると2時間半もかかる大曲だが、様々な振り付けで上演され続けており、有名なメロディーは3つのバレエ組曲としてプロコフィエフ自身により編成され、演奏会でもしばしば取り上げられている。プロコフィエフはさらに、10の小品から成るピアノ曲にも編曲している。

バレエ音楽は長いから、その中の管弦楽曲だけを選別した組曲で親しむことも多い。けれども私は全体を通して聞くのが好きだ。チャイコフスキーの「白鳥の湖」も、ドリーブの「コッペリア」も、そのようにして聞くと有名なメロディーが繰り返し、繰り返し現れ、次第に耳に馴染んでくる。中には退屈な部分も多いが、ストーリーの時間の経過とともに音楽が自然に流れるので、唐突な感じがなく、聞き流していくといいBGMになる。車をドライブしながら、というのもいいかも知れない。しばしば冒頭に置かれ、数分で終わってしまう最も有名な「騎士たちの踊り」(組曲では第2組曲の第1曲「キャピュレット家とモンターギュ家」の中間部に登場する)の音楽も、全曲版では何度も登場する。繰り返しと言っても、そのままではなく少しずつアレンジがされていくから、聞いている楽しみが増す。

全曲版で親しめればそれでいいのだが、ややこしいことに全曲版から抜粋して構成された組曲が3つ存在する。この3つの組曲はそれぞれ独立していて、重複はないものの選曲や順序は全曲版と相当異なっている。3つの組曲も全部を演奏することはほとんどないから、さらに抜粋されることとなる。このとき、抜粋の曲やその並べ方は指揮者によって異なることが多い。そういう風にして、もともとの作品の構成からはかけ離れた抜粋版が数多く存在しているのが実情である。この結果、ある曲に続く曲が、以前に聞いた曲ではない、ということが起こる。しかもいくつかの曲は、オリジナルの曲をアレンジしている例も多い(「キャピュレット家とモンターギュ家」、「タイボルトの死」など)。以下に全曲版の順序を記載しておくが、多くの曲が組曲のどこかに組み込まれている(わかる範囲で★を付けた)。一方、第18曲のガボットはどこかで聞いたことがあると思ったら、実は古典交響曲の第3楽章を改作して転用したものだ。好きな順で聞けばいい、と言えばその通りなのだが、音楽だけ聴いても意味がわからなくなってしまうので、原作のストーリーに照らして理解するのが結果的に効率的であるように思う。全曲版で聞いておけば、長いが一番自然でわかりやすいと考える所以である。

第1幕
第1曲 前奏曲
第1場
第2曲 ロメオ
第3曲 街の目覚め★
第4曲 朝の踊り★
第5曲 喧嘩
第6曲 決闘★
第7曲 大公の宣言
第8曲 間奏曲
第2場
第9曲 舞踏会の準備
第10曲 少女ジュリエット★
第11曲 客人たちの登場(メヌエット)★
第12曲 仮面★
第13曲 騎士たちの踊り★
第14曲 ジュリエットのヴァリアシオン
第15曲 マキューシオ
第16曲 マドリガル★
第17曲 ティボルトはロメオを見つける
第18曲 ガヴォット(客人たちの退場)
第19曲 バルコニーの情景
第20曲 ロメオのヴァリアシオン
第21曲 愛の踊り
第2幕
第3場
第22曲 民衆の踊り★
第23曲 ロメオとマキューシオ
第24曲 五組の踊り★
第25曲 マンドリンを手にした踊り
26曲 乳母
第27曲 乳母はロメオにジュリエットの手紙を渡す
第4場
第28曲 ローレンス僧庵でのロメオ
第29曲 ローレンス僧庵でのジュリエット
第5場
第30曲 民衆のお祭り騒ぎ
第31曲 一段と民衆の気分は盛り上がる
第32曲 ティボルトとマキューシオの出会い
第33曲 ティボルトとマキューシオの決闘
第34曲 マキューシオの死★
第35曲 ロメオはマキューシオの死の報復を誓う
第36曲 第2幕の終曲
第3幕
第37曲 前奏曲
第6場
第38曲 ロメオとジュリエット★
第39曲 ロメオとジュリエットの別れ★
第40曲 乳母
第41曲 ジュリエットはパリスとの結婚を拒絶する
第42曲 ジュリエットひとり
第43曲 間奏曲
第7場
第44曲 ローレンス僧庵★
第45曲 間奏曲
第8場
第46曲 ジュリエットの寝室
第47曲 ジュリエットひとり
第48曲 朝の歌
第49曲 百合の花を手にした娘たちの踊り
第50曲 ジュリエットのベッドのそば
第4幕
第9場
第51曲 ジュリエットの葬式
第52曲 ジュリエットの死★

この作品は一時アメリカに移住していたプロコフィエフがソ連に帰国し、その最初に手掛けた作品である(1937年)。だからかどうかわからないが、音楽がわかりやすくて親しみやすい。20世紀の曲らしく新古典主義的な明晰さを備えたモダンなリズムがあるかと思えば、抒情的な部分もあって飽きることがない。

長年この作品の極めつけとして名高い評価を勝ち取り、それが今でも続いている演奏がある。ロリン・マゼールがクリーヴランド管弦楽団を指揮した演奏である。こういう曲に相応しい完璧な演奏である。デッカの録音も良い。ところが、この演奏を超えるほど感動的なのが小澤征爾指揮ボストン交響楽団による演奏だと私は思う(違う意見もある)。プロコフィエフを得意としている小澤の面目躍如たる名演で、すべての音楽が生き生きと蘇り、特に金管楽器の安定した巧さが光る。集中力を維持しつつも適切なテンポとリズムを堂々と採用し、乱れるところがない。あらゆるシーンが目に浮かぶようである。

実は私は、小澤がボストン響を引き連れてニューヨークを訪れた際、カーネギーホールで聞いた演奏会でこの曲を聞いたことがある。名演だったとは思うが、そのころはまだプロコフィエフの音楽に目覚めてはおらず、従ってさほど感動しなかった。だが聞けば聞くほど味わいが増すことから、プロコフィエフの中でも屈指の名曲である。前任セルの時代の名残を残すマゼールの演奏も捨て難いが、小澤の演奏をライブで聞いたことに因んで、ここでは小澤盤を採用した。

一方、組曲のディスクでは元の組曲の順に演奏しているものは少なく、その中からさらにいくつかを選び出して並び替えることが多い。私がこれまで聞いたもののなかでは、ムーティがシカゴ交響楽団を指揮した演奏が録音も良く気に入った。ただライブ録音のため全体で45分程度しかなく、ちょっと淋しい。全曲版がいいというのは、このような欠点を感じないからでもある。

「ロメオとジュリエット」の舞台になったのはイタリアの古都ヴェローナである。ここにはローマ時代の大きな野外劇場があることでも知られ、夏になると音楽祭が盛大に開かれる。私は学生の頃にここを旅行し「アイーダ」などを見た思い出がある。そのヴェローナには「ジュリエットの家」なる観光名所があるのだが、どうやらこれは偽物で、それらしい雰囲気のバルコニーが古いアパートの一角に設えてあるという代物である。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...