2013年2月27日水曜日

マルク・ミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊演奏会(2013年2月25日、東京文化会館)

春を待つ上野公園の桜の木々は、それでもひところに比べれば随分明るくなった真っ青な空に、むき出しの枝を突き上げている。夕暮れともなると肌寒い北風が容赦なく吹いてきて、私はもう一度コートの襟を立て直した。6時前でも結構明るいというのに、ここ数日の東京はすっぽりと寒気に覆われていて、季節の歩みがストップしてしまっている。

公園内に昨年オープンしたスターバックス・コーヒーのチェアに腰掛けて、トールサイズの温かいココアを飲みながら、開演前の時間をつぶした。これから聞くミンコフスキの指揮するルーブル宮音楽隊(Les musisiens du Louvre, Grenoble)によるシューベルトの演奏会を前に、古楽奏法がすっかり定着したあとのシューベルトの音楽がどんなに新鮮なものかを想像していた。シューベルトのコンサートに出かけるのは久しぶりである。曲目はかつて第8番と呼ばれた「未完成」(第7番)と、やはりかつては第7番とも第9番とも、あるいは第10番とも呼ばれた「グレイト」(第8番)。前者はロ短調、後者はハ長調である。

思えばシューベルトの管弦楽曲は、別の曲のコンサートの穴埋めに演奏されるのが常だった。それもほとんどが「未完成」である。「運命」と同じくらいに有名なこの曲を、私はこれまで一度も実演で聞いていないことに気づいた。「グレイト」は一度だけ、サヴァリッシュ指揮のN響で聞いている。これは長い曲なので、プログラムの後半に置かれるが、一般的には比較的インパクトが少ないのでコンサートでは人気が出ない。全体にシューベルトはコンサート向きではないと考えられているのではなだろうか。

だが、オール・シューベルトのプログラム、それも月曜日の上野とあってはさぞ閑散とした人出ではないかと思っていた。ミンコフスキなどという古典派以前の曲しか演奏しないような団体のたった2度目の来日公演である。ところが予想に反して客席はほぼ満員であった。私は平均すると月1回程度はコンサートに通っているが、今回のコンサートではなぜか非常に緊張し、そして前々から夢にまで見るほど興奮していた。その理由はわからない。席が前から2列目の端っこでいつもの3階席とは視界が随分違う。

開演前のチャイムが鳴ってオーケストラが姿をあらわすまでに5分以上の間隔があった。ルーブル宮音楽隊は、グルノーブルのオーケストラなので、基本的にフランス人である。そしてミンコフスキは1962年生まれというから、私とは4歳しか違わない。背はむしろ低く、少し太っているので老けて見える。その姿を向って右斜めより見上げる形である。近くには対向に配置された第2バイオリンと金管楽器、それにティンパニが見える。その他の弦楽器と木管楽器は視界にない。

「未完成」は静かな出だしだが、何かとても緊張する曲だ。いつもはCDで聞いている「あの」甘く切ないメロディーが、本当に聞こえてくるのだろうか、と楽器の弾けない私などは思ってしまう。だからすすり泣くような音が聞こえてくるだけで感動し、胸がキュンとしてしまう。基本的にこの曲は3拍子が続く。決して静かな部分ばかりではないし、第1楽章はアレグロ・モデラートなので、遅いというわけでもない。古い楽器を使った演奏で、強弱をしっかりとつける最近の傾向の演奏かとおもいきや、それが適当なものに聞こえるのは当方の耳が馴れているからか。

それにしても第2楽章を聞いていると、なぜか若いころのことを思い出すから不思議である。それも中学生や高校生の頃。 学校に残って物思いに沈んでいると、校舎の影が延びてきて空が赤く染まる、などといった風景だ。秋の風がすっと吹いてきて、落ち葉がひらひら。なにかとても懐かしい気分になるだけでなく、それが喩えようもなく切ない。このような時間を持つことが最近はどれほどあっただろうか。音楽を聞く楽しみには様々なものがあるが、実際のコンサートであるにもかかわらず、目を閉じて耳を澄まし、次々に流れてははかなくも消えてゆくメロディーに、少しでも長く浸っていたい、と思う。シューベルトのマジックだろう。

ハ長調の交響曲は「未完成」とはまた違った味わいのある曲で、このような曲がベートーヴェンやマーラーにある魅力とはまた確かに違う。その響きは、敢えて言うとブルックナーの先駆けと言うべきか。まずその長さで「天国的に長い」といったのはシューマン、初演したメンデルスゾーンも楽譜を短縮したという。ゆっくりと演奏すればだれてくるし、速いだけでは美しくない。不思議な曲だが、メロディーは何とも素晴らしい。第2楽章の中間部で音が複雑に重なってクライマックスになったところでパッととまる。ブルックナーのような休止のあと、静かに流れだす弦楽器のメロディーなどは何と例えたらいいのだろう。

私の大好きな第3楽章のトリオは、木管楽器の見せ場でもあるが、ここのメロディーがどれほど印象的かいつも注目する。ミンコフスキはしゃがんだように背を低く屈めたかと思うと、突然パッと背伸びをして体を大きく広げ、さらには両手を左右に振る。あるときは指揮棒を口に咥えたり、譜面をパラパラとめくったり、このフランス人はかっこうをつけるのが好きなようだ。そこで思い出したのが、ベートーヴェンの指揮姿だ。伝記によれば、その身振りはとても大げさで、熱情的だったというが、それに似たような指揮ぶりとでも言おうか。

第4楽章のリズムに乗った演奏は、管楽器の一部にほころびも生じたが、全体的には大変に充実したもので、バイオリンの女性が嬉しそうにリズムを刻んでいたのが印象的だ。乗ってくると長大な曲も長く感じない。もう終わってしまうのが惜しいというほどだ。だが、いつまでも聞いているわけにはいかない。まあこれくらいで満足したかと思う頃に曲は終わる。満場の席からは大きなブラボーも聞こえ、もっと長く拍手をしていたかったが、オーケストラは割に早々と引き上げてしまった。 寒風吹きすさぶ2月の上野の坂を下りながら、いつまでも果てることなく続くメロディーが頭の中で鳴り響いていた。

2013年2月26日火曜日

ウォルフガング・サヴァリッシュ氏、死去

私がお気に入りの指揮者のひとりであるウォルフガング・サヴァリッシュ氏が89歳で亡くなった。サヴァリッシュの実演には何度も接しているし、CDはいくつも持っているが、そのどれもが思い出深い。私が初めてサヴァリッシュの演奏に接したのは、中学生の時でNHK交響楽団のテレビ中継だった。曲はベートーヴェンの交響曲第8番。いつもとは違うN響の音はモノラル録音でも感じ取れた。

初めての実演は、NHK交響楽団とのモーツァルトの第39番、第40番、第41番「ジュピター」を、大阪のいずみホールのこけら落としで演奏した1990年5月3日。これは大変熱のこもった名演で、静まり返った中での集中力が素晴らしかった。一人スタンディングで拍手した。後年東京に移り住んだ際、N響の定期会員になって雑誌「フィルハーモニー」を読んでいたら、サヴァリッシュのインタビュー記事が掲載されていた。その中で「最も思い出に残る演奏」のひとつに、このいずみホールでのモーツァルトを挙げていたのを発見し、非常に嬉しかったのを覚えている。

次はシューベルトの交響曲第8番「グレイト」。この曲の持つ深い味わいは、私をぐいぐいと演奏に引き込んだ。中でも第3楽章のトリオ部分がこれほど美しい音楽であったのかと思い知らされた。実は今日は、そのシューベルトの「グレイト」交響曲をミンコフスキの演奏で聴いてきたばかりで、この曲を実演で聞くのはこの時以来である。このことはまた改めて書こうと思う。

そしてN響第1500回記念定期演奏会となったメンデルスゾーンの「エリア」。この日はサントリーホールだったが、それなりに高いチケットを買って出掛けた甲斐があったと思う。今日タワーレコードで何か追悼用のCDを買おうと思い、手にしたのは若きサヴァリッシュがゲバントハウス管弦楽団を指揮して録音した「エリア」だ。2000円したが購入した。

フィラデルフィア管弦楽団との名演も忘れ難い。1995年にカーネギーホールで聞いたベートーヴェンの「田園」は、何か都会的な感じの演奏だったが、私の好みにあったもの。サヴァリッシュの演奏はいつも音楽がわんわんと鳴っている。この他にもN響とはいくつか聞いているが、CDでもいつも新譜を楽しみにしていた指揮者だった。

そのCDコレクションでは、まずバイエルン国立管弦楽団との管弦楽曲集が最も最初の私のお気に入りで、この指揮者の最初の購入CD。スッペやオッフェンバックの序曲のほかに、ロシアものの管弦楽曲などが2枚に録音されている。ストレートで真面目な演奏は、エレガンスは少ないが私は好きである。

古い録音では何をおいてもあげられるべきは、シューマンの交響曲全集。シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音が、サヴァリッシュの正確で無駄のない棒さばきに応える。録音も悪くない。シューマンの交響曲の古典的スタンダードと言える。

後年の演奏ではコンセルトヘボウとのベートーヴェンの交響曲第1番。全集の中で最も良い出来栄えだと思う。ロンドン・フィルとはブラームスのピアノ協奏曲が良い。独奏はコヴァせビッチ。そして盟友フィラデルフィアとは数々の録音があるが、私が持っているのはまず、シュトラウスの家庭交響曲。これは来日時のサントリー・ホールでのライヴで良い録音。さらにワーグナーの珍しい管弦楽曲を集めた一枚(については改めて書く予定)。そして隠れた名盤であるチャイコフスキーの「白鳥の湖」(全曲)。これは大変素晴らしい。あまり教えたくない宝物。サラ・チャンを独奏に迎えたパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番もこの曲のベストのひとつで、私の愛聴盤である。サヴァリッシュの巧みな伴奏が素敵で、この指揮者とイタリア音楽の相性はわるくないと思っているが、ドイツものの曲がメインの選曲は、少し損をしていると思う(今日、レコード屋でウィーン・フィルを振ったザルツブルクでの「マクベス」が売られていた。かなり興味はあったがライブ録音の音質が不明で断念)。

オペラDVDではモーツァルトの「魔笛」が思い浮かぶ。バイエルン国立歌劇場のライブで、このコンビの黄金期。CDになったドレスデンでの「マイスタージンガー」も持って入るが、まだ聞いていない。シューベルトの一連の録音(ミサ曲、交響曲)は今後揃えたいディスクとして、いつもお気に入りリストに登録されている。その他に若き日のバイロイトの録音は、いずれ聞いてみたい。

またひとりドイツの巨匠がいなくなった。合掌。



2013年2月25日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑦


九州旅行最終日の朝は福岡市近郊を行く夜行列車から始まった。夜が明けて車内アナウンスが再開される頃、原田駅に降り立った私は、筑豊本線の始発列車に乗った。先日見たボタ山を眺めながら飯塚を過ぎ、降りたのは直方だったか勝野だったか。ここから今はなき宮田線というのに乗り換えて、たったふた駅先の筑前宮田までを往復した後は、筑豊本線をさらに進んで折尾まで出た。ここは鹿児島本線との接続点だが、筑豊本線はこの先、若松まで伸びている。確かこの区間は別の列車に乗り換えたのではなかったかと思う。


若松から引き返して折尾駅で鹿児島本線に乗り換え、今度は香椎駅へ。ここはあの「点と線」(松本清張作の推理小説)で登場する駅である。香椎駅で香椎線の海側の支線に乗り換えて海の中道を行く。玄海灘に突き出すように砂州が伸びる海の中道は、かつて福岡国際マラソンのコースだったが、風が強いのか記録がでないためにルートが変わってしまった。終点の西戸崎には公園がある。そしてあの教科書に出てくる「漢委奴国王」の金印が出土した志賀島と陸続きとなっている。これは「魏志倭人伝」において卑弥呼に送ったと記録のあるものである。志賀島とは陸続きであることは、志賀島が地理で言うところの陸繋島であり、こういった様々な理由によって私はこの香椎線の博多湾側の支線に乗りたかったのだ。天気は持ち直して曇っていたが、乗客はほとんどおらず、私は何両かで走る列車の窓を開け放して春の風に打たれていた。

博多へ向かい特急「かもめ・みどり」に乗り換えて向かった先は佐世保の手前の早岐で、ここから向かい側のホームに停まっていた上りの特急「みどり」で佐賀まで戻るといったマニアックなことをするのはこれが最初で最後であった。唐津線で唐津を目指したが、数日前には行けなかった唐津と西唐津の区間を乗る。帰りは西唐津から歩いて商店街を戻り、筑肥線で博多へ戻った。


昨日からの雨もすっかりあがって、夕方からは晴れてきた。3月の終わりの九州は、桜の花が咲くのを待っていた。玄海灘からふく風は、どこかにあたたかみを感じる風で、防風林の脇を高架で走る筑肥線の窓からは、夕闇に染まる海が見えた(と思う)。博多駅のネオンサインに別れを告げ、新大阪に着いたのは23時を過ぎていた。一人旅となった後半の九州旅行は私にとって受験失敗後の感傷旅行のようでもあった。だがそれゆえに、中途半端な旅行を続けるのが徐々につまらなくなっていた。4月から再び受験生活が始まるまでの僅かな期間、私は残りの「青春18きっぷ」を使い切るために出掛けた日帰り旅行で一時の息抜きを終えた。

2013年2月24日日曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑥

臼杵駅を出発した夜行列車はまもなく早朝の延岡に着いた。仮眠程度にしか眠っていなかったが、私はここで降り高千穂線の始発列車に乗った。高千穂線は今回の目的の一つで、有名な日本一高い鉄橋を渡ることで有名であった。この路線は何と言っても神話のふるさと高千穂峡への観光に最適な路線であり、計画通りなら熊本県境を越え、高森線(現在の南阿蘇鉄道)と接続される予定だった。だが、台風の被害が大きく廃止されてしまった。
 
その高千穂橋梁は、終点から2つ目の深角駅と次の天岩戸駅の間にかかっていた。高さが105メートルということだが、上から乗って見た印象ではまわりの山々がそれなりに高いので、それほど凄いというほどでもなかったと記憶している。それよりもこの橋に到達するまでの時間が長く感じられたことと、終点の高千穂駅には何もなかったことを覚えている。しかもこの日は雨だった。そのことによって私の高千穂線の旅は印象の薄いものになった。なお、鉄橋を渡る際には列車が徐行運転をして途中で停まり、解説の放送まで流れた。毎日乗っている人には余計なことだと思われた。

延岡へ引き返し、次に向かったのは鹿児島の指宿枕崎線である。この線は今でもあるが、全長は90キロ程度もあり、単線非電化なので片道二時間半もかかる。おまけに終点の枕崎からは、伊集院へと向かう鹿児島交通の鉄道路線がすでに廃止されていて、そこから先へは鉄道がない。このため同じ路線を戻ることになるので、全部で5時間以上を要することとなるのである。

指宿枕崎線は鉄道好きにとっては、最南端の駅である西大山駅を通ることや、その時の特徴的な薩摩富士(開聞岳)などの車窓風景もあって有名ではある。だが、観光地である知覧へは行かず、指宿温泉にでも泊まらない限りは、少々退屈である。加えて私が乗車した日は朝から大雨であった。噴煙を上げる桜島を見上げるjこともなく、指宿に着いてもますますその雨脚はひどくなり、日もくれて何もすることがない。湿気で車内は蒸し暑く、混雑している。

結局この日は悪天候のため、ただ「乗った」というだけの一日だった。何度目かの西鹿児島駅で夕食を取り、またもや夜行に乗り込んだ。目指すは北九州である。当時は夜行列車にもそれなりの客が乗っていた。私が高校生であることを知っていながら、向かいに座った老人は私に焼酎を勧めた。旅の友として社交辞令のつもりであったのだろう。九州ではお酒が重要なコミュニケーションの手段であると思っていたので、私は断ることができなかった。だが疲れがどっと出て、私はまもなく睡魔に襲われた。列車のアナウンスが東海道新幹線の積雪による遅れを報じていた。南九州の列車ダイヤが岐阜の大雪で狂うのも滑稽だったが、中央集権国家の象徴たる鉄道というのはそのようなものなのだろう。


ただ時刻表をなぞっていくだけの旅行にどれほどの創造性があるというのだろうか。ただ退屈しのぎに、持て余した暇とわずかな体力を浪費しているに過ぎないのではないか、などと思った。鉄道旅行などというものが、さして意味のあるものではないと思われて仕方がなかった。飽きて来たのだろうと思った。受験勉強の合間の息抜きという以上の意味は、見いだせそうになかった。だから私はもう帰ろうと思った。後一日のり歩いたら、大阪へ帰ろうと思った。その時はもちろん新幹線に乗ろうと思った。列車は単調なレール音を響かせながら、夜中の東シナ海沿岸を北上していた。

2013年2月23日土曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑤

大阪に一時帰宅してわずか数日後、南九州を目指して大阪駅を出発した。今度は一人旅である。そのまま山陽本線を下るのは面白くないので、私はまだ一度も行ったことのない四国を経由するこにした。四国は当時、大阪からは近くて遠いところだった。今のように長い橋が3本も架けられる前の話である。当時関西から四国に行くには、神戸や和歌山からフェリーに乗るか、伊丹から飛行機でいくしかなかった。南海電鉄などは難波から、徳島行きのフェリーに乗り継ぐための特急列車を走らせていたくらいだ。

いまひとつ四国に鉄道で行くには、岡山から宇野まで行き、そこから宇高連絡船に乗るという方法もあった。この連絡船は国鉄が運行しており、青春18きっぷでそのまま乗ることができた。所要時間は確か1時間で、その間は瀬戸内海の風景を眺めることができる。高松に着いたのは丁度お昼頃だったと思う。瀬戸大橋線ができた今とは違って高松駅は、フェリーが到着する四国の玄関口で、雑然とはしていたが活気があった。高松駅からは予讃本線に乗り、松山を目指す。

瀬戸内海をのんびり走る予讃本線は、ときどき長い停車時間の駅があったように思う。私は伊予西条や新居浜といった駅に到着するたびに、駅前を小一時間散策し、そして再び列車に乗り込んだ。四国山地がなだらかな傾斜を伴って瀬戸内海に落ちる。その丁度中間くらいの高度を、カタコトと言いながら列車は春の日差しの中を進んでいった。

結構な時間を要して松山に到着した時には、日もくれていた。夜の8時ともなると、県庁所在地の駅とはいえもう最終列車の趣きである。ここから八幡浜まではさらに2時間を要した。夜の八幡浜は静かな漁港で、これといって見るものはないようだったが、もとより夜も更けていく時間なので仕方はなく、私はフェリーののりばへ急いだ。人気のない漁港の居酒屋から、カラオケに興じる客の歓声などが漏れ聞こえ、それ以外に音や灯りはなく田舎の夜はこうもさびしいものかと思った。

八幡浜から石仏で有名な大分県の臼杵へ向かうフェリーは、日付が変わった頃の出航だった。所要時間は2時間半ほどで、深夜の3時頃に臼杵に着く。この2等船室で仮眠を取る予定だった。だが平日深夜の豊後水道を渡るフェリーに乗り込んだのは、長距離トラックとその運転手ばかりだった。2等船室の雑魚寝スペースでは、出向前からビールを片手に乗り込んだトラック野郎が、大声でしゃべりながら飲んでいる。みな顔見知りなのか打ち解けて入るが、そこに単独で乗り込んだ私は大層居心地が悪い。ここは寝てしまおうと横になっていたが、いつのまにか宴会の席もすぐに静かになった。

夜の海は真っ暗で、吸い込まれそうなほど不気味である。私は甲板に出ようと思ったが怖くなり、ひたすら到着を待った。深夜の臼杵港に到着したことを知らせる汽笛が鳴るときには、さっきまでいたトラック運転手がもういない。彼らはすでに各自のトラックに乗り込んで走りだすのを待っていた。私も客室から出口へと向かった。そこは自動車の駐車スペースで、その脇から乗下船する小型のフェリーである。だが他に客はいない。そして車はみな大型のトラックである。そのうちの何台かは家畜運搬車で、豚や牛の匂いと鳴き声が轟いている。私は何か恐ろしいものに乗り合わせたように思った。

問題は臼杵港からどうするかである。待合室のようなところがあればそこで夜を明かそうと考えていた。だがそのようなところへ行くには、真っ暗な港をトラックに引かれないように周らなくてはならない。だが基本的にトラック運搬用のフェリーには、そのような配慮もなく、乗船員もいない。私はどうしようかと焦っているうちに大きな乗り込み口がゆっくり開いて、向こう側に陸地が見えた。私は一目散にそこを出ると、そこにはただ1台だけタクシーが停まっていた。丸で私を待ってたかのようなタクシーに私は飛び乗り、駅に行くように運転手に告げた。何分か走って臼杵駅に着くと、まもなく西鹿児島行き夜行列車の到着時刻だった。私はその自由席に飛び乗り、ボックスシートを専有した。九州とはいえ3月の深夜である。吐く息は白かった。だが列車は静まり返っており、フェリーに比べると何と上品で心地よい乗り物かと思った。

2013年2月22日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)④

甘木線の一番列車に飛び乗って、終点の甘木駅に着いたものの、そこには何もない。駅舎のガラスは割れていたりするのを覚えている。それで引き返し、今度は鹿児島本線を下って久留米まで行った。工場の労働者の出勤時間に重なり、駅で缶コーヒーを買う人などでごった返していたが、私はここで友人ととうとう別れた。

気の合う友人とはいえ、同じ列車にまる4日も乗り続けていると、お互い気まずい雰囲気になってくるものだ。彼は大阪へ帰ると言い出すし、お金をかけたくないそうでそのまま山陽本線を鈍行で帰べきだと主張する。私はもう少し乗っていない路線などに出かけ、追加料金を払っても最終の新幹線で帰ればいいと言ってみる。ここで話はついに決裂した。甘木線に乗ったのは時間が余ったからで、これから久大本線経由で大分まで行こうと私は考えていた。甘木線はその後間もなく廃止されてしまった。

一人で乗る久大本線は、日田英彦山行きのディーゼル列車であった。遠くに九州山地の山並みが見えるが、線路から山のふもとまでは平野が続く。いくら見ていても変化のない景色だが、それはのどかである。春の朝日が車内に入り、空いた列車はコトコトと静かに走っていく。それに合わせて私もうとうとしているとあっという間に1時間以上が経過した。さらに大分まで乗り継ぐ。由布院を通るあたりは特徴のある九州の山を眺める。そう言えば九州の山はみな個性的である。

大分に着くとわずか1分の乗継時間で豊肥本線に乗り継ぐ。今度は急行である。つまり九州を西から東へ横断し、折り返して今度は東から西へ横断する。大分を出てしばらくは平凡な上りだったが、分水嶺を超えて熊本県に入ると一気に景色が開け、阿蘇の外輪山が見事に見えた。私は感動し、ゆっくりと下っていく車窓風景を眺めた。この阿蘇から熊本までの区間は、今回の九州旅行の二つ目のハイライトであった。九州山地を一気に下る(途中にスイッチバックもある)豊肥本線の最終区間は、地形が急峻で一気に山を駆け下る見事なものだ。

熊本から特急で博多に出ると私はとっさにある考えを思いついた。これから大阪へ帰る一応の目的は、合格発表のためである。だが受験の出来が悪かった私は不合格を確信していた。不合格の場合、浪人生活を送るために必要な予備校の入試!というのが一応発表前に行なわれるので、それを受けなければならない。だが、それが終わると、晴れて?浪人生活の身となり、何にも拘束されない日々が続くはずである。予備校の入学式は4月だし、それまでは勉強する気にもなれない・・・。

それならいっそ、今回乗れなかった高千穂線や指宿枕崎線に乗ってみたい。日本一高い鉄橋や開聞岳に未練が残る。だが、これらの路線は長い盲腸線で、往復することになるから時間がかかる。そういうマニアックな旅を続けるのも徐々にバカバカしくなってはきたが、ここまできたら行かないわけには行かない。

九州ワイド周遊券は有効日数が確か14日だった。わずか5日で大阪へ帰るのはもったいない。そこで私にひらめいた考えは、旅を一旦中断することだった。周遊券で小倉までは乗車できるから、新幹線のきっぷは新大阪までの特急料金と、小倉から新大阪までの乗車券となる。今日中に最終の山陽新幹線ひかりに乗って大阪へ帰り、予備校の入試と合格発表を済ませた翌日、「青春18きっぷ」でも買って再び九州に戻ろうではないか。その時には、山陰本線経由で行くか、それとも四国を経由するか・・・。

私は3月の浪人生活最初の日々を、ただ鉄道に乗り続けることで気を紛らわす戦略を採用することに決めた。日が暮れてから乗車する山陽新幹線上り列車は、1車両にひとりというくらいにすいていた。3人がけのシートを回転させて6人向かい合わせとし、そこに一人足を伸ばして専有した。新大阪までの3時間は、世の中にこんな快適で速い乗り物があるのだろうか、というくらいに豪華に感じられた。それもそのはずで、私はとうとう九州でただの一泊も旅館などには滞在しなかったことになる。だが私はまだ若く、疲れるといった感じは何もなかった。それどころか列車の中で時刻表を見ながら、翌週にも戻る九州へのルートを検討し始めていた。

2013年2月21日木曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)③

九州旅行4日目の行程は、都城から始まった。朝の吉都線で吉松へ。ここは霧島高原を北上する美しいルート。そして粟野へひと駅戻ると、今度は山野線で水俣へ。川沿いに綺麗な山並みを眺めながら、ゆっくり下るローカル線は、私を心地良い春の居眠りに誘った。そのせいかどうかわからないが、ここの記憶がほとんどない。乗り換えの田舎の駅で、同じような鉄道ファンが一生懸命写真を撮っている風景を覚えている程度である。

吉都線は今でも走っているが、山野線は私が乗車したわずか3年後に廃止されている。ここには大川ループという部分があって、勾配を登り降りするためのぐるっとまわる線路があった。私も乗ったのだとは思うが、残念ながら記憶にない。今では廃線跡となっていると思われる。中には廃線跡を歩く趣味の人もいるようで、地図好きには楽しいのかも知れないが、何も線路跡を散策しなくても良いわけで、今ではほとんどなくなったローカル線趣味の補完的なもののような感じがして、好きになれない。

水俣からは特急で八代あたりまで出たのだと思う。次に乗ったのは、記録によれば肥薩線ということになっているからだ。この肥薩線は私の九州旅行のクライマックスのひとつと言ってもいい。有名な大畑ループとスイッチバック、その向こうに広がる高原の風景。ローカル線のひなびた駅に列車が停まり、対向列車がすれ違うのを駅に出て眺めていた。南国の春の涼しい風が頬を撫でた。私は受験勉強の期間に忘れていた自由な時間を楽しんでいた。

それにしても九州の地図を眺めても、ここの肥薩線がこのような区間を走るとは想像していなかった。それどころか、このルートは鹿児島本線が海沿いのルートを走るまでは、熊本から鹿児島へ抜ける唯一の幹線だった。つまりは鹿児島本線だったということだ。これは明治時代の話しである。当時作られた橋やトンネルが、今でも使われているのだろう。蒸気機関車でも登れるようなゆるい勾配にするためループやスイッチバックが設けられた。だがこれを通るには時間がかかる。のんびりした時代には、それでも鉄道で超えていけるというだけで近代の象徴でもあった。そこには今ではトンネルで一気に鹿児島から八代へ抜ける九州新幹線が走っている。

球磨川と人吉は、そういうわけで幹線ルートからさらに遠ざかる結果となった。現在「えびの高原鉄道」となっているのは観光PRに力を入れているからだろう。それは当然のことかもしれない。だがそうなればそうなったで、あの風情は失われてしまっただろうと思う。だから私は再度ここに行ってみたいとは今でも思っていない。

何度目かの西鹿児島に戻った私たちは、ここから出ている指宿枕崎線に乗ろうかと考えた。だがこれを往復するとそれだけで何時間もかかる。ここまで来たら是非行ってみたいとは思ったものの、夜行列車はまもなく博多へ向けて出発しようとしている。当時西鹿児島には東京行きの寝台特急「富士」なども走っていたので、私たちはその出発風景などを目に収め、4日目の夜行急行に乗り込んだ。もちろん座席車である。クロスシートの片側2席を占領し、缶ジュースの空き缶でシートを浮かせるようにして斜めのベッドを作り、頭を通路側の座席の手すりに置き、足を窓に沿って上へ突き上げる。このような姿勢を保ったまま眠りに入ると、それ以降に乗ってきた客に起こされる心配はなかった。だがその日は少し混雑していた。早朝の熊本駅で下り列車とすれ違った時には、私は起こされ、その長い停車時間を利用してジュースを買ったりスタンプを押したりした。3月の九州はまだ寒かった。だが春休みのシーズンに入り、観光客が関西方面からも来ていて、それまでの日とは違った華やいだ感じがするのだった。

2013年2月20日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)②




日豊本線をほぼ完走する夜行急行「日南」は、1993年に廃止されているので私はその8年前に乗ったことになる。周遊券で乗れるのは座席車の自由席と決まっていたので、西鹿児島駅の始発に並び、20時前の発車までを乗車して時間を過ごした。その後夜の宮崎、大分を通り過ぎ、目がさめる頃には行橋駅を通過していた。小倉駅で下車した私たちは、ここからローカル線の宝庫とも言うべき北九州の炭鉱地帯を、時刻表を駆使しながら乗車したはずである。

はずであると書くのは、その行程の記録がなく完全には思い出せないからだ。ただ私は「私の旅スタンプ」を駅で押すことを続けていたので、その順をたどることができる。そこで何とか記憶をたよりに推定した行程は、以下の通りである。

1)小倉から日田彦山線で田川後藤寺へ
2)田川後藤寺から後藤寺線で新飯塚へ
3)新飯塚から篠栗線で博多へ

この行程は今でも残っている線路を横断するだけで、廃止された添田線や上山田線などを経由していない。私はここのところがどうしても思い出せないのだが、いろいろ考えてみるとこれらの路線を走る列車は大変少なく、結局諦めざるをえなかったのではないかと思っている。しかしどこか盲腸線を折り返した記憶もある。それは何日か後に往復した宮田線だけではなかったかと思われる。

筑豊地帯は五木寛之の小説「青春の門」で有名なボタ山地帯である。炭鉱が数多く掘られ、昭和の初期は多くの炭鉱の町があった。しかし私がここに行った昭和の終わりには、すでにその面影はなく、町に活気はない。ほとんどの炭鉱は廃山となり、ボタ山だけが殺風景に存在していた。子供の頃は炭鉱の事故が時々あって、そのたびに生き埋めになった人がいた。私はそのような町がどのようになっているか、興味があった。中学校の国語の先生がここの出身で、当時の話をよくしてくれたことによるのかも知れなかった。

だが私の期待は軽く裏切られ、そもそも列車に乗る以外は降りてどこかを散策することもないマニアックな旅である。やがて列車は福岡市の近郊列車になり、朝の通勤ラッシュの時間帯と重なって混雑しはじめた。春の寒い空気と車内の蒸し暑さの影響で車窓が曇り、何か気分が悪くなるような感じを伴いながら博多駅に到着した。

博多からは特急列車に乗って長崎まで行った。列車は「かもめ」であったと推測される。車窓風景も何も覚えていないところを見ると、おそらく連日の夜行疲れで眠っていたのだろうと思う。初めて着いた長崎は坂の町で、他の都市に比べると独特の雰囲気があるように思った。次に乗る大村線の列車までのわずか1時間を、私たちは最初の20分で登れるところまで坂を上り、そして写真を撮って坂を下った。長崎湾が眼下に見えた。数少ない町の思い出である。

大村線は諫早から出ていたが、私は長崎から諫早までの上り区間を、長崎本線の旧線をはしる列車の乗った。この区間は急峻な山の縁を回るなかなかの景色で、ほの暗い当日の天候と深い入江の雰囲気に圧倒される思いだった。遠藤周作の小説「沈黙」の舞台は、このような風景が舞台である。私は朝通った炭鉱の風景と、大村湾の静かで深い風景を同時に思い浮かべた。

大村線を早岐で乗継ぎ、佐世保からは松浦線に乗り換え、最西端の駅平戸口へ向かった。九州でもこのあたりの風景は、南九州や阿蘇地方とは随分異なる。西日の差す伊万里に着く頃には日が傾き、唐津の商店街を歩いているうちに日が暮れた。肥薩線が福岡市の地下鉄に乗り入れ、夜の博多に戻ったのは9時頃だったのではないかと思う。何日かぶりに銭湯へ行き、体をリフレッシュさせると、私たちは再び夜行列車に乗り込んだ。行き先は西鹿児島である。だがこの日は土曜日で臨時列車が走っていた。それも特急である。自由席も付いていて、私たちは少しグレードの高い車両に乗り込んだ。夜中の熊本で上り列車とすれ違ったことだけを記憶している。

2013年2月19日火曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)①

1年間の受験生活は、私を鉄道旅行からまったく遠ざけた。模擬試験会場への往復を考慮しても、大阪府の北部を一歩も出なかったのではないかと思う。そういう禁欲的な生活が終わり、最後の受験を終えたその翌日に、私はまたしても友人のN君に誘われて、九州周遊旅行に出かけることになった。まだ合格発表もないその期間に、私たちは大阪駅に集合し、山陽本線を一路西へと向かった。肌寒い初春の晴れた日のことであった。

広島までの区間はかつて一度通ったことがあったが、それより西は初めての区間で、瀬戸内海が見えないかと随分期待した。なぜならそれまでの区間でもあまり海は見えないし、各駅停車とは言え随分混んでいた。だが広島を過ぎても列車はなかなか空かなかった。結局、山陽本線というのはあまり楽しい路線ではなかったという思いでしかない。やがて暗くなった頃関門トンネルを通った。まだ青函トンネルがない時代で、海を越えるトンネルに随分と興奮した。

門司港の駅は門司からひとつ戻ったところにある。鹿児島本線はここから始まる。九州ワイド周遊券は、九州内のすべての特急と急行列車に乗り放題であった。門司港を始発とする西鹿児島行き急行列車の自由席(座席車)に乗って、宿泊代を浮かそうと考えた。私たちはたしか急行「かいもん」の自由席に乗り込み、早朝の川内に到着するまでの時間を過ごした。以後数日間、私たちは夜行急行を連日乗り、日替わりで北九州と南九州を行ったり来たりという奇妙な列車旅行を敢行することになるのである。


川内で下車したのは宮之城線の始発列車に乗るためである。宮之城線はその後1987年に廃止されているので、私はその2年前に乗ったことになる。私はそういうことを知らずに、ただ友人について行っただけだった。一日に数往復しか走っていないようなローカル線で、山深い南九州の急峻な谷間を、ゆっくりと走っていく様子は、3月とは思えないような明るい日差しとともにわずかに記憶している。

山間の薩摩大口駅にて肥薩線の南半分を隼人まで下り、一旦西鹿児島駅まで出た後、特急列車に乗って宮崎へ行った。日豊本線の鹿児島と宮崎の間は、想像していたよりも山の中を走り、途中で大雨が降っていたようにも思う。そして宮崎で少し時間を潰した後、今度は日南線で志布志へ、さらに大隅線で再び鹿児島へと戻った。

大隅半島をめぐるこのルートは、今では日南線を残すのみとなっている。私はとにかく眠かったので、車窓に海が現れて有名な洗濯岩が見えたくらいのことしか覚えていないのだが、桜島を身近にまわる大隅線の鹿屋駅が、何となく灰におおわれて霞んでいたことと、自転車に乗ったひとりの高校生が猛スピードで広大な農道を走り、後に女子生徒が乗っていたことだけを、どういうわけか鮮明に覚えている。

私にとって初めての九州旅行、それも南九州の山間部と海岸を同時にめぐった初日が、ようやく終った。当時鹿児島の中心は西鹿児島駅で、ここで私は夕食を取り、そして再び今度は夜行列車「日南」(座席車)に乗った。今度は日豊本線を北上し、朝には北九州を乗り回す計画であった。3日間にわたって列車に乗り続け、2日連続の夜行列車に、私たちは少し疲れてきてはいたが、それでもなお、奇妙な嬉しさが続いていた。

2013年2月18日月曜日

マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」(花の章付き)(小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

マーラーの交響曲第1番に関して述べられるべき事柄のうち、避けて通れない最大のものは、この曲が作曲された経過についてである。この曲は大きくは2回の改訂が行われたことに加え、そもそもこの曲は「2つの部分からなる交響詩」として作曲されている。

マーラーは作曲家としてではなく指揮者として音楽家のスタートを切る。 これは必ずしも本人の希望ではなかったようだ。指揮の活動を続けながら、何とか時間を割いて作曲に勤しむが、最初の交響曲と書くというのは、ベートーヴェン以来あらゆる作曲家にとって大変に敷居の高いことだったのだろう。彼は最初の交響曲を交響曲ではなく、「交響詩」として作曲し、なおかつそこに詳細なガイダンスをつけている。加えてパウルの小説にちなんだという「巨人」というタイトルも。

これらは後に修正されているが、どういうわけか「巨人」というタイトルのみが生き残っている。これには合理的な説明ができない。そこで「巨人」などというからには、マーラーが最初に書いた解説を知っておく必要がある、ということになる。

  第1部 「青春の日々より」
   1.終わりなき春・・・現在の第1楽章
   2.花の章・・・後に削除された部分、アンダンテ
   3.帆をいっぱいに張って・・・現在の第2楽章、スケルツォ
  第2部 「人間喜劇」
   4.座礁・・・現在の第3楽章、葬送行進曲
   5.地獄から・・・現在の第4楽章。深く傷ついた心が突然爆発

このような解説は、「巨人」というタイトルとともに、誤解の温床となる。それでかどうかは知らないが、マーラーはこのような解説を削除し、さらには「花の章」も削除してしまった。現在のように交響曲第1番といわれるようになったのは、ブダペスト初演(1889年)、ハンブルクでの改訂(1893年)を経た2度目の改訂の時で、ベルリンで自ら指揮をした演奏(1896年)からである。着手から12年、初演時の失敗から8年も経っている。

このような解説を読んでしまうと、それをどうしても意識してしまうのだが(マーラーによれば「間違った道」に入り込んでしまうのだが)、後に削除したとはいえ自身が書いたのだから、私としてはまあ当たらずしも遠からずということではないかと思っている。

その中で気になるのは削除された「花の章」である。この曲を含めて録音されたレコードは、かつてほとんどなかった。原典主義が流行る現在ではそうでもないが、少し前にこの曲を知る手がかりを与えてくれたのは、小澤征爾がボストン交響楽団と録音した2つのうちの最初の方のものだった。この演奏を今聞いてみると、「花の章」だけでなく全体が大変素晴らしいので、そのことを含め書いておきたくなった。

小澤征爾が村上春樹と対談した単行本「小澤征爾さんと、音楽の話をする」(新潮社)は大変おもしろい本である。インタビュアーとしての村上春樹の深い音楽的知識に根ざした視点と、それを文章に起こすプロのテクニックによって、この本はそこらへんの対談本にはない深みが見て取れる。その中に小澤征爾のマーラーに関する部分が大きくあって、大変興味深く読んだ。

それを読んで改めて認識したのは、小澤はかなり以前よりマーラーの音楽に触発され、経験を積んでいることもさることながら、その経験の系譜が本流のマーラーの流れであることである。すなわち、マーラーの弟子だったブルーノ・ワルター、その弟子のレナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督だった時代に、クラウディオ・アバドよりも少し早く副指揮者となり、マーラーの音楽が世界中に広がりを見せていくなかに、彼自身が直々に存在していたことである。

そのことによって小澤の演奏するマーラーはまた、他の演奏にはない説得力と、さらに小澤流の新鮮な解釈が含まれる結果となったようだ。それには小澤がヨーロッパ出身の指揮者でないことも関係しているだろう。だが非ヨーロッパ的世界にまでテーマを広げたマーラーの音楽観を表現するぬいは、それはむしろプラスだろうと私は思う。その最初の録音が、ドイツ・グラモフォンによる1977年の「巨人」だったということになる(小澤はこの後にもボストンと「巨人」を再録し、さらにサイトウ・キネン・オーケストラとも録音している。だが「花の章」入りは最初の録音だけである)。

第1楽章のみずみずしい響きは、このコンビならではのものだ。「新しい響き」とされる7オクターブにも及ぶA音や、減4度のカッコウも、ボストンの木管楽器の美しさといったら喩えようもない。一気にクレッシェンドする主題の出だしなどは、他には見いだせない魅力で、この演奏は今でも決して色あせることのない光彩を放っている。

そして花の章。何とも美しい曲でなぜこれが削除されたかはわからない。もっと演奏されてもいいと思う。トランペットによるメロディーが、マーラーの音楽にしては古風でロマンチックである。美しい曲だが、他の楽章を全部聞いても長い曲なので、なくてもいいと判断してしまったのだろうか。

第2楽章のスケルツォは、ハイティンクの演奏ほどに弾んではいないが、重く引きずる事はない。さらに、コントラバスの独奏というユニークな開始となる第3楽章に至っても、音楽が泥臭くない。このメロディーをもっとねっとりと演奏する(ユダヤ風?)ことが好きな向きは多いだろうと思うが、私はこの演奏が大変気に入っている。兵隊のラッパや民謡を思わせる節の美しさなどはピカイチだと思う。

間髪を入れず始まる第4楽章は、賑やかな音楽が静まると再び爆発する、といったマーラー節全開の曲で、最初はわけがわからなかったが、今ではもっと総合的に理解することができるようになった。それにしても一度聞いたらもう一度始めから聞きたくなるような演奏である。

大変な曲折の末、とにかくも交響曲第1番は完成し、そして続く10曲に及ぶ交響曲作曲家の第1歩を記すことになった。この曲がそれまでの音楽にない革新性を持っていることは、上記のように十分に語られているが、それにも増して驚くのは、ここからさらに交響曲を発展させていくマーラーの作曲の軌跡である。それをベートーヴェン以来のシンフォニストであると言うのは、まったくもって正しいと言わねばならないだろう。



2013年2月11日月曜日

ロット:交響曲ホ長調(レイフ・セーゲルスタム指揮ノールショッピング交響楽団)

そう遠くない昔でさえ、ブルックナーとマーラーは単に長い交響曲ばかりを書いた作曲家として一緒に考えられてることがあった。我が国で、いや世界的にも人気が出始めたのは、60年代以降のことで、特にCDの普及が長時間再生を可能としたことが大きかったようにも思う。だがこの二人は、その作風が全く異なる。

詳しいことは音楽の専門家が書いているが、ブルックナーはマーラーよりも年上で、その世界はドイツ・ロマン派の流れの中に位置付けられる。一方のマーラーは、そこから逸脱し、非ヨーロッパ的世界にも通じる作風を打ち立てた。交響曲や既存の音楽の枠組みを進めて、それを壊すきっかけになったという点で、ブルックナーとはまったく異なる世界と考えるべきである。だがこの二人は関係しあっている。マーラーはウィーン音楽院でブルックナー先生の授業に触れた可能性もある。

ブルックナーが活躍していた頃のウィーンを語るには、さらに二人の大作曲家に触れないわけには行かない。ブラームスとワーグナーである。生まれた年代順に考えると、ワーグナー(1813年)、ブルックナー(1824年)、ブラームス(1833年)ということになる。そしてマーラー(1860年)がボヘミアの田舎から出てきた音楽学生だったころ、ウィーンにはこういった大作曲家が活躍し、後の音楽家に影響を与えた。彼らはマーラーよりは一世代上ということになるだろうか。

マーラーの世代は、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスらの発展させたドイツ音楽の最先端に触れ、その次の世界をどう構築するかについて悩み抜いただろう。マーラーが最初に交響詩というジャンルとして「巨人」を作曲し、ブダペストで初演をする時には、すでにマーラーらしい作風になっていて、初めて聞くものを驚かせるのだが、そのマーラーとてひとっ飛びに自分の世界を確立したわけではない。若きマーラーに影響を与えた先輩格の作曲家のひとりが、今日聞いたハンス・ロットであり、その代表作が交響曲ロ長調であるらしい。ロットはマーラーより2歳年上で、マーラーがその音楽を大いに評価し、楽譜を借りてまで勉強したようだ。

ロットは20歳の時に交響曲ロ長調を作曲したが、その音楽は尊敬するブラームスに認められず、そればかりか作曲を断念するような忠告をもらったという。これに落胆したロットは、列車の中で発狂し、精神病を患ったあげく自殺未遂をおかす。わずか26歳で夭折した天才作曲家の音楽は、しかしながらマーラーに受け継がれた。その音楽を聞くには、現在出ている数枚のCDに頼ることになる。1989年に世界ではじめて録音されたというから、これは古くて新しい曲だ。最近の録音では、パーヴォ・ヤルヴィがフランクフルト放送交響楽団を指揮した録音が評判だ。

私が聞いたのは1992年の録音になるフィンランドの指揮者セーゲルスタムによるBISへの録音。第1楽章は師匠であったブルックナー風の音楽で、ロマン派のメロディーもゆったりと流れ、少し若々しいが美しい曲である。第2楽章もブルックナー風だが、曲が進むにつてて円熟味が増していくように感じられる。そしてとうとう第3楽章になって、マーラー風の音楽が姿をあらわす。

マーラーがこの楽章から影響を受けたのは、特に明らかである。そのメロディーがマーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章(スケルツォ)の後半部分と明らかに似ている。また同じ楽章の最終部分は、やはり「復活」の最終楽章、舞台裏から聞こえる金管のコラールに酷似している。この他にも、どこの部分がどこに似ているかという発見は、スコアが読めれば限りなくあるのだろうと思われる。それにしてもこの第3楽章は15分足らずの曲ながら、その管弦楽の素晴らしさに圧倒的に興奮させられる。

しずかに始まる第4楽章は、再びブルックナー風と言えるかも知れないが、その最終部分に至っては、ワーグナーの影響が見て取れるようだ。全体で60分を超える大作だが、何かと聞きどころが多いという点でつとに飽きることがないほどに面白く、また不遇の作曲を思うとまたいろいろと考えさせられる曲でもある。特に後半の2つの楽章は、それだけで恐ろしく充実しているというべきだろう。

ワーグナー、ブルックナー、それにブラームスの世界をマーラーに引き継いだ作曲家だったロットは、精神病のためにほとんどの自らの作品を破り捨てたらしい。わずかに残った交響曲が、彼を知る手がかりとなったが、この曲が我が国で初演されたのは、その死から120年が経った2004年のことであった。

2013年2月10日日曜日

ドニゼッティ:歌劇「マリア・ストゥアルダ」(The MET Live in HD 2012-2013)

ドニゼッティの「女王三部作」といわれるうちのひとつ「マリア・ストゥアルダ」は、輝かしいMETの歴史においても何と初演であるという。これは昨年の「アンナ・ボレーナ」もそうで、METはドニゼッティに少し冷たかったのか、それとも観客が好まないからなのいか、よくわからない。ちなみにもう一つは「ロベルト・デヴェリュウ」というもので、これは来シーズンの演目となるようである。

滅多に上演されず、従ってあらすじも知られていないオペラだが、全3幕の登場人物は少なく、場面もそう複雑ではない。だが、いきなりこのオペラをみるのではなく、やはり歴史的背景を知っておいたほうが良い。そしてその話は、「メアリー・ストゥアート」としてよく知られ、数多くの文学作品や映画になっているものである。ドニゼッティはシラーの原作を独自にアレンジして、このイギリスを舞台とした暗い物語を、オペラ・セリアに仕立てあげた。

背景に関する記述をMet Live Viewingのホームページ(松竹)より、出典を明示した上で一部転載しようと思う。

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「現在のイギリスは、16世紀には、南部の新教(現在のプロテスタント)を信仰するイングランドと、北部の旧教(カトリック)を信仰するスコットランドという二つの王国が、宗教や領土をめぐって対立していました。そんななか、スコットランドで、ジェームス5世と旧教国フランスから迎えられた王妃マリー・ド・ギースの間に生まれたのが、メアリー・スチュアートです。生後6日で父親が逝去し、スコットランド女王となったメアリーは、その後、幼くして未来のフランス王妃となるために、フランスに渡り何不自由ない幸せな青春時代を過ごしていました。

一方、イングランドでは、メアリーの大叔父にあたる専制君主ヘンリー8世が、すきあらばスコットランドの侵攻を企んでいました。このヘンリー8世は、オペラ《アンナ・ボレーナ》(英語:アン・ブーリン)にも登場したとおり、世継ぎの王子が生まれないことを理由に王妃と無理やり離婚し、旧教と決別してまで、愛人のアン・ブーリンと再婚。その二人の間に生まれたのが、エリザベスです。(《アンナ・ボレーナ》でも赤毛の少女が登場していましたね。)しかし世継ぎを産めなかったアン・ブーリンも、濡れ衣を着せられヘンリー8世に処刑されてしまいます。そのため、エリザベスは庶子として不遇な少女時代を過ごすことになります。

メアリーはフランス王妃となりますが、王がすぐに死去し、19歳で混乱の祖国・スコットランドに帰国することになります。一方、イングランドでは、ヘンリー8世の逝去後、姉弟たちが死亡するなか、エリザベスが王位継承者として即位。しかし、彼女がヘンリー8世の庶子であったことを指摘し、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリー・スチュアートこそが正統な王位継承者だという派閥が出てきます。エリザベス1世が議会に嫡子と認められても、王位継承を主張するメアリーに対し、エリザベスは大きな敵対心を抱くようになります。

スコットランドに帰国後、メアリーは再婚するも不幸せな結婚となり、夫の殺害疑惑や別の男性との不倫疑惑・再婚など様々なスキャンダルのあと、祖国を追われる身となります。メアリーはイングランドのエリザベス1世に助けを求め、エリザベスもメアリーを受け入れますが、宗教対立など多くの火種をはらむメアリーを軟禁状態におきます。自分の権力と自由を取り戻そうとするメアリーは、エリザベス1世の暗殺事件計画の陰謀にも巻き込まれ、謀反の罪で、死刑宣告を受けます。」
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上演後の感想は「素晴らしい」の一言につきる。ベルカントの世界がこれほど見事に再現された最大の理由は、表題役マリア・ストゥアルダを歌ったメゾソプラノのジョイス・ディドナートに尽きる。彼女は登場したその時点から、最後の幕切れまで完璧であった。歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない。オペラの醍醐味がこれほどにまで伝わるのは、何を置いても彼女の歌に尽きる。

彼女の宿敵、エリザベッタは南アフリカ出身のソプラノ歌手エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーで、彼女は役になりきるため頭髪を丸刈りにしたという力の入れよう。その甲斐もあって第1幕のシーン全般と、続くマリア・ストゥアルダとの壮絶な女同士の対決のシーンは息を飲むほどの素晴らしさであった。彼女はマリアに比べて年齢が少し上であるという史実と、前半と後半での10年の時差があるということを表現することに、演出のデイヴィッド・マクヴィカーはこだわったとインタビューで答えている。それに見事に衣装の変化を合わせたところは、(インタビューの通り)このオペラの見どころだったといえるだろう。

男性陣の3人は、いずれも脇役に徹していたように思われる。ロベルトを歌ったポレンザーニは、他の作品で魅せるテノール歌手の出番ほどには目立たないように工夫していたのではないかと思われた。そのことがかえって、主役の二人を際立たせる結果となった。それはタルボ役のマシュー・ローズもまたしかりである。HDシリーズですっかりお馴染みのデヴォラ・ボイトによるインタビューは今回も興奮に満ちて楽しく、ゲルブ総裁自らのインタビューも交えて映画での見どころも満載であった。

指揮のベニーニは、このようなオペラを振ると素晴らしい。メリハリがあって力の入った切れ味は、レヴァインを彷彿とさせた。このオペラのまたひとつの成功の理由は、ベニーニの指揮である。

ロッシーニのようなコミカルな場面も、カラフルなバレエも、そしてヴェルディのようなドラマチックな展開もないという地味なオペラも、このような素晴らしい歌唱と指揮が重なると見応え十分となる。これこそメトならではのものだと思う。であると思えば思うほど、この作品がこれまで一度も上演されて来なかったことが不思議に思えてならない。

2013年2月9日土曜日

ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団、ベルナルト・ハイティンク指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団))

ブルックナーの最初の野心作とも言える交響曲第3番が作曲者自身の手によって初演された時、ウィーン楽友協会の聴取はほとんどが途中で帰ってしまい、残っていたのは25人程度だったと言われている。だがその中には、惜しみない賛辞を送るグスタフ・マーラーがいた。

ブルックナーは大変嬉しく思ったのだろう。後年、改訂版の自筆譜をマーラーに贈呈したという。その楽譜をマーラーは家宝のように大切にし、一家の財産ともなったようだ。だが、この曲は実際には、ワーグナーに献呈されている。ブルックナーはわざわざバイロイトまで出かけ、ワーグナーに楽譜を見せたらしい。そしてワーグナーはこの曲を気に入ったようだ。それ故に、この曲は「ワーグナー」という副題が付けられることもある。

さてその曲は1時間を超える作品である。どの楽章も同じような感じで、まあブルックナーの音楽はどれもまた同じような雰囲気だから、この曲をめぐる複雑な版の問題を持ちださなくても、まあそういう曲か、という感じで聞き流してしまうということに、私もなっていた。実は私が最初に買ったブルックナーのCDはこの第3番だった。ただし演奏はハイティンクのウィーン・フィルだった(その前にハイティンク指揮のコンセルトヘボウによる交響曲第4番の録音は持っていた。だがそれはカセットテープだった!)。

印象に残っていたのは第3楽章で、何でもハイティンクの演奏では珍しい1877年版というもので、そのコーダ部分がそれまでの多くの演奏と異なっているそうである。だが私はそんなことは知らなかった。この他の楽章は、その当時、ほとんど覚えていないというのが正直なところである。

だが、私はマーラーよりも先にブルックナーに親しんだリスナーである。実演で第3番に接したことはないものの、第4番「ロマンティック」以降の交響曲はすべて聞いているし、そのうちいくつかは個人的に忘れられない名演だった。そういう経験を経たあとでも、この第3番を聞くには、また長い時間を要した。

思い立って夜の町に散歩に出かけ、寒くて人のいない港の倉庫街の中を歩いた。iPodに入れた曲を聞こうと思ってplaylistを探したら、クーベリックのこの曲を入れていたことに気づいた。丁度1時間程度歩く予定だったので、「そうだ、ブルックナー、聞こう」というわけである。このCD(SACD)も何年か前に買ったものの、一度も聞かずにしまいこんでいたもので、こういう機会がないとなかなか聞かないのだが、それにしても忙しい都会生活の中で、ブルックナーをCDで聞くのは私にとってほとんど絶望的な事柄である。

1962年、ミュンヘン・ヘラクレスザールでのライヴという演奏は2005年のリリースで、こんなものがあったのか、というほどに生々しく、熱気に溢れている。若きクーベリックも晩年のゆるい演奏とは異なり、しかもオーケストラが素晴らしく、さらには雑音もほとんど気にならないので、これは放送録音だと思うが、大変良い。ハイティンクのCDから25年が経って、ようやく私は再びこの曲を通して聞くことが叶い、そして散歩がてらとはいえ、誰にも邪魔されることのない時間を過ごした。最初は荒んでいた気持ちも、気がついてみれば静かな興奮に変わり、自宅に戻った時にはいつまでもブルックナー・サウンドが頭に鳴り響いていた。

特に第2楽章の素晴らしさは、今日はじめて知った。これを読んだブルックナー・ファンはお怒りのこととは思うが、これが事実なのだから仕方がない。それだけクラシック音楽というのは、道楽家でなければ時間がかかる趣味だと思う。なお、演奏は1877年版を改定したエーザー版となっている。第3楽章のトリオなどは、ここが一番のきかせどころとばかりに弦を刻む。そういった発見があるにはあるが、それも含めていつ果てるとも無く耳元でなる音楽を、ただ聞いているだけでいい、という究極のBGMと思っている。これこそが、私のブルックナーの音楽との付き合い方である、と今のところは言っておこう。

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(追記)
私が所有するもう一枚のディスクは、上記でも述べたベルナルト・ハイティンク指揮ウィーン・フィルによる演奏である。この演奏は1988年にスタジオ録音されている。ライブ盤のクーベリックの演奏に比べると、録音が新しい分奥行きがあり、ライブ特有の高揚感も控えめである。しかしブルックナーの場合、落ち着いた演奏で聞きたくなることも多く(特に第2楽章)甲乙はつけがたい。またこのハイティンク盤は、ノヴァーク版第2稿による世界最初の録音である。際立った特徴は第3楽章のコーダ部分が長大で、これはなかなか聞きごたえがあると言える。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...