2020年3月31日火曜日

ベートーヴェン:オラトリオ「オリーブ山上のキリスト」(S: ルーバ・オルゴナソヴァ、T: プラシド・ドミンゴ、Br: アンドレアス・シュミット、ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団、ベルリン放送合唱団)

私はどういうわけからか、ケント・ナガノが指揮するベートーヴェンの珍しいオラトリオ「オリーブ山上のキリスト」(もしくは「かんらん山のキリスト」)のCDを購入している。この滅多に演奏されない作品は、1803年に作曲され好評を博したようだ。ベートーヴェンの作品には珍しく、わずか数週間で完成されたにもかかわらず大きな成功を収めたことで、伝記にもよく登場する作品である。にもかかわらず、現在ではほとんど触れる機会がない。

そういう作品に興味を覚えたのだろう。丁度その頃に、この録音がリリースされた。独唱にルーバ・オルゴナソヴァ(ソプラノ、天使セラフィム)、プラシド・ドミンゴ(テノール、イエス)、アンドレアス・シュミット(バリトン、ペテロ)といった豪華な顔ぶれが並ぶことも、購入至った理由と思われる。

人気を博した理由のひとつは、ストーリーの単純明快さにあるのではないかと思う。「最後の晩餐」のあとオリーブ山(ゲッセマネの園)で兵士に捕らえられたイエス・キリストが、天使セラフィムとともに神に祈りを捧げながら十字架にかけられるというもので、苦悩に満ちた人生が愛によって救われるという、ベートーヴェンの生涯を通してたどり着いたモチーフが早くも見て取れる。丁度この頃に、ハイリゲンシュタットの遺書が書かれており、苦悩の中から何とか出しつつあったベートーヴェンの心情が反映されたものだろう。この直後にベートーヴェンは、彼唯一の歌劇「フィデリオ」の作曲に取り掛かる。

音楽は、一度聞いたら忘れられないようなものではないものの、終始推進力と愛情に溢れ、ドラマチックで高揚感もある。順にみて行こう。

まず重々しい序奏に続き、イエスが登場して苦悩と恐怖から救いを求めて神に祈りを捧げる(レチタティーボとアリア)。ナガノのCDではイエスをプラシド・ドミンゴが歌っている。ドミンゴのドイツ語にがどのようなものかは私にはわからないが、ドイツ歌唱の要諦を心得ているとはいえ、どことなくヴェルディの歌に聞こえるところはある(mein Faterをマイン・ファーテルと言っている、とか)。

第2曲にはソプラノが登場し、やがて女声合唱(天使)も加わる。独唱は非常に歌いにくそうなものに聞こえる。そして第3曲ではソプラノ(天使)とテノール(イエス)の二重唱になる。最初の部分でチェロの独奏が登場し、避けられない運命を嘆き、恐怖におののき、やがては神の愛に目覚めるという感動的な部分だと思った。

第4曲は明るい調子に変わる。「Wilkommen, Tod!」。行進曲となり、男声合唱(兵士)が登場する。ここは「フィデリオ」の一シーンを思い出す。この作品は「フィデリオ」の下敷きになったようなところがある。

さて、続く第5曲から最後までは一気に緊迫に満ちた音楽となる。ベートーヴェンの推進力に満ちた音楽が、兵士と天使の合唱に合わさり、クライマックスへとつながってゆく。合唱の楽しさを感じる曲でもある。第6曲ではペテロが登場して兵士に立ち向かおうとするが、やがて始まる終曲のフーガは、高揚感を増しながら合唱と三重唱が愛を賛美し、神を讃える。

交響曲やピアノ・ソナタと違い、歌劇ではモーツァルトに、歌曲ではヘンデルに到底かなわなかったベートーヴェンと言われるが、このオラトリオはヘンデルの影響を受けつつ、ベートーヴェン独自の作風が混じって、ベートーヴェン好きの私などは聞いていて気分が良い。ストレートに作品を味わえるのが、ベートーヴェンの何よりの魅力だと思う。

2020年3月28日土曜日

ベートーヴェン:バレエ音楽「プロメテウスの創造物」作品43(チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団)

勿論私たちは、後年のベートーヴェン作品をよく知っている。難聴を始めとする数々の困難に立ち向かいながら、あのエネルギーが凝縮された名曲の数々を。どれほど下手な演奏で聞いても感じずにはいられないベートーヴェンらしさ。運命を克服し歓喜に至る感動的なテーマ、深い人類愛と正義感に満ちた誉れ高い作品は、それ以降のすべての作曲家に影響を与えたといっても過言ではない。誰もがベートーヴェンを讃え、ベートーヴェンを愛し、そしてベートーヴェンを越えようとした。

そのベートーヴェンも、比較的若い頃の作品となると軽視されがちだ。むろんそれは、以降の作品に比べての話であるが、それにしてもベートーヴェンのいくつかの作品は、あまりに演奏されなくなっている。作曲当時に評判が良かった作品でさえも。

現在、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」全曲を聞くことの興味のひとつは、ベートーヴェンがかくも軽妙で、まるでモーツァルトかロッシーニのように、 肩の凝らない作品を書いていたということかも知れない。それは交響曲には表れない、ベートーヴェンの若き日の素顔とでも言うべきものなのかも知れない。

序曲とフィナーレ以外にほとんど触れることのない「プロメテウスの創造物」の音楽を、私はチャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団の演奏のCDで聞いている。辛うじてしばしば演奏される序曲も、「エグモント」や「コリオラン」ほど有名ではない。丁度1800年頃の作品なので、交響曲で言えば第1番、第2番の頃である。もちろん耳は良く聞え、ベートーヴェンはピアノの名手としてウィーンの聴衆を魅了していた頃だ。

バレエ音楽は、このような時期に書かれた。「プロメテウス」とはギリシャの神の一人で、人類を創造し火を盗んで与えたとされる。だとすれば「プロメテウスの創造物」とは人類のことだと言える。この物語がどのようにバレエ化されているのかは、私もよくわからない。荒唐無稽な物語だという話も聞く。だがこの作品は評判が良く、何度も上演されたようだ。今では70分を超える管弦楽曲を、そのままコンサートで演奏することはまず考えられず、従ってそのバレエを見る機会も皆無である。純粋に音楽のみを、しかも録音されたメディアによって聞くしかない。

序曲は和音の連打からゆっくり重々しいメロディーが続くと一転、すこぶる早い音楽に転じる。序曲はそのまま第1部のイントロダクションに引き継がれる。ここの不気味な旋律はウェーバーの歌劇「魔弾の射手」のフレーズを思い出させるのだが、やがて明るい舞踊音楽となって幕が開く、と言う感じである。第1部の音楽は、全16曲中第3曲メヌエットまでと短いが、それなりに印象的。

いつのまにか第2部に入っているが、ハープとフルートのメロディーが聞こえてきたら第5曲アダージョである。ここの朗らかなメロディーは、後半にチェロの独奏も混じってベートーヴェンの音楽とは思えない。そもそもベートーヴェンがハープを用いた曲を作ることなど、他にあっただろうか。続く第6曲は、流れるような軽やかな音楽で短いが印象的である。そのまま第7曲グラーヴに続く。やはり朗らかで楽天的である。そう、ベートーヴェンの音楽は、その底辺に楽天的な部分があると思う。この音楽などはその典型のような気がする。

ティンパニの連打が聞こえてくると、長い第8番アレグロ・コン・ブリオに入る。ここはベートーヴェンらしい勇壮な部分である。何度か繰り返されながら7分も続く。ちょっと長い行進曲を楽しむ感じである。全体の曲が長いので、通して聞く場合にはこのあたりで休憩するといいだろう。第9番アダージョはオーボエのメロディーが奏でられたあと、アレグロに転じるドラマチックな音楽。第10番パストラーレは牧歌的なのびのびとした音楽。

バレエの後半は、例によって様々な踊りが続く楽しいひとときとなる。真面目なベートーヴェンのこの音楽も例外ではない。まず華麗で堂々とした冒頭で始まりフルートのソロが続く第12番は「ジョイアのソロ」、第14番は「カッサンティーニのソロ」、そして第15番は「ヴィガーノのソロ」。それぞれの踊り手に捧げられた曲である。第13番の変奏曲のメロディーも楽しい。特に有名なのは、バセットホルンが使われる「カッサンティーニのソロ」だろうか。後半のメロディーは、何か「大きなノッポの古時計~」に似ていると思う。いずれの曲もそれぞれに異なる味わいがあって面白い。そして何度も言うように、ここにはベートーヴェンの交響曲などにない軽やかな音楽が満ち溢れていていて、聞けば聞くほど味わいが感じられる。

さて、やっとフィナーレに来たところで聞きなれた音楽が聞こえてくる。「エロイカ」交響曲第4楽章の主題に使われたメロディーである。ただ交響曲と違い、ここの音楽は別の方法で変奏され6分余りも続く。なぜかとても安心した気持ちに浸りながら、ひとしきりたっぷりとダンスを味わったあと、音楽は終わる。

2020年3月17日火曜日

ベートーヴェン:序曲集(デイヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団)

ベートーヴェン唯一の歌劇「フィデリオ」を聞くよりも先に、「レオノーレ」序曲第3番を聞く人は多いだろう。私もその一人だった。「レオノーレ」序曲第3番は、それだけで20分近くもある曲で、歌劇の序曲にしてはいささか長い。流れるような親しみやすいメロディー、遠くから聞こえるトランペットのファンファーレ、そして圧倒的なフーガとコーダ。どの部分をとってもベートーヴェンらしさが充満しているこの曲を、私は何度も何度も繰り返し聞いていた。

後に「フィデリオ」を聞いた時、ああここの音楽が使われていたのか、などと思ったが、「フィデリオ」には「フィデリオ」序曲が別にあって、しかもこの曲は「レオノーレ」とは全く異なる、丸で独立した序曲のような感じである。通常、オペラの序曲はそのオペラで使われるモチーフなどがダイジェストに使われることが多いから、これはとても不思議なことだった。

歌劇「フィデリオ」はそもそも歌劇「レオノーレ」として作曲されたものの、なかなか思うような結果が得られず、何度も改訂を試みる。序曲も全部で3回も書き直されている。ということは「レオノーレ」序曲には第1番も第2番も存在するということになる。第3番があるのだから。というわけで、「レオノーレ」を巡る4つの序曲を順に聞きたくなるというわけだ。

オットー・クレンペラーによるベートーヴェンの序曲集は、このような要望を満たす最初のレコードではなかっただろうか。ステレオ初期ながら非常に明確な録音で、広がりを持った響きは今もって健在。ベートーヴェン序曲集の代表的な録音である。ここにすべての「レオノーレ」系の序曲が収録されている。

かつてNHKが衛星放送を始めた頃、レナード・バーンスタインがウィーン・フィルとのベートーヴェン全集を放送した。ここでバーンスタインは、彼独特のピアノを前にした解説で、第5交響曲の冒頭について「最初はこんなに平凡な曲でした。けれども徐々に、このように変化し、最終的にはいまのようになった」などと実演付きで語るのを見たことがある。ベートーヴェンは最初から、あのような印象的なメロディーを思い付いたのではない、「推敲に推敲を重ね、大変な努力を経て、こうでなければならない、という必然的な音の連続にたどり着いたのです。そこがまさに天才なのです」というようなことを言っていたと思う。

ベートーヴェンが作曲に取り掛かる時、最初のメロディーは恐ろしくつまらないもので、それが徐々に書き換えられて次第に高度化し、やがて歴史に残るようなメロディーへと昇華する様は、「レオノーレ」の序曲を聞くとよくわかるような気がする。とはいえ、第1番は第2番よりもまとまった曲に聞こえる。ごく一部に、「フィデリオ」第1幕のメロディーが聞こえてくる。この曲は、私はコリン・デイヴィスの指揮するバイエルン放送交響楽団の演奏で聞いた。ちなみにこの演奏は、ベートーヴェンの序曲を集めたディスクの中では最右翼に位置し、クレンペラーと並ぶ武骨な出来栄えである。誰もがもっともイメージしやすいベートーヴェンの典型的な演奏が味わえる優れた録音である(ただし「レオノーレ」第2番を始め、いくつかの作品は収録されていない)。

クレンペラーの演奏ではじめて「レオノーレ」序曲第2番を聞いた時は、これは何か出来損ないの曲のように感じざるを得なかった。第3番を聞きすぎていたので、そう感じたのかも知れない。二つの曲の違いが面白くは思ったが、何とも中途半端である。バーンスタインが解説していた「平凡な着想」の状態、つまりまだ煮詰められていない状態の、生煮えの作品だと思った。ところが、今ではこの第2番が、やみつきになってしまい、耳からなかなか離れない。不思議なものである。そしてその演奏は、デイヴィッド・ジンマンによって決定的に楽しく、興味深いものになっている。

ジンマンはチューリヒのオーケストラの透明で硬く、それでいて生気溢れるオーケストラを見事にドライブして、超激安のベートーヴェン全集をリリースした。あまりに安いにも関わらず、演奏も録音も上出来であることから私も全集を買ってしまった。その演奏は非常に速く、置いて行かれるような気分になってしまう。何かマラソンの先頭集団を見ているような演奏である。では、その延長に位置する序曲集はどうか。

ここでもジンマンは交響曲と同様に、べーレンライター版のスコアを用い、ピリオド奏法を駆使して、駆け抜けるような演奏を披露している。序曲集ともなると、なかなかまとまって聞くことのないものが、このディスクは一気呵成に聞くことができる。その様はスポーティーで爽快であり、愉快この上ない。乾いたティンパニが連打され、金管が号砲を鳴らすジンマンのベートーヴェン演奏は、カラヤンやアバドのような従来の名演奏ですら大人しいと思わせるような過激さで、耳に飛び込んでくる。

この、急流の滑り台のような演奏によって、初めてその光が当たったような気がしたのは、「プロメテウスの創造物」「アテネの廃墟」「シュテファン王」「命名祝日」「献堂式」といった珍しい作品だ。例えば「アテネの廃墟」などはカラヤンで聞くオーボエの透き通った演奏も素敵だが、ジンマンの装飾だらけの演奏はもっとヴィヴィッドである。

一方、「コリオラン」はあの引きずるようなドイツ的重厚さに欠け、「エグモント」はもう少し表情をつけて遅くてもいいのでは、などと思ったりもする。これらの有名作品には、上述のカラヤン、アバドを含め多数の演奏が存在するから、そちらに譲ってもいいかも知れない。だがジンマンの演奏は、弾むようなリズムに乗って、それまでに表現されなかったベートーヴェンのまた一つの側面を浮き上がらせていることは大いに評価されて良いだろう。

序曲集としてほぼすべての作品を網羅したディスクは、振り返れば70年代の決定的なカラヤン、その20年後のアバドが双璧だと思う。後者はウィーン・フィルの美点と録音の新しさが光るが、演奏そのものはカラヤンの域を出ないのはいつもの通り。単独では「エグモント」はジョージ・セル盤、序曲「コリオラン」はクライバーのビデオ盤、「フィデリオ」と「レオノーレ」第3番はバーンスタイン盤が光彩を放つ。一方、有名曲のみの序曲集としては「エグモント」を欠くクレンペラー盤と、「レオノーレ」第2番を欠くコリン・デイヴィス盤が、それぞれ時をおいて聞きたくなる演奏であり、見落とすわけには行かない。


【収録曲(順序は入替え)】
1. 序曲「レオノーレ」第1番作品138
2. 序曲「レオノーレ」第2番作品72a
3. 序曲「レオノーレ」第3番作品72b
4. 歌劇「フィデリオ」序曲作品72c
5. バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲作品43
6. 序曲「コリオラン」作品62
7. 劇付随音楽「エグモント」序曲作品84
8. 劇付随音楽「アテネの廃墟」序曲作品113
9. 序曲「命名祝日」作品115
10. 劇付随音楽「シュテファン王」作品117序曲
11. 「献堂式」序曲作品124

2020年3月14日土曜日

ベートーヴェン:三重協奏曲ハ長調作品56(ストリオーニ三重奏団、ヤン・ヴィレム・デ・フリエンド指揮オランダ交響楽団))

ベートーヴェンのヴァイオリン、チェロ、ピアノと管弦楽のための協奏曲(三重協奏曲)は駄作と言われてきた。私のベートーヴェン好きの知り合いも、この曲は聞くべきものがないと決めつけている。確かにベートーヴェンの傑作らしい凝縮されたエネルギーはさほど感じられず、ちょっと完成度が低いのかな、などと思っていた。

客観的な視点では、ピアノのパートが極めて安易に作られているにもかかわらず、チェロについては結構なテクニックを要するらしい。つまりバランスが悪い、と言うのだ。この曲をベートーヴェンが自ら弾いた時も、難聴のせいか音が合わず、彼自身の人気の凋落を決定的にしただけでなく、曲の評判も落とした。現在ではソリスト3名を揃えるだけのコストが大きく、それなりの長さもあってプログラムが組みにくい。

けれどもそう言われれば聞きたくなるのも人情で、私はわりに早い段階でこの曲のレコードを購入したし、実演でも聞いたことがある。今では3枚のCDを持っている。その感想は決して悪くはない、というものだ。むしろベートーヴェンの自然な姿がそこにあり、それでいてロマンチック、フレーズのいくつかは耳から離れない。例えば第1楽章の出だし、第2楽章から第3楽章にかけての移行部分、あるいは第3楽章の中間部などである。

かねてから、有名ソリストを3名揃えることが可能となった段階で、レコード会社の記念すべき企画として、この曲は意外に多く録音されてきた。以下に思いつくまま挙げてみたい。

  • P: ゲザ・アンダ、Vn: ヴォルフガング・シュナイダーハン、Vc: ピエール・フルニエ、フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(1960年)
  • P: ユージン・イストミン、Vn: アイザック・スターン、Vc: レナート・ローズ、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1964年)
  • P: スヴィヤトスラフ・リヒテル、Vn: ダヴィド・オイストラフ、Vc: ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1969年)
  • ボザール三重奏団、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1979年)
  • P: イェフィム・ブロンフマン、Vn: ギル・シャハム、Vc: トルルス・モルク、デイヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団(1998年)

検索してみれば、この他にも数多くの録音が存在する。例えばカラヤンには、ムターやマとの新録音が、ボザール・トリオにはマズアとの新録音がある。どの演奏も超有名ソリストを揃えての録音で、例えばソビエトの大音楽家3人と共演したカラヤンの歴史的名盤は、名人芸の絡み合う様がつとに名高い。私もこの演奏を最初に聞いてこの曲を知った。

けれどもどうしたことか、次にこの曲を聞く気がなかなか起こらない。もしかするとそれは名人芸の極め付けを、それほど入念に聞くだけの時間的ゆとりを持たなかったからかも知れない。どこか平板な曲なので、一般的なモダン楽器の演奏では、どれほど技巧的に素晴らしくても、曲の等身大の魅力が伝わってこないのではないか。そう思っていたところ、ジンマンのベートーヴェン交響曲全集にこの曲が含まれており、そのスッキリした味わいに心を奪われた。

古楽奏法が曲の魅力を発掘していった90年代を経て、この曲にも新たなスポットライトが浴びせられたと思う。そしてとうとう、理想的な演奏に出会った気がした。オランダの三重奏団、ストリオーニ・トリオとの演奏こそが、この曲の新たな魅力を再発見するきっかけを与えてくれた。

この演奏は、しかしながら、古い聞き手にはやや混乱をもたらすだろう。なぜなら三重奏はピリオド楽器、オーケストラはモダン楽器による演奏なのだ。ピアノはいつものピアノではなくフォルテ・ピアノ。少しペラペラとした平板な音が鳴る。ヴァイオリン、チェロもビブラートがなくすっきりとしている。だが慣れてくるとこの組み合わせが、なかなか楽しい。そして最後まで一気に聞きとおした後で、もう一度最初から聞いてみたいと思う。こういう経験は、上に挙げた過去の大演奏からは感じられなかったものだ。

もやの中に浮かび上がってくる港の漁船のような幽玄の中に始まり、やがてチェロとヴァイオリンが呼応する主題にピアノが絡む。ひとしきり3つの楽器に聞き惚れていたら、たまにオーケストラが前に出てくる。第1楽章はソナタ形式で書かれているが、16分にも及ぶ長い曲である。これを飽きさせずに聞きとおせる演奏は少ない。ときおりティンパニが乾いた音を強打する様は、古楽器風演奏では顕著になったが、ここがベートーヴェンらしくてなかなか魅力的である。平坦な曲のアクセントとなっている。

第2楽章は短いが、ロマンチックな曲である。春霞の中を行くかのようだ。そして切れ目なく第3楽章に移行すると、ロンド形式の軽妙な曲となる。この中間部では何と、ポロネーズのリズムが聞こえてくる。3つの楽器の見せどころ。室内楽を聞いているのか、管弦楽曲を聞いているのか、その移り変わりの妙がこの曲の魅力だ。ストリオーニ・トリオによる演奏は、興に乗って最後まで飽きさせない。

春が来て、史上最も早い桜の開花宣言が出た今日の東京は、寒い冬に逆戻りしてしまった。毎年、この時期になると聞いてみたくなるベートーヴェンの三重協奏曲は、私にとってはなかなか魅力的である。そしてその演奏の中で、とりわけ素敵な演奏に出会うことができ、ちょっと嬉しい。

2020年3月12日木曜日

モーツァルト:戴冠式ミサハ長調K317(S:キャスリーン・バトル他、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

モーツァルトとしばしば対立したザルツブルクのコロレド司教は、コンパクトなミサを好んだようだ。その結果、モーツァルトは凝縮された中にも見事なミサ曲を作曲した。「戴冠式ミサ」として知られるハ長調のミサ曲K317は、20曲にも及ぶモーツァルトのミサ曲の中で、ひときわ輝いて見える。明るく、推進力に満ち、聞いていると幸せな気分になる。

けれどもモーツァルトがこの曲を作曲したのは、失意のパリ旅行から帰還した頃で、丁度20歳を迎えた時期だった。苦しい環境が信じられないくらいに、この時期のモーツァルト作品は充実してくる。明確に個性と言うものが感じられ、それはゆるぎないものとなり、その後の飛躍を確かなもであると確信させるほど説得力のあるものだ。

冒頭の「キリエ」でいきなり音響的に圧倒的な感覚に包まれる。派手だと言ってもいい。合唱の壮大なハーモニーに混じって、ソプラノとバスが歌う。間もなく始まる「グローリア」も大合唱で始まる。華やかで推進力に満ちた歌、リズミカルな三拍子、聞いていると嬉しさがこみ上げる

次の「クレド」でも、その大規模に構築された音楽はまだ続く。「クレド」は最も長いパートさが、それでも6分程度の曲だ。そしてさらに「サンクトゥス」もまた、きらびやかでカラフルな2分間。ここまで一気である。

一方、「ベネディクトゥス」ではややテンポも落ち、少し落ち着くが、それもつかの間のことだ。気が付くと最後の「アニュス・デイ」。ここはまるでオペラのアリアのようにソプラノが歌う。美しく、音楽的である。だが、それも3分もしたら次第に盛り上がり、コーダとなって高らかに終わる。全部で25分。何という完成度か、と思う。

その後に作曲された大ミサ曲もレクイエムも、未完成に終わった。そしてこれらの曲はどちらかというと暗い。それに対して、この戴冠式ミサは、まさに典礼に相応しかろう。実際、この曲はプラハで行われたレオポルト二世の戴冠式で演奏され、その名が定着したらしい。

ヘルベルト・フォン・カラヤンは、カトリック教徒でもあったが、かねてよりバチカンでの演奏会を希望していたらしい。当時のローマ法王、ヨハネ・パウロ二世の快諾によりそれが実現したのは1985年6月のことだった。当時カラヤンは、君臨したベルリン・フィルとの関係が大いにこじれていたためか、オーケストラにはウィーン・フィルが選ばれている。ローマのサン・ピエトロ大聖堂で執り行われたこの時のミサは、バチカン放送等により録音、録画された。

独奏は当時のオペラ歌手を揃え、大変豪華である。キャスリーン・バトル(ソプラノ)、トゥルデリーゼ・シュミット(アルト)、エスタ・ヴィンベルイ(テノール)、フェルッチョ・フルラネット(バス)、そしてウィーン楽友協会合唱団。冒頭の「キリエ」から圧倒的に気迫に満ちている。おそらく大きな残響は、うまく処理されて気にならない。

ウィーン・フィルの気合もすさまじいが、それでもオーボエを始めとするソロ部分は、まさにウィーンの歌、そして響きである。カラヤンのライブは、実際のミサの間に挟まれ、その全体の録音が発売された。DVDとCDでこの様子を時系列で知ることもできるが、私が持っているのは「戴冠式ミサ」のみをつなぎ合わせ、ブルックナーの「テ・デウム」とカップリングした廉価盤の一枚である。

シンフォニックな響きに圧倒されつつも、とりわけ印象に残るのは「アニュス・デイ」におけるバトルの歌声である。「フィガロの結婚」 のアリアにも似ていると言われるこの部分になると、カラヤンはぐっとテンポを抑え歌に寄り添う。カラヤンがライブで見せる即興的なリズム処理は、至って職人的であることがここでも証明されている。

カラヤンのこの曲の演奏を聞くと、他の演奏はなぜか聞きたくなくなる。なので、実は私は他の演奏を知らない。それではいかにも、と思ったのでカラヤンの古い方の演奏を聞いてみることにした。演奏は1975年でベルリン・フィル。ソリストはアンナ・トモワ=シントウ(ソプラノ)、アグネス・バルツァ(メゾ・ソプラノ)、ヴェルナー・クレン(テノール)、ジョゼ・ヴァン・ダム(バス)と豪華。合唱はウィーン学友協会。「レクイエム」などとカップリングされて発売されている。

カラヤンのより整ったスタジオ録音の演奏は、ライブとままた異なる見事なものだと感心した。まるで違う曲を聞くようだと感じることもある。ただ終曲のソプラノだけは、バトルの透明で若々しい響きに、どうしても心を奪われてしまう。

2020年3月11日水曜日

モーツァルト:ミサ曲ハ短調K427(417a)(S:アーリーン・オジェー、フレデリカ・フォン・シュターデ他、レナード・バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団)

おそらく史上最も感動的なハ短調ミサのライブ演奏のひとつは、1990年4月、バイロイトにほど近いバイエルンの片田舎にあるヴァルトザッセン修道院内のカトリック教会で行われた。指揮台に立ったレナード・バーンスタインはその半年後に、ソプラノを歌ったアーリーン・オジェーは3年後に亡くなってしまった。しかしこの時の映像が残されたおかげで、私たちは今でも、崇高にして神秘的な大ミサ曲を鑑賞することができる。

コンサートはまず、モーツァルトが書いた最も美しい合唱曲「アヴェ・ヴェルム・コルプスK618」で始まる。わずか3分余りの大変短いこの曲は、妻コンスタンツェの療養を世話した合唱指揮者のために、死のわずか半年前に作曲された。天国的な美しさと諦観に満ちた、透き通るような合唱曲である。バーンスタインは心を込て、この曲を指揮している。

次に演奏されるのが、アーリーン・オジェーを迎えてのモテット「エクスルターテ・ユビラーテK165 (158a)」である。我が国では「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」などとして知られ、特に第3楽章「ハレルヤ」が有名である。軽やかな若き日のモーツァルト作品を、バーンスタインは何も付け加えることなく、自然で美しく演奏している。

この2つの、おまけというには豪華すぎるプログラムの後で、ハ短調ミサが始まる。教会での演奏会は、慣例に従い拍手がない。バーンスタインは静かに曲を始めるが、その真摯で飾り気のない指揮姿は、事前の予想通りである。テンポは遅いが、重々しくはない。バーンスタインは晩年、ウィーンを始めとするヨーロッパ各地で、数々の歴史的演奏を繰り広げてきた。丁度2年前にはモーツァルトの「レクイエム」が同じバイエルン放送響と、数か月前にはベルリンの壁崩壊を祝福するベートーヴェンの第九演奏会などを指揮している。

バーンスタインはこの時すでに病気に侵されていた。私たち日本人は、最晩年のバーンスタインの指揮姿と言えば、札幌で開かれたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)でのシューマンの交響曲を思い出す。かなりつらそうに指揮する姿は、往年の元気一杯の青年の面影はなく、痛々しいほどの指揮ぶりだった。だが、このビデオに登場するバーンスタインは、まだそれほどエネルギーを失ってはいない。

バイエルン放送合唱団のせいきあふれる気迫のこもった合唱に乗って、オジェーは気高い歌を披露する。オジェーはアメリカ人だが、ドイツで大活躍したソプラノで、バッハのカンタータを始めとする透き通った歌声は、今でもファンが多い。にもかかわらず、彼女は50代の若さで亡くなってしまった。このビデオは彼女の歌を聞く(見る)ことができるという点でも、大変貴重である。

バーンスタインは生涯、ライブの人だった。この映像を見るとき、私たちは音楽の力がライブでこそ力を与えられ、聞くものを説得するレベルに昇華する様を体験することができる。すべての音楽が終わっても拍手はされない。ただそこに響き渡るのは、教会の鐘の音である。ビデオはその鐘が鳴る止むまでの間、起立したままのバーンスタインと教会の内部を映し続ける。この時間的な一致は、偶然によるものだろうか。

なお、出演陣については以下の通り。アーリーン・オジェー(ソプラノ)、フレデリカ・フォン・シュターデ(メッゾ・ソプラノ)、フランク・ロパード(テノール)、コルネリウス・ハウプトマン(バス)、バイエルン放送合唱団、交響楽団。同じコンサートを収めたCDも発売されている。重厚長大型の大ミサ曲は、古楽演奏にはない魅力があるのも確かである。

2020年3月10日火曜日

モーツァルト:ミサ曲ハ短調K427(417a)(S:クリスティアーネ・エルツェ、ジェニファー・ラーモア他、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管弦楽団)

昨年N響の定期で聞いたヘルベルト・ブロムシュテット指揮によるモーツァルトのハ短調ミサ曲が、先日テレビで放映された。インタビューでブロムシュテットは、これがモーツァルトの最も美しい音楽、などと語っていたが、初めて実演に接した私としてはそうも思えないままコンサートが終わり、戸惑いの中を帰宅した。決して悪い演奏ではなかったのだが。

これは聞きこみが足りないからなのだろうと思い、一度真剣に聞かなくてはならないと考えていたところ、「フリーメイソンのための葬送音楽」のヘレヴェッヘの録音に出会った。この録音では「フリーメイソン」に何と歌詞が入っていて、「マイスタームジーク」とタイトルが付けられている。そしてその後に、このハ短調ミサが始まった。

ミサ曲ハ短調(あるいは大ミサ曲)は、モーツァルトがウィーンにて作曲した宗教音楽で、「レクイエム」に次ぐ規模を誇る。カラヤンやバーンスタインといった有名指揮者に加え、数多くの古楽演奏者も録音しているが、わが国では上演される機会はさほど多くはない。それでも宗教音楽には一定のファンがいるようで、Webで触れているブログは多い方だ。合唱団などで歌ったことがある人が、それなりの人数いることが要因ではないかと思う。

この曲の作曲にまつわるいきさつとしては、父レオポルトが反対したコンスタンツェとの結婚を何とか認めてもらおうとしたこと、しかし多忙を極めるモーツァルトは予定のザルツブルクへの帰還まで完成が間に合わず、結局未完に終わったことでいくつかの補筆版が存在すること、などが挙げられる。作曲の動機は、妻がソプラノ歌手として技量があることを示すためであったと言われている。またその初演の経緯から、この作品を重厚長大にすることによって、自分を見くびったザルツブルクへのし返しの意図があったのではとも言われている。

どのようないきさつがあったにせよ、重要なことはモーツァルトがこの作品を、誰からの依頼にもよらず、自らの意志で作曲したという事実である。これは「レクイエム」とも異なり、モーツァルトのミサ曲では唯一のことであるとされる。

このヘレヴェッヘ盤は「ベーレンライター版、シャペル・ロワイヤルによる校訂版」と記されているが、調べてみるとべーレンライター版は、1956年にオーケストレーションのみの補筆を行ったランドン版に非常に似ているらしい。細かい版の違いまではよくわからないが、昨年N響定期で聞いたのもこのべーレンライター版である。これらはほぼ同じと考えて良いようだ。

「キリエ」「グローリア」「クレド」「サクトゥス」そして「ベネディクトゥス」の5つの部分から成る。ただし、完成しているのは「キリエ」「グローリア」及び「サンクトゥス」のみで、「クレド」は一部のみ、「ベネディクトゥス」は再構成されることにより完成された。作られるはずだった「アニュス・デイ」に至っては未完である。このため演奏は尻切れトンボのように終わる。

第1曲「キリエ(主よ、憐れみたまえ)」は悲壮感いっぱいの厳かなムードで始まる。しかし中間部では長調に転じ、ソプラノの透明で一条の光の差すような慰めの歌となる。初演時、ここをコンスタンツェは歌ったそうだ。キリエはこの1曲のみ。

第2曲「グローリア(神に栄光あれ)」は長い。全部で8つの部分から成る。まず力強い合唱(第一部:Gloria in excelsis Deo)が、次に流れるような音楽に乗って、二人目のソプラノが登場する(第2部:Laudamus te)。一通り登場したところから、音楽はいよいよ厚みを増して行く。まず合唱が(第3部:Gratias agimus tibi)、続いて二人のソプラノによる二重唱が(第4部:Domine Deus)、さらには二重合唱が続く(第5部:Qui tollis)。そしていよいよテノールが加わり(第6部:Quoniam tu solus) で、二人のソプラノと3重唱、そして終盤に向け合唱が音楽を盛り上げてゆく(第7部:Jesu Christe、第8部:Cum Sancto Spiritu)。

第3曲「クレド(我信ず、唯一の神)は未完成だったが、補筆され2つの部分から成る。まず合唱が歌われた後(第1部:Credo in unum Deum)、一人目のソプラノによって長い歌が歌われる(第2部:Et incarnatus est) 。ここが全体の白眉とも言える部分で、モーツァルトのソプラノに託す思いがひしひしと感じられる秀逸な曲である。「クレド」はすべて3拍子の曲である。

第4曲「サンクトゥス(聖なるかな)」は短い合唱のみの曲だが、大規模で輝きに満ちている。後半はフーガとなって2部の合唱が複雑に絡み合う。続いて終曲となるのが第5曲「ベネディクトゥス(祝福あれ)」である。ここで4人のソリストと二部合唱がすべて登場する。5分程度の短い部分だけが再構成されている。高らかに歌い上げられるが、短いのでもう少し聞いていたいと思いながら、未完成の大ミサ曲は終わる。
 
ヘレヴェッヘ盤は、古楽器を使用しているが、音楽は極めて充実しており、完成度の高さが際立つ。いくつかの演奏を聞いたが、この演奏が一番だと思った。ソプラノがクリスティアーネ・エルツェとジェニファー・ラーモア、テノールがスコット・ワイヤー、バスがペーター・コーイ、合唱はシャペル・ロワイヤル、コレギウム・ヴォカーレとなっている。

2020年3月8日日曜日

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(2020年3月7, 8日びわ湖ホール、オンライン配信)

新型コロナウィルスの流行がいよいよ世界的なパンデミックの様相を呈しつつある中で、数多くのイベントが中止や延期を余儀なくされている。クラシック音楽の公演も例外ではなく、3月に予定されていたびわ湖ホールにおける楽劇「神々の黄昏」も影響を受けることになった。4年前から順に「ニーベルングの指環」を上演してきた同ホールでは、いよいよその最終公演となる今回のチケットも早々に完売、世界から集まった歌手や地元の合唱団も加わって練習に余念はなかったことだろう。

ところがこの騒動である。 政府の場当たり的な中止要請のあおりをくらい、ホールの公演は中止される方向となった。しかし総工費1億6000万円をかけた本公演は、すでにリハーサルも終えており、中止するにはあまりに忍びない。毎日新聞によれば、館長は滋賀県庁にもかけあったそうだ。その結果実現したのは、無観客で上演するというもの。そして舞台の模様はビデオに録画して編集し、字幕付きDVDで発売することになった。ここまでなら、わかる話だろう。だが、それに加えて本公演は何とYouTubeでライブ配信することにしたというのである。

私は大阪の生まれだから、関西で行われるオペラ公演、しかも空前の規模を誇る「指環」となると東京からでかけてでも見たいという思いはあった。一時期住んでいた三鷹出身の沼尻竜典が指揮をする。彼は私と同い年でもあるので、日ごろから活躍を期待している。数年前、横浜で上演された彼の「ワルキューレ」を見たことがある。がなかなか良かった。しかし2万円以上する席を購入し、かつ期日を合わせて大津にまででかける予定を立てることは、あまりに敷居が高かったのも事実である。それが無料で同時に見られるというのだから、見逃す手はない。

連日の「自宅隔離」状態である上に、この週末は天気が悪く寒い。こんな時は自宅でワーグナーに浸るにはもってこいである。さっそくChromecastでPCを自宅のテレビに接続し、さらに音声のみアンプで増幅してスピーカーに接続、13時の開始を待った。すると何とすでに3000人以上が待機しているではないか。びわ湖ホールの客席数は1800だから、すでにそれを上回る人数が配信を待ち構えている。その数は次第に増え、幕が上がる頃には1万人を突破、これは「ジークフリーのラインへの旅」を過ぎても減らず、とうとう6時間にも及ぶ巻き切れまで続いた。

私はクラシック音楽を愛する一人の人間として、このような試みは大歓迎だし、不運にも中止となりかけた本公演のストリーミング配信の様子を書き記すことによって、ほんのわずかでもその試みへの賛意を示すことができればと考え、ここに感想文を残すことにした次第である。

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公演は2日連続行われ、1日目と2日目ですべてのキャストが入れ替わる。指揮は沼尻竜典指揮京都市交響楽団。演出はミヒャエル・ハンペ。キャストを書き記す代わりに、公演のチラシをコピーして貼らせていただいた。なお、今回のビデオは発売される予定のDVDとは別のテイクとされ、字幕もない。カメラは舞台を固定して映すだけで、歌手の細かい表情を見ることはできなかった。だが、ワーグナーの楽劇にそれ以上の演出は不要だろう。なぜなら最上級の音楽がそこに存在するからだ。歌と音楽、それに舞台全体を見渡す視点さえあれば、ワーグナーの舞台は十分楽しめる。

13時になると映像配信が始まった。えんじ色の幕が全体に映し出され、舞台下に指揮者が登場。こちらに向いて会釈する。やがてタクトが振り下ろされると、オーケストラの第1音がなった。変ホ長調の和音。舞台には満点の星空が映し出される。幕が上がるとそこは炎に燃える岩山。3人のノルンが登場して一気に「指環」の世界に入ってゆく。この時の感慨は、前3作を見てこなかった時でも深いものがある。いまからワーグナーを聞くのだという期待は、3重唱によって30分かけて次第に高まり、やがて感動的なジークフリートとブリュンヒルデの出会い。そして別れ。愛の二重唱はもはやこれが最後。そしてジークフリートは、指環をブリュンヒルデに託しライン川へと旅立ってゆく。

最初の舞台転回のシーン。ライン川が現れ、そこに船で漕ぎ出す映像が舞台いっぱいに広がる。やがてギービヒの館が現れる。窓の外はライン川と山々。この風景が次第に暮れ、夜となる。アルベリヒを父とするハーゲンの、指環略奪の策略が話し合われるシーンは、不吉にして重い。再び舞台は転回。タイムリーに登場したジークフリートは忘れ薬を飲まされてしまう。ブリュンヒルデの愛を忘れたジークフリートは、グートルーネに一目惚れ。グンターのためにブリュンヒルデを誘拐する謀略に乗せられる。このようにして指環を奪おうとするのだ。

舞台はまたもや転回し、草木も眠る丑三つ時。満月があたりを照らす中、再び岩山へ。ここに登場するのはブリュンヒルデと妹のヴァルトライデである。丁々発止のやり取りにも耳を貸さないブリュンヒルデ。指環は渡されない。そこにグンターに扮したジークフリート。指環は彼によって、ブリュンヒルデから奪われる。

休憩は30分。静かにカメラは休憩時間の表示を映すだけで、簡素にして無音。この感じがとてもいい。ワーグナーの劇に、他の要素はまったく必要がないことを制作者はわかっている。

再び幕が開き、第2幕が始まった。ギービヒの館の前で、舞台はオペラティックに展開する。「指環」の中では少し浮いているが、これはちょっとしたアクセントになっているといつも思う。長大な2つの幕に挟まれて、物語は一気に進行する。男声合唱も混じりホイホー、ホイホー、ホホー。二組の結婚式。ジークフリートの急所は背中だとわかると、今や復讐を誓うブリュンヒルデも加わって、ジークフリート暗殺が計画される。壮絶な三重唱からドラマチックな緊張をはらんだ音楽は、一気に終わる。

ここで興奮の坩堝と化した観客は、ブラボーの嵐となるところだが、無観客のびわ湖ホールは静かなままだ。だが私は、バイロイトで収録されたブーレーズの「指環」を見たときと同じ感覚を抱いた。無観客だと音楽も集中力を増す。京響もなかなか好演しているし、沼尻の指揮も緊張感を失わない。個々の歌手にいついては、もはやこのような公演にコメントをしなくてもよいだろう。どの歌手も迫力があって、欠点を感じないのは驚異的なことだ。私はまったく不満はなかった。にわか作りと思われたストリーミング配信の音声も、うまく歌手とオーケストラが混ざっていて、これはなかなかいける、というのが正直な感想。日本人歌手が多いので、顔がアップで映るとやや興醒めだが、常に固定されたカメラからは細かい表情を窺うことはできない。そのことがかえって見る者を落ち着かせ、物語に集中させる。

カメラが切り替わることもなく、字幕もない上演は好感が持てる。ただこのようなストリーミング配信のひとつの欠点は、家庭のリビングルームを長時間占拠してしまうことだ。30分以上たっても配置が変わらない舞台を熱心に見続ける私に、ワーグナー嫌いの妻はあきれ顔だし、息子は紙芝居かモノクロの時代劇を見ているようだと漏らす。この状態が夕食の時間にまで続く。しかも2日間も!でも2日目の舞台は、1日目に比較して、より良い感じがする。カメラも若干近め。キャストはすべて異なるにもかかわらず、舞台はさらに緊張を増し、オーケストラも次第に巧くなっていったように感じた。

さて第3幕である。雨模様の窓の外は暮れてゆく。電灯もつけず暗い中でテレビだけを観ている。舞台に映し出されたのは森の中を行く映像。やがてライン川の畔になったところで幕が開き、3人のラインの乙女の重唱が始まる。とうとう第3幕まで来たという感慨がわいてくる瞬間である。

ハーゲンの計略にひっかかり、弱点の背中を刺され、不慮の死を遂げるジークフリート。ここのシーンは「指環」の中での最大の見どころである。音楽に加えて演出も見せどころだ。ハンペの演出は全体的に典型的でわかりやすい。葬送行進曲に乗って葬儀の列が続くというもの。やがてブリュンヒルデは自己犠牲を歌い、ヴァルハラ城に火を放つとすべてが崩れ落ちる。炎が舞台に燃え広がり、やがてそれはラインの川底へ。壮大な物語は、滔々と流れる音楽の中に消えてゆく。このシーンについては、もはや何も語ることを必要としないだろう。

上演が終わると、無観客の中でカーテンコールが始まった。ちょっと寂しいが、ビデオの向こうにいる1万人以上の視聴者に対し、何度もお辞儀をする出演陣。その顔には充実した表情が感じられた。

これで本公演は幻の「指環」にならずに済んだ。いやそれどころか、無料で全世界にライブ配信を敢行した功績は讃えられるべきだろう。力演の出演陣には最大限の拍手を送りたいし、こういう試みは今後、新しい形でのオペラ公演の先駆けとなるかも知れない。ライブ配信すれば、それなりの数の聴衆がいる可能性があるということだ。会場で見る客のチケットに加え、少ない金額を払えばライブ配信を観たいと思う人も多いだろう。やる価値はある。難解なワーグナーの地方公演の緊急予告でも評判だったのだから、事前予告すれば、もっと多くの人が見るかも知れない。

感染症の蔓延という異常事態の中で上演された「指環」。世界の終焉を描いた舞台は、尋常ではない緊張感をもたらし、我が国の音楽史上に名を残す試みとなったことは疑いがない。それが成功だったとすれば、一筋の光明ではないかと思う。このような時にこそ、芸術が価値を持つということも。丁度ヴァルハラ城が沈んだラインの川底に、あの救済の動機が流れるように。

2020年3月6日金曜日

モーツァルト:「フリーメイソンのための葬送音楽」ハ短調K477(479a)(クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

モーツァルトが1785年に作曲した「フリーメイソンのための 葬送音楽」は、わずか8分程度の(演奏によってはもっと短い)曲ながら、厳粛なムードに溢れ、旋律は重々しく憂いに満ち、それでいて一種の明るさも感じさせる秀逸な作品である。その理由は、ここにグレゴリオ聖歌の諸要素をちりばめているからと言われている。

私は昔、ブルーノ・ワルターによるモーツァルトの管弦楽曲集というLPを買って、その中に収められていた「フリーメイソンのための葬送音楽」を初めて聴いたことは先に書いた。この演奏は今もってこの曲の代表的な録音である。久しぶりに聞いていると、ワルターにしかできないような、慈しむような、深いため息の出るような演奏である。しかしながらこの短い曲は、そもそも録音がそう多いわけではなく、滅多に演奏されることもないから、私も長い間、聞くことはなかった。

最近になって(と言っても90年代のことで、30年近くも前になってしまったのだが)クラウディオ・アバドがベルリン・フィルを振って入れた交響曲の何曲かのCDに、この曲が挟まれていた。この曲は、そういう形でしかリリースされないので、わざわざこのために買う、というものでもない。従って、偶然耳にすることになったのだ。そういえば昔、ワルターの演奏で聞いたなあ、などと思いながら、「パリ」交響曲が終わっても再生停止をためらっていたら、何とこの演奏が初めて聞くような新鮮さに溢れているではないか。

クラシック音楽の演奏と言うのは不思議なもので、もともとの曲が持つ要素に付け加わって思いもかけないような相互作用をもたらす。すべての聞き手に、というわけでもないのだが、いい演奏はいいタイミングで演奏されると、それが化学反応を起こし、さらに相乗効果によって増幅され、曲自体の魅力を超えるのか、そもそもの魅力が引き出されるのか、そのあたりはよくわからないのだが、いずれにせよ普段聞いてきたものとは全く違う印象を聞き手に与える。この偶然の出会いは、実演だけでなく録音された演奏でも生じる。だからクラシック音楽は面白い。

アバドはベルリン・フィルを指揮して録音した「フリーメイソンのための葬送音楽」 は、丸でついでに収録されてように目立たないが、その演奏はスキっと新鮮で透明感があり、かつての演奏にはない魅力が感じられる。このアバドの演奏に触発されて、他にも数々の演奏を聞いてみた。ケルテスやベームのような往年の名演奏もあるが、昨年亡くなったペーター・シュライアーによる演奏(シュターツカペレ・ドレスデン)の元気の良い演奏や、ノリントンの滅法早い演奏(なんと3分台)などが見つかった。その中で、ヘレヴェッヘによる演奏は、なぜか合唱が入っており、独特の雰囲気がある。これは丸で教会にいるような厳かな気持ちになり、気が引き締まる特別な印象を残す。

しかしアバドの持つ、より自然で、それでいて適度に引き締まった演奏は、かえって聞くものの心を打ち、自己を見つめる気持ちにさせる。その丁度良いバランスは、他の演奏からはなかなか感じられることはなかった。

モーツァルトは亡くなるまでの7年間をフリーメイソンの会員として過ごした。フリーメイソンのための音楽は他にもあるし、あの歌劇「魔笛」についてはその関連性がしばしば指摘されている。だが難しい話はさておき、この音楽は短いながらも美しく、数多くの低音用木管楽器が使われて、それらの上に乗った弦楽器が波うつように心に押し寄せてくる様は、あの「レクイエム」にも通じる厳かな気分にさせるものである。

2020年3月5日木曜日

モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調K525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団)

モーツァルトが1787年、父レオポルトの死の直後に作曲したセレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、知らない人もいない程有名な曲である。モーツァルトという名を知らない人がもしいたとしても、この曲はおそらく耳にしているだろう。例えば私は数か月に一度、友人と東武東上線の大山駅前商店街へ食事に行くが、この電車の池袋駅における発車音楽が、「アイネ・クライネ」の第3楽章のメロディーである。

私が記憶する限り最初に聞いたクラシック音楽もまた、「アイネ・クライネ」だった。おそらくは小学1年生くらいの頃。我が家にあった貧弱なステレオ装置でドーナツ盤のレコードをかけた。45回転。そこで流れてきたのは、ゲオルク・ショルティ指揮のイスラエル・フィルが演奏する「アイネ・クライネ」だったことが判明している(録音は1958年)。

その後、中学生になって初めて自分のお金で買ったレコードが、また「アイネ・クライネ」を含むモーツァルトの管弦楽曲集だった。指揮はブルーノ・ワルター、演奏はコロンビア交響楽団。ちょっと厚ぼったい古い録音だったが、近所の小さなレコード屋にもそれは置かれていて、しかも廉価版だった。友人と放課後に待ち合わせて買いに行き、家のステレオ装置で順に聞いていった。このレコードには、「アイネ・クライネ」のほかにいくつかの歌劇の序曲等が収録されていた。

慎重に針を下ろして順に聞いていくたびに、深い感動が押し寄せてきた。序曲の中では初めて聞く「劇場支配人」序曲や「コシ・ファン・トゥッテ」序曲の溌剌としたメロディーに、逐一この曲もいいなあ、などと友人と話しながら、一曲ずつ聞いていった時の新鮮な気持ちは今でもよく覚えている。録音の良し悪しなどは関係なく、むしろモーツァルトとはこういうものかといった感動は、初めて自腹を切って買い求めた興奮と混ざって忘れ難いものだった。

その最初にセレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は収録されていた。ワルターの演奏は、冒頭の部分で、一瞬溜を打つようなところがある。このわずかな「間」が忘れられない。ワルターという指揮者は、なるほどモーツァルトをこういう風に演奏するのか、これがまさしく本物の味わいなのだろう、などと友人たちと話した。

第2楽章の深くしっとりとしたアンダンテも、ゆったりと時にテンポを変えて色を付ける。音楽というのはこういう風に演奏するものか、などと奇妙に納得した。第3楽章のトリオに至っては、何かさわやかな風が吹いてくるように覚えた。第4楽章のアレグロ、そこでもまた一糸乱れないアンサンブルは私たちを惹きつけた。あまり何度も聞くとすり減るからと、半透明のシートがおれしわくちゃにならないように丁寧に入れて、さらに盤が曲がらないように注意しながら棚に仕舞った。思えばCDにはそのような愛着が沸かない。CDでも盤面を汚さないようにという思いはあるが、あの溝を見ただけで曲のどの部分かがわかるようなLPレコードの味わいはない。例え録音され再生可能となった音楽でも、限りあるはかないものであることを思わずにはいられないからだ。

モーツァルトがどのような動機でこの曲を書いたのかは、実はわかってない。私が驚くのは、こんな簡素な曲が晩年に作曲されていることだ。童心に帰ったように、こんな小品をモーツァルトは書いた。だがこれは私の勝手な気持ちだが、子供のような無邪気さで聞くけるかと言えば、そうではない。なぜかこの曲は楽しくない。第1楽章の有名すぎるメロディーも、今となってはほとんど聞くこともない。世界中の音楽家が演奏しているが、あまり元気よく演奏されるのも好きではない。だからこの晩年のワルターの演奏が、今もってしっくりくる。

なお、このワルターのディスクの最後には「フリーメイソンの葬送音楽K477」が収録されている。この曲だけは深く悲しい音楽だが、初めて聞いた時にも「こういう音楽もあるのか」と思ったものだ。この演奏はワルターでなければ味わえないものを持っているが、なかなか他の演奏に出会うこともないし、演奏会で取り上げられることもない。だから長らく忘れていた。それが最近になって、ある演奏がきっかけでこの曲の新たな魅力を発見した。そのことについては、次回に書くことにしようと思う。

2020年3月4日水曜日

モーツァルト:協奏交響曲変ホ長調K364(Vn:オーギュスタン・デュメイ、Va:ヴェロニカ・ハーゲン、ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ)

モーツァルトの5つのヴァイオリン協奏曲はすべて10代の頃の作品で、簡素にして軽快で朗らか。ヴァイオリンの歌うメロディーが風に乗って、さわやかなメロディーが横溢する魅力的な作品には違いないが、後年に見るような深い悲しみは感じられない。もともとヴァイオリンの明るい楽器の性質上、それは致し方がないと考えていたのだろうか。けれども、パリからの帰還後、ザルツブルクで作曲されたヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K364は、二つの弦楽器の魅力を、それまでにない手法で引き出している。

この作品でモーツァルトは、ヴィオラというやや目立たない楽器を、ヴァイオリンにも比肩し得るパートに仕立て上げたている。例えば、通常はオーケストラのヴィオラ・パートをヴァイオリンと同様、二つに分離している。また独奏については、次のように記されている。
独奏ヴィオラは全ての弦を通常より半音高く調弦すること(スコルダトゥーラ)を指定している。独奏ヴィオラのパート譜は変ホ長調の半音下のニ長調で書かれている。弦の張力を上げることにより華やかな響きとなり、更にヴィオラが響きやすいニ長調と同じ運指になることで、地味な音色であるヴィオラがヴァイオリンと対等に渡り合う効果を狙ったのである。(Wikipediaより)
このため、同じ程度の技量を持つヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者が交互に同じ旋律を弾くと、同程度に存在感を持ち、まさに協奏しているという感じになる。そして協奏交響曲という性質上、オーケストラにも同じ程度の存在感が与えられている。

とはいってもこの曲のオーケストラの編成では、弦楽器を除けばオーボエとホルンのたった2種類の管楽器が付け加えられているにすぎない。にもかかわらず、時折これらの楽器が加わる様は、聞いていて非常に印象的である。弦楽器もピチカートを用いて、これらの楽器を浮き立たせているあたり、なかなか憎い。

長い序奏から独奏楽器が混じりながら、スーッと入って来るあたりも実に麗しい。メロディーをまずはヴァイオリンが、続いてヴィオラが交互に繰り返すから、その対比が楽しい。時に独奏やオーケストラはテンポをわずかに落とし、流れがたゆたう。第1楽章の展開部では、その傾向が一層顕著である。これは楽譜にも書いてあるのだろう(どの演奏も同じだから)。でもやりすぎてももたれるし、そうでなければ素っ気ない。この微妙なバランスは、奏者の息が合っていないと上手くいかないだろう。室内楽的な呼吸が必要である。

この曲の第2楽章は、夜に聞く孤独なラジオのように非常にロマンチックである。もしかしたら、これがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲にも引き継がれた弦楽器を独奏とする協奏曲の、いわば新局面ではなかったかとさえ思えてくる。長く11分余りに及ぶこの楽章を含め、規模の点でも他にない長さである。特に弦楽四重奏のような後半部分は、下手な演奏で聞くとちょっとつらい。

私がこの曲を初めて知ったのは、我が家にあった一枚のLPからで、独奏がギドン・クレーメルとキム・カシュカシャン。それにニクラウス・アーノンクールが指揮するウィーン・フィルが加わる。アーノンクールの演奏、いや古楽器奏法によるモダン楽器の演奏、というのは初めての経験だった。いつもと違うウィーン・フィルの響きに戸惑いを覚えたものの、第1楽章冒頭の独特のアクセントが病みつきになった。だが今から思えば、全体的にやや不完全な感じも否めない。

もう少しオーセンティックな演奏も聞いてみたいと思っていたところ、新譜のCDが発売された。 独奏がイツァーク・パールマンとピンカス・ズーカーマン、ズビン・メータ指揮イスラエル・フィルというもの。この演奏は、オーケストラも含めいずれの楽器も低くチューニングされており、非常にジューイッシュな演奏で好き嫌いが分れるような気がした。どことなく即興的でもあり、オイストラフやスターンなどの往年の名盤を意識してはいるが、新感覚には程遠いものだった。

そもそもこの曲の第2楽章アンダンテは、過剰にロマンチックに演奏すべきではないと思う。なぜなら第3楽章との対比において、あまりにバランスが悪いような気がするからだ。深く沈んだ演奏が終わると、何とも拍子抜けがするほどに快活なメロディーが流れてくる。この問題を解決するには、少しの期間が必要だった。2000年に入り、とうとうこの曲の理想的な演奏が登場した。フランス人のオーギュスタン・デュメイとオーストリア人のヴェロニカ・ハーゲンを独奏に迎えての一枚は、室内楽的な精緻さの中に、抑制の効いた即興性に満ちた、類まれな完成度を誇っていると言える。

カメラータ・アカデミカを指揮しているのは、ヴァイオリンの独奏を兼務するデュメイである。どういう指揮ぶりかは耳だけではわからないが、オーケストラの自発性がないとこういう演奏にはならないのは明らかで、そういう意味でこの演奏は、まさに理想的な協奏交響曲である。ヴィオラのヴェロニカ・ハーゲンは、ハーゲン四重奏団のヴィオラ奏者で、技量的にも申し分ない。

しっとりと落ち着いた第1楽章、夜の部屋で聞くレトロな第2楽章、一転して快活となる第3楽章の理知的な戯れ。どの瞬間をとっても新鮮な感覚に満ち溢れた演奏である。

2020年3月3日火曜日

モーツァルト:交響曲第41番ハ長調K551(カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

日本にまだ4つしか民放FM局がなかった私の中学生時代(1980年前後)、民放でもクラシック音楽の番組が制作されていた。その日はどういうわけか、普段は聞かない土曜日の朝7時台の番組を聞いていた。夢うつつのままベッドにもぐりながら、手を伸ばしてラジオのスイッチを入れ、当時来日して評判だったカール・ベームの演奏を取り上げるのを聞いたのである。

来日ライブではなく、その日はレコードの再生だったと思う。曲はモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」で、これはベームの十八番と言える曲。ベルリン・フィルの演奏だったか、新しいウィーン・フィルのものだったかは定かではない。そしてその曲が流れることを知っていたのは、今では廃刊となったFM雑誌によってだった。ベームの「ジュピター」を聞けるのだから、さっそくエア・チェックとなったわけである。

だが中学生にとって朝はつらい。ラジオのスイッチを入れたものの、準備していたカセット・テープのスイッチONが放送開始に間に合わず、仕方なく私は惰眠を貪りながら、再び眠りに入った。ところが、である。あのゆったりとした第3楽章が、頭上に置いたスピーカーから聞こえてくると、私は電流が体に流れるような気持に襲われた。目がぱっちりと覚め、そのあと第4楽章のコーダまでの間中、硬直した体を横たえながら、ベームの「ジュピター」に聞き入った。エーゲ海の島に降り注ぐ満点の星空のように、その音楽は私を宇宙へと誘った。なるほど、これが「ジュピター」か、と私は感動し、学校へと急ぐ時間はおろか、その日一日中、この音楽が耳から離れることはなかった(「ジュピター」を聞いたのはこれが初めてではない)。

ベームの演奏の凄さは、このような音楽を「ただ」その音楽に語らせることである。一見武骨に見えるその中から、稀にとてつもない神がかり的なものが引き出されてゆく。それは聞き手と演奏者の魂のサイクルの偶然の一致からもたらされるのだろうか。ブルックナーの音楽のように、そういう瞬間が存在した。少なくともその日の私には、後にも先ににもただ一度だけの奇跡的な時間が存在した。

ベームの「ジュピター」は2種類あって、古いベルリン・フィルとの全集の中の一枚と、後年ウィーン・フィルを指揮してのものがある。指揮者の高齢化に伴って、より自然にゆったりとオーケストラに主導権を委ねているのが後者である。私の好みだけでなく、客観的に見ても断然素晴らしいのは前者、すなわちベルリン・フィル盤だ。1959年の録音だが、とても良い。ただひとつだけ残念なのは、今では当たり前の繰り返しが省略されていることだろう。

第40番では使われなかったティンパニやトランペットが使われている。ハ長調の特徴を生かして、冒頭から壮大で華麗な曲である。ここで音楽はしばしば休止を挟む。その呼吸感が、初めて聞いた時から印象的だ。止まって、そして一気に広がる音楽は、すべての楽章に亘り、命を吹きかけられて推進力を持って突き進む。「ジュピター」は木星。バーンスタインの指揮したニューヨーク・フィルのレコードのジャケットには木星の写真が付けられていたのを思い出した。

第2楽章の深々としたメロディーは全体の白眉だという人も多い。アンダンテ・カンタービレ。もっと歌ってもいいのだが、ベームは武骨にそっけなく進む。でもそれが、今の感覚に合っているようにも思う。つまりポルタメントなどの細工は少なく、それが現代的で好ましい。やはり休止して広がる弦楽器に、孤独で悲しいが毅然と自己を見つめる厳しさを感じる。

第3楽章はメヌエットとはなっているが、もはやこれは舞曲ではなく、聞かせるための三拍子だろう。ベームの演奏は遅いが、そのゆったりとしたなかにも宇宙が広がる感覚は、この演奏の中心的な部分だと思う。上記に書いたように、私はここで雷に打たれた。第3楽章の最後の音が、そのまま第4楽章の最初の音につながってゆく。

第4楽章の高度で複雑なフーガについては、もう何も語ることができない(リヒャルト・シュトラウスは「天国にいるかの思いがした」と書き残している)。どんな演奏で聞いても、ここの部分は白熱し、圧倒的な感覚に見舞われる。曲の力があまりに「凄い」ので、演奏の良し悪しや好き嫌いは意味をなさない。ただただあきれるほどに深く、そして大きい。まさに峻厳なる「ジュピター」である。

モーツァルトの「三大交響曲」は、モーツァルト音楽の集大成と言ってもいい。彼が獲得したすべての要素が詰め込まれている。この後に交響曲を作曲しなかったモーツァルトは、わずか3年ほどして帰らぬ人となった。あまりに早い天才の死だったが、すべての仕事をやり遂げたと言われても信じてしまう。そんな生涯だった。

2020年3月2日月曜日

モーツァルト:交響曲第40番ト短調K550(ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団)

新型コロナウィルスによる感染拡大の影響で、重苦しいムードが続いている。宅勤務ともなれば朝から妻の愚痴を聞かねばならず、仕事の能率は低下の一途をたどる。日本の住宅事情では広い書斎を持つサラリーマンなどほぼ皆無だから、同様の状況は全国に広がっていると推測できる。ここに登校禁止となった息子が加わると、もはや最悪の状況である。ひとり逃避するわけにもいかない。

そんなとき、しばし仕事を中断してイヤホンで聞くモーツァルトの音楽がどれほどの癒しになることか。「走る哀しみ」と小林秀雄が表現したト短調交響曲は、そんな心情を一層鎮めてくれる。もはや誰も認めてくれる者もいなくなった天才は、激減する収入になすすべもなく、寒さにうち震えながら妻の愚痴や子守りにも耐え、どこで披露するかも定かでない珠玉の作品を作り続けたのだから。

私はウィーンのシュテファン大聖堂裏手Domgasse 5にあるモーツァルトの家(Mozarthaus)を訪ねたことがある。200年以上も前に建てられたアパートは今もそこにあり、普通に人が暮らしている。その中の一室が、モーツァルトが実際に暮らしていた部屋で博物館になっているが、これはモーツァルトが暮らしたウィーン市内の約10か所のアパートのうち、現存する唯一のものだそうだ。ここに彼は1784年から1787年まで暮らした。コンスタンツェとの結婚の2年後から、「三大交響曲」が作曲されれる前あたりということになる。

この家を見た私の感想は、案外狭くて暗いというものだった。大都会ウィーンの中心部にあるので、それは仕方がないのだろう。日の当たらない部屋で、子供の泣く声も常に聞こえてきたかも知れない。そんな状況がモーツァルトの音楽にどのような影響をもたらしたかは、よくわからない。

交響曲第40番は彼のたった二つの短調で作曲された交響曲のうちのひとつで、いずれもト短調。その第1楽章はモーツァルトの中でも最も有名なメロディーである。これを聞いた人は、「これがモーツァルト」と頭に刻印が押されるくらいのインパクトを受ける。私もその例外ではなかった。

日本短波放送(現ラジオNIKKEI)の長寿番組「私の書いたポエム」のテーマ音楽がこの曲である。ある日、いつものように短波放送を聞いていたら、雑音の中からK550が聞こえてきた。このメロディーを、私はすでに知ってはいたが、どういうわけかその時に聞いた音楽が未だに忘れられない。誰の演奏かもわからない(勝手にワルターだと思っている)。中学生の頃だった。日曜日の夜に、アナウンサーの大橋照子と長岡一也がリスナーから届く詩を朗読する番組は、放送開始から45年もたつが今でも続いている(久しぶりに聞いてみたところ、ここでのK550はポップス調にアレンジされたものだった。これがかつてもそうだったかはわからない)。

ト短調交響曲をレコードで聞いてみようと思ったのは、そのあとくらいだった。第1楽章以外の部分を聞いてみたかったのだ。我が家にはただ1種類のレコードがあった。すでに擦り切れそうなほど再生されたせいか、プチプチと鳴る雑音に混じってスノーノイズまで入っているそのレコードは、ジョージ・セルの指揮したものだった。キビキビとした第1楽章は、それまで聞いたことのあるこの曲のどの演奏よりもすらすらと流れてゆく。ルバートを聞かせたロマンチックな演奏が多い中で、これは私に新鮮な感動をもたらした。

第二楽章も淡々としているが、その中にほのかに見え隠れする情緒は、いつもは退屈だと感じていた緩徐楽章も素敵な曲に聞こえた。そして第3楽章では、左右に分離した弦楽器が一方は高い音を、もう一方は低い音を奏でるアメリカ風ステレオ効果によって、構成力のきっちりとしたメヌエットが手に取るようにわかり、とても印象的だった。演奏はそのままフィナーレに突入し、セルの一点の曇りもない音色と、まるでメトロノームで測ったかのようなリズムで最後まで淡々と駆け抜ける。

セルのモーツァルトはこのように、一切の妥協を許さない完璧な音作りで、その中にこそ宿る音楽への真摯な態度が、曲の持つ本来の魅力を飾ることなく表現し、その中に秘められた情感をも炙り出す。いまでは少なくなった質実剛健の演奏だと思う。第4楽章の激情的な音楽も、淡々と演奏されるとかえって胸に突き刺さる。

以来、様々な演奏でこの曲を聞いたが、実際にはなかなかしっくりくる演奏がない。曲の評判とは逆に、いい演奏が現れないのはどうしてか。同様の感想を持つ聞き手も多いようだ。モーツァルトの曲でも交響曲第40番ともなれば、いつのまにかコレクションを紹介するブログの書き手も多い。いくつかを読んで、その推薦盤を調べて見たが、みなさんいろいろ書かれていて興味深い。まだ聞いたことのない数多くのディスクがあるが、私は今もってセル一択である。

2020年3月1日日曜日

モーツァルト:交響曲第39番変ホ長調K543(ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団)

モーツァルトの交響曲を順に取り上げている。気が付くともうあと「三大交響曲」を残すのみとなった。ケッヘル番号は500番台に入り、いわゆる「晩年」の作品に突入したことになる。といっても36歳で夭逝したのだから、「三大交響曲」が作曲された1788年はまだ32歳である。だが35番以降の作品の充実度は、目を見張るほどに進化している。とりわけ最後の3つの交響曲については、神業とも言うべき水準の作品であることは素人にも明らかである。

いわゆる「三大交響曲」、すなわち第39番変ホ長調K543、第40番ト短調K550、及び第41番ハ長調K551がどういう理由で作曲されたかは明らかではない。また生前に初演されたのかも不明である。謎めいたその理由について、研究者でなくとも理由を探すことは興味がある。だがこれまで定説になったものは、ない。にもかかわらず驚くべき完成度を誇ると同時に、その作曲期間はわずか4か月。しかもそれぞれの作品が、異なった趣きを持ち、様々な方向に光を放っている。

モーツァルトはこの時期、すでに作曲家としての評判は落ち、移り気の早いウィーンでは予約演奏会もできなくなっていたと言われている。モーツァルトが音楽史に名を残す理由は、オペラ分野を除けば、このような逆境にも関わらず芸術的志向を強め、必ずしも大衆受けをするわけではない作品を作り続けたことにある、と思う。これはピアノ協奏曲だけでなく交響曲においてもそうだった。例えば楽器編成から考えて、この3つの交響曲を同じ日に演奏することを前提にしているとは考えにくい。「三大交響曲」に見るモーツァルトの新しい作品への探求の結晶は、プロの音楽関係者を意識してか、誰にでもわかる単純なものではない。あらゆる音楽的試みを駆使し、それまでの知識や経験を総動員している。

この第39番では、珍しいことにクラリネットが多用されている。第2楽章のカンタービレにおいても弦の後で鳴っているのが聞き取れるし、終楽章でもフルートやファゴットに混じって時折顔を出すが、もっとも明確にわかるのは第3楽章のトリオだろう。クラリネットが使われる代わりにオーボエが省かれている。 そのことが全体にまろやかなスパイスを与る結果となっているが、全体的には構造がしっかりしした作品だと思う。冒頭の序奏の和音は、まるで神の啓示が現れるような荘重なもので、時に不協和音を交えて厳かに奏でられるメロディーを聞くだけで、私などはモーツァルトに「圧倒」される。

第1楽章のほとばしり出る主題と、トランペットも交えて繰り返される音楽の骨格は、私が初めて聞いた演奏がジョージ・セルの指揮だったこともあってな極めて印象的だった。おそらく親しみやすさという観点では、この交響曲は最高峰ではないかと思う。

初春の昼下がり。最近、私は明るい陽射しに誘われて近くの小径を散歩しているが、今日はこの第2楽章を聞いている。ぽかぽかした陽気が、実によく合う。まだ肌寒く、ときおり物悲しい気持ちになる日本の春には良く似合うなあ、などと感心していると第3楽章に入った。ここはそれまでに聞いて来た交響曲の単なるメヌエットとはとても異なる。リズムを刻む3拍子を、セルはキビキビと切れ味鋭く、一切の妥協を許さない。けれどもクラリネットが入っているせいか、ポルカのようにどこかのんびりとした風情が漂う。

私が現在、もっともよく聞いているのはジェフリー・テイトが指揮した全集の中の一曲である。CDでデビューした頃の演奏で、首席指揮者をつとめていたイギリス室内管弦楽団を振っている。弟がこのCDを買ってきたとき、そのプロフィールに「クレンペラーの再来」などと書かれていたのを思い出す。確かに車椅子に乗った指揮者という側面もあったが、隅々に及ぶ音の広がりや安定感、それでいて飾り気のないアンサンブルなど確かに共通点も多いなと思った。

その全集は80年代に完成し、どの曲をとってもすこぶる完成度が高く、いまもって最も優れたモーツァルトの交響曲全集と思う。そして嬉しいことには、この演奏あたりから繰り返しをきっちりと行っていることだ。このブログで取り上げたこれまでのモーツァルトの演奏は、ワルターであれスイトナーであれ、LP時代の名演には違いがないが、収録時間の関係で繰り返しが省略されるのが慣例だった。音楽評論家の故・宇野功芳氏は「全神経を集中して提示部を聴き終え、さてその次は、と胸をはずませていると、いちばん初めに戻ってしまう。これでは緊張力が急になくなる。」(「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集編」講談社)と書いているが(交響曲第38番「プラハ」のジェイムズ・レヴァインの演奏について)、 私は一般的にはそうは思わない。いい演奏はいつまでも聞いていたいからだ。

CD時代の演奏の標準は、特に終楽章であっても楽譜の指示通りに繰り返すことだから、むしろ古い演奏を聞いていると「あれ、もう終わってしまうの?」と思ってしまう。セルやベームの歴史的名演奏が、明らかに損をしていることになる。第4楽章のまるで行進曲のようなメロディーは、初めて聞いた時から大好きな曲である。このテイトによる演奏も、終楽章の再現部をきっちり反復しており、長い。でも演奏が素晴らしいので、大変喜ばしい。もちろん緊張が失われることもない。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...