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2025年12月10日水曜日

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」(The MET Live in HD Series 2025–2026)

荒唐無稽なストーリーを持つ歌劇《夢遊病の女》を理解するには、想像力が必要だ。主役のアミーナ(ソプラノのネイディーン・シエラ)は美しい女性だが、孤児として水車小屋で育てられた。舞台はスイスの田舎の集落で、そこは閉鎖的な社会である。彼女は自身の出自へのコンプレックスと、閉ざされた環境でしか生きられない不遇さに、強いストレスを抱えて成長したはずだ。それが「夢遊病」という形で表れている。本当の自分は、強く抑圧され、表出を許されない。だが夜になると、別の――いや、本来の彼女が姿を変えて彷徨い、無自覚のまま幽霊のように村に現れる。

ところがベルカント時代の、あまりに陽気で美しいベッリーニの音楽は、こうした暗い側面を覆い隠してしまう。ヴェルディの時代になると、「薄幸な女性」の心理がより細やかに描写される。《椿姫》を挙げるまでもなく、それは儚く美しく、そして残酷である。しかしアミーナという役柄には、そこまでの心理の闇を感じるのが難しい。想像力を大きく補ってもなお、深く描きにくい役である。

そんな作品を、新演出として担ったのが、かつてテノール歌手として一世を風靡したメキシコ出身のロランド・ヴィリャソンである。閉鎖社会に生きるアミーナの心理を、過度に現代風に寄せるでもなく、かといって古めかしくもない絶妙な距離感で描いている。歌を中心に据えながらも、物語の要点を的確に押さえた秀逸な演出である。いくつか気づいた点を記しておこう。

まず舞台には、スイスらしいアルプスの高峰が大きくそびえている。その前には複数のドア(各住居を示すのだろう)に囲まれた村の広場が広がる。合唱団が演じる村人たちの、閉鎖的で因習に縛られた生活はこの広場で展開される。そこへ旅人として現れる謎のロドルフォ伯爵(バスのアレクサンダー・ヴィノグラドフ)は、なんと山のほうから塀を越えて梯子で下りてくる。外の世界が「越えるのも困難な高い壁」で隔てられていることの象徴だろう。

塀の上、すなわち山々を背景に、アミーナの“分身”とも言うべき無言の女性が登場し、アミーナがアリアを歌うたびに同じ仕草でシンクロする。古い慣習に押しつぶされそうになる彼女の無意識の本心が、夢遊病の際にこのもう一人の女性として舞台上に具現化しているのだ。

外の世界を知る徳の高い伯爵は、夢遊病を理解しており、夜中に彷徨う彼女の無実を証明しようとしている。しかし、アミーナの婚約者エルヴィーノ(テノールのシャピエール・アンドゥアーガ)は、一度は熱烈に愛した彼女を誤解から責め、自暴自棄になる。そして伯爵が宿泊することになった宿屋の女主人であり、アミーナの“元々の”恋敵でもあるリーザ(ソプラノのシドニー・マンカソーラ)に言い寄って結婚しようとする。この浅はかな行動について、アンドゥアーガ本人が「尊敬できない役柄だが、困難な歌にエネルギーを集中している」と語ったインタビューが面白かった。

このプロダクションは今シーズンのMET Liveの開幕演目である。幕開けにベッリーニを置くのは斬新だが、ベルカント作品の難しさを考えると冒険でもある。だが満を持して歌手を揃え、この分野の気鋭であるリッカルド・フリッツァを指揮に起用したことで、本公演の成功が裏付けられたことは容易に想像できる。

歌手に目を向けよう。私は近ごろの体調もあり、長時間の映画や公演にやや疲れていて乗り気ではなかった。映画仕立てのライブ上映であり、急いで観る必要もない。東劇では3週間のロングランだし、夏にはリバイバルもある。しかも私は、ナタリー・デセイとファン・ディエゴ・フローレスが出演した2008年のジマーアマン演出の名プロダクションを観ており、昨年の新国立劇場の舞台も記憶に新しい。「無理して行かなくても……」という気持ちは確かにあった。

しかし映像が始まり、冒頭でリーザを歌うマンカソーラのアリアが聞こえてきた瞬間、私は一気に画面へ引き寄せられた。めくるめくベルカントの歌声に、思わず身震いしたのである。彼女は主役ではない。主役はアミーナ役のシエラで、彼女は今もっとも注目すべきアメリカのベルカント・ソプラノだ。相手役エルヴィーノを歌うスペイン出身のアンドゥアーガについては、冒頭でゲルブ総裁が「若き日のパヴァロッティを思わせる」と述べていたが、私は声質や風貌から、むしろ若き日のカレーラスを思い起こした。

ロドルフォ伯爵を歌ったヴィノグラドフはロシア出身。若いながらも艶と威厳を備え、高貴な雰囲気が抜群である。二人のソプラノが恋敵として対照をなす点も舞台の見どころだが、声に個性を持つマンカソーラがとりわけ印象的だった。ただ、やはり舞台はシエラの独壇場である。アミーナの聴きどころは多く、どれも素晴らしいが、最大のハイライトはやはり第2回目の夢遊病のシーンだ。夢遊状態で歌うアリアと、そこから目覚めて歌うアリアとで、歌の性質がどれほど変化するかが見どころである。舞台がガラリと明るくなるなどの工夫があってもよいのでは、といつも思うのだが、今回もそうした演出はなかった。

ただし、舞台左手から階段が現れ、傾いた村の扉の上からアミーナの“分身”と触れ合う。彼女は外の世界――伝統に縛られない新しい世界へと向かっていく。恋敵リーザとの抱擁は、女性としての感覚を共有する象徴的な場面であり、その後、例の階段を上って村の外の世界へ羽ばたこうとするところで幕となる。

息もつかせぬ歌声に寄り添い、繊細なルバートを交えながらも歌手をしっかり導く指揮者の音づくりは見事というほかない。そのおかげで出演者たちは難度の高いアリアを次々と熱唱する。2幕のオペラが終わるころには、心の底から充足感が押し寄せてきた。音楽を聴く楽しみ、歌と舞台を味わう喜び――その時間を持つ幸福を深く実感した3時間であった。

2024年10月16日水曜日

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」(2024年10月6日新国立劇場、マウリツィオ・ベニーニ指揮)

新国立劇場24/25シーズンの幕は、オペラ「夢遊病の女」で切って落とされた。多くの美しく技巧的な歌唱力を持つ歌手を要とするベルカント・オペラ作品が、我が国で上演されるのは珍しい。ベッリーニの作品が新国立劇場に登場するのは、何とこれが初めてだそうである。このオペラが我が国で初めて上演されたのは明治時代にまで遡るそうだが(プログラムによる)、それ以降の演奏回数は多くはない。そのようなベルカント・オペラが、今シーズンには2作品も新しく制作される。もう一つはロッシーニの歌劇「ギヨーム・テル」で、これは画期的なことである。

オペラの鑑賞記を書くのはなかなか難しい。特にその新しい演出について、これを細かく書いてしまうと、これから出かける人に要らぬ予備知識を与えてしまう(いわゆる「ネタバレ」)。かといって、全公演が終了してからということになると、印象が薄れ文章に気持ちが乗らなくなってしまう。そこで、このような記録は下書きとして書き留め、後日アップロードするという手法を取ることになる。あらすじはすでに良く知られており、歌手の出来栄えは日によって違うから、これについてはあまり気にする必要はない。

ベッリーニ晩年(と言っても彼は34歳で夭逝した)の作品である「夢遊病の女」は、「ノルマ」や「清教徒」などと並んで、彼の代表的な作品である。もっと長生きしていたら作風はもっと成長し、新しい要素を取り入れてイタリア・オペラはまた違った発展を遂げたのではないかと言われている。ロッシーニとは少し異なり、歌そのものが麗しい旋律によって次から次へと登場するベッリーニの魅力は筆舌に尽くしがたいが、それはそのままヴェルディの初期作品へとつながる。「夢遊病の女」はスイスの素朴な村を舞台に甘美で流麗な音楽が横溢し、大活躍する合唱と合わせて聞き所満載である。

私は一連の公演の指揮がマウリツィオ・ベニーニと発表されたとき、買う気がなかったチケットを購入するか非常に迷うこととなった。メトロポリタン歌劇場などでベルカント・オペラのスペシャリストとして登場するこのイタリア人の巨匠によって繰り広げられるであろう演奏を、一度体験したみたいと思ったからだ。彼は今年6月の「トスカ」でもタクトを取り、その演奏は大変好評だったようだ。YouYubeには事前に開かれたプレトークの動画が掲載されており、その中で彼は、このたびの上演に対する思いを熱く語っている。東京フィルの優秀さに加え、3人の主役が申し分ないレベルだということがわかり、私は妻の分と合わせて座席を確保したのは、公演のわずか3日前だった。すでにプレミア公演が好評のうちに終了していたにもかかわらず、日曜日だというのに当日席も十分に残っていた。

主役であるアミーナを歌うのは、まだ20代の若いイタリア人、クラウディオ・ムスキオだった。彼女はシュトゥットガルト歌劇場の歌手で、今年7月の公演でアミーナを歌い、スタンディング・オベイションの成功だったという触込みだった。もっとも当初発表されていたのはローザ・フェオラだった。彼女は「芸術上の理由」から降板することが発表されていた。噂では、ベストなコンディションが保てないということだったようである。だが、私はむしろ実力のある若い歌手の方が、楽しみな要素も多い。定評ある歌手が常にベストだとは限らないのである。

一方、アミーナの結婚相手であるエルヴィーノを歌うのは、世界的に知られたイタリア人のテノール、アントニーノ・シラクーザである。もう還暦を迎える彼は、この役を200回以上も歌ってきた大歌手で、ベルカント・オペラに相応しい、朗々と歌い上げるリリカルな歌唱に定評がある。年齢を重ねるにつれてかつての輝きが減っているという噂もあるが、それでもこの年になって高い声を響かせるのには驚くばかりだ。

意外に見逃せないのが、ロドルフォ伯爵の重要性かも知れない。二人の主役に次ぐ彼の歌には、高貴でかつ威厳のある歌声が求められる。この役を日本人の妻屋秀和(バス)が担う。さらにはリーザに伊藤晴(ソプラノ)、養母テレーザに谷口睦美(メゾ・ソプラノ)という布陣である。申し分のない新国立劇場合唱団の指揮は三澤洋史で、ホームページに掲載されたビデオには練習の様子が記録されている。イタリア語の歌唱にこだわった歌唱は、ベニーニのお墨付きも得て、世界最高ランクの合唱が期待できる。

時間通りに幕が開いて、音楽が聞こえてくるかと思いきや、舞台に現れたのはアミーナと彼女を取り巻く10人程の男たちである。彼らはアミーナを中心に踊り、その間音楽は聞こえない。ひとしきりこの踊りのシーンが続く。以降、アミーナには常にこのバレエダンサーが取り囲むようにして踊った。これは彼女が抱えるもう一つの側面、すなわち彼女の深層心理を表しているのかも知れない。アミーナは孤児として育てられ、そのことが大きなストレスとなって夢遊病を患っているのである。

この舞台で最初に歌うのは合唱(村人)、そしてアミーナの恋敵リーザである。結婚式のシーンで、リーザは最初のカヴァティーナを歌う。ここは最初の聞き所である。そしてやがて祝福の渦の中に二人の主役が現れる。合唱団を含めて明るく祝祭的な歌が続く。一気にベルカント・オペラの世界に引き込まれてゆく。それにしても指揮のベニーニは素晴らしい。彼は歌手の一挙手一投足にまで配慮して、その歌に寄り添い、どんなフレーズにも巧く対応して音符を延ばしたりテンポを動かしたりするのだが、それがあらかじめ良く練習されたものとして完璧に示されるのだった。

オペラ上演で、このような歌手と指揮者の即興的な駆け引きは、しばしば見受けられる。しかし最近ではむしろ、指揮者が主導権を持ってグイグイと舞台を進める傾向が強い。しかしそれではベルカント・オペラの良さが伝われないと彼は考えているようだ。なぜならベルカント・オペラの主役は飽くまで歌であり、それを下支えするのがオーケストラであることをわきまえているからだ。

私はロドルフォ伯爵が身を隠して村に到着し歌うカヴァティーナ「この心地良い場所」で、涙を禁じ得なかった。妻屋の歌唱が良かっただけではない。ここまで聞いてきたそれぞれの歌手の水準が平均以上に高いことがわかり、ますます舞台に引き込まれていったからだ。それにしてもその歌詞は美しい。舞台には最低限のセットが置かれ、もう少し照明を生かすなど新国立劇場の装置を生かせばとも思ったが、演出は最近流行の奇抜さが先行する読み替えはなくオーソドックスな部類に入るだろう。むしろ心理的な側面に寄り添う必要から、余計なものを排除した傾向がうかがえる。そのことは舞台に集中力を与え、好感が持てる。

30分の休憩を経て始まった第2幕は、合唱団のシーンから始まる。3階席のサイドからはオーケストラも良く鳴るので、ともすれば歌声がかき消されがちである。しかし今回の公演はその心配がまったくなかった。脇役を含め大変完成度が高く、オーケストラにも一点の曇りももなく、合唱団とバレエは完璧だった。そこに3人の主役級歌手が、長いフレーズと技巧的な装飾を含めて次から次へと綺麗な歌を披露する。

最後のシーン、「不思議だわ」以降は本作品最大の見せ所である。ここでアミーナはひとり長大なアリアを歌う。その前半は夢の中で、後半は夢から醒めた状態で、ということになっている。ここの転換がひとつの見どころだとおもっていたが、今回のアミーナの歌唱は、驚くべきことに村の建物の屋上で歌うというもので、彼女がこの幕の最初からそこにいたとは誰もわからない。照明が当たって、舞台上十数メートルはあろうかという高さにスポットライトが当たり、白い衣装を着た夢遊病の彼女が立っていたのである!

3階席の高さもあろうかと思われる。隣のご婦人などははらはらしながら、その様子を見ている。だが彼女はそこにいるだけではなく、大一番の歌を歌うのである。村人を含むすべての登場人物は、屋根上の彼女を見上げている。客席全体が緊張する中、ムスキオは最後の歌を歌い切り、舞台が真っ暗になって終わったとき、満場の客席からは圧倒的なブラボーの嵐が沸き起こったことは当然のことだった。興奮冷めやらぬ雰囲気の中で、カーテンコールが何度も繰り広げられた。ベニーニも登場し、オーケストラも総立ちとなって拍手を送る。手をつないで何度も何度も舞台の奥と前を行ったり来たり。オペラを聞き終えた満足感に浸った3時間が、このようにして終わった。

新国立劇場のエントランスには巨大な生け花が飾られていた。名残り惜しそうに、その前で写真を撮るなどして余韻に浸りながら会場を後にした。私と妻はいつものように、初台の商店街を抜けて代々木八幡の方面へ。事前に予約してあった富ヶ谷にあるレストランで、しばしその公演の素晴らしさを語りながら、年に何回かはこのような舞台を見てみたいねと語り合った。

今シーズンのもうひとつの新制作の出し物であるロッシーニの「ギヨーム・テル」は、「夢遊病の女」と同様にスイスを舞台にした作品である。ロッシーニはベッリーニの少し前の作曲家だが、この「ギヨーム・テル」はロッシーニ最晩年の作品であり、一方ベッリーニは若くして亡くなってしまったから、音楽史的には「ギヨーム・テル」(1829)と「夢遊病の女」(1831)はほぼ同時期の作品である。この長大なオペラ・セリアを本当に見るべきか、私はカレンダーや財布と相談しなければならない。そして今シーズンにはないが、あのドニゼッティの「愛の妙薬」もまた、牧歌的な雰囲気に溢れるベルカント・オペラの代表作である。そういえばまだ見ていない作品は多い。もう少し長生きしてお金持ちになり、毎日芝居を見て暮らす老後こそが理想的であることに疑う余地はない。そういう日々を味わうことは、おそらくできないだろうが、少しでもそこに近いことはしてみたいと常々思っているところである。

秋の京都へ向かう新幹線の中で、この文章を書いている。持ってきたスマートフォンからは、ナタリー・デセイがアミーナ役を歌う決定的な録音を聞き続けてきた。まもなく第2幕が終わる。列車は三河安城を時刻通りに通過した。

2018年8月18日土曜日

ベッリーニ:歌劇「ノルマ」(The MET Live in HD 2017-2018)

ノルマはポッリオーネを巡るアルダジーザとの「女の闘い」に敗れたのかも知れない。だが彼女は最後、自らの命を絶つことによって、この身勝手なローマの将軍の愛を手に入れた。二人の子供を父親に託して。

古代ローマが支配するガリア地方の森に宿るドイルド教徒の巫女長ノルマを主人公とするベッリーニの歌劇「ノルマ」は、ベルカント・オペラ最高の作品であると言われている。私もMETライヴでロッシーニ、ドニゼッティ、それにベッリーニの主要な作品に接してきたが、とうとう最後に「ノルマ」を見る時がやってきた。そしてその舞台は、この上演史の一角を争うであろう高水準のもので、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。自らケルト人の血を引くという彼は、舞台いっぱいに森の中を再現し、その舞台が上下にスライドするとノルマの家が現れる。ノルマは木の根の下に住んでいるのである。

暗い舞台は最終シーンになるまで暗いままである。だがカルロ・リッツィによって指揮されたオーケストラの、時には溜を打って歌手に合わせ、時には推進力が明るいメロディーに溶け合う見事な伴奏によって、めくるめくようなアリアや重唱のシーンが、飽きさせることなく次々と展開していく。特に第2幕に至っては、この間奏曲から最後の瞬間まで、丸でヴェルディの音楽ではないかと間違うほどドラマチックな力強さに溢れる様は鳥肌が立つほどで、この音楽が後の作曲家に与えた影響は大きなものだっただろうと想像させるに難くない。

実は私は昨年の11月に、この公演の模様が上映されたときに一度見ている。この時の内容があまりに素晴らしかったので、今回、もう一度会場へ足を運んだのである。METライヴの作品はもう80作品以上見てきているが、2回見たのは初めてのことである。それくらい私は打ち震えるような感動を味わったし、このブログも最初ではなくアンコールの際にもう一度見てから書くと決めていた。半年以上が経って改めて見ていると、半分は忘れていたものが蘇り、また半分は新たな発見をすることとなった。この間、私はマリア・カラスが歌うこの作品の歴史的名演奏をWalkmanに入れて持ち歩き、幾度となく耳にしてきたというのに・・・。

「ノルマ」は、少し聞くだけでとても完成度の高い作品だと思う。序曲を聞くだけで劇全体を覆う様々なメロディーが登場し、それらが要所要所の歌の旋律を思い出させてくれるので、ここを聞くだけで期待が高まるのだ。まず登場するのは長く圧制に苦しむドルイド教徒たちだが、その合唱に続き、まずはポッリオーネ(マルタ人のテノールのジョセフ・カレーヤ)がアリア「彼女と共に」でリリカルな歌声を披露することから始まるが、ここからしてぞくぞくする。ローマの将軍の彼はこれまで敵方の巫女ノルマと通じ合っていたが、今ではその愛も醒め、あろうことか別の巫女の見習いである若いアルダジーザ(メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート)に好意を寄せているのだ。

やがて民衆の期待に応えてノルマ(アメリカ人ソプラノのソンドラ・ラドヴァノフスキー)が登場し、イタリアオペラの中でも最高のアリア「清らかな乙女」を歌う。登場していきなり、実力が試されるのだ。以降、ノルマはほぼ舞台にずっと出ずっぱりで、その歌も重唱が多く、難易度が高い。今回の演出は、そこに演技の様子まで加わるのだから、彼女曰く「ブリュンヒルデを3回歌うよりも難しい」とのことである。最高難度の役というわけだ。

ノルマというとマリア・カラスである。カラスの歌うノルマの録音は、正規録音が2種類、実況録音もあるが、モノラルの実況盤が歌に関しては最高らしい。もっとも私は共演者も含めた総合点で、セラフィン指揮のスタジオ録音盤(後年の)を持っているが、ラドヴァノフスキーの歌声はカラスにはあまり似ていない。むしろジョーン・サザランドのような系統ではないかしら。こちらもパヴァロッティなどと共演した録音があるので、一度聞いてみたいと思っている。

アダルジーザはノルマよりは低い声で歌われるが、存在としてはむしろ若くて純粋な性格付けがされている。ノルマも去ったあとで、彼女は短いアリアを歌い、これで主役3人のお披露目が終わる。 そしてここからは第2場を通しても、重唱の連続である。第1幕後半のノルマとアダルジーザの丁々発止のやりとりに、ポッリオーネまでが加わって舞台は緊張と興奮の中で進行するのだ。第2場の舞台は、(この演出版では森の地下にある)ノルマの家で、二人の子供が登場し、見る者の心にノルマの悲劇的な気落ちが伝わってくる。

第2幕になると、舞台はいよいよ緊張を高めて行く。ノルマはポッリオーネとの恋に破れ、このままでは二人の子供がローマで悲劇的な生活を強いられると予想し、子供を死なせようとまで思い詰めるのだ。だが彼女にそれはできない。そればかりか、アダルジーザに対する憎悪をむき出しにして、揺れ動く彼女の心情が千変万化する。面白いのはベッリーニの音楽が、登場する立場の違う二人によっても同じ旋律で歌われることだ。歌詞は違うが、このような歌をただCDなどで聞いていると、綺麗な歌に聞き惚れているだけで、その中に潜む対立がよくわからない。映像で見る「ノルマ」は、そういう意味で耳で聞くよりも何倍もよくわかる。

ノルマとアダルジーザの心理変化は、長い二重唱のテーマである。ラドヴァノフスキーは何度もノルマを歌っているそうだが、ディドナートは今回がこの役のデビューとのことだった。インタビューではディドナートは、ラドヴァノフスキーの「胸を借りて」演じていると答えていたが、力が入りすぎていて、もしかしたらノルマよりも力強い表現だったと思う。もっとも若いアダルジーザの方が、いまやポッリオーネの心を掴んでいるのだから、その方が現実味がある。ただ、ノルマが感じるほどにアダルジーザは悪意はなく、むしろ清らかで純粋な存在だと私は思う。この二人の表現の違いをどう解釈し、舞台に求めるかがこのオペラに対する好みや評価の中心だろう。

最後には二人の子供をアダルジーザに託し、自分は諦めると決心するノルマに対し、アダルジーザも自分こそ身を引くと言い張る。あるいはアダルジーザがポッリオーネを改心させると言い残し、ポッリオーネの元に走るも説得が効かないことを告げられ、再びアダルジーザに憎悪を抱く、といった有様で、女性同士の心情の対立はもつれにもつれる。どちらの役も一方より弱いと、この丁々発止の場面はうまくいかないだろう。だが今回の上演は、見事につきる。歌声が絡み合い、その歌詞とは別にめくるめく陶酔のシーンに事欠かない。

最後になって、いよいよ裏切られたノルマはローマ軍への蜂起を決意する。高僧の悪露ヴェーゾ(バスのマシュー・ローズ)が歌うただ一つのアリア「テレべの不当な圧制に」は重量感が溢れ、合唱との対比や掛け合いなど、ヴェルディの作品に受け継がれた要素が多く見受けられる。二人の子供を彼に託すよう説得すると、彼女は自ら犯した罪を認め、生贄になることを宣言する。捕らえられたポッリオーネは、もはやノルマに対して改心し、自分も死をもってノルマへの愛情を示すとき、ノルマの心はアダルジーザに対する憎悪も消え、純粋で気高い心が高らかに歌われる。

ヴェルディはこのオペラからどれほど多くの影響を受けたのだろうと思いながら、ずっと舞台に見入っていた。日本では「ノルマ」を始めとしてベルカント・オペラを見る機会が少ない。これほど難易度の高い歌を歌える歌手は、そう多くはないのだろうと思う。だからMETライブは貴重な機会と言える。直前の「魔笛」に比べると客席は閑散としており、そのことが一層、何かとても贅沢な時間を過ごしていと感じながら過ごした3時間半だった。

2014年7月15日火曜日

ベッリーニ:歌劇「清教徒」(パリ・オペラ座・ビューイング2013-2014)

音楽史の本を紐解けば、ベッリーニの最後の歌劇「清教徒」についておおよそ次のような記述に出会う。ベルカントの時代もこの頃になると、ドラマ性を帯び始める。アンサンブル・オペラとして歌また歌の競演が繰り広げられるベルカントの中のベルカントとも言うべき作品である。第2幕にはドニゼッティの「ルチア」にも影響を与えた「狂乱の場」があり、最終幕でのテノールの最高音は何と三点へ音にも達する、云々・・・。だが私は「清教徒」をこれまで・・・極めつけとも言うべきサザランドとパヴァロッティのCDを持っていながら・・・実はほとんど聞いたことがなかった。

昨年は「ホフマン物語」や「ファルスタッフ」など、なかなか見応えのある作品で見る者を魅了したパリ国立歌劇場のライブ・ビューイング(とは言っても「ライブ」ではなく実況録画されたビデオ上演)の今シーズンのプログラムとして「清教徒」が掲載されてたことを知った私は、川崎のTOHOシネマズに赴いてこれを見ることにした。舞台は17世紀のイングランド、王党派と清教徒の戦いが繰り広げられる中で結婚を誓い合う男女は、それぞれ別の派閥の出身で、いやが上にもこの政争に巻き込まれる。「一見ロメオとジュリエットのような話だが、父親はその結婚を許すのです。ただそれだけ!」と解説のおじさんが冒頭で述べると、ピットにミケーレ・マリオッティが登場し、美しいメロディーが流れだした・・・。

舞台にこしらえられていたのは、骨組みだけでできた建造物で、その様子は「丸で鳥かごのようだ」。その中の一室にベッドが置かれており、女性が寝ているところからこのオペラは始まった。彼女はソプラノのマリア・アグレスタで、エルヴィーラ役としてほとんどずっと出ずっぱりの3時間となる。清教徒のエルヴィーラは、王党派の騎士アルトゥーロ(テノールのドミトル・コルチャク)と恋仲で、伯父のジョルジョ(バスのミケーレ・ペルトゥージ)の計らいでめでたく結婚できることになった。

回転する鉄の骨組みの下で多くの合唱団が歌い、そこに歌が絡む。独唱というのはほとんどなく、すべてが二重唱、三重唱の類である。ひたすら歌は明るくで伸びやかである。演出はロラン・ペリという人で、幕間のインタビューに登場したようだが、私は休憩時間にポップコーンを買いに行ったので見逃してしまった。

長い第1幕では、あまりに歌が楽天的に続くので少々食傷気味にもなったが、面白いことに私を驚かせたのは、第2幕後半で歌われたバスとバリトンの二重唱「ラッパを鳴らせ」の、トランペットも登場してのゾクゾクするようなシーンであった。ここの感銘はちょっとしたものだったが、その理由はこの映像を見ていく内に次第に明確となった。歌手の出来栄えに、集中力と感銘の度合いが比例していたからである(と思う)。すなわち、この上演の最高の出来栄えは、バスのペルトゥージだったと思う。彼の登場する場面はいずれも、一層引き締まって聞こえたし、そのことは客席も気がついていたようだ。

主役のアグレスタもペルトゥージと同じくらいの素晴らしさで、「リボンが首筋を撫でるような」美声は適度に力強くもあり、第1幕第2場の最後のアリアではふらつくことなく最高音を広い会場に高々と震わせていた。この二人が今回の成功の要因であったことに比べると、アルトゥーロの恋仇リッカルドを歌ったバリトンのマウリシュ・クヴィエチェンは、やや声の質がベル・カント向きではない。一方、アルトゥーロを歌ったコルチャクは、最高にスリリングな歌を披露することができるというただそれだけで十分に見応えがあったとは思うが、欲を言えばどうも一本調子というか、メリハリに乏しいというか、なんとなく物足りないと感じたのも事実である(贅沢な話である)。このことに拍車をかけたのは、もしかすると指揮者のマリオッティの、いささか平凡な指揮だったかも知れない。もし指揮がもう少し陰影に富んでいれば、歌はもっと引き立ったかも知れない・・・。

総じて上演水準が高いとは言うものの、緊張感を維持することが難しいのはベルカント・オペラの宿命だと思われた。考えてみれば「清教徒」は、最低でも4人の強力な歌手が揃わないと名演にはなりえない。上述のリチャード・ボニングの指揮するCDは、サザランド、パヴァロッティ、カップチッリ、ギャウロフという夢の様なキャストが、それぞれ最高地点の出来栄えを残しているが、これを上回るというのもちょっと想像しにくい。だから今回の上演は、現在望みうる最高のレベルにチャレンジした記録として好意的に評価すべきなのだろうと思う。

アルトゥーロは結婚式の直前に、処刑されたチャールズ一世の王妃ヘンリケッタの逃亡を助け、そのことがもとで捉えられる。恋に敗れたと思ったエルヴィーラは発狂し、鉄骨の「鳥かご」の中を行ったり来たり。有名な「狂乱の場」は、おそらくこのオペラの見どころである。だが、それ以外の第1幕、最終幕にも綺麗な歌は山ほどあるので、BGMのようにずっと鳴らしながら日がな一日を過ごすのも悪くはない。ロッシーニのようなコロラトゥーラや早口言葉の連続でもなければ、ヴェルディが目指した心理描写にも欠くという作品も、それはそれでないと寂しくなる。ヴェルディの初期作品が好きな私には、それなりに楽しめる作品だと思った。

2012年1月28日土曜日

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」(The MET Live in HD 2008-2009)

歌劇「夢遊病の女」はスイスの村が舞台である。結婚式の前夜、夢遊病の新婦がふと滞在する伯爵の部屋で寝てしまったことから騒動が沸き起こるが、これは夢遊病のせいであることを皆が知って一件落着となる、といういつもながらの荒唐無稽なドラマ。だが、美しい歌が次から次へと歌われるベルカント・オペラの珠玉の名作として知られるだけに、見ごたえは十分である。

数年前のディスクで決定版と称されたナタリー・デセイがアミーナを歌い、指揮はその時と同じピドである。これに今は飛ぶ鳥を落とす勢いの最高テノールで、歌劇「連隊の娘」で一世を風靡したフアン・ディエゴ・フローレスが加わる。やはりメトならではの望みうる最高キャストである。

演出はジマーマンという人だが、ボイトの案内でも明らかなように、舞台は何とマンハッタン、ユニオンスクエアに近い劇の稽古場に変わっている。そこで練習中のストーリーがスイスの村、という劇中劇の形を取るのだ。

この作品は極めて有名である割には、ディスクが少ない。おそらく、マリア・カラスのモノラル録音を筆頭に、定番のジョーン・サザランド盤を除けば、後はこのデセイ盤くらいで、昨年リリースされたバルトリ盤が続く。よって、4種類を聞けばだいたいどういう作品かがわかるのである。

私はiPodに入れたデセイ盤とバルトリ盤を時々聞くが、やはりフィナーレのアリアは圧巻である。ところがそのシーンを初めて映像で見たのだが、やはりここで胸に迫るものがあった。オペラをこのような形で見ることのできる喜びが、夢遊病から覚めて意匠を着換え、村人に混じって踊るアミーナの表情に重なって、恍惚とするシーンだった。

夢遊病のシーンでは、第1幕で何と客席に登場したアミーナは、第2幕で舞台の一部がオーケストラの上部に突き出してきて、指揮者の前で歌うという立体的シーンも、よく調整されたカメラが効果的に映し出し、観客のブラボーも最高潮に達した。

 カーテンコールは幕の内部を映し出し、出演者が抱き合うシーンも見せるが、余韻に浸ったまま終わるので、気分良く映画館を後にすることができた。2時間のオペラも休憩やプレビューを挟んで約3時間、猛暑の日中を涼しい館内でくつろぐことを考えれば、3000円でもまあいいか、という感じである。同じ映像はBSハイビジョンで放送されたのでブルーレイ・ディスクに録画してあるが、とうとうこちらの方は、見る機会を逸したままとなっている。

(2010/08 東劇)

チャイコフスキー:3大バレエ組曲(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チャイコフスキーの3大バレエ音楽について、個人的なベスト盤とともに感想を書き終えた。3作品のうち最初に作曲された「白鳥の湖」は、1877年の初演時には必ずしも成功を収めることができず、チャイコフスキーにとっても不本意な結果となった。しかし、1890年に初演された「眠れる森の美女」...