2013年8月19日月曜日

Mamma, Passione(T:ルチアーノ・パヴァロッティ)

上本町六丁目から近鉄特急ビスタ・カーに乗り、松阪を目指す。八尾を過ぎて古代史に登場する古墳時代の舞台を通り過ぎ、二上山を越えて奈良に入った。何かを聞こうとiPodのスイッチを入れると、パヴァロッティの歌うナポリ民謡をまだ聞いていなかったことを思い出した。空には入道雲がところどころで夏の顔をのぞかせてこちらを伺っている。吉野山の向こうから時折強い日差しが入ってくるが、空調の効いた車内は快適である。

邦題のタイトルは「パヴァロッティ/マンシーニ イタリアン・ラヴ・ソング」となっている。ヘンリー・マンシーニの伴奏が評判になったCDである。最初の曲「マンマ」はパヴァロッティがよく歌っていた曲だ。6番目のVivere(思うがままに生きよ)は、軽快な音楽でマンシーニの伴奏が良く似合う。テレビ・ドラマ「刑事コロンボ」や、ソフィア・ローレン主演の映画「ひまわり」など、自らもイタリア系のマンシーニの音楽は、イタリアとの関わりが多い。8番目の「スカラ座の宵」では、「ピンク・パンサー」の音楽が付け加えられている。

タンゴ風のメロディーに誘われて11番目「ローマのギター」、それにフルートの序奏が印象的な「つばめは古巣へ」のあたりで、列車は青山高原を越えた。田んぼが一面に広がり、川は下りとなる。雲が少し多くなった頃、第14番の「風に託そう私の歌」が流れてくる。この曲もパヴァロッティが良く歌っていた曲だ。伊勢の町並みは黒い瓦屋根の家が特徴的である。再び晴れて、向こうに超えてきた山が見える。最後の曲「サン・ジェストの鐘」はその名の通り、鐘の音が印象的だ。

パヴァロッティのイタリアン・ソング集は、この他に勿論「オ・ソーレ・ミーオ」、「帰れソレントへ」、「サンタ・ルチア」、あるいは「フニクリ・フニクラ」など有名曲を入れた一枚も存在するが、私が持っているのは「Passione」と名付けられたナポリ民謡集である。このナポリ民謡集には、あの「カタリ・カタリ」が含まれている。そのことが私のこのCDを買った直接の動機であった。母がFMで聞いて感動し、私と折半で買うことにしたのである。1985年の当時は、CDが一枚3500円はした。これが私の購入したCDの記念スべき第1号となった。

ナポリ民謡を満を持して録音したようで、選曲のセンスといい、伴奏や編曲の妙と言い、その後の安直な企画ものとは一線を画している。有名な「カタリ・カタ リ」しか知らなかったが、聞くうちに好きな曲がどんどん増えて、「はるかなるサンタルチア」という曲は、今では一番のお気に入りとなっている。 キアラメッロの指揮するボローニャ歌劇場管弦楽団の演奏は、真面目で録音も非常に優れている。

青く高い空、白く眩しい太陽。南イタリアの風景が目に飛び込むような明るさとは裏腹に、このCDを聴いているととてつもなく寂しくなってくるから不思議な ものだ。どの町でもいい、イアリアを訪れてこの寂しさを実感しなかったことはない。火山と世界一美しい港を見下ろすナポリの風景を思い浮かべつつ、過ぎ 去っていく夏を思い返すような寂しさで胸が熱くなる。パヴァロッティの歌声が、これほど真摯に聞こえることはない。


【収録曲(Mamma)】

1. マンマ
2. 忘れな草
3. ロリータ
4. 禁じられた音楽
5. 夢見るフィレンツェ
6. 思うがままに生きよ
7. マリウ、愛の言葉を
8. スカラ座の宵
9. 栄光の夢よさらば
10. こんな生き方
11. ローマのギター
12. つばめは古巣へ
13. ギルランディナの鐘楼
14. 風に託そう私の歌
15. 海に来たれ
16. サン・ジュストの鐘

【収録曲(Passione)】

1. ヴァレンテ/タリアフェルリ:「情熱」
2. コスタ:「五月の事だった」
3. 不詳:「光さす窓辺」
4. ナルデッラ:「雨」
5. ファルボ:「彼女に告げて」
6. 不詳:「小鳩」
7. クルティス:「夜の声」
8. カプア:「口づけを許して」
9. マリオ:「はるかなるサンタルチア」
10. ラーマ:「無言の歌い手」
11. 不詳:「あなたが大好き」
12. カルデッロ:「カタリ・カタリ」

2013年8月18日日曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品6(Vn:イツァーク・パールマン、ローレンス・フォスター指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

真夏の太陽が容赦なく照りつける。久しぶりに過ごす関西での、夏の短い休暇を終え、移動するバスの中で聞こうと思い立った最初の曲は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番だった。この曲は私のお気に入りの曲のひとつで、持っているCDも比較的多い。今回はこの曲のイチオシで、隠れた名演とも言うべきものを携帯音楽プレイヤーに入れて持ってきた。当時はまだ十代だった韓国系の若手、サラ・チャンによる演奏である。

おおよそヴァイオリンの技巧のみを聞くためにあるような曲を、パガニーニはわかっているだけで5曲作曲している。自らの技術を披露するために作曲した彼は、演奏が終わると楽譜を捨ててしまった。このため残された曲は少ないようだが、この第1番はそのようななかで最も人気のある曲である。かつては難曲とされ、よほど腕のいいヴァイオリニストでないと演奏は難しかったが、最近では若手の技巧派ヴァイオリニストのデビュー曲だったりするから凄いものだ。

丸でロッシーニの序曲を思わせるような序奏と、底抜けに明るい旋律は、この曲を初めて聞いた人をも惹きつける。たっぷりと歌う弦の響きと、弾けるようなリズムに乗って、時折超技巧的な部分が現れては消え、また現れては消える。たっぷりと急-緩-急の3楽章形式で40分程度、飽きることはない。浮き立つようなメロディー、イタリアの中世の城塞都市にできる塔楼の影のように陰影を明確にしたような音色。そこまで強調されると何故か悲しい夏の午後のひとときを、私は阪神高速を行くリムジン・バスの中で聞いている。涼しい車内の外は、猛暑である。

長く華やかな第1楽章もいいが、少し短いゆるやかな間をおいて始める第3楽章の、リズミカルな響きがまたいい。ロンド形式のこの楽章は、いろいろなヴァイオリニストで聞いてみたい。快活なピチカートに乗って、独奏の花が満開となる。

きっちりとよどみなく演奏され、瑞々しいチャンの演奏を聞いていると、初めてこの曲を聞いた時の新鮮な感動が蘇ってくる。パガニーニなどという作曲家をそれまで私は知らなかった。そしてこんな明るい曲なのだと感動した。ベートーヴェンやブラームスなど、音楽といえばドイツの絶対音楽だと信じていた中学生の私は、まるで心地よく殴られたような気がした。ヴィヴァルディしか知らなかったイタリアにも、初期ロマン派の作曲家がこのような曲を作曲していたのだ。

フィラデルフィアで生まれたチャンのデビューは、わずか8歳にしてこの難曲を弾き切るという瞠目すべきものだったと言われている。このCDが録音されたのもわずかに13歳の時で、その驚異的なテクニックは、この曲の歴史にまたひとつのページ追加したと思う。伝説的な演奏はもはや録音されることによって伝説ではなく、事実として我々の元に存在するのだが、だからといってこの演奏の意外性が減じることはなく、むしろその光景を目の当たりにして言葉を失うほどだ。

その由緒あるフィラデルフィアのオーケストラは、ドイツの巨匠サヴァリッシュに受け継がれていた。このCDを録音したのも、サヴァリッシュ指揮によるフィラデルフィア管弦楽団とのものなのだが、このことが、私のお気に入りの理由のひとつでもある。

当時のフィラデルフィア管弦楽団は、リッカルド・ムーティによる黄金時代?を経てやや低迷の時代に入ろうとしていた。そこで目を付けられたのが、若くしてヨーロッパの音楽界に華々しくデビューしながら、メジャー・オーケストラの指揮からは少し遠ざかっていたサヴァリッシュだった。N響への共演で我が国にはなじみ深い指揮者だったが、そのレパートリーは完全にドイツ系で占められ、ベートーヴェン、モーツァルトからワーグナー、シュトラウスに至るまで、ほぼすべてがドイツ物。それ以外の曲を聞くことはほとんどなかった。

しかしフィラデルフィア管弦楽団を指揮し始めたサヴァリッシュは、ドイツ物に限らずレパートリーを広げて行った。私が名演と信じるチャイコフスキーの「白鳥の湖」などはその好例だったが、ここにパガニーニの伴奏を務めるサヴァリッシュの、あの生真面目にも溌剌とした表情が見て取れる。

オペラではこの時代、ベルカント花盛りである。ロッシーニやベッリーニといった作曲家が活躍していた。ヴァイオリンはまるで歌を歌うように、あらゆる技巧を駆使して音楽を彩る。渋滞の高速道を抜ける間中、大阪の街を眺めていた。関西の夏は東京より暑いと思っていたが、今年は東京の夏も暑い。むしろ自然に風が吹くと、大阪の夏も悪くないなと思った。東京より人が少ないからだろうと思う。

2013年8月4日日曜日

旅行ガイド:「週末バンコクでちょっと脱力」(下川裕治、朝日文庫、2013)

2011年、2012年と2年続けて年末年始にタイを訪れた。15年以上もブランクのあるバンコクへは、とうとう今年のお正月に出かけた。そのことは前に書いた。今回ホアヒン、バンコクを訪問するに際しては、当時のガイドブックは当然役に立たなかった。そこでいろいろ参考にした本について、まず書いておく。

Webでの情報収集が主流になったとは言え、行き先とその周辺について体系的に得られる情報としては、私はいまだにガイドブックに期待を寄せている。だが日本語で書かれたバックパッカー向けガイドブックは、ここのところ下火になってしまった。かつてロンリー・プラネットのシリーズが順次刊行された時には、あのガイドブックが日本語で読めるのか、と期待したものだ。ヨーロッパのいくつかとニューヨークなどが発売され、私は行くあてもないのに買ったものだ。その中に「タイ」編がある。少し古くなったとはいえ、ホアヒンとその周辺やチャアムについては、このガイドがもっとも役になった。それに比べると、「地球の歩き方」やその他のガイドは、少し情報の体系化に問題がある。

ガイドブックに期待するのは、単なる写真の羅列ではない。かつては最新の情報、すなわち交通機関やホテルの情報に加え、簡単な観光地の紹介であった。だが、それらはインターネットにとって代わられつつある。それでもなお、ガイドブックが一定の地位を保ち得るとすれば、それらに対する一定の価値観に沿った体系化であろうと思う。日本のガイドブックでこれを実現しているものはない。

ガイドブックは持って行かないと割り切ればいいのかも知れない。この場合、「行く気にさせる」というのがその役割となる。もはや実用ガイドの枠を超えるが、ありきたりのガイドブックには掲載されていない記事が、筆者の主観で取り上げられるとき、その文章が楽しければそれなりにいい本となる。そういう意味で、昨年買った「週末香港」のシリーズである「週末バンコク」(吉田友和、平凡社)は、読むだけで楽しい。最近のバンコクがどのようなものかを手っ取り早く知ることができる。

週末にバンコクにまで出かけるのがいいのかどうかは知らないが、かつてバックパッカーとして彼の地を愛したものとしてはその変貌ぶりに何か戸惑いを覚えるのは事実である。その気持を代弁してくれる文庫が書店に並んでいて買った。それが下川裕治著「週末バンコクでちょっと脱力」である。少しでもバンコクを知っているものであれば、ここに書かれている内容はしみじみと面白く読めるだろう。

ガイドブックとして実用に徹するのであれば、最新の地図は欠かせない。ところが我が国のガイドブックはその点でも失格である。結局、日本人向けガイドとは、写真の雑誌のようなものだ。そしてその情報が客観的にに見てどうなのかはわからない。地図にしても必要な部分がパッと出てこない。レストランの記事は非常に多いが、それとて索引があるわけではない。買っても1時間もすれば飽きてくるものばかりである。

そのような中で、比較的地図が充実しており、しかも簡単な観光ガイドにもなっているのが「歩くバンコク」(DAKO編集部、メディアポルタ)である。この雑誌は現地で作成された情報を掲載しているようだ。バンコクの第一人者である下川裕治氏が編集人となっている。つまり情報源はみなよく似ているようだ。

2013年8月3日土曜日

フンパーディンク:歌劇「ヘンゼルとグレーテル」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2012-2013)

ドイツでは「魔笛」と並んで上演回数が多いと言われているフンパーディンクのメルヘン・オペラ「ヘンデルとグレーテル」も、パリ・オペラ座の輝かしい歴史では初めての上演だそうである。上演前のプロローグでそのことが紹介され、少し驚いた。

その初めての上演の演出を担ったのは若いフランス人の女性演出家で、マリアム・クレマンという人であrった。彼女は冒頭と幕間のインタビューで、今回の上演にあたってのポイントや作品の簡単な見どころを紹介している。子供が主人公でも実際の歌は大人が歌う。そのことが危険でさえあると彼女は言う。確かに言われてみればそのとおりである。

そこで彼女は舞台を上下左右、それに中央の5つに分解し、それぞれの部屋で二組の「ヘンゼルとグレーテル」を登場させた。子供の演じる兄妹は、歌こそ歌わないが本当の兄妹といった感じで、ベッドにぬいぐるみを抱いて夢をみる。これに対し、別の部屋でも同じような振付で二人の女性が兄妹を歌う。ヘンゼル(ダニエラ・シンドラム)とグレーテル(アンヌ=カトリーヌ・ジレ)である。別の部屋に彼らの両親がいる。

カメラが見るべき部屋とシーンを切り替えて映しだしてくれるし、各部屋に幕が降りる時には全体が大写しになるので、混乱することはない。もとより童話なので大変わかり易いストーリーである。二人が勉強もせずに部屋を散らかすので、帰宅した母親(イルムガルト・ヴィルスマイヤー)は彼らを森へと追いやる。しかし森(舞台では部屋の中)で苺を食べてしまう。帰宅するほうき職人の父(ダニエラ・シンドラム)が森には魔女が潜むと心配する。ここまでが前半である。

フンパーディンクはワーグナーの弟子であり、その作風はワーグナー風である。したがってこの子供向けオペラに、童謡の散りばめられた軽いお伽話を想像してはいけない。古い民謡も取り入れられているというが、実際は「パルジファル」の影響まで受けたドイツ・ロマン派の、割に濃厚な音楽である。指揮はドイツ人のクラウス・ペーター・フロールで、この上演はフランス人とドイツ人の合作である。

森へ出かけることになっているが、舞台は変わらないし、そこに大きなケーキの家が出てくるが、ちょっと小さすぎて興ざめである。我慢のできないヘンデルとグレーテルはケーキの一部を食べてしまう。しかしそのケーキの家には魔女が潜んでいた。魔女は往年のワーグナー歌手で、指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニの妻であるアニヤ・シリヤである。ほうきにまたがる数多くの魔女たちはバレエ団の、何かカンカンを思わせる踊り。子供たちを食べようと企む魔女は、子供たちを脅しにかかるが、子供たちは逆に魔女をオーブンに押しこみ、魔女を焼いてしまう。するとそこに魔女に閉じ込められていた多くの子供たちがやってきて、両親と再開、神を信じれば救われると歌われる。

原作の「グリム童話」のストーリーとは随分異なるオペラだが、当時数多く作曲されたメルヘン・オペラのうち、リヒャルト・シュトラウスによって初演されたこの作品だけが生き残った。オペラとしての、あの妖しい匂いが見事に消されたこの作品は、今風に言えば何かディズニーの映画のような世界である。子供が安心して見られる唯一のオペラだと言える。だが子供が聞いてすぐにわかる音楽かどうかはわからない。

後半の第3幕は子供が夢を見ているという想定なので、大人同士のやりとりとなる。貧しい家も、さほどではなく、森の中に出現するケーキの家も、舞台全面に出てくるだけで寓話的雰囲気に乏しい。もとより切れ目のない音楽と、そこに歌われる女声の二重唱、三重唱が中心で、時に単調な気もする。

私はここ1ヶ月、モーツァルトのオペラばかりを聞いているので、 どうしてもその水準を考えてしまっている。だがそういうことを忘れて言えば、この作品はワーグナーの出来損ないのようでもありながら、決してワーグナーに対抗しようとはしていない。子供向け童話の世界は、リヒャルト・シュトラウスの世界ともまるっきり異なる。いわばニッチなオペラである。そのことが、このオペラの成功の秘密だろう。そういうふうにして聞く全曲盤レコードには、ショルティやコリン・デイヴィスを始めとして名演も多い。もう一度ゆっくりと耳を傾けてみたいとも思う。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...