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2022年3月18日金曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第966回定期演奏会(2022年3月10日サントリーホール、ミハイル・プレトニョフ指揮)

 「高い城」は峻厳に聳え、「モルダウ」は急流を下って大河となり、「ボヘミアの森と草原」はまるで飛行機から眺めるように広大である。「4度目の正直で実現」となった今回のミハイル・プレトニョフ指揮によるスメタナの連作交響詩「わが祖国」(全曲)演奏会は、引き締まったテンポと一糸乱れぬアンサンブルで、あっという間に私たちをボヘミアの大地へと誘い、聞き惚れているうちに終わってしまった。曲間の休息をほとんどおかず、丸で1つの連続した曲であるように演奏した結果、集中力は持続され、すべての楽器から深い息遣いと、明瞭な音色のコントラストが聞き取れた。

プレトニョフは東フィルととても良好な関係を保っているように思われた。プログラムによればその関係は、2003年から20年近くに及び、特に2015年からは特別客演指揮者の地位にあるという。今シーズンの定期演奏会にも、この3月に続いて5月にも登場する。しかしコロナ禍によって今回のプログラムは、3度に亘って延期されたようだ。私はそのことを知らなかったが、彼はプログラムをそのまま維持し、やっとのことで今回の演奏にこぎつけたのだ。演奏する側も聞く側も、それなりの思い入れがあっただろうと思う。だからというべきか、平日のプログラムにもかかわらず、客席は満席に近かった。

私にとってプレトニョフの演奏に接するのは2回目である。初回は彼がまだ若いピアニストとして名声をほしいままにしていた時期、丁度ソビエトが崩壊してロシアが混乱を極めていた頃に設立したロシア・ナショナル管弦楽団を率いての来日公演があった。だがここでの私の印象は薄い。どことなく慌ただしい演奏で、オーケストラのプレイヤーは実力者揃いであるものの、アンサンブルはまだ成長の余地を残していたように思う。混乱した政治情勢下で、自立して収入を確保することはたやすいことではなかっただろう。次々と落ちぶれてゆくかつての名オーケストラに代わって、新しい時代の息吹を感じさせてはくれたが、彼自身がピアノで見せる斬新さには及ばなかった。

そのピアニストとしてのプレトニョフは、私にとって瞠目のディスクだったベートーヴェンのユニークなピアノ協奏曲全集が何といっても記憶に残る。特に「皇帝」はこのブログでも触れた私の同曲の愛聴盤である。そこで聞かれる奔放でしかも考え抜かれた表現は、この曲の新しい境地を開いたようにも思う。この時プレトニョフは、ピアノがいい、と思った。CDではピアノ演奏に徹するためか、別に指揮者を置いている。

スメタナの「わが祖国」は、チェコにゆかりの演奏家によって演奏される以外は、あまりお目にかかることがない。愛国心の塊のような音楽に、なかなかアプローチがしにういのだろうか。我がコバケンも「プラハの春」でチェコ・フィルを指揮しているから十八番であるのは当然で、私もその演奏を一度聞いている。それ以外では、ピンカス・スタインバーグがN響を指揮した演奏が思い出に残っているが、いずれにしても曲の魅力を十全に引き出したその演奏は、曲の魅力を伝えて止まない名演だった。

そこにプレトニョフは、曲の魅力だけでなく、新しい演奏のアプローチを試みた。ロシア人の彼がボヘミアに寄せる思いはどういうものか、よくわからない。もしかすると同じスラヴ民族という共感が、彼のこの曲へのこだわりを形成しているのかもしれない。純音楽的な意味においても、この曲は魅力的である。「モルダウ」こそ有名だが、その他の交響詩、とりわけ後半の3つは、本来の重心がここにおかれるべき音楽的霊感に満ちたものである。全6曲中、私は「ボヘミアの森と草原から」が最も好きである。

プレトニョフの演奏は、俯瞰的にこの音楽を眺め、バランスの良い構成に仕上げていたように思う。そして彼の真骨頂は、従来の慣習にとらわれない曲の解釈と、メリハリの付けた音の構築にあると思う。テンポは常に少し早めでありながら、急ぎ過ぎている感じはしないのは、アクセントがきっちりと保たれ、力を入れる音と、少し抜く音が明確にされている。そのことが音楽に呼吸を与える。長距離ランナーが有酸素運動によって安定した走りを持続するように、彼の音楽は健康的で力強い。安定して集中力が維持される結果、演奏家も高度なソロ部分を雄弁に表現できるような気がする。「モルダウ」におけるフルート、「シャールカ」におけるクラリネット、「ボヘミアの森と草原から」におけるオーボエや弦のフーガなどである。

私はこれまでに聞いて来た「わが祖国」とは少し異なる新鮮なものをこの演奏に感じることができた。プレトニョフの指揮による東フィルの演奏が、これほどにまで人気があるその理由がわかったような気がした。同じ思いだった聴衆も多いのだろう。その熱烈な拍手に応えて、定期演奏会としては大変珍しいことに、彼はバッハの「G線上のアリア」をアンコール演奏した。この曲に、一体どのような意味が込められていたのだろうか?2年以上に及ぶコロナ禍を経験した社会への慰め、不幸にして亡くなった人々への哀悼、そして昨今のウクライナ情勢に端を発する平和への祈り。それぞれがいろいろな意味を考えたことだろう。弦楽アンサンブルが、ここでも見事なコントラストを見せながら、私はこんなに表情豊かで美しい「G線上のアリア」を聞いたことはなかったと思った。

とても速い演奏のように思えたが、終わってみると9時近くになっていた。赤坂アークヒルズの夜景も徐々に日常を取り戻しているように思える。明日からは休みを取って奈良、京都を巡る。古寺を訪ね、友人と会食を楽しむ予定である。京都では、広上淳一の指揮する京響最後の公演を聞くことも予定に入っている。早朝の新幹線に乗るため、早く床に就くことにしようと、足早に会場を後にした。

2020年1月18日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第717回定期演奏会(2020年1月17日サントリーホール、指揮:小林研一郎)

ここ数年は、冬に東北旅行を楽しんでいる。今年もいま、仙台へ向かう列車の中で昨日のコンサートのことを書こうとしている。朝7時過ぎに東京駅を出発した新幹線はやぶさは、東海道新幹線のぞみなどと違い、乗客も少ない。今日は3人席を一人で占有することになった。大宮を出ると仙台までは止まらないから、この状態はずっと続く。持参したパソコンの電源を入れ、みぞれ交じりの冷たい雨が降る車窓風景を眺めながら北を目指す。

小林研一郎は福島県いわきの出身で、温厚な人柄が音楽にも表れる、好感度の高い指揮者である。その真面目な音楽作りは厳しいことでも有名で、パンフレットには「炎の〇〇」などと印刷され、有名曲をひたすら情熱的に指揮をする写真が掲載されてはいるが、その中身は堅実で破たんすることはない。熱い指揮は人気もあるらしく、桂冠名誉指揮者をつとめる日フィルは「コバケン・ワールド」と銘打ったシリーズの演奏会を開いているくらいだ。だがこのたびの1月17日のコンサートは、それとは異なり定期演奏会だった。演目はコバケンの十八番、スメタナの「わが祖国」で、彼はあの「プラハの春」オープニングコンサートを指揮した初めての非チェコ人として歴史に残る成果をあげたことはよく知られている。

コバケンが「わが祖国」を指揮することを知って聞きたくなった。過去3度目となるコバケンの演奏会のチケットを買うため、かなり前から予約して席を押さえたが、いざサントリーホールに出かけてみると拍子抜けがするくらいに空席が目立つ。今回はひとりでもあり、指揮者の見える右手後方のB席からオーケストラを見下ろす。前から2列目なので、まるでテレビ中継を見ているような視線の位置である。

「わが祖国」は「高い城(ヴィシェフラド)」「モルダウ(ヴルタヴァ)」「シャルカ」「ボヘミアの森と草原から」「タボール」「ブラーニク」の6つの交響詩から成る作品で、コンサートでは3曲目が終わった時点で休憩が入る。「モルダウ」が飛びぬけて有名だが、実際には後半になるほど音楽は充実し、演奏は熱を帯びてくる。私は特に「ボヘミアの森と草原から」が好きである。「高い城」や「モルダウ」あたりはまあ序奏といった感じがする演奏も多い。だがこの日の演奏は、さすがというか最初から熱のこもったものだった。

「高い城」の冒頭で2台のハープが妖精のメロディーを奏でると、その響きがサントリーホールにこだました。いつも聞くNHKホールではこういう響きにはならない。やはりいいホールで聞くのがいいな、などと感動していたが「モルダウ」になると流れるような豊穣なメロディーと、沸き立つようなリズム、静謐で神秘的な森の妖精に聞き惚れていくうち、あっという間に「シャルカ」になった。ここからボヘミアへの旅行に出かけるような気分になってくる。そういえば列車はいつのまにか那須塩原を通過した。この「シャルカ」ではクラリネットのソロが聞きものだが、今日の日フィルのクラリネットは、空を飛ぶひばりのように歌い、静まり返った聴衆の中に、丸でそこにだけスポットライトが当たっているかのようだった。

小林研一郎は、休憩前の拍手でもオーケストラをパートごとに立たせるなど、観客に応えていたが、休憩を挟んで登場する際にはオーケストラに混じって登場するなど、長年このオーケストラと一体であることを主張しているようなシーンもあった。チューニングの間も指揮台の手前で音色に耳を澄ませ、やがて「ボヘミアの森」が始めると、その音楽は厚みを持って会場に響き渡った。オーケストラを聞くことの楽しみが、満喫できる演奏会だった。スメタナのフルートとオーボエ、そしてホルンといった楽器が溶け合う様は、中欧の風景をいつも思い出させてくれる。今年はベートーヴェンの生誕250周年だが、スメタナもまた耳の不自由な作曲家だったことを思い出す。彼の聞いた心の音は、実際の音となって我々に100年以上を経て届いている!

「タボール」でのおどろおどろしいメロディーは緊張に満ち、迫力を維持したまま続けて「ブラーニク」に移る。弦楽器はそれ自体がひとつの楽器となったように波を打ち、そうかと思うと沸き立つような民族調の調べが顔を覗かせる。そういう音楽に身を浸すうちコーダを迎えた。全体に安心して聞いていられるコンサートだったが、その音楽にはいつも指揮者の暖かい心情が素直に表現されていたようだ。客席もおそらく同じような暖かさを感じたことだろう。タクトを降ろして一瞬の静寂が訪れ、その後に大きなブラボーが飛んだ。ほぼすべての楽団員を紹介しつつ立たせていくコバケンは、パートを声を出して指し示していた。今年最初の定期演奏会は、コバケンの年頭の挨拶も出て盛況のうちに幕を閉じた。炎の指揮者も、情熱が表に出るというよりは円熟して手慣れた風貌だった。オーケストラとの長年の信頼関係があってこそ、このような演奏ができるのだろうと思った。それから若いプレイヤーが増えて来た日フィルも、過去に比べると上手くなったと思った。個々のプレイヤーが歌心をさらに持ち、楽器が安っぽくなければ、第一級の演奏が可能なオーケストラという気がする。

2017年5月22日月曜日

NHK交響楽団第1860回定期公演(2017年5月14日、NHKホール)

ここまでスメタナの「わが祖国」を聞いてきたが、丁度いいタイミングで実演を聞く機会に恵まれた。NHK交響楽団の定期公演でこの曲が取り上げられたからだ。指揮者はドイツ系イスラエル人のピンカス・スタインバーグ。彼はボストン交響楽団の音楽監督を務めたウィリアム・スタインバーグの息子である。私は今から25年前の1992年9月、同じコンビのこの曲を聞いている。上京した年の秋のことだった。

そのピンカスは1945年生まれだから、今や70代。指揮者としては円熟した演奏を聞かせる年代ということになっている。25年前の記憶はほとんどないが、もう一つのプログラムで演奏されたホルストの「惑星」はかなりの名演だったと記憶している。どちらかと言えば職人肌の名指揮者というイメージだから、今回のコンサートにも期待が膨らんだ。N響の昨今の上手さは、管弦楽曲を贅沢に聞く楽しみに浸るに十分なレベルであると思う。売り切れを心配し、数日前にB席を確保したが、結局当日券はあったみたいだ。

私の席は1階席の前方向かって左側で、ヴァイオリンのセクションは全員後を向いているが、2台のハープ、トライアングルとシンバルが直接見える。指揮者の横顔もバッチリで、テレビなどで目に触れる角度である。そのハープに対し、キューを出したのかどうかわからなかったが、幅広い音階を絡み合いながら上下する美しい響きがこだましてコンサートは始まった。

スタインバーグの指揮する音楽は、すべての部分においてきっちりと練習され、唖然とするような瞬間こそ少ないものの、実直で風格のあるものだ。時折指揮者の唸り声が聞こえる「ヴィシェフラド」で一気にオーケストラを乗せてゆく。「モルダウ」の広がりを感じさせる有名なメロディーは、懐かしさを込めてたっぷりと歌い、まるで今日の陽気のように清々しい。一音一音が良くブレンドされ、1階席で聞くN響は音量も十分である。オーケストラがいわばひとつの楽器のように感じられる。それくらいきれいにまとまっている。

「シャールカ」では、同じようなフレーズも少しずつ聞こえ方が異なり、CDで聞くときとは集中力が違うのか、こちらも息を飲んで聞き惚れていたら、突如畳みかけるようなリズムで激しく一気にコーダに向けて突進した。ここの素晴らしさは今度テレビで放映されたとき、もう一度聞いてみたい。

休憩を挟んで「ボヘミアの森と草原より」の最初のフレーズが会場を満たした時、N響はやはりうまいなあ、と感心した。「ボヘミア紀行」とも言えるこの音楽は、もう楽しさの極みである。スメタナ特有のやや渋みがある響きで、これがチェコの音楽という感じなのか、N響の音にピッタリである。「ターボル」を経て「ブラーニク」に続く時、私はこの音楽が永遠に続いてほしいと思わずにはいられなかった。すべての音が有機的に交わり、技術は完璧である。ホルンもシンバルも、ここという時にはオーケストラの中から丁度いい塩梅で浮き出す。「ブラーニク」最初のオーボエを中心とした木管の絡み合いは、まさにこの演奏の白眉であった。

25年ぶりに聞くこのコンビでの「わが祖国」は圧倒的な感銘を持って私を襲った。どの音符もおろそかにしないで、少し余裕を持った水準を保ちつつも熱く、それでいて整っており、いわばプロフェッショナルないぶし銀の演奏だったと思う。素晴らしいサウンドを引き出したスタインバーグは、オーケストラからも温かい拍手を向けられ、会場の覚めやらぬ大歓声の中で満足気であった。と同時にもうこのコンビの演奏を聞くことはないかも知れない、とも。トライアングルを担当した女性団員が大きな花束を指揮者に手渡したときは、会場からより多くの拍手が送られた。

オーケストラを聞く醍醐味をまたしても味わうことが出来たN響の水準は、3月に行われたヨーロッパ公演でも十分証明されたようだ。5月号のプログラム「フィルハーモニー」には、各地の演奏報告と新聞評が掲載されている。もはやヨーロッパの一流レベルとなった我が国オーケストラを、聞き逃す手はない。次回の定期公演を指揮するフェドセーエフのロシア音楽に、私は早くも胸を躍らせている。

2017年5月18日木曜日

スメタナ:「わが祖国」より交響詩「ターボル」「ブラーニク」(エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団)

交響詩「ターボル」から「わが祖国」はいよいよ終盤に差し掛かる。「ターボル」と「ブラーニク」は同時に続いて作曲され初演された。音楽的にも関連性が高く、「ターボル」の最後のフレーズは「ブラーニク」の冒頭と同じで、そのまま引き継がれる。このため間をあけず、音楽をつなげて演奏する指揮者も多い。従ってここでも一緒に取り上げたいと思う。

私は先日「シャールカ」での恐ろしい神話を引用したが、この「ターボル」の第一印象はそれ以上に陰鬱で、おどろおどろしいものだった。重厚で迫力のある連音に続いてティンパニーが強烈に連打するシーンが何度も登場する。ところが実際にはこの音楽は、カトリックのチェコにおける宗派、フス派信徒たちを讃えるものだそうだ。いわばチェコにおける宗教改革のような運動からフス戦争に発展したことが、やがてはチェコ民族のアイデンティティーを高める結果となった。スメタナが最後に選んだのは、その フス戦争の舞台となった街ターボルと、フス派の戦士たちが眠る山ブラーニクであった。

フス戦争のモチーフである戦いのシーンは、「わが祖国」の中で最も激しく、音楽的な聞きどころに事欠かない。ここへ来て聴衆は、オーケストラに固唾をのんで聞き入るはずだ。初めてこの音楽を聞いたのは、クーベリックのチェコ復帰演奏会(「プラハの春」音楽祭)のライヴで、最初は乱れていたオーケストラも必死になってこのシーンを演奏していたのを良く覚えている。

特に最大の聞かせどころは「ブラーニク」の始めに登場するメランコリックなオーボエのソロだろう。何分も続くかのようなそのメロディーは、「新世界交響曲」の第2楽章にも似た懐かしいものだ。チェコ国民学派の魅力のひとつは、間違いなくこのような胸を締め付けるメロディーだ。

「ブラーニク」の中盤あたりからは終結部へと続く長い道のりに入る。戦勝を讃えるコーダのメロディーが静かに、だが確信に満ちて演奏され始めると、とうとうここまで来たかと思う。このチェコ賛美の音楽は、何度も繰り返されていくうちに大規模なものとなり、勇壮さと壮麗さを増してゆくと、「ヴィシェフラド(高い城)」などで使われたメロディーも回帰して合わさり、例えようもなく喜びに満ちた中で音楽が終わる。

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これまで取り上げた演奏を振り返ってみよう。私が所有している演奏は、①クーベリック指揮ボストン響による演奏、②レヴァイン指揮ウィーン・フィル、③アーノンクール指揮ウィーン・フィル、④コリン・デイヴィス指揮ロンドン響、それにここで取り上げた⑤インバル指揮フランクフルト放送響のものである。また手元には⑥クーベリックの指揮するプラハ・ライヴ(チェコ・フィル)もある。

この曲の熱心な聞き手は、往年の名盤であるアンチェル盤やターリッヒ盤、あるいはもう少し新しいノイマン盤などを称賛する。だがどういうわけか、私はこれらの演奏を聞いていない。ドヴォルジャークとスメタナになると突然、チェコ人による演奏のオンパレードとなり、最近ではビュログラーベクやコバケン(小林健一郎)による炎の演奏なども評価が高いようだが、いずれにせよこの曲は、チェコ・フィルやチェコ人指揮者の独断場のように見える。

確かにチェコの愛国心を高ぶらせる要素は大いにあるが、同時にこの曲は、純粋に管弦楽曲としての聴きどころが満載である。中音域の多い渋めの音色は、中欧でもドイツとはやや異なる色合いであり、リズム処理もハンガリーやポーランドとは異なる。トライアングルやシンバルがスラヴ系の舞曲を楽し気に表現するのも魅力的だ。

私の所有ディスクからレコ芸「名曲名盤300」風に10点を割り振るとすれば、一位がレヴァイン、インバル、クーベリック(ボストン響)でそれぞれ3点ずつ、それに許されるならデイヴィス盤に1点を献上するだろう。

2017年5月16日火曜日

スメタナ:「わが祖国」より交響詩「ボヘミアの森と草原から」(コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団)

「わが祖国」も後半に入り、いっそう充実した音楽的時間を過ごすことになる。私がもっとも好きな「ボヘミアの森と草原から」は、オーケストラの多くの楽器が和音を奏でる厚い響きの中に、明るい日差しも感じられるような出だしである。

この曲のテーマはタイトルそのもので、ただ音楽に浸っていればいい。その幸福感と楽しさは、まず夜明けのような静かな部分を経て、牧歌的なメロディーが、まずは木管楽器が、やがてホルン主体に、そして最後は弦楽器と次第に規模を大きくしながら繰り返される前半部分から感じることができる。さしずめ音楽による「ボヘミア紀行」という趣きだが、写真や絵画で見たことがあるものの、実際に行ったことがないので想像するしかない。

後半は祝祭的なポルカである。初めて聞いた時は何か不安な音楽かと思ったが、そのメロディーは次第に熱を帯びて軽快な雰囲気となり、最後には牧歌的メロディーと融合していく。テンポが時に変化したり、シンバルやトライアングルが鳴ったりといったスメタナ独特のオーケストレーションは、「わが祖国」の全交響詩に共通しているが、「高い城」と「モルダウ」で活躍したハープは、後半には使われていない。

朝もやの中を私は郡山を目指してドライブしていた。曇っていた田園風景に少し明るい陽光を感じた。カー・ステレオでアーノンクールの指揮するこの曲を聞いていた。その時の光景が心に残っている。だから、どういうわけか私がこの曲で思い出すのは、福島の山々である。後にここは、原発事故でほとんど過疎となってしまった。

アーノンクールの演奏は独特で、スピードも遅ければ印象的な部分の多くで聞き手の期待を裏切る。だからこの曲についてどうしても好きになれない。そこでいろいろ聞いてみたが、目下のところ、コリン・デイヴィスの演奏が熱っぽい演奏で気に入っている。デイヴィスはまた、アーノンクールとは異なる側面で聞き手の期待を下回るところがあるが、もしかするとその不足感が持ち味ではないかと思う。流されない音楽的情緒に魅力があるのだ。

例えばこの曲の場合、何やら賑やかになってきたなと思う。そして急にポルカに移ると、今度はめっぽう速い。重量はあって、時に力が聞き手を圧倒するが、そのような演奏で聞く牧歌がまたロマンチックであったりする。不思議なものだ。ただLSO Liveというレーベルから出ている一連の晩年のシリーズは、やや録音が悪い。これはホールの特性もあるのだろう。けれどもライヴ演奏の緊張感を伴ったパワーを感じることも事実である。ボヘミア的情緒に溺れないイギリス人の、構成力ある演奏で、手放してしまうのは結局躊躇してしまう。デイヴィスはこの頃、「プラハの春」音楽祭に客演しているので、定評のある演奏だったのだろう。

2017年5月15日月曜日

スメタナ:「わが祖国」より交響詩「シャールカ」(ジェイムズ・レヴァイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

「モルダウ」を過ぎると「わが祖国」はいよいよ、深くチェコの森に入ってゆく。最も有名な音楽が過ぎ去り、あとは退屈な音楽が続く、と思ってはならない。ここからが聴きどころの連続なのだ。「モルダウ」の有名なメロディーも、あとから振り返ってみれば、最初の方で聞いたかなあ、などと記憶の隅に追いやられることも多い。それくらいここからの音楽は、深い印象を残す。演奏家もそのあたり良く心得ていて、オーケストラが乗って来るのは、まさに「シャールカ」からである。

恐ろし気な出だしに始まるも、すぐに陽気な行進曲風のメロディーが始まり、やがてクラリネットの素敵なソロとかみ合うあたり、何か休日にピクニックに出かけるみたいだ。そうしているうちに、高速道路でも走っているような気分になる。これまでは序曲のようだった音楽も「シャールカ」からが本番、いよいよここからボヘミア旅行に出かけるのだ、と初めて聞いた時は思ったものだ。だがこの音楽は、そんなこととは対照的な音楽である。Wikipediaから引用しよう。シャールカとは、プラハの北東にある谷の名であり、またチェコの伝説に登場する勇女の名でもある。
シャールカは失恋によって受けた痛手を全ての男性に復讐することで晴らそうと考えた。ある日彼女は、自分の体を木に縛りつけ、苦しんでいるように芝居をする。そこにツティーラトの騎士たちが通りかかる。助けられたシャールカは、酒をふるまい、皆がすっかり酔い潰れて眠ったのを見はからうと、ホルンの合図で女性軍を呼び、騎士たちを皆殺しにする。
ホルンの合図で音楽は急展開、一気にプレストとなる。たたみかけるような音楽がクレッシェンドし、大音量とともに劇的に終わる。おそらく全曲中、最大の見せ場の一つは、ここの音楽である。それは上記のように、虐殺のシーンだった、というわけである。

スメタナが「わが祖国」を作曲した当時、チェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、ドイツ語が話されていた。スメタナもチェコ語を習得し、それに基づいて民族派のオペラを書いているが、最初から堪能であったわけではないらしい。考えてみると、ウィーンの郊外を少し行くと、そこはもうチェコである。1980年代まで西側の国際都市だったウィーンのすぐ隣に、鉄のカーテンがあった。だがウィーンとプラハはもともと行き来が盛んだった。

モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」をプラハの聴衆のために書き、ベートーヴェンもたびたびチェコを訪れている。だからウィーン・フィルがこの曲を得意げに演奏しても驚きはない。古くはクーベリックによる名演が残されているが、それからしばらくたって、このオーケストラで「わが祖国」全曲を録音したのは、アメリカ人ジェームズ・レヴァインだった。このことは少し意外だったが、このCDが発売されたとき、私は大阪・心斎橋のタワー・レコードでさっそく輸入盤を買った。

それから毎日のようにこの演奏のCDを聞き続けた。私が「わが祖国」ファンとなったのは、この演奏に出会ったからだ。1枚のCDとしてはぎりぎりの長さであり、それはすなわち「わが祖国」としてはかなり速い方の演奏である。特に「シャールカ」の後半では一気に、突進するかのような演奏に興奮する。全体を通して完成度は高く、この演奏は評判こそ芳しくなかったが、今もって名演であると思う。

レヴァインの音楽は、まるでオペラのようにドラマティックであり、その録音はワーグナーのように聞こえるから不思議である。ウィーン・フィルのふくよかな響きは、木管やホルンにおいて顕著だ。そしてウィーン・フィルによる「わが祖国」の録音は、2010年代に入ってリリースされた2枚組のアーノンクール盤まで待たねばならない。

2017年5月13日土曜日

スメタナ:「わが祖国」より交響詩「モルダウ」(フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

モルダウ(ヴルタヴァ)川はチェコとドイツの国境付近を源流とし、プラハ市内を流れ、エルベ川に合流して北海に注ぐチェコ最長の川である。有名なプラハのカレル橋もこの川に架かっている。プラハの街を訪れた人はみな、この光景を見てヨーロッパ一美しい街だった述懐する。私の大学時代の友人もそうであった。だが私はこの街に行ったことはない。

「ヴルタヴァ」と題された2番目の交響詩は、美しい2本のフルートの音色で始まる。ここが2つある源流を表現している、と中学生の時に習った。川は流域を抜けるに従い、川幅を増してくる。あの一度聞けば忘れられないメロディーは、この川の豊かな流れを表している(と思っていたが、実際には古い民謡の一節だそうで、イスラエルの国家と同じ起源と言われている)。川のそばでは村人たちが婚礼の儀式に踊り、 やがては月夜に照らされて妖精たちが舞る。

しかし水量を増した川はやがて激流となり、水しぶきを上げて下流へと下る。川はいよいよプラハ市内へと到達した。そこにそびえるのは、前作でのテーマになった高い城である。音楽はクライマックスを迎え、再びモルダウのテーマが高らかに鳴ると、弦楽器が音程を上下させながら次第に静かになり、コーダを迎える。

わずか10分余りの曲に凝縮されたボヘミアの川の風景は、私たちをひとときの空想旅行へと誘う。遅い演奏で聞けば、モルダウは滔々と流れる大河のようであり、フルトヴェングラーのモノラル録音など、まるで海に注ぐ黄海の河口のように広大である。歌うようなメロディーをとことん堪能する演奏もいいが、私が気に入っているフリッチャイの名演は、速くてしかもメリハリの効いた演奏である。ただ場面の転換に伴う表情の変化が素晴らしく(それはカップリングされている「新世界」交響曲でも際立っている)、違和感はないどころか、まるで観光用のビデオを見ているように完成度が高い。

「モルダウ」は単独で演奏されることも多く、カラヤンもこの曲だけは何度か取り上げている。カラヤンに「わが祖国」全曲録音があれば聞いてみたいと思っていたが、チェコの民族色が強いこの曲を、カラヤンがすべて取り上げることはなかったようだ。若くして亡くなったこのフリッチャイの演奏も「モルダウ」単独だが、 オーケストラはベルリン・フィルである。1960年の録音で、クライマックスで少し音が割れるのが残念だが、クリアーでバランスも良く、当時のアナログ盤としては出色のものである。

単独で演奏される「モルダウ」は、ゆったりと染み入るような演奏もいいが、「わが祖国」は実は「モルダウ」以降が聴きどころである。したがって、ここであまり構えすぎるのではなく、速く駆け抜けていくのが好きだ。かといって雑なのも困る。その点、レヴァインの演奏などは私のお気に入りである。レヴァインの演奏は次の「シャルカ」で取り上げようと思う。

2017年5月12日金曜日

スメタナ:「わが祖国」より交響詩「ヴェシェフラド(高い城)」(ラファエル・クーベリック指揮ボストン交響楽団)

今日5月12日はスメタナの命日である。毎年この日、「プラハの春」音楽祭が開幕する。その初日を飾るのが代表作「わが祖国」ということになっている。この演奏は専らチェコ・フィルによってなされると思っていたのだが、近年の国際化の流れを受けているのだろうか、調べてみると今年(2017年)はダニエル・バレンボイムがウィーン・フィルを指揮することになっている。

「わが祖国」は6つの交響詩からなる80分程度の曲である。その音楽はチェコの様々な情景や民謡などが織り込まれた一大絵巻ともいえるもので、チェコ国民学派の記念碑のような作品である。そのうち最も有名なのが第2曲「モルダウ」で、私も中学生の時に学校で聞いた。この時に同級生がこの音楽をあまりに気に入ったため、当時クラシック音楽に少し詳しかった私に、レコードは持っていないのかと聞いてきた。私の家には「モルダウ」のレコードがなかったが、ある日FM放送でNHK交響楽団の演奏が流れることがわかり、私はそれを録音して友人に聞かせた。ヴァーツラフ・ノイマンの演奏を聞いて友人は、「本当にいい曲だなあ」と感激して言ったのを覚えている。

「わが祖国」を聞いていくにあたり、どの演奏がいいか考えた。丁度手元に6種類のCDがあり、この曲も6つの交響詩から成り立っている。どの演奏も捨て難い。いろいろ考えた挙句、いっそ各交響詩毎に1つの演奏を取りげてみたいと思う。私なりにその演奏で聞くとすれば、どの部分(交響詩)が相応しいか、いろいろ考えた結果である。この作業は発見の多い、楽しい作業であった。6つの交響詩は別々に初演されており、単独で演奏されることも多い、という理由もある。

スメタナはスウェーデンのエーテボリ赴任の頃、リストの影響を受けたとされる。交響詩の特徴は、形式にとらわれないことである。このため自由な感覚で絵画的な情景などを音楽にする「わが祖国」には、まさに相応しい形式だと考えたのだろう。いずれの作品もチェコの風景や伝説などを題材にしている。チェコを訪れたことはないが、音楽を聞きながら風景を想像する。それがまた私の聞き方である。

さて、最初の交響詩は「ヴィシェフラド」という。「高い城」と訳されているが、実際にヴルタヴァ(モルダウ)川湖畔にヴィシェフラド城は残されているらしい。プラハ郊外にあるその城は、ボヘミアの国王の居城であったそうだ。スメタナやドヴォルジャークの墓もあるという。

曲は印象的なハープのメロディーで始まる。ここでハープは2台必要とされる。このハープのメロディーだけで、いろいろな表現の演奏があることに気付く。いずれにせよこのメロディーは、「わが祖国」全体を貫く主題の一つで、管楽器に引き継がれた後は、オーケストラにより壮大に演奏される。「わが祖国」全体の序曲のような感じで、これを作曲した時には、すでに最後の方まで構想に入っていたのではないか、とさえ思わせる。スメタナはベートーヴェンがそうであったように、次第に聴力を失っていく。「わが祖国」はそのような病気の進行とともに書かれた。スメタナは次第に祖国への愛情を曲にしていくことに専念する。

まだ始まりの曲なので、最初は煮え切らない演奏も多い。特に実演で聞く場合には、この曲を含め「モルダウ」あたりまでは、オーケストラの調子が出ないこともしばしばだ。有名なクーベリックのプラハ復帰公演(ライヴ)でも、その傾向がある。だが同じクーベリックでも、ボストン交響楽団を指揮したこのスタジオ録音では、冒頭から完全試合である。したがってこのCDでは「ヴィシェフラド」のもっとも素晴らしい演奏のひとつに出会うことが出来る。クーベリックの残した「わが祖国」の演奏は数多く、それらをすべて聞いているような強者もいるようだが、私が持っているのはこれ一枚である(あとほとんどCDを所有しない妻が、なぜか「プラハの春」復帰時の演奏を収めたCDを持っている)。

このハープのテーマ(吟遊詩人の奏でるボヘミアの栄枯盛衰の物語)が、初めて弦楽器によって演奏される時の感覚は、クーベリックの演奏で聞いてハッとさせられた。やがて曲は力強く、そして速くなっていくが、適度に揺れて流れるような感覚は、まるで遊覧飛行にでも出たかのよう。長い「わが祖国」のテーマ音楽が高らかに示されると、音楽は再び静かになる。丁寧な木管のアンサンブルが、消えていくように流れ、再びハープとホルンによる主題が回帰し、これらが弦楽器とともに再びクレッシェンドを築き、やがて幻想的な部分を経ながら音楽は静かに終わる。かつて栄華を誇った城も、幾たびかの戦いに敗れ、今では廃墟と化してしまった。「兵どもが夢の後」というわけである。いい演奏で聞くと、もう長い時間を過ごしたような感覚に囚われる。だが、音楽はまだ始まったばかりである。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...