2017年8月20日日曜日

ハイドン:オラトリオ「天地創造」(ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団他【81】)

ハイドンの最高傑作である「天地創造」は、旧約聖書の「創世記」及びミルトンの「失楽園」を台本化したものを、ヴァン・スヴィーデン男爵がドイツ語に翻訳し、それを元に作曲された。ハイドンが英国滞在中に触れたヘンデルの大規模なオラトリオに触発され、ほとんど知られていない「トビアの帰還」に次ぐ、自身第2番目のものである。ちなみに第3作目のオラトリオは「四季」であり、この二つの作品を頂点だとするハイドン研究家は多い。私もそう思う。

「天使創造」は全3部から成り、第1部と第2部は「創世記」の第1章そのものに音楽を加えた、非常に描写的な音楽で親しみやすい。これはまるで標題音楽のようでもあるが、旧約聖書という、いわば西洋社会の精神的支柱でもある書物の冒頭に音楽を付けるということは、極めて野心に満ちたものであったに違いない。後年の作曲家にこの「天地創造」を音楽化するという試みを、私は知らない。

【第1部】
第1日:導入部・混沌の描写…「天と地」「光あれ!」
  • ①初めにオーケストラが静かにカオスの世界を描写する。日本書紀における「天地開闢」と似たような世界でもあるのは興味深い。「神はまず天と地を創られた」とラファエル(Bs)が始めるその語りは荘厳である。合唱が「光あれ!」と叫ぶ時、音楽がフォルテとなって、この長い物語が始まるとき、私は身震いのような感激に見舞われる。
以下、神の成した偉業を説くセリフは、かわるがわる天使たちによって歌われる。登場する天使たちは、ガブリエル(ソプラノ)、ウリエル(テノール)、ラファエル(バス)である。ソプラノは第3部で人間が登場するとエヴァの役を兼ねることもあり、またバスはアダムを兼ねることがあるため、最低3人の独唱と合唱団が、演奏に加わる。音楽はレチタティーボとアリアまたは合唱などを繰り返しながら進む。番号が付与されており、とてもわかりやすいが、実演では字幕がないと楽しめないだろう。聞きどころを中心にまとめておきたい。

第1日の後半はウリエル(T)のアリアで、そこに合唱が加わる。ハイドンの作曲した音楽は、以降、とても美しいメロディーが気高く続くが、常に節度を保っており劇的な要素は抑えられている。後に「四季」で示したようなあからさまな情景描写は、ここではまだ遠慮気味である、と思う。

第2日:空、海、大地
  • ②前半のラファエル(Bs)によるレチタティーボにオーケストラが入り、嵐、雷、川、雨、それに雪といったものが示される。そのままガブリエル(S)の歌唱となるところで初めて女声が加わって、音楽に膨らみと温かみを与える。合唱がそれに掛け合い、いよいよ「天地創造」の物語が始まる、というわけである。
  • ③後半はラファエル(Bs)のレチタティーボとアリア「海は激しく荒れ狂い」、やがて大地は広がる。音楽は前半が激しく、後半はのびやかである。
第3日:草木
  • ④ガブリエル(S)によるレチタティーボとアリア「今や新たなる緑、野に萌え」。
  • ⑤ウリエル(T)の短いレチタティーボに続き合唱が力強くフーガを歌う。「弦を合わせよ、竪琴を取れ」
第4日:昼と夜、季節、太陽や星
  • ⑥ウリエル(T)によるレチタティーボの間に挿入されるオーケストラ曲は、太陽の輝きを表している。「今や輝きに満ちて」。そして合唱と全ソリストが高らかに神を讃え、第1部が終わる。
【第2部】
第5日:様々な生き物(鳥、魚、動物たち)
  • ⑦第2部はガブリエル(S)によるレチタティーボとアリア「力強い翼を広げて」で始まる。ここの歌は素晴らしい。古典的な様式に乗っ取りながら、鷹、雲雀、鳩、ナイチンゲールなどの鳥たちが現れる。美しく明るいメロディーは純粋で屈託がない。鳥たちはまだこの頃、悲しさも嘆きも知らないのである。
  • ⑧ラファエル(Bs)による重々しいレチタティーボ(鯨の描写である)に続き、またもや比類なき美しい調べが続く。まずガブリエル(S)が「若々しき緑に飾られて」と歌う。これは丸でシューベルトのような音楽だ。続いてウリエル(T)、さらにはラファエル(Bs)までもが同じメロディーに乗って様々な生命の誕生を歌う。天使たちの三重唱に合唱が加わる。音楽は徐々に速度を速めて行く。
  • ⑨ラファエル(Bs)によるレチタティーボでライオン、虎、鹿、馬、羊、虫、毛虫までもが登場する。ハイドン音楽の真骨頂である。そしてアリア「今や天は光にあふれて輝き」と歌うが、その内容はやや物足りなげである。まだ創造されるべきものが欠けているからである。人間である。
第6日:人間(男と女)
  • ⑩ウリエル(T)のレチタティーボとアリア。またもやシューベルを思わせるメロディーにうっとりさせられる。時折挟まれるフルートの音色が印象的である。愛と幸福を祝う音楽の、何という美しさだろうか。
  • ⑪「大いなる御業は成りぬ」と文語調に訳すか「偉大なる仕事が完了し」と現代語に訳すか、その合唱に続いて天使たちの三重唱が続き、再び高らかに神を讃えながら(ハレルヤのフーガ)、第2部が終わる。
第6日目にして世界を創造した神は、第7日目に安息を取る。日曜日が現代において休みとなっているのは、神のおかげである。コンサートでもここでインターミッション(休憩時間)となる。

【第3部】
後半の約30分間は3つの部分から成り立っている。アダムとエヴァによる神への賛歌、愛の語らい、そしてエピローグである。
  • ⑫ラルゴの前奏に続いてウリエル(T)のレチタティーボ「バラ色の雲を破り」で始まる後半は、いよいよ最初の人間、アダム(Bs)とエヴァ(S)の登場である。その冒頭の二重唱「おお主なる神よ」は私が最も好む部分であり、この曲全体の最大の聴きどころでもあると思う。音楽はリズムを刻みながら合唱を加えて、しみじみと感動的である。ここの約10分のうちの後半は、再び合唱と絡みながら、最後にはフーガとなる。風が吹いて泉が沸き、草木は香る。鳥や魚が動き回る。奇跡のような美しさは例えようもない。
  • ⑬アダム(Bs)とエヴァ(S)のレチタティーボは語りに近い。だが二重唱に入るとその音楽は次第に速くなる。ホルンの音色が印象的。「優しい妻よ!」「大切な夫よ!」と対になった歌詞は、あらゆる二つのカップルの象徴である。
  • ⑭最終合唱「すべての声よ、主に向かって歌え!」と神に感謝を捧げながら、高らかに曲を閉じる。「アーメン、アーメン」。
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この文章を書きながら、「天地創造」は人類が聞くことの出来るもっとも素晴らしい音楽ではないかとさえ思った。耳元に流れていた演奏は、ショルティがシカゴ響と録音した1981年の旧盤である。ここで独唱はガブリエル:ノーマ・バロウズ(S)、ウリエル:リュディガー/・ヴォラーズ(T)、ラファエル:ジェイムズ・モリス(Bs)、エヴァ:シルヴィア・グリーンバーグ(S)、アダム:ジークムント・ニムスゲルン(Bs)である。見事なシカゴ交響合唱団の歌が、また素晴らしい。

だが私はこの演奏だけを聞き続けたわけではない。手元にあった6種類の演奏を最低3回ずつは聞いたと思う。何回かは箱根の山道を歩きながら、繰り返し繰り返し、聞き続けた。そして最終的にはショルティの骨格のしっかりとした演奏がひときわ気に入った。録音も素晴らしいが、何といってもこの演奏の素晴らしさは、オラトリオとしての壮大さを持ちながら、派手になっていない点である。ショルティとしては大人しいと感じる人がいるだろう。でもカラヤンだって、そのほかの演奏だって、実は控えめであると思う。この偉大な作品の前には、演奏の違いなど、さほど意味がないのだ。

2017年8月16日水曜日

東京都交響楽団演奏会(2017年7月17日、東京芸術劇場コンサートホール)

マーラーの作品の中でとりわけ異彩を放つのは「大地の歌」である。この曲は交響曲に分類されているが、実際は歌曲という色合いが強い。しかも他の交響曲作品にありがちな、大きなクライマックスを経ることもなく、どちらかというと室内楽的、内省的である。そういうこともあって、この作品は長年私を遠ざけていた。

聞かなかったわかではない。我が家にはワルターが指揮した極めつけのウィーン・フィル盤があったし、そのさわりを聞いては何か風変わりな曲だな、などと小さいころは思っていた。サントリーがウィスキーのコマーシャルに採用した時などは、この曲の東洋的な響きに興味を覚えたが、全曲を通して聴くことはほとんどなかった。バーンスタインの定評あるウィーン・フィル盤や、デジタル録音されたブーレーズの名盤など、私は買い求めてはお蔵入り。どうも苦手な曲、という意識は長年離れることはなかったのである。 

だから実演でも最後になった。私がこれまで聞いてきたマーラー作品の実演は、思い出すまま順に書くと、第1番「巨人」(ユーリ・テルミカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィル、他多数)、第2番「復活」(小澤征爾指揮ウィーン・フィル、サイトウ・キネン・オーケストラ、他)、第3番(シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団)、第4番(コリン・デイヴィス指揮ニューヨーク・フィルハーモニック、他)、第5番(ズービン・メータ指揮イスラエル・フィル、他)、第6番「悲劇的」(ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団)、第7番「夜の歌」(デイヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団)、第8番「一千人の交響曲」(ズデニェク・コシュラー指揮読売日本交響楽団)、第9番(ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団、他)、それにカンタータ「嘆きの歌」(秋山和慶指揮東京都交響楽団)などである。いずれも心に残る演奏だった。 

今回「大地の歌」の演奏会があると知ったので、自分のマーラー演奏会の一区切りにしようと思った。演奏はエリアフ・インバル指揮東京都交響楽団である。レコード録音もされているこの定評あるコンビは、80年代以降に何度もマーラーの全曲演奏会を重ね、今回が3度目とのことである。フランクフルト放送交響楽団を指揮したCDも発売されており、我が国では相当人気があるし、評価も高い。そして今回の演奏会には、独唱として何とアルトにスウェーデンのアンナ・ラーションが登場する。彼女はアバドの指揮するルツェルンの「復活」でも歌っており、私はそのCDを持っている。テノールはダニエル・キルヒ。それに演奏会の前半には交響詩「祭礼」もがプログラムに載っているではないか。 

交響詩「祭礼」は、いわば交響曲第2番「復活」の第1楽章である。この音楽は最初、第1楽章のみを交響詩として作曲し、その後で第2楽章以降を付け足した形となった。今では第1楽章のみの「復活」などあり得ないが、まあマーラー自身がそう作曲したのだから、これはこれで立派な作品というわけである。細かいところに違いはあるようだが、私はそこまでこだわらない。聞いた感じでは、ほぼ「復活」の第1楽章。衝撃的な和音と、何か地の底が割れて火山が噴火するようなフォルティッシモで始まるこの曲は、オーケストラを聞く醍醐味を味わうことができると同時に、極めて感動的でもある。特に主題が再現される部分の緊張感は、ライブの凄味というか何というか、会場が震撼するような慟哭の瞬間となる。 

今回の演奏も都響としては凄味のある名演で、アンサンブルも見事に決まり、会場からの拍手をさらった。だがこの曲が終わると休憩に入るには、何か違和感がつきまとう。やはり交響曲第2番として最後まで聞きとおすのが良い。というのも、この曲の素晴らしさは第2楽章の静かな安らぎを経て第3楽章の楽隊を聞き、さらには第4楽章の歌唱へと至る道程と、さらにはそれを上回る第5楽章の変化の連続…そこには合唱まで加わるという恐ろしいまでの規模にこそマーラーの深化、進化、いや真価が存在するからである。 

この長い心境の変化を都度再体験するマーラー実演の魅力は、聞いた人でないとわからないだろう。その最初の試みは第1番「巨人」ですでに始まっていると思われるが、本領を発揮するのは第2番「復活」からで、以降の作品はすべて、その再現の長い道のりを、いわば作曲家と共に歩むことになる。「大地の歌」においても、これは変わらないのだ。 

休憩を挟んで演奏された「大地の歌」の第1楽章では、冒頭テノールの響きが貧弱に聞こえたのは、席が3階席右端だったからだろうか、それともCDの聴きすぎか。しかし第2楽章になって今度はソプラノが登場すると、その力強くも繊細な歌声は会場に響き渡り、以降第3楽章からのスケルツォではオーケストラの明晰でドラマチックな演奏と相まって、聞き応えのある展開となった。 

第1楽章は酒と悲しさを、第2楽章は秋と淋しさを、そして第3楽章は青春を、第4楽章は美しさを、第5楽章は春の儚さを、それぞれ諦観に満ちた音楽で描く。東洋的なメロディーは時折中国風の音色をも伴うもので、そこに救いようもないペシミズムが横たわっている。第4楽章で少年が駆け回る馬を模した部分に、全体のアクセントがあるように思う。音楽が軽やかなのは、それが一瞬の出来事、地球の生命に比べれば小さいことを知っているからだろう。桜の花に人生の儚さを感じる日本人としては、誠に慣れ親しんだものだと言わざるを得ない。 

だから第6楽章において、それがながながと全体の半分を占める30分にも亘って語られたとしても、その考えは輪廻の世界、すなわち生あるものは甦るという思考に行き着き、救われるのだ。これはマーラーが第2番「復活」で求めたモチーフと重なるものだ。長女を失い、心臓病を宣告され、さらにはウィーンの宮廷歌劇場の総監督の地位を失うという悲劇が重なったマーラーも、自らの音楽によって救われたのではないか。 

長い終楽章には途中で歌唱の入らない間奏曲のような部分が存在する。ここに至ると、音楽そもののは変わらないのに、聞いている方の心境が変化するから不思議である。永遠に、そして永遠に、この音楽は続いてゆく。ラーションの声が静かに消え入るとき、会場の中は何か不思議な感覚に包まれた。もう何もできなかった。ただ音に耳を澄ませ、体をゆだねた。静まった会場からは何一つ聞こえない。十秒はそれが続いた。やがて少しずつ拍手が始まり、指揮者が振り向くと頂点に達した。各楽器を一人ずつ立たせ、そして交わす握手の間中、ブラボーの嵐は止むことがなかった。そしてオーケストラが立ち去っても、指揮者への拍手は続いた。

猛暑の池袋で、そこの会場だけが違った感覚に包まれていた。あれは何だったのだろうか。「大地の歌」は終楽章がすべてである。またマーラーの音楽に嵌ってしまった。

2017年8月8日火曜日

N響「夏」2017東京公演(2017年7月14日、NHKホール)

N響「夏」というコンサートは昔からあったが、私は今回が初めてである。若い指揮者がポピュラーな曲を演奏することで知られているが、今年は南米の若手ラファエル・パヤーレ。その風貌はアフロな髪形ながらも細身で、どちらかと言えばジャズか何かのミュージシャン風である。プログラムはブラームスの「悲劇的序曲」、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(独奏:ワディム・レーピン)、それにチャイコフスキーの交響曲第4番である。ホームページによれば、このコンビでこのあと大阪、松山、米子とツアーを組むようである。

だがここでも私は繰り返そう。私の7月の心理状態は、とても音楽を楽しめる状態ではなかったのだ。心理状態が音楽の体験と重なって思い出になるには、一定の時間の経過が必要だと思う。私はまだその時間が過ぎていない。少しづつ心が落ち着きを取り戻すようになって、やっとこの文章を書いている。音楽の記憶が薄れないように、この日に聞いた演奏のことを書こうと思う。だがどうしてもうまく思い出せないのは、やはり音楽に身が入らなかったからだろうと思う。

むしろ思い出すのは、NHKホールに向かって原宿より歩きながら、夏風にあおられてきらめく代々木公園の木々のきらめきに安らぎを覚え、脇のベンチに座って同行する予定の妻を待ちながら、じっとたたずんで思いにふけっていたことなどである。

今回の公演のチケットは、2階席の後方であった。NHKホールの難しい音響では、ここでの音の響きも共鳴の音が混じり、さらには狭い座席の中で聞くブラームスの悲劇的序曲などという渋いプログラムを、無理にやらなくてもいいのに、などと余計なことを考えながら、前半のプログラムは上の空であった。レーピンが大きな体をゆすりながらも余裕綽綽の体でブルッフを弾くと、それはそれで豊かな気持ちであった。時に聴衆はこの技巧派ヴァイオリニストに、アンコールが期待できることを知っていた。何度かの登場のあと、パガニーニの「ヴェニスの謝肉祭」をオーケストラ付きで演奏したのは驚きだった。

チャイコフスキーの交響曲第4番は、わたしにとっても思い出の曲である。それはどちらかというと苦しい思い出で、失意のうちに聞いた記憶と重なる。この重苦しい、ちょっと分裂気味の曲は、チャイコフスキーを誤解させる曲でもある。私は19歳の頃、受験が終わったその帰り道に、この曲のCDを聞きながら、完全に失敗したと思ったのだ。実際はだがそうではなかった。けれどその日のチャイコフスキーは私を重く落ち込ませた。まさにそれにうってつけの曲、そしてこともあろうに同じ曲を、同じような心境で聞いている!

パヤーレという若手のベネズエラ人指揮者は、あのデュダメルを生んだ「エル・システマ」の出身である。この第3世界(という表現はもはや死語になったが)の社会主義国で誕生した実験的音楽家育成プログラムは、お金も地位もない子供にも豊かな音楽教育を行うことで有名である。そこには一貫した思想があり、その模様は広くドキュメンタリー映画などでも知られるところとなった。今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのテレビ中継に、このシステムの生みの親であるホセ・アントニオ・アブレウ博士の姿もあった。

だからパヤーレという指揮者がどういう生い立ちかは知らないが、もはや堂々とした素振りで生き生きと演奏する姿にもはや違和感がない。若い指揮者はいいなと思う。チャイコフスキーは特に何も細工をしていないような、ストレートな表現で、先日のフェドセーエフなどとはまた違う演奏である。 ところどころ木管のフレーズの、とても憂いに満ちた印象的なメロディーもオーケストラは楽しんで演奏している。そしてこの演奏のあとにも、アンコールが用意されていた。歌劇「エフゲニー・オネーギン」からのポロネーズである。

ベネズエラ人の指揮するロシア音楽を日本で聞くことが、何も不思議ではなくなった。そういえば私は、ユジャ・ワンのラフマニノフをデュダメルの指揮する演奏が好きだ。そしてその熱狂的な拍手は、この演奏会場がカラカスのホールであることを思い出させるのだが、それとは対照的にN響「夏」の観客は、定期公演ほどではないにせよ大人しい。私はしばし音楽を聴くことで、心が安らいだ気がした。肩の凝らないポピュラー・コンサートであることを、私はむしろ嬉しく思った。


2017年8月7日月曜日

東京都交響楽団第836回定期演奏会(2017年7月10日、東京文化会館)

思い立ってマルク・ミンコフスキの指揮する都響定期に出かけた。月曜日上野でのコンサート。しかも1回限りである。梅雨明けを思わせるような猛暑が続く東京で、果たしてそんなに客が入るものかと心配したが、意に反して満席に近く、結構玄人受けするプログラムでも評判はいいのだなあ、と思った。前半はハイドンの交響曲第102番変ロ長調で、後半はブルックナーの交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」(ノヴァークによる1873年初稿版)。なおミンコフスキを聞くのは2回目である。最初の経験は同じ東京文化会館で聞いたルーブル宮音楽隊による「グレイト」シンフォニー。それは愉悦に満ちた時間であった。

今回はさらに大名演となったこの日のコンサートに関し、私はなかなか感想を書くことができなかったのは、まったく個人的な事情による。それはすなわち、音楽を楽しむだけの心の余裕、ゆとりを持ち合わせることができなかったからである。でも前もって買ってしまったチケットを無駄にするのは惜しい。結局会社を早々に切り上げて上野に向かったのだが、まだコンサートが始まるまでの小一時間を、私はきつい西日の差す公園をあてもなく歩き、春は花見でごった返す広い歩道の片隅に腰掛け、缶ジュースを飲みながらしばし物思いにふけった。

寛永寺の境内でもあった広大な公園の光景は、私が上京してからも、いや初めてそこを訪れた小学生の時(それはあのパンダを見るためだった)、高校生のサークル活動で来た時と、幾度となく親しんだものだが、その時の光景もまた何年も記憶に残るだろう。東京文化会館の昭和の香りが漂う、いまとなっては少し狭い座席は、私の心をさらに重くさせた。3階席正面とは言え、私はそこで見るハイドンの音楽に、何かとても苦しいものを感じ、そして周りの聴衆が重苦しい拍手としたときも、いっそ逃げ出してしまいたい衝動にかられさえもした。

それは演奏が良くなかったからではない。この文章は客観的な評価をするルポではないから、私は自分の心に生じていた個人的な事情の故に、そこの音楽を楽しむことができなかったことを正直に記録しなければならない。あの名演で名高いミンコフスキのハイドンであっても。

都響の定期にでかけるのは何年振りかのことで、最近はN響ばかりに出かけていたから、オーケストラの上手さではN響にかなわないな、などということも考えた。しかし休憩をはさんでのブルックナーは驚きの連続であった。そして私にとって第3番は、これまで実演に接したことのある第6番(フムラー指揮N響)、第8番(バレンボイム指揮シカゴ響)、第4番(ブロムシュテット指揮N響)、第7番(スクロヴァチェフスキ指揮読響)、第9番(大植英次指揮大フィル)、第5番(ヤルヴィ指揮N響)に続く初めての実演であった。一度は実演で聞いておきたいと考えていたこの曲が、珍しい初稿版であったこともあり、何か初めて聞くような感じがした。

第2楽章では完全にヨーロッパの音がしていた。そしてミンコフスキは(ハイドンでもそうなのだが)、楽天的な響きがする。かといって空虚ではない。表情が明るくリズムがいい。そういうわけで第3楽章になると都響が最高の音楽を奏で始めるのだ。固唾を飲んで聞き入った聴衆は、長い第4楽章の、音が大きくなったり静かになったり、千変万化を繰り返す間も酔いしれ、音が鳴り止んだ時に訪れるしばしの静寂の後、大歓声に包まれた。拍手は何度指揮者が登場しても鳴り止まず、それはオーケストラが引き上げても続いた。

だが何度も繰り返すように、この日の私の個人的心理状態は最悪であった。その内容をここに書くことはできない。 後悔と焦燥感にさいなまれたこの状況は、その2日前のできことに始めり、そして以降1か月近く続くことになる。ここで聞いた3回のコンサートは、まるで私が別人であるかのような錯覚の中で体験したコンサートだった。できればこの素晴らしかったブルックナーをもう一度聞いてみたい。だが音楽は二度と同じ音を奏でてはくれない。私の心の風景も、もう二度と同じようにはならないだろう。だから、これはふたつの要素が「その時」を記録したものとして心に残るだけである。人生において同じ時間を再び過ごすことができない、という当たり前のことを、コンサートという非日常の空間が強調した。それは旅の記憶とよく似ている。そして今この文章を書くことができるようになって、やっとその時の心理を少し分析してみたりもする。少し感傷的だけれど。



日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...