2012年3月31日土曜日

ヴェルディ:歌劇「エルナーニ」(The MET Live in HD 2011-2012)

ワーグナーによる類稀な超大作「ニーベルングの指環」を見たあとなので、ヴェルディの初期の作品など退屈で見ていられないのではないか、などと思っていたが、今シーズンのMet Live in HDシリーズ第9作品目は、その浅はかな考えをわずか数分で打ち砕いた。

歌劇「エルナーニ」は来年生誕200周年を迎えるヴェルディの30歳のときの作品である。まだまだベルカントの雰囲気を残しながらも、晩年の大作への萌芽を感じさせる。ヴェルディ流のドラマチックな歌の表現は、この頃には既に開花し、自信たっぷりなものを感じさせる。幕が開いてすぐに歌われる表題役のアリアの連続にゾクゾクとする。久しぶりに「歌」を聞いている。主人公エルナーニを歌うのは、シチリア生まれのマルチェッロ・ジョルダーニだが、その他にも主役級の歌手が3人も登場して、次々と、ある時は3重唱、4重唱、さらには合唱を伴って、これでもか、これでもかと歌われる。

あらすじはやや複雑だが、実は一人の女性を3人の男性が取り合うという馬鹿馬鹿しいほどのストーリーである。ただそこに国王だの、領主だの、名誉だの、権威などのいろいろ出てくるのはいかにもヴェルディらしい。その舞台が16世紀のスペインというから、「ドン・カルロ」や「イル・トロヴァトーレ」などと同じような舞台。他にもスペインを舞台にしたオペラ、たとえば「ドン・ジョヴァンニ」や「フィデリオ」と同様の雰囲気もある。暗く、そして体制の力が圧倒的で、宿命と人間性の間に揺れる心の葛藤は、ヴェルディの真骨頂でもある。

主人公エルナーニ(テノール)は盗賊の一員だが、エルヴィーラと恋仲である。ところが明日にも結婚式が予定されており、何と彼女は年老いた領主シルヴァに嫁ぐことになっている。それぞれの不幸を嘆くエルナーニとエルヴィーラである。シルヴァを歌うのはやはりイタリア人バスの第1人者フェルッチオ・フルラネットである。

一方エルヴィーラ(ソプラノ)は、この作品で唯一の女性役であり、その意味で表題役以上に目立つ。この役はベルカントの雰囲気を残す初期のヴェルディらしく、技巧的なテクニックが要求されるだけでなく、女性らしさやさらには力強さをも持ちあわせている必要がある。すなわち3人もの男性(はみな領主や国王といった最高権力者たちである)を虜にさせるだけの魅力、名高い家系の出であるという高貴さ、さらには意志を貫く芯の強さを同時に表現しなければbならないのだ。

メトロポリタン・オペラはこの役に、2007年デビューしたアンジェラ・ミードを起用した。幕間の特典映像で、オーディションの際に撮影されたドキュメンタリーの一部が紹介されるが、これが非常に興味深く、そして素晴らしい。ここで歌われたベッリーニの「ノルマ」は、彼女がマリア・カラスを意識している事を隠さずに紹介しているが、年老いたカラスやサザランドしかしらなかった私は、若い声で歌われる圧倒的な歌声に一気に魅了されてしまったのだ。

彼女(はジョーン・サザランドの再来だというふれ込みであるが、何ということだろう!)の歌声は、スペイン国王ドン・カルロを歌うバリトンのディミトリ・ホヴォロストフスキー、山賊の格好をしているが実は貴族のエルナーニ、さらには領主シルヴァと張り合っても引けを取らない立派なもので、聴いているとほれぼれとしてしまう。

物語は現代から見ると滑稽で、いわゆる荒唐無稽なオペラなのだが、お忍びでこっそりと城に潜り込み、結婚の邪魔をするシーンで、あやうく捉えられそうになると身分を証すシーンは「水戸黄門」のシーンを思い起こし、爆笑してしまった。つまり全体に何か時代劇をみているようなところがある。それが面白い。

結局、登場人物はみな「名誉」といった古い価値観に縛られているのだが、それはまだこの時代が、絶対王政の頃という時代設定であることによる。人々はまだ自由を手に入れていないのだが、今ではわかりにくいこの価値観をどのように表現するか、といったことまで案内役のディヂナートは歌手に質問している。

そして少し時代を遡ったスペインに、ヴェルディが作品を書いたイタリアの19世紀が重なっている。当時のイタリアはオーストリアに占領され、独立を求めるイタリアの統一運動が二重写しになっているからだ。そのような政治的意図までも考えると、いろいろ複雑な気持ちになるが、それだけこの作品は歌も楽しく、話は面白い。

ヴェルディの中ではあまり目立たない存在のこのオペラもメトの演出サマリターニの古典的で無駄のない演出、4人もの実力歌手の競演ということになると、やはり見事という他はない。指揮のアルミリアートもきびきびとしていて立派である。合唱のプロフェッショナルな見事さにも驚嘆する。新しい演出による話題の作品もいいが、ヴェルディの王道に原点回帰したような上演もまた立派である。見所満載の3時間は、幕間の舞台回転シーンまでもカメラが追い、オペラの楽しさを堪能した久しぶりの一日であった。

2012年3月30日金曜日

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(The MET Live in HD 2011-2012)

ワーグナーがその生涯の半分を費やして完成させた超大作「ニーベルンクの指環」は、4つの長い楽劇から成るが、その最後が「神々の黄昏」である。ここまで2年がかりで上演されてきた「リング」も、やっと最後にたどり着いた。それまでの集大成としての性格から、これまでに触れなかったことにも触れなくてはならない、などと考え始め、なかなか文章が思いつかない。だが、あまり時間をおくと、記憶が薄れて新鮮味に乏しい文章となってしまう。このオペラを解説した書物は山ほどあるので、ここはこれまで通り、私の感想文を率直に書いておこうと思う。

「神々の黄昏」を見て最初に感じたことは、これが普通のオペラ作品にどちらかと言えば近いのではないかと思うことだ。登場人物がもはや神々ではなく、人間主体ということもあるだろう。ドラマの展開がそれまでの作品に比べて速いので(といってもこれが普通だが)、長々と経緯を説明される下りは少なく、むしろ第2幕のように合唱団も混じった緊迫した場面が多い。つまり引き締まっているということだ。

この第2幕は、全体を見ないと触れることが少ない。良く売られている抜粋盤は、1枚か2枚のCDに全14時間を凝縮しているので、ここはほぼ間違いなくカットされている。けれどもなかなか音楽的には聴かせるのである。結婚式のシーンで、ジークフリートに裏切られたブリュンヒルデが、彼を告発するシーンは、丁々発止のやりとりである。見応えのある第2幕(は、「ラインの黄金」で登場したアルベリヒが見事に低音の歌を聴かせるところから始まる)に、今回ほとんど始めて見入った。

それに先立つ序幕と第1幕は全部で2時間もある音楽で、有名な「ジークフリートのラインへの旅」が含まれる。オペラというよりも音楽劇を実感するシーンで、音楽が流れる中での舞台の転回が見物。いよいよこれから再びワーグナーの音楽が聞けるという嬉しさを実感するのだが、その前に3人のノルンの合唱などもあって、なかなか前へ進まない。私はこの2時間の間に何と2回も睡魔に襲われ、有名な音楽が聞こえるたびに目を覚ました。歌手や指揮者にとってもこの2時間は恐ろしいほどに緊張の持続を要求されるようだ。夕方4時半に始まった上映も、最初の休憩時間になる。まだ6時半。トイレをほぼ全員が済ませ、各自おにぎりなどを食べている。私もワインなどを飲んでしまった。


今回目を見張るのは、何と言っても数十億円もかけて製作された「システム」である。コンピュータ制御された縦長の何枚もの板が前方に回転し、縦一列に並んだ時には様々なグラフィックも投影され、光が当たって光彩を放ちながら回転すると、滑り台のようになって歌手が滑っては上に上がることを繰り返す、というような見せ場が数多くある。「システム」の効果が最も良く現れていたのが、「神々の黄昏」ではなかったかと思う。その最大の見せ場が、何と言っても「ジークフリートの死」である。ここはおそらく「指環」最大の見せ場だが、ご承知のように英雄は、イタリア・オペラのようには死なない。刺されて死んだジークフリートの体についた血を、グンターが川で洗うと、そこから赤い色となって水が染まった。「葬送行進曲」の開始部分が、これほど印象的だったことはない。

最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」。ソプラノのデボラ・ヴォイトは満を持してここを歌いきり、喝采を浴びた。それまでに登場したあらゆるライト・モチーフが登場し、「神々の黄昏」は壮大な幕を閉じる。ワルハラ城が炎に包まれ、やがてそれもラインの川底に没すると、何もなかったような原始の時代、まだ生命が何も登場していない元の姿に戻る。海なのか、川なのか、とにかくその水面の波が静かに収まって、滔々と流れる最後の音楽が、やがて消えて行くまでの時間を、ニューヨークの聴衆は待てない。幕が降りる前に始まる拍手は、興ざめである。世界一忙しい街では、世界の滅亡も土曜日の午後の出来事だ。

神々の世界では、呪われた「指環」をめぐって争いが絶えない、というのがこの劇のあらすじである。神々によって作られた人間の世界でもまた、常に争いが絶えないのは、まさしくこの神々の争いに原因があるということだろうか。ワーグナーはこの壮大な物語の最後で結論を述べてはいない。

カーテンコールは通常だと、短くても30分は確実に続くが、これはおそらくカットされたのだろう。その中で、主役のデボラ・ヴォイトはやはり大きな拍手だったが、ハーゲンを歌ったハンス=ペーター・ケーニヒは安定した質感で聞かせたし、それに何と言っても往年の名歌手ヴァルトラウト・マイヤーがヴァルキューレの一人ワルトラウテ役で登場し、よく知る人は盛んに拍手を送っていた。指揮者は最初予定されていたジェームズ・レヴァインに代わってファビオ・ルイージ。安定した指揮だが、やはりレヴァインだったらなあと思うところもないわけではない。演出のルパージュは、カナダ人で、やはりアメリカとカナダにこだわった「指環」ということになる。あまり奇抜ではなく、かと言ってありきたりでもない。十分に見応えがあって、しかも新鮮である。お金はかかっているが、それに値するような革新性と、そしてツボを抑えた保守性が見事に融合していた。

4回に亘って見た人生2度目の「指環」体験は、少し疲れながらもなんとか終わった。劇場ですべてを見ることはおそらくないであろう。だが、私はもしあと20年位健康に生きることができたら、遠くに山の見える広大な一軒家を借りて、再度「リング」を最初から再生してみたい。次回は映像がなくてもいい。その時の演奏は、やはりショルティ盤が健在なのだろうか、それともベームを始めとするバイロイトのライヴ盤なのだろうか。どの演奏であっても、私は今回のルパージュの演出を思い出すだろう。20年以上前に家を閉めきってみたシェローの舞台に継ぐ、私の得難い音楽体験となったのは、子供が保育園を卒園する前日だった。これだけの時間を費やすことに協力してくれた家族には、心から感謝したい。

2012年3月29日木曜日

東日本大震災の記録:読書ノート(2)



2011年7月31日 広瀬隆、明石昇二郎「原発の闇を暴く」(集英社新書)

3月11日に福島第一原発事故が起きてから、それまでほとんど無関心に近かった原子力発電に関する本を読んでいる。事故後に企画された書籍が、最近になってようやく書店に並び始めた。どの本も良く売れているようで、平積みになっている。中には何十年も前に発売された本が復刊しているようで、その関心の高さがうかがえる。

何十年も前から広瀬隆は反原発派の中心人物だったが、彼をテレビや新聞のメディアが取り上げることはほとんどない。それは原子力自体がタブーであり続け、反対派は左翼運動と結び付いて過激になり、一方で推進派は言論を封鎖して「絶対安全」という神話に基づいて施策を進めた。
だが、今回の事故がたとえ想定外だったとしても、起きてしまった事実を否定することはできない。その意味で、それまで原子力行政に携わったいわゆる「原子力村」の責任は重大である。それは打ち消しようがない。

本書はその原子力村の今の住民たちが、特にこの事故以来どのように振る舞い、なおもどのような無責任なことを言ってきたか、してきたかを実名入りで暴いている。原子力行政のこれまでの経緯や、反対運動を含む歴史的流れを概観しようとしても、本書はさほど役に立たない。だが、今の御用学者や官僚が、どのような役割を果たしているか、果たしてきたか、現時点での視点でその内容を暴いていくことにこそ、読み応えがあり、他の本にないものである。

今や数十万人もの市民を路頭に迷わせ、何世代にもわたる汚染物質を垂れ流した東京電力は、存在すべきでない悪徳企業であることは誰の目にも明らかである。たとえ原子力を残す必要があっても、東京電力は残すべきでない。いや、核燃料の捨て場がない以上、原子力発電を「平和利用」などと偽って推し進めることは、もはやできないであろう。

東電にもまた経産省にも善良な人はいるに違いない。だが、今回の取り返しのつかない悲劇を招いた張本人達は、過去にも遡って責任を問われるべきである。原子力の議論は、その後からにしてもらいたい。

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東日本大震災は、深刻な原発事故をもたらしたので、津波や地震の被害はその陰に埋もれがちだ。だが、そもそもこの地震は、津波の被害の甚大さにも目をそむけてはいけない。やはり震災以降には多くの津波に関する書籍が発売されている。私が読んだのは、その中でも古典とも言える過去の津波のルポである。

2011年7月6日 吉村昭「三陸海岸大津波」(文春文庫)

震災のあとに書店でいろいろな関連書籍が並んでいた。その中で最初に手に取ったのは、吉村昭が昭和45年に調査して書いた「三陸海岸大津波」であった。この本を含め、地震や津波に関する書物が私の興味の対象となった。だが、それは長くは続かなかった。というよりも、原発関連の話題の方が喫緊のテーマになったからだ。

これは被災地の復旧や復興に対する思いと良く似ている。原発の問題が生じたために、被災地を応援する気持ちになかなかなりきれないのである。収束を見ない問題がある以上、それ以外の問題は、とりあえず横に置いておこう、というわけで私は津波に関する関心を、半ば心なく封印することになった。

YouTubeでは今でも津波の生々しい映像を見ることができるが、こういった映像は今ではほとんどテレビでは放送されなくなった。けれども、津波の瞬間を映像でとらえたのは人類史上ほとんど最初の出来事だった。それらをある日、意を決して見いった。震災から3カ月以上が経過した6月になってからのことである。そして言葉を失うような映像のあとでこの本を読むと、まさしくこれと同じような光景が明治、昭和初期、さらにはチリ地震の際にも三陸海岸で繰り広げられていたことを、十分な確信を持って知ることになる。

三陸海岸は辺境の地だが、その個々の集落に、数十年おきに津波が襲っているにもかかわらず、人が住み続け、そのたびに被害に見舞われている。このことをどう理解すべきだろうか。
復興構想会議が報告書を提出して、もはや海岸部には住むべきでないと進言したが、それは誰もが思いつくことである。しかしここに住んできた人は、それでも沿岸部に住むことを止めなかった。他の土地に移住することもなかった。彼らは津波を言い伝え、避難訓練にいそしみながらも海と共生し、そしてそのメリットを享受してきた。問題はもっと複雑で、そういう言わば被災を心のどこかで想定しているにもかかわらず、やはり生活を変えられないのである。これは東京の地震についても同じことかも知れない。

本書は小説ではなく、事実を調査したルポルタージュである。だが、このような大災害であったにもかかわらず、知られていることは意外に少ない。人間は知りたくないことを忘れるのが上手である。そして「想定外」などと言いながら、被害に甘んじるのだろうか。そうだとしても、やはり被害に遭った人間は浮かばれないだろう。過去の経験から学ぶことが人間の知恵であると信じてきたが、実際にはそう簡単な話ではない。唯一、本書に収められた、被災した当時の子どもたちが記した貴重な作文が、被災の実態を冷徹に物語っている。目頭が熱くなるが、そういった貴重な体験があったにもかかわらず、被害は繰り返されてしまった。私はその三陸海岸の素晴らしい自然景観を、とうとう知ることなく、津波の映像を通してしかこの地域を考えることができなくなっている。そのことが何かとても寂しい。

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震災から一年余りが経過して、改めて様々な関連本が出版されている。この1年の間に政権は変わり、私はテレビをほとんど見なくなった。報道されている内容が信用出来ないことに加え、やることなすことがあまりに虚しいからだ。東北の復興はなかなか進んでいないが、そのようなことを糾弾する報道も、原発に対する報道も、いまや疲労感が濃い。日本中が思考停止に落ちいっているなかで、無謀な増税論だけが先行し、意味のない東電救済策などが検討されている。津波に襲われた三陸海岸だけでなく、日本中が経済的な大津波に襲われようとしている。我々はそのことに気づいていながら、何もしようとしていない。

原発は残る泊原発の一機を除いてすべて停止したが、昨年輪番停電騒ぎがあったときに比べると、この寒い今年の冬も何も起こらなかった。パチンコ屋や自動販売機、それに深夜のテレビ放送が休止される様子もない。

イランの核施設がイスラエルによって攻撃されるのは時間の問題だが、そうなるとホルムズ海峡が封鎖され、日本へは石油の輸入が滞る。そのような中で、原発が稼働できないと日本の経済的困窮は一線を超えて、ギリシャ危機のようなことが対岸の火事ではすまなくなるだろう。多くの首脳が入れ替わる今年は、夏までは何とか持ちこたえても、その後には未曾有の混乱が待ち構えているような気がする。大嵐を前にして、日本は異様なまでに静かである。

2012年3月28日水曜日

東日本大震災の記録:読書ノート(1)

震災後に発生した原発事故に関しては、その後、数多くの本が出版された。私が読んだ本を記録しておく。



2011年5月28日 広瀬隆「福島原発メルトダウン」(朝日新書)

我が国のテレビや新聞が真実の報道をしないなか、3月11日に起きた東京電力福島第一原子力発電所の大事故については、いよいよ書き下しの書籍が発行され始めた。そのような中でひときわ目を引くのが本書であった。本書の良さは、現在進行形の事故よりもむしろ、原子力発電全般にわたって平易な記述がされていることであり、一番知りたいことを教えてくれるところがあるからだ。

そもそも原子力発電が、単なる湯沸かし器であることを今回始めて知った私だったが、そういう無知な私でもこれまでの、いわゆる「反原発」派の発言には半分程度は真実であると思われるものの、あとの半分は誇張ではないかと思っていた。けれども今回の事故を受けて、これらの人々の言ってきたことが決して誇張ではなかったことが実証されたと言って良いだろう。

本書を読み進めると、原子力発電所が次々と建てられていったのが1970年代であって、その時の耐震基準が非常に低く、さらに津波をほとんど想定してこなかったという、恐ろしい現実がわかる。そしてさらに怖いことは、原子力発電所から出る放射性廃棄物の行き場がないことだ。青森の六ヶ所村の記述には戦慄を覚えるのだ。飛行機事故と違い、何世代もの長きにわたってつけを回す原子力発電は、もうやめた方がいいと私は考えるに至っているが、そのことを裏付けるタイムリーな書物であると考える。

そもそも国策として始められたという原子力が、核オプションを残すことを目的としていたであろうことは、どこにも書かれていない。しかし、国策であったということは、いつどこで決まったのだろう。もし明確な決定があるなら、それ以降の推進派は今やみな責任者である。決定がないというなら、そういう民主的手続きを経ていない過程に対し、なぜ一般の市民が負担を負わねばならないのだろう。
国が発動する節電対策もおかしい。そもそも電力が足りないというのは嘘で(そのことは本書で語られる)、そうでなくても東京電力は、かかった費用の料金への上乗せ権と引き換えに、必要な電力需要を保証する義務があるはずだ。それが果たせないような会社には、即刻退場いただくのが筋と言うものだろう。

YouTubeで海外メディアのニュースを見ると、1号機と3号機の爆発が原理的に異なっていることが明確に報道されている。しかし我が国でそのような報道に出会ったことがない。本書はそのような詳細レベルにまでは踏み込んでいない。本書は事故を知るための本ではなく、事故をきっかけとして現在の日本の原子力発電の現状を概観するものである。広瀬氏の講演はYouTubeでも見られるので、併せて視聴すると考えが深まるだろうと思う。もはや必要な情報の乏しい日本の新聞やテレビ報道に接する必要性はかなり低いと思う。夏の電力不足が本当なら、テレビ放送こそ休止すべきだ。



2011年6月29日 小出裕章「原発のウソ」(扶桑社新書)

この数ヶ月間のニュースは、私たちの気分を決定的に変えたと言っていい。もはや政府の言うことはほとんどがあてにならず、そして個人の安全を守ってもくれない。政府が守るのは電力会社と、そして原子力行政のみである。その陰で被災者がどんどん死んでいく。ただちには影響のない我々も、やがては過去の大きすぎる負債を抱えて、もはやなすすべを失う。停電しても頑張って仕事をしようと言う向きもあるが、日本経済はもはや回復不可能な傷を負ってしまったのだから、何をあがいても仕方がない。

本書はそのような日本の原子力行政が、いかにひどいものかを書いたものである。小出先生は大阪にある京大原子炉実験所の助教だが、いわゆる「原子力村」の住民ではない。今では2人に減ってしまた熊取6人衆のひとりとして、これまでもずっと反骨の批判精神を展開してきたが、その彼がこんな形で注目されることを本人もわからなかっただろうし、期待もしていなかっただろう。

この本は売れているようだ。おそらく今もっとも知りたいと思うことが、丁寧に書かれているからだろうと思う。そしてその話には誇張がないと思うが、それでも戦慄を覚えるような話が続く。私はこの事件が起こってから原子力行政に興味を覚えたが、私はこの事件から得た教訓は、「原発のそばには住んではいけない」というものだ。そうとしか言いようがないと思う。

6月の終わりになって政治の収束も見えない中で、原子力行政がどちらに転ぶかは大変微妙なところである。しかし私は、いくらかの揺り戻しはあるにせよ、もうもとのようにはならないだろうと思う。想定外の地震や津波だったのかも知れない。だが、核燃料の廃棄場所がない、というただそのことだけで、この政策には根本的な問題がある。

私がこの本を読んだ理由は、実際には電力会社に対する感情的な思いからである。これだけの災害を発生しておきながら、その責任はあいまいなままである。刑事事件に問われてもおかしくないと思うが、ただの庶民にそのような権限はない。電力会社や電力事業がいかに欺瞞にみちたものであるかを少しでも知りたくて、それでこの本を読んだというのが正しい。私の思いは、少しは達成されたが、しかしだからといって何かが変わったわけではない。ただ、こういう本が次々と売れることで、「原発のウソ」が少しでも多くの人に知れ渡ることを願うのである。


2011年7月2日 宮台真司、飯田哲也「原発社会からの離脱」(講談社現代新書)

宮台真司氏の視点は、一貫して日本社会の抱える難点に注がれている。彼はそれを「悪い共同体」の「悪い心の習慣」という。これはどういうことか。ちょうど東京電力福島第一原発の事故が生じ、そこから原発を撤廃すべきか、存続させるべきかをテーマとした社会的論議が巻き起ころうとしている。そこで、原発社会を我が国はなぜ選択し、そこから抜け出せないのかを社会学的視点で議論してみようというわけである。

対談の相手は今や自然エネルギーの騎手となった飯田哲也氏だが、この本は原発を技術的に扱った本ではない。むしろ原発がやめられない社会の問題点を日本社会の本質的問題と捉えて一般化し、そこに解決の糸口を見出そうとしている。

私が注目したのは、そのような社会状況の中で、世界が70年代から徐々に知識社会へと向かい、その象徴がエネルギーの問題に集約されているという点である。ここから共同体自治を主体とした社会への転換が要であると説くのだが、では我が国の状況は、というともやは30年遅れだと嘆く。そして変革のチャンスだった民主党による政権交代が、どのように掛け声倒れとなっていったかを克明に説明する。

飯田氏はこれからの社会が、それでも変化を余儀なくされるであろうと説く。そしてその底流にあるのは、世代間の考え方の違いであることを明確に指摘している。私はエネルギーの問題が、今後は急速に広まるにつれて、このような「古い世代」の価値観が急速に後退していくと指摘している点に注目している。「それでもそう簡単ではない」とも言うが、「知の焼け跡」から復興することに期待を寄せる。

「飛躍するにせよ沈没するにせよ、大災害は当該社会の歴史的推転を早める」というところは、私がこの4ヶ月間に考えてきたことと全く一致している。日本社会を理解する上で、今ホットな原発の問題から提起している本書は、わかりやすくしかも、興味深い。

2012年3月27日火曜日

東日本大震災の記録(番外編)

2011年春

毎日悲惨なニュースに接していると、ふと音楽でも聞きたくなるものだ。今月になってどういうわけか、かつて流行った歌の「なごり雪」を聞いてみたくなった。

最近私は毎日朝昼晩とニュースを聞くことが日課になっていて、お昼はNHKのFM放送を聞いていた。ニュースが終わってご当地ソングを特集した番組が放送されるのだが、その日はもうニュースの時間が通常に戻り、そして北海道や東北地方の音楽が流れていたのだ。「知床旅情」や「北国の春」といった歌謡曲である。イヤホンでそういう他愛もない曲に耳を傾けながら、これは被災地の人の癒しにも貢献しているだろうな、などと思った。番組が終わって、どういうわけか私の脳裏にある歌詞が思い浮かび、そしてそれが離れなくなった。

汽車を待つ君の横で僕は、時計を気にしてる。
季節外れの雪が降ってる。
東京で見る雪はこれが最後ねと、寂しそうに君がつぶやく・・・

この歌はイルカの代表的なヒットソングだが、あまりこの手の曲を聞かない私は、いまだかつてちゃんと聞いたことはない。それでもこの有名な歌詞は、寂しげに桜の咲いている丁度今年の春にぴったりと合っている。だから私の心に響いたのだろうか。

「東京で見る雪」という部分と「汽車を待つ」という部分が同居していることに違和感を覚える向きもあるだろう。だがそんなことよりこの歌は、春によくある別れの歌である。今年は寒い冬がいつのまにか春に変わり、気がつけば桜が咲いていた。思えば日本人は古来より、散りゆく桜に思いを寄せ、春を迎えた喜びよりも時が移ろう寂しさに感性を研ぎ澄ませてきた。

こうなったらこの歌を手持ちのiPodに入れて聞きたいものだ。そこでiTunesにアクセスすると、多くの歌手のアルバムが一発で検索できた。どういうわけかオリジナルのものがないが、こういうときそれぞれの歌手のアルバムを比較試聴して購入できるところがオンライン販売のいいところである。私は各ファイルを聞き比べ、比較的新しくダウンロード回数の多い徳永英明のものを購入した。

今年の春は晴天が多い。朝、新緑の季節がまぶしい街を会社へと向かう道の中で、私の耳元に少し季節遅れの歌が響く。これを聞きながら震災の被害を思うわけではない。まだ福島の災害は進行中である。けれども次第に明るさを増す春の日は、私の心を少しだけ豊かにさせた。

動き始めた汽車の窓に顔をつけて、
君はなにか言おうとしている。
君の口びるがさようならと、動くことが
怖くて下を向いてた。

時がゆけば幼い君も、大人になると気づかないまま、
今春が来て、君はきれいになった。
去年よりずっときれいになった・・・

2012年3月26日月曜日

東日本大震災の記録(16)

2011年6月

3月11日に起きた東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の大惨事は、いまだに収束を見ていない中で、首都圏の放射線量に対する恐怖がにわかに高まっている。そして暑い夏を目前に控えて6月の今は、表面上は落ち着きを取り戻し、にわかに休戦状態にあるのかも知れない。5月の連休以降の記録をしておく。

5月に入ってすぐに、私は北海道の妻の実家へ身を寄せた。羽田空港からJAL機に乗っても福島沖の上空を通過するのだが、それはよくわからない。ただ、雲の上に突き出した富士山は大変きれいだった。到着した北海道はまだ寒く、むろん桜も咲いていない。季節が逆戻りしてしまったのだが、やはり解放感は違う。

天馬街道を超えて日高から十勝に入るとき、やはり雪が少し残っていた。私は広尾町から襟裳岬を目指した。ここは黄金国道という、我が国の多くの海岸沿いの道でも屈指の断崖コースである(写真)。20年ほど前に一度通ったことがあるが、今回はすべての集落で立ち止まり、そしてこんなところにも人が住んでいるのか、と思うような小さな集落でも、その入口には津波の際の避難所を示す標識が立てられていることを発見した。

これは襟裳岬を回って日高地方一帯までずっと続いている。北海道の歴史は、書物に残っていないアイヌの時代を除くと、わずかに200年程度である。1000年に一度の大地震や津波は、もちろんほとんど記録に残っていない。けれどもこの地域が太平洋プレートに起因する大地震に見舞われると、やはり三陸地方を壊滅させたような大津波の被害に遭うのではないかということは容易に想像できる。そのような海岸を走りながら、東静内を抜けようとしていた頃、カー・ラジオが大ニュースを報じた。

「菅首相は浜岡原発の停止を要請」というのがその趣旨であった。私は久しぶりに興奮した。翌日、東京へ戻る機内で、北海道新聞、朝日新聞、読売新聞などを読み比べ、帰宅後は日経新聞も見た。各社とも見出しには驚きの文字が躍っていたが、社説には中部電力はこの要請を受け入れよ、となっていた。ただ日経だけはニュアンスが異なった。どの記事も記者によって、立場が違うように見えた。ただ、私は単純にこれは英断だと思った。

菅首相や経済産業省がどのような思いでこの要請をしたかはよくわからない。だが、非常に唐突に、しかも一歩先を行くようなジャンプをしたことは驚きであり、そしてそれは原発を止める方向に向かったように思う。「説明がない」などと言われるが、福島の事故以外に何の説明がいるというのだろうか。

このあと東京の放射線量について徐々に不安が広がって行った。私も線量計を買おうかと迷ったが、ガンマ線しか測れない安価なものでは、気休めにしかならない。神奈川のお茶からセシウムが検出され、この不安は一気に高まった。共産党の東京都議団によれば、東京の放射線量は文科省の公表値の倍以上のようである。さらに内部被曝の問題!

私の住む港区は、年間の被曝量が基準の1ミリシーベルトとなるぎりぎりのところにあることがわかる。そして汚泥から高濃度の放射線量が見つかるに至って、不安はますます高まった。各種の雑誌は情報がいかに隠ぺいされているかを書き立てている。菅総理は、しかし、浜岡の停止に続いてエネルギー政策の白紙からの見直しを唐突に表明した。

この2つの出来事は、少なくとも菅総理は反原発の方向に大きく舵を切ったことを意味する。だが、これは日本政府のゆるぎない方針ではない。いやむしろ、経産省をはじめとする政府内部には反対派が数多くいることがわかる。

菅総理のこのような発言が続いたことで、いわゆる「菅降ろし」が始まったからである。これはエネルギー政策、つまりは原子力政策を存続させようとする立場の側からの逆襲である。しかし、民主党内部の半主流グループを発端とする内閣不信任案は、「辞意表明」によって圧倒的多数で否決され、その後の大連立構想も頓挫して、古い政治への逆戻りは辛うじて阻止された。

数々の失態を演じながらも菅総理の首がつながることで、ベストではないにせよ、ノット・バッドな選択は守られた、というのが私の(非常に少数意見だが)見方である。菅首相にははっきりと反原発への道筋をつけて引退するか、さもなくば、原発反対の立場を明確化して解散総選挙をしてもらうのがいいと思っている。

メルトダウンが起こっていたことなど、一連の事故隠しが次々に明るみに出る中で、水棺作業も失敗し、高濃度汚染水の行先も定まらず、放射能の除去装置も故障続きとなっている。このような非常事態の中で、政治は何も決定できていない。この責任は、第一義的には首相にある。首相が何を考えているのか、あるいは考えていないのか、非常にわかりにくい。それは半分は菅首相の責任だろうが、残りは民主党、そしてメディアの責任だろうと思う。

NHKや大手の新聞がもはや正確なことを伝えていないことは明確となった。7月から始まる節電も、その根拠があいまいなままである。原発を止めるための節電なら大いに協力したいところだが、そのためには電力需要に関する情報を公開してもらわないと困る。経産省の中ではまだ、原子力推進派が幅を利かせており、これが財務省と結び付いて日本を壊滅の方向へと導こうとしている。たよりない菅首相しかその盾になる人はいないのが悲劇である。そのようななかで復興は遅れ、経済の沈下は続いている。

(2011/6/18)

2012年3月25日日曜日

東日本大震災の記録(15)

2011年4月

今日の時点で、震災関連のニュースはひところに比べればかなり少なくなり、表面上は落ち着きを取り戻したように見える。停電や余震が少なくなったことにより、私の会社でも通常通りの業務に戻り、多くの社員は福島の原発を含め、事件を忘れかけているようだ。だが、そういうときににもまだ収束とは言い難い状況が続いていることを忘れることはできない。

情報の収集はテレビやラジオなどの即時メディアから、新聞や雑誌に移行しているが、そのような中で今注目すべきは、第1号機に対して実施されている「水棺」作業が果たして成功するのかどうか、ということだろう。一昨日の日経新聞によれば、原子力安全・保安院は格納容器に漏れがあることを告げているが、その後の読売新聞の記事では東京電力が、水の注入作業を加速することを伝えている。その理由は、水漏れがなかった、というのだからどちらが本当かわからない。
この状況は、この作業をめぐって専門家の間でも意見が分かれていることを意味するのではないかと思い、私は非常に気にしている。原子力安全・保安院と東電は、今週から共同で記者会見を開いているが、その初日がこの有様である。

どちらに転ぶかわからない状況はほかにも沢山見受けられるが、そういう事態が生じている最大の理由は、本当の状況が隠されていることによるものだろうと思う。例えば夏に心配される電力不足も、今のままで乗り切れるのか停電の可能性があるのか、どうもよくわからない。
一方で、原油価格が高騰し、燃料不足に追い打ちをかけつつある。また各地の工場が操業停止に追い込まれた影響で、経済的な損失が拡大することが叫ばれている。サプライ・チェーンが破壊され、飲み水等の不足が著しい。日本に入港する船舶が減り、物資の不足が心配されている。西日本へ工場等を移転しても、関西の電力の半分は原子力による発電で賄われており、その中心地である福井県の原発は、断層に近い位置に立地している。

日本は極めて脆弱な状況にあることが浮き彫りになった。そうでなくても静かに進む高齢化と、出口の見えない経済的閉塞感、さらに財政の不健全化で、日本の行き詰まりはもはや頂点に達している。しかし政治は何も動かず、無責任主義がはびこり、改革が遅れている。

気を吐いているには大阪の橋下知事とソフトバンクの孫社長くらいだが、橋下知事は、脱原発の方向を模索すると表明したようだ。関西広域連合のように、国の出方を待たずに方策を示すことことそ東北地方に求められている姿勢にも感じられるが、そのような動きは今のところない。世代交代の流れは加速すると前に書いたが、一方的に進むということではないだろう。

また孫社長は多額の寄付に加え、原発に頼らない発電方式を普及させるために基金を発足させると発表したが、こちらはどういうわけか報道されていない。

このような中で、天皇陛下は被災地を見舞われた。政府の施策が無機的であればあるほど、このニュースは胸を打つ。

震災のニュースに目を奪われている間に、世界情勢も大きな変化に見舞われている。そのうちのひとつは中東情勢であり、またひとつはヨーロッパの経済問題である。

私は幼い頃にジャーナリストになりたかった。そのこともあって、ニュースを見聞きすることは今でも半分は趣味の領域でもある。けれどもこの1カ月余りの期間ほど、自分の身をもってニュースの分析をしたことはなかった。そしてそれはこれからも続く。今後の震災関連ニュースやその他のニュースもこのブログで書き続けても良いのだが、それは課題として、ひとまずこのシリーズを中断しようと思う。

最後に、この事件を象徴するかのようなニュースをひとつ。昨日の原子力安全・保安院と東電の会見のうち、外国人向けのものが英語で行われたが、これを聞いている記者は誰もいなかった、という事態があった。このニュースは「ニコニコ動画」に掲載されてるが、なぜそのような事態に至ったかについては触れられていない。また私が調べた限り、国内の主要な新聞のホームページには、そのような「事件」の記事は見当たらなかった。


どうしようもない無秩序がはびこる中で、各官僚機関の責任逃れ(謝罪)と実績作り(宣伝)のニュースだけがはびこっている。もはや政府は無能と言うしかない。

(2011/4/28)

2012年3月24日土曜日

東日本大震災の記録(14)

2011年4月

東京から常磐道を北に向かうと、いわき市を通り過ぎたあたりで高速道路がなくなり一般道となる。ここから仙台市の南部までは海沿いに進むおだやかな道だ。茨城からいわきまでの区間に比べると険しい道はなく、東北へ向かう他の幹線、たとえば東北道の白河関越えや日本海側よりは行きやすいと感じていた。冬には雪も少ない。

いわき市から北の国道沿いは、海沿いとは言え海岸が見えることは少ないが、なんとなく広々としていてしかも好天に恵まれる率が高い。このような土地なのに、なぜこれまで開発が遅れてきたのだろうか、とふと思ったことは今回の原発事件が生じる前にもあった。原発ができるまでは、東京へ出稼ぎに行くしかない村々だったというのだ。

考えてみれば昔から、東北へ向かう幹線は、今の東北本線や東北道の道沿いで、白河関を超えると郡山、福島、仙台と通り、そこから北上川に沿って内陸を進む。宇都宮までの道のりは、江戸時代には江戸からの街道として整備されたが、それ以前は東山道として碓井峠を下り、群馬から栃木に向かって進むのが都、すなわち京都からの街道だった。このころ東海道は江戸を経由して常陸の国、すなわち茨城県まで延びていた。また北陸道は越後から佐渡へ向かって終わる。

東北は陸奥の国と呼ばれ、もともとは福島以北全体を指す。みちのくという言葉は、陸奥の国のことだろう。その東北地方にあって、福島県の浜通りというのはやはり、中心から遠く隔たった地であったのか、と思った次第である。

その福島県浜通りに原発を誘致する運動は、1950年頃から始まったようだ。今秋発売された「週刊現代」の巻頭には、かつて同誌に連載された評論家、内橋克人氏による記事「原発が来た町」(1983年)のあらましが福島県の原発年表とともに記述されている。

それによれば後に東電の社長となる木川田一隆氏がこのあたりの出身で、当時の福島県知事との間で「話はトントン拍子で進んだ」と書かれている。高度成長が始まる1960年代は、原発こそが夢のエネルギーであった。

思えば私の父の世代、戦後の最初の教育を受けた世代では、理科系の最もよくできる秀才はこぞって原子力工学を目指したようだ。私は原子力がもっとも光り輝いていた時代は、この1960~70年代ではないかと思う。しかし、私が大学を目指した1980年代前半にはすでに、原子力工学はすでに地位が低下し、必ずしも秀才の行く学科ではなくなっていた。

1979年、私が13歳だった時にスリーマイル島の事故が起こり、これが象徴的な意味で原子力発電に疑問を投げかける最初のケースとなった。米国ではこの事件を契機にして、原子力発電所を建設することがなくなった。当時の秀才は、たとえハーバードやMITを出ても就職先がなく、進路変更を余儀なくされたと最近読んだ本には書かれていた。

私は大阪で就職活動をしていた際、中之島にある関西電力の本社の前を通ったことがある。ここには反原発派の小屋があって、ゴシック体の独特の文字で「反原発」などと書いた横断幕を掲げていた。チェルノブイリの事故もあって、世界的な反原子力の流れが加速していたが、日本では対岸の火事だと思っていたのかも知れない。

美浜や志賀、あるいは柏崎、浜岡のような原発(最近では北海道の泊)などの前を通るたびに、僻地に作られた異様な空間を見てきたが、ある電力会社に就職した先輩は、敷地内で作業員と共にソフトボールなどをして遊ぶ様子を語ってくれた。地元の雇用も促進しているが、仕事がないので勤務時間にスポーツをしているというのだ。私は、なんとなく原発は無理をしたものであるという印象を持っていた。

このたびの事故により、東京電力は休止中の原発の再稼働ができなくなる公算が大きい。さらに1年以内に定期点検を迎える日本中の原発が、そのあとに再稼働することは困難だろうと「週刊ダイヤモンド」は報じている。今回の事故で耐震基準が厳しくなり、その結果、対応できない原発が生じるというのである。その場合には西日本にも電力不足が及ぶ。

支持率低下が著しい菅政権に対する動きが連休明けに活発化するとの噂がある。しかし菅政権が存続して喜んでいるのは東電かもしれない。最近の補償問題をめぐる動きは、東電のシナリオを踏襲しているようにも思えるからだ。ニュース番組に東電のCMが多いというのも気がかりだが、勝俣会長が震災発生時に中国へ招待していたのはマスコミの連中であったことが分かっている。
学者、官僚、政治家、それにマスメディアまでもが電力会社のいいなりになっている。このような中で、真実の報道はごく一部のメディアにしか頼れないということもはっきりした。昔と比べれば、少しは進歩しているのかも知れない。記者会見でフリーの記者が質問した内容は、その10分後には世界の言語に翻訳されてTwitterで流されるのが今の時代である。それにふさわしい会見を政府も東電も開かないと「想定外」の風評被害が巻き起こる。

東電が示した収束シナリオは今や誰も信じていないが、これさえもわずかな事象ですべてが狂う。今日本列島は、非常に脆弱な基盤の上にある。梅雨、落雷、台風、猛暑、余震、原発の作業のミス、のどれ一つをとっても大規模な災害に発展することは間違いない。余震が柏崎の原発を停止させただけで、おそらく夏の電力供給が狂うだろう。
もう元には戻れない道をあるいていることを我々は知るべきだろう。

(2011/4/27)

2012年3月23日金曜日

東日本大震災の記録(13)

2011年4月

東京電力福島第一原子力発電所の事故は、まだ収束しておらず、水素爆発の危険もなくなったわけではない。東京電力はクリントン国務長官の訪日に合わせ工程表を作成したようだが、これがその通り履行されるとは誰も思っていない。それどころか、今後、どのように事態が進むのか、誰も何も語れないというのが実情のようだ。

避難区域が厳しく設定され、20キロ圏内は立ち入りが禁止されるようになった。原発周辺ではがれきの撤去もままならない状況で、遺体捜索も難航しているが、この避難民に対する補償の話もやっと進み始めた。

夏に向けての電力事情はやはり相当大変で、なんとかこれを乗り切ったとしても冬、そして来年の夏と、逼迫した状況が長く続く。この状況を見越して工場やオフィスを西日本や海外に移転する動きも加速しそうだが、それに対しどうすべきかは意見が分かれているようにも見える。

東電がどのようになるかは誰もわからないが、会社としては存続の危機である。さらに風評被害も深刻で、つくば市は福島県からの避難民に対し被曝量の測定を求めたというから、いかにも官僚主義の強い茨城のやりそうなことである。一部の野菜は出荷されてきているが、海産物についてはもともと基準がなく、今も放射能垂れ流し状態では、国際的な非難も高まることが予想される。

もはや日本は、その勤勉な国民性とは裏腹に、政治的には二流国扱いされている。これでは北朝鮮の核実験を批判できないし、中国やロシアの原発で同じことが生じても、何も言えないだろう。晩発性のがんに対する調査は、これから始まるのだろうとは思うが、やはりうやむやにされ直接的な因果関係が語られることはないだろうと誰もが予想している。

東京を襲う次なる地震の可能性も高まっていると地震学者は警告している。だが、大多数の首都圏の住民は、自分のこととしてとらえきれていない。そもそも一極に集中し過ぎた今の体制こそ、見直すべきではないか。

評論家の田原総一郎氏はラジオの番組で、日本を覆っていた閉塞感がなくなった、と言っていたが、確かにそうかも知れない。何か失うものを全てなくしたかのような気持ちは、被災した方々には失礼だが、ある。けれども日本が背負った宿題は急務にしてあまりに莫大だ。AかBか、どちらにすべきか、と言った国論を左右しかねない緊急問題だけでもいくつもある。それらは、以下のようなものだろう。

1)日本はこのまま原発を作り続けるべきか、それとも縮小させるか(喫緊の課題としては、中部電力の浜岡原発を止めるべきかどうか)。

2)東北地方の被災地は、復旧を優先するか、復興を目指すか。

3)日本経済は復興需要に乗って数年後にはもとの力を取り戻せるのか、それとも「日はもう沈む」のか。

4)復興のための財源は、消費税の税率アップか、国債か(最悪のシナリオは、所得税・法人税の増税だ)。

5)政治は大連立か、このままの菅政権か。

6)復旧に向けた日本人の気持ちが、新しい価値観を創造し、若い世代への交代と既得権益の組み換えが起こるのか、それとも古い価値観を続けるのか。

NHKが放送したサンデル教授の討論番組(震災を扱った特別版)は、被災にも動じない日本人の素晴らしい行動が、世界にとって意味のあることだとのメッセージを伝えようとしていた。私は少し持ち上げすぎだと感じたが、日本人がはるか以前に投げ捨て、そっぽを向いてきた「古き良き絆社会」が、まだ東北地方に残っていたことが称賛されると仮定すれば、それは西洋社会においてもやはり同様に、個人主義が行き詰るという問題を抱えていることを意味するのだろうと思った。

「新しい絆の社会」は、従来とは異なったものだと思う。だが、そもそも絆が失われた社会では、個人が利益を自由に追求するだけの殺伐とした空間を生み、大規模な自然災害を前にしては何もできないだろう。ひとはひとりでは生きていけないのだから。

※写真は仙台市の郊外(2001年頃)

(2011/4/26)

2012年3月22日木曜日

東日本大震災の記録(12)

4月2日(土)

子どもを東京に連れ戻すため、関西へひとりで帰る。子どもはまたひとまわり大きくなったような気がした。

4月3日(日)
鎌倉に住む伯父の訃報に接する。この伯父はもう80代の高齢で、長らく闘病中だったが、実家が山形県の米沢だった。質実剛健という感じの伯父で、旧制高校の面影が残る東北大学を卒業した技術者だった。

私はあまり頻繁には会わなかったが、鎌倉に住んでいたため東京に来てからはお世話になった。古き良き教養人ながら、甥の私には圧力的なところがなく、古都に居を定めてからは、お寺巡りをして楽しんでいたようだ。
丁度、東京に帰るときだったので、大阪に住む叔母と同じ新幹線にのり、お通夜の段取りを確かめながら東京へ帰った。春休みということもあり、新幹線は通常以上の混雑であった。

4月5日(水)

その伯父のお通夜が鎌倉で営まれた。計画停電と震災の影響で火葬場の予約が取れず、葬儀自体がずれこんだ。久しぶりに会う親戚と、しばし故人との別れの時を過ごした。桜が満開で、通り抜けてゆく古都の風は清々しかったが、やはりどこか寂しげでもあった。

原子炉の周辺からは、微量のプルトニウムやストロンチウムなども検出される。そして事故の国際的な評価レベルが、それまでの5から7へと修正された。東電はその後、原子炉の溶融の可能性を認めるが、何をいまさら、という感じである。首相が「周辺は20年はもうすめないだろう」といったとか言わないとかで騒ぎになっているが、言い方に問題があったにせよ、内容には驚かない。
今起こっているニュースは、3月の中旬に想定していた範囲内である。そういう意味で、事態はおちついてきた。しかし震災から1カ月がたとうとしていた矢先に、大きな揺れが再び東日本を襲った。

東北地方に再び津波警報が発令され、東北の全域で停電した。深夜だったのでテレビを見ていたが、揺れているカメラは仙台の郊外で変電所のものと思われる電力ケーブルの発火をとらえていた。
問題は翌日にも停電が続いたことだ。停電域が大きく、しかも時間が長かった。私は詳しいことはわからないが、東北電力の管内も電力事情は綱渡り状態だと直感した。そしてもっと深刻なことは、福島や女川、それに東通の原発で、電源喪失状態になったことだ。このような余震が続けば、いまでも収束しない原発問題は、さらに深刻となる。幸い津波は来ず、停電も順次復旧したが、私はこの余震の停電で現在の脆弱さが浮き彫りになったと思っている。

東北新幹線は走行中だった列車が、3月11日の震災でも安全に停車した。JRは気象庁とは異なる独自の計測システムを持ち、それを列車にいち早く伝えることで列車を一斉に停車させたらしい。これはすごいことだと思った。今回の震災は、見るに堪えない人災を招いた一方で、「想定された」地震や津波に対処した数々の話が伝わっている。一度整理して発表してもらいたいものだ。
「津波が来たら自分のことだけを考えて一斉に逃げよ」と昔から言い伝えられていたある小学校では、小学生が一目散に避難した。走っている子どもを見て、大人が走り出した。結局は被害が最小限に食い止められた。三陸では100年に一度くらいの割合で、大津波におおわれているようだ。

だからもともとあまり人が住んでいないし、住んでる人は津波の恐怖を心得ていたようにも思う。
だが、これらの美談に隠れて、数多くの人が死亡したり行方不明になったことを忘れてはいけない。多くの海岸沿いの街は、まちそのものが一気に流された。人口の半数以上が行方不明、という信じられない事態となった町や村は、1つや2つではない。そして日本中の海岸付近で、同じような規模の災害があり得るということだろう。
浜名湖に近い新所原だったかの関所のあったところに博物館があって、訪れたことがある。年表には260年の江戸時代に2回か3回の程度で、津波により流されていると書かれていたことを発見した。鎌倉の大仏にも大仏殿があったが、それが海に流された、とテレビのニュースは伝えている。日本中でこれから想定されるリスクに対し、一斉に見直しが始まるだろう。私の会社も、一部機能を関西地方に移す計画があるようだ。

※写真は青葉城から望む仙台市街(2005年)。

2012年3月21日水曜日

東日本大震災の記録(11)

3月28日(月)~4月1日(金)

年度末の慌ただしい時期に、事態は一見静かに進行しているかのようだった。けれどもそれは、それ以前のあまりに次々と生じる非常事態に比べての話であって、もう我々の感覚が麻痺してしまったからなのかも知れなかった。

福島第一原発が収束に向けた動きどころか、膨大な汚染水が漏れ出す事態に至って、東京電力への批判が高まっていった。社長が不在だったなど、不手際はいくら指摘しても限りがないが、経産省の原子力安全・保安院、そして内閣府にある原子力安全委員会に至っても、その存在価値が疑われている。テレビに出演する「御用学者」と、そこに群がる人々を「原子力村」と揶揄する報道が相次いだ。

フランスのサルコジ大統領が来日し、事態収束に向けた汚染水の撤去について協力することになったようだ。加えて米国軍の部隊は、ますますその存在感を増し、我が国の自衛隊も総力戦で遺体の捜索などにあたっていた。
会社では4月1日の人事異動が予定通り行われたが、引っ越しの手配ができず、実際の赴任は約2週間遅れと言う有様だった。

計画停電がほとんど実施されなくなったことによって、首都圏の様子は次第に落ち着きを取り戻していった。私は今のうちにと、刺身が安くて美味しい居酒屋に予約を入れようとしたが、どこも満員でなかなか予約できず、妻の友人一家と出かけた秋葉原の焼鳥屋も、エレベータに乗るのに並ぶという混雑ぶり。会社の歓送迎会でも新宿のパブなどは立っても飲めないほどの混雑ぶりである。上野動物園のパンダも1000人以上が公開初日に列をなし、最近再開された東京ディズニーランドでも大勢のにぎわいを見せた。

ところが、築地市場をのぞいてみると、半分近くがシャッターを下ろしている。箱根や日光などといった主要な観光地も閑古鳥が鳴く。これはどういうことかというと、私が想像するのには、暇な高齢者が「自粛」をしているのだろう、ということだ。若い人々の消費欲は旺盛で、石原都知事の「花見自粛」発言など誰も信用していない(そもそも言われてやる「自粛」は強制ではないか。それから知事に批判される前に、自動販売機やパチンコ屋は「自粛」すれば良い。何も条例を作る必要などない)。

高齢者の文化と若者の文化、その間に菅総理の世代である団塊の世代がいる。今回の震災で考えたことのひとつは、我が国で静かに進行している人口減少と世代交代の流れを浮き彫りにしている点だ。

まず、被災地のニュースを見ていると、各被災地にはいかに高齢者が多いかわかる。その多くが農民や漁民で、彼らは再び仕事をしたいというが、高齢者だけで再開しても数年後にはリタイヤを迎えてしまう。復興させるべき街は、選択と集中を余儀なくされるのではないか、という点がひとつ。

次に思うことは、テレビのCMに代表される「頑張ろう」といった大合唱が、いったいいつから始まった風潮なのか、という点だ。被災した人々は1カ月がたった今でもがれきの山々を見つめながら、とてもそういう気持ちにはなれないだろう。しかも福島の原発の問題はまだ収束しておらず、全員が一丸となって「上を向いて歩こう」という雰囲気になるのを阻んでいる。

悪い予測を冷静に見つめようとせず精神論で乗り切ろうとした戦争に負けたのは、もうだいぶん前のことである。そもそもどのようなレベルで今回の震災に向き合うかは、皆ひとりひとり違うはずだ。それを翼賛的に「頑張ろう」などと言うこと自体、恥ずかしいと思わないのだろうか。私は特に若い人々こそ、そういう安直な風潮に流されやすいような気がしている。

けれども、今回の震災は、戦後から高度成長期にかけての「右肩上がり文化」を名実ともに終わらせ、そのひずみを次世代に付け送りしながらも、新しい価値観で次の創造をしていかねばならない日本の世代交代を早めるものと思われる。古い既得権益を捨て去り、もう一度ゼロからの出発ができるか、政治的な能力が問われる結果となった。今最もラジカルな問題点は、復興か復旧か、そして原発推進か、反原発か。

失われた20年間に何も変えることができなかった日本の社会的風土が、結果的に大きな犠牲を背負うことになりながらも、とうとう変化せざるを得ない状況を作り出し、しかもそれに拍車をかけた。これから始まる変化は、いままで予想されていたもので、それが一部で期待されていたようなポジティブな変化になりえるのかが問われている。これを機会に大胆な改革を、と叫びたいが、今の政権にはその覚悟があるのだろうか。

ただ百歩譲るならば、今の菅政権の良いところは、過去のしがらみが比較的少ない勢力によって運営されていることだ。自民党の長老勢力、建設会社との癒着が指摘される民主党内の小沢系、それに公明党からも距離を置いてきた政権は、脆弱ながらも今のところ、フリーな立場を取れる。これをもう少し上手く利用できないかと思うが、マスメディアも既得権益の一部に過ぎない側面を持つのか、うまくいかないのだろう。菅首相は記者会見で質問されても、「反原発」ひとつ打ち出せないようだ。これでは何が政治主導か。

ただ菅氏に代わる政治家がいて、具体的な代案を示さない限り、建設的な批判にはなりえないだろう。そういう意味で日本は決定的な人材不足状態である。今の65歳以上は、下の世代を信用していないので、古い方法にしがみついている。団塊の世代は、上の世代の影響があまりに大きいので萎縮しているようだが、評価すべき点があるとすれば下の世代の邪魔を比較的しないことだろう。従って世代交代はある時から一気に進むと私は見ている。

ポスト団塊の世代は、団塊の世代を含む前の世代と本質的に異なる点がある。これはあまり語られていないように見えるが、安定的な高度成長期に生まれた彼らは、兄弟が少ない家庭で育ち、しかもその頃はまだ古い日本文化を継承していた。したがってより成熟した世代であるということだ。ここでは昔の世代より自立的な個人主義がもう少し真っ当に存在していると感じるのは、自分がその世代に属しているからか。

私は自分を含むより若い(55歳以下の)ポスト団塊世代に早く交代すべきだと思う。特に震災の復興などは何十年もかかる事業なので、若者にチャンスを与えるべきだ。

ただそう考える私でも、今の20代以下の世代は、バブル崩壊後に育った平成世代だが、あまりに純情過ぎて心もとない。大きな災害も経験したことのない彼らは、今回の被災に心から気持ちを揺さぶられているはずだ。古い絆で結ばれたコミュニティの創造は、彼らが担うとき、あまりに理想化され、負の側面を見逃してしまわないか。そもそも団塊の世代とそれに続く世代は、既成の価値観を覆し、昔の制度に反発してきたはずだ。

そうはいうものの、私は彼らにも期待をしたい。明治時代以降に、2度も復興を成し遂げた近代化の過程にあった日本とは状況が違うだろう。私はむしろ経済的には、日本は復興していかないのではないか、とさえ思っている。それでも日本が、数々の試練を乗り越えながら、それなりに静かで平和な社会を形成することは可能だと信じている。高度成長時のような熱狂ではなく、豊かで落ち着いた社会に、昔のコミュニティの絆のいい部分を取り戻すことができるかが、若い世代に試されている。

※写真はNewsweek日本版に掲載された記事の一部。

(2011/11/4/24)

2012年3月20日火曜日

東日本大震災の記録(10)

3月26日(土)~27日(日)

子どものいない週末に、私たちは買い出しにでかけた。パスタソースや乾麺など、日持ちのする食材を調達、防災袋に電池や懐中電灯を入れた。ミネラルウォーターはある程度買ってあったが、京都の義妹や北海道の妻の実家からも届く。子どもは来週から甥たちと一緒に白馬へ行くという。長野県でも地震は頻発しているが、中部電力の管内で停電の心配はない。

松島を除けば、三陸海岸を含む東北地方の太平洋岸一帯は、私にとってまだ旅行していない地域だった。中学生の頃から、石巻や釜石に、私は幾度となく計画を立てたものの、なかなか不便なところで行く機会を持てないでいた。一方東京に住むようになってからは、福島県の浜通りを常磐自動車道を北上し、磐越道を郡山方面へ旅行したことは幾度もあるし、そのまま海沿いを北上し、原町、亘理、名取市を通ったこともある。

大阪生まれの私にとって、最近まで東北地方は、やはり遠い地であった。しかし、この大震災をきっかけに考えることの一つは、東北地方というところが、とりわけ近代の日本にどのように位置づけられてきたか、ということである。

最近読んだ雑誌の記事などから、目に留まったものを記述しておきたい。

まず「放射能が来る!」のAERAだが、この4月4日号に「震災と日本」と題した養老孟司氏と内田樹氏の興味深い対談が掲載されている。その冒頭で「日本辺境論」の著者であり、東北人の血筋を持つ内田氏は「東北人は戊辰戦争での敗北以来ずっと中央政府からひどい目に遭って来た」と口火を切っている。「明治維新から続く冷遇の歴史が東北人のメンタリティー形成には深く関与している。」

彼は東京生まれだが、長く関西に生活している者の視点で、病人や乳幼児は「パニックになる前に避難した方がいい」と勧めたら、東京の人に「経済が停滞する」と批判されたことを挙げ、人の命と経済を同一に論じる愚を告発している。私も病人で関西出身だから、この考えはよくわかる。「東京が下がっても大阪が上がればいい」という考えの方が「バランスがいい。」

それはさておき、近代化の遅れた東北が、もはや中央政府を信じていないという指摘は鋭い。だから「みな言葉少なに現実に向き合っている」と。これが真実かどうかはわからない。ただ、ここで思いつくのは2.26事件は東北の貧困が招いたという指摘をかつてテレビの討論で聞いたことがあることだ。政府を狙った青年将校は東北出身だった。

同じAERAの記事に仙台出身の山折哲雄氏が「日本人は地震列島人として(中略)、自然の脅威、災害と付き合い続けてきた」と書き、それが穏やかな表情の理由であると述べている。このような日本人の自然観が、津波に苛まれてもなお、黙々と生活している人々の精神的な支えであることはその通りだろうと思う。地震後の首都の、「秩序だった帰宅難民」の姿は気味が悪かったが、それとこれは少し違う。ただ私の聞くラジオ番組では、多賀城市を訪れたパーソナリティーが「被災地は復興に向け頑張ろう」などという気持には、まだとてもなれないんだ、と叫んでいた。「報道は真実を伝えていない」と。

このように自然と付き合ってきた日本人は、西洋とは異なるメンタリティを持っていることは重要な指摘だろう。だから、原子力発電などという西洋合理主義のかたまりのようなものを管理することは、(技術的ではなく制度的に)できないのかもしれない。だとしたら、我が国は安直に原子力に頼るこべきではないのかも知れない。

エネルギーの問題は、日本が科学技術立国として存在する上で避けて通れない問題である。このことについては、改めて考えたいと思う。

AERAの4月11日号の巻末で、姜尚中氏は「東北人は近代に対する怨念を抱えながらも、自ら背負うことで克服してきた」と書いている。その中から後藤新平や新渡戸稲造などの逸材が出てきたことを挙げ、「国家の建前に蹂躙され、国家の建前を信じざるを得ない東北の人々こそ、国家に救われなければならない」と結んでいる。

※写真は松島湾(2005年)。内海だったこともあり、ここの被害は少なかったと聞く。

(2011/4/23)

2012年3月19日月曜日

東日本大震災の記録(9)

3月20日(日)

3連休の真ん中。私は朝から大阪・梅田に出かけ、電気量販店などで必要な買い物などをして過ごした。子どもを当地の保育所にしばらく預けるべく保育所探しをしたり、実家のテレビアンテナの工事に立ち会ったりして過ごす。夕方は久しぶりに家族で歓談。

3月21日(祝)

子どもを実家に残し、昼の新幹線で帰京する。案外込んでいて、「ひかり」の指定席に乗った。久しぶりの東京は、節電のせいか暗い。今週も自宅待機の指示が出ていたので、ひきこもった生活をすべくいろいろと買い込んだにも関わらず、出社の指示が出る。

3月22日(火)~25日(金)
久しぶりに出社するとまだ仙台で支援活動中の人もいたが、みな普段通りの様子。仕事も徐々に戻り始める。ただ計画停電の影響について調べる仕事を手伝ったが、この状況はひどい。どの町のどのエリアでいつ停電するかは、Yahoo!の地図などに詳しく表示され、東電のエクセル表よりわかりやすいが、それでもわからない。
東京の大気中の放射線量は、ドイツ、ノルウェー、オーストリアなどの気象庁のページで閲覧できる。それに基づいて雨が降ると影響がでるのではと心配する。案の定、浄水場で放射性セシウムとヨウ素の濃度が高く、乳児への摂取制限が出される。また福島県や茨城県の一部の農産品でも放射性物質の濃度が高い。このため首都圏で静かなパニックとなった。
スーパ-マーケットからミネラル水が消え、納豆やジュース、ヨーグルトなども消えてしまった。このまま行けば、食べるものがなくなるのではないかと思ったりする。政府は風評被害に惑わされず、買占めに走ってはいけない、などというが、そもそも放射線の測定結果や原発の状況を詳しく説明しないで風評被害というのもおかしい。また、ものを買い占めて高く転売することは禁止すべきだが、庶民が防災対策で向こう数日分を買っていくのは、正当な行為であって「買占め」とは言わない。
東京では、言うこととすることの乖離した人が多い。本音と建前をやたらに使い分ける文化だ。もう慣れたと思っていたが、やはり目につく。

新聞やテレビだけでは正確な情報が得られない、ということも今回ははっきりとわかった。雑誌はセンセーショナルな表紙の「AERA」を始めとし多くの週刊誌が震災特集を組み始めた(もっともこのAERAの「放射能が来る!」は、特に不安を煽っているようには思えない。「大丈夫だ!」と根拠も示さずに言いきることも、別の意味で風評被害である!)。私も各種雑誌を買えるものは買い、買えなかったものは図書館で読んだりした。
それからニコニコ動画とユーストリーム。これらは記者会見をそのままライブで放送してくれる。さらに特別な番組も。radikoは全国の放送が特別に聞けるようになった。ラジオ福島はRadio Nikkeiの電波で放送をしていた。
福島原発の事態収束はほど遠い。それどころか、高濃度に汚染された放射性物質がタービン建屋に漏れ出し、簡単に冷却システムが復活するとはとても思えない状況だ。停電と原発と余震、それに来るべき直下型地震におびえる生活がまだまだ続くのだろうか。

※写真は旧鳴瀬町(現在は東松島市)野蒜の集落(2001年)。すぐ前が海岸で、ここでとれるカキは絶品だった。だが今ではどうなっているかわからない。JR仙石線の野蒜駅では、電車が折れ曲がった状態で津波に流された。

2012年3月18日日曜日

東日本大震災の記録(8)

3月19日(土)

震災からはや1週間が経った3連休の初日、京都に住む義妹夫婦が一緒に出かけようということになり、阪急電車で河原町へ向かった。蛇足だが、阪急京都線の特急は今や急行電車並みの停車をした上に、昔に比べると値段も高く、座席も向かい合わせではない。つまりサービスの低下が見られる。何と淡路に止まるのには驚いた!

河原町の交差点で待ち合わせ、二年坂の近くのそば屋で昼食をとった後、清水寺へと向かった。昔何度か行ったお寺だが、久しぶりに訪れてみて、随分きれいに整備されたお寺になっているなあ、と思った。春の京都とはいえ、まだ桜の季節にはわずかに早い。それでも天気がいいせいか多くの人出である。東日本の暗さはここには全くない。

三年坂から引き返し、丸山公園に向かって歩く。土産物屋を物色しながら、のんびりした休日を過ごした。途中に高台寺もあったので、そこにも初めて行ってみた。豊臣秀吉の正室ねねが晩年を過ごしたお寺である。

やがて丸山公園に出て、知恩院の前を祇園に向かって進み、河原町の高島屋で買い物をして帰った。

この日は大きなニュースが目白押しだったが、震災の記事に押されて扱いは比較的小さい。19日付けの日経夕刊は、1面の見出しに「首都圏 我慢の連休」となっている(東京版)。前日には急激な円高に対してG7が協調介入に踏み切った。これは驚きだった。さらに、フランスを始めとするNATO軍はリビアに空爆を行った。原発事故で需要が高まる石油に対し、基地の爆破をカダフィ大佐が示唆したことが引き金になったとラジオは告げていたが本当か、どうか。あと、菅首相が自民党の谷垣総裁に入閣を要請し断られた。そうわかっていて、あえて要請したという見方もあるが、自民党も日和見的で情けない。

この日の時点で死者は7000人を超え、阪神大震災を超えた。まだまだ増えるだろうことは、行方不明者の数の多さから誰でも想像できる。弟の義兄は奥さんが気仙沼出身で家族が被災したそうだが、無事が確認できている。また、保育園の家族に仙台出身の方もいたが、やはり命は無事だったようだ。会社も1万人以上もの社員がいるにも関わらず、家族を含め全員無事だったようだ。また東北の大学で務める元同級生も、無事の連絡が取れた模様。やっとほっとした一日だった。
(2011/4/22)

2012年3月17日土曜日

東日本大震災の記録(7)

2011年3月16日(水)~18日(金)

今回の震災は「想定外の事態」などと言われる。だが、本当にそうだろうか。少なくとも福島の原発に関する限り、これはあてはまらない。そもそも大惨事を想定しなくていいというのなら、あのような僻地に立地する必要はないはずだ。東京から200キロ以上離れたところ(そこはもはや東京電力の管轄ではない)にしか原発を誘致しなかったその事実だけで、大惨事の際の影響を想定していると言えるのではないか。

三陸の津波も、過去の地震で同程度の波が押し寄せた記録があると聞く。であればこれも、想定できなかったというのは言い訳に過ぎない。私は今回の非常事態が、そのような誤魔化しと責任逃れの体質を一気に暴いて見せたことを強調したい。このような空気が蔓延していた最近の日本で、だれが責任をとるのかも明確でない体質は、石原東京都知事をして「天罰だ」と言わしめたのではないか。

そもそもこれほど大きく報道されながら、何が「天災」と「人災」を区別する基準か、を議論する番組にお目にかかったことがない。ルネサンス以降の人間主義(いわゆるヒューマニズム)は科学合理主義を生み出し、自然は人間こそが神に代わって支配することができると考えられた。しかし地震や津波は、まだ十分に解明されているとはいがたく、よって人間がまだ十分に支配をすることはできないでいる。その意味で地震と津波は天災だと思う。

一方、原発は最初から人間が最も高度に制御することを前提とした技術であった。あらゆる事態に備えて原発をコントロールするプランを考えておく必要があり、しかもそれを実際に発動できなければ意味がない。しかしここで、安全に対する考え方が安直に決定され、社会的な正義が通らなかった節がある。密告がばれ、資料が改ざんされた。これは人災であり、しかも技術的な問題と言うよりは運用の問題であろう。

この日は、妻のPCがインターネットに接続される環境を求めて弟の家に入り浸ることとなり、また私が本来東京で予約していた病院の診察をキャンセルして処方箋だけを受け取って、大阪の薬局でそれをもらうなどという雑事と、さらにはこの間の息子と甥の相手を連続して行うことなどといったことで、時間を費やすこととなった。

大阪でも季節外れの雪が舞っていた。会社では社命を受けた社員数名が、長岡経由で仙台入りし、寝ないで復旧作業にあたっていた。私は会社のメールサーバに接続するアプリケーションを携帯電話に入れて持ち歩くように指示されているが、妻はブロードバンド環境が必要だった。しかし我が実家にはADSLによるアクセスしかなく、しかも無線LANの環境もない。

私はこれを改善すべく、無線LANルータやらWiMAXルータやらを買ってはいろいろつないでみたが、なかなかいい案はなかった。かといって普段は、光ケーブルを引くほどの需要もない。

原発で最後に残った4号機にも問題が生じるのはこのころである。

そもそも4号機は地震発生時、定期点検中で問題が生じる可能性はないと私も信じていた。しかし、炉心から取り出した使用済み核燃料が、そのそばにあるプールに保管されているというのである。私はもともと興味などなかった原子力発電所の構造を知ることとなっただけでも驚きだが、それがこのようないい加減な仕組みになっているのかを初めて知ることになる。

この使用済み核燃料は、当然格納容器の外にあるわけだから、冷却に失敗してむき出しになると、放射性物質は直接大気中へ放出されてしまう。従って、より事態は深刻ではないか、と思われた。だが、こう立て続けに原子炉の問題が次々と明らかになると、誰もが麻痺していくのではないか、と思えるほどに、もはやマスメディアも政府発表を伝えるだけの機能停止に陥っていた。

損壊した建屋に対し、ヘリコプターから水をまくのはこのころである。だが、これが何の役にも立ちそうにないことは、誰の目にも明らかだった。そもそもこのような発想で原子力発電所が作られていることに私は驚く。タービン建屋から校放射性物質が漏れていることが第2号機で明らかになるのはもっと後だが、そもそも格納容器で放射能を覆っておきながら、汚染された冷却水がぐるぐる回る時にタービン建屋に循環する、というのは何とも変な話のような気がする。

いろいろな話が、安直にされているような気がしてならない。そしてそれはもう何十年も前から続いてきた負の遺産である。菅政権がこのような過去の遺産を整理する羽目になるのは、何とも皮肉なことである。だが、私たちはそのように蔓延してしまった過去の安直な体質こそ、改めるべきではないか。

いやその前に、過去の安全政策に関わった人々、東京電力から献金を受けた政治家、原発を推進した団体や自治体を公表すべきだ。おりしもみずほ銀行のATMが全面停止のトラブルを起こしていた。これも合併時にシステム統合をいい加減に済ませた人災ではないかと思っている。

※写真はあぶくま洞(2004年)。福島第一原発からまっすぐ西に郡山方面へ向かうと、丁度中間くらいの場所にある。のんびりしたところで、私は晩夏のバーモントを思い出した。

(2011/4/20)

2012年3月16日金曜日

東日本大震災の記録(6)

2011年3月15日(火)

私たちの心配とは裏腹に、息子は久しぶりに過ごす祖父母との日々を満喫していた。小学生の従兄弟が学校の卒業式でお休みとなり、その日を利用して友人たちと「キッザニア」に行くことになっていた。そこで我が5歳の息子も一緒にどうかと誘われた。

キッザニアとは子供向けの遊園地で、その空間では子どもの銀行が発行する通貨が流通し、いろいろな経験ができるということだった。私は自動車を運転して、平日の朝から甥や息子と出かけた。暗く、鉄筋で覆われた空間はFMラジオも入りにくい場所で、しかも騒音が大きく、何とも居心地の悪いところだったが、福島原発のもっとも修羅場となったその日を、私は甲子園球場近くにあるショッピングセンター内のこの施設で過ごす羽目になった。

ラジオはしかしながら、情報をふんだんに与えてはくれていない。政府もおそらくは発表するだけの信頼ある情報に接していなかったためだろうと思う。ということは、発表がなく静かな時ほど事態は進行している、ということである。その懸念は現実のものとなった。何と、2号機で格納容器が破損したというのだ。これで1号機から3号機で深刻な事態となった。

この時点で私はいわゆる「レベル6」くらいではないか、と考えた。破損後も核物質を空中高く舞いあげたチェルノブイリとは異なり、炉心は一応緊急停止している。その結果、残ったエネルギー量は数%以下ではないかと思われた。しかし今後冷却に失敗したら再臨界に達することが懸念されていた。そして、その時間は刻一刻と迫って行った。しかも3つの原子炉で同時並行するありさまは、まるで映画のようだ。

スリーマイル島の事故も私はよく覚えている。しかしこの時は早期に収束した。私は1995年、ペンシルヴェニア州の州都ハリスバーグを旅行したが、そこからほど近いところにスリーマイル島はあった。都市の近くにあるこの原発は、その後何十年にもわたって封鎖される。福島も冷却自体が数年、そして海水を入れた炉は廃止になることは確実で、しかもこの地域の立ち入り制限は、息子が年老いるまで続くだろうと思った。
チェルノブイリ原発の事故が起きたのは、ヨーロッパ旅行を計画していた矢先だった。当時はまだ東西に分かれていたベルリンの西側で、私は「牛乳は飲むな」などと警告がされていたのをよく覚えている。

大宮に住んでいたときには、JCOの臨界事故が起こった。この時も私はかなり心配したものだ。結局、原子力の行政は何の反省をすることもなく、愚行を繰り返していたことになる。東電が原子力に関する報告書を偽装していたのは、さらにそのあとだった。

今回の福島原発の問題は、誰に聞いても「人災」だと言う。それはおそらくそうだろう。同じ原発でも東北電力の女川原発は、ここがより震源に近く、しかも街は津波で壊滅的被害を受けたというのに、中に避難所まであるとのことだ。もし福島もこのように無事だったら、「日本の技術力はやはりすごい」ということになったはずである。だが、神は反原発の方に見方したのだろうか。

妻が実家でも最低限の仕事をこなすことを条件に会社から休みを取って、その週いっぱい再び帰省することになった。停電の影響で新幹線に乗り遅れ、18時過ぎになって乗れたようだ。22時に最寄りの駅へ迎えに行こうとしていたら、突如「緊急地震速報」が流れた。東京でも揺れていた。富士山の直下で大地震が起きたとのことだった。東海道新幹線も止まったが、妻は既に新大阪に着いていて、すでに在来線に乗り換えていた。駅で迎えた彼女は、駅弁も売り切れで何も食べていないということだったので、まだ空いていた餃子の「王将」に連れていき、遅い夕食をとった。安心した気持が食欲を刺激し、大いに食べた。

※下の写真は阪神・淡路大震災の時の神戸港。私が神戸市役所に務める友人を励ましに出かけたのは、震災から1カ月がたった頃だった。

2012年3月15日木曜日

東日本大震災の記録(5)

2011年3月14日(月)

私の上司の一人は、西日本のある電力会社への出向経験がある。地震が発生して1時間ほどたった時、私は彼に「数多くの発電所が被災しているようだが、電気は大丈夫でしょうか?」と訊いてみた。しかしその人は「電力会社の余剰能力はものすごいので大丈夫だよ」とはっきり答えた。この言葉は、間違っているとも言えるし合っているとも言える。なぜなら、停電騒ぎはやはり発生したからであり、しかしながら、この程度で済んでいるのもまた事実なのだから。

14日(月)は震災後初めて迎えるウィークデーで、前夜から計画停電(最初は輪番停電と呼んだ)が開始されるとの総理大臣発表がなされていた。この停電がどのような方式で行われ、どの地域が何時に停電するかは詳細にはわからなかった。ホームページにPDFの資料がアップロードされ、そこに掲載しているとのことだった。

この前代未聞の事態に、影響はないと思われた各鉄道までもが運行を停止する騒ぎになった。自前で発電所を持つJRでさえ、踏切などの一部の電力、さらには駅の電灯などに使う電気は東京電力からのものだったのである。

この日に会社に出勤しようとした我が同僚も、そして妻も、震災の後遺症として翻弄されることになった。思えば、この日がその後にも長く続き、そして今なお終息しない長い日々の始まりだった。実際に停電した地域では、信号も止まり交通事故が起こった。病院や部品メーカーの対応は大変だった。もっとも関西地方は電気の周波数の違いから、「節電する必要はない」という発表がされていた。

妻は何時間もかけて会社へ出かけ、そして帰ってきたようだ。私の同僚も多くが自宅待機となったか、もしくは何時間もかけて出社したものの、すぐに帰宅を余儀なくされた。全員が無理して出社すると、会社も責任を負えなくなるということのほかに、危険分散の意味もあったらしい。私の部署の本部長は会社の隣のホテルに滞在したらしいが、その理由は「放射線が来ても地下道でつながっているから大丈夫」というものであったと聞く。

意図はなかったにせよ停電の混乱が、原発の問題から意識を遠ざける結果となった。だが、原発の問題は収束するどころか、悪化の一途をたどる。前日に冷却停止に陥っていた3号機でも、午前11時に水素爆発が発生し、状況がままならないことになった。後の発表では、この際に放射性物質が拡散し、関東地方でも放射性ヨウ素やセシウムの濃度が高くなったようである。外国人が一斉に逃げだした。だが、関西ではホームセンターの乾電池がなくなる程度で、普通の一日だった。妻には都合がつけば、早めに会社を休んだ方がいいのではないか、と告げた。

(2011/4/18)

2012年3月14日水曜日

東日本大震災の記録(4)

2011年3月13日(日)

久しぶりに関西で迎える朝は、気持ちの良い朝だった。小鳥が鳴き、風が吹き抜けてゆく。まだ初春とはいえ、冬ではない。このような季節感を感じるのも、個人や社会に不安が少ないからだ。

今回の震災は最悪の事態を招いたことは疑う余地がないが、それでもいくつかの幸運があったこともまた事実である。それは次のようなものだ。

1)春休みに入るときだったこと。学校が休校になっても影響は少なく、気温の上昇に伴い電力需要は低下することが見込まれた。疫病の発生が最小限に抑えられた。しかも今年の春は大変雨が少なく、被災地域の作業や放射性物質の地上への拡散が抑えられた。

2)首都圏の直撃が回避されたこと。このため首都機能は保たれ、人々も不安に駆られながらも辛うじて平静さを保っている。少なくとも今のところは。

3)女川を始めとするその他の原発は、震源地に近いものもあるにもかかわらず、安全に冷却停止状態となったこと。そして福島第一原発でも実に幸運なことに、水素爆発までおきながら、辛うじて格納容器の中に大部分の高濃度放射性物質が留まっていること。

民主党、菅直人政権に関する評価はこのブログの趣旨ではない。だが、私は以下のことを指摘しておきたい。少なくとも初動は、阪神淡路の経験もあってか、早かったと思う。そして気象庁は緊急地震速報を始めとして、対応にミスはなかったと思われる。原発に関しては、いろいろと言われているが、どちらかと言うと反原発派に属する首相だったことは貴重である。電力会社から献金を受けていた首相なら、このような事態に対処できただろうか。東電の本社に乗り込んで対応 を叱り飛ばすこともなかっただろう。

朝の新聞に目を通して、愕然とした。3号機でも炉心の冷却ができないとの見出しが躍っていたからである。写真は朝日新聞(大阪版)の一面で、スポーツ新聞を除けばこれ以上ないような大きな文字で、「3号機も冷却不全」となっている。しかも3号機は、1号機より大きな出力を持ち、その一部は何とMOX燃料で ある(このことはあとで知った)。事態は1号機より深刻となった。


週末にかけて、平静さを取り戻すのに少しの時間的猶予があったことも幸運な要素の1つだった。私の勤める会社は、携帯電話で緊急時の安否確認を行い、訓練 を除けばその最初の利用ケースとなった。さらに総務部は震災用のホームページを立ち上げ、全社員がそこへアクセスすることになった。すべての指示はそこから出る。だが、関西にいる私は、日曜日の今日中に帰京しなければ明日からの勤務はできない。

妻が帰ると言い出した。私も3号機の問題が出なければ、子どもを実家に預けてそうしたかもしれない。だが、病気を持つ私の仕事は大したものではなく、こう いうときに足手まといになることを避けた方がよさそうだった。私は即座に電子メールで、上司に1週間の休暇を願い出た。上司は(この後仙台へ物資輸送班と して活躍されるのだが)、快く私の申し出を承認してくれた。

妻は米国人を社長とする外資系の会社である。しかし、この社長は東京から避難することなく、会社を運営しつづけた。彼の兄が原子力の専門家だそうで、 200キロ離れた東京に被害が及ぶことはないだろうという予測(やや楽観的だが)に基づくものだ。だが、彼の家族はシンガポールに滞在していたようだ。

妻は日曜夜の新幹線で帰京した。その前に京都で妹に会い、東京に着いたのは夜遅くだったようだ。

(2011/4/17)

2012年3月13日火曜日

東日本大震災の記録(3)

2011年3月12日(土)

翌日は静かな朝を迎えた。華やかさのない正月のように、街はひっそりとしていて、電車は動いていない。東京の混乱は続いていたと思われるが、私の住む家の周りは至って静かだった。

土曜日の我が家の日課は、5歳の息子をスイミング・スクールに連れていくことである。まさかやっていないだろうと思い電話をしたら、通常通りだという。都営地下鉄はダイヤを減らしながらも動いているようだ。それに何と言っても息子はとても元気である。つまりは休ませる理由は何もない(ちなみにJRは止まっ ていた。これは12日がダイヤ改正の日だったことと関係があるように想像しているが本当のところはよくわからない)。

妻は花粉症がひどく耳鼻科に行くという。こちらも医院長がひとりで対応していて、やはり診療を続けていた。そこで私は息子を連れて地下鉄に乗り、いつも通り水泳教室に出かけた。もちろんその間、ラジオを離さなかった。

NHKのように型通りの放送を繰り返すわけではない民放はどこも特別編成の番組を流していた。私は息子が練習している間中、鉄筋の建物内でも受信できるFM放送(確か東京FMだったか)を聞いていた。話が原発の問題に及んだ。圧力が高まり、ベントをするという話であった。放射性物質を大気中へ逃がす ことを意味するこのベントという作業は、うまくいったのかどうかもわからないまま、話は京都大学の学者へのインタビューとなった。おそらくその先生は、京大原子炉研究所の先生だった(あとでわかったのは、彼は反原発派の先生である)。彼はとんでもない事態が進行中である、ということを繰り返した。東京と福 島は200キロ以上離れているが、原子炉が大爆発を起こす最悪の事態となれば、影響が懸念されるというのである。

身の毛もよだつような話は、しかし今となっても、誇張ではなかったと思う。なぜならこの後、おそらく15日くらいまで、東京電力と原子力安全保安院はなす すべを失い、ただ見守るしかなかった、というのが定説である。後になればなるほど、この時の心配はむしろ正しかったと思われる。

私はふと思いついた。私のマンションから見える東海道新幹線だけは朝から全く平常運転だった。東京の他の路線はほとんど動いていない。昨日帰宅できず、会社で夜を明かした人もたくさんいる。私は耳鼻科から帰った妻に、打診してみた。もし今できることがあるとすれば、それはパニックになる前に東京を脱出する ことだ、と。しかも我々には帰ることができる実家が関西にある。もともと春休みを利用して1週間程度子どもと帰る予定をしていたので、それを少し早めてはどうか、と。

妻は保育園の母親たちと連絡を取り合っていて、その人たちの間でも日本政府が原子力の事故に対処できていないことを、主に外国のニュースを参考に騒ぎ始めていた。実際に外国人が次々と脱出するのは、もう少し後になってからだが、私は12日の昼の時点で関西行きを計画した。妻も私も、どんな批判を受けよう と、身を守ることを優先することにした。週末で仕事がないこともラッキーだった。家に帰ると、ものすごいスピードで荷支度を始めた。

大阪にいる弟は電気工学を専攻していたので(原子力ではないが)、一応はと思い電話して意見を聞いてみた。しかし彼は「寝ているしかないね」などと悠長な ことを言い始め、「まあ避難地域が拡大するようなことがあれば考える、という感じでいいんじゃないの?」などとのたまった。

だが、それは現実のものとなった。テレビをつけると避難地域が拡大することを報じていた。いよいよ来るべき時が来た、と思った。

その時だった。東京電力福島第一原発の1号機を映していたテレビの画面に白煙が映った!爆発だった!私は20時に予約した「のぞみ」の指定席を18時に変更するため、エキスプレス予約にアクセスした。

残った食材が無駄になるからと、妻が猛スピードでお弁当を作り始め、私と息子は最低1週間は過ごす予定で荷物をまとめた。戸締りをして家を出た。幸いタク シーが止まっていて、品川駅まで急いだ。すべりこみで乗った新幹線は、しかしかなり空いており、同じような子ども連れが少しいる他は気持ちが悪いくらいに 静かだった。

妻がスマートフォンで得た情報では、同じ保育園に通う息子の同級生のある家族は実家の三重に向かい、またある家族は沖縄へ避難したようだ。私は新幹線内で聞こえるNHKのラジオ第一放送を聞いていた。

19時半頃になって名古屋を過ぎるころ、官房長官の記者会見があり、この爆発が原子炉そのものの爆発ではなく、建屋における水素爆発であることを冷静かつ慎重に告げた。

この時ほど大きく胸をなでおろしたことはない。最悪の事態はひとまず避けられた。しかしなぜ建屋に水素が充満しているかの説明はないままだった。水素は燃料棒の被覆が溶けないと出てこないといわれている。あるいは水蒸気が超高温に熱せられた場合である。そしてそれはいずれも圧力容器内、少なくとも格納容器内の話ではないか。この時点で炉心が解け、それが外部へ出ていることが明白だった。

息子の保育園の親に東京電力の社員がいた。彼は柏崎の原発の再稼働を成し遂げて、家族を連れて2月に米国に赴任したばかりだった。しかしこのプロジェクトは頓挫するだろう。人生の転機というのはいつどのような形で訪れるかわからない。地震や津波で家族や財産を失った多くの人たち。そして原子力発電所の周りに住んでいて、避難を余儀なくされている人たち。数えきれないくらい多くの人の人生が、この数日で変わった。もし日本経済がこのまま沈んでいくことになれば、私の残りの人生もその影響を受けることは確かだ。そのような中でどこに住み、どこで子どもを育てればいいのか。そういうことも考えながら、あっという 間に新幹線は新大阪に着いた。

大阪に着いた時の安堵感は、ちょっとしたものだった。何事もないように大阪は私たちを迎えた。18年前の阪神・淡路大震災の時は、この逆だったな、と思っ た。様々なデマや噂、例えば天皇が京都に避難しただの、千葉の石油基地のか火災で、明日にも東京に灰の雨が降る、などといったことが丸で他人事のように感 じられた。


結局私は、自分の判断で脱出した。しかし、それは正しかったと思っている。なぜなら、繰り返し言うように、この間の政府はほとんど原発事故に対し、正しい行動をとっていないからだ(たとえば、海水の注入を始めるタイミングは遅すぎた)。私は東京電力と言う会社、そして日本政府がこのような程度の対応しかできないことを、ほとんど動物的勘で理解していたと言ってよい。何かあるたびにニュースを聞くことを趣味としてきた私にとって、今回の報道の裏に透けて見える「空気」には、このような恐ろしいものが感じられた。あるいは、私がすでに大病を患い、放射能や病気についてかなり神経質であることも影響しているだろう。だが、同じ行動を多くの日本人は取らなかった。私は不思議でならない。

※写真は初めて東北に旅行した際に、常磐線から太平洋を映したもの。北茨城市付近と思われる(1983年3月)。

(2011/4/16)

2012年3月12日月曜日

東日本大震災の記録(2)

2011年3月11日(木) 夕方~夜

会社のビルを出て西新宿の街に出てみると、歩いている人が多いものの、普通にパチンコ屋はやっているし、居酒屋は呼び込みをしているし、一見普段とは違わ ない光景だった。が、地下鉄の改札へ下りていくと多くの人が座り込んでいて、電車の再開の目処は立たないとのアナウンスが流れている。東京中の電車が止 まっていた。私は、田町までの徒歩を覚悟していたので、再び地上へ出て明治通りを渋谷方向に歩きだした。

道ははげしく渋滞し、歩道は人であふれていたが、整然と歩いている光景は変な感じだった。千駄ヶ谷から神宮球場の前を通って外苑前に向かうあたりは交通量もまばらで、時折寒い風が吹き抜けてゆく。イヤホンからラジオを遮って携帯電話が着信し、初めて妻と話すことができた。

この日は実は東京タワーも点灯していた。乃木坂で日が暮れ、六本木ヒルズの下を通って麻布十番に差し掛かったところで、ラジオの緊急ニュースは福島原発 (最初は第二が先だったような気がする)において冷却機能が失われ、総理大臣が避難の命令を下すとの情報が入った。私はただならぬことが生じていると思っ た。

保育園にて子どもを確保し、自転車でマンションに帰ったが、エレベータが一基しか動いておらず、ガスも点検中で止まったままだった。部屋はCDラックが倒 れた程度で損傷はなく、私はガスが復旧するのを待ってお風呂を入れ、テレビを見ながら食事を取り、そして妻の帰りを待った。

津波の被害はやはりテレビで見るとものすごいものがあった。しかし深夜に帰宅した妻の最初の言葉は、原発における炉心溶融についてだった。海 外のメディアはこの時点で、原発の事故がメルトダウンの可能性のあることを伝えていた。死者の数の増え方は、阪神大震災の3倍程度だと直感した。最終的な死者は2万人を超えると思った。もし、原子力発電の機能停止が続けば、東京が放射性物質に汚染される可能性がある。私の高校の同窓会のMLで、お互い無事を確 認しあった際、福島第一原発に温度計を納入している同級生がいたことがわかった。

電話をもらった彼によれば、放射性物質の拡散は風向きによるとのことだった。3月の東京は、冬型では北西の風が、春型では南風が吹く。これは大変ラッキー なことだと思った。もし避難命令が出て、その区域が拡大することになると、これは一大事だと思った。けれども、何も情報がない中で最初の1日が終わろうと していた。お風呂の水をそのまま抜かずに、私はラジオを耳元において熟睡した。

(2011/4/15)

2012年3月11日日曜日

東日本大震災の記録(1)

昨年、平成23年3月11日の午後2時46分に、三陸沖などを震源とする大規模な地震が発生し、東京にいた私もそれまでに感じたことのない揺れを経験した。東京では停電やビルの倒壊などはほとんどなく、鉄道が止まっただけであった。私は新宿のオフィスから港区の自宅に歩きながら帰る途中、ずっとラジオを聞き続けていた。そしてその地震は東北地方を中心に壊滅的な津波をもたらし、さらにその夜には福島第1原発で信じられないようなメルトダウン事故へと発展していった。

このあとの数週間は、まさに悪夢の連続だったが、そのようななかで何を考え行動していたかを、私は地震発生から1ヶ月ほどが過ぎた頃から記録を始めた。その内容をブログ(当時)に掲載したところ、それまで誰も見向きもしなかったであろう私のブログへのアクセス記録は、それまでにない高い数字を記録した。ブログは引っ越したので、丁度あれから1年を迎える今日からしばらくは、その記録をそのまま転載していこうと思う。

この地震と事故は、いまだに収束していないばかりか、それまでにない多くの問題点を突きつけている。今でも多くのチャンネルでテレビは特別番組を続けている。だが、被災地の絆の強さを強調することと、大規模地震のメカニズムを報道するだけで、そこに重要な視点が欠けていることを私は遺憾に思う。それは社会のシステムに対する批判的な視点である。

今でも古い共同体の残っている東北地方の方々の我慢強さには敬服するが、ではひとりひとりの思いや気持ちだけでこの問題が解決するかといえば、そう簡単なわけではない。良い社会を実現するためには、個々人の気持ちの持ちようだけでは不十分である。その思いを実現する政治や地域共同体の在り方こそが、重要な鍵である。あくまで理性的、現実的にそのことを指摘することもマスメディアの役目ではないか。いまだに復興の進まない現実を見ていると、そのようなドラマ仕立ての美談や映像は、むなしく思える。重要な視点を欠いている現代の日本社会の、誰もが気づかぬふりをしているか、あるいは本当に気づいていない問題点こそ、我々が地震から学ぶ教訓ではないかと思う。

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このブログを約1カ月ぶりに再開するにあたり、何から書き始めようかと思い悩んだ挙句、やはり今の気分ではこのひと月の記録をしておきたい、という結論に 達した。ブログは日記であるから、本来はそのような記録こそ残すのが趣旨にかなうのだが、今回ほどその思いを強くすることはない。それだけこの震災の被害 は私の心を動かし、そしていろいろなことを考えた。

平成23年3月11日(金) 新宿の高層ビルの上層階で働いていた私は、トイレから戻る途中にエレベータホールを過ぎたところでひどい揺れに見舞われた。 最初から大きな地震だとは思ったが、それは次第に大きくなり、やがては立っていられなくなった。それまで経験したことのない大きな揺れだったが、物が落ち たり電気が消えることもなく、パソコンも点いたままだったので、どこか遠くの地震ではないかと思った。

揺れが収まらず、次第に座っているのも困難になったため、机の下に隠れながら、家族のことを思った。子どもが保育園で無事だろうかと考えた。すぐ近くに東京都庁が見え、その下では多くの人が集まっているようだったが、バスや自動車は動いており、高速道路も普通だった。見る限り火事らしいものもなく、雲の向こうに多摩丘陵まで見渡せる初春の光景。いつもとかわらない週末の景色だった。

私はこういうときのために、携帯用のトランジスタラジオを持ち歩いている。私はとっさにラジオを取り出し、FM放送に合わせた。NHKが大津波警報を伝え ていた。震源が東北であることもわかった。地震の最中のことである。揺れが収まってから電話で家族に連絡を取ろうとしたが、やはりつながらなかった。その ような中で、インターネットのメールは可能であった。妻の携帯電話にメールした。それから関西の実家に会社の固定電話から電話をかけた。当社は大阪まで専 用線なので、一発でかかった。しかし母親は地震のことを知らなかった。やがて妻から、すでに会社を出て歩いて帰宅中とのメールが来た。地震発生からわずか 1時間もたたないうちに、子どもを含め家族の無事が確認できた。

電車は動いておらず、会社も混乱状態だったが、保守を担当しているコンピュータ・システムに異常はなかった。私の仕事の帰宅時間は16時40分であった。 この時間を過ぎて特に指示がなければ、そのまま帰宅しようと思った。インターネットで読売新聞のサイトが表示された。大きな地震で、電車も止まっているこ とも確認できた。妻は吉祥寺から歩いているが、自宅到着は深夜になるだろうと思った。子どもを保育園に迎えるには、今歩きだしても夜になる。

私は上司に許諾を得て、いそいそとオフィスをあとにした。ビルを階段で下りるだけで足がガタガタになった。非常階段のところどころに、はがれた壁が散乱しており、やはりこれは大変だと思った。17時になって、私はFMラジオを聞きながら、会社を後にした(つづく)。

(2011/4/13)

2012年3月10日土曜日

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」

ベートーヴェンがその前の交響曲から10年以上の歳月を隔てて完成させた最後の交響曲第9番は、あらゆる意味で異例な、異常な作品だと思う。単に4人の独唱と合唱を必要とする、というでけでなく、長大な緩徐楽章が第3楽章に存在することや、それまでの音楽を「否定」して神々の歓喜を歌い上げる動機、太鼓やシンバル、ティンパニなどの行進曲や、壮絶なまでに終わるエンディングなど、今ではそういう音楽として当たり前のように繰り返し聞いているが、やはり当時の音楽の存在に比べると、とても理解できる範囲を超えていたと思われる。

そういう音楽だから、おろらく演奏も困難を極めるのではないかと想像できるし、はたして「いい演奏」などという概念で論じていいものかどうか、という疑問も湧く。どのような演奏であっても「第9」なら「それもありか」と思わせるものがある。バーンスタインがベルリンの壁の崩壊後に、各地のオーケストラを集めて指揮した演奏も、戦後初のバイロイト音楽祭でのフルトヴェングラーのライヴも、そして「一万人の第九」もミュンヘン五輪会場での第九も、みなそれは、ベートーヴェンの「第九」だから許される表現ではないか、と思う。

サントリー・ホールで聞いたサイモン・ラトルの第九(ウィーン・フィル)も、それまでの各交響曲と異なり、この曲だけは「何でもアリ」の様相を呈していた。合唱が少し乱れようと、音楽は前に進み、高く歌い上げ、そして歓喜は混乱してもこだましていた。それでいいのだ、という指揮ぶりだった。

今はチャールズ・マッケラスの指揮するロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聞きながら、この文章を書いている。 1991年の演奏だからもう20年も前のものだが、ここで表現されている、素人的とでも思えるような迫真の演奏は、早くも古楽器奏法を取り入れた斬新な演奏である。各楽章は速く、キビキビとしている。それまでに聞いてきた、いわゆる普通の第9とは少し異なる演奏だが、これが今の主流となっている。この演奏が登場した頃は、まだ丁度過渡期にあった。この演奏はそのような先駆けだったと思う。

顕著なのは第1楽章の途中からと、第3楽章の速度、それに第4楽章の全般である。私は何も古い演奏がつまらないと言っているのではない。これらの新しい演奏が、それまでにないベートーヴェン像を創りだしたことのうれしさと、それを可能とした原曲の奥の深さについてである。そしてもはやフルトヴェングラーやバーンスタインだけでない幅の視野で、改めて第9の魅力とは何かと考えてみると、それまで見えて来なかったものが見えてくるような気もするのだ。

第1楽章フーガの重さや、コーダ部分の止まるような重いメロディーから沸き上がるものといった古い上着を脱ぎ捨てる。するとそこにはメリハリの聞いた推進力に満ちたベートーヴェンらしい音楽がやはり存在する。それは第2楽章の素晴らしいスケルツォにも受け継がれ、第3楽章に至ってもスピードは落ちるどころかさらに早くなる・・・。

第2番、第6番、それに第7番のそれぞれの第2楽章で感じたことが、この第3楽章にも言える。編成を少し減らし、ビブラートを抑えて(その結果早くなる)演奏される音楽からは、それまでに聞いたことのない清涼な、しかしより真摯にも感じられる集中力のある音楽が流れる。かつて止まるように遅い音楽に涙を流したくなるようなカンタービレの世界とはまた違ったものである。

第4楽章の「歓喜の歌」は晩年のベートーヴェンが到達した世界観を表している。市民革命やナポレオンによる戦争で混乱していた時代、もはやキリスト的な神は失われたかに見えただろう。ベートーヴェンはそれらを超越する存在として、世界の彼方に神はいると説いたシラーの詩に自らの芸術家としての総括を見出した。

Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen.
「兄弟よ、この星空の上に、ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない」

この曲では、それまでと異なり崇高にも荒々しく幕を閉じる。この音楽もあとでは、ベートーヴェンは語るものをなくしてしまったのだろうか。だが、どれほど語っても語り尽くせないほどの音楽を、9曲の交響曲に託した孤独な作曲家は、その生涯を第9の完成後3年で閉じる。

そして私もまたこの音楽の前では、語るものを持ち得ない。多くの分析や評論はいくらでもある。好きな演奏というのもある。だが、それらを語ったところで第9の前では、まあどうでもよいことのように思えてくる。

2012年3月9日金曜日

ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調作品93

誰にも献呈されなかった8番目の交響曲は、古典に回帰したような作品である。だがこの曲には序奏がなく、いきなり第1主題がアレグロで始まる。その勢いの良さは、この曲を始めて聞く人を釘付けにするだろう。わずか10分あまりの快速急行だが、いつものようにベートーヴェンらしい音楽である。第7番と第9の間に埋もれたような小さな曲でも、こんなに立派なものか、最初に聞いたときはそう思った。

特徴的な部分は第2楽章で、これはいわゆる緩徐楽章ではない。メトロノームを思わせるリズムに乗って可愛らしくおどけたように弦楽器が流れる。平凡な演奏で聞くと飽きるが、いい演奏で聞くと非常に楽しい。速めのテンポが心地よい。

第3楽章の中間部で、ホルンと木管楽器が戯れる部分がある。ハイドンやモーツァルトにも似たような部分が多く、それ自体は珍しくはない。だがこれはベートーヴェンが書いたメヌエットである。なかなか気づかないがここは三拍子のリズムである。そしてこれは保養地に向かうベートーヴェンが、なぜか急いで近道を通った時に、郵便馬車に揺られていったというシーンがあって、「不滅の恋」とかいった映画の印象的なシーンだった。その郵便馬車のホルン(ポストホルン)がこの音楽のヒントになった、というのである。私はこのトリオが大好きだ。もっともベートーヴェンを感じるといっていいかも知れない。

終楽章の速さは議論の的だが、終わりそうでなかなか終わらないコーダも楽しい。ベートーヴェンの終わり方は、この曲が一番しつこいかも知れない。曲が小規模なだけに、特にそう感じる。全体に明るい雰囲気で、私は第2番の次によく聞く曲である。

お気に入りの演奏はトマス・ダウスゴーがスウェーデン室内管弦楽団を指揮した全集の中の一枚。小規模編成で、たたきつけるような強いパンチ力のある演奏が新鮮だ。これもやはり新しいベートーヴェンの演奏と言えるだろう。このディスクはSIMAXというノルウェーの会社からリリースされているため、日本ではほとんど評判になっていない。だがここで聞ける演奏は、最高のベートーヴェンの演奏の1つである。この指揮者は一度実際にきいてみたいと思っている。なおこのCDには、他に「シュテファン王」、「アテネの廃墟」、歌劇「フィデリオ」序曲、序曲「命名祝日」、それに第7番と同時に初演された「ウェリントンの勝利」が収められている。

2012年3月8日木曜日

ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92

第5番「運命」(と当時は言った)、第6番「田園」、第3番「英雄」、そして第9「合唱付き」と聞いてきた私が次に聞いた曲が第7番だった。この第7番にはタイトルがない。それでどんな曲なのかは聞く人に委ねられる。しかしこれほどにまで見事な、興奮させられる曲だとは知らなかった。いつどの演奏でそう思ったかは思い出せないが、気がついてみると毎日のように第7番を聞いていた。

第1楽章には序奏が復活し、しかもそれなりに長い。木管のパートが呼応しあうように音を沈め、やがてフルートが印象的な第1主題を奏でると、いよいよ舞踏会の幕開きである。ワーグナーをして「舞踏の権化」と言わしめたダンスのリズムは、この第1楽章で独特なステップのアクセントを印象に残す。演奏は早くも乗ってくる。全体を通して大変完成度が高く、これはもう素人ながら、この他の結果は有り得ないよ、と思うくらいなので、体を揺すって音楽に同化する。馬が走るような感じで明るく、陽気に満ちている。

第2楽章は過去の偉大な指揮者で聞くと、厳かで静かな中に滔々と響く弦楽器が、あるときは語りかけ、すすり泣き、脳裏に迫る。だが私はそのような聞き方を最近は好まない。ここは早めに、さっと流して欲しいし、そのような音楽が主流である。あるとき、その清々しさ、新鮮さが気に入って以来、もう後戻りはできない(と今は思っている)。だがそのような演奏で聞いても、この第2楽章の印象は他の音楽を一等引き抜いている。そう言えばここの音楽がポピュラーに編曲されて歌われたり、映画に使われたりすることが多いのも、やはり様々なシーンで使えてしかも印象的だからだろう。

第3楽章のスケルツォは、確かに円熟の曲だがやや長い。しかも最近はすべての繰り返しを行うから、やたら長い。それで最近は速い演奏が多くなった。特にA-B-A-B-AのBの部分は、かつては大上段に構えて悠然と演奏されいたが、今ではフレーズを一気に流す。そうすると少し骨だけの音楽になってしまう。

けれども第4楽章の興奮の坩堝に入ると、そんなことは関係ない。最初の出だしで間をおいて、sとはアレグロで一気になだれ込む。ここの音楽は見事という他はない。弦楽器が第1バイオリン、第2バイオリン、ヴィオラ、チェロの順に同じメロディーを演奏し合う掛け合いの場面では、それがクレッシェンドを伴って天空馬が駆けるがごとくである。終わるように見せかけて、一旦静かになり、さらに早くなって怒涛の如く終わる。大喝采が待っている。

私のお気に入りの演奏は沢山あるが、実はあまり聞くことがない。昔聞き過ぎたせいか、最近では第7番を敢えて聞く機会も随分減った。そのような中で、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共にローマを訪問した際にサンタ・チェチーリア音楽院で演奏したベートーヴェン・チクルスのライブ映像が素晴らしい。この時アバドは病から復帰し、やつれた姿で我々を驚かせた。だが演奏は集中力があって力強く、しかも楽しさに満ち溢れている。どの交響曲もいいが、特に第7番はベルリン・フィルが乗りに乗っている。セカンド・コンサートマスターの安永徹が、第1楽章で「これは行ける!」とでも思ったのか目配せをするあたりも映っている。

総じてベルリン・フィルの技量と迫真の演奏、それを楽しそうに指揮するアバドの姿が印象的だが、DVDはそのアバドのみを固定カメラで映すマルチ・アングル機能と、インタビュー映像まで付いている。アバドはこの病気を境に何かが変わったような印象を受ける。音楽を楽しむことの素敵な雰囲気が、映像から感じられる素晴らしいベートーヴェン全集である。

2012年3月7日水曜日

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」

ハ短調の交響曲と「田園」を並行して作曲し、初演までしたベートーヴェンは、流行の最先端を行くマルチ作曲家だった。絶対音楽としての完璧な完成形と、それに代わるロマンチックな音楽への道筋をつける「田園」。この対照的な2つの大作が、同じ時期に同じ作曲家によって作られたことは、ベートーヴェンの多才さと同時に、流行への敏感な対応力も意味している。

ただ、しばしば「標題音楽」の元祖とされるベートーヴェンの「田園交響曲」は、確かに親しみやすい自然描写の解説が付けられているが、単純な自然の描写音楽ではない。あくまでそれを感じる人間本来の気持ちや思考を音で表現したものということである。第2楽章の小鳥の描写でさえ、既に聴力を失いつつあった音楽家の想像力と、自然への憧れを描いている、とさえ言えるのではと思う。

第1楽章の副題は「田舎に着いた時の楽しい気持ち」。このメロディーは第5番のような派手さと衝撃はないが、一度聞くと耳からは離れないようなものである。流れるメロディーも、ウィーンの自然のようになだらかに起伏を繰り返しながら進んでいく。私はフルトヴェングラーの演奏が忘れられず、遅い演奏が好みだったが、最近は速い演奏の方をよく聞く。

第2楽章の「小川のほとりの風景」。実は「田園」の最大の聞き所は、この第2楽章である。この牧歌的で平和なメロディーを、中学生だった私はどれほど愛したことか。ある日初夏の松本を訪れたことがあった。梓川の広い川岸に座って、まだ雪を頂く遠くの北アルプスを眺めながら、私はこの音楽の幸福な気分にぴったりだと思ったことがある。ここもやはり快速の音楽が流行りだが、一昔前の古風な歌うような演奏も、またいい。

第3楽章「田舎の人の楽しい集い」。スケルツォだが、初めて聞いたときはせっかちな曲で楽しめなかった。だがホルンや木管楽器が入れ替わり立ち代り楽しいメロディーを弾くので、大変楽しい音楽である。

ここから第4楽章の「嵐」は続く。雲行きが怪しくなり始め、急に雷が鳴って突風が吹き出す。何と見事な嵐の情景かと思う。そして静かに雷雨が去っていった後は、第5楽章「牧歌。嵐の後の感謝の気持ち」が続く。私はここの導入部分が「田園」の中でもっとも好きな部分だ。ドイツでも嵐の後は感謝をするものなのか、と最初は思った。田舎に着いた時からのこれまでの歌とはまた違った晴れやかさがここにはある。「嵐」を除けば、合計4種類の「幸福なメロディー」に出会うことができる。それぞれが異なっている趣だが、全体を通してストーリーが成立し、丸で絵に描いたように続いていくところが何とも見事である。ベートーヴェンは、激しく衝動的な音楽だけを作曲したわけではない、ということが端的にわかる作品であると思う。

今のお気に入りは、ロジャー・ノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団を演奏した彼の2度目のベートーヴェン全集からの一枚。ビブラートなしの快速演奏だが、流れるようですっきりと美しい。第4楽章では上段一列に並んだバスが一斉に鳴り響き、迫力満点の嵐のシーンとなるのは聞き応えがある。200年前の曲でも、こんなに新鮮に聞こえるのかとの思いを新たにした。

2012年3月6日火曜日

ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67

エロイカの直後から作曲され、「田園」と同時に初演されたハ短調の交響曲は、あらゆるクラシック音楽の中でも最も有名な作品である。このハ短調交響曲は、序奏もなくいきなり4つの音からなる第1主題で開始される。ダダダダーン、すなわち「運命はこのように扉を叩く」と語ったとか言われる逸話を、小学生の私は信じていた。そして「困難を克服して歓喜に至る」というベートーヴェンのモチーフをこの音楽に置き換えて解釈していたりした。その解釈としてフルトヴェングラーとトスカニーニのどちらが正しいか、あるいはまたワルターか・・・。

そのような昔の聴き方はいつの間にか流行らなくなり、今では「ジャジャジャジャーン」という言葉も使わなくなった。ベートーヴェンの音楽も相対的に価値が下がった(というよりバブルがはじけた)という感じだが、ではそれに代わってマーラーの音楽を小学生が口ずさむようになったとは聞かない。モーツァルトやシューベルトも聞かない。今の人々はどのような音楽を聞いているのか、私は皆目わからない。

それでも自分にはベートーヴェンがある。他の誰もが聞かなくなっても、ベートーヴェンのCDを持っていれば終生困ることはないだろうとも思う。

第5番はそういうわけで、私がもっとも最初に聞き、馴染んだ交響曲である。初めて通して最後まで聞いた時の感激は忘れることができない。第2楽章の歌うようなメロディー、第3楽章の壮烈なフーガ、そしてピアニッシモからクライマックスに至る第4楽章!音楽が続いて演奏されるのがまた何とも新鮮だった。第4楽章がさらに繰り返される演奏に初めて接した時(それはレナード・バーンスタインのLPレコードだった)には、おおここがもう一度聞けるのか、と心底感激したし、いつ終わるのかわからないような長いコーダも、偉大な曲はこうやっておわるのか、と感慨ひとしおだったのである。

ドミソファミレドレド・・・とハ長調に転調した第4楽章は、こんなにも簡単なメロディーだ。この曲は全体を通して一切無駄のない骨格を持ち、それが完璧な造形美を形成する。ある本に「古典音楽の最終型」と書かれていたが、まさにそういう音楽である。だからどんな演奏で聞いても、ベートーヴェンの歌声に歓喜し、果てしなく続くエネルギーの湧出に狂喜する。私がこの曲のLPを貸した友人たちはみな、クラシック音楽ファンになった。そしてもう何度聞いたか知れないこの曲を、たまに何かの拍子に聞くと、そうだ、そういう曲だったのだ、と思いを新たにする。

ハ短調の交響曲には、そういう何か魂の根源的な部分に訴えかけるものを持っている。それが形式を重視した古典派の音楽としてなされてしまった以上、それ以降の音楽はこれを超えることが困難となった。ベートーヴェン自身がこの曲を「田園」と並行して作曲し初演したことは、興味深い。古典派の到達点と、標題音楽のさきがけとなった曲は、随分と趣が異なるが、表裏一体である。そのどちらの面においても画期的な作品を一緒に書いたベートーヴェンは、やはり大した才能と、そして野心の持ち主だったのだろう。

ケント・ナガノがモントリオール交響楽団でこの曲を指揮した時、「フランス以上にフランス的」なオーケストラにベートーヴェンの演奏経験を持つプレーヤーはほとんどいなかったらしい。だが新しく録音されたハ短調は、見事な推進力と切れの良い味わいでなかなか惹きつける名演と言える。「エグモント」などと同時にカップリングされ、朗読が挿入されたり、そこにやや政治的な意味づけをする意図はとても感心できないが、音楽そのものはなかなかの充実度である。最近第9が出て評判のようだが、最初にリリースされた第5番が最も魅力的に思える。

2012年3月5日月曜日

ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60

不気味な感じで始まる交響曲第4番では、再び長めの序奏が復活している。しかし主題に入るといきなり明るく推進力を持っており、その対照的な雰囲気がこの交響曲の特徴ではないかと思う。はじめて聞いたときは、何か火山が爆発するような感じがしたものだ。でもそのアレグロの第1楽章はやはりベートーヴェンらしい勢いと強弱の変化、ティンパニの効果と駆けまわる木管楽器など、やはりどこをどう聞いても素晴らしいものだ。

この音楽を語る際に常に引用される言葉は、シューマンが残した含蓄のある表現「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」というものであろう。そして、たいていこの表現は、わかるような気がするが、適切ではない、第4番を過小評価している、と続く。けれども第1楽章のコーダ部分の幸福感と、第2楽章のまるで春の小道を散歩するかのような浮き浮きした気分は、やはり両隣の交響曲にはない雰囲気である。しかもアポロン的な美しさが横溢しているさまは、ギリシャを引き合いに出すに相応しい。

この第2楽章の幸福感を感じられる演奏が、私のこの曲のまず聞き方のポイントと考えている。指示はアダージョだが、私はここを少し小走りに駆け抜けるのが好きだ。ベートーヴェンの恋愛感情がストレートに表現されているという人もいるが、それは木管楽器が時おりソロ的な部分を弾く時に感じる。何となく憂いを含んだ淋しさは、どことなくロマン派の音楽を思わせる。

比較的長い第2楽章が終わり、第3楽章に入ると面白いリズム効果が楽しめる。スケルツォだが、これまでの第3番までの第3楽章よりも一段風格は上だ。全交響曲中もっとも規模の小さい編成だが、ここの第4楽章はおおらかな音楽なのだろう。ただそれをそのまま演奏するのではなく、最近はやりの演奏はここがめっぽう速い。それはやはりこの交響曲の実力が演奏次第では両隣の交響曲には及ばないものの、それに決して引けを取らないものだと証明したいからではないだろうか。

そこで演奏は最も速い演奏を選んでみた。デイヴィッド・ジンマンはスイスのオーケストラ、トーンハレ管弦楽団を率いて刺激的なベートーヴェン全集を敢行した。これがあまりに評判が良く、ピアノ協奏曲や荘厳ミサ、さらにはシューマンやリヒャルト・シュトラウスに発展し、遂にマーラーの全曲録音に及んだことは周知の事実である。最近ではとうとうシューベルトの全集に取り組むようだが、もうひとつ忘れてはならないのがその価格である。Arte Novaという廉価レーベルながら、その録音は一級品、しかもオーケストラの充実度はピカイチだったのだ。

一枚たった590円で最新のベートーヴェン全集が聞けるとあって、私もすっかりその戦略にはまった。ピリオド奏法の影響を受けたベーレンライター版のベートーヴェンを、これでもかとたてつづけに聞いて行った。この第4番は、そういったピリオド奏法の魅力を知るのに最適かも知れない。時々作曲者も意図しない木管楽器の装飾音が出てきてびっくりすることがあるが、それはこの第4番でも第2楽章の後半などに顕著である。こんなに最終楽章を早くしているのに、オーケストラが何とか弾き切っているのも凄い。この終楽章を聞くと、ギリシャの乙女もジェットスキーに乗ってエーゲ海を爆走しているような気がしてくる。


2012年3月4日日曜日

ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

単にベートーヴェンの新境地を開いた象徴的な作品としてだけではなく、音楽史に残る大作として「英雄」はアルプスの高峰のごとく屹立している。第1番や第2番にあった序奏は、「英雄」ではわずかに和音がふたつになるまで短縮されている。その始まりに息をのむだけでなく、その後に17分にも及ぶ長大な第1楽章は、その長さを感じさせないまでに素晴らしい。

第1楽章はソナタ形式で書かれている。ソナタ形式とは学校の音楽の授業で習った古典音楽の基本形式の一つで、「主題提示部」「主題展開部」「主題再現部」の3つの部分からなる。「英雄」の第1楽章は、とてもかっちりとしたソナタ形式で書かれている、ということらしいので、私はこれまで幾度と無くその形式を追っていこうとしたのだが、まあ音楽には素人の身でもあり、いつもどこかでわからなくなる。というか、実はそうではなく、どうでも良くなるのである。それ以上に曲が素敵なので、そのような拘った聞き方がしたくてもできない。音楽に興奮し、聞き惚れているうちにあの素敵な高揚を見せるコーダまで、あっという間に時間が経つのである。

その第1楽章の主題は最近、繰り返されることが多い。繰り返しが始まると、また最初から?と気が遠くなるような思いになるか、それとももう一度これが聞けるのか、と嬉しく思うかが演奏の良し悪しの分かれ目である。この長い主題提示部には、第1主題と第2主題が含まれているが、第2主題が何かは、言われてみないとわからない。音楽はここですよ、と止まってはくれないので、ここでまあどうでもよくなるわけである。

主題の展開部は提示部よりもさらに長大で、しかも大変充実している。「英雄」をいい演奏で聞くと、この10分間の進行が何とも言えない愉悦の時間である。三拍子の早いリズムが最初からずっと継続的に刻まれ、様々な楽器が上昇したり下降したりを繰り返しながら、あるときはピチカートで、あるときは和音の連発で、あらゆる手法を駆使してここを快速で切り抜けていく。 そして主題再現部になだれこむといよいよコーダである。コーダの素晴らしさは昔から聞き所と言われているが、新しいベーレンライター版では、トランペットの上昇が抑えられ、消えてしまう。これを木管楽器が引き継ぐ形になるので、初めて聞いたときは「あれ?」と思うのである。だが、そういう指示だと理解してしまうと、ここをどう演奏するかが次回からの聞き所となる。その面白さというのもまたクラシック音楽だろう。

第2楽章は「葬送行進曲」と言われ、これがまた聞き所の多い長い曲である。あまり遅い演奏で聞くと、大変な感銘を受けることもあるが、再度聞くのを躊躇してしまう恐れがある。だが最近の演奏は総じて早いので、ここの音楽の新たな魅力に触れる機会も多い。「偉大なる人の思い出」というのがナポレオンのことかどうか、といったことは私は専門家ではないので、ここでは触れないが、第2楽章だけを切り出して聞いても立派な音楽で、これが交響曲の中にあるというのは当時では破格の位置付けである。

いかにも重そうな曲として始まるが、すぐに明るい長調となり、最初の盛り上がりが現れる。そのあとは注目点の大フーガ。ここの重量感が「英雄」の聞き所だと知ったのは、さんざん第1楽章を聞いた後だった。第2楽章の聞き所を押さえていると、友人にも自慢ができたものだ。

だが聞き所は実は第3楽章にも第4楽章にもある。かつてはLPレコードを裏返す必要があったので、私は聞かない時も多かったものだ。それまでの重厚長大な音楽に比べると、第3楽章の軽やかな出差しに違和感を覚え、ベートーヴェンも力尽きて作曲をサボったのではないか、などと勝手な想像をしたものだった。

その第3楽章ではホルンの三重奏に尽きる。ここは難所で、「英雄」をコンサートで聞くときは、開演前に舞台裏で最後の練習に励むホルンパートのこの部分を聞くことが多い。第8番の第3楽章と並んでここはホルンのアンサンブルを楽しむ。

さて第4楽章である。長い音楽もやっと終わりに近づいた。変奏曲がここのテーマで、最初の主題を10通りの変奏で聞いてゆく。かつては暇な曲に覚えたこの楽章も、今では第1楽章と並ぶ迫力ある演奏で、その素晴らしさを私は結構好んでいる。ハンガリー風のダンスの部分も、プロメテウスの創造物の主題も、大好きである。手を変え品を変え、変奏とは面白いなあと思いながらやっとのことでコーダにたどり着く。終結部もホルンが活躍する快速の音楽だが、もう終わってしまうのかと名残惜しい。長い曲だが、聞き所が多く、完成度は非常に高い。ベートーヴェンの音楽は、これでおわるわけではない。まだ「傑作の森」の入り口に立っただけなのだ。

ピリオド楽器奏法が主流になって、かつての巨匠のひしめくエロイカの演奏の定盤にも変化が訪れた。その中でもひときわリズム感があり、また迫力のある演奏がパーヴォ・ヤルヴィによるドイツ・カンマーフィルハーモニーによる画期的な演奏である。第2楽章がこれほど見事に速い演奏でありながら、決して軽くはなっていない。第4楽章のリズム感は驚くべき水準で、購入した時にはここを何度も繰り返し聴いた。「英雄」でこのような興奮を味わったのは、実に何十年ぶりかであった。彼のベートーヴェン全集の中でも、「英雄」は群を抜いていい出来栄えだと、私は思うのだがいかがだろうか。

2012年3月3日土曜日

ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調作品36

音楽鑑賞の軌跡において、ベートーヴェンの交響曲が常にそばにあったというのは、多くの音楽愛好家の共通した体験のようだが、私にとっても例外ではない。だが第2番の交響曲は、私がもっとも最後に触れた交響曲であるにもかかわらず、今最も好きな交響曲である。取り出して聞くベートーヴェンの交響曲は、最近ほとんどが第2番で、それ以外はあまりない。この曲は、すべてが完成度の非常に高いベートーヴェンの交響曲の中でも、とりわけ完成度が高いのではないか、とさえ思っている。今もこの曲をアーノンクールの演奏で聞きながら書いているが、音楽が興に乗ってくると、文章など書いていられないくらいに浮き立つようになってしまう。

かつて私の家にはベートーヴェンのLPが沢山あったが、そのほとんどが第3番「英雄」以降で、第2番だけが欠番だった。正確に言えば全集がひとつだけあった(コンヴィチュニー盤)ので、聞こうと思えば聞けたのだが、そういう気はおこらず、ひたすら「田園」だの第7番だのと毎日にように聞いていたのである。ある日私は音楽の先生に第2番とはどのような曲かと聞いてみた。その先生は「モーツァルトとハイドンを足して2で割ったような感じよ」と答え、ベートーヴェンの初期の作品はかれらの影響を受けて、まだ独自性を発揮するには至っていない、というようなことを言ったかと思う。

私はそのようなものだと思っていたが、その概念を覆す出来事が起こったのは、バーンスタインのベートーヴェン全集が発売になり、その第2番(ウィーン・フィル)を聞いた時だった。何とも嬉しくなるような作品なのである。激しく魂を揺さぶる第5番のベートーヴェンと、優しく美しい「皇帝」の第2楽章や「悲愴」ソナタのようなベートーヴェンの間にある「通常の」ベートーヴェンの姿は、私の虜である。歌劇「フィデリオ」や「エグモント」の音楽を何度聞きても楽しめる。ハイドンでもモーツァルトでもないベートーヴェンの陽気で愉快な姿こそ私の発見した新しいベートーヴェン像であり、これが今もっともいいと感じているのである。

第1番よりも確信に満ちた序奏に続いて、躍動感に満ちた第1楽章が始まる。序奏が少し鬱陶しくなってきたところで、一気に主題へ雪崩こむあたりは、実に素晴らしい。主題以降は実演で聞くと、弦楽器のアクセントに乗って全体が一気に快走するので、オーケストラが奮い立つように演奏する姿に出くわすことになる。何度かそのような経験をしたが、それは第7番の終楽章と同じくらいに素晴らしい。

続く第2楽章こそは、この第2番の中でもとりわけ美しい曲で、ここを聞くたびに私はうっとりとする。今最も大好きなベートーヴェンの曲である。ラルゲットというのは「ラルゴよりは速く」の意で、ではどのくらいの速さか、と聞かれたらここは主観的なものになってしまう(ベートーヴェンはメトロノームの記号を入れているが)のだが、私はそこが遅くて思い入れたっぷりの演奏こそいい演奏だと思っていた。しかし演奏スタイルが変わるに連れて、そっけないほどに快速で演奏される淡白なスタイルも、それを感じる心が広がれば、それはそれで大変素晴らしい演奏になることがわかった。第7番の第2楽章もそうである。

第3楽章のスケルツォは、第1番と違って名実ともにスケルツォとなった最初の作品で、ベートーヴェンの自信がうかがわれる。続く第4楽章は、ふたたびアレグロの快速急行だが、これがまた大いに興に乗って素晴らしい音楽になることはまず間違いない。ベートーヴェンの音楽が私達を感動に導くスタイルは、とりわけ奇数の交響曲において強調されているが、このような室内楽的なまとまりの曲であっても、いやむしろそのほうが自然に、私達をうきうきさせてくれるのである。ベートーヴェンの若さがあふれる健康そのもののこの曲が完成されたのは、驚くべきことに耳の病気が進行し、あの「ハイリゲンシュタットの遺書」を残した直後だった。

お気に入りの演奏は沢山あるし、素晴らしい曲の前では演奏による違いなどはどうでもいいとさえ思えてくるのだが、目下のところはアーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団の全集からの一枚を挙げておきたい。いわゆるピリオド奏法による演奏の中では古い部類に入り、20年もたった今ではより刺激的な演奏に隠れてしまった。音色が明るいのがアーノンクールの特徴である。ピリオド奏法の標準的な位置にあるこの演奏の素晴らしさの半分は、ヨーロッパ室内管弦楽団の技術的な充実度で、指揮と完全な信頼関係の上に融け合った十全な演奏は、今でも古さを全く感じさせない。

2012年3月2日金曜日

ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調作品21

9曲あるベートーヴェンの交響曲のうち第1番は、作曲家が29歳の時の作品である。ウィーンでピアニストとしてすでにかなり有名であったというし、それ以前に2つのピアノ協奏曲や「悲愴」のようなピアノ・ソナタを作曲しているから、これは決して若書きの習作というようなものではなく、満を持しての作品というべきである。

だが少なくとも我が国では長い間、第2番と並んでこの最初の記念すべき交響曲は、どちらかというと目立たない存在に追いやられていた。私自身、ベートーヴェンの交響曲の中では最後から2番目に聞いた作品(もちろん最後は第2番)で、我が家にあったベートーヴェンの交響曲のLPレコードには、「英雄」が十数枚もあるのに対し、第1番はたったの一枚、それもかの有名な「バイロイトの第九」(フルトヴェングラー)のカップリングに入っていただけであった。

大作曲家の有名作品を紹介した青少年向けガイド本でも、モーツァルトの「ジュピター」の次に登場する交響曲は「英雄」ということになっていた。そしてコンサートでこの曲に接することは(今でもそうだが)まずほとんどないのである。ベートーヴェンの全曲演奏会がある場合には、プログラムの前半で演奏されることもあるが、まあ付け足しの作品のような扱いは今でも基本的に変わっていない。

そのような第1番だが、これは実にいい曲であると思う。若々しくも春の陽気のような作品は、丁度3月ころに聞くにはぴったりでもあると思う。そしてそのようなベートーヴェンの根底にある「明るさ」は、この時期の作品全体から感じられるし、そこから一歩先へ行くのは「エロイカ」まで待たねばならない。私は総じて作曲家の若いころの作品が好きだが、ベートーヴェンとて例外ではない。

この曲を聞く場合に、頭に入れておくべき基本事項は、次の2つであると理解している。

まず第1に本作品は1800年という切りのいい年代に作曲されたという事実である。これは市民社会の成立が本格化し、音楽が一部の特権階級から一般社会へと普及していくまさにそのはじめの頃の作品であるということである。モーツァルトよりも少し遅く、そしてハイドンの晩年に重なり、ロッシーニやシューベルトよりは少し早い。この微妙なタイミングが、この作品の個性に反映している。

冒頭の和音に不協音が交じるのは、それが意図されたからである。確信犯的にベートーヴェンは新しい時代の音楽を、たった1音で表現した。ハ長調という普遍的な調性を取りながら、そこには一筋縄ではいかない気分を持続させる前奏部分こそ、この作品のもっとも特徴的な部分である。

第2には、メヌエットと書かれた第3楽章が実際にはスケルツォの性格を完全に帯びていることである。三拍子であることも気付かないくらい、ここの音楽は早く、そしてショッキングな勢いに溢れている。これはベートーヴェンにしかない特長のひとつである。

19世紀の入り口にあった時代、オーケストラはまだ小規模だった。当時の音楽をただ再現するような演奏がいいと単純には思わない。けれどもこの作品を大きなオーケストラで聞くときの違和感もまた、私につきまとって離れない。だから小規模でありながら、活き活きとした演奏を探してきた。古楽器奏法の時代になったとはいえ、それがあまりに斬新すぎるとベートーヴェンの時代の素朴さが失われてしまうようで、それもまた違和感が否めない。そこで現在のお気に入りは、ヘルムート・ミュラー=ブリュールというドイツ人の指揮者が、ベートーヴェンの生まれ故郷ボンにほど近いケルン室内管弦楽団を指揮して録音したNAXOS盤である。この演奏は目立たないが、見逃すにはもったいない存在である。全体のまとまったリズム感と、明るい雰囲気を損なわない第2楽章も、悪くはない。

なお、この連載では毎回、目下のお気に入りCDを1枚づつ取り上げる。それ以外の録音は(もちろん沢山の名演があるので)あとで再度、第1番から順に書いていく予定である。この時には演奏に特化して述べることとしたい。

2012年3月1日木曜日

ベートーヴェンの交響曲(プロローグ)

ベートーヴェンの交響曲について語ることは、その他の音楽について語ることよりもはるかに多くのエネルギーを要する。おいそれとは書けない文章を、これまでは避けるようにしてきたし、その他の音楽についてのみ書いてきた。だがいったいいつになったらベートーヴェンについて語る時が来るのだろう?

平成23年3月11日に起きた東日本大震災は、我々の生活がいかに脆弱な上に成り立っているかを改めて知らされた。はかない我々の生活にとってもっと大事な事は、今を十分に生きることである。だとすれば大好きなベートーヴェンの交響曲について今でも何か書けるのではないか。ただ一人の極東に住む現代日本の愛好家に過ぎない私が、こともあろうに「あの」ベートーヴェンについて語ることができる、しかもそれをインターネットを通じて発信することができるというのは、信じられないくらいにスリリングである。

私のベートーヴェン体験について、ちょっと恥ずかしながらもこれから書いていく。それも交響曲について。音楽家のみならずファンの多くが、ベートーヴェンの交響曲について語り、その演奏について書いている。そういう状況を知りながら、なおも私がそこに参加する必然性は、何もないかも知れない。だがベートーヴェンは自らの音楽が、全世界の全人類に聞かれることを望んだはずである。だから私は、せめてそのお礼を言いたい。ベートーヴェンが生きた19世紀初頭とは、200年もの歳月を隔てて、それでもなお共感を感じずにはいられない現代人の思いを、少しは文章にしておきたいと思う。

ベートーヴェンの9曲ある交響曲の何をどのように語るかについて、私もこれまでいろいろと考えてきた。これはブログなので、もっと気楽に好きなように書けば良いのかも知れない。楽譜も読めない一愛好家が、これはいい、あれはいいなどと言った所でたかが知れているのである。だから、これから紹介するのは一個人が勝手に考えるベートーヴェンの音楽とその演奏についてである。毎日1曲づつ、現在もっとも好きな演奏を取り上げつつ9日間で第9まで行こうと思う。

ただベートーヴェンの演奏のディスクは、古いものまで含めれば100枚を遥かに超え、私のCDコレクションの最も大きな部分を占める。そういうわけで、2回目のサイクルで再び第1番から順に取り上げ、主に演奏のレビューをしたいと思う。ベートーヴェンの演奏については、①古いヒストリカルな録音(概ね60年代まで)、②ステレオの録音(概ね80年代まで)、そして③最近20年位の録音、の3つのカテゴリーに分けてみた。それぞれのカテゴリーから1枚ないし2枚のディスクを集めてきたので、それを紹介する。ただ初回は音楽と、もっとも今お気に入りの演奏のみを取り上げる。

手前味噌だが、私のコレクションは、発売されたすべてのディスクを聞いて判断し持っているわけではないが、ちょっとした自慢でもあるのは事実である。なので、それを紹介するこれからの作業は、大変神経を使うがそれ以上に、興奮する作業である。

では、まず交響曲第1番ハ長調から・・・。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...