2022年7月24日日曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの祭り」(ロリン・マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団)

まるでチャンバラ映画の効果音楽のような大袈裟な出だしで始まる「ローマの祭り」は、一連の「ローマ三部作」の最後の作品である。もっともレスピーギは、3つの交響詩を個別に作曲したのであって、決して連作を意識したものではない。そして「ローマの祭り」は、前作の2つの交響詩とは異なり、ローマで開催された歴史上の祭りを描いているという点で、やや趣を異にしている。

第1部「チルチェンセス」は帝政ローマ時代。

まだキリスト教がローマ帝国中に普及する前のことで、当時は相当な迫害を受けていた。その象徴とも言うべきものが、見世物として庶民の興奮を巻き起こす異教徒と猛獣との決闘で、今も各地に残る円形劇場は、その催しの会場だった。もう昔のことなので、これは史実として知る以外にないのだが、それにしても残酷な話である。そしてローマの歴史上これは避けて通れないことでもある。レスピーギはそのシーンを音楽にした。

第2部「五十年祭」は中世ロマネスクの時代。

時が経ってローマ帝国は分裂し、長い中世の時代に入る。キリスト教はもはやヨーロッパ中を席巻し、各地に教会が建てられ、巡礼の道も整備された。「すべての道はローマに通ず」と呼ばれたこの都は、その巡礼の終着点の一つであった。音楽は厳かで讃美歌の旋律や鐘の音も混じえながら「永遠の都」を讃える。

第3部「十月祭」はルネサンス時代。

小刻みの速いリズムに乗って、弦楽器が高音の旋律を奏でると、やはりここはイタリアという感じがしてくる。明るく楽天的である。そして中間部にはマンドリンが登場。幽玄で穏やかな日暮れは、古風なムードを醸しながら、静かに過ぎてゆく。

第4部「主顕祭」は現代。

いよいよ最終部に入った。賑やかで大はしゃぎの音楽。それぞれの旋律が何をモチーフをしているかは、いろいろあるのだろうけど、すべてがごちゃまぜになっていく。千変万化するリズムに多種多様な楽器が入り乱れ、時に威勢よく、狂喜乱舞の乱痴気騒ぎ。

私の知る限り、マゼールは「ローマの祭り」を2度録音しているが、私が聞いたのは旧盤のクリーヴランド管弦楽団とのものである。この録音はデッカによって1976年にリリースされているが、現在では「Decca Legendsシリーズ」でリマスターされているものが手に入るだろう。あまりに通俗的だからかカラヤンやライナーが「ローマの祭り」を省略していたのに対し、ここでは「ローマの噴水」が省略され、代わりにレスピーギの師匠だったリムスキー=コルサコフの作品が収録されているのがユニークだ。

マゼールに「ローマの祭り」のような作品を振らせたら、その交通整理の巧みさと醒めた盛り上がりによって大変聞きごたえがある演奏に仕上がるのは明らかだ。音の魔術師とも言えるマゼールのアーティスティック・センスは、デッカの「超」優秀録音に支えられて、見通しが良く、細部までクリヤーだ。

2022年7月23日土曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの松」(リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

「ローマ三部作」の中でもっとも人気があり、演奏される機会が多いのが「ローマの松」である。その理由はおそらく、桁外れに大規模な編成が大音量で鳴り響く終結部だけでなく、賑やかで色彩感あふれる冒頭、それに録音テープまで流れる静謐な第3部など、聞きどころが満載だからである。オーケストラが奏でる最も小さな音から、四方に配置されたバンダとオルガンまでもが混じる最大音量までを、わずか20分の間に体験できる。まさの音の万華鏡。

その歴史的名演奏は、いまもってトスカニーニが指揮したNBC交響楽団の演奏にとどめを刺すが、モノラル録音であることを考えるとちょっと物足りない。最新のAI技術により、モノクロ写真がカラー化できるように、モノラル録音がステレオ化されるようなことはないのだろうか?そうなればこの演奏は聞いてみたい気がしている。

第1部「ボルゲーゼ荘の松」は、まるで荒れ狂ったような乱痴気の音楽だと思ったが、これは子供たちが松の木の下で軍隊ごっこをして遊んでいる様子だという。ホルンやフルートを始めとした管楽器の鋭い旋律に乗って、弦楽器や打楽器が甲高い音を立てる。だがやけに速いだけの上ずった演奏よりは、リズムを刻む冷静な演奏が、結局はいいようである。

第2部「カタコンバ付近の松」はレント。急に静かになると、祈りの音楽が聞こえてくる。奇妙な対照。途中からトランペットの旋律が入り、そのまま弦楽器に乗って厳かに大きく鳴り響く。6分と長い。

ピアノが聞こえてくると第3部「ジャニコロの松」である。深夜、月明かりに照らされてそよ風に揺れている。クラリネットが、フルートが、ハープが幻想的なムードを醸し出す。そしてやがて夜泣き鶯が最弱音のオーケストラに乗って鳴き出す。夜明け前の薄明かりに照らされて幽玄の世界が見事に表現されている、この曲の聞きどころのひとつである。ここも約6分。

とうとう最後の第4部「アッピア街道の松」に入った。最初はまだ夜明けの時刻。オーケストラはオーボエの独奏が聞こえるくらいである。しかし暫くして太陽が昇り始めると、音量はみるみるうちに上がってゆき、そこへ軍隊が行進してくると勇壮なバンダを加えて会場が壊れるのではないかとさえ思われるようなボリュームになってゆく。その間3分にも満たない。会場の前後左右から、オルガンまでもが混じってクレッシェンドを築く。この立体的な様子は、やはり録音機で捉えることができない。ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)の終結部と同様、実演で聞くしかなく、音楽が終わると少しの間難聴になっているような感じもする。

レスピーギは自らフィラデルフィア管弦楽団を指揮してこの曲を演奏したようだ。「ローマの松」はフィラデルフィア・サウンドの十八番とでも言うべき存在である。かつてはユージン・オーマンディがこの曲を指揮して名声を博したが、その演奏もいまもって素晴らしい。が、ここではムーティを取り上げることにしたのは、私がこの曲のCDを初めて買った時の演奏がムーティのものだったからである。当初録音に難があったと思ったが、今ではリマスターされこの問題は緩和されている。

本当に久しぶりにこの演奏を聞いてみたところ、外面的な効果にとらわれず、非常に音楽的であることを改めて発見した。全体の構成を良く把握しており、20分程度のひとつの交響詩としての構成感が明確である。

ところで「すべての道はローマに通ず」という言い方があるが、アッピア街道というのも数あるローマ街道の一つである。私はイタリアを何度か旅行したことがあり、イタリア語も少しかじったが、いまだこの街道を歩いたことはない。できればいつか、わずかの区間だけでも歩いてみたい気がする。思えばまだ旅行していない地域や国は数多い。

2022年7月22日金曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの噴水」(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

街そのものが博物館と言ってもいいイタリアの首都ローマ。ここへは二度行ったことがある。一度目は1987年夏のことであり、2度目は1994年冬のことだった。どちらも天候に恵まれ、快晴だった。冬の寒さはさほどでもなかったが、夏の暑さは堪えた。当時まだ冷房も冷蔵庫も豊富には普及していなかったヨーロッパでは、特に日中の陽射しを避けるしかなく、よほどの店でもない限り、冷たい飲み物は手に入らなかった(手には入るが、値段が跳ね上がった)。それでも学生の私は、たった2日しかないローマの休日を大いに楽しもうと、朝から夜まで歩き回った。

ローマ市内の至る所に噴水があった。どの噴水も芸術的に装飾が施された彫刻と一体である。広場という広場には、そういう噴水が1つはあった。彫刻の口や手から、ふんだんに水が溢れている。夏の日差しを浴びて、その水は白く青く輝いている。水不足のヨーロッパでおそらく噴水は、贅沢の象徴だったのだろう。暑い真夏のイタリアで、少しでも涼し気な場所は、広場の噴水であった。

「トレヴィの泉」と聞くと、大阪育ちの私は阪急三番街を思い出すのだが、もちろん本物はローマにある。数えきれないローマ市内の噴水の中でも、ひときわ大きく豪華で有名なこの泉は、宮殿の一部を構成している。その前に多くの観光客が座って、長時間眺めていたりするのだが、そのスペースはさほど広くはない。その噴水に向かってコインを後ろ向きに投げ入れる。再びローマに来ることができますように、と。

レスピーギの「ローマ三部作」のひとつ「ローマの噴水」は、3つの交響詩の中でも最初に作曲された(1916年)。ローマ市内にある4つの噴水を描写している。それは時間の経過とともに、「夜明けのジュリアの谷の噴水」「朝のトリトンの噴水」「真昼のトレヴィの泉」「黄昏のメディチ荘の噴水」と切れ目なく続く。クライマックスは「トレヴィの泉」だが、それ以外の部分は静かで、派手な残りの2つの交響詩と比較して地味である。

第1部「夜明けのジュリアの谷の噴水」は、朝もやのなかに牧歌的な雰囲気が表現されていて印象的である。家畜が通って行ったりする。一方、どこか日本風のファンファーレのような(と私はいつも思うのだが)が聞こえてくると第2部「朝のトリトンの噴水」に入る。何かドビュッシーを思わせるようなメロディー。朝の陽射しがキラキラと輝く。ホルンに合わせて神々が踊る。

Fontana di Trevi(1987)
第3部「真昼のトレヴィの泉」は、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」を思い出してしまう。レスピーギはリムスキー=コルサコフから作曲の指導を受けているが、あらゆるものを壮大に管弦楽によって表現してしまうのは、リヒャルト・シュトラウスにも通じるようなところがあるように思う。

音楽が再び静かになっていく。黄昏時を迎えたローマには西日が差し、暑かった一日もようやくしのげるようになった。第4部「黄昏のメディチ荘の噴水」というのを私は見たことはないのだが、暮れてゆく光景が目に浮かぶようである。

「ローマ三部作」にはトスカニーニによる極め付けの名演を筆頭に、数多くの録音が存在するが、私がこれまでもっとも感心した一枚が、カラヤンによるものである。カラヤンの精緻な表現は、アナログ録音全盛期の高い技術に支えられて、いまでも輝きを失わない。ただカラヤンは「ローマの祭り」を録音しなかった。この通俗的な曲の代わりに、より気品に満ちた愛すべき「リュートのための古風なアリア」が収録されている。

※写真はトレヴィの泉(1987年)

2022年7月19日火曜日

ショパン:ピアノ協奏曲第2番へ短調作品21(P:クリスティアン・ツィメルマン、ポーランド祝祭管弦楽団)

例年になく早い梅雨明けに、もう夏が来て相当時間が経ったと思っていたら、まだ7月中旬である。ところが不思議なことに、そのあとに曇りがちの気温の低い日々が続いて、ここ数日は日本列島が大雨に見舞われている。かつてはハッキリとしていた梅雨明けも、ここのところは随分怪しい。おそらく日本中が温帯から亜熱帯性気候へと移り変わっているのだろう。これからは雨季(6月から9月)と乾季(それ以外)といういい方の方が相応しいのかも知れない。

そんな蒸し暑い日々を過ごしながら、ショパンのピアノ協奏曲を聞いている。第1番の方はすでに書いたので、残るは第2番ということになる。ショパンの2つあるピアノ協奏曲のうちで、先に作曲されたのが第2番へ短調である(1830年)。音楽メディアがLPからCDに移行してから、ショパンのピアノ協奏曲は1枚のCDで発売されることが多くなった。ここで紹介するクリスティアン・ツィメルマンのポーランド祝祭管弦楽団を弾き振りした演奏もそうである(と書きたいところだったが、実は2枚組である。演奏時間が長く1枚に収まり切らなかったようだ。一方、ジュリーニと共演した旧盤は2つのLPを1枚にまとめている)。

第2番は第1番に比べて地味で、人気がないとされている。圧倒的に多く演奏されるのは第1番の方で、ショパン・コンクールの最終選考でも第1番を取り上げるピアニストがほとんどである。だが、私の聞く印象では、第1番が優れているように感じるのは第1楽章だけで、それ以外は甲乙つけがたい。第2楽章などはもしかしたら第2番の方がいい曲だと思うこともある。メロディーの親しみやすさ、あるいは華やかさという点において第1番が勝っているように思うが、演奏される頻度の差ほどに第2番がつまらない作品ではないと思う。

その第1楽章は、焦燥感のあふれる主題で始まる。オーケストラだけの長い序奏に続いていよいよピアノの出番となる。これは第1番でも同じなのだが、主題のメロディーが甘く切ないだけの第1番に比べると、焦り、もがき苦しんでいるショパンの心情が色濃く反映されている。この曲の、それがむしろ魅力であるとも言える。第1番が、もう少し時間が経って過去を客観的に振り替えることができた時の余裕を感じるのに対して、この第2番はもっと真剣に悩んでいる。とりとめもなく物思いにふけったかと思うと、そわそわとして心がかき乱される。演奏しにくい曲だろうと思うが、それはこの曲の輪郭がつかみにくいからで、それはそもそもそういう作品だからである。

若きショパンの心情が一層わかるのは第2楽章である。このラルゲットはショパンの書いたピアノ作品の中でも屈指の名曲ではないかと思う。初恋の相手は、ワルシャワ音楽院の声楽家の歌手だったらしいが、一度も口を利くことなく片思いを続けたショパンが、その思いをぶつけたのがこの曲である。

最初のピアノの音が聞こえてきたときから、まるで時が止まったかのような錯覚に見舞われる。恋愛映画の一コマにそのまま使えるような曲である。何とも切なく、そして壊れやすい心情の吐露を、やっと理解できるようになったのは中年以降であります。やはりこのような若き青年の心理をそのまま表現した音楽は、女性には理解しがたい部分があるのではないかと勝手に想像するだけのゆとりが生まれてから、ということになるわけです。だから、この曲が第1番に比べて一般受けしにくいのは、そのような心情がストレートに反映しすぎているからではないだろうか、などと考えたのです。

ショパンの片思いは結局、告白をすることなく終わり、かれは祖国を離れるが、私は第3楽章のロンドにショパンの空想の告白を見つけている。第3楽章のメロディーは軽やかで、マズルカを始めとするポーランドの民謡風のリズムも散りばめられているが、ひとしきりこのような楽し気な、しかし十分翳りも帯びて決して楽天的にはなれない前半が過ぎ去ると、ホルンの短いソロが聞こえてくる。これに応えるのはより小さい声(やはりホルン)である。

これこそがショパンが夢に見た「告白」のシーンではないだろうか?この部分を境に、音楽は一気に明るく華やかになり、舞い踊るようなコーダへと突き進む。だがやがてこれは戯言であったと気付く。音楽はその酔いから醒めるように、大人しく終わる。

このような想像をすることができたのは、ポーランド生まれでショパンコンクールでも優勝したクリスティアン・ツィメルマンによる2回目の録音を聞いた時だった。ここで彼は自らが組織した、この曲のためのオーケストラ(ポーランド祝祭管弦楽団)を弾き振りしている。彼はこのオーケストラと世界中で演奏を行い、ドイツ・グラモフォンに録音した。その演奏は、それまで聞いたことのないよううな驚きの連続だった。特に第1番では、貧弱と言われてきた管弦楽のパートにこれ以上ない精神力を注ぎ込み、異様なまでの集中力である。そのあまりに極端で自由な表現は、この2つの曲を1枚のCDに収めることさえ不可能にした。

ツィメルマンは自分が理想とする演奏に仕上げるには、オーケストラを自主的に組織するしかなかったと語っているが、彼の最初の録音は、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンジェルス管弦楽団との競演でなされている。この録音は決して悪くはなく、私もポーランド祝祭盤が出るまでは、この曲の最右翼だと思っていた。しかし彼は、この演奏にも満足しなかったのだろう。

結果的にショパンのピアノ協奏曲の魅力を最大限に引き出したこの演奏は、今ではこの曲のスタンダードな名演となって不動の地位を築いている。第2番においても、第1番ほどではないにせよ、それまでには知られてこなかった細かい部分の表現にまで神経を行き届かせ、新たな魅力を伝えてくれる。あまり頻繁に聞くことがない曲ではあるが、私にとっての第2番コンチェルトの定盤となっている。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...