2012年2月29日水曜日

インターネット放送で聞くクラシック音楽

ネットワーク・オーディオについて書いてきたので、最後にインターネット放送で聞くことのできるクラシック専門局についても触れてみたい。ただそうは言っても私自身、まだほんの何局かを聞いただけである。もっとこだわりを持って多くの放送を紹介するサイトはいくらでもあるだろうし、私もそういうところを参考にしながら、これからも放送局を探していく予定である。Pioneer N-30にもインターネット放送局のリストが表示され、iPadで一発選曲できるのだが、私はその1%も聞いていない。

ここで取り上げる放送局は、ニュース等の放送局ではなく、クラシック音楽を主に流している放送局に限定する。そのような放送は、別の機会に触れたいと思う。また私は、ただずっと音楽を流し続けるだけのインターネット専門の放送局というのを比較的好まない。アナウンスがあって、しかもたまにコマーシャルやニュースも流れるのが良い。言葉はわからなくても、その土地の雰囲気が感じられるからである。日本でもわざわざFM放送を好むのは、その方が同時性と地域性を感じるからで、まさにラジオはパーソナルなメディアである。

最後に「放送局」という用語について。元来放送局とは放送設備を有する主体のことで、それは無線のアンテナや送信所のことであった。従ってスタジオだけのニュース専門チャンネルなどは、CNNのようなものも含めて放送局とは言わず、番組制作会社にすぎなかった。衛星放送でもスカイ・パーフェクTVは放送局だが、その中の例えばディスカバリー・チャネルは違う、というようにである。

だが、メディアが多様化し、無線以外のメディアでも「放送」という概念が拡大して意味付けられるようになった。今ではインターネットに番組なるものを提供するものを総じてインターネット放送と呼んでいるようだ。ラジオは無線のことなので、インターネット・ラジオというのは無線でアクセスするインターネットという意味になる。だがこれも慣例に従い、インターネットの音声放送のことをインターネット・ラジオということにする。もともとどこかの都市のFMやAMの放送をそのままネットに流すものが多かったので、ラジオというのもわかるような気がする。

■WQXR
ニューヨークにある公共放送で、当地での唯一のクラシックFM放送が、そのまま聞ける。土曜日の夜などメトロポリタン歌劇場の生中継もあり、ニューヨークに住くクラシック音楽ファンはみなここを聞いている。かつてはWNCNというもうひとつの専門局もあったのだが、ここは潰れてしまった。一方、WLTWという素敵なFMもあって、ここはライト・ロックの専門曲だが実は私も良く聞いていた。ところが著作権の問題からか繋がらなくなったり繋がったりした挙句、今は繋がらない。これは相当にショックである。

■CBC(カナダ放送協会)
カナダの公共放送が流すクラシックチャネルは2つあって、主にカナダ人の作品ばかりのチャネルと、一般的なものの2つである。私は後者を主に聞くことがある。ヨーロッパの演奏に偏らないのがいいが、日本との時差で朝に夜の雰囲気、夜に朝の雰囲気となる。

■ABC(オーストラリア放送協会)
時差がほとんどない国、オーストラリアの放送は日本にいる場合には一番しっくりくるかもしれない。だが好みの問題で、英国系の作曲家や演奏家、それに現代的な作品が多い傾向にある。

■BBC(英国放送協会)
Radio3というのがクラシックの放送だが、帯域が狭く音質にやや不満が残る。

■classicFM
イギリスのクラシック音楽をリードする放送は、classicFMである。ここの雑誌は日本でも売られているが、今時専門のFM放送局で勝負するあたりはさすがイギリスである。着実にリスナーを増やし、今ではネットで聞ける、といいたいところだがあるときから制限が設けられた。イギリス在住者にしか放送できないというのである。そこでアクセスするとイギリス在住者に自分の郵便番号を入力するように言われる。私は試しにロンドンのどこかの住所の郵便番号を入力してみようと思っている。放送は選曲が良くなかなかいい。

■Klassik Radio
目下の私のお気に入りは、ドイツの放送であるクラシック・ラジオである。ドイツ風の選曲もいいし、古典派の作品が多いのも嬉しい。有名な曲も割りに多いし、控えめなドイツ語のアナウンスも心地よい。

■Radio Swiss Classic
スイスのFM放送。

■BR-Klassik
バイエルン放送のクラシック専門FM局。

■Linn Classical
Linnが提供するクラシックチャネル。ジャズもある。320kbpsは圧倒的に音質がいい。有名な曲は少ない。私はJazzの方をよく聞く。

2012年2月28日火曜日

利用価値のあるフリーソフト

ネットオーディオの世界ではフリーソフトが大活躍する。フリーソフトとは言っても本格的なもので、その機能の世界標準的な地位にある場合も珍しくない。以下は私が使用しているものだが、やはり多くの人が使用している一般的なものばかりである。動きが激しいので、すぐに情報は古くなるが、現時点でのまとめとして掲載しておきたい。

■iTunes
Appleのユーザなら、どの機械からでもApple IDひとつで自分の共通アカウントとして管理されていることをご存知だろうと思う。iTunesは音楽ダウンロード販売サイトへのアクセス・ソフトであると同時に、音楽ファイルの整理やCDのリッピングまでも可能とする統合音楽プレーヤーである。これひとつで通常の音楽シーンは十分だが、ネット・オーディオに凝りだすともう少しいいのが欲しくなる。それがフリーということだから、凄いものである。
iTunes以外の音楽プレーヤーのうち、これを競合関係にあるRealPlayer、Windows Media Playerなどはほとんど使用しない。ところがこれらのソフトもダウンロードしてインストールしてあるので、間違ってファイルとの関連付けをしてしまうようにいつも促される結果となる。

■MediaMonkey
iTunesと同じ操作性で、しかもインターネットラジオなども聞ける有名なプレーヤーとしてMediaMonkeyはファンが多いようだ。私は古いPCをインターネットラジオ専用にしていた時期にこれを使用していた。

■foobar2000
殺風景だが軽くて使いでのいいプレーヤーとしてfoobar2000は不動の位置にある。iTunesでは聞けないflacファイルの再生も可能で、プラグインを追加することによって様々なアレンジができる。私はDLNAの設定を行い、PCをミュージック・サーバとして無線LAN経由によりネット・オーディオを鳴らすことに成功したが、同じことが再現できなくて困っている。

■Exact Audio Copy
その名の示す通り、CDを可能な限り正確にリッピングするためのソフトである。ファイルを組み込むことで日本語にも対応し、直接flac等への変換も行なってくれる。freedbへアクセスしてトラックの情報も転送してくれる機能も持つが、iTunesの方がヒット率は高い。トラックのコピーには時間がかかるが、終わったら自動的にスリープ状態にしてくれる機能や、直前の最後のトラック番号に続けてラベルに番号を付与する機能など、なかなかよく考えられていると思わせる。

■AudioGate
他のソフトでもできるのだが、音楽ファイル間のフォーマット変換にはこれを使用している。DSDにも対応したプレーヤーであることで有名だが、ファイルの変換という観点でも大変使いやすい。

■Allway Sync
リッピングしたCDのWAVファイルを、外付けHDDやバックアップ用のHDDなどに転送して同期を取る場合、これを自動的に管理してくれるのが望ましい。これはそのためのソフトである。同様のファイル管理ソフトは数多くあるので、これが一番いいかどうかは不明だが、使っていて不満はない。

■mp3 DirectCut
MP3ファイルを直接編集することができるソフト。かつてテープに録音した音楽などは、いったんICレコーダーにMP3でダビング録音し、これで編集している。


これらのソフトウェアのダウンロードは、そのホームページから簡単にできる。検索すれば一発で在り処がわかるのでリンクは貼らない。またそれぞれの上手な使い方は、ネット上でだれかが公開している。それらを見ていくのも楽しい。



2012年2月27日月曜日

96kHz/24bitの衝撃

これまでの記事で私は、まだハイレゾ音源には手を出していないこと、そしてそれでもなおネット・オーディオには投資する価値があると述べてきた。その理由はCDのコピーであっても、これまでの音質よりは大幅に改善された素晴らしい音と操作性を手に入れる事ができるからである。この考えは変わっていない。

しかしここで私はまた、試しに96kHz/24bitのハイレゾナンスな音楽ファイルを初めて購入し、そして聞いてみた時の感想を、興奮を持って記述せねばならない。そしてその音質のあとでは、CDの音楽がもうつまらなく思えて仕方がないのである。もしこれからこの品質が主流になってしまえば、これまで築きあげてきたコレクションが台無しになる。それは丁度今から30年ほど前に、LPレコードからCDにあっという間に起こった変化に相当するかも知れない。

そう思うのは、週末に久しぶりにタワーレコードに出かけ、古い録音のCDが実に安く売られていることを目の当たりにしたからである。ほとんどのレコード会社は、もはや止めようもないCDの売れ行き不振を、大幅なディスカウントで対抗しているように見える。だがかつてLPレコードがそうであったように、これは「売れるうちに売っておけ」ということではないだろうか?そしてハイレゾ音源がマーケットの主流になると、一気に古い録音を含めて再リリースを開始する。音質と操作性の向上で、再び音楽が売れ始める。しかもメディアを販売する必要がないので、製造コストを抑えられる。アーティストに支払う権利料が二極化される・・・。

だが、そのようにして広まった音楽は、もはや一度売れると、急に売れなくなるだろう。しかし在庫を抱えるコストは大変低いので、それでもいいかも知れない。むしろ歓迎すべきはそれまで見向きもされなかった演奏家が、自前で高音質な録音をネット上に公開し、それらが一気に広まることだろう。だとするとやはり超一流の有名音楽家を除けば、収入の確保は難しいかもしれない。それに代わって、無名の音楽家も一夜にして有名な存在に成りうる。もはや音楽事務所の立ち入る範囲は少ない・・・。

となるかどうかは別にして、ファンとしては新しい音楽に接する機会が増えることを素直に喜べばいいのかも知れない。私が生きている間に、過去の音源も含めハイレゾ化されると、私は一生かけてそれらを再び味わうことができるのだから・・・。

世界でも有数のLinn Recordsは、このようなハイレゾ音源の草分けである。今やユニバーサル系の2つのレーベル、Deutsche GrammophonとDeccaが加わった。例えば今日見たところ、ヨッフムの「カルミナ・ブラーナ」やマリナーの「四季」などの往年の決定版までもがリストに登場している。ところが、これらの音楽はIPアドレスが日本を特定すると、購入ができない仕組みになっている。これほどの落胆があるだろうか?他にこれらを入手する方法がないのである。消費者に選択肢を制限するやり方で、日本のユーザは不当に差別されている。

だが、異なるレーベル、例えばPentatone ClassicsやChandosなどはこの規制からは今のところ外れている。そしてLinn自らが作成を手がけるいくつかの録音がある。そのうちのひとつがアルトゥール・ピザーロを独奏に迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、第4番、それに第5番「皇帝」のカップリングである。伴奏は亡くなる直前のサー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団である。このコンビの名前を聞けば、CDであっても食指が動く。だがそれが一気にダウンロード可能で、すぐに私のPC経由でネット・オーディオを鳴らすことができるのである。

さっそくユーザ登録をしてカートに入れレジへ進むと、初めての利用ということでダウンロード用のソフトウェア・アプリのインストールを勧められる。もちろんそうした。そして早速ダウンロードが始まる。決済はクレジット・カード。96kHz/24bitのflacもしくはWMAファイルで24米ドルである。1ドル80円で計算すると1920円となる。しかも3曲が収録されている。ちなみにCDそのものは22ドル、flacでもCD並の44.1kHz/16bitなら13ドル、MP3/320kbpsだとわずかに11ドルとなっている。迷わずflacの96kHz/24bitを選択した。さらに選択肢として24bit/192kHzというのも同じ24ドルで購入できる。ただしこちらはデータ量が4GB近くある。一方、flacの 96kHz/24bitでは2GB足らず。この容量もダウンロード前に表示されている。

さて私は実は誤ってWMAファイルをダウンロードしてしまった。WAVと間違えたのだが、いずれにせよロスレス圧縮なので変換してしまえば問題がない。KORGのAudioGateという無料のソフトを立ち上げ、あっという間にWAVへの変換が終了、この作業はflac→WAVでも同じ手間。あとはUSBメモリーに移して再生するだけである。

するとその音は、これまでに聞いたことのないような自然な奥行きがあり、しかも喩えようもないくらいに美しい響きに包まれた。おそらく高級なSACDの再生機を使えば、これくらいの再生はできたのだろうと思う。だがそれが実に簡単で安価に可能になったわけである。

これで私はハイレゾ音源に衝撃を受けた。そして他の録音も早急にダウンロードしてみたいと思ったのである。だが財布と相談しなければならないし、目下e-onkyoを含め購入可能な録音はさほど多くはない。懸念することは、DRMフリーなこれらのファイルが、ネット上に流通してしまわないかということだろうか。このビジネス・モデルが生き残るには、こういった面でも注目される。

音楽はもはやディスクではなくなった。トラック単位での購入も可能だが、実際には美しいジャケット写真がついてくるのは、CDの名残だろうか。やはり人間は手にとって物を眺めたいのかも知れない。そしてジャケット写真もライナー・ノートも同時にダウンロードされた。ファイルの合計はWAVに変換したら3GBを優に超え、私のハードディスクもあっという間に満杯状態となった。

2012年2月26日日曜日

高音質の音源

LPレコードがCDより高音質であると信じている人がいまでもいて、それはあながち間違っていないかも知れないのだが、アナログでオーディオ装置を組む場合、かつては多くの投資を必要とした。手軽に聞けるレベルのコストでは、やはり圧倒的にCDの方がいい音だと思う。しかも収録時間が長いし、レコード盤面の傷や針の摩耗を気にする必要もないし、ノイズの混入もまあない。

しかし手軽なCDが、その真価を発揮しているかと言えば、なかなかそういうわけにもいかない。かつてFMで聞くCDの音が、自分のCDプレーヤーで聞く音よりもいいように感じたことがあったが、それは放送局のCDプレーヤーがいいからだろうと思った。これは一見簡単なCDの再生も、高音質を求めればそれなりに大変であることを思わせるに十分であった。

しかしアナログ派の人は、CDというメディアの限界を常に指摘する。つまり人間の聞こえる範囲の音しかそもそも符号化しないので、もしかする聞こえない音も何らかの音場に影響を与えているのではないか、というのである。実際、コンサートホールで聞く音は、決して最もいい位置で聞いているわけでもなければ、客席のノイズも多くある状況で、ではCDと「同じ」かと問われれば、何かが足りないと思ったものだ。そこでCDの登場からしばらくたってより高音質なメディアが登場した。

最初はDATである。一般のカセットテープよりも小柄なデジタルテープに、PCM化された音を録音する機械は、その登場がセンセーショナルだったことを覚えているが、その割にはあまり普及しなかった。当時はCDの普及段階を脱しておらず、高音質をユーザが求めなかったのではないかと思われる。一方、CDの再生技術や古いアナログ録音のリマスター技術は90年代に入ってから進化が進み、一度買ったCDもリマスターされて蘇ったCDを買い直す必要すら感じたものだった。

私のコレクションの中心は、この90年代に購入したCDだが、デジタル録音の技術が円熟期に入り、古楽器風の演奏が主流になるにつれ、コレクションの2サイクル目を行う必要に迫られていった。ただそれはCDで、ということである。

SONYとPhilipsが開発したDSDとSuper Audio CDは、CDの世界に風穴をあけるかと期待した。実際私は1999年頃、新宿の今はなきVirgin Megastoreでデモを聴き、これからはすべてSACDで購入しようと考えた。だがタイトルが非常に少なく、私はCDさえも買う気力が失せてしまった。2002年頃になって、ユニバーサル・ミュージックなどがSACDフォーマットのリリースを開始したときは、それでもやっと来るべき時が来たかと思った。だが、この状況は長続きせず、しかもSONYまでもがリリースをしなくなった。

ChandosやPentatone、BISといった中小のレーベルと、BMGだけは今でも若干SACDハイブリッドのリリースを続けている。だが、ハイブリッドということはCDでも聞けるということで、最悪SACDが廃れてもCDだけは生き残って無駄にならない、という意味で安心だから売れているに過ぎないように思う。そしてSACDと相前後して発売されたDVD Audioに至っては、SACDと異なりDVDプレーヤーと同じ環境で再生できるという便利なメディアであったにもかかわらず、リリースされたアルバムは数えるほどしかない。

CDをめぐるコピー防止機能が議論されたのもこの頃だから、大手の音楽産業は新しいメディアに消極的だったのではないかと思う。だが、CDの凋落と業界の再編を加速させたのは、取りも直さずこのような音楽産業のデジタル革命への遅れであったと思われる。そこへ登場したiTunesは、音質をCDより低めに設定しておきながら、携帯音楽プレーヤーなら十分な音質をトラック単位で販売することで大きく成長し、SONYが打ち立てた手軽な音楽鑑賞のシーンを一歩先に進めた。

SACDやDVDオーディオのような高音質メディアは、5.1chサラウンドシステムのフォーマットもあるため、これこそが次世代の音楽シーンであるかと思われたのも、2000年に入ってからである。だが、そのために6台のスピーカーと超重量級のAVアンプを買い揃えることは、広い自宅に住むかなりな映画マニアに限られる。結局、これも音楽メディアの主流に成り得ていない。5.1chサラウンド形式のハイレゾ音源がダウンロードできる時代は(来てはいるのだが)広く普及しそうにはない。

しかしネットワークの高速化によりハイレゾ音源サイトがいくつか立ち上がり、CDに変わる音楽媒体の主要な部分となることは疑いの余地がない。世界的には著作権の問題が解決され(つまりDRMフリー)、わざわざお店に出かけなくてもCDより高音質の音楽ファイルが入手できる時代になっている。あとは過去の音源を含め、ここから自在にダウンロードできる環境が整う必要がある。今のところ、HDTracksやLinnでも主要レーベル系の音源配信は数が少ない上に、何と日本からの購入が制限されている!!

さらにはDSDフォーマットによる音源配信も始まっているが、これなどはまだ試行段階だろう。実際に聞く際には、結局PCMに変換する場合もあり、まだ方式が確立されているとは言いがたい。

最後に音楽配信のクラウド化について。コンピュータ技術における近年の目覚しい変化は、もしかすると我々の音楽鑑賞シーンにも革命をもたらすかも知れない。今でもNAXOSのサイトでは、月額基本料金のみで音楽が聞き放題である。このような状況に達した時、我々はもはや音楽を購入するという行為自体がなくなる。だがこれも新しい世界ではない。今でも図書館へ行けば、コピー・フリーのCDは無料で借りることができる。そしてインターネット放送を含む世界のラジオ放送にアクセスできれば、自分でアルバムを揃えなくても音楽に満ち足りた生活はできる。生で聞くコンサートだけが、本物の音楽体験であるという当たり前の事実は、過去から何ら変わっていない。

2012年2月25日土曜日

オーディオ機器(まとめ)

現時点で所有する機器をまとめて書いておく。これは自分のメモである。私のオーディオ機器は、こんなところで書くほど大したことはない。出来る限り投資を抑えてきたことと、それに何より引っ越しを繰り返したので、環境に合った機器を設置することがなかなかできなかったためである。実際、収入を得てすぐの頃は、6畳一間のアパートだったし、米国で暮らしていたときは現地で買ったラジカセ、そして結婚し子供ができて、それからはオーディオには程遠い生活を強いられた。初めてのボーナスで買ったスピーカーを未だに利用しているのはそのためである。


■ プリメイン・アンプ
1993年、最初に買ったのは今はなきSANSUIのAU-α607XRだが、これは新アンプの購入(2009年)に捨ててしまった。現在はPioneerのA-A9である。当時次の機種が発売されていたが、秋葉原の小さいオーディオ屋で現品限りの特価を見つけ衝動買い。5.1chの再生を検討していたのでAVアンプにしようかと思案していたが、結局ピュア・オーディオ路線を継承してしまった。だがPioneerが久しぶりに発売したこのアンプは、少なくとも私の好みの音でお気に入りである。簡単なUSBのIFを持っており、USB DACとして使える。

■ CDプレーヤー
1993年、上記SANSUIと共に購入したPhilips CD-950は、当時Bit-stream Conversionなどと呼ばれた独特のDAコンバータを搭載し、その何ともヨーロッパ的な音色に魅せられた。このCDプレーヤーは一度故障したが、修理が可能であった(2004年頃)。そこで今でも健在だが、単独のプレーヤーとしてはやや大きく、しかもデジタル出力もない。そういうこともあって今ではほとんど使っていないが、さりとて捨てるのも惜しく、そのまま置いてある。

■ マルチディスクプレーヤー(CD/SACD/DVD)
DVDが出始めた1997年に買ったSONYのDVDプレーヤーが、あまりに音がひどかったため買い直すことを決意、どうせならSACDも聴けるようにしようとDENON DVD-2910を購入。一度壊れたが、修理して復活。SACDが聴けるので、もっぱらこれを使ってきた。CDもパンチが効いた音出しで、私の扱いが難しいスピーカーを頑張って鳴らしてくれる。だが、全体的に中途半端。DENONが好きでないのかも知れない。なお、SACDのデジタルアウトがない。HDMIの端子でもSACDは出力されない。古いバージョン。

■ Blu-rayプレーヤー
DVDもCDも再生可能だが、Bru-layの再生・録画とDVDの再生に使用しているのはPanasonic DMR-BW770。HDが500GBと、当時では高いクラスだったが、今ではDLNI再生に制約があるなど早くも古くなってきた。だが、私は映像にはあまり凝らない方なので、特に不自由は感じていない。

■ TV
Panasonic TH-42PX70SK。プラズマテレビとしては、映り込みを減らす分、評判が悪かったモデルだが、我が家の南向きリビングにはぴったりで、満足している。しかもこの機種は両側にスピーカーを配しており音質に拘った設計。それが大変いい。PanasonicのTVリモコンは少し反応が遅い。

■ ネットワーク・オーディオ・プレーヤー
Pioneer N-30。前述のとおり。

■ スピーカー
ONKYO D-502A。1994年購入した直後から、ちょっと失敗したかなと思っていた。しかしツイーターが壊れて買い替え、結婚した際には専用の台まで買ったので、捨てるのはもっと本格的にオーディオを揃える時だと思いそのままに「していたら、引っ越しや結婚や子供の誕生などがあり、さらにそのままに・・・。クラシックよりはジャズの方が合うかも知れない。B&Wのトールボーイ型に何度も憧れたが、今回ネットワーク・プレーヤーにした途端、今までとは全く異なった素敵な音がしていて、当面買い換える必要は全く感じなくなってしまった。難しいものである。

■ CDラジカセ
ONKYO RC-637S。iPodドック付き。ダイニングで気軽にラジオを聴きたいと思い購入。主にJ-WAVEを聞いている。TVがなかった2年間はこれで毎日FMを聞いていた。だが今ではBluetooth搭載の素敵なインターネット・ラジオ対応機も出ており、本当は買い換えたいくらいだが・・・。

■ iPad/iPod
Appleの携帯オーディオ・プレーヤーとしてiPod nano(第2世代)、iPod Classic(80GB)、それにiPad2を購入。

■ PC
現在の私の専用機はASUS K53T。AMD A6-3400 106GHz + MM8GB + Radeon HD6720G2 1GB。OSはMicrosoft Windows7 Home Premium(64bit)台湾製でなかなか静か。これまでIBM PS/V→SONY VAIO→Dellと変わってきた。妻は東芝Dynabook→HP、また私は一時期MacBookのユーザだったことがある(1995年)。

■ ヘッドフォン・イヤホン
SONY MDR-7506、SONY MDR-EX90SL、SONY MDR-E10LP。なぜかすべてSONY製。

■ 無線LANルーター
ELECOM Logitec LAN-WH300N/DGR。

■ 外付けHDD
Baffalo HD-PE500U2。小さくて静か。

2012年2月24日金曜日

オーディオ関係の簡単な書物

マニアックな楽しみの多いオーディオだが、初心者にもわかる簡易な読み物はそれほど多くない。ここで紹介するのは、その中でも最近になって出版されたものである。特に新しい携帯音楽プレーヤーやサラウンド、それにネット・オーディオ関係の内容は整理された形でまとまっているものが少ないので、貴重である。技術の進歩が早いので、最新の情報はネットに頼るのが近道だが、様々な情報が錯綜しているので、やはりオーディオ雑誌が頼りになるだろう。ネット・オーディオの専門誌も発刊され、静かなブームとなっているように思う。

(1)「やっぱり楽しいオーディオ生活」(麻倉怜士、アスキー新書、2007年)

ネット・オーディオが流行る直前は、オーディオ趣味というものがかなり下火になっていた。本書はそのような人に、再びオーディオに興味を持ってもらうための、わかりやすい案内書となっている。特に携帯音楽プレーヤーに触れている部分が新鮮で、音質のいい音楽をうまく聴く具体的なアイデアが紹介されている。ネット・オーディオに触れてはいないので、古くなってきたが今でも十分説得力のある内容である。なお著者は「レコード芸術」誌などにも定期的な記事のあるオーディオ評論家。




(2)「大人のための新オーディオ鑑賞術」(たくきよしみつ、講談社ブルーバックス、2009年)

PCを核としたデジタル技術が、オーディオ分野に浸透してくるに連れて、音楽鑑賞の方法も随分変わり、そして必要となる知識も増えた。そのようなものの変遷と、どういうことに知っておけばいいかということをわかりやすく教えてくれる本書は、ネット・オーディオへの入門書でもある。デジタル技術を取り入れることで、それまでアナログ中心の世界だったオーディオが、具体的にどのように変わるのかを明確に、そして熱意を持って語られている。(なお著者は原発事故の避難地域に住むため、最新刊は「裸のフクシマ」)



(3)「いい音が聴きたい 実用以上マニア未満のオーディオ入門」(石原俊、岩波アクティブ新書、2002年

本書もまた2000年代になってから刊行されたオーディオ趣味のためのガイドである。少し古くなったが、 本書の内容はむしろこれまでの技術、たとえばアンプやスピーカーなどの配置や結線の方法など、常識とされている内容を平易に語っているところだろう。その意味で、オーディオ初心者にはわかり易く丁寧である。なお、著者は音楽評論家なので、クラシック音楽のディスクについても詳しい。そのあたりが本書の魅力でもある。





(4)「音楽がもっと楽しくなるオーディオ『粋道』入門」(石原俊、河出書房新社、2005年)

同じ著者が、今度はもう少し音楽の方に重心を置いて語ったオーディオの本である。オーディオにこだわるクラシックの愛好家が、ではどのような再生装置でどのような音楽を聴くか、そのモデルを取り上げ、オーディオと音楽の両面から話題を展開する。ユニークな視点で書かれているので大変興味深いし、こういう本が読みたかったのだ、という人も多いのではないか。そして、結局のところはオーディオも、音楽の趣味の一部なのだということが熱く語られており、共感を覚える。




(5)「高音質保証!麻倉式PCオーディオ」(麻倉怜士、アスキー新書、2011年)

(1)の著者による最新のPCオーディオガイド。PCオーディオの基礎知識と勘所を詳しく紹介している。初めての人には少し難しいところもあるかも知れないが、今もっとも簡単に手に入るガイドだろう。製品の紹介もされているが、こういうあたりはすぐに古くなるし、新書の企画としてはどうかとも思うが、早めに手にとってキャッチアップすることで、他の書物や雑誌へのアプローチが楽になるだろうと思う。

2012年2月23日木曜日

SONYのヘッドフォンMDR-7506

SONYのヘッドフォンMDR-7506はスタジオ・モニター用で、良く録音セッション中のアーティストが耳にしているのを見かける。それほどこれはプロにとっても、言わば忠実な再生音がするのであろう。私もそのヘッドフォンを聞いて、これはいいと思い買ってしまった。以下はその時の記録である。オーディオのことに触れたついでに転記しておこうと思う。

少し耳に圧迫感があるので、長時間の使用は疲れるということは買ってからわかった。そしてただクリアに忠実な音というのも、それは風味には乏しい。そしてこれは私の好みなのかも知れないが、現在WAV形式の音楽ファイルをネット・オーディオ環境で聞くとやはりそのような感じである。だがこれまでに聞こえなかった音がくっきりと分離したり、各楽器の距離感が鮮明になったり、歌声が丸で3D映画のように飛び出してくる感覚は、ちょっとしたものだと思う。

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最近、iPod用に新しいヘッドフォン(イヤフォン)を購入し、大変満足していることは前に書いた。しかしこれは携帯用。家で普通に音楽を聴くとき、子供が寝静まった夜ともなれば、もう一つヘッドフォンがいる。そこで、家電量販店へ聞き比べに出かけた。

そこで目についたのは、やはりSONYのヘッドフォン。何か逆輸入とかなんとか書いてあったのだが、それは気に留めず、もちろん初回は買う気もなかった。ところが2回目、またしても気に入ったSONYのヘッドフォンがあり、店のレイアウトも変わっていたので、前回気に入ったものと同じかどうかもわからないまま、流れていたサン=サーンスのオルガン交響曲に耳を澄ます。もちろん、今回は他のヘッドフォンも片っぱしからチェック。

その後、別の量販店で、今回はどうかといろいろ聞き比べたら、やはりSONYの1万円台のものが最も良いと思われた。この機種、MDR-CD900STとかいうもので、いろいろ調べたら、モニター用の定番らしいことがわかった。さて、問題はこれが以前に聞き惚れたSONYの同じ型かどうか、そして他のヘッドフォンとどう違うのか?

そこで、いろいろとインターネットで調べたところ、何と、MDR-CD900STとほとんど同型の機種で、主として海外で売られているMDR-7506というのがあることが判明、どうも自分が惚れたのはこれらしい。でも900STとどう違うのか。

カタログをいろいろ調べてみると、900STの方は、標準ジャックでコードはカールではないことくらい。一方、口コミでは900STの方が装着感はいい、などと書かれている。しかし肝心の音は、自分で確かめるしかない。それにしてもクラシックには適しているなどとは一切書かれておらず、むしろ他のメーカーの機種などが推薦されていたりする。

再度、量販店へ。900STは確かにいい。他にSONYの何点か、そして他のメーカーもいろいろ験したが、良く似たものはあるものの、価格や装着感などで、やはり900STがベスト。どういうわけか、この音に惚れてしまったようだ。単に、好きな音なのかも知れないけど。

だが、今度は肝心の7506が聞けない。そこで、前の量販店に行ったところ、やはりそこには7506と、そして900STが並んで展示されているではないか!そこで徹底比較をすることにした。たしかに装着感は900STがいいのだが、音の柔らかさが7506にはより多くあって、これが長く聞いていた時には疲れないのではないかと思った。7回の量販店通いまでして、ここまで来たら、買うしかない。結局、14800円とちょっと高かったけど、購入を決意。家に持ち帰って聞いてみたら、やはりいい。しばらくこのヘッドフォンから耳が離せない。

(2008/03)

2012年2月22日水曜日

インターネットラジオ

世界中のラジオ放送を居ながらにして聴くための手段は、今では信じられないことだが、ほんの十数年前までは短波放送しかなかった。ノイズと伝播障害を乗り越えて電離層を何度も反射し、地球の裏側にまで届く国際放送は、国境の壁を超えて直接ポータブル・ラジオに届く。まだ冷戦の激しかった時代は、様々な妨害電波も入り交じって短波放送の周波数帯は、いつも混雑していたものだ。

状況が変わったのは、やはりインターネットの発達による。今や世界中に張り巡らされたIP網によって、どこの国の放送であったも大変いい音質でラジオ放送を聞くことができる。音楽やFMだけでなく、かつて短波放送の主流だったBBCニュースやVOAも、いまやインターネットに移行した。だが、簡単な操作性でこれを聴けるようになるには、長い道のりであった。

私がインターネット放送に接したのは、2006年だったと思う。赤坂のフレンチ・レストランでフレンチ・ポップスが流れていたので、店のマスターに訊くとインターネット放送だと教えてくれた。もちろんそれ以前にもストリーム放送は知っていたし、いくつかは低い音質ながらも私のPCを鳴らしていた。だがそこで流れていたのは、地元のFM放送に引けを取らない高音質のステレオ放送で、おまけに軽快なフランス語のDJも付いている、いわば本場のFM放送そのままのストリーミングだったのである。

回線がADSLから光となって、私の新しいPCにはiTunesを搭載し、その中でいくつかの放送を聴くのが私の趣味だった。けれどもラジオを聴くためにPCを立ち上げ、その前に座って操作するというのはいかにも負担だった。もっと手軽に、しかも高音質で楽しめないものかというのが私の課題だった。

当面考えたのは、PCの再生音をラジカセに飛ばすことである。そこでまずはONKYO製のCDラジカセを買った。そこにはiPodのドックもついていたので、当面はiPodを再生するのが目的だった。だがiPodの再生音は、FMやCDの音に比べて小さい。ONKYOに聞いてみたが、そういうものだとの返事であった。そこでiPodを手元のアンプにつないでみたのだが、やはり大変に音質が悪い。このためiPodを大音量で聴くということをあきらめざるを得なかった。

次に試したのがFMトランスミッターによる転送である。このためFMトランスミッターの装置と、アクティブ・スピーカーを購入し、PCに接続した。だが、FMトランスミッターは車の中のような狭い車内でこそ有効のようだが、近くに行かないと綺麗に伝送されない。それでは直接接続するのと変わらず、しかもその方が音質がいい。だが少し離れたところで再生したいので、これはやはり続かなかった。

転機が訪れたのは2009年だった。雑誌で読んだ記事にREX-Linkという機器の話が載っていた。これはUSBに差し込んだ無線装置が、別の場所においたDACにPCの再生音を転送し、DACに接続された音をアンプ(私の場合にはONKYOのCDラジカセ)で再生するというものである。これはベンチャーのような会社が販売していたが、Amazonにて即日配達の購入が申し込めた。

1万円近い投資だったが、その効果は抜群でドイツのインターネットラジオをBGMに過ごした日々がある。だが、この無線の装置は干渉を受けやすく、しかも直接受信ができる直線距離でないとノイズが混入する。ラジオを聴くたびに3つの機器のスイッチを入れ、切り替え装置を操作するのは何とも大変である。しかもUSBの接続口が低い位置にあるので、これを上に持ち上げるため延長コードを壁づたいに這わせる必要があった。これでは手軽というには程遠い。

同じ年にPioneerのアンプA-A9を購入したが、ここにはUSBの入力インターフェースが付いていた。これはUSB DAC付きのアンプということである。そこで私は早速PCを接続してみたが、たしかにいい音は鳴る。それは素晴らしいのだが、そのために自席からオーディオ装置までの10メートルを有線接続する必要があった。このためのコードをいつもそばに置いておくことが、やはりネックだった。PCを立ち上げる必要もあったし、PCをラジオ専用にしないと、CPUの負荷が増して音が途切れる。私のPCは大変遅くなっていた。

手軽なインターネット放送は昨年iPad2によって初めてもたらされた。そこでは実に軽快に選曲が可能なアプリをいくつか無料でダウンロードできる。地図上から放送局を選択するあたりは大変楽しいし、画像、すなわちビデオ放送も楽しめる。音質は小さいスピーカーとしては悪くはないが、大きな音量で聞くことができない。また無線LANの環境が前提となるので、そのための投資が必要だ。我がマンションは数多くの電波が飛び交っているので干渉が激しかった。最初はそれがわからず、ルータの設定に何日も費やす始末である。

このような長い道のりを経て、ようやくネット・オーディオの環境が整った。無線LANやiPad2も役に立っている。しかも数年前とは異なって、ネット放送の音質は飛躍的に向上している。インターネットで聴くクラシックやジャズの専門チャンネルは、私の場合どこかの放送のライブであることが多いが、いずれも選曲やアナウンスに趣があって大変好ましい。これで遂に、手軽な世界の放送を居ながらにして聞くことができるようになったのである。

2012年2月21日火曜日

携帯音楽プレーヤー

ネットワーク・オーディオが普及する前は、iPodが音楽ダウンロードのメインストリームだったし、今もiPhoneやiPadなどの機種が増えたものの、その流れは変わっていない。だが、携帯する音楽というコンセプトは、1980年頃のSONYによって打ち立てられた。丁度私が中学生だったころ、ヘッドフォンで歩きながら聴くカセットテープレコーダーが、何とも異様な雰囲気をもたらしたと思った。音楽をひとりで聴くという行為というよりも、そのことによってコミュニケーションを遮断しているように思えた。何もそこまでして音楽を聞く必要があるのだろうか、と言われたものだ。

だが高校生になって友人がWalkmanを買い、自慢げに学校に持ってきた。少し私も聞いてみたが何ともそれが格好良く、しかもヘッドフォンで聴く音楽は、ノイズも遮断するのでいい音質だと思った。それから数ヶ月が経って、私も東芝製の類似品(ウォーキーとか言った)を買った。FMラジオもついているやつで、小さな弁当箱ほどの大きさのそれを、私は持ち歩くと言うよりは自分の机に置いて、受験勉強をしていたのを思い出す。

この頃に聞いた音楽は、FM放送をエアチェックして録音したもので、その音楽は今でもCDとして買い直し持っているものが多い。忘れ難い演奏の数々は、いずれまとめて紹介しようと思ってはいるが、ゼルキンのベートーヴェン、メンデルスゾーンの無言歌集など、ごく私的なベスト・アルバムである。

インターネットが普及した21世紀に入って、ダウンロード型の音楽販売に先陣を切って乗り出したのもSONYだったと思う。Net対応のMDウォークマンMZ-N1が発売されたまさにその日に、私は新宿のヨドバシカメラ本店で、これを購入した。デジタル録音が手軽にできるMDに、ダウンロードで入手したファイル(これはATRAC3という形式)を入れて持ち歩く。さっそく私は帰宅して、VAIOにADSLモデムを繋いだ。SONYの音楽サイトで入手できた音源は、しかしながらキャンディーズの「微笑がえし」くいらいしかなく、私は大いに失望した。SONYは著作権の問題に負けたのではないかと思っている。

しばらくたって一時凋落の激しかったAppleからiPodが発売された。最初のiPodは、オペラのようなトラックの多いものを聞くと、いちいち空白時間が入るなどといった、私の今のネット・オーディオのような状況だったが、あれよあれよという間に携帯音楽の標準機となってしまった。SONYもネット対応のウォークマン(Net MD)を次々と発売したが、東芝のgigabeatやPanasonicのD-snap同様、歯が立たなかったと言っていい。圧倒的なシェアにより、1Gあたりの単価はアップルが安いということが大きかった。

けれどもiPodの音楽はクラシックなどには不向きで、圧縮率が大きために聞くに耐えない音楽であると思われていた。確かにiTunesよりダウンロードしたビットレート64kbpsのファイルは、イヤホンで聞いても音質が充分とは言えないような気がした。けれども2つの工夫により、充分に高音質な再生環境となることがわかると、すぐさま私は第2世代iPod nanoを、翌年にはiPod Classic(80GB)を購入した。ここで2つの工夫とは、ファイルの圧縮率を決して下げないことと、イヤホンを高級な機種にすることである。私は256kbpsのMP3ファイルをiPod nanoに入れて、SONY MDR-EX90SLというイヤホンで聞いている。

このイヤホンは大変充実した音だが、常に持ち歩くにはやや負荷が高い。8000円もするので壊したり無くさないかと心配である。iPodではPodcastとかも聞くので、何も常に高級イヤホンである必要はない。そこで通常は1000円クラスの最安値イヤホンを持ち歩いている。このイヤホンも、いろいろ聴き比べた結果SONY  MDR-E10LPに落ち着いた。WalkmanではiPodに負けたSONYだが、なかなか魅力的なイヤホンを発売しているので、私はひそかに応援している。そして最近ではAppleに継ぐ携帯音楽プレーヤーは、やはりSONYということになっているようだ。もちろんMP3にも対応しているので、もはや一度録音したファイルが別の機器で聞かれない、などということはなくなった。これも進化ではある。


以下は2008年に書いた SONY MDR-EX90SLのブログ記事である。参考までに転載しておく。

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通勤途中の電車内で、iPodに録音した音楽を聞いている。そのようにしないと他に聞く時間がないことが理由だが、今ではこの小さな録音機器が気に入っていて、小さいながらもそこそこ高音質ということがわかり、かつてウォークマンを持ち歩いていた時に比べると、その手軽さの違いは歴然である。

iPodで聞く音楽を高音質に保つ秘訣は、ロスレス圧縮で収録することに加え、そこそこいいイヤホンを選択することのようである。そこで私はある日、有楽町のビックカメラでいろいろ聞き比べを行った。最初は、audio-technicaの1万円台のものを買う予定だったが、そこにはBOSEとかSONY とか、他にも海外製品を含め数多のイヤホンが順番に展示されていて、しかも聞き比べができるように音楽が流れている。

私は小一時間にわたりその数点に絞って何度も何度も比べてみたが、そうしているうちにだんだんとどれが本当にいいのかよくわからなくなってしまった。好みの問題もあろうし、聞く音楽の種類によっても最適なイヤホンは違うものと思われた。BOSEなどは独特の音がしたが、その違いは非常に鮮明であるものの、それはそれで魅力的である。けれども他と明らかに違うので、うまく作られた音がしているように思えた。

DENONのものは、やはりこのメーカーらしく、ピュアで装飾のない感じ。好きかと言われたら、ちょっとどうかと思うのはあくまで個人的な印象。かつてカートリッジで名を馳せたシュアなどのものもあって、私の同僚はそれを強く勧めたのだが、装着感やデザインなども気になってきて、どれがいいかよくわからない。

そのようにして、最後はこれにしようとレジへ運んだのは、SONYのMDR-EX90SLというモデルであった。何でSONY?という感じだったが、これを聞いてみると、何とも素敵な音がする。それまで聞いても感動しなかったCDが甦る、蘇る!

ポータブルのCDプレーヤーに差し込んで片っぱしから聞いていったが、飽きないばかりか、いい演奏の再発見の連続!たとえば、マゼールがニューヨーク・フィルを振ってライヴ収録したR.シュトラウスの「ドン・ファン」。その最初の出だしを聞き比べると、再生装置の違いが明瞭であった!

そのようにして昨年の夏は、ネトレプコのアリア集を聞いていた。暑い夏休みの朝、通勤電車で聞くヴェルディやベッリーニのアリアが、何とも心地よい。続いてラトルのハイドン!この1曲がだいたい田町から新宿までの山手線の長さにちょうど良い。ただ新宿駅につくと、例のJRの駅の発車音楽が重なり、いい気分も台無しである。しかも14番線のそれは、なぜかひときわ大きなボリュームである。JRには、私のような音楽愛好家の意見を取り入れ、つまらない音楽を流さないようにしてほしい。

さて、私はclassic fmというイギリスの雑誌を最近買ったのだが、ここに附録として添付されていたCDをさっそくiPodに入れて聞いている。NAXOSを中心とした音源だが、どこかのレコード雑誌と違い、選曲に優れ、しかも配列も確か。2月号のテーマは「動物の謝肉祭」で、サン=サーンスの同名の曲だけかと思いきやさにあらず、いろいろな動物にちなんだ曲が次から次へと出てきて、私はしばし聞き込んでいた。

このSONYのイヤホンがいいのか、NAXOSの廉価版CDの演奏もなかなかである。

2012年2月20日月曜日

音楽ファイルの形式

CDプレーヤーを駆動し、その場でアナログ変換までを同時に行う従来の再生方式より、PCにおいて予めコピー(リッピングという)しておき、デジタル・ファイルをネットワーク・オーディオ再生機でそのまま再生してアナログ変換する方が、エラーの発生やノイズの混入が低減されるため音質がいいということを述べた。ではCDからリッピングしてハードディスクに保存するファイルは、どういう形式が望ましいだろうか。

数多あるCDのリッピング・ソフトのいずれを用いた場合でも、通常その保存型式はいろいろ設定できることになっているが、「そのまま」保存する場合にはWAVという拡張子が付く型式となる。もっとも私が用いている優れたフリー・ソフトExact Audio Copyでは、そのコピー処理を厳格なまでに実行する。エラーが発生した場合には何度も読みなおすし、様々なデータベースにアクセスしてその確実性を検証してくれる。これによってCDプレーヤーのように同時性を確保しながら再生するのとは違うより正確なデータがローカル保存できる。

ただWAVという型式は、CD一枚あたり650MB程度の容量がある。そこで、これをデジタル処理により圧縮し、もう少し小さな容量のファイルに変換することができる。その圧縮の種類によっていろいろな形式が存在するのだが、一般的には圧縮しないほうが音質がいい(少なくとも悪くはない)ということである。可逆的な、つまりロスレス圧縮なら同じではないかという意見がある。だが私が試したところ、明らかに圧縮のないWAVファイルの方が、音質は上であった。これは圧縮したファイルを解凍する際の処理が入る分、CPU等に負荷がかかるためではないかと推測している。

従って、今のところ、リッピングしたCDの音楽データは、そのままWAV形式に保存しておくに限る、と考えている。幸いなことに大容量のHDDも随分と安くなったし、PCと二重に管理すればバックアップも可能だ。500GBのHDDなら、1枚700MBとしても700枚程度の収容が可能である。ただ、WAV形式だと音楽に付随した様々なデータ管理に制約があるので、これを嫌う向きも多い。私はフォルダの構造を工夫している。音楽ファイルの様々なデータ(トラック毎の曲名や演奏家名など)は、Exact Audio Copyの場合、フリーのDBへアクセスして情報を採取してくれる。これで大抵のCDは曲名を都度入力する必要がないが、その表現方法はまちまちである。クラシックならアーティストの欄に作曲家が入ったり指揮者がはいたっりするし、曲名がドイツ語だったりフランス語だったりする。結局、曲名ファイルの編集も結構煩雑なので(楽しい作業ではあるが)、フォルダ名を工夫することにしている。

圧縮して保存するメリットは、それを携帯音楽プレーヤーに持ち出す場合である。私はiPodを利用しているが、この場合にはMP3のような効率的な圧縮形式を採用することにしている。もちろん音質と容量のトレードオフとなるが、数年前に256kbpsで統一することにした。だが192kbpsでも良かったかも知れない。これで80GBのiPod Classicに500枚近いCDが収録できる。MP3を使用するのは、それが汎用的で、編集にも優れているからである。だが、今やネット・オーディオでの再生も可能となったので、不可逆圧縮のあるファイルではちょっと物足りない。

そこでファイル容量がある程度少なくでき、しかも復元可能な可逆圧縮の形式が注目される。様々な形式があるが、その中でももっとも普及しているのはflacと呼ばれる形式である。これで1枚のCDが300MB程度にはなる。だが先に述べたように、そのまま再生するならWAVの方がいい感じがするし、持ち歩くには容量が大きい。従ってこれはダウンロード時の時間節約のための形式と考えている。もちろん可逆圧縮なので、任意に両形式は変換可能で、そのためのソフトも数多い。ただアップルが昨年末に独自の可逆圧縮方式alac(Apple Lossless)をオープン化した。iTunesではflac形式を再生できないので、今後はもしかするとalacが主流になる可能性もある。

e-onkyoなどのハイレゾ音源は、今のところWAVもしくはflacの選択式が多い。WAVやflacと言ってもハイレゾなので、CDの44.12kHz/16bitではなく、96kHz/24bitという高音質ファイルである(従って容量もでかい)。

iTunesのような音楽ダウンロード・サイトでは、今でもalacやAAC、それにMP3が主流である。MP3は高音質と言ってもせいぜい128kbps程度なので、これはやはり携帯専用と割り切るべきだろう。だが今後どのようになるかは、注目に値する。

DSDのような画期的な形式の音楽配信は、まだ試行段階である。だがこれも実際には目が離せない。それはすでに音楽録音の現場ではDSD録音が主体となっており、PCM録音とは明らかに違う音場感が得られるからである。このことはSACDで既に体験済みである。しかしSACDのような5.1chのようなサラウンド録音は、これをダウンロードするには至っていない。従って、現時点ではせいぜいflac形式の音源ファイルをダウンロード購入し、再生して楽しむレベルである。そう言ってもこれまではSACDでしか味わえなかったCDを上回る音質が、やっと手軽に楽しめる時代になったということが、非常に嬉しい。

昔のメジャー・レーベルの音源も、できればハイレゾ配信して欲しいところだ。けれども、米国のHDTracksが購入できなくなってしまった以上、当面は手持ちのCDをせっせとリッピングして、ネット・オーディオ装置で再生する楽しみで妥協するしかない。だが、これは妥協と言うにはもったいないくらいに素晴らしい。音質の改善効果が半端ではないからである。

2012年2月19日日曜日

ネット・オーディオの楽しみ

ネット・オーディオを理解するためには、デジタル録音技術、特にPCM技術の基礎的理解が欠かせない。それは標本化(サンプリング)、量子化と、圧縮に対する考え方である。

アナログ波形をデジタル化する場合には、まず短い時間に区切って音波の振幅を測る。当然のことながら、この区切り時間が短いほど音はいいということになる。それでCDで採用されている44.1kHzよりも、96kHzとか最近では192kHzのほうが音はいいということになる。これらのCDを超える音源は、当然ながらCDでははく、ダウンロードもしくはDVD-ROMなどにより入手することとなる。N-30ではこのようなファイルも再生可能ということだが、私はまだこの領域に入っていない。e-onkyoという日本では草分けのハイレゾ配信サイトがあり、PentatopneやChandosなどのクラシック・レーベルも一部が入手可能である。今後試そうとは思っているが、ファイルサイズが大きくてサウンロードに時間がかかる。

もう一つの指標である量子化ビット数は、サンプリングによって区切られた音の振幅を何ビットで数値化するかという値で、多いほど音の情報量は多い。よってこれもCDの16ビットよりは、24ビット、さらには32ビットなどというように、「音質は良くなる」。

CDの数値、すなわち標本化周波数44.1kHz、量子化ビット数16bitを基準にすれば、192kHz/24bitなどというのがいかに高音質か、ということだが、では人間の耳がこれを聞き分けるのかとい言えば、必ずしもそうではないと思われる。耳そのものの機能(は老化で衰える)、音楽を聴く環境、体調などに比べれば、無視出来るほどではないかと思う。CDの音質がもっと良くなればそれに越したことはないが、そもそもCDの音質を充分に再現できているのだろうか。

そこで、ネットオーディオの世界において、ハイレゾ音源をトライする前に、すでに入手しているCDの音をミュージック・サーバとして再生し、CDをいちいち取り出してトレーに乗せるという行為をなくすという今ひとつの目的に、まずは熱心に取り組むことになる。

ハイレゾ音源は魅力的な領域だが、まだ数が少ない上に高価である。一方30年もの歴史のあるCDはコピーフリーのメディアで、今もって音楽鑑賞の主流である。CDのコレクションを言わばジュークボックスのようにワンタッチで聴くことが、この楽しみの目的の一つである。だが、そのような目的のために数多くのCDをいちいちリッピングするのも大変な手間である。従って、コピーして再生する音質が、元のCDをそのままCDプレーヤーで再生するよりも低いなら、この取り組みは直ぐに挫折しかねない。ところがそうではないのである。

CDの音質は、かなりのレベルのCDプレーヤーであっても、CDを駆動する装置からノイズが出たり、読み取り時のエラーがあったりする。このようなエラーに出くわしたとしても、CDを途中で止めて再度繰り返すことはできないので、そのまま一発勝負で再生が進む。しかしネット・オーディオの世界では、このデジタル・データの再生、デコード、アナログ変換を、CDの駆動とは別に実行することができるのである。これによって、もっとも良い状態で読みだしたCDの信号を、他の影響を極力排した形で再生することが可能となる。これがネットオーディオの(おそらく現時点では主流の)楽しみである(今一つは上記のハイレゾ再生、さらにはインターネット放送であろう)。

CDを一度コピーする(リッピング)作業に手間をかけ、かなりの量のデータを保存するディスクを準備し、さらに再生装置としてUSD DACもしくはネット・オーディオ環境を構築する理由がここにある。そしてそれはやる価値が大いにあると言える。投資すべき機器は以下の通り。

パーソナル・コンピュータ(DVDドライブ付き)
OS(Windows7またはMacOS)
リッピングやファイル変換用のソフトウェア
ネットワーク・オーディオ装置またはUSB DAC
アンプとスピーカー
無線LANルーター
インターネット接続環境(光)
ハードディスク(またはNAS)
iPad/iPod touch/iPhoneまたはandoroid搭載端末(遠隔操作用)
コード類(UTPケーブル、USBケーブル、RCAケーブル)

ここでおわかりように、もはやCDプレーヤーなるものが不要となる。そしてもしハードディスクで管理されたデータが、誤って削除されることがなければ、CDも不要である。なぜならCDと同等かそれ以上の高音質の音楽は、ダウンロードで入手可能だからである。

そういうわけで、高速インターネット環境の普及によって、CDというメディアが博物館入りする日もそう遠くないかも知れない。ただ現在のハードディスクは物理的に破損しやすいので、その意味でディスクでの保存という形態は、しばらく続くだろう。でも販売メディアとしてのCDは、その歴史的役割を終えたと言っていい。

2012年2月18日土曜日

Pioneer N-30

ネット・オーディオを構築することになった直接の原因は、昨年末にPioneerから発売されたN-30及びN-50が、大変安くしかも満足の行くスペックであったからだ。このネット・オーディオは、大きく分けて3種類の楽しみ方ができる。

まず第1番目が、USB接続による音楽ファイルの再生で、USBメモリやiPod等に入れられたファイルをそのまま再生し、アンプに向けて音声を出力するというものである。ということは内部にDA変換器があるということだが、N-30に関してはどういうわけかPCを直接接続しての再生(つまりUSB DACとしての利用)はできない。また、デジタル信号を入力してアナログに変換するだけの、すなわちDA変換器単独での利用もできない(N-50はいずれも可能)。

私はPioneerのアンプA-A9というのを持っており、これに接続しているのだが、このアンプには付け足しながらもUSB DAC機能がついており、PCからUSBケーブルでつないだ形で音楽ファイルを聞くことがすでに出来ていた。そういうこともあって、今回はN-50ではなく、より安いN-30にしたわけである。もっともPCをLAN接続してPCにミュージック・サーバ機能を持たせ、音楽再生ソフト(foobar2000を私は使っている)による再生を楽しむこともできる。

第2番目の楽しみ方は、このようなLAN接続による再生である。LAN接続とUSB接続がネット・オーディオの主流だが、この機種はそのどちらもができるというわけである。LAN接続にも様々な形態がああって、上記のようにPCをサーバとする以外に、NASを利用する方法がある。これがもしかすると普及していくのかもしれないが、NASを接続するということは、その中にCPUやOSが組み込まれている以上、一種の専用コンピュータが存在することに変わりはない。従って、私の現時点での結論は、NASを購入するくらいなら、PCサーバでもいいのでは、というものである。

ただいろいろ試したところ、foobar2000による再生を無線LAN経由で行った場合よりも、同じファイルをUSBメモリにコピーして再生したほうが、高音の伸びと全体的な安定感がかなりいいという状況にある。しかもこのUSBメモリの代わりに、USB接続可能なHDDであっても、フォーマット形式さえ合わせれば原理的には同じであると推測される。だがこれはサポートされていないと説明書には書いてある。

LAN接続による楽しみには、iPod touchやiPhone、またはiPadからの再生も含まれる。だがこの場合、再生しているのはあくまでこれらのアップル製品である。この携帯型の端末は、残念なことに容量が少ない。多くのファイルを入れるには音質を犠牲にして不可逆な圧縮ファイル(例えばMP3)として保持する必要がある。これは手軽に楽しむにはいいが、オーディオ趣味としては中途半端と言わざるを得ない。

第3番目は、おそらくもっとも価値が高いと思われるインターネット放送のチューナーとしての利用である。これは世界中に散らばるありとあらゆる放送局の番組をストリーミング再生するというもので、パソコンでできることをパソコンなしでやろうというものだが、音質は格段に素晴らしい。

インターネット放送の音質は、一般的にはストリーミングの帯域に依存するが128kbps以上であれば、高音質のステレオ放送として申し分がない。有名な放送局(Berlin KlassikとかBBC、WQXRなど)はもちろんクラシック以外のジャンルにも数えきれない位の放送があるので、これだけで一年中楽しめるし、もはやCDを揃えて置く必要はないのかも知れないとさえ思える。満足なFM局がない我が国で、いまやPCを立ち上げなくても手軽に世界中のラジオが聴けるようになったのは、短波放送を趣味としていた私にとって、隔世の感があるのである。

このようにネット・オーディオの楽しみは多彩だが、さらにもう一つ、忘れてはならない要素は、これらの再生や選曲の操作を、手元のiPad等でできることである。Pioneerからフリーでダウンロード可能なiPadアプリは、まだ十分に使い勝手がいいわけではない。だがそれでもなお、その操作感の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。音楽を楽しみながら、新聞を読むということがソファに座ったままオンラインでできる。

音質について。これについては別に話す必要があるだろう。一言で言えば「最高級のCDプレーヤと同等かそれ以上」ということになる。「それ以上」というのは、CDを上回る品質の音楽ファイルも再生できるからだが、そういったハイレゾナンス音源をダウンロードするには、まだ環境が整っていない。唯一望みだったHDTracksという米国のサイトは、今月初頭より米国以外のサーバからアクセスされた場合のダウンロードを拒否している。これは著作権の問題であって、技術の問題ではない。

CDをリッピングしてflacファイルにて再生する場合、これはもう手元の中級CDプレーヤーを上回る音質である。音の安定感と全帯域にわたるクリア感は、嬉しくなるほどだが、これはインターネットラジオでも同様である。なお私はリッピングにExact Audio Copyというフリーソフトを用いている。

唯一の不満足な点は、ギャップレス再生ができないことである。このことが、私をして本機を入手する際の最後までの悩みであった。だが、技術の進化はいずれ避けられないし、この世界ではほしいと思った時が買い時である。実売価格が3万円にしか過ぎないこと、同じ機能を持った装置はつい先日まで数十万円もしたことを思うと、これは買って損をしない。あと一つの注意点は、その大きさと重さだが、これは個人の環境次第であろう。

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(2013年3月3日 追記)
先日Pioneerは、N-30/50向けソフトウェアの無償アップグレードサービスを発表した。これにより上記の記事は一部修正する必要がある。それらには①ギャップレス再生の実現、②ControlAppの表示上の改善、③AppleLossless及びAIFFフォーマットへの対応、などが含まれる。ダウンロードは専用サイトから自前のPC経由でUSBメモリへコピーすることにより実施する。まだ試したわけではないが、これにより本機の欠点が大幅に改善されたということができる。しかも購入後2年近くが経過しているにもかかわらず、無償で改善がなされることに嬉しさを禁じ得ない。Pioneerは利用者を裏切らなかったということだろう。大いに評価したい。

2012年2月17日金曜日

オーディオ装置の新しい世界(プロローグ)

新しいオーディオ装置に換える目的のひとつは、それまでに築いたコレクションの再発見をすることではないかと思う。新しい音に蘇った環境に身を置いて、では昔よく聞いたあの演奏はどうなったのかなあ、などとやっていくうちに、音楽そのものの知らなかった魅力を発見することがある。こんなに多くのCDがあるのだから、しばらくは充分楽しめる・・・。それまでは、どうして自分のコレクションがかくも陳腐なものかと呆れていたのに・・・。

そういったタイミングは、アンプやスピーカーを買い換えた時だが、そのような機器(これは実際滅多に壊れない)を買い換える必要が来るのは、新しい技術的要素が加わった時である。オーディオ雑誌(というのも最近ではめっきり身を細めているが)には、いまだに新製品情報に事欠くことがない。真空管のアンプや、レコード・プレーヤーのカートリッジまで特集が組まれているが、そういった古い技術に紛れて、最近目に着くのはネット・オーディオに関する刺激的で興奮に満ちた記述だ。

技術的な革新には、音楽を録音するという最初の発明(エジソンの蓄音機)以来、何度かの大きなものがあったが、その中でもLPレコードとCD(コンパクトディスク)の2つが最も大きかったと言えるだろう。その他の比較的小さな変化(ステレオ技術、PCM録音、DSD)などは、これに継ぐものと言えるが、いずれにせよ10年に一度程度にはこのような新技術に触れる機会が出てくる。そのたびに、自分のオーディオ環境に取り入れてきた。私はさほど凝る方ではないが、一応最低限の興味はあって、少ない投資をしつつも音響に改善を加えてきた。

さて1980年頃にソニーとフィリップスにより発明されたコンパクト・ディスクの登場から、もう20年以上が経過した。かつてほとんどのLPレコードがCDに取って代わったような変化が、どのような形で行なわれるのか、私も興味を持って見ていたが、それがついに2000年代に入って現実に起こり、しかもその流れが決定したと言っても良い。しかもこの変化が、CD時代の終わりを告げる可能性が極めて高い。もはや音楽のダウンロード販売と、ネット・オーディオの世界がこれを凌駕しつつある。そういうわけで私も、本格的にネットオーディオ環境を構築することになった。

しばらくは私のネット・オーディオ環境構築にお付き合いいただきたい。

2012年2月16日木曜日

グノー:歌劇「ファウスト」(The MET Live in HD 2011-2012)

冒頭のシーンで広島の原爆ドームが現れるとドキッとした。ここは第2次世界大戦中の科学者の実験室。原子力を発明した功績を持つ彼こそが、今日の主人公ファウスト博士である。人生を嘆く彼は、神に愛想をつかし、悪魔と手を握る。つまり悪魔とは原子力のことなのだろうか。これこそ原子力発電の問題に悩む日本人として、何とも辛辣な演出であると思われた。
だが話が進むに連れて、この問題提起が曖昧になる。歌は美しく、バレエもあるフランス風のオペラで、それもそのはず、ゲーテの「ファウスト」が問題とした部分が展開されてこないのは、第1部のみのオペラ化だからである。つまり本作品は、「ファウスト」を題材としているにもかかわらず、娯楽作品としてのオペラの枠を守りぬいている。そしてそのことがかえって、このような問題ある演出を中途半端なものにしてしまったような気がする。

核、あるいは原子力との関連付けを思いついた演出家のデス・マッカナフは幕間のインタビューで、やはり有名な物理学者が長崎を訪れたエピソードに触れている。けれども「ファウスト」を一種の娯楽作品として作曲したグノーの音楽に、この演出は相応しいかどうかは意見が分かれるだろう。そしてその問題・・・グノーの「ファウスト」は果たして「ファウスト」か・・・は、これまでにも幾度と無く議論され、文豪を生んだ彼の国ではこれを「ファウスト」であるとは認めていない。

しかしグノーはゲーテの熱心な読者であったし、「ファウスト」を熟読していたことでも知られている。だからこれはグノー流の長い考察と工夫の末に編み出された、彼流の「ファウスト」のオペラ化である。その音楽はフランス風の美しい歌で彩られ、見所も多く、従って上演される機会もまた多い。

私はといえば、しかしながら有名なバレエ音楽しか知らなかったことも、また事実である。そして今回の上演を見ても、なんとなく聞き所を思い出せないのはなぜだろうか。物語が進むに連れても、あまり興奮を覚えなかったし、ヴァルプルギスの夜という酒池肉林の騒ぎのシーンも、いつの間にか通りすぎるという有様だった。ここでも演出に問題があったのだろうか。最終幕で「キノコ雲」が現れたり、妊婦が子供を産んで殺すシーンなどもあったことは良く覚えているが。

歌については、これはもう大変充実していた。筆頭はメフィストフェレスを歌ったルネ・パーペで、貫禄といい歌といい申し分がない。本上演が成功だったとすれば、その功績の半分は彼にあるとさえ思う。そして指揮のヤニック・ネゼ=セガン。モントリオール生まれのこの若手指揮者は、今やメトのフランス物の最右翼であろう。ソプラノはロシア人のポプラフスカヤ。主人公のひとりマルグリット役としては、容姿の点でも申し分ないが、歌は好き嫌いがあるかも知れない。

ファウストはヨナス・カウフマンで、若き青年に蘇った彼は、何とも魅せる。老学者との対比も面白いし、歌の点でも素晴らしかった(と思う)。だが何度も言うように、全体の焦点はぼけた感じが否めず、ストーリーや音楽をほとんど知らない者にとって、楽しめたかと言われれば若干減点を付けざるを得ない、というのが正直なところだ。結構評価は高いようだが、それだけに個人的にも大変残念である。CDでも買って音楽を聞き直し、再度チャレンジしようか、などと思いながら寒風の中、家路を急いだ。

(2012/01 東劇)

2012年2月15日水曜日

ヘンデル:歌劇「ロデリンダ」(The MET Live in HD 2011-2012)

数百年に亘るオペラの歴史において、一般的に良く聞かれるオペラ、通常上演されるオペラは、だいたいグルック以降と相場が決まっている。ウィーンの国立歌劇場に入ると、その中央にあるのはグルックの銅像で、モーツァルトでもなければもちろんベートーヴェンでもない。グルックこそオペラの近代化の祖とでも言うべき人物、ということになっていて音楽史におけるグルックの評価は、一般には結構高い。CDショップ(最近はめっきり少なくなったが)に行くと、オペラのセクションではグルックがもっとも古い作曲家ということになっている。

だがそれより以前にオペラは誕生し、数多くの作品が上演されていた。バロック時代のオペラである。バロック・オペラと呼ばれるジャンルは、その予定調和的で体制順応的なハッピー・エンド・ストーリーと、小規模で女声を必要としない歌によって、近代以降は遠ざけられ、博物館でしか体験できないものの類に分類されていたと言って良い。だが時代は変わり、今では何とバロック・オペラ・ブームと呼ばれる状況になって久しい。

背景にはいわゆる古楽奏法によって、バロックの音楽が音響的に新鮮さを取り戻したという影響が大きい。しかしCDで聴くのと違い、4000人クラスの大規模歌劇場でとなると、とてもヘンデルのオペラなど演奏できる代物ではない、と考えられていただろう。ところがメトは、何とその上演に成功したのである。有名なヴェルディやワーグナーの作品に勝るとも劣らないブラボーの嵐なのである。これには私も驚いた。

バロック・オペラだからと言ってオーケストラが違うわけではない。メトロポリタン歌劇場管弦楽団はちゃんと2台のチェンバロに合わせてバロックの響きと化していた。指揮は英国人のハリー・ビケット。彼はこの大規模劇場においてもなお新鮮な古楽的音色を見事に再現して見せた。演出はスティーヴン・ワーズワースという米国人で、舞台は台本通りではなくヘンデルの生きていた時代に移している(だが、そんなことは素人にはどうでもいいくらいに、やはり古い)。

表題役はルネ・フレミングで、彼女は2年前にもこれを歌ってているようだが、その理由のひとつが子供を持つ母親の心境に共感するからであることは、インタビューにおいて示唆される。だが彼女の出番は、他の表題役に比べると多い方ではない。むしろ夫ベルタリードの訃報に接した彼女に、継承した王位を濫用して言い寄るグリモアルド(ジョセフ・カイザー)や、グリモアルドのいいなづけでベルタリードの妹でもあるエドゥイージェ(ステファニー・ブライス)には、実力派としてのアリアが多い。

さて、王ベルタリードは、実際は死亡したわけではなく生きていたのだが、彼は何とグリモアルドによって捉えられ、投獄されてしまう。えっ?なぜ王が逮捕されるの?と私は混乱し、これは最後まで続いた。話は荒唐無稽で、あとから振り返って見れば、母親による夫と子の救出劇ということがわかる。誰かが刺されて死んだ所で、そこに流れるのはバロック音楽である。音楽の起伏は、実際あるのだが、歌詞を追って聞いていないとよくわからない。その歌詞は、通常アリアにおいて2回も(!)繰り返される。

このオペラを理解するには、時代背景への理解が欠かせない。それはミラノのあたり(ロンバルディア地方)が兄弟によって分割統治されていた、という史実である。それによって、奇妙な兄弟の争いがオペラ化された。ドイツに生まれ、イギリスに帰化したヘンデルだが、音楽はイタリア仕込みである。音楽史上最大の国際的作曲家としてのヘンデルの、まるで澄み切ったミネラル・ウォーターのような音楽が、最初から最後まで耳を覆う。

同じ内容で3回歌われる各アリアの歌詞も、実際にはそうとは気づかずに心地よく聞き惚れてしまうのは、歌に付けられる表情が毎回異なるからである。このようなテクニックによって、3時間を超える長さを何とか耐えることが出来る。そして登場する歌手の中に、カウンター・テナーが二人もいることが見逃せない。一人はロダリンデの夫ベルタリーデを歌うアンドレアス・ショル、もう一人はベルタリーデの友人ウヌルフォを歌うイェスティン・デイヴィーズである。バロック特有の彼らのの実力を評価できるほど私はこのパートのことを良くは知らないが、彼らが非常な喝采を受けていたことは見逃せないし、貴重なインタービューも興味深い。

この作品は、バロック・オペラであってもメトのような大規模な歌劇場で上演可能であることを存分に示した。ビデオで鑑賞することによって、衣装や細かい動きにまで見入ることができる。だが、ヘンデルの他の作品にまで積極的に聴いていこうとまでは思わなかったのも事実である。歌の技巧が大変なレベルにまで達しているが、それもまた聴き方というのがあるのだろう。玄人好みの作品というべきだろうか。

(2012/01 東劇)

2012年2月14日火曜日

ワーグナー:楽劇「ジークフリート」(The Met Live in HD 2011-2012)


楽劇「ニーベルングの指環」第3番目の作品である「ジークフリート」は、英雄の物語である。ここで主人公の17歳の青年は、輝かしいテノールによって歌われるが、その歌は難解を極め、しかも全5時間にわたってほとんど出ずっぱりである。ハッピーエンドとなるエンディングも他の作品にない魅力だし、最後のブリュンヒルデとの二重唱などはオペラとしての魅力にも溢れている。

前作の「ワルキューレ」が女性の成長物語だとすれば、この「ジークフリート」は男子のそれであって、ワーグナー特有の神話だの、神々だの、といったまわりくどい対話が延々と続く割には、テーマをシンプルに捉えて自分に照らし合わせてみたり、なかなか素人でも楽しめるストーリーである。音楽の美しさも小鳥のさえずりや剣(ノートゥンク)の鋳造シーンなど、あっけにとられるほど見事である。

声も年齢も「怖れ」を知らない若者の性格も、この逞しい主人公の輝きに相応しい性質だが、ではこのオペラがそれだけの魅力を持つ作品にすぎないのか、と問われれば答えはやはり違ったものになるだろう。丁度強すぎる光が、まわりの暗さを強調するように、このオペラの影の魅力があるからだ。

それはジークフリートの周りに登場する小人族の養父ミーメ、ヴォータン扮するところの祖父であるさすらい人の二人である(さらには大蛇に化けたファーフナーとミーメの兄アルベリヒもいわば「悪人」で、影の存在としてジークフリートを強調する)。ミーメとさすらい人が、ともに重量級の役者でないと、このオペラは引き立たない。そして今回のルパージュの演出による「ジークフリート」は、その意味で成功と言える。

ミーメは、小心者で小賢しい存在だ。モーツァルトの憎めない三枚目役とは少し異なるが、どこにでもいるような性格の持ち主で、その俗っぽい性質が際立てば際立つほど、ジークフリートの真っ直ぐな性格が浮き彫りになる。そしてそのミーメ役に起用されたジーゲルは、まさに当たり役と言っていいほどの出来栄えで、この作品の成功の第一の鍵はここにあると思う。

ヴォータンとさすらい人を演じるターフェルも、実に堂々とした雰囲気だが、神々の長というよりは世捨て人としての風貌が意外にも好感を持てる味わいであった。孫との1回きりの出会いのシーンは特に印象的で、威厳とそれをもはや誇示しない老境の雰囲気に私は何ともいえない淋しさを感じた。こないだまで若手歌手のホープと思っていたターフェルも、今や大役をこなす重鎮である。

ブリュンヒルデ。彼女が目を覚まし発する第一声が、このオペラの最大の見所のひとつでもある。18年以上もの眠りから冷めた彼女は、4時間以上もフルパワーで歌い続けたジークフリートと初対面する。大変なのはもちろんジークフリートだが、ブリュンヒルデがここでつまらなかったらいっかんの終わりである。だがボイトの声は広いメトの会場に響き渡り、存在感といったらちょっとしたものだ。アメリカ人としての彼女の雰囲気は、先日見た「西部の娘」の印象がどうしても拭えないのだが、まあそれは仕方がない。

さてジークフリートである。世界でも数人しか満足に歌えないこの難役に抜擢されたのは、何と数年前まではセントラル・パークでローラーブレードを売っていたジェイ・ハンター・モリスという若い歌手で、この役がほとんど初めてなら、メトで舞台に立った経験もほとんどないという経歴の持ち主である。アメリカンドリームを地で行くようなこの成功物語をモリスに託したメトのマネージャも大したものだが、彼はその期待に見事に応えたのではないかと思う。何せ病気の代役である。しかし彼はまじめで入念にこの役を練習し、その舞台稽古の様子はメイキングドラマに記録されている。そのさわりが上映されたが、これはなかなか面白い。

彼は前週の「ドン・ジョヴァンニ」の幕間のインタビューにも登場し、そのときは何とも固い表情で無難に質問に応えていたが、今回の舞台での彼はその表情からは何枚も皮の剥けたようなところがあって、まさに開き直りの全力投球だったのだろう。周りのサポートも好意的に見えたし、それははじめての主役級をこなす新人歌手へのプロとしての気遣いのようだった。

ジークフリートの歌への集中が、舞台上での演技という点をややぎこちないものにしたという印象はあるものの、大蛇も倒した怖いもの知らずの若者が女性!と初めて出会って動揺するあたりは、大変印象的だった。ただ、私は初めてこの作品を見たブーレーズ&シェローのビデオでは、何かもっと印象的だったような気がする。もう記憶が薄れ、もしかしたら初めて接するこの作品にただ圧倒されていたからかもしれない。舞台の本番と、ビデオ用のセッションを単純に比較するのも良くないと思う。

舞台一列に設けられた何枚もの細長い板が、縦に回転しつつ風景を表現するルパージュの演出は、見ていて飽きない楽しさがある。そこに本作品では小鳥をはじめとする3Dの効果が加わった。本当に鳥が飛んでいるような感じも良いが、それが音楽に同期しているのである。広い森や洞窟で小鳥に導かれて怪獣のような大蛇を倒す第2幕は、なかなかの見物であった。水たまりや滝のように流れ落ちる水も上手く表現されていて、そういうことを考えている間に時間は過ぎる。

体調不良のレヴァインに変わって指揮台に上ったルイージも堅実な音楽作りで、驚きはないが不足もない。メトの舞台が一生懸命にリリースする超大作の数々は、それがたとえ議論を呼ぶものであったとしてもそれなりに大したものである。観衆が音楽の終わるのを待たずに拍手を始めるのも、まあアメリカ風で許すとするか。

(2011/11 東劇)

2012年2月13日月曜日

モーツァルト:歌劇ドン・ジョヴァンニ」(The MET Live in HD 2011-2012)


モーツァルトの最高傑作は歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だという人が多い。音楽を専門的に知らなくても、確かにそんな気がする。例えば序曲。重層的な冒頭の和音から流れるように主題が現れると、一気に物語の世界に誘い込まれる。この間わずか数分。これほど見事な導入は他にない、と思うほど天才的な転換である。私はこの序曲を聞くたびに、モーツァルトの音楽の魔法のような素晴らしさに舌を巻く。

だが歌劇「ドン・ジョヴァンニ」はそこから始まる3時間のドラマで、しかもその音楽は、次から次へと溢れでて尽きることがない。豊穣で力強く、シンプルにして重みのある音楽の洪水、そして歌・・・。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の魅力は簡単には語れない奥深さを持っている。

The Met Live in HDシリーズの今シーズン第2作品目。最終日に映画館に滑り込んだのは金曜日の7時過ぎで、すでに序曲が終わっていた。私はこの演出が「新演出」という触れ込みで、今や誰もが知る「ドン・ジョヴァンニ」となれば斬新で現代的な演出になるのではと期待していた。ところが私の目に飛び込んできたのは、古めかしい衣装に身をまとったレポレッロとエルヴィーラで、有名な「カタログの歌」が始まったものの、その雰囲気はこれまでに見てきたものとあまり変わらない。

演出はマイケル・グランデージという人だが、彼は2011年も暮れようとしているこの時代にあって、なおも作品に忠実に描こうとしている。これは増えてしまった新解釈の中にあってあえてクラシカルな雰囲気を見せようとした確信犯というべきものか、Metの保守的な聴衆に迎合したのかはわからない。だがこの有り触れた演出によって、本作品がなかなかの出来栄えであったにもかかわらず、歴史に名を残す評判には達しなかった点が残念である。

おそらくモーツァルトが現代に生きていたら、彼は相当斬新な演出を好んだであろうことは想像に難くない。ドン・ジョヴァンニを筆頭にいわゆるダ・ポンテ三部作には、それまでのオペラの伝統を打ち破る力が込められている。階級社会を前提とした陳腐でありきたりの展開こそ、モーツァルトが最も嫌ったものだろう。彼は勃興する市民社会の時代に呼応し、その息吹を作品に込めた。人間味あふれるストーリーと、それを単純なステレオタイプな解釈で終わらせない見事な音楽こそ、彼が愛し、育てた音楽だったのではないか。管弦楽作品だけでは見えてこないモーツァルトの深い味わいは、オペラ、とりわけ中期の3作品の中に恐縮されている。

だとすれば、設定を現代に置き換え、今の現代人にとって楽しい演出こそ、私の、いや多くの聴衆の期待したものだったに違いない。けれども今回の演出はまったくその期待を裏切るものだった。最後のシーンでドン・ジョヴァンニが地獄に落ちるシーンは、本物の火が噴き出して見るものをあっと思わせたし、舞台展開の妙味というものもあっただろう。だが、私が期待したのはもっと過激な演出だった。

主役のクヴィエチェンはポーランド人の若手で、この役にはまっている。レポレッロ役というのがこれほど重要であるというのか、というのは私にとっての発見であった。もっともコメディックなレポレッロは、もしかしたらパパゲーノと同様にモーツァルトが愛したキャラクターかも知れない。
ドンナ・アンナの恋人ドン・オッターヴィオもよくわからないキャラクターだが、彼はラモン・ヴァルガスが手堅く演じ、そのベテランぶりは本上演を引き締まったものにしていた。騎士長のバスにはコツアンという歌手だったが、最後のシーンでドン・ジョヴァンニとの掛け合いは見事だった。これに比べてエロヴィラのフリットーリは、やや期待はずれ。

誰かが幕間のインタビューで、この作品は女性に好まれていることを述べ、男にとっての魅力は・・・まあモーツァルトの音楽そのものでしょうね・・・と言っていた。確かにそのような気がする。インターミッションの時に眺めてみると、これまで見てきた数多くの作品とは違った雰囲気がそこにはあった。若い、しかも女性が多いのである。あとカップルも多い。

やはり女性に好まれる劇なのだろうと思う。だが、その内容は一見女性を蔑視しているようにも思える。ダ・ポンテの三部作はそういうぎりぎりの勝負である。それにしても何故か惹きつけてやまない魅力が、この作品いやドン・ジョヴァンニにはあるのかも知れない。

それがどのようなものか、私なりに考えてみる。まずこのオペラには3人の女性が登場し、その性格は対照的である。もっともわかりやすいのは村娘のツェルリーナで、彼女は何のためらいもなく恋愛を楽しむ。結婚したばかりの旦那(マゼット)もそっちのけである。この楽天性はむしろ微笑ましい。

これに対し、ドンナ・アンナは複雑である。彼女は父親である騎士長を殺されたことも忘れないが、それにもまして倫理観に強い女性だ。婚約者(ドン・オッターヴィオ)の平凡さに我慢をしながらも、ドン・ジョヴァンニの魅力をどこかで認めているところが面白い。

けれどもドンナ・エルヴィーラの必死な姿に比べれば、この二人の恋愛に対する気持ちは軽い。ドンナ・エルヴィーラは本気でドン・ジョヴァンニに恋してしまっている。だからこそ要所要所で現れては他人に介入する。演じたマリーナ・レベッカはインタビューでこう答えている。「私の解釈では、彼女にとってドン・ジョヴァンニは最後の男性なのです。だから必死なのです」

これは作品論である。ドン・ジョヴァンニの作品に対する興味も尽きないが、モーツァルトの音楽に食い込むにはここでそれぞれの個性が音楽的にどのように表現されているかを知らなければならない。だがそのレベルでこの作品を理解するには・・・あまりにな難解である。音楽的知識を総動員して挑むには、モーツァルトの音楽は素人には敷居が高い。モーツァルトも一般の観客にそこまでを求めているわけではないだろう。だが、そのような多くの仕掛けがあって初めてこの作品が現代にも通じる魅力を保ち続けるのかも知れない。

今後はもっとたくさんの演出で見てみたい。そのようななかから作品を解く鍵に出会うだろうと思う。だが、どのような演出で見てもモーツァルトの音楽は同じだし、それに各幕の後半は、ストーリーなどどうでも良い音楽の大氾濫で、それにただ圧倒されるのみである。そのようにして毎回、モーツァルトの音楽の罠にはまってくような気がする。

代役のファビオ・ルイージの指揮は引き締まっていて悪くはないのだが、レヴァインだったらなあ、などと思うところもないではなかった。

(2011/11 東劇)

2012年2月12日日曜日

ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」 The MET Live in HD 2011-2012)


ニューヨークにおけるメトのライブ中継は土曜日の夜で、ラジオ好きには好評の番組である。日本ではオペラ中継こそないものの、日曜午後の「オペラ・アワー」(NHK-FM)は、競馬中継がほとんどだった昔のラジオ番組にあって、私にはなくてはならない番組だった。何せオペラ全曲録音が聞けるのだから。

そこでいつだったかドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」を聞いたことがあるのを思い出す。そういうものだからこのオペラは結構有名なものだと思っていた。ところが全71作品中の35番目の作品であるこのオペラは、なかなか上演する機会がないらしい。そういえば序曲も知らなければ、ストーリーも、そしてただひとつの音楽も有名なものは、ない。

だが、その理由は簡単だった。主役を歌うソプラノが、ただならぬ実力を必要とするのである。全編にわたって出演し続け、歌いに歌い、最後には狂乱のシーンもあって息絶える。最高音や重唱も数知れず、しかも他の配役だって相当の実力が要求される。歌また歌の連続は、第1幕の90分が終わる頃には相当体力的にもきついが、同じかそれ以上の集中力を必要とする後半の第2幕がまたもや90分、しかも喜劇ではなく悲劇、当然ストーリーは暗い。

このようなオペラだから、ドニゼッティの出世作だからといってそう簡単に上演できるわけではない。数十年に一度というチャンスが前回訪れたのは、マリア・カラスの時だろう。だがそれから何十年もの間、この作品は知る人ぞ知る作品だったのではないか。アンナ・ネトレプコが、実にカラス以来の実力を示し、そしてついにその地位に上りつめたと言っていい。これは一にも二にも彼女のオペラとなった。

想像以上に驚いたのはこれがメトにおける初演だったことだ。これほど有名な劇場で、これまで一度も、どの歌手によっても歌われていない。だからネトレプコのこの出演は、いわばメト史上の事件である。そして彼女は期待以上の実力を発揮した。幕間のインタビューも断って、よほど集中力を必要としたのだろう。3月にはウィーンで同じ役を演じているのだが、やはりそれでも彼女は緊張を強いられた。

滅多にお目にかかることのないイギリスを舞台としたこの作品のストーリーは、難しくはないがなかなかしっかりとしている。それ故に、「連隊の娘」や「ルチア」しか聞いたことのない聞き手は、これがドニゼッティかと思いを新たにするだろう。ヘンリー8世を演じたのはアブドラザコフで、なかなかの好演。王妃アンナの初恋の相手ペルシはコステロという歌手で、これもいい。そしてアンナに横恋慕する若いズボン役のスメトンはなかなかの美女だが、この役には惚れ惚れする。そういう訳で、すべての歌手が最高位だった。

アンナを敬いながらも王に好かれてしまい身動きの取れないセイモーは、当初ガランチャの予定だったようだが(ウィーンではそうだったが)、ここではロシア人のグバノヴァに代わり(何でもオメデタのようだ)、彼女はネトレプコの地位を脅かすほどには上手くない。そこがこの配役の味噌だろう。控えめで実直な彼女の歌が、やはり胸を打つ。しっかりとした序曲からスマートな指揮をしたアルミリアートは、歌手の歌を引き立てるいつもの素晴らしさ。そういえば序曲のある作品を見たのは何かとても久しぶりのような気がする。

セクハラもパワハラも何でもありの時代背景は、現代人の日頃のストレスが馬鹿馬鹿しく思われるような気さえしてくる。それほど舞台の内容は悲劇的で歌詞も哀れだが、音楽がベルカントの明るさとロマン性を持っていて、劇的だが重くなり過ぎない。

このオペラを見て私はドニゼッティの存在を再認識したと同時に、その作品がロッシーニとヴェルディの中間に位置することを極めて明確に理解する結果となった。この作品は初期のヴェルディの雰囲気をたたえ、重唱の巧みさ、合唱の挿入のされ方、そしてレチタティーヴォにおける管弦楽の処理など、まさに若きヴェルディを彷彿とさせた。いやヴェルディがドニゼッティから多くのことを学んだのだろう。

夫婦関係の冷めた王が王妃に下した死刑と、王妃に仕えていた侍女との結婚が同時に行われるのが最後のシーンだ。アンナ・ボレーナは発狂して倒れる。重いストーリーも歌劇の中で演じられることを忘れさせない。それだから歌と音楽に一定のゆとりを保持しつつ酔うことができる。圧巻、という表現がぴったりの瞬間が何度も訪れた。熱烈なブラボーがメトの大空間を飛び回り、もちろん最後は全員総立ちである。

 「アンナ・ボレーナ」という作品をちゃんと見たというだけで自慢ができるような気がする、などと書けばちょっと有頂天になりすぎだろうか。なぜなら最初は、仕事の疲れでまったく見る気がしなかったし、実際少し眠ってしまった。だが、目を覚ましてからの2時間は圧倒されっぱなしで、「必ず満足します」というゲルブ総裁の挨拶に違いはなかった。彼の采配が功を奏した。ネトレプコは、疑いなく今一番のディーヴァである。

(2011/11 東劇)

2012年2月11日土曜日

Met Met Met


ニューヨークのメトロポリタン歌劇場は、私が実演で見たオペラ(と言ってもそう多くはないが)の半数以上を占めており、そして現在でも進行中の「The Met Live in HD」シリーズでは十数作品以上に上る作品を鑑賞している。私はこのオペラハウスでオペラに目覚めたと行っても良く、そういえば初めて見たオペラ映画「トラヴィアータ」もメトの演奏だった。
丁度今シリーズの第1作であるドニゼッティのオペラ「アンナ・ボレーナ」を見てきたところだが、その興奮を記す前にこれまでの鑑賞作品を振り返っておこうと思う。なぜなら今回の「アンネ・ボレーナ」は、私の独断に従えばメトの演奏史上に残るであろうほどの成功だったと思うからである。

 1989年3月、学生だった私は卒業旅行という口実で米国に渡り、ニューヨークで駐在員をしていた伯父の家に泊まりこんで一週間のニューヨーク生活を送った。このときは郊外の伯父の家からメトロ・ノースという近郊電車で1時間程度の距離を行ったり来たり。オペラの終わる夜半過ぎの終電車にゆられて帰るため、カーテンコールもそこそこに劇場を後せざるを得なかった悔しさを良く覚えている。それもそのはずで、この時に見たヴェルディの「オテロ」はメトの演奏史に残る名演、指揮はあのカルロス・クライバーだったからだ。オテロにドミンゴ、デズデモナは確かリッチャレッリだった。

 1995年の春になって、私は約1年に及ぶニューヨーク生活が始まったのは、彼の地での駐在生活を送ることになったからだ。私は大いに喜び、ほぼ毎週、いや時には毎日のようにコンサートに足を運んだ。天井桟敷の席はパーシャル・ビューなら十数ドルで当日券が買えた。私が見た最初の作品(1994-1995年シーズン)はヴェルディの「椿姫」で、この時は中耳炎を患って片耳しか聞こえないというハンディを背負っていたが、それも今となっては懐かしい思い出である。

秋になって新シーズンが始まった。そのオープニングはやはりゼッフィレッリ演出の「オテロ」で、この時の指揮はレヴァイン、タイトル役にドミンゴ、デズデモナはフレミングだった。この時の公演はDVDでも発売となり、私はもちろん入手した。

このシーズンは、他にもいろいろな作品を見た。思いつくままに書くと、ヴェルディの「仮面舞踏会」、J.シュトラウスの「こうもり」、モーツァルトの「魔笛」、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、プッチーニの「蝶々夫人」と「トゥーランドット」、そしてロッシーニの「セヴィリャの理髪師」であった。

 それぞれに印象的だったが、ヘルマン・プライの歌うベックメッサーや、トゥーランドットのゲオルギューなどが思い出に残る。トゥーランドットはゼッフィレッリの演出でその豪華な舞台には目を奪われたが、何ともオカマ・バーのような踊りに違和感も残った。一方、「魔笛」は今の妻となる女性との思い出深い最初のデートだったが、チケットをダフ屋から手に入れて二階席中央の高いシートを奮発した。指揮はペーター・シュナイダーで古典的な演出。冒頭の大蛇のシーンで、子供じみた演出に笑い声を上げた彼女の横顔が印象的だった。

 1996年に帰国してからは残念ながら海外でオペラを見る機会はない。だが、2007年より始まったThe Met Live in HDシリーズは、映画館という環境ながら字幕付きの高音質でオペラの楽しさを堪能できる。幕間のインタビューも楽しい。私はそのような作品から、すでに下記の作品に触れた。

   ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」
   マスネー:歌劇「タイース」
   オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」
   ビゼー:歌劇「カルメン」
   プッチーニ:歌劇「ボエーム」
   プッチーニ:歌劇「西部の娘」
   ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」
   ドニゼッティ:歌劇「ドン・パスクワーレ」
   ロッシーニ:歌劇「オリー伯爵」
   ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」
   ヴェルディ:歌劇「アイーダ」
   ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」
   ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」
   ワーグナー:楽劇「ヴァルキューレ 」

 そうだ。このThe Met Live in HDシリーズの最大の魅力は、やはりなんといってもメトロポリタン歌劇場の雰囲気に浸れることだ。私のとってそこは、思い出のたくさん詰まったところである。登場する歌手や舞台装置の裏方の誰もが、ニューヨーカー風の早口でインタビューを受ける。そのやりとりに、多忙な中で最高の質を極めるニューヨークの都会的センスを感じる。

 これらの映像は誠に私のクラシック音楽鑑賞の幅を広げ、新たな境地に至った感じだ。一般的にも有名なこれらの作品を知らずに老いてゆくことは、人生における損失であるとさえ思った。特に昨年より始まった新演出による「指環」を見ていると、生きていて良かったと思えてくる。もちろん忙しく余裕のない毎日なら、そういう時間もなかっただろう。昨年までの私がそうだった。だが今年は、できればほとんどの作品を鑑賞しようと思っている。

2012年2月10日金曜日

ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」(The MET Live in HD 2010-2011)

「フンディンクの館にジークムントが辿り着き、疲れて倒れこむ。妻ジークリンデは強く惹かれあう・・・」ちょっと待った!これだからオペラのあらすじはわかりにくい。いや、そもそも「ラインの黄金」の話はどこへ行ったのだ?ヴォータンは?指環は?指環を奪った巨人は?

このような飛躍した話は、あらかじめあらすじを抑えておかないと理解することが困難だ。もちろん配慮はある。第2幕で長大なモノローグにより、これまでのあらすじがヴォータンによってとつとつと語られるのだ。だが、多くの場合、ここで睡魔が襲う。神々もこれには勝てない。そういうわけで、何が何かわからないまま第3幕に突入。有名なワルキューレの騎行の音楽に出会って「なかなかよかったわ」。もし初めてこのオペラを、外国に出かけるなどして字幕なしで見た場合、こういう結果になることは想像に難くない。

それで第2段階のリスナーは何冊かの本を買い込み、あらすじを予習することになるのだが、これがまた登場人物が多すぎてややこしい。冒頭のようなくだりである。しかも気のきいた聞いた解説書には、トネリコの木だの、ノートゥンク(剣の名前)だの、ヴェルズング族などとやたらドイツ語が登場し、しかもジークムントは自分の父をヴェルズなどと呼ぶ!

さらに詳しい解説書には家系図が描かれ、もはや登場しないラインの乙女たちの本名や8人のワルキューレ(女戦士)の名前、まだ生まれていないジークフリートまでが記される。しかも「示導動機」などというわかりにくい音楽用語まで登場し、ヴァルハルの動機だの、死の告知の動機だのと説明が続く。

これでもう嫌にならない人はいないだろう。もともとクラシック音楽は分かる人にはわかり、わからない人にはわからない、という性質があるので、わかる人ほどわからない人に冷たい。だから友人に助けを求めようものなら、やはりヴォータンの歌唱は50年代ハンス・ホッターに尽きる!などと言い始め、さらに混乱する!

というわけで私も、何度か見たこのオペラをどこまで理解していたのか疑わしいのだが、今日あらためて見て、わかりやすく書きたいと思う。

まず、標題となる「ワルキューレ」は定冠詞付きの単数形なので、これはブリュンヒルデのことだ。彼女は神ヴォータンの娘である(ちなみにヴォータンには何人もの女性との間に子供をもうけているが、そういうことは省略)。で、この物語は父(ヴォータン)にある時期から反抗し、やがて自立していく道を選ぶ女性の成長の物語である。ここに神の地位の失墜と人間の自由の獲得が現れているのではないかと思う。

私は女性ではないから、父親に反抗しながらも愛情を感じる気持ちはわかりにくい。だが子供を持つ父親としての気持ちはわかるようになった。ヴォータンを歌うバス・バリトンの歌手ブリン・ターフェルも3人の息子の父親だとインタビューで語っている(このインタビューアはプラシド・ドミンゴだ)。第3幕最後の父と娘の抱擁のシーンは、本作品最大の見どころだが、ここで私はやはり涙をこらえることができなかった。Met Live in HDシリーズを立て続けに12作品も見てきたが、そのような気持になったのは今回が初めてである。しかも良く見ると、無表情なまま身動きひとつしなかった隣のご婦人も泣いておられる。後ろからもすすり泣きが聞こえる。それくらいここは胸を打つ。子を持つ父親の心情の例として、この娘との別れのシーンは、舞台装置の回転や色の変化、それに音楽の盛り上がりが最高潮に達することと相まって忘れ難い印象を残す。この瞬間を見たくてここまで5時間も見てきたのだ、と一同が納得する瞬間である。

最高の場面について先に語った。テーマも押さえた。あとはそもそもなぜヴォータンが娘と別れなければならなかったのか、というところである。ひとことで言おう。ヴォータンの妻が強いからである。ヴォータンは最初は娘に味方していた。だが急にその方針を覆し、娘に逆の指示を与えるのだ。それは妻フリッカの説得に抗しきれなかったからである。神というのも実にたよりないもので、散々愚行を重ねた挙句、至極まっとうなことを言う唯一の登場人物に逆らえない。だが、このような人間臭いところがまた、オペラの面白いところなのかも知れない。

では娘と父が争った出来事とは何か。時系列を逆に見ていくと第1幕に行きつく。すなわち、ジークムントとジークリンデの関係である。この二人は一目見たときから運命の糸を感じ、愛し合った。このシーンまでが第1幕でここでのクライマックス、すなわち二人の抱擁シーンが前半最大の見どころである。

さて、この二人は実は双子の兄弟なのだが、その父は実はヴォータンなのである。こうなるからややこしい。ジークリンデは愛のない結婚を強いられ、悪くはないが冷たい夫フンディンクと生活をしている。愛がないとはいえ結婚であることには変わりがないので、ジークムントとの関係は不倫であり、しかも禁断の愛である。

当然争いが起こる。もともと属する部族が違い、それが対立関係にあるためジークムントはフンディングと争うことになるのだ。ここでジークムントに武器がない。その武器として、彼の家の庭にある一本の木に刺さった剣を抜いて使おうとする。この剣は魔法の剣で、かつてヴォータンが作って持たせたものだが、誰一人抜けなかったという逸話の代物である。

良く見ればペラペラな、のこぎり状の剣は、いとも簡単に木から抜ける構造になってはいるが、オペラなのでその剣を抜くまでに延々と何十分も歌い続け、音楽が盛り上がる。「ワルキューレ」の3番目の見どころはこの剣を抜くシーンではないだろうか。剣の動機が随所に現れ、寄せては引く波のようになかなかスカッと来ない。焦らされるのである。

今回の演出を私はどうしても初めて見た唯一のビデオ、パトリス・シェローが手掛けたバイロイト音楽祭の70年代のプロダクション(指揮はピエール・ブーレーズ)と比較してしまう。いまとなっては地味ながら、当時はその斬新さの先駆けとなり大いに物議をかもしたものである。

ビデオ監督のブライアン・ラージを追ったメイキング映像では、バイロイト祝祭劇場の客席が取り払われ、カメラワークを随分柔軟に検討したことに加え、舞台での上演であるもののビデオ撮影用のセッションだったので、やり直しのきくものだったようだ。ここがライヴの舞台収録とは違うところである。その時に見たトネリコの木から剣を抜くシーンなどは、余計なものを一切排除したシンプルな舞台が、結果的に小さな道具(剣)への集中度を高めたように感じられた。だから今回はそれに比較すると、やや焦点がぼけていたがそれは仕方ないことだろう。

ジークムントとジークリンデの2人の歌手は立派なもので、舞台の喝さいをさらっていた。双子であることを意識して、見事に息の合ったところを見せ付けた。Good chemistry.というのが彼らの良く使う言葉である。

第1幕では、ジークムントとジークリンデの2人が主役であるとすると、第2幕の主役はヴォータンとブリュンヒルデである。ここで標題役が初めて登場する。ブリュンヒルデを演じたのは、今回の新演出で初めて抜擢されたデボラ・ヴォイトで、私は先日「西部の娘」(プッチーニ)での熱演が忘れられない。開拓時代の肝っ玉女性という印象が強いので、なんとなくしっくりこない。だがメトとしては何としてもこの役は、長年活躍してきたドラマティック・ソプラノ、それもアメリカ人にしたかったのだろう。

ヴォイトは他の作品のインタビューなどにも登場するなかなか魅力的な人である。意外と小柄だが、単に可憐なソプラノではない。ブリュンヒルデも力の入った歌いぶりで、全力投球だった。ただそれがどこの部分にも強く出過ぎて、ここ一番強調されるべきシーンが浮き立たない。それが目立ったのがジークムントを退治しに来てジークリンデとの恋に心打たれ、心変わりをするシーンである。「運命を変える」という彼女のパッセージは、もう少し引き立っても良かった。逆に言えば、それ以外のシーンは抑え気味であって良かった。

第2幕の長いモノローグはヴォータンの見せ場である。ターフェルは圧巻である。彼と妻のフリッカを歌うステファニー・ブライスは当たり役で、その歌はあまりに強すぎて、嫌みはないが他の役を煽っているかのごときである。第2幕は地味で長く、他の部分と比べると少し眠くなるが、それも後半になると美しい部分が出てくる。

そして第3幕。8人の乙女が長いブランコのような坂の上にまたがって一人ずつ歌いながら下りてくる。騎行のシーンである。ワルキューレたちの歌声がここでは圧巻だ。この最大の見せ場は、もっともエキサイティングである。だが実は裏切った娘を追いかけるヴォータンにつかまらないようにと逃げ回るシーンだ。総勢9人ものソプラノがわめくシーンは、好き嫌いがあるようだが、冷静になって見てみればどうということはない。むしろそこからヴォータンに会い、いろいろなやりとりをする会話のシーンこそ真骨頂である。ターフェルの見事な歌唱が、初出演のブリュンヒルデを見事に補っていた。抱擁し接吻を交わすシーンに至って、胸に込み上げてくるものがあり、ワーグナーの壮大な音楽と相まって指環前半の頂点を極める。舞台はそのまま山の中へ。冬の雪山をイメージした高い風景には、時折3D雪崩も起こっている。火の神ローゲがブリュンヒルデの周りに火を放つと、たちまち辺りは火の海に包まれる。「マシン」が回転し、荘厳な柱が何本もできる。ブリュンヒルデを守る火は、そう簡単に超えることができない。たがひとり勇敢なものが現われて、彼女に会いに来る人がいるかも知れない。その人こそ、助けたジークリンデのお腹にいる英雄、すなわちジークフリートなのである!

5時間半に及ぶ映画館は満員であった。3週間の間に12作品を見たが、もうこれでしばらくはいいだろうと思った。フランス物に始まり、ベルカントとヴェルディを経てワーグナーにたどり着いた。私にとってこの夏は、壮大なオペラの歴史をたどる大いなる旅でもあった。

(2011/09 東劇)

2012年2月9日木曜日

ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」(The MET Live in HD 2010-2011)

メトのトロヴァトーレと言えば、88年にパヴァロッティを迎えてレヴァインの指揮したレーザー・ディスクがあった。この公演は確かに興奮したが、同じ頃にみたボニゾルリのヴェローナ(野外)での映像と比較すると、オペラとしての面白さは後者に軍配が上がるように思われた。ただキャストを前面に押し出した豪華な公演はブラボーの嵐となり、カーテンコールには紙吹雪の舞ったシーンが印象的だった記憶がある。

それから少し遡ると、私が初めて見たトロヴァトーレはテレビによる藤原歌劇団だったかの公演で、アズチェーナがコッソット。この公演は素晴らしく、オペラは歌であることを思い知ったものだった。

 コッソットがアズチェーナを歌うCDは沢山ある。その中の一つが有名なスカラ座のセラフィン盤で、ここではステッラがレオノーラを、ベルゴンツィがマンリーコを、そしてバスティアニーニがルーナ伯爵を歌っている。歌の素晴らしさも然ることながら指揮の良さが光る演奏だが、私も多分にもれずこの演奏でトロヴァトーレの魅力を知った一人である。ドイツ・グラモフォンがスカラ座に乗り込んで、60年代の栄光の数々をスタジオ録音したうちのひとつである本演奏は、もう1つの誉れ高い名盤であるシッパーズのEMI盤、メータのRCA盤と並んでこの作品の代表的なものだ。

 私のトロヴァトーレ体験は、最近になってカラヤンのウィーン国立歌劇場カムバック公演の映像がリリースされたことにより、十何年ぶりかに再び見事な歌声に酔いしれる結果となった。ここでカラヤンは、しばしばぴたり歌に寄り添い、音楽に緩急をつけながら見事に舞台をドライブしていく。言わばカラヤンのもう一つの職人的な側面を見ることができるのだが、ここでアズチェーナを歌っているのがやはりコッソットだった。

さてそのコッソットの時代が過ぎ去って、アズチェーナの当たり役は、今やザジックに移ってしばらくたつと言ってよい。何と20年以上も前の上記のレヴァイン盤ですでに、このメゾソプラノはトロヴァトーレの影の主役を演じている。複雑に入り組んだストーリーは、何度かおさらいしても新たな発見があるが、どちらかと言えば隠された部分にこそ本作品の焦点が置かれていることを考えると、やはりアズチェーナとルーナ伯爵こそが公演の優劣を決める重要な役割であると思う。

アズチェーナにザジック、それにロシアの人気バリトン、ホヴォロストフスキーという豪華な組み合わせにより、2011年5月のメトの公演は一大イベントと言っていい成功だったと言える。もちろん、レオノーラを歌ったラドヴァノフスキーも素晴らしい。彼女は、ヴェルディの要求するあらゆる要素を巧みに使い分け、とりわけ難易度の高い第4幕の30分に及ぶカヴァレッタやアリア、重唱の続くシーンを、大変な集中力で乗り切った。ルーナ伯爵は容姿も格好がよく、もちろん歌声が素敵にいいため、聴衆の人気をさらっている。

実はルーナ伯爵とマンリーコは兄弟である。だがジプシー社会で育った弟は、その事実を知らないばかりか恋敵として兄に殺される運命だ。マンリーコの容貌は、どちらかと言えば血気盛んな若者の魅力が高貴さを覆い隠すことになるのだが、そのどちらもが必要とされるのでやはり大変な難役だろう。パヴァロッティは役足らずだったし、ドミンゴも高いベルカントの歌声に問題があった。本公演ではイタリア人のアルヴァレスが無難に歌いきったので、目立った不満もないため総じてこの公演は高いレベルに達し得た。

指揮者のアルミリアートはレヴァインの代役だったようだが、レヴァインの音楽づくりとは対照的だったと思う。レヴァインのようにやや強引に物語を引っ張る指揮だったら、本公演がこのような高い水準に達したか疑問だ。彼はひたすら歌手を盛り立たせることで、影の立役者を演じた。音楽がだれることもなかった。

回り舞台を上手く使った演出は、この複雑なストーリーを理解しやすく、かつ緊張感の高い状態に保つのに効果的だった。アップで映る歌手の競演とスリル満点の3時間は、あっと言う間に過ぎ去った。私はついに一度も足を組むことすらなく、ひたすら舞台に釘付けされたのだ。興奮冷めやらぬ幕間の休憩までの数分を、無駄のないインタビューでクールダウンしてくれたおかげで、私は適度に興奮を癒すこともできた。圧倒されっぱなしのメト・ライブは、これまででもっとも素晴らしいものだった。

(2011/09 東劇)

2012年2月8日水曜日

ロッシーニ:歌劇「オリー伯爵」(The MET Live in HD 2010-2011)

ロッシーニ最後の喜劇とは言えそれほど有名でもなく、オペラ作品を紹介した本にも取り上げられることの滅多にない「オリー伯爵」は、何とメトロポリタン歌劇場の初上演である。1828年の作品だから200年近くも上演されなかったその理由について、解説のルネ・フレミングは沢山のベルカント歌手を揃えるのが難しかったからだと語る。

たしかに「ランスへの旅」から採用された歌が多く、その歌手や合唱、それに舞台や衣裳まで含めると相当のお金のかかる作品であろうと思われる。だが初めて接したその舞台は大変素晴らしかった!

私はここで、ただ素晴らしかったという形容詞しか思いつかないのだが、それは音楽も素敵だし、歌は次から次へと美しく、ストーリーは楽しくて演技もうまい。あっという間の3時間だったのである。

やはりロッシーニはいいなというのが最初の感想だ。ベニーニの指揮が歯切れよく軽快であることに加え、オーケストラと歌の録音のバランスも悪くない。だからめくるめくロッシーニの世界を堪能できるのだ。しかも晩年の作品だけあって、音楽が大変充実しており不足感がない。これは先日見たドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」にも言えることだが、作曲者の面目躍如といったところで、スタイルの確立した音楽を使ってその醍醐味を味わわせる。

私にとってロッシーニは、数々の序曲集に加えて歌劇「セヴィーリャの理髪師」を実演で(やはりメトロポリタン歌劇場)、歌劇「チェネレントーラ」をCD(シャイー)とビデオ(アバド)で見て以来である。ディスクで聞くロッシーニも録音が良いと大変素敵だが、実演で聞く音楽の生き生きした感じは、聞くたびにぞくぞくする。

早口言葉で何人もの重唱となるあたりは、私はイタリア語の特権だと思っていたが、これは何とフランス語である。その点が大変珍しい。台詞はほとんどなく歌が続くのだが、そのすべてが陽気で幸福感に満ちている。これはこれで他の作曲家にない世界である。

観客も楽しげに笑っているが、音楽が推進力を持っているのでオペレッタのような馬鹿騒ぎにはならない。それでも第2幕のベッドでのシーンは魅せる!物凄く練習したであろうが、それを完璧にこなしてこそ客席も安心して見ていられるものだ。標題役を歌うフローレスも「悲劇より喜劇の方が難しい」と言っているが、これは誰に聞いても同じ意見だろう。

そのフローレスは開演の半時間前に出産に立ち会っていたというからそれも驚きだが、この作品はもしかしたら「連隊の娘」と同様に、フローレスのためにあるような作品だと思った。男性が女装したり、ソプラノが少年の役をしていたりと、ややこしいがそれもストーリーの面白さの一部である。さらに劇中劇であることも演出の妙味を味わえる。

フローレスと大変な歌声のソプラノ、ディアナ・ダラムウ、イゾリデを歌ったジョイス・ディドナートの3人は、他の劇場でも競演するベスト・トリオである。これにレーズマークの歌うラゴンド夫人を加えた4人が、次から次へと歌いに歌い、そして観客は酔いしれた。期待せずにでかけたが、終わって見るともっとも見ごたえのある上演だった。

(2011/09 東劇)

2012年2月7日火曜日

ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」(The MET Live in HD 2010-2011)

現在最高のプリマ・ドンナはネトレプコかデセイか?ドニゼッティのオペラ・セリア、すなわち悲劇的な結末を迎える作品の中でもとりわけ人気の高いこのオペラは、その最大の見どころがいわゆる「狂乱の場」と呼ばれる第3幕のシーンである。ここを歌うのはルチア役のソプラノで、その長さは15分にも及ぶことは、いまさら言うまでもない。ネトレプコは2年前のシーズンでメトで同じ演出により歌っているから、これは時を隔てた2人の競演ということになる。

私もマリア・カラスのCDで何度も聞いてきたのだが、では他に何か有名なCDはと聞かれてもすぐには答えられないし、もとより全体をきっちりと見たこともない。有名なオペラなのに、それに触れずに老けてゆくのは何とつまらないことかと思う。そこであらゆる弊害を乗り越えて、何としても一度は見ておきたい。実演はなかなかかなわないから、ここはMet Live in HDなのである!

 東日本大震災後の公演で、案内役のルネ・フレミングはそのことにも触れている。いつものようにMaestro to the pit, please!」で始まる舞台は18世紀のスコットランド。ルチアは兄エンリーコの意向を無視してエドガルドと恋仲となる。兄は政略結婚を企画、ルチアはエンリーコとの結婚式で泣く泣く署名をしてしまうが、エドガルドがそれを知って激怒。ルチアは徐々に精神不安定となり、結婚当日にエンリーコを殺し自らも発狂して死んでしまう。それを聞いたエドガルドは自決する、というシリアスなもの。

だが歌は初期のヴェルディの作品を思わせるような朗々としたカンツォーネの連続で、重唱も多く合唱も効果的。とにかく聴衆は「狂乱の場」を待ち望んでいるので、それまでの幕はむしろ主役級の男性二人の見せ場となる。ひとりはルチアの兄エドガルドで、彼は「世間に忠実過ぎた」とバリトンのデジエは語っている。このデジエはなかなか好演しているが、それと合わせて司祭のライモンドを歌う韓国人クワンチュル・ユンがまた見事である。男の二重唱など毛嫌いする人もいるが、第1級の歌手が歌うと凄い。

デセイのルチアはどうだったか。私は上記のような体験しかないので評価が主観的になるのだが、歌は俄然素晴らしいと思う。だが、狂乱の場の演技は今一つ迫力が足りないと感じた。悪く言えばうまくまとめすぎている。取り乱している役を、彼女は計算通りに演じている。

第1幕でもやや声が出にくいところがあり、彼女のベストコンディションではなかったのだろう。幕が進むにつれて歌声は良くなったが、どことなく演技に色気がないのは、調子が悪かったからか、あるいは精神を病んでいく女性を演じるからか、あるいはあまりに緊張を強いられるからか。そう、その可能性が高い。物凄いストレスは、幕前にインタビューをするのが可哀そうなくらいだ。だがそういうそぶりを見せないところはやはり大したものだ。

そのデセイのCDを私はすでに持っている。ベッリーニの歌劇「夢遊病の女」である。彼女はここでアミーナを歌っている。私はこの時以来の彼女のファンだったので、一体どういう演技をする歌手か、今回見てみたいと思っていた。私が抱いていたイメージとは少し違ったが、それでも狂乱の場の後半のシーンは息もつかせない演技で聴衆の喝さいを誘った。来シーズンのヴィオレッタ(椿姫)が大いに楽しみである。

エドガルドを歌ったカレーハは、ホフマン物語でも標題役を歌ったマルタ出身の若いテノールだが、大変素晴らしい。狂乱の場が終わってから始まる彼の独演は、ルチアの陰に隠れてやや歩が悪いが、なかなか大したものである。だから彼にもアルフレード(椿姫)を期待したいのだが、いかがだろうか。

なお、Met Live Viewingでは他の作品も紹介される。次の演目であるロッシーニの「オリー伯爵」に出演するフローレスまで出演する。贅沢な話だ。指揮はサマーズ、演出は女性のジマーマン。どちらも無難な出来栄え。

(2011/09 東劇)

2012年2月6日月曜日

プッチーニ:歌劇「西部の娘」(The MET Live in HD 2010-2011)


 私はかねてよりプッチーニの音楽が苦手だった。いつまでも甘ったるい音楽が続くというイメージだ。もちろん生まれて初めて見た本物のオペラは「トスカ」だったし、テレビで見た初めてのオペラも「ボエーム」だったし、その時以来いくつかのアリアは良く知っている。それでも会話をそのまま音楽に乗せたような部分(レチタティーヴォ)が延々と続くとなると、なんとなく緩慢で捉えどころがなく、まあ早い話が退屈だった。

 ヴェルディの後期の作品、あるいはワーグナーにもその傾向がある。これらの時代には音楽の様式が打ち壊され、もはや表現の行きつくところに行ったという感じがある。次の段階を求めて行きつく先は、聴衆の好みとはやや乖離した玄人のみが楽しめる「芸術」の世界、とでも言おうか、そのような音楽が私をやや遠ざけてきた。

ところがプッチーニの音楽は、芸術的な作品と言うよりは、むしろ聴衆の好みを意識した作品である。であるにもかかわらず、私はむしろワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの音楽の方がまだ馴染みやすいと感じてきた。舞台で「蝶々夫人」を見ても「トゥーランドット」を見てもその思いは変わらなかった。

だから「西部の娘」と聞いた時、これはあまり行きたくもないし、どうせ感動しないだろうなどと勝手に決め付けていた。けれども1週間に3つのオペラを立て続けに見たので、私はオペラを見ない日が何か物足りないようにも感じていた。「有名なアリアはひとつもなく」「登場人物はミニー以外は男ばかり」といった紹介文を読み、多くの初心者向けオペラ本からは見向きもされない作品だったので、どうせなら騙されたと思って行こうと思った。

プッチーニの作品に一度正面から向き合ってみたいとも思っていたが、それが果たせるかどうかさえわからず、場面設定もゴールドラシュに沸くカリフォルニアが舞台だという程度にしか知らなかった。かつて出ていた映像は、ドミンゴが抗夫に扮して酒場で歌うシーンがあったのを思い出す。だが実際にはこの作品は、メトロポリタン歌劇場にとって極めて重要な作品と位置付けられているのだ。

その理由は、世界初演がまぎれもなくメトで行われたからである。指揮者はトスカニーニだった。作曲家も居合わせた初演時のエピソードは、幕間のインタビューでも触れられる。「アメリカのオペラ」と紹介された本作品は、日本人が蝶々さんに抱くおかしなイメージと似たものもあるが、そういったことはまあ良いとして、初演100周年記念として上演する以上、他の追随を許してはならないという意気込みが感じられたのである。

主演のデボラ・ヴォイトはその期待に、歌声でも容姿でも、また演技の点でも満点で答えたと言ってよい。ジョンソンを歌ったシチリア出身のテノール歌手ジョルダーニも若いながら好演だ。さらにバリトンのガッロもこの保安官役を深く理解している。彼は「男は嫉妬したら終わりだ」と言いかけて終幕の舞台に出る。スカルピア(トスカ)とは違って、ランスは悪人ではないというのだ。このインタビューは、とかく主役二人に思いを強めて見ていた聴衆に深い洞察に富む軌道修正を迫る結果となっただろう。

いずれにせよ、会話のみが延々と続くオペラで、特に第2幕の接吻のシーン辺りからの迫力は、これぞオペラの醍醐味かと思わせるような出来栄えであった。高音と低音が難しく入り混じった会話を歌いこなすのは大変なことであり、同時にカードやライフル銃なでどの使いこなしと馬の登場、さらには決闘のシーンなど、丸でドラマを見るような舞台はなかなか良くできていて楽しい。そう映画を見ているような感じなのである。

 加えて指揮のルイゾッティに触れなければならない。この若い指揮者は目立たないが、あくまで歌こそが主役であるという認識の音楽作りであった。それでいて必要な緊張感は維持している。「カルメン」の時のような音楽と歌の不自然な分離が気になることはなく、完成度の高い演奏となった。

私にとって思わぬ収穫だった「西部の娘」だったが、これは実際の舞台で見るよりも楽しめたのではないかとも思われた。映像上の完成度も高いからだ。暗い映画館で3時間半を集中して見ることは、実際の舞台でもなかなかできないことだ。メトで見ても日本語の字幕が付いていないので、そういう点でもMet Live Viewingはいい。


街中の憧れの的だったミニーは、結局サクラメントの盗賊だったディック・ジョンソンが横取りしていく。死刑に処せられそうになった彼を、最後は全員がかばい、残された保安官がひとり茫然と立ちすくすところで幕となる。アメリカ人好みのハッピー・エンドだが、住みなれた町を離れて二人が旅立っていくエンディングは、やはり西部劇を地で行く作品だ。イタリア語で歌われることがなければ、もはやミュージカルのような作品に近づいている。だが、たとえ印象的な歌がなくても、その必要とされる歌唱力は、あらゆるオペラ作品の中でも最高水準だ。こういう作品をこのような完成度で見せるメトの舞台は、やはりすごいと感じた夜だった。

(2011/09 東劇)

2012年2月5日日曜日

ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」(The MET Live in HD 2010-2011)


「椿姫」や「フィガロ」を見ているだけで「オペラが好き」などと言っているのがいかに恥ずかしいことか、そう思った。なぜなら「ドン・カルロ」こそヴェルディの、いやイタリアオペラの最高傑作ではないかと思ったからだ。いままで知らなかったことが悔しかった。それほどこの作品は、ずしッとした感動を残した。

 「ドン・カルロ」を初めてきいたわけではない。私のCDラックにはサンティーニ指揮のスカラ座のスタジオ録音3枚組があり、買った時はもちろん、最低1回は聞いたはずである。だが、ヴェルディ中期の作品を好んで聞いていたその時期は、あのブンチャカブンチャカのメロディーがほとんど登場しないこのような作品を、何かとっつきにくいものだと感じていたようだ。対訳なし、音声のみ、ということもあったと思う。だが、その後しばらくたって「オテロ」を見た私は、ヴェルディの作風が年を経るごとに進化し、ワーグナーに匹敵するものになっていったことを如実に知ったのである。

そう、この作品は丸でイタリア版のワーグナーの如きである。重い歌が絶え間なく続き、バレエも子供も登場しないばかりか、低音の歌手を多数必要とし、中にはバスの二重唱などというものもある。上演時間は4時間以上に及び、全5幕、しかも場面は異端審問の時代のスペインというから、暗い。

超一級の歌手を6人も揃えるのは、メトのような大規模な歌劇場でしかできないし、そのうちの一人が低調でも、さらには指揮者が凡庸でもこの作品は成立しない。ただその割には、過去に多くの録音があり、ビデオ作品も多い。人気があるのだろうが、この作品の魅力を語れるようになるには相当な聞き込みが必要だろうと思う。

 さて今回のメト公演だが、まず主題役を歌ったのはアラーニャで安定した歌いぶりである。そのカルロと恋に落ちるエリザベッタはロシア人のポプラフスカヤ。だが彼女を妻にするのは、何とカルロの父でスペイン国王フィリポ2世で、当たり役のフルラネット。彼は悪役だが、その悩みは深く時に人間性に溢れる。第2幕の後半はその心情の吐露が印象的で、なるほどヴェルディの人気にはそのような現代に通じる部分にもあるように感じられた。

ヴェルディの作品全体を貫くテーマ、心の葛藤はこの作品のテーマでもある。「そこから解放されるのは天国でのみ」という幕切れのパッセージは非常に印象的だ。登場人物の全てが、何らかの形でそのような不完全な人格である。つまり失敗もすれば嫉妬もする。だから時代設定が古かろうが、場所が異国だろうが、見る人はみな自分の心情に重ね合わせて物語を楽しむことができる。

歌や音楽が、その一挙手一投足に合わせて感情を高め、事あるごとにフォルッティシモや超高音の音階に達する。メロディーが複雑でもその異なった心情が重なると、調和し昇華され見事なハーモニーを醸し出す。時には伴奏が消えるような時でも、美しい歌声の競演は緊張感を絶やさない。
第3幕の異端審問のシーンは、有名な合唱曲を伴い見どころは多い。だがここでも歌の複雑な見せ場の連続である。手が震え今にも倒れそうな高齢の宗教指導者が現れても、見事な低音の歌声で他を圧倒するし、カルロの親友ロドリーゴが犠牲となて死んでゆくシーンは、可憐なソプラノの歌手の死亡シーンにありがちな歌詞を、何とバリトンが演じる(「わが最後の日」)。

 それにしてもこの作品の見どころは、フィリポ2世である。「彼女は私を愛したことがない」といった名アリアは、このような作品を理解するためには幾分人生経験を踏まねばならぬことの証だろう。息子に背かれ、妻にも疎んじられ、国民には反抗される国王は、世界の半分を支配する勢力を持ちながらもひとり苦しむ。ヴェルディの作品は、この後には「アイーダ」「オテロ」それに「ファルスタッフ」だけである。

指揮者、ネゼ=セガンについてひとこと。この若手の指揮者は大変な有望株である。「カルメン」の時はやや強引で音楽との調和が欠けているようにも感じられたが、それは録音のせいだったのかも知れない。ここでの指揮は引き締まっているうえに歌手の自主性を尊重しており、緊張を保ちながらも安心して歌えるようだ。そのことがこの舞台を名演たらしめたことは確かだろう。

(2011/09)

2012年2月4日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ドン・パスクワーレ」(The MET Live in HD 2010-2011)

昨日の夕方に「ルチア」を見たばかりだと言うのに、今日の朝の上映が「ドン・パスクワーレ」である。同じドニゼッティの作品だし、続けて見るのもつらくなってきたので、今日はパスしようと思っていた。けれども家族は「行ってきたら」と言ってくれる。そういう時は滅多にない。いくら有名なオペラ作品でも熱中して見る機会となると、一生に一度あるかないかである。

というわけで連日のベルカント・オペラと相成ったのだが、これが期待に反して素晴らしい。この1週間で立て続けに見た6つの作品の中で、これはもっとも楽しめた作品であった。あらすじも、そしてひとつの歌も知らないのに、である。

 同じドニゼッティとは言っても「ルチア」がオペラ・セリアなのに対し、「ドン・パスクワーレ」はオペラ・ブッファである。悲劇的なストーリーで歌われる内容は悲惨で残酷な「ルチア」は、やはりどこか違和感がある。悲劇性を強めれば強めるほど舞台は暗くなるが(場所がスコットランドであることにもよる。しかも幽霊が出る)、奏でられる音楽は変わらない。デセイが「喜劇の方が難しいが、悲劇の方が自由に歌える」と言っていたのを思い出した。だがデセイは狂乱のシーンを計算した通りに演じるのだ。計算された取り乱しシーンは、そうとわかればわかるほどやはり違和感がある。

それに比べて「ドン・パスクワーレ」の喜劇的ストーリーは素晴らしく綿密に計算されて、ドニゼッティの音楽の魅力がストレートに伝わってきた。早口で重唱となるシーンもいくつかあるが、カヴァレッタの続くロッシーニとは異なりもう少しドラマ性がある。見事なのはクラシックな演出のオットー・シェンクである。まだこの人の演出が使われているのかと思ったが、その舞台のわかりやすく必要十分な配置と展開は、歌手も演じやすいのではないかと思われる。

ジェームズ・レヴァインの意外にも初めてというこの作品への取り組みが、この公演の成功の多くを占めていたようだ。ぴたりとルチアに寄り添い、時にはテンポを抑えた「ルチア」でのサマーズと異なり、レヴァインは作品の性格をグイグイと引き出す力強さが健在だった。歌手が指揮者を信頼しきっているからこそ、このような音楽が可能なのだろう。その見事な歌手陣は、リノーラを歌ったネトレプコ、エルネストを歌ったポレンザーニ、医者でマラテスタを歌ったクヴィエチェンなどで、いずれもトップクラスの出来栄え。ネトレプコは最初イタリア語の発音に少し違和感があるかと思いきや、偽装結婚により悪女と化し、徐々に迫力を増すシーンはさすがに凄いと思った。彼女は悲劇を演じることが多いが、喜劇の方が似合うような気もする。

 だが主役はもちろんドン・パスクワーレで、それはバスバリトンのプレンクという歌手によって歌われたが、彼の演技を含めた素晴らしさは上記の歌手に勝るとも劣らない。第3幕でマラテスタとの早口な二重唱に至っては、場の展開の合間に後半部分をアンコールするというオマケまでついて会場は沸きに沸く。あっという間の3時間が短く感じられ、ええ、もう終わってしまうの、という気持である。

こうなったら来週はロッシーニ「オリー伯爵」も見ておかねばならないではないか。台風による豪雨が去って、少し気温が下がったように思われた築地の町に出たがまだ午後2時である。なぜ今まで見に来なかったのかと悔みかけたが、よく考えれば昨年まではいろいろあって、それどころではなかったのだろうと思いなおした。だからこそ今年は、アンコール上演を含めてできるだけ多くの作品を見ておこうと決意を新たにした。

(2011/09 東劇)

2012年2月3日金曜日

ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」(The MET Live in HD 2010-2011)

かつてヨーロッパをオール一等座席の昼間特急TEE(Trans Europe Express)が走っていたころ、フランクフルトからアムステルダムへ向かう列車に「ラインゴールド(Das Rheingold)」というのがあった。金色に輝くような夕日の中をライン川に沿って走るので、小学生だった私は単に、風光明媚な車窓風景を楽しむことのできる列車なのだろうと思っていた。大学生になって西ドイツを旅行した時には、確かもうこの名前の列車は走っていなかったようだが、同じ路線を旅してライン下りの船にも乗った。ベートーヴェンの生まれた街ボン(当時は首都だった)に立ち寄り、その日のうちにケルンのホテルに泊まった。宿に荷物を置いてライン川にかかる橋を歩いて渡り、対岸に見える大聖堂に見いったのは懐かしい思い出だ。

さて「ラインゴールド」とは、当然のことながらワーグナーの楽劇「ラインの黄金」にちなんだもので、私はこの作品に接するたびにあのころ旅行したライン川を思い出す。天気が悪かったこともあって、どうということのない川にも思えたが、両岸にブドウ畑が広がり、教会の尖塔のそびえる村々をのんびり眺めていると、中部ヨーロッパの雰囲気を実感することができたし、そこからはあの素敵な鐘の音色が静かな川面に響いた。

あらすじによれば、そのライン川の川底にはニーベルング族が住んでいて、3人の乙女が黄金を見守っているというのである。この3人の乙女は、言い寄って口説こうとするアルベリヒを罵倒する。けんもほろろに言われると、それはつらかろうと思うのでが、そのシーンで私は魔笛の最初のシーンを思い出す。パパゲーノが三人の待女におしおきをされる寓話的なシーンである。だが、ラインの黄金の話ではこの恨みが混乱の始まりとなる。乙女は自分たちが黄金を管理していることと、それから指環を作ることで世界を征服できることなどを、うっかりしゃべってしまうのだ。

3人の乙女は美しいソプラノで、アルベリヒはバリトンである。今回見た上演ではアルベリヒをエリック・オーウェンズという黒人の歌手が歌っている。声が太くドイツ風ではないかもしれないが実力派である。そのアルベリヒが、言わば欲望と引き換えにその黄金を手に入れてしまうことから長大な「指環」の話が始まる。

アルベリヒはニーベルング族を支配して奴隷たちをこき使い、黄金を鋳造して指環や巾着などを作る。その横暴ぶりも凄く、弟のミーメは兄の蛮行を暴く。ミーメはテノールだが歌うシーンは少ししかない。そのミーメの告白によりアルベリヒから指環を奪うのが、主役のひとりで神々の長ヴォータンだ。頭巾は魔法の頭巾で、それによって様々なものに変身ができる。例えば大蛇、あるいは蛙という風に。だから蛙に化けた瞬間に、アリベルヒは捕えられてしまうのだ。箱に入れられたままそのまま地上へと連れて行かれる。

あれ?第2場はどうなったの?そう上記は第1場と第3場を連続して語った場合である。実際にはその間に第2場がある。どのあらすじを読んでも、もちろんこの間に第2場が入る。だから第1場のあとでいきなり今度は、地上の話となるのである。それはいいのだが、登場人物がやたら多すぎてわからなくなる最初の関門だ。くわしい系統図までつけられているが、それを見るとさらに混乱する。全員が「ラインの黄金」に出るわけではないし、「ラインの黄金」にしか登場しない役もある。その役もそれなりに大声で歌うので、だんだんややこしくなってくる。リンゴだの杖に書かれた文字だのと、やたら意味ありげな話が見る人を惑わせる。ああ!

 しかも各場の音楽はつながっている。このオペラは1幕しかないので2時間半もの間、休みなく音楽がいるので、途中であらすじを確かめることもできない。イタリア・オペラのように、アリアとシェーナが繰り返すようなメリハリもない。

初めて見る人でもわかりやすいシーンとしては、ラインの川底の地下から地上へと移動する部分である。演出上の工夫により、音楽が流れている間に場面が変わっていく様は、このオペラの醍醐味のひとつで、同様のシーンは他に2回ある。すなわち地下→地上→地下→地上と合計3回の移動が行われる。最後の地上はやがてヴァルハル城のシーンにつながるので、演出上の舞台のトランジションはそうとわかる工夫が必要だ。

今回のメトのルパージュによる新演出では、これを含め、巨大な鉄板の板の列が縦に配置され、それが手前に倒れながら動くことによって垂直的な空間を表現している。だから3人の乙女は川底を泳ぎながら歌う時は、この板の前で天井からつりさげられ、空中で歌う。板の回転が様々なシーンを寓意的に表現し、主だった演出はすべてそれを軸に行われる。このあたりの演出はやはり現代風という感じで、メトもそういう時代に入ったかと思わせた。

最初の部分のあらすじを追うだけで、長い文章になってしまった。まだターフェルの歌うヴォータンも、二人の巨人についても触れていない。もちろん火の神ローゲも、ヴォータンの妻フリッカも。ただあらすじについて書かれた本はごまんとあるので、私はいったい何を語ろうか、わからなくなってきてしまった。それほど見るべきものの多いオペラである。

そう言えば、今回の上演は映画館に何と長蛇の列ができ、このようなことはそれまでのアンコール上演では見られなかったことだ。しかも続いて「ワルキューレ」(さらに5時間!)まで見て帰ろうとするつわものもいるから驚きだ。私はもう少しでチケットを確保し損ねるところだった。意外にも我が国にワーグナー・ファンは多いのである。何か特別に自分だけが知る楽しみ、という優越的な感覚はもはや古くなった。ブログを検索すれば、今回の演出はどうのこうの、歌手の出来栄えから過去のCD評まで、簡単に知ることができる。中には大変詳しいものもあって、私などははじめてこの作品を静かに見るだけで感動しているのに、そういうことを書くことも何かはばかれる思いである。

だが、今回の公演は実際に見た場合にはどうかわからないが、また他の公演を多く知っている人が見ればどうかもわからないが、大変豪華で欠点も総じて少なく、従って楽しめて感動するものであったことは確かだ。強いて言うならフライアが少し弱く、ローゲも彼のベストかどうかは疑わしい。だがそういうことは差し置いて、この長大な作品に触れていることだけで、実は自分にとっての大事件なのである。

さて指環は、3人の乙女→アルベリヒ→ヴォータン→巨人のファーフナーと略奪が繰り返される。最後のシーンで指環を奪われたヴォータンは妻と共に落成したヴァルハル城へ入城する。背後に乙女の声が響く。何度耳にしたか知らないこの入城シーンは、最後の場面でとりわけ印象を残す。レヴァインの骨格ある指揮がここでも冴えわたっている。満場の拍手とブラボーによって長大な指環の物語が始まった。もう後戻りはできない破滅への道を、われわれ観衆は2年にわたって同行することとなる。次回「ワルキューレ」からはいよいよ人間が登場する!え、いままでそうじゃなかったの?そうである。これは神々の話。その内容は込み入っているが、音楽が何とも素晴らしいので、まずはストーリーなど気にせず楽しんでみるのも悪くない。もしうっかり寝てしまっても、たぶんそれほど場面は変わっていない。だが、一度この感動を味わってしまったら、やはり後戻りはできないだろう。だから、次の「ワルキューレ」が楽しみである。

(2011/09 東劇)

2012年2月2日木曜日

ワーグナー:ニーベルングの指環の新演出(The MET Live in HD))

いよいよワーグナー作品の最高峰である楽劇「ニーベルングの指環」4部作のうちの、序夜「ラインの黄金」が始まる。Met Lin in HDシリーズ(アンコール上演)の2010-2011シーズンの作品で、続く「ワルキューレ」とともに満を持して見に行く予定である。

 「指環(リング)」は私にとって、思い出の深い作品である。まだ大学院生だった頃、NHK-BSの試験放送が開始され、パトリス・シェローが演出する「指環」のビデオ作品(Unitel)が放送された。それはもう何度目かの放送だったが、その時は1幕ずつ毎晩放送されることになり、「ラインの黄金」のみ1日、残る作品は全部で9日間、確か平日のみで2週間、計10日間という大規模な放送計画だった。
私は確か夜の8時頃に始まる放送時間に合わせ、学校やアルバイトから帰宅し、夕食などの全ての作業を済ませ、リビングルームを閉め切り、テレビをオーディオ装置につないで大音量の設定とし、電話もシャットアウト、家族もいない環境下に身を置いた。思えばこれが今日までで最初で最後の「指環」体験であった。ストーリーはその時解説を読み、聞く音楽はほとんど初めてだった。ギネス・ジョーンズやドナルド・マッキンタイヤといった歌手もほとんど知らなかったし、シェローによる物議を醸した演出上の斬新さにも無知だった。

だがこの体験は、個人的に大成功だった。私は少なくともこれによって、ワグネリアンには成り損ねたものの、リングの壮大な物語を一応は理解し、そしてその音楽と歌に驚くほどの感動を覚えた。このときの放送はVHSテープにすべて標準モードで録画したが、それを再度見ることはなかった。それはこのような空間を持つことが、以後の私の生活でもはやできないからだった。

社会人、いや学生でも、ある程度充実した音楽的空間と時間、すなわち大規模な再生装置と長期にわたる静寂が確立できなければ、おおよそワーグナーの音楽に浸ることなどできない。ましてリングのチケットとなると、本場バイロイトのものだど何年も前から売り切れているし、たとえ出かけることができても1週間をドイツに滞在するだけの財力と体力が求められる。

 そういうわけで、リングはかなり敷居の高いオペラだが、それだけ見ごたえのあるのも確かである。DVDやCDで聞くには、やはりそれなりの覚悟もいるし、問題はお金ではない!時間と空間こそが、そして聞く者の心のゆとり、それが長続きしないといけないのである。

 メトロポリタン歌劇場は、昨シーズンから今シーズンにかけて新演出の「リング」を順次上演することになった。指揮はジェームズ・レヴァインだが、今年の「ジークフリート」はファビオ・ルイージに交代することが決まっている。20年程前に発売されたビデオも評判だったが、私は見たいと思いながらも見ていない。その後、来日公演で入手したNHKホールでの「ワルキューレ」のチケットは、両親にプレゼントした。

だが、時が経ってこういう幸運にも巡り合えるのだから、生きているということはそれだけで価値があるのかも知れない。さっそく私はもうほとんど忘れかけたリングのあらすじを目下確認中である。序夜の楽劇「ラインの黄金」は休憩なしの2時間半である。字幕があるのは嬉しい。かつて見たライン川の海底と地上とを丸でエレベータのようなもので行き来するシェロー演出の舞台の光景が忘れられない。今回はメト史上初の3Dを多用したものとなるそうである。いまから楽しみである。

ニーベルング族の小人アルベリヒが3人の乙女よりラインの黄金を奪うまで、あと15時間・・・。

(2011/09)

2012年2月1日水曜日

音楽ガイド:「オペラの運命」(岡田暁生、中公新書、2001年)

オペラに関するガイド本は沢山発売されているが、そのほとんどが有名な演目のあらすじを紹介したものである。少し詳しいのになると、そこに聞き所や歌手の紹介、さらにディスクの評論が加わる。こういった類の本は、数冊をそばにおいておくと便利だが、ではそれだけでオペラが理解できるかといえば、そう単純なことではない。歌の種類や声の違いといった音楽的知識、舞台装置や衣装、バレエに関する知識、さらには舞台演出上の評論(これは最近のビジュアル化の傾向により重みが増している)なども必要になる。ではそれだけで十分か、といえばまだ足りない。

それはオペラという音楽上の形式がどのような歴史的時代背景をもとに確立され、大衆化していったかという音楽史の知識である。もちろんこれらは双方に絡み合っているので、ひとつだけを切り離して理解できる代物ではない。まさにオペラが「総合芸術」と言われる所以でもある。

ではそのような音楽上の基礎的教養とも言うべき部分・・・音楽と歴史や文化に関係する総合的な知識・・・それはもちろん西洋の、特にルネサンス以降近代までの・・・を素人向けにわかりやすく解説した本があるだろうか、と調べたら、昔は沢山あったようだが最近はてっきり見かけない。これはクラシック音楽が「教養」と見なされていた時代(それは明治以降、1960年代あたりまで続いた)の反省(というか反作用)によって、音楽をむしろ個人的な感性で語ることが主流になってしまった昨今(もちろんそれは間違っているのだが)に特に顕著な傾向で、そもそも西洋音楽の背景に乏しい我が国では、だからといって是正されるわけではなく、クラシック音楽は「教養の中心」から「オタク的趣味」へと変貌してしまった。

これは必要不可欠なものに触れる機会を逸してしまうという点で大変残念な傾向であり、それが欠如した音楽鑑賞などありえないということに気づく機会をも喪失してしまっている原因となっている。そういう意味で、「オペラの運命」は音楽鑑賞上の基礎的知識を(音楽上の側面ではなく、文化や歴史との関わり合いにおいてのそれとして)概観できるという、 最近にはめずらしいがむしろ本来「新書」とはそういうものであったはずの書物であり、しかも古臭くてお仕着せがましい権威主義の衣装を着ていない新鮮さと、説得力のある文章のお陰で、読み進めるのが楽しい一冊である。

ここで語られるのは、バロック時代に端を発するオペラの成立から、フランスのグランド・オペラの形式を経てイタリアに渡り、そこで開花して隆盛を極めたオペラの上演史とでも言うべきものである。読者はこの経験が、通常の音楽史、すなわちどちらかといえばドイツ寄りの音楽史の知識とは別の脈路が、歴然と存在するという事実に心を奪われる。もしかすると大切なもう片方の足を忘れたままで走っていたのか、と気付かされるようなものである。

管弦楽中心の音楽はそれほどにまでドイツの重みが大きいが、オペラとなるとワーグナーについて語られる程度で、そのことが読者を混乱させ、もしかすると落胆させる。だが私にとっては新鮮なパンチであった。いままで知りたくても適切な書物にめぐり合って来なかったゆえに、私の音楽鑑賞上の知識から、フランスからイタリアに至るオペラ形式上の変化や展開については、あまりに遠い存在だったのである。

そういう知識を得た後では、ただ「感想文」を書き続ける音楽評論家の、何と虚しい文章が多く氾濫していることか。そしてThe MET Live in HDシリーズで毎回注目の幕間のインタビューが、いかにオペラを多角的に捉え、その中での新しさの追求に余念がなく、その最先端上で歌手や指揮者が取り組んでいるかを知る手がかりとなる。私にとっての音楽鑑賞は、素人の趣味の域を出るものではないが、そういう人こそ本書で基礎的な知識を得て、趣味を広げるきっかけにすべきだと思った次第である。

第一章 バロック・オペラへの一瞥、または、オペラを見る前に
第二章 モーツァルトと音楽喜劇、または、オペラの近代化ここに始まる
第三章 グランド・オペラ、または、ブルジョアたちのベルサイユ
第四章 「国民オペラ」という神話
第五章 あらゆる価値の反転、または、ワーグナー以降

冒頭でオペラは「絶対王政」の時代を背景に始まったと説く。バロックのオペラの水戸黄門的ハッピー・エンディング(保守的幸福感)とあらすじの荒唐無稽さの起源がここにあったのだ。しかし市民階級が勃興するにつれ、オペラが市民化し、その中で彗星のごとく登場するのがモーツァルトなのである(グルックに対する評価は、意外に低い)。

モーツァルトの音楽史における登場は、なるほどオペラを軸に考えるとわかりやすい。しかしイタリア語のオペラを数多く残したモーツァルトも、オペラの世界での後継者となるとわかりにくい。その頃オペラの中心地はパリに移っていたからである(音楽の中心地はウィーンとパリである。バロック時代はヴェネツィアだった)。ここで登場するマイアベーアなどの代表的作曲家とその作風(すなわちグランド・オペラ)について、本書は多くを割いている。しかもそれがドニゼッティやロッシーニなどのベルカントを経てヴェルディへとつながる流れが、大変よくわかるのである。ここにはシューベルトやシューマンなどドイツの作曲家はほとんど登場しない。

ドイツの「国民オペラ」はウェーバーが確立し、そのあと間をおいてワーグナーの登場となるが、このワーグナーに触れた部分も注目に値する。ワーグナーが目指したメルヘン的世界の誇大妄想的な絢爛豪華さは、グランド・オペラに起源を持つというのである。一方、イタリアの巨匠ヴェルディについては、やや不満ながらあまり多くが語られていない(同様にプッチーニについてもそうだが)。

筆者によれば、ワーグナー以降のオペラについては、あまり語るべきことがないのかも知れない。それはあのオペラの毒々しい雰囲気がもはや失われているからだろう。その理由も本書は示されるが、本書はそのオペラが今後どこに向かうかについて、明快な記述を避けている。前半の記述が優れているのは、筆者の思いがそこに注がれているからだろう。そういう視点から見れば、ワーグナーは肥大化したオペラが行き場を失う直前の、いわば絶滅前の恐竜のような存在だということになる。そして彼が夢見た世界が、絶対王政時代の懐古趣味だった、というのである(ワーグナーは自ら「王」になったと筆者は述べている)。

だから私は読み終えて、オペラの運命に悲観的だ。現在でも新しい演出で多くの作品が演じられてはいるものの、長い目で見てこれだけ大掛かりな芸術を維持しているだけの知恵と余裕を、これからの人類が持ち続けるだろうか。オペラという投資対効果無視の歌芝居が、近代化の過程で丸で間隙を縫うように咲いたあだ花のような存在だとすれば、それを舞台やビデオで触れることができる現代の我々は、むしろまだ幸福な部類に入るのかも知れない。


東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...