2014年5月30日金曜日

モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

意外にも私が最初に聞いたモーツァルトのオペラは「コジ・ファン・トゥッテ」であった。ムーティがザルツブルク音楽祭で上演したものをテレビで放送されたのがきっかけだった。とにかく重唱が多い、というのがその時の印象だったが、実演でも「コジ」は「魔笛」に次いで観た作品で「ダ・ポンテ」三部作のうちでは私のもっとも好きな作品となった。

その「コジ」のMET Liveでの今シーズンの上演は、音楽監督ジェームズ・レヴァインの復帰第1作で、ゲルブ総裁によれば「誰も復帰などできないと思っていた」ことが実現したのだからファンは総立ち、私もこれは見逃すまいと心に留めていた。「第一本人が復帰など信じていなかった」のだそうだ。

レヴァインの演奏は何か水を得た魚のように勢があって、病気で倒れる前に比べるとはるかに良く聞こえる。オーケストラを含め全員が共感しているからだろうか、そのほとばしる音樂はメリハリが合ってテンポも良く、アンサンブルも見事という他ない。

6人の主役は組み合わせを複雑に変えながら、観客を笑いの渦に巻き込んでいく。やはりモーツァルトはいい。ヴェルディやワーグナーもいいが、モーツァルトが一人いれば、それでいいんじゃないの、などといつも思ってしまう。これでもかこれでもかと美しい音楽がほとばしり出るのは、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」でも同じだが、とりわけこの「コジ」はコミカルで、しかも芸術的な完成度が高いように感じる。

若い二人の姉妹に選ばれたのは比較的キャリアの浅い歌手達で、姉のフィオリディジーリにソプラノのスザンナ・フィリップス、妹のドラベッラにメゾ・ソプラノのイザベル・レナードという人である。彼女たちは第1幕でほとんど見分けがつかない。同じ衣装を着ているし、髪型も表情も似た者同士である。だが第2幕になると衣装の色を変えることで、二人の違いが強調される。すなわち言い寄るアルバニア人に最初になびくのが、声の低い妹の方で、姉はどちらかというと操を守ろうとする傾向が強い。インタビューに答えた姉妹は、ドラベッラとフィオリディジーリの性格の違いを解説する。ドラベッラは独身でいつづける事に恐怖心があった一方で、フィオリディジーリはそのあとうまく寄りを戻すことができたか、疑問も残るという示唆に富む話である(インタビューアはルネ・フレミング)。

この女性姉妹は相当練習を積んだようで、アンサンブルも見事だったし、歌詞の表情付けも素晴らしかった。とりわけ私が感嘆したのは、第1幕のフィオリディジーリのアリア「風や嵐にもめげず」。

一方の男性陣はフェルランドにテノールのマシュー・ポレンザーニ、グリエルモにバリトンのロディオン・ポゴソフ。いずれも欠点はなく、満場の拍手をさらっていた。二人の性格上の違いは、そのまま歌の音域に表れているように思う。フェルランドのやや単純とも言えるような表情の変化ぶりは、ベテランのこの歌手のいい面が現れて好感が持てた。

彼ら4人に勝るとも劣らないのが、このオペラをオペラたらしめている二人のコミカルな役者、デスピーナとドン・アルフォンソである。デスピーナはソプラノのダニエル・ドゥ・ニースによって歌われ、やや小柄で機転が利く小間使いらしさが良く出ている(どうしてもひところのキャサリーン・バトルと比較してしまうのだが)。一方若者に人生哲学を教えるのはバス・バリトンのマウリツィオ・ムラーノで、低音を活かした味わいのある歌は十分魅力的でかつ心に残る。

つまり6人が6人とも甲乙のつけがたい完成度を誇り、そこにレヴァインの指揮が加わると、モーツァルトの「コジ」の数ある上演の中でもこれはすこぶる高水準の演奏だったと思わざると得ない。録音された演奏でもなかなかこうは行かないようなレベルを実演で披露するのだから、やはりこれはすごいと思う。演出はアメリカ人女性のレスリー・ケーニヒ。定評あるオーセンティックな舞台で、コバルト・ブルーの海を見下ろす庭園のシーンが美しく印象的。

第1幕の集結部分では、いくつもの重唱が次から次へと出てきて圧巻である。これは「ドン・ジョヴァンニ」や「フィガロ」でもそうなのだが、モーツァルトの第1幕のフィナーレはいつもぞくぞくさせられる。しかも字幕を追うことで、ストーリーと歌詞が自然に理解できるというのは、今更ながら有り難いことだ。The MET Live in HDシリースも今シーズンは残すところ後1作品となった。来週ロッシーニの「チェネレントラ」を見た後は、昨年同様にパリ・オペラ座でつなぎ、夏休みのリバイバル上映で見逃した作品を楽しむつもりである。そして10月が来ると来シーズンが始まる。新演出の「フィガロ」をはじめとして、来シーズンもこの企画から目が離せない。

2014年5月26日月曜日

ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」(ローマ歌劇場日本公演、2014年5月25日東京文化会館)

今は亡きクラウディオ・アバドがミラノ・スカラ座を率いて来日した時、ともに来日したカルロス・クライバーに押されて評判は目立たなかった。中学生だった私はヴェルディの多くの作品の中にも、変わった名前の作品があるものだな、という程度にしか記憶しなかった。FMやテレビで放映され見入ったのは、クライバーの「オテロ」と「ボエーム」、それにアバドの「セヴィリャの理髪師」の順。だがこの時の来日公演こそ、我が国のオペラ上演史上語り草になっている歌劇「シモン・ボッカネグラ」の極めつけの公演だった(ようである)。それから30年以上が経ってまさか私が、まさか東京でこの作品に接するとは思わなかった。


私はこれまで、欧米の歌劇場が行う引越公演というものを敢えて避けてきた。オペラというのは、その土地や聴衆を伴ってこそ、生きた芸術となるものだと信じてきたからである。イタリアで夏の音楽祭に行ったことはあるし、ニューヨークでメトの公演は何度も見た。だが東京では、地元の新国立劇場や時折上演されるオペラ・カンパニーの上演に行くことはあっても、ヨーロッパ各地からやってくる歌劇場の公演には行くことはなかった。

チケットの値段が法外に高い、というのも大きな理由である。そしてこの引越公演が、数年に一度だったかつての日本ならともなく、今では毎年多くの劇場が、それも日本の観客を目当てにやってくる。主役に評判の歌手を招聘しただけの、有名作品のオペラ公演は、何万円も支払ってまで、東京の多目的ホールに出向く気がしない、というのがこれまでの気持ちだった。

だがリッカルド・ムーティがローマ歌劇場を率いて来日し、ともにヴェルディの作品「シモン・ボッカネグラ」と「ナブッコ」を指揮すると発表された時、ついに私もこの慣例を打ち破る決心をせざるをえなかった。それどころか私はどちらの作品のチケットを買うべきか、さんざん迷った挙句両方の公演を申し込むという事態にまで発展したのである。昨年12月の先行予約受付の当日に、私は両方の公演のF席チケットを申し込んだ。結果は「シモン」のみ当選。そして「ナブッコ」はついに法外と言われるような値段(それでもポール・マッカートニーよりははるかに安いB席だが)を買ってしまったのである。

ついに今日は東京文化会館で「シモン・ボッカネグラ」の一連の初演に接することになり、私はほとんど初めて耳にしたような、これこそまさにヴェルディというような音樂と歌に瞠目することとなった。多くの公演に接している方にすればまた別の意見もあるかと思うが、私にとってはおそらく一生に何度もないような極めつけの公演であったと言って良いだろう。

それは幕が開いてプロローグの冒頭で聞いた第一声からして明らかだった。どの人物も非常に張りのある声で聴衆を魅了したからだ。声の魅力を味わうこの作品にあって、主役級歌手は実に5人も必要とする。そのうち4名が男声である。すなわちバリトンのシモン・ボッカネグラにジョルジョ・ぺテアン、娘の恋人でテノールのガブリエーレ・アドルノにフランチェスコ・メーリ、シモンの政敵でバスのヤーコボ・フィエスコにドミトリー・ペルセルスキー、さらには悪役のパオロ・アルビアーニにマルコ・カリアという布陣である。紅一点、アメーリアには当初、バルバラ・フリットーリが歌うとされていたため、丸でダメ押しを食らったようにチケットを買った客は多かったと思う。だがこれはアテが外れ、エレオノーラ・ブラットに交代してしまった。

とにかくプロローグを聞いただけで、その歌声の充実ぶりには目を見はった。シモンとフィエスコの長い二重唱は、私をヴェルディの世界へと誘った。男声が数人登場して台詞を歌うという、低い声のやりとりだけでこのオペラの80%は成り立っている。一人でも歌手が揃わなければ、おそらく聞いてられない作品ではないかと思う。けれども観客は静かに、格調高い舞台に目を奪われたに違いない。エイドリアン・ノーブルの演出は極めて品が良く、作品を邪魔することなく控えめでありながら、それでもなお、主要な部分ではとても印象的だった。

プロローグと第1幕の間の舞台の展開と、第1幕の第1場と第2場のに、休憩時間はなかった。私はどちらかに休憩があっても良かったのではないかと思った。ムーティは指揮台脇に腰掛け、この時間を静かに待っていた。少し狭い東京文化会館の座席を考慮すると、よりゆったりとした時間が期待された。主催者はおそらく、舞台の緊張感が維持されなくなることを恐れたのであろう。

第1幕冒頭で登場した唯一の女性ブラットは、少し緊張気味に見えた。そのことが表現の幅を狭くしてしまっていたように思われた。結局、このアリア「暁に星と海は微笑み」は、安定を欠いた彼女の独走気味だったように思える。もう少し柔軟な表現、例えば愛情に飢えたような表情付けが欲しかった。けれども彼女はその後次第に調子を上げた。結果的に芯の強い、それでいて父親を心から愛する美しい女性になった。他に女性歌手がいないことも有利に働いたと思う。彼女の声は、多くの男声に混じった時にひときわ綺麗に輝く夜空の一番星となった。

4人の男声はそれぞれ、歌声に特徴がなければならない。このうち外題役のシモンは、いわゆるヴェルディ・バリトンの真骨頂という側面が強い。総督としての威厳というよりはむしろ、ひとり娘のことで頭がいっぱいの父親である。とりわけ叙情的な歌が多いこの役には、はまり役というのがあるのだろうと思う。だが特に第2幕以降では、毒を盛られてふらつきながらも、力強く歌う必要がある。ペテアンはそういう意味で、私にとっては十分な合格点であった。

フィエスコのバスの歌は、このオペラの中でも特に好きなものである。貴族系の彼はシモン以上の気高さと、そして知的で理性的な声が要求されている。私はもしかしたらこのオペラの主役はフィエスコではないかとすら思っている。フィエスコとシモンの長い対話、すなわちバスとバリトンの二重唱は、このオペラの最初と最後に置かれており、対をなしている。前者が対立を描き、後者が和解を謳っている。この両方のシーンが最大の見どころであると思う。

同じバリトンでも悪役のパオロは、シモンのように叙情的な声であってはならない。オテロのイヤーゴを思い出させるような役に、ヴェルディと台本作家のボーイトは24年後の改訂で思い切った表情付けを行った。私にはリゴレットのスパラフチレを思わせもするが、このようなヴェルディの改作によって、この作品が引き締まったと思われる。今回のパオロはその意味で、少し力不足のような気がしたが、それは他の歌手がそれ以上に良かったからだろう。

テノールのメーリについては、私は最大級の見応えがあったと書かざるを得ない。ここでの彼は、もうこの役のうってつけであるばかりか、これ以上の出来栄えを考えることすらできない。すなわち、第2幕における独白「我が心に炎が燃え」は、今回の上演中最大の見どころだった。

第1幕でシモンは、孤児として育てられた娘に再会し、感動的に喜びを歌う。一般に「シモン・ボッカネグラ」の最も大きな見どころは、この第1幕第1場であると言われている。だが「アイーダ」が凱旋のシーンを終えてなお、聞き所が続くのと同様に、「シモン」の第1幕第2場以降の見どころにも事欠かない。私にとってピンと来ないテーマである「父と娘」のシーンだが、それにしても客席に女性が多いのは意外である。こんなに男心を延々と歌うオペラは他にあるだろうか。「蝶々夫人」や「椿姫」が変わりゆく女心を歌うと多くの男性が魅了されるように、このオペラには女性を惹きつける要素があるのかも知れない。だが前者が恋愛の中にある心の変化であるのに対し、後者はもっと家族的なメロドラマである。もしかしたらオペラに求めるものが、男女で異なっているのかも知れない。

そしてヴェルディは、この時期からオペラを、娯楽作品としての趣きを越えた要素を付け加えることを、自らの作風に選ぶことになった。それは彼の、自然な、確信に満ちた傾向であった。いやそうせざるをえなかったのではないか。結局そのような人間ドラマに向かうことでしか、後年のヴェルディは満足できなかった。それは徹底的にリアルなもので、その点でヴェルディの描く世界は、私達の心の日常的な内面にも届くものになった。どういった題材を選ぼうと、彼の視点はそこにあった。「シモン」はつまり、実在の中世の人物を題材にしながらも、極めて人間臭いオペラである。

第2幕でシモンは、アドルノに自分のかつての姿を見出したに違いない。つまりは政敵の娘に恋してしまったのだ。だが時はすでに遅かった。シモンが床に倒れ、折り重なるようにアメーリア(マリア)が介抱しようとする時、合唱が高らかにボッカネグラを讃え幕切れとなる。力強いムーティの指揮は圧巻といって良く、舞台に何度も現れたこの大指揮者に圧倒的な歓声が沸き起こった。

私の手元にはもう一枚、来週の「ナブッコ」のチケットがある。こちらは若きヴェルディの情熱が炸裂する大好きなオペラである。この舞台はおそらく一生のうちでも、最大の思い出になるであろうことを今から想像し、とても楽しみである。

2014年5月22日木曜日

メンデルスゾーン:交響曲第5番「宗教改革」(アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団)

Reformation(宗教改革)は中世ヨーロッパ社会を二分する一大事件だったが、それから300年を経た記念祭に演奏する目的で、メンデルスゾーンは交響曲の作曲を決意する。彼自身、熱心なルター派のプロテスタントであり、その彼が特に誰に言われるともなくこの曲を手掛けるあたりが聞き手の想像力を掻き立てる。自身のキリスト教信仰が、ユダヤ人であった彼の前で、アイデンティティを試す踏み絵として立ちはだかったのではないか・・・。

バッハの「マタイ受難曲」を蘇らせたメンデルスゾーンだったが、キリスト教への深い信仰と共に、ユダヤ人である自身の生い立ちとの共存を迫られることになった。これは20歳になろうかという青年時代に、いくら順風満帆な芸術家人生を送ってきたとはいえ、避けて通れない大きな問題として彼を苦しめたのではないだろうか。その苦しみは、この交響曲がなかなか初演を迎えることができないという様々な政治的理由により、より明白なものへとなってゆく・・・。

そのあたりの初演の経緯は種々の資料に詳しいが、では彼の内面はどのようであったかは、なかなか知る術がない。5曲の交響曲のうちでも、飛び抜けて有名な「スコットランド」と「イタリア」を除けば、他の3曲が実際に演奏されることもあまりない。だが素人的には、後年に「エリア」や「聖パウロ」といた宗教的オラトリオ作品(の中にはより後年に作曲された第2交響曲も含まれる)へと発展する最初のステップだったのではないか、と私には思われる。

この曲は構成が複雑で分かりにくいが、いい演奏で聞くと味わいがある。誤解を招くことを承知でかなりいい加減なことを書くと、この曲は春夏秋冬が同時に来たような曲である。第1楽章の荘厳な序奏に続く主題は、丸で嵐の中を船で行くような音楽である。大河ドラマを思わせる雰囲気は「冬」。

これに対して親しみやすいメロディーの第2楽章は、うきうきした「春」を思わせる。メンデルスゾーンのメロディーだ。続く第3楽章は「秋」。ここには後期のロマン派の香りがするが、やはりこの曲も親しみやすい。やがてフルート独奏によって静かに奏でられる祈りのメロディーにより、そのまま第4楽章へ入ってゆく。明快なフィナーレで、大変な気持ちの入れようを感じるフーガ仕立ての第4楽章は「夏」の音楽である。

もともと少ない録音数なのでいい演奏に出会うことも少ないようだが、私は昔からトスカニーニのモノラル盤を時々聞いていて、それに不足がない。というよりもこれに勝る名演奏はないのではないか、といつも思ったりする。そういうことだから、なかなか他の演奏に手が出せないのが実情である。アバドなどで聞いても、この曲の良さがちっとも伝わってこない。

このトスカニーニ盤のライナー・ノーツには示唆に富む内容が記載されている。初期ロマン派と後期ロマン派の作風を比べた上で、前者の代表格であるメンデルスゾーンは、やはり前者の音楽的志向にマッチしたスタイルを持ち味としたトスカニーニこそ、その演奏の最右翼として位置づけられるということだ。そうだからこそ、トスカニーニはこの曲を何度も演奏した(ちなみにその演奏回数は「イタリア」よりも多かったらしい)。

カップリグされている「イタリア」を含め、モノラルながら歴史的名演である。1953年の録音で、トスカニーニが倒れる前年の87歳の録音だ。トスカニーニの流れを受け継ぐ演奏家としてはカラヤン、そしてムーティを挙げるべきだろう。これらの指揮者による「宗教改革」の演奏には一度耳を傾けてみたいと思っている。

2014年5月20日火曜日

メンデルスゾーン:カンタータ「最初のヴァルプルギスの夜」(ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

メンデルスゾーンの作品を語るにあたって、彼の涙ぐましいまでの宗教的大作の数々に触れないわけにはいかない。特に晩年は「聖パウロ」、「エリア」、「キリスト」などといったオラトリオなどの合唱曲を精力的に作曲したが、その日常は異様なまでに忙しく、38歳だった彼は病床で次の最後の言葉を残したことは有名だ。「忙しい。あまりに忙しい」と。

私はメンデルスゾーンが天賦の才能を持ちながらも、最愛の姉ファニーを亡くすなどの精神的ショックも重なって、今で言う過労死を遂げたのではないかと思っている。なお、「聖パウロ」「エリア」それに未完に終わった「キリスト」などは別の機会に書こうと思う。

これらの宗教的大作の中にあって、その最初の本格的作品ではないかと思っているのがカンタータ「最初のヴァルプリギスの夜」である。台本は文豪ゲーテ。彼はこの戯曲をメンデルスゾーンの音楽の先生であったツェルターに捧げ作曲を薦めたようだ。だがそれは果たされず、弟子のフェリックス・メンデルゾーンが音楽に仕上げた。1832年の作品だが、改訂を重ね1843年に完成した。

私はこの作品をユージン・オーマンディが指揮する往年のフィラデルフィア管弦楽団のディスクで知った。タワーレコードと共同で世界初CD化された名盤の復活は、しかしながら誰の見向きもされていない(ように見える)。それどころか最初に発売された時でさえ「極めて充実した演奏によって、これまで発売された盤のいずれもを凌駕するほどの出来栄え」であったにも関わらず、「まったくと言っていほど話題にならなかった」(ライナー・ノート)と書かれている。

だが、この演奏を待ち望んでいた人はいたのだ。1978年の演奏にもかかわらず、その響きは驚くほど新鮮でしかも充実している。この時点でマエストロは79歳、にもかかわらず飛び抜けた迫力と集中力があり、合唱を含めてそのスケールの大きさたるや、特筆に値する。勢いのあるメンデルスゾーンの若い頃の作品の魅力を堪能することができる。

最近はテレビドラマも映画でも、最初に主題歌が歌われることは少なくなったが、今でも大河ドラマや水戸黄門、それに子供向けアニメなどでは最初にまず主題歌が歌われる。言ってみれば、あれが序曲である。この曲は35分程度の曲ながら10分足らずもの間、序曲が鳴り響くあたり、何か非常に力が入っている。

冬が終わり、春が来るというところから音楽は始まる。次から次へと合唱のメロディーが出てきて、休む暇もない。メンデルスゾーンは、いわばハイパーな人だったのではないか、などと考える。全部で9曲から成るが、音楽は続けて一気に演奏される。ドイツの古い言い伝えでは、キリスト教が強制される中で異教徒が山脈に集い、彼らの古い信仰の儀式をとり行う。

なかなか見当たらない邦訳がCDにきっちり添付されているのもありがたい。キリスト教徒が逃げ出すまでの音楽は、独唱と混声合唱によって大々的に歌われていく。今でもこのお祭りは、4月30日の夜からドイツや北欧各地で繰り広げられるそうだ。

作曲はイタリア旅行中に完成したようだが、このメンデルスゾーンのヨーロッパ各地への旅行については、他の作品で触れることにしたいと思う。なぜならこの旅行によって、数々の有名な曲、中でも「スコットランド」と「イタリア」が生まれたからだ。 なおCDの余白には序曲「フィンガルの洞窟」他が収められている。これらもなかなかの名演である。それにしてもオーマンディという指揮者はいい指揮者だった。と同時に、この時期までのフィラデルフィア・サウンドはまさに黄金時代であった。

2014年5月18日日曜日

メンデルスゾーン:序曲集(ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

メンデルスゾーンの珍しい序曲ばかりを集めたこのCDは、ネヴィル・マリナーが指揮し、手兵のアカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズが演奏しているなので悪かろうはずがない。そして聞いてみて最初に思うのは、その録音の良さである。94年の録音だからそれほど新しいわけではないし、SACDでもない。だがそれに匹敵するような出来栄えで、聞く者を嬉しさで包むことは請け合いである。収録曲は順に、

   トランペット序曲ハ長調作品101
   オラトリオ「パウロ」作品36より序曲
   序曲「ルイ・ブラス」作品95
   歌劇「異国よりの帰郷」作品89より序曲
   歌劇「カマチョの結婚」作品10より序曲
   吹奏楽のための序曲ハ長調作品24
   序曲「美しいメルジーネの物語」作品32
   序曲「海の静けさと幸ある航海」作品27

となっている。この中では有名な「美しいメルジーネの物語」がとてもいいと思ったが、演奏の出来不出来に差はない。一方で録音され過ぎた「真夏の夜の夢」や「フィンガルの洞窟」などが収められていないのも、重複を避けたいコレクターとしては嬉しい。

ロマン派の作曲家が残した序曲としては、シューベルトやウェーバーなどどれも素敵な作品が多いが、メンデルスゾーンも例外ではない。そして序曲集はメンデルスゾーンの特徴がよく表れているとも思う。明るく陽気で、そして力強い。ロマン派でありながらも古典的な形式美を残しているところに加え、マリナーの指揮がきびきびと引き締まっているので、音楽に推進力がある。珍しい曲が同じように続くCDであるにもかかわらず、なぜか時々聞きたくなるようなCDである。何度か聞いていくうちに、音楽に親しみが沸いてきて、耳に馴染んでくるのが不思議な感覚だった。

ところでこの素晴らしいCD、Capriccioというレーベルから発売されていたのだが、その後倒産し、今では廃盤である。どのようにしたら入手できるのか、よくわからない。

2014年5月10日土曜日

メンデルスゾーン:弦楽のための交響曲集(コンチェルト・ケルン)

メンデルスゾーンには有名な5曲の交響曲とは別に、弦楽器のみで演奏される交響曲が全部で13曲ある。1821年から1823年にかけて作曲されたこれらの作品は、まだ12歳~14歳だった頃の習作とも言える作品さが、それだけでは済まされない魅力があるのも事実で、そのあたりはやはりモーツァルトやシューベルトなど、早熟な天才のみが為し得る業績と言うべきだろうと思う。

だが、この作品が世間に良く知られているかと言えば、必ずしもそうではない。メンデルスゾーンの第一人者クルト・マズアが世界で最初の録音を敢行したことは、この作品が長い間埋もれたままであったことを示しており、そしてユダヤ人だったメンデルスゾーンが不遇の扱いを受けてきたことも思い起こさせる。

ところが90年代に入り、いわゆる古楽器奏法が主流になるにつれ、このような古典的な様式を残す作品はにわかに蘇ることとなった。少人数で良くまとまったアンサンブルが、アクセントをやや強めにかけて快速で駆け巡る様は、バロック作品に限らす新しい息吹を音楽に吹きこんだのだ。だが私は、このコンチェルト・ケルンの96年録音のCDを買った時、これらの曲を好んだかと言えば、実はそうではない。買ったのは「へえ、こんな作品があるのか」という程度の思いつきだったし、それをある日何の期待もせずCDプレーヤーにかけて鳴らしてみても、特段知っているメロディーが聞こえるわけでもなく、どちらかと言えば平凡で同じような旋律がいつまでも続くように思った。実際、何かをしながらの鑑賞は、若干800円程度だったこのCDを棚の隅っこに追いやり、以降、何年もの期間、再び気に留めることはなかったのだ。

やがてiPodはそのような、これまであまり真剣に耳を傾けて来なかった曲を、再び興味の真ん中に引き戻すだけの力を効果的に発揮した。今回改めて聞いてみたところ、録音も秀逸で、なるほど若さとみずみずしさに満ち溢れた作品じゃないか、などと思いなおすのである。

全部で13曲ある「弦楽のための交響曲」は、CD3枚程度の収録時間に及ぶが、私が持っているのはその中からいくつかの曲を抜粋した1枚である。そこに収録された作品は、以下の通りである。

  第2番ニ長調
  第3番ホ短調
  第5番変ロ長調
  第11番ヘ長調
  第13番ハ短調

ここで、第11番が5楽章構成、第13番は単一楽章、他は3楽章構成である。

私は音楽の専門家ではないので、どの曲がどういうものかを解説する立場にはない。アマチュアのリスナーとしての感想は、第11番の新鮮さに尽きる。ここの最初の楽章は、長い序奏のあと変化のある速い部分が続き、ちょっとしたスリル感が快適に耳を打つ。続く第2楽章は「スイス民謡」と名付けられたスケルツォで、庶民的なメロディーが印象的である。何かのテーマ音楽に使いたくなるような感じだ。

第11番は全部で36分にも及ぶ大作だが、他の曲は小規模である。第2番は印象的な出だしだが、全体的には特に記すべきものはなく、第3番も地味だ。一方、第5番は第1楽章が良い。遅く始まる第13番は、単一楽章の作品だが、後半はフーガ風のメロディーが良くわかり、バッハの大作を世に知らしめたこの音楽家が、少年時代から対位法の研究にいそしんでいたであろうことを思い起こさせる。

2014年5月9日金曜日

メンデルスゾーン:交響曲第1番ハ短調作品11(アンドリュー・リットン指揮ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団)

あるときふとしたことからメンデルスゾーンの伝記を読んでみたくなった。そこでさっそくAmazonなどで検索実行してみたのだが、予想に反してなかなか見当たらない。ショパンやモーツァルト、それにマーラーなどは、数えきれないくらいに関連本が発売されているというのに。中古にもいいのがないようだし、よほど古い本になると、それが手に入るか甚だ難しいと言わざるを得ない。

図書館をあたろうかと思ったのだが、その前に、いわゆるクラシック音楽ガイドのような本(これは非常にたくさんある。だが、どれも深みに欠ける)でメンデルスゾーンの項目を見てみた。やはりどれも同じような曲の解説しか載っていない。そもそもなぜメンデルスゾーンに興味を覚えたか、それはこのディスクを聞いたからである。

アンドリュー・リットンという指揮者は私がニューヨークに滞在していたころに、当時の手兵ダラス交響楽団を指揮して素晴らしいピアノ協奏曲(たしかラフマニノフだったか)を聞かせてくれた指揮者だ。これはその時の、1年で50回を下らなかった私のコンサート記録の中でも、とりわけ印象深いものとして記憶しているものだ(ピアノ独奏はアンドレ・ワッツだ)。

そのリットンが北欧のオーケストラであるベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してのメンデルスゾーン全集が2009年頃からリリースされ、なかなか評判がいい。私が最初に買ったのが、そのうちの交響曲第1番、第4番「イタリア」などを収めた1枚で、そこで私は初めて交響曲第1番ハ短調なる作品を聞くことになったのだが、これがまた素敵にいいのである。

例によってiPodに入れて、夕方に公園などで聞くことにしている。初夏の真っ青な夏空の下で、耳元で響く若いメンデルスゾーンの音楽が、何とも溌剌として心地よいのである。それもそのはずで、この交響曲第1番は1824年の作品である。それはこの早熟な作曲家が1809年に誕生してからわずか15年しかたっていないことを意味する。さらにこの時、ベートーヴェンがまだ存命である。

この曲は、私が持つメンデルスゾーンの作品のコレクション中でももっとも早い作曲の作品である。私はシューベルトなどの初期ロマン派の作曲家の、それも初期の作品を最近良く聞くのさが、そこでメンデルスゾーンが急浮上した。メンデルスゾーン、なかなかいいのである!

歌心のある人はもちろん、多感な青春時代を送った人なら、このような明るくも少し感傷的な作品に、十分心奪われるはずである。私などこれを機会に他のメンデルスゾーンの作品を聞いてみようか、などと思い立ち、そして冒頭の伝記検索につながったのだから。けれどもドイツにおいて、ナチスの時代にメンデルスゾーンの音楽は不当な扱いを受けた。そのことが冒頭で述べたメンデルスゾーンの情報の少なさに繋がっている。我が国においても、メンデルスゾーンを研究している人は極めて少ないのではないだろうか。

第1楽章の生き生きとしたメロディーには、早熟ながらもストレートな感性を羨ましく思うし、第2楽章の美しいメロディーには若い日々の特権のようなものを感じる。第4楽章の推進力は、やはり勢いがあって、エネルギーが充満している。だが、この作品が出来そこないのような作品かと言えば、少なくともこのリットンのしっかりとした演奏で聞く限り、ほとんどそうは思えない。

と、ここまで書いて、私は自分のコレクションにこれよりも前に作曲された作品があることを発見した!次回はその作品を取り上げることにする。なお、DSD方式でSACD化された本ディスクは、現在手に入るメンデルスゾーンのディスクの中でも、もっとも新しい部類であると同時に、その出来栄えは最高水準に達している。数えきれないくらいの演奏がひしめく第4番「イタリア」もかなりいいが、私は初めて聞いて好きになった第1番と、そしてやはりこれも初めて聞いた序曲「ルイ・ブラス」が、発見に満ち、多分に聞きごたえがあったことを記録しておきたい。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...