2016年11月19日土曜日

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(The MET Livein HD 2016-2017)

今シーズンのメトロポリタン歌劇場は、「トリスタンとイゾルデ」で開幕した。いきなりワーグナーの大作である。なぜこのような企画にしたか、総裁のゲルブ氏はインタビューで、リンカーンセンターに移転して50年目の節目に相応しいゴージャスな幕開けにしたかったという趣旨の発言をしている。

50年前というのは実は丁度私が生まれた年にあたる。そこで急きょ、何月何日に50年前のシーズンが開幕したか、検索してみた。するとそれは何と9月16日、すなわち私が誕生したわずか1週間後のことであった。

メトロポリタン歌劇場は私がもっとも多くの作品に接したオペラハウスで、その最初は1990年3月19日のことである。この時点でリンカーンセンター移転後24年が経過していることになるから、それからもう26年もの歳月が過ぎていることになる。初めて見た作品がヴェルディの「オテロ」で、何とカルロス・クライバーの最終公演だった。その時のことはすでにブログに書いたが、これは旅行中の偶然であった。

1995年にニューヨークでの生活を始めた際には、もちろん何度も通ったが、その中にはやはり「オテロ」のモシンスキーによる新演出プレミア公演(プラシド・ドミンゴとルネ・フレミング)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でいぶし銀のベクメッサーを歌ったヘルマン・プライ、「トゥーランドット」で驚異の歌声をあげたゲオルギューなど、今でも興奮する公演が含まれていた。

2000年代に入り、その公演の何作品かが、ハイ・ヴィジョンによって生中継されるという企画に接した時、私は子育てと闘病の合間を縫って映画館に通いつめ、毎日のようにリバイバルを含む公演を「踏破」していった。そのときの鑑賞メモが、このブログを書くきっかけでもあった。私はこの企画によって、字幕付きのオペラを集中して鑑賞するという機会に恵まれ、さらに舞台裏のエピソードや作品の簡単にして奥深い解説に、オペラの醍醐味を教わったと言っても大袈裟ではない。

ワーグナーの主要な作品は、ほぼこのMET Liveシリーズで接している。「トリスタン」もそのひとつで、これまでにレヴァインの指揮したものが取り上げられたが、今回はその次の新演出である。しかも指揮者は何とサイモン・ラトルである。

「トリスタンとイゾルデ」に初めて触れた時(それはやはりクライバーのレコードだった)、この作品はいつも同じ光景のまま進行する捉えがたい作品という想像を覆して、何かとても力強い作品だと思った。管弦楽はよく鳴るし、歌も大声を張り上げる。「前奏曲」と「愛の死」しか聞いたことがなかった私は、ちょっと驚いた。しかもその状態が4時間以上も続くのだ。

今回マウリシュ・トレリンスキの演出で見る「トリスタン」も、舞台を少し現代に変えているとはいえ、基本的には原作をおろそかにしないもので好感が持てることに加え、ラトルの音楽がむしろ筋肉質で無駄がない。それはむしろ健康的なくらいで、アイルランドを行く北海の荒れた船内という暗さがちょっと足りない。前奏曲の時から丸いレーダーの画面のような円が光り、その中央に様々な情景が映し出される。

イゾルデを歌ったニーナ・ステンメは、昨シーズンに見た「エレクトラ」で驚異的な歌声だったが、その彼女の当たり役でもあるイゾルデには一層磨きがかかり、フランゲーネを歌うエカテリーナ・グバノヴァとの丁々発止のやりとりも落ち着いている。一方、トリスタン役を演じたスチュアート・スケルトンは、今回が初めてというから凄いと思う。テノール殺しといわれる本作品にほとんど出ずっぱりの彼は、第3幕まで全力投球である。見ている方がドキドキする。

あまり多くは歌わないが、重要な役を与えられたクルヴェナールのエフゲニー・ニキティンは、もしかするとこの日もっとも調子が良かったのではないだろうか。特に第3幕の献身的な従僕の歌は、トリスタンを一層引き立てるばかりか、もしかすると彼の方がいい出来でさえあると思った。インタビューでは落ち着かない若者のような受け答えだったが、ここで聞くニキティンの声には、艶と張りがあった。一方、マルケ王はルネ・パーペで、これがまた品が良く、まさにうってつけである。その彼はベルリン在住ながらラトルとの共演が初めてだというのは驚きである。

第2幕の二重唱シーンこそ、このオペラ最大のみどころであることを初めて知った。そこでのラトルの演奏は集中力が絶えることはなく、鮮やかにクライマックスを築く。私は長い間、このオペラ史上に燦然と輝く作品を、なかなか楽しめないでいた。実を言えばそれはまだ少し続いている。このように言うことがむしろ恥ずかしいために、なかなか本作品に触れることが苦しい。それでも今回、ラトルにより引き締まった名演に接し、とても嬉しい。時折聞こえてくる愛の死のテーマは、第3幕の最終シーンに向け、再び最高潮に達する。生きるということは、もしかしたら死ぬことよりも苦しいのかも知れない。「愛の死」とは、「愛」イコール「死」ということだ。愛するために死ぬという風に言うこともできるだろう。だから「トリスタンとイゾルデ」の最後のシーンは、しみじみと喜びに満ちている。

2016年11月1日火曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネルラ」(Vn:ジャン=ジャック・カントロフ、オーヴェルニュ室内管弦楽団)

パガニーニの一連のヴァイオリン協奏曲を聞いて思うことは、これらが歌声をヴァイオリンに変えたオペラではないか、ということだ。特にこの第2番は、出だしからまるでアリアの挿入部分のようである。ただすぐには独奏が入らない。少しの間は、いわば導入のための伴奏が続く。良く聞いていると、それはまるで「セヴィリャの理髪師」の序曲を思わせる節である。パガニーニが活躍した頃のイタリアは、すなわちロッシーニやベッリーニが活躍したベルカントの時代である。

ベルカント唱法が人声の技巧を凝らした歌唱を特徴とするのと同様に、パガニーニのヴァイオリンも超技巧的である。第1楽章の最初から第3楽章の最後まで、そのテクニックは物凄い水準を要求される。音楽とは技術であり、技術こそが芸術である、と言わんばかりである。

第2楽章のしみじみとした風情は、ここがまるでソプラノ歌う伸びやかなアリアと重なる。健康的で歌謡的なメロディーは、聞いているものをひととき幸せな気分にさせるが、少々飽きる。驚くほどの練習を積んで、満を持して演奏するヴァイオリニストには恐縮だが、聞き手は勝手に音楽以外のことを想像したりする。集中力を途切れないようにすることもまた、巧みな演奏家に要求される。ベルカント・オペラが、そういった名人的歌手がそろわないと、なかなか聞きごたえのあるものにならないのと同様に、パガニーニの音楽もまた大変難物だと思う。

ジャン=ジャック・カントロフはパガニーニ国際コンクール出身のフランス人ヴァイオリニストである。だからパガニーニの協奏曲第1番と第2番をカップリングしたCDが発売された。このCDに収められている第1番の演奏も大変見事である。その素晴らしさは、この曲の演奏の第1位を争うレベルであると思う。けれども第1番の演奏はすこぶる多いので、ここでは第2番を一生懸命聞いてみた。日本コロンビアのデジタルな録音が、演奏の隅々にまで光を当てる。オーヴェルニュ室内管弦楽団という、フランスの片田舎にあるオーケストラの響きも、透明ですがすがしい。

第3楽章の有名なメロディーは、「ラ・カンパネルラ」すなわち鐘の意味である。このメロディーはリストがピアノ曲に編曲しているので、その点でも有名である。リストはピアノのパガニーニのような存在で技巧を凝らした作品が多い。彼はパガニーニの存在を意識していただろうし、このメロディーを聞いて、ピアノならもっと魅力的な作品が書けると思ったのかも知れない。実際、鐘の印象はピアノのほうがしっくりくる(と私は思う)。

その第3楽章の後半部分は、この曲最大の聞かせどころだろうと思う。ヴァイオリンの技術上の極限を行くその様は、録音された媒体で何度聞いても鳥肌が立つようだ。パガニーニの底抜けに明るいイタリアの陽射しが、どんなに細く小さな音の隅にまでもしっかりと到達している。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...