2018年10月20日土曜日

読売日本交響楽団演奏会・第616回名曲シリーズ(2018年10月16日、サントリーホール)

ロジャー・ノリントンがロンドン・クラシカル・プレイヤーズというモダン楽器のオーケストラで、オリジナル楽器風のベートーヴェンを録音したのは80年代の後半だった。特に交響曲第2番と第8番を収録したディスクは有名で、私も2000年代に入ってからはじめてこの演奏に接した際の感動は、忘れることが出来ない。ノリントンがシュトゥットガルトのオーケストラと来日さした際には、喜び勇んで出かけ「田園」のすこぶる写実的な演奏に触れることができた。

一般にもっとも目立たないと思われてきた第2番の交響曲を、こんなに新鮮な曲として演奏されたことがあっただろうか、と思った。その輸入盤CDには速度記号が記されていて、この演奏が楽譜に忠実な、すなわちメトロノームの指示に従った演奏であることがわかった。特に第2楽章の颯爽とした新鮮さは、私が一般に思い描いていた緩徐楽章のイメージを刷新するものだった。以後、アバドもシャイーも、このように演奏している。「ラルゲット」と記された楽章を、流れるように優美に演奏する。この楽章のこの演奏で、私は古楽器奏法というものに初めてまともに接したのである。

アーノンクールやガーディナー、あるいはブリュッヘンといったオリジナル楽器の演奏家が一世を風靡し評判になったのは80年代頃だから、私はもうかなり遅くなってからの開眼だったと言える。その世界を知ると、古くからの演奏がつまらなく思えてくるから不思議である。聞き古したバロックや古典派の音楽が、まるで新作品のように再び息を吹き返し、輝きを持って目の前に現れたのだった。

ところが我が国では、そのノリントンがNHK交響楽団を指揮して積極的に古楽器奏法を披露するのは2000年代後半になってからだった。西洋音楽の伝統が短い日本では、クラシック音楽の演奏スタイルの流行が周回以上遅れてやってくるようだ。いつまでたっても古めかしい、贅肉だらけの演奏が続いていた。だが変化は少しずつ我が国にも及んできた。

アーノンクールもブリュッヘンも亡くなった最近になって、とうとう読売日本交響楽団もこの流れに追いついた。古楽器奏法の中でも急先鋒とも言える程過激なベートーヴェンを録音したイタリア人ジョヴァンニ・アントニーニを迎えて、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と第2交響曲の演奏会が開かれたのである。もっともアントニーニがベートーヴェンの録音を始めたのは2005年ことで、もう13年も前である(だが全集の完結は今月の第9まで時間を要した)。この間にベルリン・フィルにも登場し、第2交響曲の模様はYouYubeでも見ることが出来る。

いろいろな情報を総合すると、この演奏会はゲストコンサート・ミストレスを務めたベルリン在住のヴァイオリニスト、日下紗矢子(はかつて読響のコンサート・ミストレスだった)との縁だとか、ヴァイオリン協奏曲のソリストを務めたヴィクトリア・ムローヴァが望んだ、とかいろいろな説がある。いずれにせよ初めて客演するアントニーニが、いかに才気あふれる音楽家だとしても、短時間の練習の間に、果たしてあの「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」や「バーゼル室内管弦楽団」のような演奏スタイルに仕立て上げることが可能なのだろうか。そのような少なからぬ不安もあったし、まあ実際にはそういうことが無理でも、両者のスタイロがぶつかり合って、どういう形の演奏になるのか、非常に興味があった。私は売り切れても大丈夫なように、相当前にこのコンサートのチケットを買った。

ところがそういう不安は、最初の曲、ハイドンの歌劇「無人島」序曲の、ト短調の冒頭の序奏が聞こえて来た途端に吹っ飛んだ。前方右側の2階席から斜め正面に見える指揮者が、指揮棒も持たずに大きな身振りで手を振り始めると、その音楽は丸で何年もこのコンビが演奏してきたかのようにこなれた、流れるようなメロディーとなって会場にこだましたのだ。

ヴィクトリア・ムローヴァを聞くのは2回目である。最初は1990年のスイス・モントルーでのことで、この時はキタエンコ指揮モスクワ・フィルの演奏会。ブラームスを聞いている。だが印象はほとんどなく、綺麗な音のヴァイオリニストだったと思っただけだった。持っていたシベリウスの協奏曲なども、同じ印象だった。だが彼女の演奏は2000年代に入って進化し、今ではもっともエキサイティングはヴァイオリニストの一人でもある。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聞くのも実は初めてである。これは意外なことだが、事実である。そしてそれをムローヴァの演奏で聞けると言うのも贅沢な話で、彼女は高い身を揺らしながら、時に刺激的な音色も出す。第1楽章のカンタービレのところなど、オーケストラ・パートの一部も弾きながら、流れに乗ることを意識してオーケストラと調和しようとしている。オーケストラと独奏の一体となった演奏から、彼女が時に繰り出すカデンツァは、ガイドによればダントーネという人のものだそうだ。

第2楽章の静かなメロディーは、情感の中に精緻さもたたえた名演で、丸で水の雫が垂れるような静謐な部分があったとは、一体いままで何度この曲を聞いてきたと言うのだろうか。オーケストラのややくすんだ音はビブラートなしの演奏が徹底しているからだろう。対向配置された第2ヴァイオリンは真下に見下ろすため、楽器が向こう向きになる。第3楽章がロンド形式で作曲されていることをこれほど意識したのは初めてだった。次々と表情を変えるヴァイオリンに合わせ、伴奏の読響も見事だった。

今回の私の席からは、開いたドアの中に楽屋の様子が見える。ムローヴァが大きなうちわでスタッフに扇がれている様子までよく見える。拍手に応え何度か再登場した彼女は、とうとうバッハの無伴奏からの一曲をアンコールして休憩となった。

後半はベートーヴェンの第2交響曲のみ。演奏時間はヴァイオリン協奏曲よりも短い。オーケストラの編成も小さまま。だが少数精鋭の読響の技術的レヴェルは、今回のベートーヴェンの演奏から大いに満足できるものだ。アントニーニは序奏の細かい表情の隅々に至るまで、実に正確に指示。まるで耳の不自由なベートーヴェンがそうしていたように、大変大きな身振りで、小さくかがんだかと思うと、一気に背を伸ばして手の広げる。長い左手を前に出し、掌をちょっと返しただけで微妙に表情を変えるオーケストラ。その集中力は物凄いが、見ている方も興奮する。

私の大好きな第2楽章も、聞き惚れているうちに通り過ぎ、あっという間に最終楽章となった。見とれているうちに30分余りの演奏が終了し、盛大な拍手に包まれる。予想していたとはいえ、見事な演奏に尽きる今回の演奏会は、私としては大満足のうちに終わった。私はこの気持ちを大事にしたいと思い、もう第2交響曲の演奏会には出かけまいと思っている。実演で接することのできるベストだったと思うからだ。今週は、ずっと頭の中で第2楽章「ラルゲット」のメロディーが鳴り響いている。

2018年10月15日月曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(2018年10月14日、新国立劇場)

ヨーロッパで探検ブームが沸き起こり、ナイル川の源流を求めて探検家が活躍するのは19世紀に入ってからだが、フランス革命直後の18世紀末頃には、すでに知識レベルでの異郷の地に対する流行が生じていたらしい。そういう事情があってなのか、モーツァルトはシカネーダー一座のリクエストに応えて「魔笛」を作曲した時、その舞台に選ばれた架空の地は、古代エジプトであった。それも、エジプトを南下してスーダンやエチオピアまで達する地域。そこはブラック・アフリカの入り口でもあり、シバの女王の伝説やアスワンの神殿などのある地域である。

神秘的で謎に包まれた神話の世界に、これまた謎めいたフリーメイソンの秘儀が重なり、「魔笛」の解釈は複雑極まりない。そこに付けられた、死を2か月後に控えたモーツァルトの限りなく純粋で美しい音楽が、かえってその不思議なコントラストを強調する。だから「魔笛」の解釈は、いくらでも難しいものにすることができる多面的で奥深い作品である。

ウィリアム・ケントリッジは南アフリカ出身の現代美術家で、木炭を用いたドローイングを使用するアニメーションで有名である。彼が最初に取り組んだオペラ演出が、2005年、ベルギーのモネ劇場から委託された「魔笛」であった。そのスペクタクルな舞台は評判となり、世界中で上演されてきた。ケントリッジもその後、ショスタコーヴィチの「鼻」やベルクの「ルル」など、数年に一度の割合でオペラ演出を手掛けている。「魔笛」に関していえば、ミラノ・スカラ座でも上演され、その公演はビデオとして売られているし、放送もされたようだ。

その評判の舞台を、作品の上演権と舞台装置丸ごと買い取り、東京に持ち込んだのが今シーズンからの音楽監督で、当時モネ劇場の音楽監督だった大野和士である。彼は様々な機会で、就任第1作となる今シーズンの「魔笛」を、それはきれいな舞台だから、とあちこちで言っており、私もその言葉に乗せられて、発売日にS席を購入してしまった。数ある舞台の中でも最強の価格設定となり、S席は何と2万7千円。妻と二人だから、5万4千円という出費である。これは私が過去に出かけた300回にも及ぶコンサート中、最高額の部類に入る。

当日券も残っていたS席を発売と同時に購入したのは、その席が前の方、すなわち最前列から5列目の中央という、これも私のオペラ鑑賞史上初めての経験となる至近距離の席を確保するためであった。どうせ見るなら、この演出は前の方で見る方がいいに決まっているし、歌手の声がダイレクトに響き、それを一挙手一投足指揮する指揮者とのやりとりも見てみたい。いつもは3階や4階の席にしか縁がなかった私も、齢50を過ぎれば少しは大きな出費も覚悟しなければ、人生に何度もない経験は得られない、と思った。

「魔笛」に妻を誘ったのは今から23年前、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初めてデートをした際に見た演目だからでもある。彼女はモーツァルトと同じ1月27日の生まれで、そういうこともあってモーツァルトが大好きである。だが、それから「魔笛」からは二人とも遠ざかっている。第一揃ってオペラに出かけるなどということは、余程のことがないとできない贅沢でもある。「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」それに「フィガロの結婚」というダ・ポンテ作品を数年に一度の割合で初体験した以外は、モーツァルトのオペラを長らく楽しんでいない。

そんな我々に、ケントリッジの「魔笛」がやってきたのである。そして終演後には代々木のイタリアン・レストランを予約し、満を持して出かけた本公演は、一連の千秋楽、日曜日のマチネーである。会場はほとんど満席ではなかったかと思う。会場に入ると、一面に白黒で描かれた部屋の中が舞台にあり、東京フィルハーモニー交響楽団が熱心に練習している。そしていざ序曲が始まると、今では主流となった古楽器奏法で一気に演奏されるローランド・べーアの指揮のテンポが、大変好ましい。それは私が最高だと思うアバドの新録音を思い出させるもので、古めかしくかび臭い「魔笛」の、昔のだらだらした演奏とは一線を画す。オーケストラも良くついてくるし、ほとんどミスのない演奏は、大変充実したものだった。

さて、あまりに書くことの多い本公演について、一体何から書き始めればいいのだろうか。私は一部始終舞台に釘付けとなり、めくるめく舞台の映像と、歌手の見事な歌声(それはすべての歌手が素晴らしかった)、そして本公演に特別に付けられたフォルテ・ピアノの伴奏に乗った台詞や、稲妻と炎の燃え盛る音、会話の節々にコミカルに響く木魚のような効果音。長いセリフも飽きないどころか、これほど無駄なく、流れるように展開する「魔笛」に惚れ惚れしていく。

総じて日本人歌手の気合の入った歌声が目立つが、それはそれで熱い思いが伝わってきて私は好感を持つ。それも技量が伴うからで、筆頭格はパミーナの林正子。彼女の声はドラマチックで、パミーナの純情性に相応しくないなどと言う批判は、実にくだらない。むしろ力強い女性の意志こそが、「魔笛」には相応しい。何といっても彼女は夜の女王の娘なのだから、むしろ当たり前といえば当たり前である。

その夜の女王は、安井陽子の超高音でも安定した歌声がこだまして、それに呼応する星の煌めき!3D作品を見ているように前後に動くと、プラネタリウムでも見ているような、どこか別の世界にでもいるような錯覚を覚える。コロラトゥーラの歌声は、新国立劇場の定番で、以前の公演にも彼女が出演しているようだが、完璧に決まるその歌に酔いしれる。2つのアリアは、この演出版の最大の見せ場でもあり、そしてその感動のレベルは、疑いなく最高のものであった。

オペラというのは見る人によって随分と印象が異なるようで、事前に探ったTwitterやブログでは、あまり評価の芳しくない意見が多いのはよくわからない。それもその文章から、そこそこの音楽好きで経験豊富と見受けられる人まで、様々な意見が飛び交っている。だが、私は素直に本公演が素晴らしいと思った。本公演が良くないというなら、一体その人はどのような公演を聞いてきたのだろうか、それとも余程の暇とお金を持ち合わせている人とも思った。オペラがすべての観点から、いいと思える機会などそうそうないのである。ひどい場合には、まるでダメな公演も多い。そんな中で、私は本公演に90点を付けたいと思う。あとの10点は、3人の童子がボーイ・ソプラノでなかった点だ。でも我が国でこの役を原語で歌える少年を3人も探し、平日の昼間から舞台に立たせるのは、至難の事であると思う。だからこれは極めて贅沢な不満である。

3人の侍女(増田のり子、小泉詠子、山下牧子)は、最初からパワー全開で、身震いがする。彼女たちとタミーノ、パパゲーノが歌う5重唱などは、私も涙が出るほどに美しかった!身震いがするほどの見せ場は、次々と映し出されるプロジェクション・マッピングに呼応して、感心することに余念がない。月や太陽、蛇にライオンなどの動物たち、モノスタトスとパミーナの影絵、くるくる回る星や三角定規から映写機を描き出すアニメーション、鳥かごにいる小鳥たちの仕草や、少年たちが乗って登場する黒板の中にも、次から次へと描かれては消えてゆく。それを追うだけで楽しく、字幕(英語もあった)を追うことすら忘れてしまうほどである。客席に座っているだけで、目と耳のすべての感覚がモーツァルトの音楽と舞台に馴染んでいく。その魔法のような時間!

パパゲーノの笛は古楽器風のそれで、ややくすんだ音色が印象的。一方、タミーノのフルートは演技も素晴らしくまるで自分で吹いているかのよう。グロッケンシュピールはオルゴールのような箱。全体に少し低音にしてあるのが、こだわりか。前方の席からは、小道具のひとつひとつまで、手に取るようにわかる。パパゲーナはいつものように最初は頭巾をかぶり、老婆を装っていたが、それを取ると蝶々のような衣装をひらつかせる。九嶋香奈枝は出番こそ少ないものの、可憐で愛らしいこの役に成りきって歌声も澄んでいた。

ザラストロ。この低音の魅力を、何といったらいいのか、長身で若いサヴァ・ヴェミッチというセルビア人。だがこの役は、彼の十八番になるだろうと思う。その存在感は、他のものを圧倒するほどで、そうでなければザラストロではない。ケントリッジの映像は、アスワンにあるイシス神殿のように豪華なもので、最終シーンではそこに登壇していくタミーノとパミーナが、巨大な目の中に吸い込まれ、やがてはシルエットとなって放射状に迫りくる星の中で結ばれると言う感動的なものだった。

本作品の主役はタミーノである。タミーノは高貴で済んだテノールでなければならないが、スティーヴ・ダリスリムという歌手に私は及第点を差し上げたいと思う。最初は少し緊張していたようだが、それでもパミーナとの二重唱などでは不足がない。欠点がないという点で、十分合格点だろうと思う。パパゲーノのアンドレ・シュエンは長身で細身のバリトンだが、やはり私は悪くないと思った。タミーノよりも背が高いので、ちょっと違和感があると言っていた人がいたが、それは容姿の問題で仕方がなく、それにこの二人は音域が異なる。

悪役のモノスタトスは升島唯博。彼の声は、失礼ながらヤッキーノやミーメのような姑息な役にピッタリである。意外と出番が多いというのが、私の今回の印象。やはり及第点の出来栄えで不足がない。その他、僧侶や弁者に至るまで、最終日の公演ということもあったのか、非常に気合の入った歌声が響き、妻はバランスが悪いと言っていたが、私はこのような脇役にまで強力な舞台は大歓迎である。それから何といっても新国立劇場合唱団。彼らの歌は、プロの歌で、その見事な声は前方で聞くとさらに素晴らしい。

ケントリッジの「魔笛」を解くカギは、啓蒙主義の光と影である。アフリカに進出した欧米列強は、またたくまにこの大陸をほぼすべて植民地化し、悪名高き人種隔離政策を生んだ。モーツァルトが「魔笛」を作曲した頃は「啓蒙主義がもっとも輝いていた時期」だが、その後の戦争や殺戮を生んだのもまた啓蒙主義だった、と彼は言う。人間が神から解放されたフランス革命の直後、神に変わって権威を持つのは、このような人間中心主義だったのも事実である。

だからザラストロが「第九」のモデルともなった、人類の調和を高らかに崇高なアリアを歌う時、アフリカで残酷に殺されていくサイのモノクロ映像をぶつける。動物たちはグロッケンシュピールに合わせて踊りだすと、そこには不自然な優勢思想さえ感じさせる。何が善で、何が悪であるかは、実際には決めつけることなどできないのだ。だから白と黒は入れ替わる。ケントリッジの描く白黒の線は、書いては消え、消えては書かれる。まさに価値観の相対性を示している。

死の直前に猛烈なスピードで作曲された「魔笛」は、シカネーダーの一座によってウィーンで初演された。その中に錚々たる実力歌手たちが大勢いて、この一期一会の作品が生まれたのだと大野和士は解説している。夜の女王とザラストロの価値観が入れ替わり、崇高だが他愛もない演劇として上演された作品を、21世紀に生きる我々が同じ気持ちで鑑賞することはできないだろう。この二百年間の歴史の中で起こったことを、私たちは知っているからだ。そのことを思えば思うほど、モーツァルトの音楽が美しく聞えてくるから不思議だ。そして今回の舞台も、様々に複雑な深遠さを持っているにも関わらず、例えようもなく美しい。子供のおとぎ話は、立派に大人の演劇でもある。幻想的で、そこはかとなく暗い「魔笛」の公演は、今後しばらく新国立劇場で上演されるだろう。ただこの舞台は、前方で見るに限ると思う。もし本演出版に欠点があるとするなら、見る人の座席の位置によって、感じ方に違いがあり過ぎるという、まさにそのことだろう。公演をビデオで収録してもよく伝わらず、1階席の少し後方においてでさえ、魅力が半減するような気がする。

2018年10月4日木曜日

読売日本交響楽団演奏会(2018年10月3日、東京芸術劇場)

マーラーの交響曲第8番は、そう何度も実演に接する曲ではないのだが、私は2度目である。もっとも前回は1992年のことで今から四半世紀以上も前、ということになる。この時も今回と同じ読売日本交響楽団だった(第300回定期演奏会)。これは偶然である。

ただ25年もたつと私も50代になり、楽団員も大多数が入れ替わっている。その時指揮したズデニェク・コシュラーはもうずいぶん前に亡くなった。だから同じオーケストラで聞くといっても、ほとんど違う演奏家だということになる。指揮者の井上道義は、当時すでに人気を確立していた名指揮者だったが、もう70代にさしかかったそうだ。スキンヘッドの容姿と長い手を表情豊かにくねらせて大きく指揮する姿は昔から変わらず、元気で茶目っ気たっぷりだが、数年前に病気を患ったようで、そのことによって音楽に変化があったかどうか、そのあたりは私もあまり聞いていないのでわからない。

読響がこの一日だけのコンサートに、どうしてこの曲を選んで演奏したのかは不明である。ただこの日の演奏会は東京芸術劇場の主催だった。そのため黒い表紙のプログラム・ノートが配られた。雨続きだった東京もようやく秋の気配が濃厚となり、涼しい風も吹き始めた10月。池袋に私は会社を終わると直ちに駆けつけた。チケットは売り切れ。長いエスカレータを乗り継ぎ、今日はS席でこの大規模な曲を味わう。

マーラーの交響曲はこれまですべて一度は聞いているが、深遠な長い旅路へ連れ出してくれる演奏に出会うかどうか、それは聞いてみなければわからない。この第8番はその規模に圧倒されて、演奏する側も相当気合が入るし、聞く方も身構える。けれども壮絶な第1部と、終結部以外に長い第2部の物語が存在する。ここの精緻でロマンチックな部分が聞きどころだとわかったのは最近のことである。思えば26年前に接したこの曲も、オーケストラと指揮者、それに合唱団が繰り広げる迫真の演奏とは裏腹に、等身大の曲の魅力を味わうだけの余裕が、少なくとも私にはなかった。だから、今回はそういう時間を経た後での再挑戦と言うことになる。

第1番「巨人」、第2番「復活」、第3番、それに先日聞いた第4番、さらには「大地の歌」で私は、もうこれ以上望めないだろうと思うような演奏に接している。第8番でも同じことが起こるかどうか、それは聞いてみないとわからない。今回の演奏は、しかし私を十分に満足させる感動的な演奏であったことは確かである。客観的に考えれば、もっと完璧な演奏は存在すると思う。だがそこに私が接することができるかどうかは、相当怪しいのであって、そういう意味で私のマーラー演奏会史に深い印象を刻んだことは間違いない。

もっとも素晴らしかったのは、TOKYO FM少年合唱団だったと思う。舞台に向かって右上の2階席前方に位置した彼らは、みなが小学生だったのではないかと思うような顔をしていたが、大きく口をあけて一生懸命ラテン語とドイツ語で歌う歌詞を、すべて暗譜で歌っていることに驚いた。この曲における特に第2部の少年合唱団の印象は、涙が出るほどにきれいだ。

次に素晴らしかったのは4人の女声陣たち。ソプラノの菅英三子、小川里美、森麻希、アルトの池田香織、福原寿美枝。早々たる布陣の歌声が会場にこだまする時、その声は大勢の合唱やオーケストラにも負けない迫力が際立っていた。

彼女らは第1部では舞台の後、合唱団の最前列に並んでいたが、後半になると男声陣が指揮者の前に移動し、森麻希は舞台上のオルガンの位置に移動。残った3人がそのまま合唱団の前に残っていた。その舞台上のオルガンの横には、金管楽器が何人も並び、クライマックスのトゥッティをさらに強調する。その凄まじさ!

男声陣は少し弱かったが、それも相対的な話であって、まあこの長い曲を無難に歌ったと言える。テノールは、フセヴォドロ・グリフノフ、バリトンに青戸知、それにバスがスティーヴン・リチャードソン。

舞台後方と2階席前方に並んだ数百人の合唱団は、首都圏の音楽大学に通う学生たちで、この日のために結成された合同コーラスだったが、人数も多く熱演である(指揮は福島章恭)。ここは少しアマチュアの香りがしたが、よく練習していて、それぞれのパートが引き立ち聞きごたえがある。特に向かって左側2階席に並んだ女性の十数人は、第2部になって白いジャケットを身に付けると言うヴィジュアルを意識した力の入れよう。さらには舞台上方に日本語の字幕まであるという至れり尽くせりの演出である。

思えばCDなどで聞くこの曲の合唱では、どこのパートをどの人たちが歌っているかなど、細かいことはよくわからない。けれども実演で見ると手に取るようにわかり、その楽しさは十分である。歌わないときの表情までも含め、音楽は実演に勝るものはないと今回も実感した。そして井上のダイナミックな指揮ぶりは、やや一本調子のようなところがないとも言い切れないが、聞きごたえ、見ごたえは十分。弛緩することはなく、全体を良くとらえており、特に第1部の後半と第2部のコーダは見事という一言につきる。私は背筋を伸ばし、しばし圧巻の音量に身を委ねる。

第2部での中間になると、随所に聞きどころとなるメロディーが続く。ハープ、チェレスタ、それにマンドリンまでもが加わる。そういったフレーズのひとつひとつを、微妙なニュアンスまでも磨きにかけ、表情付けが行われたかと言われれば、実際はもう一歩とも思った。だが、そういう細かい部分も、後半の怒涛のような盛り上がりになれば、一気に身は引き締まり、このパワーに負けてはならぬと構えて聞く。

読響は明らかに26年前のオーケストラとは、比べ物にならない程数の技量であることは確かであった。そして、マーラーの演奏会もごく当たり前となった今、余裕させ感じられる。ソロパートをもう少し印象的に聞かせたり、といった細かい部分は、指揮に負うものだろう。ということは今回のコンサート、全体的に十分満足の行く完成度だった。

割れんばかりの拍手が10分は続いたと思う。嬉しそうな出演者と、満足そうな観客が一体となって、このマーラーでもっとも明るく祝祭的な曲の魅力を味わうことができた夜だった。機会があれば、勿論他の演奏も聞いてみたいが、残り少ない人生の中で、一体そういう機会が訪れるのかどうか、それは神のみが知るところである。だから私はこの演奏会を大切にしたいと思ったし、それは見事に達成されたのだった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...